茨城岩間愛宕山ハイキング

そろそろ歩く先が首都圏内では、茨城への番になった。近い都内や埼玉は多く歩き、群馬や栃木も歩いている。茨城は昨年12月高萩の松岡城跡(17.12.10)以来である。”大人の遠足誌”から岩間にある愛宕山(306m)をリザーブしていた。低山で神社もあり、最近の好みである。常磐線の取手や土浦の先だが、水戸の手前でそう遠くはない。

 正面に見えた愛宕山 常磐線岩間駅へは意外に時間を要し、都内から鈍行で1時間30分であった。駅前は田舎町の小さな寂れた商店街。1人、通りを進むと正面に見えたのが愛宕山のようだ(写真上)。街外れで大きなホテル前を通過し、標識に従い林の中の山道へ入る。荒れた上に、先日の台風で折れた枝が散らばっている。本日もストックを持たず、少し悔いる。山道を抜け、第二鳥居で舗道へ出て、大きくカーブし上がり続けると展望広場に至り、小憩。眼下には田畑が広がり、その中に小さな集落が点在している。
また山道へ突入し、森の中。舗道を横断すると愛宕神社石段下で、見上げる程の急な石段が直線的に続いている。きついなと思いながらも、一段一段昇る外はない。前に老婦人が取り付いているが、踊り場で止まっては体操している。私は手すりを利用しながら上がり続ける。振り向くと大分離れてしまった。愛宕神社本殿へお参りする。

芭蕉句碑に出会う 境内裏に奥社があり、芭蕉句碑の案内。素通りは出来ないと、最後の力を絞り、また石段に挑戦し奥社は飯縄神社。左手に石碑が建っている(写真下)。苔蒸し文字は不明で、カメラに収めた。芭蕉は、おくの細道へ旅立つ前、鹿島詣で(1687・貞亨4年)をしている。その時詠んだ句かなと思ったが、帰宅後調べると、”夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉“の句で違っていた。また12天狗社も立ち並んでいる。当山には天狗伝説かあるらしい。
展望所ベンチで小憩し、下山開始。本殿反対側へ出ると、こちらにも石段があり、先程とは違い緩やかなもの。女坂かなと思いながら下り、広場であった。本日、笠間のトレッキング大会開催中で、当地がゴールのよう。多くの男女ハイカーが屯し、送迎バスも駐まっている。案内所でパンフを入手し、舗道の坂道を下る。雨が落ちてきたが傘を指すほどではない。ハイカー達を乗せたバス二台追い抜いて行った。山道へは入らずそのまま舗道を歩き、大回りして山を下り切り、先程のホテル前だが、閉鎖中のよう。集落内で、往きに気になった六所神社へ立ち寄り、参拝。無事下山を報告した。

昼食はえき蕎麦 疾うに正午は過ぎたが、食事する店は見当たらない儘、コンビニもなく岩間駅着。乗った電車が土浦駅に停車すると、ホームにえき蕎麦店があり、ラッキーと昼飯にした。空きっ腹には丁度合っていた。       (2018/10/27 K.K. 1217/1300)

□日時 2018/10/8□天候 曇り □交通費 3,320円 □歩行数等 15,000歩 11km □資料 JTB「大人の遠足 里山あるき ・・・愛宕山」2001年、38頁
「通過時間等」自宅8:25-JR巣鴨駅8:55-同日暮里駅9:17-同岩間駅11:05=ホテル前11:20=第二鳥居11:30=展望広場11:45=愛宕神社12:05/12:15=案内所12:25=六所神社13:00=JR岩間駅13:19-同土浦駅13:45/14:00-同日暮里駅14:55-巣鴨駅15:12-自宅15:40
故郷の歌人S先生からです。”ふるさとに兄あり友あり読者あり 1300回への首途(カドデ)ことほぐ“ 有り難うございました。

東大和から玉川上水緑道を下る

先週長野から帰って、今週は軽い歩きにしたい。打って付けのハイキング先が浮かんだ。西武沿線だがガイド掲載のコースは殆ど歩いて、一つ残している。西武拝島線の東大和駅がスタート地である。多分、2時間足らずの歩きでは物足りないとして後回しになっていたと思う。現在では、丁度良いかもしれない。

 上水緑道に倒木 西武高田馬場駅に着くと折良く拝島線の電車が来て乗車。久しぶりの拝島線かなと思ったが、昨年コスモス観賞に、先の昭和記念公園に来たことがあった(17.9.18)。
東大和駅に降り、玉川上水の上水小橋へ向けスタート。小平グリーンロードで、木々が生い茂る並木道を行く。左手に見える森は東京都薬用植物園のようで、個人宅の屋敷林を超えている。雨が落ち始めたが傘を指すほどではない。 左手の玉川上水に近付き、案内板を確かめ上水内へ降りると小橋。ここで地下から姿を現し流れが下っている。反対側の右岸へ出て、上水緑道を、時々は流れを覗きながら下り始める(写真上)。倒木があり、折れた枝も落ちている。そして、数人の作業員が倒木を片付けている現場に遭遇し、少し迂回になった。先日の台風の被害で、それ程強風が吹き荒れ、私も土日を見送り、本日のハイキングになった。

 樹齢300年の大ケヤキ 小川橋から東小川橋に至り、玉川上水を離れ、コースポイント竹内家の大ケヤキへ回り道。住宅街から小学校前を過ぎ、大ケヤキならそろそろ屋根越しに見えるかなと期待したが、家屋が見えるだけ。青梅街道へ入ると小平上宿で、庭に大きな樹がある大農家が続く。小路を覗くと奥にそれらしい大木が見え、下に案内があり、高さ35m樹齢300年という(写真下)。アングルを探し二度ほどシャッター切った。
青梅街道へ戻り、反対側の神明宮に寄る。当地は江戸前期に小川九郎兵衛が開発した地で、その顕彰碑がある。そう言えば、小平には小川という地名が残り、知人に当地から通う同姓の方がいて、旧家の出と聞いていた。彼のご先祖だろうか。隣の幼稚園では小雨の中、運動会を続行中。私も途中から傘を指している。

再び玉川上水へ 小川寺の先から美大通りを歩き、また玉川上水へ。少し距離があった。武蔵野美大の外にも大学があり、学生達が往き来している。上水の流れを眺めながら下る。先程よりは広く水量も多いように見えるが錯覚か。普通の川とは違い途中で加わる支流はなく、むしろ分水しているのが玉川上水。前方に小さな鉄橋が見え、左折すると西武国分寺線鷹の台駅であった。JR国分寺駅へ出て、中央線で帰途に就いた。(2018/10/18 K.K. 1217/1300)

□日時 2018/10/4□天候 曇り時々小雨 □交通費 900円 □歩行数等 15,000歩 11km □資料 西武鉄道「西武沿線小さな旅 小平グリーンロード」平成11年、44頁
「通過時間等」自宅8:00-JR巣鴨駅8:40-西武高田馬場駅8:56-同東大和駅9:40=上水小橋10:00=東小川橋10:30=竹内家大ケヤキ10:45=神明宮11:00=玉川上水11:15=西武国分寺線鷹の台駅11:30-JR国分寺駅11:47-大江戸線新宿西口駅12:38-三田線春日駅12:55-自宅13:30

目指した高原歩きは出来なかった黒姫高原

長野の黒姫高原は二度目である。旧信越線沿いの新潟県境手前にあり、コスモスが咲き家内と訪ねたことがある(95.9.2)。手許に、”駅からハイキング”誌からの資料があり、再訪ということで気軽に出掛けた。高原は広く、地元の方のお陰で、コスモスは観賞出来たが、コースを誤り高原ハイキングは不満足なものになってしまった。
 東御市在家内の実家から、しなの鉄道田中駅へ送って貰い、長野駅で乗り換え黒姫駅に下車。改札でもたもたしている間にバスは出てしまい徒歩で高原へ。バスは予定外だったが、乗れれば増しなハイキングになったかもと後で反省。

広大な黒姫高原 黒姫山麓に広がる高原は広大だが、連休中なのに人出はない。手許の略図を頼りに、雲龍寺前から田舎道へ左折した先から田圃は黄色一色(写真上)。作業中の方に挨拶し、山方向へ入ると別荘らしき建物がチラホラ。黒姫山登山口があり、略図を眺め迷わず、ここで右折した。案内標柱を確かめながら舗道を行くが、次のポイント御鹿池分岐点がない。距離的に越した筈で、コースの誤りを疑い始める。両側に別荘が続き、手前の別荘間の通りかも、と思ったがその儘進み、コスモス園を目指す。別荘街を抜け、スキー場の草原へ。秋桜を期待し閉鎖中のリフト乗り場へ近付いたが、荒れた草原が続くだけ。スマホで検索するも今一はっきりしない。略図上のポイント黒姫童話館へと行き掛けた途中、地元の方に出会い教えて貰うと、先程のスキー場の右奥という。礼を言ってUターン。

 地元の方の車でコスモス園へ 車が停まり先程の方が送ってくれるという。渡りに舟とはこのことかと感謝しながら、御好意に甘え、コスモス園に入園することが出来た。こちらは多くの人出で賑わっている。 早速入園し、満開、見頃のコスモスの間を巡る。黒姫山麓に赤、白、ピンクの花々が咲き広がっている。奥には黄色一色に染めた畑がありキバナコスモス。
奥の高い山は妙高山だろうか(写真下)。高峰を背景にし、カメラに収めた。コスモス畑は10ヶ所ほどだが、広大な高原のほんの一画。半周もしないで、入口のテーブルを借り、コスモスを眺めながら昼食。家内の実家でお握りを持たせてくれた。畑の間の白樺の樹から、家内と来た約20年前の風景をぼんやり思い出した。あの時は、確か秋桜は未だ早く、チラホラだったと思う。

感謝し帰途へ 受付で駅へのバスを教えて貰い、黒姫駅へ戻った。ハイキングコースは殆ど踏むことなく帰途に就いたが、素晴らしいコスモスを観賞出来て、それで良しと思うことにした。もう一度来て、リベンジハイクとの数年前迄の思いとは大違いで、加齢の故だろうか。それにしても、車で案内して戴いた見知らずの方に感謝しなければならない。有り難うございました。(2018/10/13 K.K. 1215/1300)

□日時 2018/9/24□天候 晴 □交通費 6,810円 □歩行数等 15,000歩 11km □資料 山と渓谷社「駅からハイキング コスモスと童話の黒姫高原」2002年、140頁
「通過時間等」家内実家8:30-しなの鉄道田中駅8:47-同長野駅10:42-同黒姫駅11:25=雲龍寺前11:40=黒姫山登山口11:55=スキー場12:40-コスモス園13:15/13:36-しなの鉄道黒姫駅14:09-JR長野駅15:00-同大宮駅16:20-三田線新板橋駅16:55-自宅17:20

富士見を歩いて、小海線で小諸へ

乗り鉄を楽しもうとしたとき、先ず浮かんだのがJR小海線であった。実際は帰りの新幹線利用を考慮し最初はJR飯山線にしたが、八ヶ岳高原を走る小海線は是非乗り切りたい。三連休中日、中央線でスタートし小淵沢駅から小海線に乗り小諸駅へ出て、久しぶりに家内の実家を訪ねる予定である。

 小渕沢駅より気動車に乗る 小淵沢駅前で時間を調節し、2両の小諸行き気動車に席を求めた。連休で込んでいる。清里駅までは深い森の中を走る。私も飯盛山に登った際乗った区間で(02.8.10外)、見覚えがある。大半の乗客は清里駅で降りて行った。次の野辺山駅へ向かうと高原へ出て、牧場や畑地が広がる。同駅の標高は日本最高1,345.7mである。私も少し思い出があり、若い頃自治会の少年野球を手伝っていた時夏合宿をした地であった。また飯盛山からこちらへ下った時(00.8.16)もある。信濃川源流への最寄り駅信濃川上駅付近は、私の予想と違い山に囲まれている。次第に小海線に谷川が絡み出し、千曲川であるが上流で、未だ普通の川程度である(写真上)。

小海線名の由来を知る 小海駅を通過。私は、小海線とは小諸と海ノ口からのネーミングかと思っていたが、その名の駅名があると知った。当地は小海町のようだ。馬流駅で、秩父事件慰霊碑の案内を見て、スマホで検索。1884(明治17)年秩父から困民党の一部が峠を越して馬流まで移動し、政府軍と戦闘したが鎮圧されたという。驚きである。
先程来、車窓には稔った田圃風景が連なり、刈り取った跡も見える。臼田駅に到着し少し停車。佐久地方の中心だろう。大きな病院があり、私も二度ほど見舞いに来たがバスであった。龍岡城駅は乗降したことがある。龍岡城は函館の五稜郭と同じ縄張りで、見学に来た。したがって、小海線は野辺山駅から龍岡城駅間が今回初乗車区間。既に山間を出て、沿線には家々が増え街を形成し、千曲川も見えなくなってしまった。佐久平駅は長野新幹線用に出来た駅。現在では駅もホテルや飲食店に囲まれ、大きな駅らしくなった。小諸までは小さな無人駅が続き、旧信越線が並行すると小諸駅に滑り込み、小淵沢駅から約2時間20分の乗り鉄の旅であった。

 富士見高原を巡る 先に、中央線富士見駅に降り、富士見町を歩いた。”大人の遠足”誌にある文士・詩人が散策した富士見高原を巡りたい。中でも、堀辰雄”風立ちぬ”縁の高原サナトリウムに興味を惹いた。高原でも富士見町の中心は南アルプスと八ヶ岳の間の底地にあり、坂が多い。富士見公園へも、八ヶ岳を背に駅前から坂を下って国道を進み、甲斐駒を正面に見ながら富士見峠を上がった先にあった。松に囲まれた小さな園に、左千夫や赤彦、茂吉達のアララギ派の歌碑が建っていた。小憩後、駅へ戻る途中に白林荘はあったが帰去来荘は見付からないまま駅で、反対側の高原病院へ。八ヶ岳展望は変わらない(写真下)が、現在の病院は近代的な建物で、資料館看板のみ富士見高原療養所跡を示し、風立ちぬの面影は消え去っていた。(2018/10/10 K.K. 1214/1300)

