伊豆箱根鉄道駿豆線で修善寺を往復する

 今回は、静岡へ行き三島駅から修善寺駅へ伊豆箱根鉄道駿豆(スンズ)線乗り鉄とした。JR東日本大人の休日俱楽部パス外だが、熱海駅からは直ぐである。以前も同じパス+で沼津御用邸記念公園を訪ねたことがある。熱海迄は特急踊り子号利用で、JR池袋駅発があると分かった。東京駅よりは近く、朝ゆっくり家を出た。

 駿豆線乗車 池袋駅で、少し遅れて来た踊り子号に乗車。山手線から湘南ラインを走り、横浜から東海道本線へ入った。熱海駅迄ノンストップで、三島迄の乗車券を求め、静岡行き鈍行に乗り換えた。熱海手前の車窓からは桜の花がチラチラと見え、早咲きであろう。
 三島駅では、駿豆線修善寺行きは待っていた。約20㎞、13駅である。この路線乗車は久しぶりで、旧勤務先時代は職場旅行があり、伊豆の温泉には数回来ているが、大分前となってしまった。

 旅行の思い出 三島の市内にも駅があり、昨年参拝した三嶋神社は左手奥だろう。韮山駅を通過。韮山城址や蛭ケ小島も左手先の筈だが、駅周辺は住宅街。日中なのに乗客は多めである。田園地帯となり、子供達と幼い頃家族旅行で当線に乗ったことを思い出した。湯ヶ島温泉泊りだったと思う。当時あるプロジェクトチームに属し深夜帰宅や休日出勤もあり、家族への罪滅ぼしであった。踊り子衣装のバスガイドのボンネットバスに乗ったと思うが写真は見当たらない。
 伊豆長岡駅に着いた。長岡温泉も旅行先で、韮山の反射炉も見学している。その後世界遺産となっている。

 終着修善寺駅 終点修善寺駅に到着。駅舎は様変わりしていた(写真下)。私の記憶にある駅は木造の小さな駅であった。修善寺や温泉は大分先で、歩くには時間がなく、修善寺橋から狩野川渓谷を眺めた。この時期にしては、流れは激しいように見えた(写真上)。
 先ほど通過した一つ手前の大仁沿線には、最近知った情報がある。あのミスターが現役時代春のキャンプ前に自主トレーニングを積んだ場所が当地大仁の山里で、現在では長嶋ロードと命名されて残されているという。テレビの旅番組であったと思う。
三島行きに乗車し、東海道本線で熱海駅に戻ったがタイミング良い特急はなく、快速とした。(2024/2/28 K.K.1546)

◇日時 2024/01/28 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+1760円 ◇資料 「修善寺温泉マップ」 ◇歩行離等 6,000歩 4㎞ 
「通過時間等」 自宅8:25-JR巣鴨駅9:05-同池袋駅9:15-同熱海駅11:14-駿豆線三島駅11:32-同修善寺駅12:10/12:40-JR三島駅13:28-同熱海駅13:48-三田線巣鴨駅16:06-自宅16:30

私が登った百の名山&低山=東北編=「連続する急降下の下りに参った面白山」

 天童高原から面白山へ 本日故郷滞在3日目となり帰京する日。山形面白山(1,264m)に登ろうと、登山口天童高原へ兄に車で送って貰った。登山道に入った筈なのに平らな道が続く。これで大丈夫かな思いながらも順調に進み、コースポイント長命水の水場を40分の処30分で通過した。途中木立の間に高峰が覗き、面白山だろうと見当を付けた。
 尾根へ一登りするとまた緩やかな道。約1時間で三沢山(1,062m)を越すと、前方に目標の山が全貌を現した。一旦鞍部へ下りて、急な直登が始まった。最後のアルバイトと一歩一歩上がり続けるが辛い。時々立ち止まりを入れ上り切ったかと思ったが、山頂は未だ先。背の低い灌木の間を行くと面白山山頂であった。
 既に夫婦ハイカーが休憩中、挨拶をし、三角点を踏む。小さな大権現様の社のみがある狭い頂。展望の良い地だが、雲が出て遠望はなく、南方に南面白山や大東岳が見えるだけ。小憩後、11時に下山を開始。山頂下には下る先程の二人の頭が見える。

 難路が続くかもしかコース 直ぐ面白山高原駅へ出るかもしかコース分岐で、右折。楽に下ったのはほんの数分だけ。厳しい下りになった。急降下である上に、直線的で足場もない程の溝状の荒れた道。このような下りが次々と現れて、その度、下るルートの検討に見下ろし、気合いを入れて踏み出す始末。ストックを使い樹に掴まり、踏み場を確かめ滑らぬよう下る。時には蟹の横歩きをする。このような状態が数回続き、長左エ門道に下りた時は40分の処55分も要していた。下りが苦手だけではないと思う。展望のない下り道であったが、一箇所樹木の間に、蔵王熊野岳が見えた地点があった。

 まだまだ難路が続く 駅への最後の下山路も気が抜けない難路が続いた。ここではこれから登る3人と交差した。谷川の音が高くなり、仙山線を走る電車の音も聞こえて、登山口が近いはずだが、下りの険路は終わらない。最後のトラバース状の横道も、肩幅にも満たない上崖崩れした箇所があり、ロープに掴まり一層慎重に進む。沢へ下りて抜けると、登山口であった。後半の下りも、60分の処90分であった。時間よりは無事下山が優先と思い直した。
 駅前のコース案内を見ると、面白山への数コースの中、かもしかコースだけが“登りきつい”とコメントがあった。やっぱりと納得し、面白山高原駅へ近いからと選択したのだが浅はかであった。帰宅後、下山時の写真がないことに気付いたが、下るのに精一杯でそれどころではなかったのだ。(2013/08/18 20/100)

追記 面白山は、私にとっては、仙山線のトンネルで、日本で三番目の長さと教えられた。その上が高峰とは後に知った。実家からの帰り掛けに登った。上りは大たことはなかったが、下りには難渋した。事前調査をしなかったからだ。駅は、山寺駅奥のスキー場用臨時駅と思っていたが、常設の駅となっていた。

私鉄大洗鹿島線を水戸から鹿島神宮迄乗り切る

 最近乗り鉄を楽しんでいるが、今後はJRの外、私鉄や三セク路線も乗ろうと思う。そう多くはないが、関東地区にはそれなりにある路線。茨城水戸駅から鹿島神宮駅へ走る鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に乗ることにした。JR常磐線水戸行きに乗って、海岸線を走る鹿島臨海鉄道が目に付いていた。53㎞、15駅とある。

 常陸太田駅往復から 大洗鹿島線は水戸駅が始発であるが、その前に水郡線で、途中の常陸太田駅を往復することにした。西山荘を訪ねた時乗車したが、大分前である(10.6.27)。上野駅から特急で水戸駅に着き、水郡線に乗り、上菅谷駅で常陸太田行きに乗り換えた。当地は水田地帯で山中ではなかった。5駅の盲腸線で直ぐ常陸太田に着いたが、駅舎は見覚えがなく、新築されたよう。前回はここから黄門様の西山荘を往復した。本日は折り返しの列車に乗り、水戸駅へ戻った。

 初乗車大洗鹿島線 大洗鹿島線に飛び乗り、水戸市郊外へ出ると水田地帯で、その中を走る高架鉄道である。直ぐ大洗駅に着き10分程停車(写真上)。売店を覗き、カップの地酒を求める。大洗磯前神社訪問時(22.6.22)の復路当駅から乗る予定であったが水戸行きバスにしてしまった。
 発車した列車は、林から山中のような樹林帯も、亜熱帯植物が繁る中を走り、鹿島灘とは程遠い。逆に北浦湖畔駅では、反対側に湖が見えた。霞ヶ浦の端の沼か。期待している臨海路線に相応しい展望は未だ先なのだろうか。次の大洋駅、鹿島灘駅付近で少し海側へカーブしたようだが、チラつきもない。後に調べたら、当路線の前半は5㎞、後半は3㎞程海岸から離れているとあった。鹿島スタジアム駅を通過。サッカー試合開催時のみ停車は知っていた。

 旨くいかない乗り換え 鹿島神宮駅で、JR鹿島線佐原行きを待つ。40分程あり駅前をうろつくと記憶にある風景。鹿島神宮に二度来ている(08.11.15他)。佐原行きは、広い運河から利根川を渡った(写真下)。その間の潮来駅は乗降したことがある(13.6.20)。あの潮来の伊太郎のご当地で、歌碑もあったと思う。
 佐原駅に着く。何年振りだろうか。九十九里浜小旅行の際、当地出身のメンバーに案内され香取神社に参拝した時(17.6.3)であった。当駅でも待ち時間があり、売店に瓜の鉄砲漬を見付け、思わず求めてしまった。成田地方名産の好物だが、都内ではなかなか売っていない。
 千葉行きに席を確保したが、乗客が多く、呑み鉄はとても出来ない。千葉駅で、折よく隣のホームに東京行きの特急が来て、乗車した。(2024/2/21 K.K.1545)

◇日時 2024/01/26 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+1400円 ◇資料 「大洗鹿島線列車時刻表」 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞ 
「通過時間等」 自宅8:50-JR上野駅10:00-同水戸駅11:15-同常陸太田駅12:00-大洗鹿島線水戸駅12:44-JR鹿島神宮駅14:59-同佐原駅15:56-同千葉駅17:21-同東京駅18:00-三田線巣鴨駅18:25-自宅18:55

私が登った百の名山&低山=東北編=「幻のタキタロウは不在であった朝日連峰山麓大鳥池行」

 目の前が大鳥池 3時間歩き通して、小さな峠に上がると樹林の間に湖面が見え始めた。林の中の登山道を右折すると小屋の前に出て、眼前に湖が広がった。夕暮れの大鳥池は飽くまでも静かで、鏡のようであった。遂に来たのだ。タキタロウの棲む山中の池に。一人小屋前ベンチに座って、タキタロウの話を思い出した。