□日時 2018/9/23□天候 晴 □交通費 3,740円 □歩行数等 15,000歩 11km □資料 JTB「大人の遠足 文士・詩人達が散策した道」2000年、90頁
「通過時間等」自宅7:15-JR新宿駅8:14-同高尾駅9:21-同甲府駅10:57-同富士見駅11:50=富士見公園12:15/12:30=富士見高原病院13:10=JR富士見駅13:51-同小淵沢駅15:06-しなの鉄道小諸駅17:33-同田中駅17:45-家内実家18:00

葛飾立石に立石様を見て社寺を巡る

都内の葛飾立石に、地名の由来になった立石があると知った。毎月様々な旅行案内が舞い込むが、その中にあり興味を惹いた。”東京の歴史散歩・下町編”(山川出版社)には掲載なかったが、ネット検索ではヒットした。見てみたいと出掛けることにした。東京都市図にもなく、ネット情報が頼りである。今回バックはウェストポーチにした。昨年叙勲祝に戴いていた。

 “立石様” 最寄り駅は京成立石駅だが、乗降したことはない。この地域は京成や東武の本線や支線が走り、地下鉄の乗り入れもあり乗換が多い。三田線神保町駅で新宿線に乗り換え馬喰横山駅で、浅草線東日本橋駅へ歩き青砥行きに乗り換えて、そのまま京成立石駅であった。駅前案内図で、立石の存在、位置を確かめ、市街地では最近は通りの数を目安にしている。三本目の小路を右折し、中川堤へ出て堤上からまた三番目の通りへ入ったが、一本違ったようで、回り込むと、立石様は想定の地にあった。住宅街の中である。
立石は、古墳の石室用に千葉鋸山から運ばれた石で、その後古代東海道の道標として転用されたもので、室町時代から文書にあったという。江戸時代には信仰の対象として祀られ、”立石様”と呼ばれ、現在では稲荷神社の境内である。石柵囲いの中に、立石様は僅かに頭部分を見せている(写真上)。先に手を合わせ、カメラに収めさせて貰った。

熊野神社、天祖神社は順調 大通りへ出て南下すると直ぐ立石熊野神社。隣の幼稚園の運動会のようで参道に、子馬と園児が整列している。その中参拝し通りへ出て、奥戸橋を渡る。振り返るとスカイツリーが見えた。右手が区立体育館と競技場で、こちらも本日運動会開催中。区の観光案内図があったが、次の天祖神社が見当たらない。ネットで調べた方向へ進むと、裏参道へ出た。偶然だろう。誰もいない境内で、また軽く参拝。大きな注連縄が飾ってありシャッターを切った。

 道を誤り宝蔵院へ 次は、八劔神社から宝蔵院だが、二度コースを間違い、近道も裏目に出て、苦手な街角ウォークが出てしまった。奥戸街道を歩いていると思っていたら環八で、途中で気付きUターン。処が一本手前の大通りへ入ってしまい団地に至り、社寺は見当たらない。環八へ戻りまた南へ歩き、今度は確信し八劔神社へ近道した筈であったが、神社はない。直ぐ先の新中川土手へ上がり見下ろすと神社の屋根が見付かった。神社のある当地旧葛飾郡は下総であったが江戸期武蔵へ編入したとある。垣根越しに隣を覗くと、墓地があり目指す宝蔵院で、高い鐘楼下から裏参道を進むと両側に彼岸花が咲いている(写真下)。当院は彼岸花の名所とあるが、花友達を案内するには物足りない。都内ではこの程度でも満足すべきと思うことにした。秋の彼岸に入り墓参りの方がチラホラ。頭を垂れて本堂前を過ぎ、境内を出ると新奥戸橋のバス停があり、バスを待った。(2018/10/06 K.K. 1213/1300)

□日時 2018/9/20□天候 晴 □交通費 320円 □歩行数等 12,000歩 9km □資料 江戸東京散歩道168回「立石・奥戸の古刹とヒガンバナ咲く宝蔵院」
「通過時間等」自宅8:40-新宿線神保町駅9:15-浅草線東日本橋駅9:25-京成立石駅10:00=立石様10:15=立石熊野神社10:25=奥戸橋10:30=奥戸天祖神社10:45=八劔神社11:25=宝蔵院11:30=新奥戸橋バス停11:45-京成立石駅11:59-新宿線馬喰横山駅12:25-三田線神保町駅12:35-自宅13:10

奥武蔵の飯能郊外丘陵を歩く

数年前奥武蔵飯能付近を歩いた際、「駅からMAP宮沢湖への道」を入手していたのを思い出し、引っ張り出した。地図にある宮沢湖や高麗峠、天覧山は二度ほど歩いていて、未踏の宮沢湖手前の丘陵はどうかと検討した。飯能駅から徒歩圏内で、丘陵に森が広がる地のようだが社寺や史跡をポイントに出来る。奥武蔵ハイクは久しぶり。

 飯能駅から加治神社へ 三連休の中日、西武池袋駅から準急飯能行きに乗車。この沿線は通勤圏内で、旧同僚達も大勢住まい、色々な付き合いでも乗車したことを思い出していたら終点で、飯能駅は近い。奥武蔵の入口に当たる。駅前の大通り北上するルートで、商店街から西武線踏切を渡り、中山宿に着く。交差点角に咲く黄花秋桜が出迎えてくれた。更に直進し、丁字路を右折すると石鳥居があり、最初のポイント加治神社(写真上)。参道を進み参拝する。武蔵七党丹党であった中山氏が建立したらしい。中山氏は後北條氏を経て徳川氏に仕え、水戸藩の家老になり、昨年末訪ねた茨城高萩の松岡城主であった(17.12.10)。それで、中山宿には水戸黄門縁の地とあったのだ。江戸期からの石灯籠や筆塚を眺め、裏の森内へ進入する。

赤松広場は藪の中 狭い山道は濡れて滑りやすい。当地は昨夜雨だったようだ。丁度私は、今回軽登山靴(キャラバンシューズ)で、いつもよりは対応し易い。最近は専ら軽いハイキング用短靴だが、年一回位は軽登山靴も外気に当てたい。森は広く遊歩道が縦横し、桜木が多く、春の花見地のようだ。次のポイント赤松広場を目指し、奥へ奥へ入り坂を上がり尾根筋へ上がったらゴルフ場。宮沢湖は見えない。塀に沿って歩いたが赤松は見えず、一旦下り清泰寺境内へ出る。彼岸花は咲いているが僅かで、本堂前の百日紅が美しい。大通りへ出て峠口へ上がり、赤松広場を目指し森内へ再突入すると、荒れて蜘蛛の巣の張る獣道の先に想定通り赤松はあったが、草が生い茂り広場ではなく、早々に遊歩道へ逃れてしまう。標柱には、間違いなく赤松広場とあったが。

 第2天覧山は? 最後のポイントの第2天覧山を探す。明治天皇が1883(明治16)年近衛兵演習を総攬したという天覧山(愛宕山)は右奥にある。再度の清泰寺傍から下ると入口があり、記念碑があった(写真下)が、古くて刻まれた文字は読めない。天覧の山頂は裏かと回ってみるもなく、諦め入口傍の寶蔵寺前へ出て、外から頭を下げ寺前を過ぎた。JR東飯能駅が近いようで迷ったが、中山宿から、また飯能駅に戻った。
今回は、ホームグランド奥武蔵内だが、全て初めてのコースやポイントになった。車中、マップを見直すと、今回歩き回った範囲は三分の一程度で、残りに中山氏の館跡や菩提寺もあるようで、桜の時期に再訪も良いかもと思った。    (2018/10/01 K.K. 1212/1300)

□日時 2018/9/16□天候 晴 □交通費 1,200円 □歩行数等 19,000歩 14km □資料 飯能地区まちづくり推進委員会「駅からMAP宮沢湖への道」
「通過時間等」自宅8:30-JR巣鴨駅9:10-西武池袋駅9:20-同飯能駅10:10=加治神社10:40=清泰寺11:15=赤松広場11:25=第2天覧山記念碑11:50=寶蔵寺11:55=西武飯能駅12:25-JR池袋駅13:20-三田線巣鴨駅13:31-自宅14:05

浜離宮で黄花秋桜を眺め、深川芭蕉庵跡へ

また新聞情報だが、浜離宮庭園にキバナコスモスが咲いたと知った(18.8.30朝日夕刊)。浜離宮には四季の花が咲き、これまでも寒牡丹や菜の花、桜の観賞に度々訪ねている。最近知った黄花秋桜は好きな花で、空いている日を探した。離宮庭園だけでは歩き足りなく、近くの大江戸線で深川へ回り、芭蕉庵跡も再訪しようと目論んだ。

 高層ビル背景に咲く黄花秋桜 地下鉄三田線内幸町駅を出て、新橋方面へ直進した先が浜離宮庭園。昭和通りを歩道橋で渡り少し歩いた右側に離宮庭園大手口があり、受付を済ませ、花畑を目指す。外国人を含め人出がある。花畑は、広い庭園でも大手口から近く、すぐ目の前にキバナコスモスの花々が広がった。満開だが、やや見頃は過ぎたかなという状態。早速、カメラを出し、アングルを探しながら花畑を巡る。
私が初めて出会った黄花秋桜は江東の木場公園(16.8.25)だが、その時濃い黄色の花は刺激的で妖艶でさえあったと思う。それに比べれば、色は普通の黄色で、花も小さめ。振り向き、新橋、汐留に林立する高層ビルを背景にしたアングルとし、数回シャッターを切った(写真上)。
花畑を出て、東京湾側へ歩き右折し、樋の口山を越し汐入れの池を木橋で渡り、鴨場の覗き小屋を見る。お茶屋でUターンし、また花畑を巡り、キバナコスモスを愛でながら花の間から畑を出て、大手口へと戻った。大江戸線築地市場駅は少し距離があった。

 深川の芭蕉庵跡 今春栃木に雲巌寺や遊行柳を見学して、芭蕉のおくの細道を辿りたいと思い始め、資料”奥の細道の旅ハンドブック”(久富哲雄著2014改訂版)を求めた。最近も羽後象潟や那須殺生石を訪ねた。その原点、深川の芭蕉庵跡をと思った。清澄白河駅に降り地上へ出ると小名木川。再訪で(01.9.30)、記憶を頼りに隅田川縁へ向かうと芭蕉稲荷があり、軽く参拝。大正時代当所で、芭蕉が愛用した石蛙が見付かり、古池のある庵跡として祀ったとある。川角の堤上に座像があり(写真下)、すぐ傍に、”川上と この川下や 月の夜”の句碑があった。隅田川もこの辺りでは、ビルに囲まれ川幅一杯の流れは静かである。

おくの細道旅の目的は 直ぐ上流に江東区立芭蕉記念館があり、堤側から入館。資料や年表等が豊富で、ざっと眺め回しただけでは、特段目を惹き、記憶に残るものは少ない。一つ気を惹いたのは、芭蕉のおくの細道へ旅立ちの目的は、和歌で詠まれた名所や旧跡の歌枕の地を確かめるためとあったことである。そうであれば、西行法師達の足跡を辿ったのは頷けよう。処が、数日後、テレビで、”何でも鑑定団”を観ていたら、芭蕉の句色紙が出品され鑑定結果、直筆として800万円の高値がついた。その時、テレビの解説では、幕府の隠密説が有力と紹介した(18.9.11テレビ東京)。仙台藩の動静探りとして、以前からある説だがどうだろう。ともあれ私は今後も、芭蕉が巡った史跡等は辿りたい。 (2018/09/27 K.K. 1211/1300)

□日時 2018/9/9□天候 晴 □交通費 シルバーパス利用 □歩行数等 12,000歩 8km □資料 東京公園協会「浜離宮恩賜庭園」18.5、江東区立芭蕉記念館「芭蕉記念館」
「通過時間等」自宅8:30-三田線内幸町駅9:20=浜離宮庭園9:45/10:15=大江戸線築地市場駅10:25-同清澄白河駅10:40=芭蕉稲荷・座像10:55/11:05=芭蕉記念館11:15/11:40=大江戸線森下駅11:50-三田線春日駅12:10-自宅12:40

大糸線から親不知を訪ねる

久しぶりに白馬でOB会があり、出席した。私はハイキング目的で、これまでも塩の道や栂池高原、そして八方尾根を歩いたことがある。今回は何処にしようかと、JR全路線図を眺めていたら、白馬駅から親不知駅が近いと知った。大糸線で糸魚川駅へ出るルートである。偶々青春18切符があり、JR西日本路線も乗車可能で好都合である。

 大糸線で糸魚川へ 朝、白馬駅7時前の大糸線南小谷行きに乗車した。昨夕、参加者Bさんから親不知は未訪で行ってみたいと聞き今朝確かめ、同行が決まった。旅は道連れで、1人よりは心強い。北小谷駅からはJR西日本であり、信越の県境。深い山中となり、姫川渓谷内に鉄道と道路がへばり付くように続き、駅前に小さな集落がぽつんぽつんと見えるだけ。水力発電所があり、当線は発電所用かなとも思えた。糸魚川が近付き山地を出た筈だが狭い地で、それを大きな化学工場が占めているようだ。

遠い親不知 糸魚川駅で冨山の泊行きに乗り換え、日本海沿いに走り、二つめの親不知駅で下車。無人駅で、期待した親不知の情報は得られず、道の駅広告看板から想定し、歩き出す。左は高い山、右には海が迫り、狭い間に高速道、鉄道、現国道と、我々が歩く旧道が並行し(写真上)、新幹線は山をくり抜いてトンネルのよう。30分程で高速道下の道の駅に着き、案内所にも親不知のパンフはなく、壁の絵図のみ。Bさんじっくり調べてくれた。有名な親不知の断崖絶壁は未だ先で、是非眺めたいと思い、国道8号の端を行く。大型車の往来が多く、坂道のトンネル内は怖い位。三つ目のトンネルを抜けると、展望広場があり、ようやく天下の険親不知を眺め、写真でしか知らない断崖の絶景を確かめ、望遠にしてシャッターを切った。崖は海へ切れ落ち歩く余地はないように見える(写真下)。