 タキタロウ伝説 約25年前のことで、帰郷したら、山形では朝日連峰麓の大鳥池にタキタロウが見付かって騒動が持ち上がっていた。朝日村山奥大鳥池に棲む2mもある巨大魚で、これまでも目撃者や更には食べた者もいたという。岩魚の一種との説があり、地元では10数年ごとに話題になるらしい。
 帰宅して家族に話したら、長女が、知ってるよ、と3年の学習(右図1983年8月号より)を見せてくれた。その中には、“まぼろしの魚タキタロウはいるか?”が特集されていた。それ以来我が家ではタキタロウは周知となり、長女をタキタロウちゃんと呼んで通じるまでになった。長女も覚えていて自分の結婚式、両親への詞の中で触れてくれた。ハイキングに熱中してからは、いつかは大鳥池へタキタロウに会いに行きたいと思うようになった。

 渓谷沿いからトラバース 新幹線に乗り新潟駅へ出て、羽越線に乗り継ぎ鶴岡駅前からはバスに乗車。旧朝日村(現鶴岡市)上田沢からは会員バスで泡滝ダムまで入り、大鳥池を目指した。大鳥川沿いの登山道は、予想通りアップダウンは少なく、順調に進む。未だ川幅は広く、周囲の山からは沢が滝となって川へと落ちている。先程対岸には雪渓を見た。下る登山者2,3人と会い挨拶を交わす。単調な山道に現在地が不明で、山毛欅の下で休み、地図を見る。チェックした通り、沢を吊橋で渡るとブナ林に入り、コース半ば手前と読む。二度目の大沢に架かる橋に至り、池までは1時間20分位だろう。徐々に道も傾斜が増して上り坂となる。
 事前の調査で最後の1時間はきつい上りと教えられた。そろそろかなと地図を出すと小さなギザギザ線が重なっている。やはり上りの葛籠折れを繰り返し、トラバース状の急坂は歩き難い。前方から人声が聞こえ始め、上りの集団に追い付いてしまった。酒田西高登山部一行。ザックが重いのだろう。私に、先頭の先生が池までの時間を尋ねた。15分位と返事をして先行した。

 タキタロウは不在 小屋前で管理人に、タキタロウの目撃はと聞いたら首を横に振った。自炊の小屋では、駅前で求めたお握りに、お湯を貰いカップラーメンを夕食とした。予想外の立派な小屋で、広い部屋を一人占めにし、18時過ぎには就寝。寝袋は長男に借りて持参した。小屋名はタキタロウ山荘とあった。
 翌朝3時過ぎには目が覚めた。階下の高校生達が登山準備を開始して五月蠅い。朝の散歩に池端を歩く。早朝の大鳥池は靄が漂い一層神秘的だ。タキタロウは人間達の騒ぎに呆れて池底へ身を潜めているのだろうか。それとも更に山奥へと姿を隠したのであろうか。タキタロウには会えなかったがほぼ満足し、6時過ぎ、簡単な朝食を済ませて、再訪への余韻を残しながら下山した。(2009/8/16,17 18/100)

追記 朝日連峰山麓大鳥池往復は厳しくも楽しい山歩きであった。タキタロウ伝説はロマンであり、想像するだけで楽しい。それに相応しく自然に囲まれ、静寂さを保つ深山の湖面は神秘的でさえあったと思う。しかし、今では、家内も娘も遠くにいて、タキタロウを思い出すことはなくなってしまった。

鶴見の總持寺から大川駅、武蔵小杉を巡る

 鶴見にある總持寺を訪ねることにした。付近を電車で通るごとに目に入り、調べると名刹と知った。2024年JRで初詣パンフにも掲載されている。JR鶴見線の大川駅にも立ち寄りたい。鶴見線は乗った(22.6.5)が唯一支線の大川駅へは辿り着いていない。帰途は、南武線武蔵小杉駅を経由して三田線直通電車としたい。

 大本山總持寺へ 今回は、三田線三田駅から京急線に乗り鶴見駅に下車し、歩いた。JR線路沿いへ出て、長い歩道橋を渡ると、もう總持寺の入口であった。社叢に囲まれた参道を行く。山門までも距離がある。約5万坪の大伽藍らしい。三門を潜り(写真上)、右折して本堂であろう奥の大祖堂を目指す。門もお堂も立派で一回り大きい。参拝者は疎らである。本日は12日。更に右折して正面から大祖堂前へ進み、手を合わせ参拝した。当寺は曹洞宗の大本山だが、我が家は浄土真宗。家内実家が檀家の東御市定津院は曹洞宗と思い出した。祈願した孫達の健康や成長は聴き届けて貰えるだろう。鶴見駅へ戻る途中、歩道橋の袂に神明社を見付け、詣でた。

 鶴見線大川駅は停車場 JR鶴見駅から鶴見線浜川崎行きに乗車。2年前鶴見駅の乗り鉄をしたが、支線二つ中、大川支線は乗っていない。専ら通勤用で、朝と夕方のみの運行で簡単ではない。本日は、武蔵白石駅から徒歩で終点大川駅へ、である。大川支線は安善駅から分岐しているが、次の武蔵白石駅からが近く同駅に降り、踏切を渡って大川支線線路を見ながら歩いた。運河を橋で越した右先が目指した駅で、想定通り15分で着いた。無人の駅というよりは停車場。構内の時刻表も調べた通りで(写真中、下)、日中は白紙。カメラに写して武蔵白石駅へ戻り、これで鶴見線全駅を通過したことにした。

 武蔵小杉駅から三田線へ タイミング良くJR鶴見駅に戻り、川崎駅で南武線に乗車。武蔵小杉駅に下車し、三社目の市ノ坪神社を駅前案内図で探し、東急東横線高架沿いに横浜方面へ遡ると右に鎮座していた。当地の鎮守様らしい神社で、また頭を垂れいつものお願いをした。
 東横線武蔵小杉駅ホームへ上がると首尾よく、西高島平行きが来た。(2024/02/15 K.K. 1544)

◇日時 2024/01/12 ◇天候 晴 ◇交通費 710円 ◇資料 2024年JRで初詣 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 
「通過時間等」 自宅8:45-京急三田駅9:40-同鶴見駅10:05=總持寺10:35=JR鶴見駅11:00-同武蔵白石駅11:20=同大川駅11:35=同武蔵白石駅11:57-同鶴見駅12:12-同川崎駅12:18-同武蔵小杉駅12:40=市ノ坪神社12:45=東横線武蔵小杉駅13:02-自宅14:25

私が登った百の名山&低山=東北編=「GWに帰省し山形市のシンボル千歳山に登る」

 山形市のシンボル千歳山 “千歳山からな 紅花(コウカ)の種蒔いたよ それで山形花盛り”は、紅花摘み唄の冒頭で、子供の頃聞いた山形民謡の一節である。江戸時代当地方が紅花の一大産地であったこと表している。千歳山は山形市の東南に位置する標高471mの低山だが、同市のシンボルでもある。高校時代から知り最近になり一度は登ってみたいと思っていた。大型連休の後半帰省することになり、新幹線を山形駅に降り、千歳山を目指す。マップは出発前インターネットで得た。

 岩五郎コースを上る 十日町交差点を直進し諏訪神社、山形南高を越すと郊外へ出て、建物の間に千歳山を捉えた。通過した地点は何処も私が知る時代から様変わりし一変していた。国道13号バイパス下から登山口に着き、駅前スタート後50分を経過していた。
 岩五郎稲荷神社参道石段から本殿に挨拶し山道を上がる。本日子供の日祝日で、既に多くのハイカーやジョガーが山へ入っている。道は広く歩き易い。次第に山道らしくなり、ジグザグを繰り返す。善光寺岩に至り一息入れ、山形市内を展望。先客の女性が一人休憩していた。
 また上り続ける。若者が追い越して行く一方で、下るハイカーと交差する。ジグザグの振幅が狭まり山頂は近い。ほぼコースタイム通りに登頂。意外に広い山頂だが赤松に覆われ展望はない。ベンチで休憩し、高年夫婦の隣で、昼食とした。

 下山路は岩場あり 下山は万松寺コースと決めていたが、先程売店で、険しい岩場があると聞いた。同コースを上がって来た方に尋ねるとそのような山道という。ザックからストックと軍手を出し、下山開始。
 少し下ると最初の岩場。里山の岩場出現に驚くも、一歩一歩ゆっくり下り難なく通過する。次はやや長く険しい大岩場。こちらも慎重に手も使うが、恐怖感はなく下り続ける。難所を抜けようとした地点で、子供も幼児に出会う。直ぐ下に母親が追っていた。大丈夫かなと思ったが、意外に子供には状況が分からず怖さもないのかも知れない。無事通過を願うしかない。また通常の山道となり、阿古耶の松の碑を経由し万松寺へ下りた。
 千歳山には、実は松の木の精である若者と阿古耶姫の悲恋伝説があり、山頂にも石碑があった。万松寺は山形市内でも有数の古刹と聞いていたが、建物や境内にはその雰囲気は薄い。県庁前でバスを待ち、山形駅へと戻った。実家への途中同級生宅で、麦酒をご馳走になった。山歩き後のビールの美味さは格別であった。(2013/05/05 19/100)

追記 千歳山は山形市郊外にある伝説を遺す里山である。日頃から市民の慣れ親しんだ山だと思うが、在郷時代私は市内から眺めるだけであった。それが、山頂を越し裏の万松寺へ下りたのであった。下りに岩場があり少し苦労したのを覚えている。

初詣に富岡八幡宮、日比谷神社、烏森神社を巡る

 今年の初詣は、毎年のことだが遅めとなった。友人と都内江東の門前仲町で会う機会を利用し、富岡八幡宮に参拝し、地下鉄大江戸線で汐留駅へ出て、日比谷神社から新橋駅前の烏森神社の三社巡りとした。いずれの社も久しぶりでご無沙汰である。今年は、孫に受験生はなく、健康と成長をお願いしたい。