断崖の真上へ Bさん、正面に見える崖上迄行くという。20分程度かなとまた坂道を上がり続け、大きくうねるとホテル前に出て、その裏に展望舎があり真上の筈だが、薮で絶壁や海岸は見えない。山側の一枚岩に明治18年国道開設の喜びを表した”如砥如矢”(砥石のように滑らかに矢のように速く通れる)と刻んであった。芭蕉も、象潟から戻り当地を通ったが、親不知の句はない。やはり、波間を通過するのに精一杯だったのだろうか。

“能鷹”に出会う ホテル食堂で休憩にお茶でもと思い覗いたら、未だ閉店中で、タクシー会社の電話を教えて貰う。当地は親不知駅と次の市振駅の中間と知り、親不知駅へ戻った。直江津駅で北越急行に乗り湯沢駅へ出て、新幹線のBさんと別れ、私は、青春18切符に徹し、鈍行で水上駅、高崎駅、そして赤羽駅へと乗り継いだ。直江津駅で昼飯の際、地酒”能鷹”を見付け思わずゲット。娘が、一時期越後高田で仕事したことがありお土産に買ってくれたのが同酒で、美酒であった。車中メールしたら、覚えていた。Bさん同行有り難うございました。(2018/09/22 K.K. 1210/1300)

□日時 2018/9/2□天候 曇り後晴 □交通費 青春18切符+2,900円 □歩行数等 16,000歩 11km □資料 「国名勝・天下の険 親不知」
「通過時間等」ホテル6:30-JR白馬駅6:56-同南小谷駅7:39-糸魚川駅9:03-親不知駅9:15=道の駅9:35=高速道IC出口9:50=展望広場10:25=ホテル裏展望舎10:45/11:20=親不知駅12:06-直江津駅13:52-JR越後湯沢駅15:08-同水上駅15:52-同高崎駅16:59-同赤羽駅18:41-三田線新板橋駅18:58-自宅19:25

那須湯本に温泉神社から殺生石を巡る

那須高原に兄弟と長男一家が集合した。長男達は車で先行し、私と弟は電車で追い掛け、那須塩原駅で山形からの兄夫婦と待ち合わせた。車中、弟に、何処歩くのと問われた。言われるまでもなくハイキング先は検討している。湯本の殺生石は訪ねたい。最近芭蕉のおくの細道に興味が湧き、調べると芭蕉も寄っていると知った。宿泊先の位置と交通がはっきりしない。フロントで調べたい。

長男の車に拾って貰う 朝、食事を済ませ土産も求め、山形へ帰る兄達を見送り、弟とスタート。バス停一軒茶屋迄は徒歩20分程度と聞いた。大通りへ出て、松林の中の道を歩く。結構車が多く、上り坂の道を進むが、同じ景色が続き先が見えない。時計を見たらバス時間が迫っている。弟に急ぐよと声を掛け足を速めた時、折良く長男の車が通り掛かりスピードを落とした。便乗することにし2人乗り込み、那須街道を温泉神社へ走って貰う。車は速く10分足らずで神社前に着き、降りて孫達と別れる。

温泉神社に参拝 我々は再スタート。参道へ入ると、二度目の筈だが記憶と違い意外に広い境内。ご神木があり、樹齢800,年のミズナラの古木で、風雪に耐えた姿の樹木(写真上)。カメラアングルを探した。芭蕉句碑があるらしいが、石碑の類が次々と現れ、さざれ石は見たが、確かめられないまま、本殿前へ出て、参拝。当神社は那須与一も、あの扇の的当てを祈願した際、名を挙げたと言われる古社で、温泉(ユゼン)神社と読むと知る。

殺生石は再訪だが 神社から右横の坂道を下るとそのまま殺生石へと繋がった。火山跡であり、未だ有毒ガスも噴出している溶岩の石原で、賽の河原風。上部の中心に一際大きい殺生石はあった(写真下)。伝説によれば、京で、天皇籠絡陰謀の正体が暴かれた九尾の狐が当地に来て悪さを続けたため退治され石になったが毒を発し、高僧に砕かれ散ったという。ここも再訪と思うが、余りの昔のことで殆ど度思い出せない位。カメラに収めながら、硫黄の匂いが漂う中、遊歩道を巡り、湯ノ花採取跡を眺める。反対側は千体地蔵。赤い帽子や前掛けをした石仏が林立し、800体という。ここでも、芭蕉句碑を探せなかった。”いしの香や なつ草あかく 露あつし”と詠んだと思うが。殺生石原を出て坂道を上がると、ススキがあり穂も出ている。未だ暑いが夏も終わりを告げているようだ。バスで、那須塩原駅へ出て、宇都宮駅から上野駅へ向かった。
昨夜、兄達から里芋は、最近の雨で持ち直し、芋煮会には間に合うと聞いた。岩魚や山女魚も少しは釣れ、最近は義姉も竿を仮りて釣り始め、ビギナーズラックを楽しんでいると笑った。皆で、今年の高島平芋煮会の開催日を決めた。
弟に芋煮会への出席をお願いし、赤羽駅で別れた。(2018/09/17 K.K. 1209/1300)

□日時 2018/8/27□天候 晴 □交通費 4,630円 □歩行数等 12,000歩 9km □資料 昭文社「山と高原地図12 那須・塩原」1998年版
「通過時間等」ホテル10:25-車乗車10:45-温泉神社10:55=殺生石11:15=温泉神社前バス停11:50-JR那須塩原駅12:59-同宇都宮駅14:06-同赤羽駅15:53-三田線新板橋駅16:05-自宅16:30

霊場の湯殿山神社に詣でる

出羽三山でも湯殿山や同神社は、特にアクセスが悪く簡単には訪ねることは出来ない。山形から鶴岡行きバスの湯殿山神社に近いバス停がなくなり、鶴岡からの路線バスも季節運行で過疎ダイヤのようだ。本日念願叶い、バスツアーの行く先が湯殿山神社。出羽三山神社の奥宮という。位置的にもそうであろう。ご神体は、子供の頃スライドで見たものだろうか。そんな想い抱き、バスに乗った。

 霊場湯殿山神社へ 朝、鶴岡市を出たバスは羽黒山下に寄り、山麓の広域農道を走って高速山形道から旧道へ入り、湯殿山ホテル前を過ぎ湯殿山中腹へ向けた。路線バスはホテル前迄であったろうが今はない。そして、赤い大鳥居のある参籠所前に着いた(写真上)。湯殿山神社本宮へは更にバスに乗り継ぐ。バスは満員。直ぐ本宮前に着き、神殿はないというが、参拝に奥へ入る(写真下)と、撮影禁止の場所となる。霊場で神域なのだろう。

 ご神体に対面 谷間の岩場の道を上下し、入口でお祓いを受け、汚れを祓い、裸足になりご神体前へ。正面に大きな赤い丸型岩があり、お湯が湧き出ていて岩を洗い、流れ出している。確かに色と言い、形と言い珍しい岩でご神体に相応しく、正しくパワースポット。カメラは出せない。私はスライドで見た記憶がある。浅い泉の中にある大きな丸い岩であったと思う。約60年前のことで、目の前のご神体と形は似ている。カメラが一般に普及する前は、緩やかな時期もあったのだろう。
 修験道の霊地として、”語るなかれ””聞くなかれ”と戒められ、あの芭蕉も、月山を越えて参拝し、”語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな”と詠んだとあるが、ご神体裏側の岩場へ上がり、谷を覗く。後に、山伏達が滝行をする仙人沢の御滝と知った。少しでも御利益に預かろうと御神符を求め、戻って靴を履き、神域を脱した。

徒歩で下る 私は、15分程の僅かな距離だが、帰りは歩くとKさんに伝え、坂道を下る。当地は深い仙人沢の底で、両側には高い山が連なる。道端に、アキノキリンソウやシシウド、カラマツソウ、シモツケソウ、ウメバチソウ、ノアザミの花々を見付けながら、姥権現から御沢橋を渡る。途中バスが追い越して行った。大鳥居の付近に芭蕉句碑があったらしいが、見逃してしまった。

 羽黒山五重塔 昨日羽黒山頂の神社を訪ねたが、本日は国宝五重塔を見物した。随神門前にバスを降り、塔を往復。祓川の神橋を渡り右手に須賀の滝、左手に爺杉の大木を眺めると五重塔であった。平将門創建と伝えられ、戦国期は出羽山形の最上義光も修復したとある。ここから2000段の石段参道が続くが、下から眺めてUターン。若い頃家族で昇ったが、今では夢のような話し。添乗員が心配した200段の継子坂は上り切った。(2018/09/10 K.K. 1208/1300)

□日時 2018/8/23 □天候 晴 □ツアー参加費 21,000円 □歩行数等 10,000歩 7km □資料 出羽三山神社社務所「出羽三山」
「通過時間等」ホテル8:40-鶴岡物産館8:45/9:10-羽黒山五重塔9:40/10:35-湯殿山参籠所11:45-奥宮前11:50=ご神体12:00=奥宮前12:15=参籠所12:55-上野駅19:20-三田線巣鴨駅19:45-自宅20:10

日本海を眺めながら月山弥陀ヶ原を歩く

我が家に来たダイレクトメールに、月山弥陀ヶ原や湯殿山を巡るバスツアーを見付けた。山形出羽三山の羽黒山詣でや月山登山はしているが、弥陀ヶ原は未踏で、湯殿山神社も参拝していない。これまで、是非にと数回検討したがアクセスが不便で、どうしようかと迷っていた。渡りに舟と参加を申し込み、ハイク友Kさんも同行をオーケーしてくれた。

 咲き残る高山の花々 羽黒山を出たバスは、月山高原ラインを走って8合目弥陀ヶ原に着いた。山岳道路で狭い上に後半はうね曲がる急坂となり、1時間を要した。月山頂上下の標高1400mの高原で、湿原が広がっている。添乗員は、高山植物の花は終わったという。私は期待していたが、時期が過ぎやむを得ない。木道へ入ろうとするとハクサンフウロが目に付いた。出迎えに感謝しカメラに収め、先へ進むとアザミの根元に咲く濃紫の花はエゾリンドウ(写真上)。久しぶりの対面で、思わずKさんへも伝えた。白い花はカラマツソウだろう。月山中の宮に参拝すると、正面のなだらかな尾根の先に月山山頂(1984m)が見えた。反対側の姥沢から同級生達と極めたのは何年前だったろうか(05.8.16)。江戸中期芭蕉一行はここから登ったという。

海と山との大展望 木道に沿い右折すると池塘が現れ出した。残る白い花はワタスゲか。更に右折すると、下方に、庄内平野からその先に日本海が広がった(写真下)。そして右には、鳥海山である。先程は飛島も望めた。夕日を受け海はキラキラ光り、大鳥海は黒い姿で聳えている。天候に恵まれたことに感謝しながら、二、三度シャッターを切り、写り具合を祈った。バスに戻り、月山高原ラインを無事下り切ると、運転手へ乗客から拍手が湧く程の難所の走行で、特に対抗バスとの擦れ違いは腕の見せ所であった。

羽黒山神社参拝 先に羽黒山三神合祭殿に参拝した。上野を8時出発したバスが着いたのは15時。私は三度目の参拝だが、新潟県出身のKさん初めてという。添乗員は、杉並木の参道から本殿へ案内してくれた。この道は通ったことなく、古社らしい参道。境内端に芭蕉像と”涼しさや ほの三日月の 羽黒山”の句碑があった。私はこの句は知らず、月山を詠んだ”雲の峯 いくつ崩れて 月の山”は知っていた。参拝し、秘仏公開中とあり入殿し拝願したが、凡人には良く分からない。約30年前母や家内と最初に参拝した時は即身仏がご本尊であったと思うが、不確かである。最近、歌手羽山みずきが、当社の巫女出身と聞いた。売店の方に尋ねたら頷いて、鶴岡出身と教えてくれた。時々テレビの歌番組に、みちのく三人娘としても出ている。
宿泊は、鶴岡市郊外の小さなビジネスホテルで、夕食時、Kさんと2人で庄内の地酒と魚介を楽しんだ。(2018/09/05 K.K. 1207/1300)

□日時 2018/8/22 □天候 晴 □ツアー参加費 21,000円 □歩行数等 9,000歩 7km □資料 「弥陀ヶ原湿原木歩道コース」、「羽黒山(三神合祭殿)境内案内図」
「通過時間等」自宅6:40-JR上野駅前7:50-羽黒山15:05/16:00-月山8合目弥陀ヶ原17:15/17:55-鶴岡市内ホテル19:10

小出から会津若松へ只見線に乗る

只見線は以前から興味があった。1971年全通の比較的新しい路線で、会津、新潟間を走る山岳鉄道や渓谷鉄道を楽しみたい。事前の調査では、全線を乗り切るには朝7時か午後1時発しかなく、小出発が時間的に好都合と分かった。また、2011年の豪雨被害で一部不通で、バス代行という。Sさんに同行して戴くことになり、送迎をお願いすることにした。彼は一度車で会津から越後へ、只見を越したことがあると知る。

 山間を走り小出駅から只見駅へ 関越高速の渋滞に遭い、小出駅13時11分発只見行きに間に合うか不安もあったが、Sさんの巧みな運転で、群馬から新潟へ入り、約20分前に小出駅に着いた。女性車掌付の二両の気動車はほぼ満席。夏休みで、私と同じ目的の乗客に見えた。時間通りに発車し直ぐ魚野川を渡る。当地の湯之谷へは約20年前研修に来て懇親会を楽しんだこと(96.7.11)があり、その時地酒”緑川”を知ったが、先程駅前で、偶然そのカップ酒を求めた。こしひかりの産地の水田地帯から山間へと走る。稲穂が出ていて、黄色に染まった穂も見え早稲種だろうか。山間へ山間へと進み、入広瀬駅、大白川駅を通過し、小さな渓谷を繰り返し渡る。時々、車窓から当路線に沿った国道が見え、Sさんは既に通過したのであろうか。長いトンネルを抜けると大きなダム湖が見あり、峠を上がり切ったようで家屋が見え始め、只見駅であった(写真上)。

落ちた鉄橋を見る 只見は、駅前から街通りが続き、高原の街。山々は後退し、予想した山峡や狭い盆地ではない。駅前に代行バスが待っていたが、Sさんが先行していて、私は車で次の会津川口駅へ向かう。街を出ると目の前にダム湖が広がった。当地の只見川は谷川ではなく、水を漫漫と湛えた大池である。本名駅手前であったろうか、Sさん”鉄橋が落ちていると”叫んだ。途中で切断、落ちた儘の鉄橋が見えた。すぐ、正面の長い鉄橋も同様の状態。現在の水面は大分下で、豪雨で増水し鉄橋を洗い流したのであろうか。想像を超える被害と思う。復旧工事費用が嵩みすぎ、JR等の只見線全通の見通しは大分先のようだ。会津大塩を通り、Sさん以前同温泉に来たことがあると話してくれた。

会津坂下駅から同若松駅会津川口駅から再度気動車へ乗る。同駅は立派な有人駅で、売店もあり山菜漬けを求める。ホーム先が直ぐダム湖(写真下)。下るに従いダム湖から離れ、山中や森の中になる。駅も殆ど小さな無人の駅のようだ。会津坂下駅を過ぎると深い山を出て、平野が広がり街並みの先に磐梯山があった。会津坂下出身の友人がいて、山の中と聞いていたがそうでもない。多分生家は、駅から未だ奥へ入るのだろう。磐梯山の方向に疑問を持ったが、只見線が南側へ大きく回り込んでいるからのよう。会津若松駅に着き、約4時間の乗り鉄を終えた。ここでも、Sさんが改札口で迎えてくれ、長い帰路に就き、21時に高島平であった。Sさん、この度も大変お世話様で、有り難うございました。御礼申し上げます。  (2018/08/31 K.K. 1206/1300)

□日時 2018/8/18 □天候 晴 □交通費 青春18切符2/5 □資料 魚沼市観光協会「うおぬま旅手帖」、会津バス「奥会津ぶらり旅」、JR只見線利用促進実行委員会「平成23年7月新潟・福島豪雨災害只見線被災箇所マップ」
「通過時間等」自宅9:00-JR小出駅13:11-同只見駅14:35-同会津川口駅15:27-同会津若松駅17:30-自宅21:00

長瀞七草寺に桔梗とオミナエシを訪ねる

桔梗の花を観たいと思い咲く花園等を調べた。以前に武蔵丘陵森林公園で観たことがある(13.7.28)が、同園サイト上では現況は不明。我が家本棚にあるガイドブックより、長瀞の多宝寺にあると知り(JTB「るるぶ花あるき・関東版」2003年、101頁)、観光案内所に尋ねたら、一番花は終わったが二番花が8月中旬に咲くと教えてくれた。

 多宝寺の桔梗畑へ 長瀞には七草寺があり、ネットから「長瀞秋の七草寺めぐりmap」を出力し、出掛けた。真夏のこの時期、特に今年は猛暑続きで七寺は最初から諦め、桔梗の咲く多宝寺の外、場所的にも近いオミナエシのある真性寺を巡る予定とする。冷水の外、帽子、サングラスを持参した。東上線で小川町駅から寄居駅へ出て、秩父鉄道に乗車。最寄り駅野上駅は近く、駅で寺の方向を確かめスタート。踏切を渡り、荒川へ向けて歩く。この道は、昨年事務所ワンゲル部宝登山下山の帰路であった(17.11.18)。大通り交差点を左折すると右手に多宝寺が見え、境内には畑があり、桔梗畑。先ずは本堂前へ行き、ご挨拶に手を合わせる。普通の田舎寺のよう。戻って桔梗観賞。畑に三畝程栽培してあり、花は見頃で、濃紫の花が開いている。しかし、思ったより少なく花々も疎らで、桔梗寺としては物足りない感じ。

桔梗の思い出 私は、桔梗は好き花である。紫の花はケバケバしくなく、品があり優しさもあると思う。子供の頃近所の幼なじみ達と、お盆の時期に少し遠い山へ採りに行き仏前に供え、祖母に褒められたことを思い出した。好きな花だが、あれからは観る機会は少ない。カメラと携帯にも写した。自分の陰も写ってしまったと後に分かった(写真上)。残念。
 大通り交差点へ戻って、荒川高砂橋へ。丁度長瀞ライン下りが見え、今では和舟ではなくゴムボートで、4艘も下ってきた。荒川は増水しており、船頭はいないが、乗客全員救命具を着けている。

オミナエシに囲まれた真性寺 次はオミナエシ観賞に、近くにある真性寺へ向かう。秩父盆地は暑いとは聞いてはいたが、近隣の当地も風もなく汗が滲み出る。長瀞方向へ歩くと途中に寺への案内があり、石段を上がる。オミナエシが飛び込んで来て(写真下)、寺はオミナエシに囲まれていた。また本堂に詣でて、カメラに収めながら花の間を巡る。丈のある薄黄の花は満開で、見応え充分。境内ベンチに休憩し、持参した麦茶を飲んだ。
暑い中これ以上歩くのは止めようと決め、野上駅へと参道を出て踏切を渡り、大通りを歩く。歩きながら、長瀞町の中心は隣の長瀞駅付近ではなく、当地で、近くに役場や郵便局もあると気付く。寄居駅に下車し、晩酌用に、”白扇”を求める。故人となった先輩が好きだった寄居の地酒で、これまでも2,3度買って帰ったことがあった。(2018/08/29 K.K. 1205/1300)

□日時 2018/8/15 □天候 晴 □交通費 2.500円 □資料 長瀞観光協会「秋の七草寺めぐり」 □歩数等 9,000歩 6km
「通過時間等」自宅7:20-東武成増駅7:55-同小川町駅9:03-秩父鉄道寄居駅9:29-同野上駅9:50=多宝寺10:05=高砂橋10:15=真性寺10:30=秩父鉄道野上駅10:58-東武寄居駅11:34-同小川町駅11:53-同成増駅(昼食)12:50/13:10-自宅13:30

ゲリラ豪雨に逃げ帰った箱根山中

11時10分過ぎ、箱根山中の杉林の中の上りの山道を歩いていた。先程来、ぽつりぽつりと雨が落ち始め、遠雷が聞こえていた。鷹巣山への山道は大きな杉の根が露出して行く手を遮り、しかも段差が大きく(写真上)苦戦している。それでも、上部が開けて来て最高地点は近いなと思った頃である。辺りが急に暗くなり雨が激しく落ちて来た。そして雷音を伴い、近いようだ。慌てて、2人は雨支度。私は、ビニール合羽にザックカバーを付けた。しかし、雨は弱まる様子はなく、雷音も大きくなり傍のよう。引き返そうと弟を促し、Uターン。もう山道は川のように水が流れ出し激しく、根の段差は滝になっている。

 千条の滝は見物 本日は、箱根山中に千条の滝から飛龍の滝を巡ろうと弟を誘った。天気予報をチェックし、気温の高くない日にしたが、午後一時雨とあり、俄雨程度だろうと雨具も用意した。小田急線の事故で、小田原駅着は30分以上遅れてしまった。弟はバスと言ったが、私は強引に登山電車にし小涌谷駅から、10時25分に千条の滝を目指し歩き出した。国道1号を渡り、住宅街から保養所の前を通り、遊歩道を蛇骨川へ近付くと千条の滝は落ちていた(写真下)。幅広い岩壁を垂直に落ちる白糸の滝である。カメラに収め、木橋を渡り、浅間山ではなく楽な鷹巣山へのコースに入った。

 ずぶ濡れで小涌谷駅へ そして、30分程歩いた時、冒頭のゲリラ豪雨に遭ってしまった。逃げ帰るのも大変。懸命に下り続けるが段差の小滝はかわせず、水はあふれ、もう靴には水が入りズブズブ状態。雨も容赦なく降り続け、靴だけではなく、シャツから身体もずぶ濡れ。私の簡易合羽は何ら役に立たない。隣の蛇骨川は濁り水が激流となって走っている。先程は静かな清流であった。先日の広島地方の大雨被害もこんな状態だろうと想像できた。

無用であった雨具類 千条の滝前を素通りし、住宅街へ戻ったが、雨宿りするような食堂はなく、全身ずぶ濡れで、小涌谷駅へ駆け込んだ。着替えようとザックを開けたら、中の下着類もびっしょり濡れている。肝心のザックカバーは無用であった。防水が不完全というよりは、雨が激しかったのであろう。合羽にも昨日防水スプレーを吹き掛けたばかりだったが。下着の着替えは期待していたのでショック。弟の雨具はしっかりガードしたようで、たいしたことはないようだ。
登山電車で湯本駅へ下った。ずぶ濡れの私は車中では小さくなった。風呂に入ろうと駅裏のカッパ天国へ行き、温泉に浸かる。下着類は買えなかったが、一息付いて、何とか帰宅した。ずぶ濡れ引き返しは、長いハイキング経験の中で、初めてのことである。(2018/08/25 K.K. 1204/1300)

□日時 2018/8/12 □天候 曇り後豪雨 □交通費 3.040円 □資料 旅行読売出版「滝 湖畔 渓谷を歩く 千条の滝」2000年,74頁 □歩数等 12,000歩 9km
「通過時間等」自宅6:20-都営新宿線神保町駅7:05-小田急新宿駅7:28-同伊勢原駅8:45-同小田急小田原駅9:30-登山鉄道小涌谷駅10:25=千条の滝10:40=Uターン地点11:15=登山鉄道小涌谷駅12:00-小田急湯本駅(温泉)12:30/14:08-新宿線新宿駅16:20-三田線神保町駅16:33-自宅17:05

戸越に星薬科大植物園を訪ね、八幡宮へ

私のハイキング先情報源は、手許の資料のみならず、新聞やテレビ、ラジオも含まれる。四季の花情報は殆どマスコミに頼っていると言って良い。今回も、新聞から見付けた。東京地方版に、星薬科大植物園にアオノリュウゼツラン”30年に一度?待望の開花”(18.8.3朝日)の記事に出会い飛び付き、出掛けることにした。

 戸越から星薬科大へ 都区内地図で、星薬科大の所在地を調べると品川区内だが込み入った地で、分かりにくいようだ。都内の商店街から住宅街は縦横無尽に大小の道路が交差し、迷うことが多く、苦手なウォーキング。降りる駅を都営浅草線戸越駅とし、いつもの山勘で目指す外はない。三田駅で浅草線に乗り換えると、戸越駅は近く我が家から1時間強で着いた。
駅案内板で星薬科大を探すと、出口にも同大学の表示がある。地下から通りに出たら商店街で戸越銀座通り。賑やかな街だなと思いながら池上線戸越銀座駅脇の踏切を過ぎ、銀座通りもお終いになって、大通りとの交差点。中原街道とあり、方向から右折だろうと側道を進むと次の交差点が星薬科大前とあり、山勘も当たりキャンパス通りへ入る。正門の守衛室で登録し見学者カードを受け取り、植物園を教えて貰う。私と同じ見学者はチラホラといるようだ。

アオノリュウゼツランの花を見る 本館手前右が植物園。入園し奥へ進むと、新聞で見たアオノリュウゼツランはあった。丈が他より一段と高い、小杉風の植物がすくっと聳えている。原産はメキシコで、花は30年から50年に一度しか咲かないとある。近づき眺めると黄緑色で葉形の部分が花のよう(写真上)。確かに下部は、私も知る蘭である。先客の傍で、位置や角度を変えカメラに収めた。大学の研究用薬用植物園は、広くはないが温室もあり様々な植物が栽培されている。帰り掛けに桔梗やハイビスカスの花が目に付いた。因みに、アオノリュウゼツランは利尿剤用とあった。

 戸越銀座、同八幡宮 戸越銀座通りに戻り、歩き足りない分を歩こうと通りを行く(写真下)。往路で、再訪ではないかと気付いた。友人に当地出身の方がいて、”江戸の先で戸越という”と教えて貰ったことがあった。両側に様々な大小の店舗が並び続き、客も上下し、下町の銀座である。
戸越八幡宮の幟を見て、参拝しようと尋ねると、通りの先で遠いとの返事。戸越銀座駅の案内板には通りの右手にある。歩きながら、八幡宮も寄ったような気がして来た。銀座通り右手の坂、宮前坂を上がり左折すると、参道から本殿。軽く参拝したが、神社は何処も似たような建物であり、記憶も朧気ではっきりしない。あの時は戸越公園も巡った筈で近いならと、持参地図を見たが定かでない。戸越駅案内板にもない。諦めて、帰宅。記録から戸越銀座ウォークを探したが見付からない。しかし、今回の戸越は再訪に間違いないと思う。(2018/08/20 K.K. 1203/1300)
□日時 2018/8/9 □天候 曇り □交通費 シルバーパス □資料 昭文社「東京都市図 61武蔵小山」2004年 □歩数等 8,000歩 6km
「通過時間等」自宅9:00-浅草線三田駅9:52-同戸越駅10:10=星薬科大10:25/10:40=戸越八幡宮11:10=浅草線戸越駅11:28-三田線三田駅11:45-自宅12:30