 富岡八幡宮から 門前仲町の飲食店で後輩友人と昼食後、直ぐ近くの富岡八幡宮へ詣でた(写真上)。人出はあるが拝殿前に並ぶ人数は少なく、スムーズに手を合わせることができ、孫たちの成長とコロナの終息を祈願した。北海道音更から娘と孫三人が来宅し、賑やかな三が日であった。箱根駅伝は母校に期待していたが惨敗で、シード落ちとなってしまった。
 拝殿から裏手に回り、横綱力士碑を見る。江戸期当地境内での相撲興行の名残らしい。正面参道脇には、伊能忠敬像がある。近くの深川に住まい、全国測量旅行前には、必ず当社参拝が習わしであったという。

 汐留日比谷神社 大江戸線門前仲町駅へ歩いて、地下鉄に乗車し汐留駅に降りる。新橋裏の当地周辺は不案内で、ウロウロして大回りしたがなんとか日比谷神社に辿り着き、二度目のお参り(写真中)。その名の通り、江戸期には日比谷公園にあったが遷座したとある。当地の鎮守様とあるも、住宅街ではなく、商店も疎らな地域。私の他母子の参拝者のみ。前回は御成門から塩竃神社を経て訪ねた(21.1.31)。

 烏森神社 第一京浜を渡ってJR新橋駅へ。構内地図で烏森神社の位置を確かめる。神社の存在は知っていたが道順は曖昧であった。ニュー新橋ビルの裏手と分かり、参道へ入るとこちらは並んでいる。ビルの谷間というよりはビル内の社に階段を上がり(写真下)、手を合わせた。
 虎ノ門勤務時代は新橋、烏森通り付近も飲み会でよく出没したと思う。この辺りに馴染みの店がある先輩がいて二次会に連れ出された。若い頃の話しである。
 近くは通っているが、参拝は何年振りだろうか。記憶を辿れば、当社から川崎大師、寒川神社を巡った時(11.2.3)で、13年も前と思っていたが、3年前で、違っていた。
 三田線内幸町駅へ歩く。飲食街は変わりつつあるが、見覚えのある路地もあった。(2024/2/7 K.K.1543)

◇日時 2024/01/06 ◇天候 晴 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞
「通過時間等」 自宅10:50-大江戸線春日駅11:33-同門前仲町駅(昼食)11:55/12:40=富岡八幡宮12:50=大江戸線門前仲町駅13:02-同汐留駅13:15=日比谷神社13:25=烏森神社13:55=三田線内幸町駅14:18-自宅15:00

暮に日本橋人形町から大伝馬町を歩く

 楽しみにしている購読紙の“我がまち再発見”の欄に、都心の人形町が紹介された(23.12.4、21讀賣夕刊)。一、二度歩いたことがあるが、歩き残しているポイントや新たなポイントもある。手許にあるお江戸下町神社案内もあり、未訪の社も多い。暮も押し迫ったが、近いので出掛けることにした。

 弁慶像に出会う 都営新宿線浜町駅からとし、神保町駅で乗り換えた。前回も浜町駅スタートで(20.8.31)、目の前が浜町公園であり、右手が明治座だ。最初のポイント弁慶のブロンズ像へ。略図を手に、清洲橋通りを渡り、半分山勘で通りを直進すると浜町川緑道に見付かった。勧進帳で見えを切る弁慶で(写真上)、江戸期から当地に歌舞伎小屋二軒あり、歌舞伎発祥の地としての縁らしい。
 浜町川緑道を江戸通りへ出た先に、笠間稲荷神社があり、参拝。笠間藩主が笠間稲荷から分霊したとあり、家族の健康をお願いした。地下鉄人形町駅方向へ戻り、住宅街へ入って末広神社を探し当て、詣でる。社殿修復の際扇が見付かり、末広神社となったとある。次の松島神社はビル内にあり再訪と分かった。新大橋通りの反対側は水天宮様で、二度お参りしているので次の機会にする。

 人形町は暮の市 人形町通りを上下する。年末商戦で通りには、提灯が吊り下げられ、露店が出て、正月飾りや年賀用品が並べられている(写真中)。未だ江戸からの風習が伝わり、名残が遺っているよう。我が故郷では幼年期頃、毎年中央通りに暮の市が開かれて多くの露店が出て、近郷近在からの買い物客で賑わったのを思い出したが、旧暦の大晦日のことであった。
 そんな中、人形町のシンボルからくり櫓があった(写真下)。高さ7mの櫓で、時間になると天秤棒を担いだ魚売りの人形が動き出すという。時間が合わずそんな動きは見えない。当町名は芝居小屋での人形使いの住む町からのネーミングと知る。

 椙森神社、宝田恵比寿神社 地下鉄人形町駅を越し、堀留町から伝馬町へ歩く。越した大通りが金座通りで、あの銀座、金座で江戸時代金座があった地からの通りという。椙森神社までは少し距離があった。珍しい漢字で二度目の筈だが見覚えがない。孫達の成長をお願いした。通りにある案内に惹かれてマンション一階に入り、小社出世稲荷に簡単に頭を垂れ、さらに先へ歩き、横丁を入ると宝田恵比寿神社があった。資料によると毎年10月べったら市が開かれるとあり、聞いたことはあった。歩き疲れ、通りのバス停で秋葉原駅行きのバスを待つ。折よく来て、友人との昼食会へ向かった。(2024/1/31 K.K.1542)

◇日時 2023/12/29 ◇天候 晴 ◇交通費 320円 ◇資料 「我がまち再発見 人形町編」讀賣夕刊23.12.4、21 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞
「通過時間等」 自宅9:05-新宿線神保町駅9:45-同浜町駅9:55=浜川緑道10:05=笠間稲荷神社10:15=末広神社10:20=人形町通り10:40=椙森神社11:15=宝田恵比寿神社11:30-JR秋葉原駅11:49・・・自宅13:40

私が登った百の名山&低山=東北編=「高山の様相を呈した葉山に登り、ブナ林を下る」

 山形へ帰った機会に葉山へ登った。首都圏のハイカー達には村山葉山と呼ばれて知られた山である。小生にとっては、隣町にあり、月山前哨の山として、故郷一帯に覆い被さるような山姿には子供の頃から慣れ親しんでいた。麓に住む年上の従兄弟が記した青年時代の登山紀行を読んだ記憶もある。

 十部一口から 葉山(1,641m)は山頂下には池塘が点在し、雪渓が残る高山並の山であるが、登山口から1時間強で山頂というハイキング程度であった。数ある登山口から十部一口を選んだのが幸いした。十部一峠からは肘折温泉が近い。それにも増して、ブナ林が美しかった。東北の山特有の山毛欅の美林が麓から尾根筋まで広がっていた。その下を癒されながら上り続け、また登山口へと下った。   
 北の山には未だ躑躅や木蓮、シャクナゲが咲き、ドウタンの花が垂れていた。そんな中、同行をお願いしたY君と上った。彼には、御所山、甑岳、月山も付き合って貰った。

 美しい山毛欅林 十部一口の荒れた沢から山毛欅林になると尾根筋となり、緩い坂をひたすら上り続けた。人気の山のようで、登山口には10台前後の駐車があり、また、既に下りの2,3のグループと交差した。しゃくなげ平に上がり右手に見えた山が頂上と見当を付けた。まっど沼を過ぎて、足下にはゴセンタチバが咲いている。どうたん坂をこなし、最初の池塘を見た。左手には肘折コースもあって、復路のため下り口の目印を確かる。直ぐ葉山神社奥の院へと飛び出し、山頂かと思ったら、休憩中の夫婦がもっと先と、指をさしてくれた。ここからは単身で山頂を往復。Y君は疲れたのであろうか。そんな風には見えなかったが。

 奥の院、山頂 やや歩きにくい灌木地帯を斜行して、頂上到達。周囲が木々に遮られた狭い一画で、先行グループが昼食中。記念に標識を写してUターン。ここで右手下に雪渓を見た。池塘、山の内コース分岐を経て、奥の院に戻る。無事登山と家族やぽんずの健康をお願いする。
 昼食後下山開始。お握りは実家の義姉が持たせてくれた。低木の藪中を過ぎて、ブナの木の下で見事に転んで左手を打ってしまった。一瞬折れたかなと心配したが、腫れもなく指は動き、痛みだけ。捻挫程度で済みラッキーとしか言いようがない。昨夜来の雨の影響で、泥状の下りに足を取られてしまった。要注意の場所なのに油断していたことも確かだ。その後は順調に下って登山口へと着き、麓へ続くぶな林を眺めながら林道を1時間程歩くと、車を停めた場所、十部一峠であった。

 同級生の蕎麦屋へ 帰郷の序で念願の葉山に登り、良い山行となった。しかし、反省材料もある。下調べが不十分で、深い山中に登山口を探すのに時間を要した上に、登山口の大分手前に駐車してしまい、更に登山口まで約1時間歩き時間を喰った。また靴が履き古したウォーキングシューズであったため、下りでは滑って転倒してしまった。しかし無事下山出来た。Y君に感謝する。帰途には、同級生の営む蕎麦店に寄り、自慢の手打ちと季節のジュンサイをご馳走になった。(2009/7/5 18/100) 

追記 葉山も子供の頃から毎日眺めた山である。しかし隣町の西方も奥で、登山迄は思い浮かばなかった。それが実現した。登山口迄往復運転してくれたY君のお陰である。下山の際滑り転んで左腕打撲してしまった。一か月前後痛みがあったのを覚えている。打撲で済んだのが幸いであった。
麓に住む年上の従兄から今年も賀状が届き、健在と知った。卒寿も近い。

JR根岸線から横浜線、八高南線を乗る

 最近乗り鉄が多く、JR東日本路線はほぼ乗り切ったかなあと考えていたが、神奈川の根岸線は未乗車と気付いた。横浜から根岸経由の大船間で、11駅ほどの短い区間22.1㎞であり、そのうちにと思っていたが、近郊路線に乗り継ぐミニ乗り鉄を思い付いて、即実行した。

 大船駅から根岸線乗車 池袋駅から大船駅を目指した。最近知った路線で湘南新宿ラインである。山手線大崎駅から武蔵小杉駅、横浜駅へ走り大船駅で、速い。並ぶホームに停車中の根岸線に乗る。
 港南台駅、陽光台駅を通過。高台の住宅街だが、電車は低地も走りトンネルもある。三浦半島の付け根の部分か。磯子駅(写真上)から根岸駅へ出て、右手に湾がちらちらしだした。一昔前京浜東北線に磯子行きがあった。根岸に住む同僚が居て訪ねたことを思い出したが、半世紀も前の一度だけのこと。桜木町駅で八王子行き横浜線に乗り換え可能と車内アナウンスがあり、乗り換えた。