青春18きっぷを使い吾妻線を往復する

先々月から乗り鉄を試して、まあまあと楽しんでいる。盛夏を迎え、ハイキングの季節ではなく、登山も簡単ではない。そんな中、列車の旅は車中は冷房が効き、特に真夏の時期には向いている。そして、青春18きっぷ利用をすれば良いのではと浮かんだ。最初の行く先はJR吾妻線の渋川駅から大前駅である。

 高崎駅乗り換え吾妻線へ JR赤羽駅で高崎線に乗車した。高崎駅乗り換えだが、事前の調べでは吾妻線発車まで僅か2分。隣のホームかなと楽観過ぎる予想もした。高崎駅に着き車内アナウンスがあったが良く聞き取れない。降りて隣を見れば大前行きの電車。山勘が当たり、ニンマリとし乗り込む。4両電車に八分の乗車で、発車。
吾妻線の長野原草津口駅から先は乗ったことがなく、今回終点大前駅迄の全線を乗り切りたい。吾妻峡谷を歩いた時川原湯温泉駅迄乗ったのが最新の吾妻線乗車歴(10.12.4)。
渋川駅で、上越線から分岐し、吾妻線へと入った。隣が金島駅。関東ふれあいの道の起点の駅で、2,3度乗降したことがある。山間の地へと進み、吾妻川が流れる谷内である。小野上温泉駅を通過し、温泉入浴に帰りに途中下車しようかとの思いが過ぎる。中之条駅に着き停車。吾妻線の中心駅のようで、大半の客が降車。私は、先月、Sさんの車で中之条から四万温泉へ来たばかり。次の群馬原町駅にも二度乗降した。岩櫃山や岩筆城跡がある。真田昌幸城主時代、原町は城下町として栄えたという小説を読んだことがある。

郷原駅を通過 郷原駅を過ぎる際、車窓からの眺め(写真上)に、以前も見た風景と思い出した。屋根に煙出しが付いた大きな農家は養蚕用であろう。頭上を見上げれば岩峰、岩櫃山か。慌ててカメラを出しシャッターを切った。当地出身の同期生がいて、”ゴウバラ”と濁ると教えてくれた。吾妻線は、八ッ場ダム工事区域を走った。8年前川原湯温泉駅に降りた時工事は中止していたが、その後再開されている。吾妻線の付け替え工事は継続し、現在は新線を走る。当然川原湯温泉駅も見覚えのない、新しい駅舎であった。

 初めての区間から大前駅折り返し 長野原草津口駅に着き、長い停車。若い頃職場旅行が盛んで、草津温泉にも数度泊まり、込み合うホームに列び乗車を待ったこともあった。駅付近を眺めると、記憶に一致する風景もあるよう。
初めての乗車区間へ突入し、知るのは万座・鹿沢口駅のみだが、山間の狭い地に数駅があり、駅周辺の山中に家がぽつりぽつりと見えるだけ。鹿沢口駅もほぼ同様だが、川の畔に商店も見えた。期待した浅間山は、目の前の山々が遮りとても望めない。
終点大前駅では引き返し迄駅前をウロウロ(写真下)。駅舎もなく、ダイヤは1日5本。川向こうの遠くに集落が見えるだけ。客はそのまま新前橋行きになった電車に乗り直し、私もその1人となった。(2018/08/16 K.K. 1202/1300)

□日時 2018/8/5 □天候 晴 □交通費 青春18きっぷ1/5 □資料 旅行読売「ひとり旅 吾妻線」2010年、121頁、□歩数等 2,000歩 2km
「通過時間等」自宅6:15-JR板橋駅6:50-同赤羽駅7:10-同高崎駅8:53-同大前駅10:38/11:00-同新前橋駅12:40-同高崎駅13:14-同赤羽駅14:45-三田線新板橋駅15:00-自宅15:30

四万温泉からキスゲ咲く野反湖

未だ8月前なのに猛暑が続き、ハイキング先の選定に苦労している。今回は、渡良瀬渓谷鉄道に乗り涼風を楽しもうと計画したら、群馬の当地は39℃という予報を見て、急遽Sさんにコース変更をお願いし、了承を得た。四万温泉の摩耶の滝を思い付き、35℃とある。Sさんのご厚意に感謝しながら、車で高島平を出発した。

 四万温泉摩耶の滝 車は関越高速を走り、渋川ICに降りて一般道を吾妻へ向かう。昨年訪ねた箱島湧水の近くを通り、中之条で山側へ右折し、結構走って四万温泉の先、日向薬師堂近くの駐車場に着いた。四万温泉は、東京でも知られた山ノ湯だと思うが、チャンスがなく初めて。思ったより山深く、広い温泉地のよう。摩耶の滝は、湯治客が散歩にも眺められる直ぐ近くにあると思って来たが、渓谷の奥の案内。沢に沿い出入りのある山腹に切られた遊歩道で、距離がある。約30分で到着し、激流が落ちている(写真上)。この時期夏枯れかなと心配したが、道が濡れ昨夜雨であったようである。Sさんも着いて、一休み。休憩舎には先客もいた。遊歩道を戻ると、往路では気付かなかったが結構下り坂。突然前方を猿の家族連れ10頭程が山から出て来て、谷へと降りて行った。山で猿に出会うことは希ではないが、近くで多数を見るのは初めて。一瞬襲われたらと心配してしまった。車で、四万温泉街を半周し、グランドホテル近くの河原に共同浴場を見付け、入浴。熱い温泉で、私は汗を流して出た。

暮坂峠を越す 未だ12時前で、Sさん、もう一箇所回ってくれるという。先程暮坂峠の標識を見て、一度歩いたことを思い出し(10.12.5)、再訪も良いと提案したら、Sさんは湖が念頭にあるようで、野反湖と分かる。カーナビで検索し、約50㎞、1時間程と出た。ニッコーキスゲの花期かもしれないと、期待しお願いする。沢渡温泉を過ぎ暮坂峠へのコース。以前私は中之条駅前から沢渡温泉迄はバスで、そこから徒歩で往復した。計4時間程歩いたろうか。車は速く、牧水会館を左に見て、最奥の集落から山坂をくねると峠上で、Sさんに峠に建つ若山牧水像を紹介した。

 キスゲが乱れ咲く野反湖へ旧六合村へ入り、奥へ奥へと進むと下る対向車が多い。キスゲ見物かなと期待半分。野反峠に降り、眼下に湖を展望(写真下)。キスゲはあるがそれ程ではない。涼風の中、草原へ分け入るに従い、キスゲの群落に出会う。それも満開。カメラが忙しい。花友用に携帯にも写す。Sさんも感嘆のよう。コオニユリやハクサンフウロも咲いている。最後は咲き始めたヤナギランやシモツケソウも見付けた。ビジターセンターで、遅い昼食後、帰路に就く。思い掛けなく、乱れ咲くキスゲの群落に出会い、Sさんのタイムリーな案内に感謝である。有り難うございました。(2018/08/11 K.K. 1201/1300)

□日時 2018/7/22 □天候 晴 □資料 旅行読売「滝 湖畔 渓谷を歩く 摩耶の滝」31頁、野反湖休憩舎「ハイキングマップNOZORIKO」 □歩数等 11,000歩 8km
「通過時間等」自宅・高島平7:20-四万温泉10:00-遊歩道入口10:05=摩耶の滝10:35=遊歩道入口11:10-河原の湯11:30/11:55-野反湖13:10/13:50-高島平・自宅17:55

富士山五合目を歩いて1200回へ

私の山歩き里歩きも1200回の区切りを迎えた。車で千葉麻綿原も検討していたが、最近の大雨で通行止めがあり、急遽行き先を変更した。二日前、富士山五合目行き高速バスが予約できた。富士登山は無理でも、山麓の五合目を歩いて山歩きの雰囲気に浸り、展望を楽しみたい。単身でも大丈夫だろうと出掛けた。

 五合目からお中道を歩く 三連休の中日、高速バスは、都内から混んで渋滞にはまり、中央高速へ入るのに時間を要し1時間以上遅れ、五合目登山口に着いた。富士登山以来である(00.7.28,29)。登山者で賑わい、外国人が多いのは最近の傾向だろう。情報を収集し昼食を求め、近くの小御岳神社に安全をお願いし、階段からお中道へ上がってスタート。富士のお山は雪はなく、黒い岩肌の大きな姿が頭上にある(写真上)。標高2300mなのに暑い位。
カラマツやダケカンバ樹林帯の中の平らな石畳の道。登山口とは一転して静かで、希に上がって来るグループには遭うが下るのは私のみ。両側には白い石楠花が途切れながらも咲き続き、綺麗。林が切れ下方が見えるが雲があり遠望はなく、南ア迄は見えない。砂礫に覆われた箇所が時々現れ、崩落箇所だろうか。靴がめり込み歩きにくい。
裸の富士は望めるが、登山者の列までは確認できない。象の足に取り付いた蟻の程度だろう。そんな風景を繰り返しながら、お中道を行く。また家族連れや女性軍と交差したが、五合目迄かそれとも山頂目指しているのか。時々車の騒音が聞こえ、下のスバルラインと並行しているのだ。

 御庭から奥庭へ そろそろ1時間近くなり、周囲の木々の丈が低くなり、右下に建物の屋根が見え出し、御庭と呼ばれる地域に入ったようだ。この辺りは森林限界地で、過去の小噴火口が点在するらしいが、今では分からない。右方へ下り始め、急坂もあり、持参したストックを使いながら慎重に下り続ける。スバルラインを横断する際、バス停がありバス時間を眺めて、奥庭へ下る。天狗の遊び場と呼ばれるとある。売店があり、その脇でカメラを構えた男女10人程が一点に集中しているよう。私もその方向へ目を向けたが分からない。鳥には違いなく、後にルリビタキと資料にあった。

河口湖駅に下山し1200 売店前から天狗岩を見て、展望台へ上がる。旧噴火口という。お中道からの姿とは違う富士が正面に現れ、カメラに収めた。コニーデ型の裾は長く引き美しい(写真下)。旧火口に沿い遊歩道を一回りし、急坂を上がりバス停へ。バスが直ぐ来て、乗車。満員で中へ入れない儘、スバルラインを下り、河口湖駅で富士急電車に乗る。こちらはラッキーにも高尾から新宿直通の快速で、席も確保。一息入れ、1200回達成をメール。そうしたら長女から、”子供の頃、五合目に行ったね”と返信があった。あの時子供達は乗馬したと思い出した。今回も五合目に馬10頭程が繋いであった。(2018/08/06 K.K. 1200/1200)

□日時 2018/7/15 □天候 晴 □交通費 6,300円 □資料 山と渓谷社「首都圏ハイキング’97年秋冬 お中道から奥庭へ」112頁 □歩数等 14,000歩 10km
「通過時間等」自宅6:40-新宿線神保町駅7:16-バスタ新宿9:05-富士山五合目13:15=御庭分岐14:20=奥庭展望台14:38=御庭バス停14:53-富士急河口湖駅16:00-京王線高尾駅17:31-三田線神保町駅18:45-自宅19:20

暑さ避け井の頭公園から武蔵八幡宮を歩く

未だ7月半ばなのに猛暑が続き、ラジオからは熱中症注意の放送が頻りに流れる。そんな中、ハイキングは、1200回目前になり、少しでも涼しいコースをと渓谷や川辺、森林の中とか思い巡らしたが、中々浮かばない。井の頭公園の玉川上水が流れる両側は深い樹林帯であったと思い出した。二度ほど歩いたが、最近はご無沙汰である。未訪の武蔵八幡宮も近いようだ。

 井の頭線で井の頭公園へ午前中に歩き切ろうと早めに出掛け、京王線明大前駅から井の頭線に乗り換えた。同線は初めてではないが何時かは思い出せない程前のことで、車窓の景色も新鮮。杉並の高級住宅街だろう。井の頭公園駅に下車すると直ぐ右手が公園。池を中心に周囲には木々が多い。散策者達と交差しながら、細長い池の上流方向へ行く。ようやく見覚えのある池風景に出会い、回り込むとお茶の水井戸。家康達も汲んでお茶を点てたという。神田川の源泉である。現在は地下水を汲み上げているとある。池中の弁天様にお参りし、孫達の進学を報告しお礼を申し上げた。池辺を出て、目指す森林地帯へ。

林の中の玉川上水 思い出の林は、静かに広がっている(写真上)。陽は届かず、風はないが暑くはない。その下には散策路が縦横に巡り、武蔵野の面影を残している。玉川上水へ近づき、先ずは下るが、流れは少ない。以前、桜桃忌頃、太宰碑を探し上水を上下したことがあった。未だ多摩南大沢キャンパスに通っていた時だから、約10年前になろうか(05.6.17)。ほたる橋から下り幸橋でUターンし、万助橋へと戻る。

自然文化園で鳥達を見る 吉祥寺通りを渡り、隣の井の頭自然文化園へ入園。カブトムシや昆虫のいきもの広場を覗こうとしたが、日曜日のみの開園らしい。野鳥の森があり、籠内だがふくろうや雉、ハヤブサがいる。ヤマドリは初めて見た。赤っぽい色をしている。子供の頃、近所の狩猟をやる方から聞いてはいたが、見るのは始めて。そんなに大きくはなく、狩りの対象とは思えない。日本リスもいた。湘南地方ハイキングでは台湾リスは良 く見掛けたが、それよりは小さめで細身。檻内を駆けめぐっている。半周して退園。

 武蔵八幡宮参拝 また吉祥寺通りを歩き、JR中央線高架下から商店街。途中、案内図で武蔵八幡宮の位置を確かめると、三つ信号を渡り、通り右側蓮乗寺の先のよう。交差点を数えながら渡ると寺があり、その向こうに境内らしき垣根が見え、武蔵八幡宮であった(写真下)。私の予想とは違い、シンプルな神社で、境内も広くはなく、本殿も私には歴史は感じさせない。手許の資料には、789年坂上田村麻呂が宇佐の八幡大社から分霊し創建したとあり、それなりの古社の雰囲気などを期待していた。また手を合わせ、孫達へのご加護をお願いした。吉祥寺駅へ戻る。駅前の繁華街に驚きながら、駅舎の中で、井の頭線ホームを探した。  (2018/08/01 K.K. 1199/1200)