 横浜線から八高南線 横浜線は、今夏相模線を乗り切り後橋本駅から横浜駅へ乗ったばかり。橋本駅から先の八王子駅迄は久しぶり。京王相模原線で南大沢キャンパス通勤時代は少し縁があったが10年振りか。思い出すような車窓風景もない。  
 八王子駅で、八高南線に乗り継ぐ(写真下)。今回のもう一つの目玉は当駅から拝島駅迄の乗車で、一度逆方向から乗ったと思い、記録を捲るが不明。この間を乗らないと八高線完乗とは言えない。北八王子駅、小宮駅の二駅は簡単に通過し、多摩川を渡った。そのまま川越行きに乗り続ける。今夏奥多摩からの帰途ルートである。東福生駅で、右手を眺めていたら基地から大きな原っぱで、横田基地の飛行場。初めて眺めたが、飛行機は見えない。

 思わぬ故障で停車が続く 高麗川駅から川越駅に向かったが、的場駅で停車してしまった。踏切が故障で、前の列車の通過待ちとの案内。このルート選択を少し悔いたがいかんとも出来ない。30分程で発車し川越駅に着き、埼京線に乗り大宮駅を経由し、浮間舟渡駅へ向かった。今回途中下車しない一筆書き乗車の筈で、下車駅改札口で料金を確かめた。(2024/1/21 K.K.1541)

◇日時 2023/12/20 ◇天候 曇り ◇資料 「全国JRマップ 東京付近」 ◇交通費 230円  ◇歩行距離等 3,000歩 4㎞
「通過時間等」 自宅8:35-JR巣鴨駅9:08-同池袋駅9:24-同大船駅10:26-同桜木町駅10:55-同八王子駅12:09-同川越駅14:00-同浮間舟渡駅15:00-自宅15:30

私が登った百の名山&低山=東北編=「憧れの西吾妻山は変化に富んだ山であった」

 西吾妻山(2,035m)に登った。吾妻連峰最高峰で、深田百名山にも選ばれた我が故郷山形の名峰である。何故か駅からハイキング誌に掲載されていて、以前からマークしていた山である。大学は夏休みに入り思い切って朝市番の山形新幹線で出掛けた。登山口は白布高湯温泉にあって、現在ではロープウェイからリフト三台乗り継ぐ。後に調べるとリフト終点の地は1,800mであるから僅か200m程度の登攀である。しかし西吾妻は変化に富んだ懐の深い山であった。トレッキングコースとして紹介されている程であるから、楽なコースと錯覚していた。2,000m級の山としては、時間的には余裕があったが、ゴロ石道や岩場の急坂、岩海と呼ばれる溶岩地帯、湿原の泥道もあって、想定以上の西吾妻山であった。

 リフトを降りスタート つがもりリフト終点・北展望台から人形石を目指して山中に入ると狭い上に石がゴロゴロとした歩き難い道。ガイドにも良い道ではないとある程。登山道は木の根や岩石を越して進むのは常態だが、最近では経験のない悪路。上りが緩やかであったのがせめてもの慰め。しらびそ林を抜けて尾根に出ると人形石のある中大巓(ナカダイテン1,963m)に到着。数組のグループが休憩していた。

 たおやかな山容 右方先になだらかな緑の峰が広がり、その最高地が山頂のようだ。近寄りがたい北アルプスの岩峰とは違い、柔和に懐を広げて待ちかまえている感さえする。深田も、「人形石の峰の上に立つと、当の西吾妻山は気の遠くなるほど遙か向こうにある。・・・山稜は、稜線というよりは広大な高原で、ここへきてはじめて吾妻山西部の雄大なスケールを見た。」と書いている(「百名山」新潮文庫97頁)。雲が出て遠望はなく、期待した安達太良山や磐梯山は望めそうもない。
 灌木地帯から湿原に入って、木道を行く。一旦下って花畑となり、様々な花がチラホラと咲くのが見えるが、写真は下りにする。大凹(オオクボ)水場先から岩場の道。急登も重なり、軍手を出し両手も使って懸命に上がる。短い区間ではあったが、白馬岳大池コース天狗原先の岩場を思い出した(91/8)。再度湿原となり地糖が散在してワタスゲが咲いている。白いこの花は家内が好きであった。梵天岩から天狗岩と溶岩地帯となる。後方の遙か下には先程歩いた木道が続いているのが見えた。岩石地帯を下りると3度目湿原で泥濘状態。先へ進む外はなく泥の中に足を踏み入れた。先程来の標識が「48/50」、「49/50」となり山頂が近いことを知る。

 湿原から山頂 西吾妻山頂上は樹林に囲まれた展望もない狭い地であった。標柱がなければ見逃す程のスポット。記念にカメラに収めた。誰もいない山頂では柱に帽子をのせ、根元にザックを入れた。11時40分、歩き出して2時間弱であった。先に聳える西大巓往復には時間が足りない。バス時間が決まっている。西吾妻小屋を経て天狗岩で、登ったばかりの最高峰を眺めながら昼食。吾妻神社参拝中に携帯が振動。通じるらしいが緊急ではなく応答はしない。岩海は飛び石のように歩けば簡単だろうが、残念ながら年齢と体重でそうはいかない。

 無事下山 梵天岩、急坂を下って大凹の清水で休憩。高山での夏場の水は有り難い。喉を潤し、顔を洗った。お花畑では花々をカメラに収めながら通過する。白い花はシナノキンバイだろうか。下りではかもしか展望台を経由。途中幼児を連れた男女を追い越す。孫らしく、ゴロ石道の下りでは、祖父が負んぶした。孫は多いが小生にはとても無理。自分が下るのに精一杯といった処。予定通り、北展望台リフト乗り場に着いた。下りのリフトからは、草原スキー場でローラースキーを楽しむ子供達が見えた。地元の小中生が冬に備えてトレーニングしているのだろう。バス時間前に下山して、米沢駅から新幹線で帰途に就いた。            
 今朝バスで白布に入り、我が国山岳観光道路の走り吾妻スカイラインとスカイバレーが完成した頃、高校の修学旅行で通ったことを思い出した。遙か45年前のことであった。車中では、漬物晩菊をつまみに地酒東光をゆっくりと味わった。                                 (2006/8/3 17/100)

追記 西吾妻山も、山形新幹線利用で日帰り登山であった。麓から山腹途中までは、往復リフトを利用した。吾妻連峰は縁の薄い山で、当山と東吾妻山を登っただけである。米沢の奥の福島県境で生家からも遠い。麓は有名な山の湯白布温泉であるがこちらも縁が薄い。

都心馬場先門から日本橋、大手町へ

 購読紙から箱根駅伝100回記念写真展が日本橋のデパートで開かれていると知った。駅伝ファンとしては、是非見たい。出掛けることにしたが、序に歩く先を探した。箱根駅伝10区が1999年に日本橋経由とされて久しい。私は往路を大手町から箱根芦ノ湖湖畔迄歩き通した(「山歩き里歩き1200紀行」76頁)が、唯一10区だけが往路と違うため、歩いていない部分がある。今回そこを歩くことにした。写真展のデパート前も通る。

 現10区コースへ 10区は第一京浜から日比谷通りだが、皇居前の馬場先門交差点で、90度右折する。私は三田線を大手町駅に降り、歩いた。旧勤務先のあるビルの近くで、見覚えがある。馬場先門交差点に立ち、孫達と応援したことを思い出した。孫の一人に“中大遅いね”と言われ、2013年ビリの時であったと思う。
 銀杏並木の下(写真上)、東海道・山手線高架下から京橋交差点へ歩き、左折である。この通りは少し馴染みがある。京橋にある居酒屋龍馬を贔屓にして、時々呑み仲間と通ったルート。懐かしくなって小路に入り確かめると、看板は健在であった。ここ数年ご無沙汰である。
 東京駅前通りを渡り、高島屋前から日本橋で、ライオン像のある三越本館に入り(写真下)、写真展を見学。報道写真とある。5区箱根の山登りをして山の神と呼ばれるのは順大今井、東洋大柏原、青学大神野の各選手だが、大久保初男の写真もあった。大東大で1974年から4年連続区間賞の大活躍であった。

 私の駅伝応援の歴史 私の箱根駅伝観戦は古い。以前事務所の広報誌に書いたことがあった。     
 晩秋からは駅伝シーズン。・・・何とはいっても、箱根駅伝である。小学生の頃、某新聞で予想を見ては、ラジオ放送を聴いた。兄と二人、炬燵にもぐって贔屓のW大学を応援した。縁もゆかりもなく単に知っているだけで、当時から田舎でも周知のブランド大学であったのだ。予想とは違い優勝はおろか上位入賞も敵わなかった。この頃はC大が憎らしい位に強く、6連覇を果たした時代であった。・・・ようやく宿泊先が確保できた。兄へ連絡すると先ずは大手町で1区のスタートを見送ってから、テレビ観戦し往路のゴール後、箱根へと出掛けて、翌朝大平台で6区山下りを観たいと言って来た。・・・ (「SOEI VOICE」2009年12月vol.57)

 大手町のゴール 日本橋から大手町へ歩く。右手が日本銀行で、常盤橋を渡り、また山手線高架下から大手町ビル街がとなり、新聞社前のゴールであった。箱根駅伝記念碑があり、99の優勝校が刻まれていた。(2024/1/14 K.K.1540)

◇日時 2023/12/13 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「箱根駅伝まるごとガイド10区」2007 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅12:40-三田線大手町駅13:25=馬場崎門交差点13:40=京橋13:50=日本橋14:10=三越箱根駅伝100回記念写真展14:15/14:30=大手町15:00=三田線大手町駅15:07-自宅15:50

JR篠ノ井線で諏訪高島城跡へ

 JR東日本大人の休日俱楽部パスの最終日は、長野の篠ノ井線に乗り上諏訪へ行き、高島城跡を訪ねることにした。篠ノ井線は乗ったことはあるが、今回は風景を楽しみながらゆっくり乗車したい。最近城跡探訪の記録を整理しているが、高島城跡(91.5.1)はメモも見当たらない。見学した記憶ははっきりしている。再訪することにした。

 篠ノ井線乗車 北陸新幹線で長野駅を目指した。新幹線は速く長野は近くなった。上野から1時間ちょっとで着き、名古屋行き特急に乗り換える。鈍行が良かったのだが、過疎ダイヤではそうはいかない。それも松本駅迄ノンストップ。
 篠ノ井駅から右手の山の方向へ走った。直ぐ姨捨で、ここまでは2度乗った。棚田風景が知られ、芭蕉も寄って句碑があり、私も追っ掛けた。風景を眺めることなく特急は通り過ぎた。列車は上り切ると高原の地で、左右に集落も見え山間ではない。聖高原や明科はそれなりの駅と思うが停まらない。降りて駅周辺を散策し次の列車でとも考えたのだが。山を下りて、松本駅に停車したが、私は塩尻駅迄乗ることにした。塩尻駅での乗換えの際、駅そばで昼食。嘗て中央本線で奈良井へ行った時当駅で乗り換えたこと(17.11.28)を思い出した。この時帰途は篠ノ井線だったが夕暮れの特急で記憶にはない。

 復興天守の高島城 上諏訪駅は近く10分もしないで到着し、高島城城跡へ向けスタート。二度目でおおよそのルートは分かり、駅から近い。踏切を渡ってケヤキ並木通りを行き、左折して橋を渡ると三の丸跡で、古い味噌蔵丸高があった。
 また橋を渡る住宅街だが二の丸跡という。そして内濠の先に三層の天守閣(写真上)があった。冠木橋を渡り、冠木門(写真下)から本丸跡へ入った。広くはない郭跡だが公園で、一回り。
 当城は、1590(天正18)年から7年かけて秀吉家臣日野根高吉が築城したが、1601年戦国時領主であった諏訪頼水が帰り城主となった。その後3万石前後で諏訪氏が10代に続いて明治を迎えた。諏訪氏は、信玄に滅ぼされた諏訪氏の一族という。
 現存の天守閣は、明治時代の写真から1970(昭和45)年復元されたとある。今では50年経過しそれなりに歴史を感じさせる。当時諏訪湖は大海で迫り、浮城と呼ばれたが、天正年間から天竜川へ釜口水門の治水工事をして湖面が後退し、現在では、諏訪湖迄は距離がある。初訪の時、吉良上野介の子義周が、赤穂浪士討ち入り事件後当城に幽閉されたとの案内があったと思うが見当たらない。そのような情報はネット上にはあった。
 上諏訪駅に戻り、地酒麗人を求め、新宿行あずさ30号を待った。(2024/1/9 K.K.1539)

◇日時 2023/12/03 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス  ◇歩行距離等 9,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅8:10-JR上野駅9:26-同長野駅11:00-同塩尻駅12:18-同上諏訪駅12:35=高島城跡12:50/13:15=JR上諏訪駅13:34-同新宿駅15:48-三田線巣鴨駅16:11-自宅16:40

私が登った百の名山&低山=東北編=「故郷の霊峰月山は花の咲く山であった」

 遂に月山に登った。月山は子供の頃から思い出の中に在る山である。山形盆地の西方中央に位置し我々を見下ろして、登校時も下校時も、毎日同じ山姿で見守っているようであった。春遅くまでも真っ白な丸い山が印象的であった。しかし蔵王登山は盛んであったが、月山は、素人には無縁で遠い存在であった気がする。

 リフトから登山道へ 還暦三人組は、姥沢から往復リフトを利用した。牛首までは姥ケ岳をトラバースするルートで、花畑の中の木道を進み小さな沢を三本越し、左手には雪渓を見た。牛首分岐手前では緩やかな上りに傾斜が増した。多くの家族連れ登山者達と前後になりながら、30分毎に休憩を取り、人気の山を上り続ける。既に下山する者とも出会う。山頂小屋に泊まったらしい。雨の心配はなくなったが、雲が出て、展望はない。
 牛首を過ぎると本格的な山登りとなる。岩場の急登が続き始めた。しかし、登山道は階段状にしっかりと築かれて危険はない。霊山として信仰登山のために確保されたものであろう。本日の登山者にも白装束の姿が見受けられる。難所は一歩、一歩根気強く上り続ける外はない。鍛冶小屋跡で最後の休憩。頂上まではもう一息だ。S君の話では、最近まで小屋は営業していたという。

 頂上神社に参拝 山頂(1,979m)は、我が故郷から眺める山容と同じようになだらかであった。広いお花畑の中の一本道を進むと頂上神社。羽黒山の山伏達が管理に当たっていて、祈祷料を支払せられお払いを受けて最高地点エリアに入ったが、本殿では祈祷中で、三角点を踏むのを忘れてしまった。登頂記念にお札を求めた。山頂脇で昼食中に地震を感じた。結構強く、大山も揺れた。実家に電話すると被害はなく、震源地は宮城県沖という。今回は我が町の里山は見えなかった。十数回登ったS君は眺めたことがあるという。
 下山も上りと同じコース。眼下に広がる緑の絨毯の中に雪渓や花畑を見ながらマイペースで下り続ける。岩場の急降下では、二人に離されてしまった。やはり、2,000m級の登山は久し振りの上、下りは苦手で、慎重にならざるを得ない。それでもそう遅れないでリフト乗り場に着いた。

 花の咲く山月山の峰 月山は花の咲く山であった。先ずはニッコーキスゲの歓迎に驚いた。リフトから降りて歩き始めるとキスゲの黄色の花が目の前に広がっていた。今年は期待した霧降高原では会えなかったので、感激ひとしおといったところ。チングルマやキンコウカ、ヤナギランなどが花畑を占め、道端には濃紫のミヤマリンドウ、白のハクサンチドリ、シナノキンバイの鮮やかな黄花を見付けた。頂上草原にはハクサンフウロやアザミ、ウサギギクが咲き乱れ、食事したのはコバイケイソウの間であった。

 帰宅後調べると、月山はクロユリでは知られ、新・花の百名山(田中澄江著95頁)にも選ばれている。花々をカメラに収めたが、フィルムの巻き上げに失敗して一部が現像出来なかった。残念。 
 念願の月山登山を果たし、予想もしなかった花にも出会い満足して下山できた。年一度の夏山には、コースや時間、厳しさも丁度良い山であった。同行し案内してくれたS、Y両君に感謝する。次は鳥海山にチャレンジしましょう。(20005/8/16 16/100)

追記 月山は我が故郷の中心に聳える名山で、出羽三山の主峰である。なだらかで丸味を帯びた山容は月の山のようで、雪に包まれた季節はその感が強い。昭和23年制定の山形県スポーツ県民歌の冒頭に、“月山の雪紅染めて朗に明けゆく新生日本”とある。山麓は数回訪ねたが、登頂は僅かこの時一回だけ。蔵王山と比べれば、アクセスが良くないし、実家からも遠い。私には、眺める名峰であり続けている。故郷の同級生S、Y君には御所山も同行して貰った。約300年前、奥の細道を辿った芭蕉は、羽黒山滞在中、1689(元禄2)年6月6日(陽暦7月22日)強力に案内され、月山山頂に一泊し、湯殿山参拝したという。“雲の峰 幾つ崩れて 月の山”と詠んだ。

JR山田線から宮古、釜石、気仙沼を巡る

 JR東日本の大半の路線は、岩手の山田線を除き、乗り切っている。今回は盛岡から山田線乗り鉄とした。厳密にいえば、約40年前の夏休み三陸を巡った際(86.8.9)、乗っているが、記憶は薄い。山形へ帰郷する時足を延ばしたのだと思う。時刻表を調べると山田線全通列車は朝、昼、夕の三本しかなく、しっかりとした予定を組む必要がある。

 山中の山田線 盛岡発6時32分発宮古行き1番列車に乗車。1939(昭和14)年全通したが、現山田線は102㎞、15駅とある。北上川を渡り郊外へ出始めると周囲は雪景色(写真上)。北上山地を上がっているようで、次第に山へ入り山村で家屋も疎らとなる。区界駅は手前駅から30分以上を要し、スマホで調べると現在JR東日本では一番の長い駅間距離(25.7㎞)で、二駅廃止されたという。乗客の乗降は殆どない。度々トンネルを抜けて山中の渓谷沿いを走り続け、車窓からかもしかが見えた。ようやく北上山地も下りに入り、茂市駅を過ぎた。以前岩泉線が分岐していたが現在はない。

 山田線山田駅を通過 宮古駅に着いて、釜石行きを待つ。5年振りで、前回は久慈から来て釜石行きは、代行バスであった。現在三陸リアス線は繋がり、列車に乗車。周囲は熟年カップルが多く、大人の休日俱楽部会員のよう。テーブルがあり、呑み鉄用に宮古で求めた地酒を出す。津軽石駅から陸中山田駅へ。前回山田駅舎はなく、広場にプレハブ店舗が並んでいた(18.7.1)と思うが、現在は立派な駅舎であった。山田線は当駅が終着駅として開設されて、それからのネーミングと知る。大槌駅前後から車窓にリアス式海岸が現れ(写真中)、小さな岬から深い入江を繰り返して釜石駅に着いた。

 釜石駅、気仙沼駅 駅前へ出て、ひょっこりひょうたん島歌碑を探す。端に見付けカメラに収めた(写真下)。遅筆堂作家井上ひさし作で、島のモデルは先ほどの大槌の蓬莱島で、釜石に住む母親の許で2年程暮らしている。
 大船渡線盛駅迄は、三陸リアス南線に乗車する。こちらの方が、リアス式海岸が顕著で、左手にそんな風景が続く。盛駅から気仙沼駅へ代行バスで出た。演歌港町ブルースに、“・・・宮古、釜石、気仙沼”とあり、気仙沼の歌碑が再建されたらしいが、駅からは港は遠い。大船渡線で一ノ関へ着き、17時前の新幹線に乗車できた。(2023/12/28 K.K.138)