□日時 2018/7/12 □天候 曇り後晴 □交通費 400円 □資料 山と渓谷社「首都圏ハイキング1999年秋 井の頭公園」76頁 □歩数等 13,000歩 9km
「通過時間等」自宅7:50-新宿線神保町駅8:35-井の頭線明大前駅8:59-同井の頭公園駅9:20=井の頭公園9:25=お茶の水井戸9:35=ほたる橋9:45=幸橋9:55=万助橋10:05=自然文化園10:10/10:35=武蔵八幡宮10:55=井の頭線吉祥寺駅11:12-京王線明大前駅11:31-三田線神保町駅11:51-自宅12:25

羽州路に紅花を眺め、象潟に芭蕉を辿る

秋田での行き先は、男鹿半島や角館があるが若い頃一度訪ねている。象潟は未訪で一番の候補地だが、アクセスが良くない。秋田新幹線でも秋田駅経由だし、新潟駅からは羽越本線で北上だが遙か先である。実家帰省を利用し、象潟を目指すことにした。それでも、新庄駅、余目駅で乗り換え約3時間掛かる。朝7時前に駅へ送って貰った。

 鳥海山から象潟 酒田駅で秋田行きに乗り換えた。鳥海山の裾で日本海沿いに電車は走る。私は高校時代吹浦駅迄は来たことがあるが、その先は初めての地。出羽富士鳥海山は大きく、海側へ長く裾を引いているのが先程庄内平野から見えた。羽後秋田へ県境を越してその裏側へ入り、山姿は益々大きくなった。思ったより海は離れ海岸縁ではない。象潟駅に降りたのは2人で、私は、駅前案内図で、九十九島と蚶満寺へのルートを確かめ、市内へ。大通りを右折し踏切を跨いだら、九十九島が広がり、右手にはまた大鳥海山が聳えている。 芭蕉が訪ねた時(1689元禄2年)は入江の浅瀬に浮かぶ小島群の名勝地だったというが、その後1804(文化元)年地震で隆起し、水田の中に松がある塚山のようである。カメラに収めたが、鳥海山上部には雲が掛かり、残念。
蚶満寺は見えない。地元の方に尋ねたら未だ先で、線路沿いに回り込むと、古刹の広い境内であった。参道左手に芭蕉像が建つ(写真上)。芭蕉は、羽前山形の羽州街道を歩き、新庄先の本合海からは舟で最上川を下り、羽黒山、月山に寄り酒田を経て羽後の象潟であったと思う。奥の細道最北の地で、”象潟や 雨に西施が ねぶの花”と詠んだとある。シャッターを切り、山門から本堂前へ進み、参拝した。参道からの風景が九十九島らしく(写真下)、またカメラを向けた。秋田行きの特急には間に合わず、次の新潟 行きの特急へと予定を変更し駅へ戻った。

 紅花畑、羽州街道六田宿 前日、同級生で本記録の読者Aさんに、天童紅花まつりから羽州街道六田宿を案内して貰った。山間の畑に紅花は咲き始めたばかりのよう。カメラを片手に紅花の間を巡った。本場山形の紅花は初めてだが、以前桶川で見た花と同じものが一面栽培され黄色い花の中に、ぽつりぽつりと赤味の濃い花が混じる。満開を迎えたら、全体が赤味を帯びるようだが少し先か。
市内を貫く羽州街道、現国道13号を天童から東根へ向かって貰う。途中神町の松並木で止めて貰い、5本程の松並木をカメラに収めた。東根四谷付近にも松並木はあったが一本のみになってしまった。そして六田へ入った。芭蕉が尾花沢の鈴木清風宅滞在中、山寺立石寺へ往復したのが紅花が咲く羽州街道で、六田宿での芭蕉の記録も残る。その縁で、芭蕉像と石碑があり、その時詠んだ、”まゆはきを 俤にして 紅粉の花”の句が刻んであった。Aさんお世話様でした。お昼と麦酒もご馳走様でした。また感謝です。(2018/07/28 K.K. 1198/1200)

□日時 2018/7/3 □天候 晴 □交通費 大人の休日倶楽部パス2 □資料 日本海きらきら羽越観光圏推進協議会「象潟駅」、「第31回 おくのほそ道天童紅花まつり」 □歩数等 11,000歩 8km
「通過時間等」実家6:40-JRさくらんぼ東根駅7:16-同新庄駅8:12-同酒田駅9:35-同象潟駅10:15=九十九島能因島10:20=蚶満寺10:40=JR象潟駅11:27-同新潟駅14:13-同上野駅16:00-三田線巣鴨駅16:19-自宅16:50

宮古から釜石へ被災地をバスで走る

昨日、青森から八戸線、三陸鉄道北リアス線で、午後7時過ぎ岩手の宮古へ入った。本日は、釜石から花巻へ出る予定。釜石から、更に南リアス線で大船渡から気仙沼を回ることも考えたが、迂遠であるほかに過疎ダイアで、難しいと分かった。夕方遅くない時間迄、山形東根の実家に着きたい。

 代行バスで復興の地へ 現在、宮古駅から釜石駅へのJR山田線は未だ不通の儘で代行バスが走り、昨日宮古駅で確かめた。朝、宮古駅前(写真上)でバスを待った。バスは道の駅やまだで乗り換えという。駅は浄土ヶ浜へ出た時利用した筈だが見覚えがない。
宮古市街を出ると右手に単線の鉄路が見え出した。山田線で、心なしか錆びているように見える。津軽石から山田へ入ったようで、途中には工事中の高い防潮堤があり、また反対側には共同住宅が建ち仮設のものか。山田駅前では、駅舎は崩れ流されてない。広場には、臨時に建てた共同店舗がその儘に見える。左手は湾で、市街地と高さに違いはなく、これでは、被害が激しかったのは窺える。湾には、筏が浮かび、牡蛎の養殖は再開しているのだろう。そんな中バスは走り、道の駅に着いて、釜石行きに乗り換える。大槌付近では、広い更地に新しい住宅がポツンポツンと建ち、周囲に庭や花壇はなく砂礫のように見え、復興半ばである。

釜石線に乗車 バスは釜石に着いた。初めての地で、当地方の都会に見える。駅前には、製鉄所の大きな工場が占めている。ラグビーで有名だが、私の若い頃はバスケ部もあったようで、就職した高校の先輩がおられた。駅前で買い物をし、釜石線へ乗車。この線の花巻駅から遠野駅迄は一度乗ったことがある。震災の翌年で、所内旅行先を被災3県とし、買い物をして支援しようというのが事務所の目的で、私も、補助を受け目一杯岩手産品を買ったことを覚えている。
 花巻駅に降り城跡やイギリス海岸へ寄ろうかとも考えていたが、暑くて炎天下歩くのは止め、終点盛岡駅へ出た。車内で、さくらんほ東根駅へ路線検索をしたら、北上線で横手駅へ出て新庄駅から山形新幹線との経路も出た。私は陸羽東線を想定していたが大分時間差がある。乗り換え時間の長短の差で、北上線は初めてであり、飛び付いた。

復興弁当を求め北上線へ 東北新幹線を北上駅に降り、北上線へ乗車。乗り換え時、弁当とカップ酒を求めた。なんと東北復興弁当で(写真下)、6県産の素材を使用した郷土料理品を盛り合わせたもの。山形県の中には、故郷東根の枝豆漬けがあり、実家の近くで私の1年先輩がやっている漬物屋のものとある。北上線は県境では長く山中を走り、秋田へ越して下りに入った。横手駅での奥羽本線への乗り換えもスムーズで、新庄駅で、17時過ぎの山形新幹線に乗れ、実家へ連絡した。        (2018/07/25 K.K. 1197/1200)

□日時 2018/7/1 □天候 晴 □交通費 大人の休日倶楽部パス2 □資料 「三陸鉄道時刻表」2018年3月現在 □歩数等 5,000歩 3km
「通過時間等」宿泊先7:20-JR宮古駅前7:35-道の駅やまだ8:58-JR釜石駅10:11-同盛岡駅13:07-同北上駅13:40-同横手駅15:01-同新庄駅17:12-同さくらんぼ東根駅17:50-実家18:00

八戸根城跡、八戸城跡そして宮古へ

東北も青森や岩手、秋田行きを予定し、八戸は直ぐ決まった。城跡があり、その見学をしたい。その後は三陸海岸を回ることにした。ラジオから、”旅行することも復興支援になる”と聞いた。何か出来ないかと思うこともあったが、旅行なら出来ないことはない。この目で、災害地やその復興状態を確かめるのも、いずれか役立つかもと考えることにした。

 中世の城八戸根城跡 東北新幹線はやぶさは速い。上野駅から3時間弱で八戸駅へ着いた。案内所で、八戸根城跡へは徒歩では遠く、バスを勧められた。教えられたバス停で降りると八戸博物館が見付かり、入口に建つ築城者南部師行の騎馬武者像を眺め、根城跡へ。
当城は、丘陵に築かれた中世の城で、壕、土塁、木柵、平屋建てで石垣はない。復元された中世城は珍しく、私は信濃の荒砥城跡だけである(07.3.18)。カメラに収めながら、木橋を渡って坂を上がり、柵の門から奥の本郭跡へ入った(写真上)。復元主殿へ入館し、一回り。シンプルな館は、各間も並ぶが広くはない。広間では正月の儀式の様子を人形で再現していた。外には鍛冶工房や倉庫、納屋、馬小屋もある。根城は、南北朝時代、陸奥国司になった北畠顕家に付いて、甲斐国から来た国司代南部師行が築き、約300年続いたが、南朝方の衰退に連れ根城南部氏の勢いが弱まり、他方、同族系の三戸城の南部氏が、豊臣時代秀吉にいち早く従ったため、当地含めて支配領地が安堵され、後の盛岡藩南部氏へと繋がり発展した。そして根城南部氏は遠野へ転封され、盛岡南部氏の支配下になった。そのため、当城は中世城郭の儘廃城になったという。

 小さな八戸城跡 広い城跡を半周し、またバスで八戸駅へ戻って八戸線に乗り、本八戸駅で下車し駅前に三八城公園を探す。こちらは江戸期からの八戸藩の城があった地。先の根城南部氏の遠野転封後、盛岡南部氏の俊直が築いた。駅前高台にあり、現在では本丸跡のみで、小さな公園。中心に初代城主南部直房像があった。隣の社に参拝すると、大きな弁慶石があり、義経の北方(蝦夷)行き伝説が説明してあった。

 三陸鉄道北リアス線に乗車 八戸線乗車を継続し三陸沿岸へ。八戸市の中心は八戸駅や本八戸駅よりは先のよう。太平洋が見え出し種差海岸を通過して、久慈駅到着。待ち時間があり、地元ストアで弁当とカップ酒を求め、三陸鉄道北リアス線へ乗り込む(写真中)。2両列車は直ぐ山中を走る。リアス式海岸の高い位置のようで、入江風景を繰り返す(写真下)が、海面や浜を見下ろす車窓風景。これで、先の震災の被害は少なく、早めの運行再開が出来たのだろう。田老駅に停車。約30年前、宮古の浄土ヶ浜からの遊覧船寄港地で、ここで上陸し龍泉洞行きバスに乗ったのだったろう。終点宮古駅に着き、隣のJR駅で、明日の釜石行きの情報を得て、駅先のホテルへ向かった。(2018/07/23 K.K. 1196/1200)

□日時 2018/6/30 □天候 晴 □交通費 大人の休日倶楽部パス2 □資料 春風亭昇太「青森県八戸市根城」大人の休日倶楽部掲載 □歩数等 14,000歩 10km
「通過時間等」自宅7:40-JR上野駅8:46-同八戸駅11:52-八戸根城跡12:00/13:23-JR八戸駅14:25-同本八戸駅14:35=八戸城跡14:45/15:00=JR本八戸駅15:24-三陸鉄道久慈駅17:30-同宮古駅19:02=宿泊先19:20

郡山から水戸へ水郡線を乗り切る

大人の休日倶楽部パス最終日、迷わずJR水郡線乗り鉄にした。何故か一度は水郡線を乗り切りたいと思っていた。東北線で郡山駅や常磐線で水戸駅を通過する際、目に付く機会が多く身近に感じていたのかもしれない。全く無縁ではなく、水戸駅から袋田駅迄や常陸太田駅迄は乗車したことがある。今回は、東北新幹線で郡山駅へ向かった。夕方虎ノ門で会合があり、先に遠い郡山駅からにした。

 郡山駅から磐城石川駅を通過 新幹線を降り在来線ホームで、水郡線常陸大子行きに乗る。次の安積永盛駅迄は東北線を利用し、同駅からが正規の水郡線というが、名前と一致しないと思う。気動車は東南の方向へ走り続け、水田地帯でもなく山間でもない、その中間のような山里風景の中を進む。時々迫る両側の樹林帯の緑は深い。小さな無人駅に停車するが、殆ど乗降はない。
磐城石川駅に停車。えっ、ここが石川、学法石川高校は当地にあるのかとスマホ検索。同校は、特に高校駅伝で台頭し、監督に、中大OB松田和宏氏(山形出身)が就任し注目している。福島の高校とは知っていたが水郡線にあったのだ。こんな山中で、選手達は集まるのだろうか。駅周辺も山が迫り出し、県立高校もあるらしいが学校風の建物も見えない。少し先が磐城棚倉駅。江戸時代棚倉藩が置かれ当地方の中心地だろう。車窓からの眺めも盆地の街らしい。城跡らしき地を探したが見付からない。遠隔の地で、私の城跡探訪の候補にもなったことがない。

県境を越す 福島県は広く、未だ茨城へ至らず、阿武隈台地の裾を走り続け、反対側に八溝山地が見え始めて、ようやく県境の地。奥久慈清流ラインという本線の愛称通り、久慈川が見え出した。矢祭山駅から常陸大子駅で、茨城県へ入った。山峡の街で、目の前が高い山で、眼下は渓谷。川では竿を振っている釣り人が見え、鮎釣りだろうか。この辺りの栃木県側が、今春訪ねた雲巌寺(18.4.8)の筈と思い出した。
 常陸大子駅で、水戸行きに乗り換え。時間は僅かで、待ち時間に大子で食事もと考えていたが、残念だがそんな余裕はない。隣が袋田駅、ここは袋田の滝ハイキングに来て二度目だ(07.5.3)が、記憶にある風景はない。久慈川に絡んで走る。沈下橋が見え(写真上)、走る車窓からシャッターを切ったが写り具合どうだろう。自信はない。

水戸駅へ 常陸太田駅付近を過ぎ山を抜けたようで、やや広い家並みの地が見え始めた。上菅谷駅からは水郡線支線が常陸太田駅へ分かれている。黄門様の西山荘見学の際乗ったことがある(10.6.27)。水戸市内へ入ったようで、住宅街が続き、那珂川鉄橋を渡り、水戸城の深い空壕跡の底地を下って水戸駅に着いた。私は、駅前広場へ出て、黄門様一行の像(写真下)をカメラに収め、水郡線乗り鉄記念にした。     (2018/07/19 K.K. 1195/1200)

□日時 2018/6/24 □天候 晴 □交通費 大人の休日倶楽部パス □資料 大人の休日倶楽部「さくいん地図(東北地方、関東・甲信越地方)」 □水郡線 45駅 137.5km
「通過時間等」自宅9:15-JR上野駅10:18-同郡山駅11:59-同磐城石川駅12:47-同常陸大子駅13:51-同水戸駅15:53-同東京駅17:15-同新橋駅17:20-虎ノ門17:50

大河を眺めながら飯山線で越後川口へ

最近遠出が続いている。裏磐梯、群馬松井田、そして北海道である、歩きは大したものではなくとも連続すると疲れが生じ、年齢もあり、中々抜き切れない。そんなこともあり、乗り鉄を考えた。山間や海辺のローカル線、各駅停車、無人駅を巡るのんびり旅である。これまでも記録の中から、”鉄道の旅編”とし纏め、業界誌に掲載して貰ったこともある(LES2017,6)。長野へ出掛けた際、JR飯山線で、最初の経験をすることにした。

 飯山線乗車 長野駅12時34分発、飯山線十日町行きに乗車。2両の気動車は、そこそこの乗客で長野市郊外から果樹園地帯を走る。豊野駅迄は、旧信越線(現しなの鉄道)と一緒の線で、同駅を過ぎ飯山線単独になり、飯山駅に着く。北信濃の中心で、最近は北陸新幹線の駅が出来た。私も、斑尾から戸隠高原を巡った時降車したことがある(16.5.14)。北飯山駅手前で、右手車窓に高い林を眺め、もしやとスマホで調べると飯山城跡のようだ。同城跡を訪ねて、飯山は寄ったことがある(94.4.24)。この時、津南駅から飯山駅迄飯山線に乗車し、この度はそれ以来で、全区間である。

 千曲川から信濃川へ 右手に大河が見え出し、千曲川。川幅一杯にして流れ(写真上)、梅雨の時期だからだろう。一度水田地帯になり川から離れたが、山間に至るとまた並行し流れている。前方には高い山々が連なり、川が越後へ抜ける谷間はあるのかなと思う程だが、自然に心配はいらない。
途中、戸狩野沢温泉駅へ至り、有名な温泉地だが、冬はスキーも盛んだと思う。雪が深い地で、それは車窓から見える家々からも窺える。シンプルな四角形の箱形で、屋根の傾斜が急である。これが新潟へ入ると、玄関が階段で、壁が板製になる。停車した森宮野原駅には、JR駅最高積雪7.85mの記念標柱があった(写真中)。この辺りで既に新潟県と思っていたが、未だ長野県で、次の足滝駅からでその後は越後・・・駅になって、顕著である。
大河も、両側に石原が広がる河原の中心を流れ、水量も少ないように見える。最近、新潟県へ入ると信濃川と呼ぶと知った。私は、千曲川と犀川とが合流して、その後は信濃川と思っていた。長野県出の家内からそう聞いたと思う。

 十日町、そして越後川口 十日町駅に到着し、越後川口行きに乗り換えた。時間があり、地酒をと売店を探したがない。私の乗り鉄のお供、カップ酒が叶わない。未だ未だ山間の地で、時々信濃川が左手に覗く。処が、長い鉄橋を渡って、飯山線の終点越後川口駅であった(写真下)。渡ったのは信濃川ではなく魚野川と知る。上越線に乗り換え、長岡駅で新幹線に飛び乗り、ようやく地酒を求めることが出来、最初の乗り鉄旅を思い返しながら、新幹線車中になった。(2018/07/17 K.K. 1194/1200)

□日時 2018/6/24 □天候 晴 □交通費 大人の休日倶楽部パス □資料 大人の休日倶楽部「さくいん地図(関東・甲信越地方)」□飯山線 31駅 96.7km
「通過時間等」JR長野駅12:34-同津南駅14:34-同十日町駅14:58/15:21-同越後川口駅15:50/16:05-同長岡駅16:33-同上野駅18:05-三田線巣鴨駅18:15-自宅18:45

しなの鉄道で小諸城跡から碓氷峠を訪ねる

今年度2度目のJR東日本大人の休日倶楽部パス利用時期になった。1月末の1度目は大雪で利用を断念した。何処を歩こうか、何処へ行こうかと思い巡らしていたら、偶々軽井沢行きに重なった。4日間の内前半2日は、北陸新幹線で長野方面行きとする。新幹線の指定も出来るので、便利で利用し易い。

 雨で小諸城跡へ 先発組は上野駅から出発した。雨の予報で、高崎を過ぎると雨模様。夕方まで時間があるので、先に小諸城跡見学にしたいと伝えて、了承を貰った。城跡巡りなら傘を指しながらも出来、小諸城跡は駅から直ぐである。新幹線で佐久平駅迄行き小海線に乗り換え、終点が小諸駅。渡線橋を上下し城跡、懐古園へ。城跡内併設の記念館等もと入場券を求めた。
重厚な三の門(写真上)や左手の石垣を眺め、野面積みの大きな石に驚く。特有のクランク的に曲がる城内通路から壕切を渡って本丸跡。その前に藤村記念館へ。藤村は一時、千曲川旅情のうたで知られるように、当地にあった小諸義塾で英語等を教えていた縁で、遺品や関係資料が展示されている。熱心な見学に、時間がないと急き立てながら、本丸跡奥の旅情の詩碑から水の手展望台を案内。眼下に千曲川が流れ、同行者景色に感心する。私は、ダムが邪魔だと思う。

史料館、記念館 雨が降り出し傘を広げ、天守台下から懐古神社に軽く詣で、史料展示の懐古館に入館。武具から書簡まで色々あるが、目に付いたのは、幕末に起きた小諸藩牧野家お家騒動に、本家筋長岡藩から河井継之助がやって来て、解決したとある。小諸義塾記念館も覗く。明治26年創設の私立中学という希有な学校。教育県長野らしい。その隣に、”惜別の歌歌碑”があった。藤村作であるが、この歌は何故か中央大学の学生手帳にも掲載されている。作曲者藤江英輔が戦争末期中大在学時に作り、送別時学生間で歌い継いだらしい。駅へ戻り、集合時間もあり、しなの鉄道で直接軽井沢へ。旧信越線である。

 バスで碓氷峠へ 翌朝は晴天。近くのバス停から碓氷峠行きに乗車。別荘地帯を通り旧中山道を走り、峠に降りて、熊野神社へ石段を上がり、参拝。石段が県境で、左が長野、右が群馬とある。境内に聳える古木科の木は、旧国名信濃の由来らしい。群馬方面を眺め、東征の折の日本武尊の嘆き、”吾嬬者耶(あづまはや=愛しき我が妻よの意味)”伝説の案内を読んだ。
少し歩いて見晴台へ。正面の鋭く連なる岩峰は妙義山(写真下)。富士が見えるという右手へ進んだが、手前の八ヶ岳だけ。更に右奥に浅間山が姿を現しているが、異様な黒色の活火山に皆驚く。またバスで駅へ。私は、攻めて復路は歩きたいと思ったが、団体行動では仕方がない。駅で、帰京するメンバーと別れ、長野行きに乗車した。(2018/07/11 K.K. 1193/1200)

□日時 2018/6/23,24 □天候 小雨、晴 □交通費 大人の休日倶楽部パス、1,280円 □資料 小諸市懐古園事務所「懐古園」 □歩行距離 6km 9,000歩/7km 10,000m
「通過時間等」自宅10:00-JR上野駅11:10-同佐久平駅12:28-同小諸駅13:00=小諸城跡13:10-小諸義塾記念館14:20-しなの鉄道小諸駅14:57-同軽井沢駅15:30=宿泊先15:50
 宿泊先9:00-碓氷峠バス停9:20=熊野神社9:30=見晴台9:40=碓氷峠バス停10:10-JR軽井沢駅11:03

茨城の守谷四季の里公園に菖蒲を観賞する

茨城守谷の四季の里公園ガイドは数年前に入手していた。菖蒲や紫陽花が咲くという。守谷は、茨城でも南部でそう遠くはない。最近遠出が続き、丁度良いとガイドを探し出した。問題は花期内か否かである。いつものアバウト感覚で、出掛けた。守谷はつくばエクスプレス線で、都内から一直線である。

 小さな四季の里公園 三田線春日駅で大江戸線に乗り換え、新御徒町駅でつくばエクスプレス線に乗車。折良く快速が来た。守屋駅で、観光案内所を探したがなく、駅で尋ねるとバスを勧められた。歩くつもりであったが、帰りに歩けばよいと割り切り、バスに乗車。バスは、アサヒビールの工場方向へ走る。この工場は20年以上前だが一度見学に来たことがある。四季の里公園入口バス停に着き降りたが、郊外も畑地が広がる地で、方向が分からない。公園への案内板を見付け、大きな倉庫沿いに行くと、公園はあった。
思ったよりちいさな公園だが、ハナショウブが咲いている。中心にある四阿屋の周囲の湿地帯に花々は広がっている(写真上)。早速近付いて、カメラに収めながら外側の遊歩道を巡る。花は盛りのようで、見頃。ブルー系の花に白色が混じるが、赤や濃紫系はなく、温和しい感じ。一回りし、全体図を見たく、管理事務所や案内板を探したがない。そのような公園ではなく、何処でもある大きめの町内公園程度か。手入れ作業中の方はいる。奥の土手下に紫陽花を見付け観賞するが、満開だがこちらも僅かな本数。都内まで配るガイドに掲載される花園情報だから、それなりの規模の公園と思いがちだが、それは私の勝手で、そんなことはない。最後にまた遊歩道を半周し、土手の階段を上がり、徒歩で駅へ戻ることにした。

 蕎麦畑に出会う 住宅団地の中、右手に往路のバス通りを見ながら進むが、そちらへは抜けられない。大回りし反対側の大通りへ出て、右方向へ歩き、途中のバス停で駅方向かを確かめる。
畑地になり、一面に咲く白い小さな花は蕎麦の花(写真下)。この時期この地は珍しいのでは。私の乏しい知識では、初秋の頃、山里での作物と思っていた。畦道へ入り、2,3度シャッターを切った。10割蕎麦の案内があり、その蕎麦店用だろうか。
歩きながら、当地から通っていた旧同僚を思い出した。あるプロジェクトでお世話になったシステムエンジニアで、コンピュータ知識の外、同年齢でもあり気が合い良くヘボ将棋を指した。つくばエクスプレスがない時代で、常磐線北柏駅へ車で出ておられたようだ。最近は年賀状の交換も絶えていたが、ある名簿で引っ越されたと知った。
常磐高速を高架橋で渡り、高いビルを見付け、そのビルを目標に歩き続け、市役所と思っていたら病院であった。その後も山勘も当たり、ほぼ直線的に守谷駅前に到達し、帰路に就いた。(2018/07/08 K.K.1192/1200)

□日時 2018/6/18 □天候 曇り □交通費 1,840円 □資料 「花と寺社めぐり 四季の里公園」2015年,4頁 □歩行距離 9km 12,000歩
「通過時間等」自宅8:30-大江戸線春日駅8:37-つくばエクスプレス新御徒町駅8:51-同守谷駅前9:30-四季の里公園入口9:45=四季の里公園9:50/10:05=市役所前10:45=つくばエクスプレス守谷駅11:17-大江戸線新御徒町駅12:03-三田線春日駅12:11-自宅12:45

花咲線で、最東端納沙布岬へ

北海道滞在3日目、孫達の運動会は開催された。前日の雨で順延されたがグランドコンディションは悪くはなく、全校生24人に混じり、小6と小4の孫は、地域の皆さんの応援を受け、元気に走り、踊り、そしてゲームに挑んだ。順調に進行し午前中に終えたが、負けた白組の小6の孫は、今回も悔しがった。私は、皆と応援席で昼食後、帯広駅へ送って貰った。