◇日時 2023/12/01 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス  ◇歩行距離等 6,000歩 5㎞
「通過時間等」 宿泊先6:15-JR盛岡駅6:32-三陸リアス線宮古駅9:56-同釜石駅11:30-JR盛駅12:40-同気仙沼駅14:21-同一ノ関駅16:48-同上野駅18:25-三田線巣鴨駅-自宅19:15

私が登った百の名山&低山=東北編=「帰省し兄に送迎して貰い登った水晶山」

 今年もお盆に帰省した。夕方ファミリーで墓参を済ませた翌日、水晶山に登った。候補には月山や葉山もあったが、実家から近く簡単に登れる水晶山にした。

 生家近くの里山 水晶山は東根市と天童市の境にある山で、昔はその名のとおり水晶を掘った山と伝えられている。標高は高くはないが故郷では知られた山。三角垂で左に傾いた山容は中学時代朝夕に眺めながら通学した。亡父も青年時代(昭和初期)に登ったと聞いたことがある。資料は持参できなかったが、地元の地図を兄が探し出してくれた。彼は仕事で2,3度登ったことがあるといい、山頂で測量のため三角点を確認したという。
 兄に車で麓まで送ってもらう。天童カントリーの先が登山口であった。周辺は整備されて、管理棟や案内板もある。そう難しい山ではないと思うが、頂上大和神社までは約1時間と検討を付ける。何時か実家で見たテレビ放送の記憶があった。

 山登り開始 杉林下の一本道を上り始めて、嗽清水を過ぎると急坂で狭い道になる。七曲がりのジクザグをゆっくりとこなして行く。やはり同級生S君が、昨日同じくIさんのそば屋で食事した際、‘水晶山は急だよ’と教えてくれた。彼は地元の高校時代山岳部で活躍した。山中は木々で覆われ展望がない中、やや荒れた道が山頂に向けて続いている。最近こちらでは熊が出ているとの報道が多いようだ。車中で兄からも熊よけ鈴を持っているかと言われた。ちょっと不安になるも直ぐに忘れて前進を続けた。出発時から雨模様を感じていたがその心配はなくなった。
 見晴台に着き休憩する。南西方面の林が切れたが見えるのは周囲の山だけ。小さな滑石(スベリイシ)を越すと上りが緩やかになり、山頂手前を進んでいることを実感する。先ほど山麓から眺めて山頂部分が平であることに気付いていた。

 三角点を探す 正面に建物が見えて、約1時間で山頂神社に到着。早速無事登頂を報告し、僅かな賽銭で家内や家族の健康などをお願いした。最高地点は裏にあるのだが道がない。携帯で兄に確認すると、ある筈だという。諦めて帰ろうとした際反対側にルートを見付け、三角点(667m)にタッチすることができた。山頂では東側が開け、東根側に山間を縫って一本道が走り、集落も見える。仙台へ通じる国道48号線かと思ったが、地図では東根市の猪野沢であった。郷土の名峰御所山は雲の中で見えないのが残念だ。下山も同じ道。参道を下り続けると、山を出たゴルフ場脇で兄の車に出会った。車には、昨日帰省した弟も乗っていた。
 今回の帰省では亡父の墓参の外、同級生との若干の交流とハイキングもできた。(2004/8/14 15/100)

追記 生家から近い東南にある里山で、奥羽山脈から少し離れている。水晶が取れたことからのネーミングとの説もあるらしい。中学時代登校時に眺め、名前と山容はよく知っていた。当時、帰省の際登ろうとは考えもしなかったと思う。私のこの記録の読者は山麓から近い地にお住まいである。私の駄文に毎回コメントを返してくれる有難い読者である。

JR常磐線、仙石線、そして女川へ

 待っていたJR東日本大人の休日俱楽部パス期間がやって来た。今回は盛岡駅からのJR山田線の乗り鉄がメインで、その前に南東北の新庄駅から及位駅を予定したが、雪の予報で気温も低い。それなら表日本側のJR常磐線で仙台駅へ行き、石巻駅、女川駅を巡ろうと思う。これらの駅間は未乗車である。そして盛岡駅前に宿泊先を確保した。

 常磐線で仙台へ 上野8時発仙台行きに乗車。常磐線唯一の仙台行き特急で、下りは初めてである。水戸駅、いわき駅を過ぎ、福島の海側を走った。富岡、浪江、双葉各駅付近では造成工事中の風景も見え、未だ復興半ばの地もあるようだ。原ノ町、相馬、そして宮城へ入り、仙台駅に着いた。約4時間の乗車で、昼食を取り石巻行きに乗り換えた。

 石巻線で初めての女川 電車は、JR東北本線から松島付近でJR仙石線に入り、石巻駅。少し待って女川行きに乗る。初乗車で石巻、女川間も石巻線と知る。石巻線は奥の細道ラインとある。芭蕉は仙台から松島、石巻、登米、そして平泉へと旅している。
 北上川を渡り、牡鹿半島へ向かっている。手前の新興住宅街は震災後の街のよう。右手車窓に静かな内湾が見え(写真上)、万石浦。カキやノリの養殖が盛んな海辺とある。反対側の車窓は山で、紅葉の林が続き、晩秋である。5駅25分で女川駅に着き、折り返し迄少し時間があり、駅前に出たが広場で(写真中)、街並みは先の海岸近くなのだろうか。それとも震災後の未整備地か。女川は、亡母に聞いていた。隣の山形から仲間達と金華山神社参りに来て、海産物でも求めたのであったろうか。女川港に金華山行きの船乗り場がある。

 小牛田、一ノ関、盛岡 女川駅から石巻線に乗り(写真下)、涌谷駅を通過。涌谷城址(22.9.14)を書いたら読者Tさんから遠足先とメールを頂いた。彼は近くの松山町出身の方であった。小牛田駅で東北本線へだが待ち時間があり、駅前に出た。ローカル駅としては大きな駅舎で、陸羽東線とのターミナル駅である。旧同僚Kさんはこちら故郷に戻ったが早世された。もう10年前だったろうか。
 通学生と一緒に一ノ関行きに乗車。一ノ関、新田間は伊豆沼の白鳥見物に一度往復したことがあるが、もう夕闇が迫り風景は見えない。一ノ関から新幹線で盛岡駅に下車。駅前でうろうろしていたら、道路端に雪がある。予報通りであった。石巻駅で求めた登米地酒のカップ酒で、部屋呑み。明日の早立ちに備え就寝した。(2023/12/22 K.K.1537)

◇日時 2023/11/30 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス  ◇資料 女川観光協会「おながわ ONAGAWA」22年8月 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞
「通過時間等」 自宅6:50-JR上野駅8:00-同仙台駅13:13-同石巻駅14:21-同女川駅14:46/14:55-同小牛田駅16:48-同一ノ関駅18:14-同盛岡駅18:50=宿泊先19:00

さいたま浦和に二社を巡り狛雉を見る

 最近テレビからさいたま浦和に氷川神社を知った。一つは、浦和出身の演歌歌手市川由紀乃が母校と隣の本太氷川神社を案内していた。そうしたら少し後に、南浦和に雉を狛犬の代わりとした氷川神社があると紹介された。いずれも興味を惹いて地図で調べたら、同じ市内で中央と南部でそう離れてはいない。我が家からも近く、安近楽コースとなろう。浦和郊外の見沼用水沿いにも氷川神社があり三社ほど訪ねている。

 浦和住宅街をウロウロ 私の浦和行きはJR埼京線で、バスで浮間舟渡駅へ出た。少し遠い浦和駅から歩く本太氷川神社を先にしようと武蔵浦和駅で乗り換え、南浦和駅で京浜東北線に乗った。浦和駅に下車し、本太四丁目を目指す。住宅街を順調に本太地区に入り三丁目だが、四丁目が見えない。学校らしき建物へと右折したが違い、神社もない。地元の方に尋ねたら方向も違っていた。大通りへ戻り、右折した先が本太小学校で、その隣が氷川神社であった。

 古社に参拝 社殿前へ進んで手を合わせ、孫たちの健康と成長をお願いした。氷川神社はあちこちにあるが、当社の社殿は一見して古社である(写真上)。調べると1500年前から鎮座と伝えられるが創建時不明とある。大宮の武蔵一之宮氷川神社からの分社と思っていたが違うのだろうか。本太小学校は、歌手市川の母校。市川は紅白にも出た中堅の歌手で、なんでも唄いこなし、私もユーチューブでカバー曲を聴いている。長身の美人である。住宅街の小路を浦和駅に戻った。30分の予定であったが、倍の時間を要した。

 南浦和氷川神社へ 京浜東北線を南浦和駅に降り、西口を出る。駅前商店街の裏手が大谷場氷川神社で、裏参道の坂を上がると境内であった。こちらも古社の社殿で、江戸前期の造りとある。また参拝して、表参道に狛雉を探し、カメラに収めた(写真下)。左は一羽だが、右は二羽で母子か。大きめの雉像で、珍しい。ふじみ野市水宮神社では狛蛙であった(23.4.29)。
 もう一社と浦和調神社を想定していたが市内西方でそう遠くはないだろうが、歩く元気を失い南浦和駅へ戻り、駅前の紅葉並木がある商店街を往復した。武蔵野線と交差する南浦和駅は、私には乗換駅で、下車し駅を出た記憶はなく、初めてだろう。京浜東北線で赤羽駅、板橋駅、三田線を帰途経路とした。(2023/12/15 K.K.1536)

◇日時 2023/11/22 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「埼玉県道路地図 浦和市」 48頁 ◇交通費 660円 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 
「通過時間等」 自宅8:30-JR埼京線浮間舟渡駅9:11-武蔵野線武蔵浦和駅9:36-京浜東北線南浦和駅9:42-同浦和駅9:50=本太氷川神社10:25=京浜東北線浦和駅10:57-同南浦和駅11:05=大谷場氷川神社11:10=京浜東北線南浦和駅11:26-埼京線赤羽駅11:56-三田線新板橋駅12:04-自宅12:25

私が登った百の名山&低山=東北編=「遂に故郷の名峰・御所山山頂に立つ」

 我が憧れの山、御所山 御所山は山形、宮城県境にまたがる標高1,500mの山で、全国的には船形山として知られ、現在では日本200名山や300名山に選ばれ、深田百名山の候補でもあった名峰である。私にとっては、我が故郷東根の最高峰でもあったことから、子供の頃から親しんだ憧れの山であった。亡き祖父(1883年生)が青年の頃に登った自慢話を良く聞いたし、また佐渡に流された天皇が脱出し最上川を遡上して御所山に隠れた伝説や粟畑の仙人の話などに纏わる神秘的な山でもあった。
 今回一緒に登ったS君が高校で山岳部に入り御所山に登ったと聞いた時は、いつかは自分もと思った。 

 同級生と登る 今回はS君、Y君それにS夫人のKさん。両君は中学の同級生。S君は奥さんと一緒にやっている果樹園経営に忙しく山はご無沙汰のようだが、直前に夫婦で月山に登ったとのこと。今回は彼の経験が頼りで、リーダーをお願いした。Kさんは、中学時代とS君と結婚当初に登り3回目と聞き、驚くとともに頼もしく思う。Y君は小学校時からの同級生で、現在はサラリーマン。ゴルフはやっているが山は数年前に葉山(1,462m)に登ったことがあるだけとのこと。私に誘われて付き合い登山。

 ブナの原生林に出会う 車で柳沢小屋を経て林道終点まで入る。我々のコースは六つある登山コース中の観音寺コースと呼ばれ、交通が不便なこととアプローチが長いためか、このコースを紹介した資料は少ない。林道が出来るまでは、遥か下、仙台へ通じる関山街道のバス停から歩き始めたという。明治期の祖父は東根から歩き途中の山中で野宿したと聞いたと思う。S夫妻も30年前はテントに泊まったという。深山で登山道は奥へ奥へと続く。
 緩やかな上りの山道を進むとブナ林に出会う。その見事さに驚嘆し、感動する。これまで、丹沢や奥多摩でもブナを見たが物の比ではない。大木、古木が林立し下方の沢に向かって一面に続くブナ林を見て、これが原生林というものかと納得する。ブナの原生林は、粟畑付近を除き、山頂下まで続いた。

 姿を現した御所山 粟畑で休憩し、仙台カゴ(篭を伏せた形の山の意)下の水場で水を補給する。楠峰手前の林が切れた巻道で、左手奥に雲を抱いた御所山が初めて見えた。山容が船をひっくり返した形に似ていることから船形山とも呼ばれる。山頂は遥か遠く、しかも緩やかではあるが下り始め、懐が深い山を実感する。Kさんが中学の時に五つの山を越えて登る山と教えられたとの話を聞いて、昔、五所山と書いた資料を見たことを思い出す。休憩を取りながら、倒木を跨いでブナ林の中を進む。

 急登、直登また急登 仙交小屋跡分岐を過ぎると上りが始まる。急な上に直登で、何故ジグザグに道をつくらなかったと先人を嘆く。Kさん一人すいすいと上る。日頃からの鍛え方の違いと節制の賜と男どもは意見が一致。ようやく上り切り平らな尾根を進むと右手に頂上が見えた。ブナ林を抜け出し、樹木のトンネルのような道からやがて潅木の中のえぐられた道となる。これが急勾配である上に真っ直ぐな溝のため両手を使い這うように上る。下りが苦手な私は帰りを心配する程の急な上りで、地図に“きつい登り”と特注のある地点。15分上っては数分休みを2,3度繰り返すと潅木が背丈より低くなり、頭上に風を感じ、頂上が近いことを知る。

 遂に山頂に立つ 11時23分に頂上に到達。上り始めて約3時間。明治期に祖父も立ったかと思うと感無量。頂上一帯はお花畑に囲まれた岩石の広場。すでに10人前後の登山者が昼食を楽しんでいた。我々も仲間に入り弁当を広げる。お花畑で咲き誇る白い花はチングルマと教えて貰う。西北に見える筈の月山、鳥海山などの山々は雲の先。それでも、時々雲が切れて近辺の山々が美しく、黒伏山などを確認する。風が出て温度が下がり始めたので、記念写真を撮り頂上を後にする。

 無事下山し皆で喜ぶ 下山は上りと同じ観音寺コース。頂上直下の急勾配の道を、ストックを使い草木に掴まりスピードを殺しながら慎重に下る。こんな急坂を先程は良く上ったと感心しながら、身軽に先頭を下るY君を懸命に追う。山のヴェテランS君も上りには苦労したと告白する。上り時に落としたコップが仙台カゴ下の水場で見付かる。拾った人が置いて呉れたのだろう。粟畑の先で最上カゴを右手に見た後、最後のブナ林をしっかりとカメラに収め林道終点に下山。
 Kさん、手を挙げて下山の喜びを表す。彼女も本当は決して楽ではなかったのだろう。私も登頂を果たした満足感と無事下山した安堵感を同時に味わう。帰りに柳沢小屋の水場で汲んだ水は、S君の推薦通りブナ原生林の下から湧いた名水だった。

 憧れの御所山に登り、念願を果たすことができた。大袈裟に言えば子供の頃からの夢が叶った。S君御夫妻、Y君のお陰である。一人でもと考えたが、上りだけで3時間も耐えられたかは疑問。長いアプローチ、最後の急登と予想以上の難コースであり、下りの後半は足がバテバテであった。
これで、100回達成と夏休み帰省の良い記念となった。(98/8/22 14/100)

追記 帰郷した時、実家近くから宮城県境奥羽山脈の山々を眺め、最奥に船底形を見付けては御所山を確かめている。ブナの原生林に感動したが、後に白神山地の原生林を見て上には上があった。世界遺産には勝てない。田中陽希さんの300名山トラバースのテレビ放映では、船形山 (御所山)もあり、尾花沢から上り、東根から天童へ下った。下山路も見覚えのある風景に見えた。尾花沢では名産西瓜も映った。1967(昭和42)年の夏休み御所山登山を計画したが、仕事の都合で断念したことを思い出した。

私が登った百の名山&低山=東北編=「ロープウェイを利用して蔵王山に登る」

 故郷山形に帰り、蔵王山に登った。蔵王山はその周辺の山形県民にとっては登山の原点となる山と言っても良いだろう。私にとっても登山と言うべき最初は、小学5年生夏の蔵王山である。高校1年、3年にも登った。ロープウェイは利用しなかったが、急登や鎖場もなく簡単に登れたという記憶である。

 ロープウェイで地蔵岳へ 山形新幹線でJR山形駅に出てバスに乗り継ぎ蔵王温泉に下車し、ロープウェイで地蔵様まで上がる。心配した天候は良い。地蔵様に登山の安全と飼い猫たまを含めた家族の健康をお願いする。周辺の山は、薄っすらと赤みを帯び季節は秋であることを教えている。
 最初は緩やかな上りの木道を進む。既に下山する人と会う。地蔵岳を越えると蔵王の主峰熊野岳(1,840m)が正面に姿を現した。南北に長いなだらかな山であるが、南側が崖になって落ちているのが特徴だ。

 熊野岳山頂を踏む 一旦下って熊野岳への上りとなる。白ペンキの外、棒杭で登山道を示している。冬期用であろう。火山特有の岩だらけの道となるが、歩き難い程ではない。途中から頂上へ直登する近道を利用して山頂に到着。歩き出して40分で頂上に立ってしまった。35年振りである。
 小憩後、斉藤茂吉の歌碑を確認し、熊野神社に参拝して、刈田岳に向かう。這松を見ながら進む。小学5年の時に知り、北アルプスと違い蔵王のものは小さいとの記憶であったが間違ってはいないようだ。

 お釜を眺める 馬の背に下ると蔵王のシンボルお釜(火口湖)が見えた。崖の一部が崩れたとの報道があったがその跡が正面に見える。お釜見物の観光客が多くなる。エコーラインが走り、すぐ近くまでリフトが動いているからだ。私も家内を連れて最初に帰郷した時お釜まで来たことがある。

 刈田岳でUターン  観光道路を避け、登山道を一人登って刈田岳(1,758m)到達。熊野岳と違い観光客が大勢展望等を楽しんでいる。山頂神社で記帳して馬の背に返し、熊野岳避難小屋を目指す。途中、宮城県側の町並みが見えた。地図で確認すると手前の大きな建物は蛾々温泉らしい。棒杭に沿って小屋に着き小憩。傍に仙台2中の遭難碑があった。熊野岳、地蔵岳間の鞍部への道は歩きやすい道。未だ花を付けた高山植物に出会いカメラに収める。後に調べたらコメバツガザクラのようだ。
 地蔵岳の山頂(1,736m)を経由し、地蔵様に無事下山を報告して、ロープウェイで蔵王温泉に下る。スキー場の草原で悠々と草を食むかもしかがゴンドラから見えた。温泉で汗を流した後、バスでJR山形駅に戻り奥羽本線に乗って実家に帰った。(97/9/20 13/100) 

追記 深田百名山蔵王山の主峰熊野岳もロープウェイを利用して、楽に登山できた。お地蔵様も茂吉歌碑、お釜も久振りであった。歌碑には、“陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ”と刻まれている。奥羽山脈を表し、茂吉翁は山麓の出である。馬の背始め、小学5年の登山で見覚えた記憶が蘇ることもあった。私には登山の原点であることを再確認したようだ。蔵王山は、その後も数回登っている。上京前冬はスキーを楽しんだ。

半端になった小田急自然ふれあい歩道伊勢原コース

 久し振りに弟と歩いた。今春の大山東山麓以来である。彼は平塚在住で、近くの小田急自然ふれあい歩道伊勢原コースにした。手元にコースガイドが残っていて、事前にpdfで送付した。私が伊勢原駅に着いたら、先着し待っていた。今回は約束の時間内だが、弟の方がいつも早い。