最東端納沙布岬に立つ 根室泊の翌朝、根室駅前8時20分発バスで納沙布岬へ向かった。もっと早いバスも可能であったが、当地は寒く気温10度。持参した外衣コートでは頼りなく、気温の上昇に期待した。バスは市内を出て、岬の先へ走ると牧草地や原野で、海辺には漁港が見える。自然の儘の知床半島とは違う。昨日車窓から左手先に、羅臼岳の高山と同半島が望めた。
40分程で岬に下車。前方に大海が広がる平地で、土産店もある普通の観光地のよう。返還や望郷の碑が建ち並ぶ中、岬先端へ立ち眺めたが、小島はあるが四島は見えない(写真上)。曇り空の所為かもしれない。四島のかけ橋のアーチをカメラに納め、大回りし灯台へ。高台でもなく、平地にポツンと白い灯台があった。時間があり、納沙布神社へ参拝。コースを間違え、原野草原を漕いでしまった。処が金比羅神社とある。地元の通称なのだろうか。バス時間を睨みながら、北方領土史料館を覗く。四島の歴史や返還運動の資料を一瞥して出ようとしたら、受付で、日本本土最東端訪問証明書を貰った。根室市長発行である。私は、知床半島の方がより東と思っていたが、今回地図で当地が最東端と確かめた。
花咲線を往復 前日帯広駅14時過ぎ発の特急に乗り、釧路駅で根室行きへ乗り換えた。長い根室本線の続きだが、今は、花咲線とも呼ばれている。一両の気動車(写真下)は、直ぐ、森林地帯へ進入し、原生林の中。車窓から鹿が見え、警笛を鳴らし走る。各駅停車を繰り返し前進するが、知らない駅名が続く。唯一厚岸は知っていて、大きな湾内の風景。また原生林が続き、時々湿地帯になり、牧場が見える。浜中駅には霧多布へのバス乗り換え駅とあり、昆布盛付近で、再び海側へ出た。歌手松原健之は、最近の持ち歌”花咲線”で、”根室行きのわずか一両の古ぼけた列車だったよね 最果ての朝が来る岬・・・”と唱う。
夕方遅く、根室駅に降りた。静かな小さな地方都市の感じ。江戸時代から開けた地で、明治期当初には根室県が置かれたという。私は、江戸後期露西亜のラックスマンが大黒屋光太夫の送還に来た港位しか知識がない。夕暮れの中方向を誤り、予約したホテルが分からず、ウロウロしたが、市内の中に見付かった。復路も花咲線だが、快速気動車で釧路へ戻った。 (2018/07/05 K.K. 1191/1200)

□日時 2018/6/10,11 □天候 曇り □交通費 現地分9,140円 □資料 のさっぷ岬マップ □歩行距離 8km 11,000歩
「通過時間等」東士幌小12:40-JR帯広駅14:22-同釧路駅16:17-同根室駅18:50=ホテル19:25 ホテル7:50-根室駅前バス停8:20-納沙布岬9:05=四島のかけ橋9:10=灯台9:30=金比羅神社9:35=北方領土史料館9:40=納沙布岬バス停9:55-JR根室駅11:03-同釧路駅13:40-釧路空港15:10-羽田空港京急駅17:10-三田線三田駅17:44-自宅18:30

釧路湿原を眺め、根室本線で帯広へ

北海道在孫達の運動会応援に、2年振りに渡道する。その際、釧路空港往復とし、釧路湿原と納沙布岬を訪ねることにした。孫達が住む音更へはJR根室本線で帯広駅へ行くことになる。心配は天候で、数年前凄い寒さに遭い困惑したことがあり、今回はその対策もした。出発当日の朝、運動会の土曜日は雨の予報で翌日へ延期かもと、娘からメールが来た。

 釧路空港から湿原へ 釧路空港に降りると天候は良くない。案内所で、湿原へのアクセスを教えて貰い、バスの乗り換え地鳥取分岐で別便に乗る。釧路市郊外を出ると牧草地、原野の中を走り、湿原らしくなって、右手丘上に赤の建物が見え始め、湿原展望台のようだ。坂を上がり展望台前で下車(写真上)。 釧路駅行きのバス時間を確かめ、遊歩道へ。雨がぽつりと落ちているが傘を指すほどではない。展望台は二度目だが、見覚えはなく建て替えたのだろう。遊歩道は樹林帯の中に続き、湿原は見えない。約1時間しかなく、先へ急ぐ。吊り橋を渡り広場へ出ると分岐で、左の丹頂広場へ進む。木道で歩きやすい。広場の前方が開け、湿原が広がっている。見える範囲は、大湿原の一部に過ぎないのだろう。カメラを向けた。時計を睨みながら、樹林の中を上下し先のサテライト展望台へ上がる。先客に混じり、展望を楽しむ。左右一杯大湿原。遙か向こうに霞む東端は、釧網線塘路駅辺りだろうか(写真下)。大分前だが、釧路駅からノロッコ号で訪ねたことがある(10.7.16)。もっと先へ進みたいが、バス時間があり、Uターン。小雨が止んだ中、木道階段を戻ると、白い花が目に付きカメラに収めたが、名前が分からない。10分前で、休憩する時間があった。バスは、釧路市内へ入る前、鳥取・・・という地名が続く地を通過し鳥取神社まであり、鳥取県からの入植地を示していた。

鈍行で帯広へ 釧路駅から帯広駅迄は、鈍行列車とした。少し時間が掛かるが、娘達の迎えの時間に都合良く、また私が、今後の山歩きの代わりに考えている乗り鉄の経験にもしたい。そのため、駅売店で弁当とカップ酒を求めた。3時間強だから凡そ、飲食で1時間、寝て1時間、メモ等で1時間と大雑把に目論んだ。
13時48分発帯広行き一両車は、時刻通り釧路駅を発車。この間は数回乗ったことがあり、左手は海辺だとは知っている。大楽毛、白糠を過ぎると海から離れ両側は牧場になった。そして、山中を走り、駅間の距離が長い。微睡みから覚めると浦幌付近で、また家並みが見えるようになり、飽き始めた頃池田に着き、長く停車した。右手にワイン城の建物が見え、思い出がある。娘の結婚式に、我が親戚が山形や長野からも出席してくれ、翌日、バスで観光し見学したのであった。あれから18年経っている。30分程で帯広駅に着くと、2人の孫を連れた娘が車で待っていた。市内で、今年進学した高1の孫を乗せ、音更へ向かった。運動会の順延は決まっていないという。(2018/06/28 K.K. 1190/1200)

□日時 2018/6/8 □天候 小雨後曇り □交通費 現地分4,670円 □資料 読売旅行社「平成百景を歩く 釧路湿原」2012年3月、14頁 □歩行距離 7km 10,000歩
「通過時間等」自宅6:10-京急三田駅7:01-羽田空港8:00-釧路空港10:00-鳥取分岐バス停10:45-釧路市湿原展望台11:15=サテライト展望台11:35=釧路市湿原展望台バス停12:25-JR釧路駅13:48-同帯広駅17:11-音更娘宅18:00

上州に山城松井田城跡を巡る

今年のかぼちゃ会旅行、群馬の磯部温泉行きを利用し、城跡探訪を目論み、近くにある松井田城跡と磯部城跡を訪ねる予定にした。高崎駅乗換のJR信越本線沿線にあり、アクセスは悪くない。所在地を調べ、ネット情報を得た。列車ダイヤが1時間に一本と分かったが、集合時間には間に合わせたい。

 遠い城跡口 高崎駅で信越本線に乗り換え、西松井田駅に下りた。田舎の小さな駅で、案内板から城跡を確かめ、駅前大通を歩き出す。城跡案内標識があり幸先良いと思ったが、期待し過ぎであった。補陀寺前から国道18号バイパス高架下を抜け、右折しバイパス沿いで山際を行く。ネット情報では城跡への上り口がある筈だが草木が生い茂りそんな山道は見当たらないし、案内もない。蕎麦屋の先の舗道がそうかなと山側へ左折し、坂道を上がる。左手に進入路があり入ったら弓道場で、城跡はもっと先と教えて貰った。坂を下って、城跡案内図があり(写真上)到着。予定より大分時間を喰っている。
 戦国城跡遺構と歴史 舗道を上がり切ると、大手登城口。低い山だが林が深いようだ。いよいよと進入し、三度壕切を渡ると分岐に至り、左手の水の手へ。突き当たると井戸跡ではなく沢であった。戻って、右の横壕跡から武者だまり、そして連続畝竪壕。畝壕は北条系を想起させるが、斜面に竪壕は窺えない。荒れた山道が続き、また戻って、正面が大手口跡。その上に馬出があり、こんな奥、上部の大手門や馬出は初めて見る。近世ではなく、戦国期の築城だからか。全てその時期の遺跡で、深い山中に痕跡以上に遺っている。
城跡ガイドによれば、永禄年間、1560年頃の築城で、諏訪氏、安中氏、武田氏、そして北条の城代大道氏が城主であったとある。甲斐武田氏の侵略を受け、織田の滝川氏敗走後は北条氏の支配下になったが、小田原征伐で前田、上杉、真田の連合軍が碓氷峠を越えて来た。戦国時代の主な歴史を経験し、豊臣時代になって廃城という。本丸相当の平らな主郭跡へ上がったが、城跡全体からしては、小さな郭。虚空地蔵があった。カメラに収め、下り始める。とっくに予定した13時の電車には間に合わず、1時間後にする。
 磯部城跡は止め、かぼちゃ会へ 往路を戻り、バイパス道へ出ると、正面が妙義山(写真下)。鋭い岩峰を久しぶり眺める。城跡への進入口を確かめながら戻るも、見付からなかった。補陀寺は、城主の居館跡らしいが時間なく、駅へ直行。予定より1時間遅れで、予定の磯部城跡見学は困難になる。かぼちゃ会メンバーから、間もなく磯部駅着のメールが来て、私も、同駅で待つことにした。山城跡を上下し少し疲れた。
今年の会も盛り上がった。いつもながら奥様方は元気で、様々な手作り料理を持参してくれ、飲食やおしゃべりは二次会でも続いた。Oさんは体調良さそうで、往年の元気を取り戻して、場を盛り上げてくれた。有り難うございました。      (2018/06/20 K.K. 1189/1200)

□日時 2018/6/1 □天候 晴 □交通費 2,700円 □資料 ネット情報「松井田城址見学ルート」 □歩行距離 13km 19,000歩
「通過時間等」自宅8:45-JR赤羽駅9:38-同高崎駅11:23-同西松井田駅11:55=補陀寺前12:05=松井田城跡入口12:30=大手登城口12:35=水の手跡12:45=主郭跡13:05=松井田城跡入口13:30=バイパス下13:45=JR西松井田駅14:15-同磯部駅14:45-宿泊先15:00

山毛欅林の下、雄国沼を往復する

秘湯の会の宿泊先は、喜多方にある大塩裏磐梯温泉米沢屋。秘湯の会会員とあるが山中の一軒宿ではなく、米沢街道に面した小さな湯宿。ハイキング後温泉で疲れを癒し、夕食に川魚や山菜等を味わった。その名の通りしょっぱい温泉で、江戸期には山塩を産していたという。本日は、雄国沼ハイキングで、コースは楽な雄子沢往復と会長に告げられた。

 ブナ林の下を行く ゆっくりのスタートで、9時前に雄子沢の登山口(880m)に着く。昨日の帰り掛け、会長の指示で登山口は確かめていた。駐車場を確保し、4人組は沢沿いに山中へ入る。会長言の通り、アップダウンのない緩やかな上り。東北特有のブナ林が広がり、この時期は新緑で清々しい(写真上)。元気なSさんが先頭を切り、山男Hさんが追い、少し離れて私が続く。会長はいつものようにカメラを抱えて殿。足下にはタチスボスミレの紫の花が咲き、白い花はイチリンソウと知る。小さな沢を越しながら行く。途中で、ポットに沢水を汲んだ。猫へではなく、己の水割り用である。後から聞こえる歓声は、先程登山口で見たバスハイクの一行だろう。離れるべく、少しスピードを上げる。

雄国沼、磐梯山展望 歩きやすい山道を順調に進む。後の一行とは距離が開いたようだ。少し坂が傾斜を増し、林を抜けると雄国山分岐。ここは通ったことがあり(08.7.13)、朧気な記憶がある。10年前、雄国沼にニッコーキスゲを訪ねたが、終わっていた。深めの沢を上がると休憩舎(1090m)だが、こちらは記憶にない。沼の全貌が望める金沢峠へと灌木地帯を上がる。躑躅が咲き始めたばかりで、みちのくの春は遅い。峠に着き、展望台(1150m)で、晴天下、沼越しに磐梯山を眺めながら、会長が煎れてくれたコーヒーを戴く。天空の珈琲である。反対側は水田が広がり、水が輝き田植えが終わった風景である。

 無事下山し柏木城跡へ 直線の階段を下り沼畔へ出て(写真下)、湿原の木道を一周したが、この時期キスゲも水芭蕉もない。それでも、帰ろうとしたら出口付近に黄色い花が咲きリュウキンカ、そして大きめの草のトップが開きコバイケイソウ。これらを見て少し元気が出る。
休憩舎へ戻り、また深めの沢を渡る時、咲き始めた水芭蕉を見付け、ラッキーとカメラを向けた。往路を楽に戻り、登山口へ。このコースを選んでくれた会長に感謝である。最近は疲れが残り、2日続きの山歩きは辛い。月曜日も歩いたばかりであった。
帰途に、大塩裏磐梯温泉傍にある柏木城跡見学に寄る。昨日、地図から発見し宿で情報を得た。戦国期、会津の葦名氏が、米沢の伊達氏侵攻に備え築城したという。意外に奥にあり、ようやく虎口から主郭へ至ると周囲には土塁も遺り、広い帯郭は珍しいと思った。喜多方へ出て遅い昼食を取り、勿論私は喜多方ラーメン。会長始め皆さん、今回も大変お世話様でした。(2018/06/17 K.K. 1188/1200)

□日時 2018/5/27 □天候 晴 □交通費 650円(JR分) □資料 裏磐梯ビジターセンター「雄国沼周辺トレッキングマップ」2010年 □歩行距離 21km 29,000歩
「通過時間等」宿泊先8:20-雄子沢登山口8:50=雄国山分岐9:55=休憩舎10:05=金沢峠10:35/11:30=雄国沼11:40=休憩舎12:30=雄子沢登山口13:35-柏木城跡14:00/15:00-喜多方(昼食)15:30/15:55-JR久喜駅20:32-同赤羽駅21:10-新板橋駅21:26-自宅21:50