 伊勢原大神宮、十二社神社 土地勘のある弟のリードで、駅前通りにある鳥居下からスタート。この鳥居は大山にある阿夫利神社のものと知った。商店街通りを行き、伊勢原大神宮を目指す。思ったより距離があり、弟に付いて広い境内に入り、二社が並び外宮から内宮と参拝。両宮の他立派な社務所もある(写真上)。次の十二社神社は探し当てず、住宅街の中を右往左往。二度も尋ねてようやく集落の外れに見付かり、社殿前で、手を合わせた(写真中)。江戸後期に再建したとあるから古社で、社殿も古そう。時間を喰ってしまった。

 国道246号下を過ぎ、伊勢原も郊外の田園地帯のよう。火の見櫓があり(写真下)、カメラに収めた。未だ残っているのは珍しいだろう。耕雲寺前から大通りを渡り、左折し側道へ。ハイキングコースらしくなく、前の弟に声を掛けて戻り、次の小川沿いの里道へ左折した。そうしたら咳止地蔵尊の小社があった。私は、僅かな賽銭を入れ、風邪気味という孫の回復をお願いした。高2の孫は沖縄への修学旅行を控えて医者通いと聞いていた。

 右手の森の間にある建物は牛舎らしい。市民の森ふじやま公園には入らないで、直進を続けると大通りへ出て、東名高速道路下。左手先には大山が聳える。先ほど来、脚に疲れが出始めていて、調子が上がらない。コース半ばだろうが、弟にリタイアを伝えバス停はないかと聞く。通りにあって到着時刻を調べると少し間があり、次のバス停専大入口迄歩いて、バスを待った。左手先が日向薬師と弟が教えてくれた。
 8㎞程歩いただけなのに弟の前でだらしない姿だが、年齢には勝てない時期なのだろうと勝手に判断。十二社神社を探すのにウロウロして手間取りペースが乱れたのかもしれない。少し遅れてバスが来て、伊勢原駅に戻った。
 駅裏中華店で、昼食。弟は、晩酌のつまみを渡してくれた。先日の私の誕生日には好物の飲み物を送ってくれた。感謝で、お返ししなくてはと思う。
 後日、孫は修学旅行に参加し沖縄土産が届いた。咳止地蔵様への祈願の効き目があったようである。お礼参りは遠いので、あちらを向いて手を合わせた。(2023/12/7 K.K.1535)

◇日時 2023/11/15 ◇天候 晴 ◇資料 小田急「小田急自然ふれあい歩道伊勢原コース」 ◇交通費 1,440円 ◇歩行距離等 13,000歩 10㎞ 
「通過時間等」 自宅7:50-新宿線神保町駅8:25-小田急新宿駅8:40-同伊勢原駅10:05=伊勢原大神宮10:20=十二社神社10:45=咳止地蔵尊11:10=専大入口バス停11:49-小田急伊勢原駅(昼食)12:10/12:48-新宿線新宿駅13:55-三田線神保町駅14:09-自宅14:45
 読者Wさんから、「楽しく読ませていただいています。遅くなりましたが、1514号にあったカブトムシ型機関車についてですが、日本最初のカラー映画高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」に登場したものかと思います。」軽井沢駅前展示の草軽電鉄の機関車です。ありがとうございました。

都内台東に玉姫稲荷神社を訪ね、荒川線に乗る

 ネットからか玉姫神社を知り、未訪だなと調べると台東区も浅草の裏で、隅田川に近いと分かる。我が家からはアクセスが良くなく、手前だが地下鉄日比谷線が近いと思うが、最寄り駅も決めかねた。地図を出し、迷った末入谷駅とした。帰路は、南千住から荒川線三ノ輪橋駅へ歩こうと思う。

 吉原弁財天、吉原神社 大江戸線を上野御徒町駅に降り、日比谷線に乗り換える。入谷駅で下車し、金美観通りを歩き出す。国際通りを渡ってせんわ通りを直進。浅草の裏で、商店と住宅が混在する下町風景が続く。小さな交差点で左折すると吉原弁財天があり、参拝。
 案内によれば、関東大震災で逃げ場を失った方々が当地の池で数百人が殉難したとある。現在は狭い境内だが小さな池も残され、観音像が建立されていた(写真上)。直ぐ先左手が吉原神社。こちらも簡単に社殿前で手を合わせて、また通りを歩き続ける。
 当地は初めてで、案内には吉原遊郭があった地とあり、そして交差点は吉原大門とあった。大通りへ出て北上をしていたら、目の前が明治通りと知り、地図を確かめ清川地区へUターン。小路に入り、公園の隣に目指す玉姫稲荷神社が見付かった。

 玉姫稲荷神社 境内へ入って驚いた。狭くはない地に車が乱雑に駐車し、一画はゴミ捨て場になっている。何とか社殿前へ出て、詣でた(写真中)。由緒書きはなく、ネットで調べると、760(天平宝字4)年に創建され、王子の王子稲荷神社とも関係があり、東京大空襲で全焼したが、1953(昭和28)年に社殿が再建されたとある。氏子には、地場産業製靴業者も名を連ねており、毎年11月に「靴のめぐみ祭り市」として、靴の大安売り市が開かれるという。そうしたら、入口に靴のめぐみ祭りの幟がたっていた。後日、テレビの都内ニュースで放映され、境内にびっしりと並んでテント店舗が出店していた。ネットから、当地も浅草の地で、奥浅草と呼ばれると知った。

 荒川線に乗る 隅田川河畔へ出るべく明治通りへ歩いて、白髭橋へ。見覚えがあり、左手が石浜神社で、三ノ輪から汐入公園へ歩いたコースと重なった(21.12.3)。白髭橋でスカイツリーを眺めるが、工事中のクレーンが邪魔をしている。
 袂でバスに乗り、都電荒川線三ノ輪橋駅へ。最近、ご当地ソングの女王水森かおり(近くの北区出身)が“遮断機が 上がって下りて 一両電車が行く・・・”と唄う“荒川線”があると知り、聴いた。久しぶりの荒川線は下町を走り(写真下)、王子駅から飛鳥山の坂を上がって、巣鴨新庚申塚駅に着いた。(2023/11/29 K.K.1535)

◇日時 2023/11/08 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「東京都市図 入谷」29頁 ◇交通費 180円 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」 自宅8:20-大江戸線春日駅8:58-日比谷線御徒町駅9:10-同入谷駅9:15=吉原弁財天9:35=吉原神社9:40=玉姫稲荷神社10:10=白髭橋10:25-荒川線三ノ輪橋駅10:40-三田線西巣鴨駅11:26-自宅11:55

私が登った百の名山&低山=東北編=「故郷の名峰甑岳にチャレンジする」

 甑岳(コシキタケ)は、宮城県境周辺の山以外では山形県北村山地方最高峰で、1,016mあり、子供の頃から、朝な夕なに仰ぎ眺めて来た山である。今回の登山は、夏休み帰省を機に計画した。地図等を探したが詳しいものはなく、5万分の1の地図だけである。北から見える山型が昔の聖篭・甑の形に似ているからの命名らしい。

 楯岡口から入山 前日は、東根(山形県東根市)側から登ろうと甑岳直下の登山口と思われるお不動様を探したが見付からず、周辺の沢等を一時間以上さまよって結局断念し、今日は、楯岡(山形県村山市)口から登った。登山口は、東沢公園へ行く手前の右側にすぐ見付かり、少し山に入った村山市の上水池の脇まで、車で送ってもらい、歩き始める。車も通行可能な林道をしばらく進む。既に下って来る車と会う、きのこ採りか。間もなく林道も終点となり、丸木橋を渡って登山道となる。三本の丸木からなる橋は二本が折れていて、一本のみ通行可能で慎重に渡る。緩やかな上りの杉林がしばらく続き、30分歩いて5分休憩を取る。

 登山口の案内図には頂上まで6kmとあって、2時間30分前後で頂上到達と読んだが、それ以上は見当がつかない。頂上まで一本道なので迷うことはないだろう。完全ではないが標識もある。清水、馬立沼を通過。新道旧道分岐点で、約1時間経過し、休憩。林の中からきのこ採りの人が出て来る。挨拶をして尋ねたら、頂上まではちょうど中間の地点だという。栗や楢の林の中を、倒れた大木を超えて進む。林の最後の地点が急坂で上ると尾根に出た。そこで、やっと東根側が見えた。標識があり、「左頂上、右東根ハチガ沢山荘」とある。山小屋があるとは聞いていなかったので、興味が沸く。緩やかな上りの尾根道を登り続ける。頂上はすぐかと思ったが未だ先のようだ。時々、東根側の山々が見え、下に見え隠れしている林道は昨日通った道のようで、すぐ下の沢も昨日ウロウロした所のようだ。あんなに近くまで来たのに登れなかったのは残念としか言いようがない。

 尾根から登頂 尾根道は緩やかな上りで岩場も無くて歩き易く、木々も低くなり、道のそばには桃色の花があるが名は分からない。これまでのオーバペースが崇ってか、ペースダウン、小憩を取りながら登る。頂上が近いので自然に足が急いでいるのであろう。意外に遠いなあと思った途端に、少し広いスペースに出て、そこが頂上。念願の甑岳山頂に立った。オーバーに言えば、30数年前に一度試みたが途中で引き返したので、それ以来の悲願達成である。所要時問1時間50分。速めだ、いや速すぎた感じ。

 展望を楽しむ 頂上は、360度とはいかないが、展望が良い。東は黒伏山系、西は葉山山系、その間に、東郷、神町、天童、最上川を挟んで谷地、大久保方面が見事に見える。東根本町や楯岡は、山の真下で見えない。村山平野は稲穂の黄金波を打っているが、街並みが広がり、大きな建物も多く黄金の絨毯とまでは言えない。
 頂上には、祠や最上徳内(楯岡出身で江戸末期の北方探検家)の顕彰碑、登山者の登頂記念の杭があった。尾根道を下る。上る時は気が付かなかったが、意外に急降下だ。拾った杉の枝を杖として使い、慎重に下る。途中、男女5人の中高年グループに出会う。甑岳も中高年登山者の恰好の山であろう。

 東根側へ下山 頂上・東根(ハチガ沢山荘)分岐点に着く。東根側に下りようと決心。ハチガ沢山荘への道は、最近歩いた形跡は無いようだが、急坂には階段やロープがあり一応整備されている。しばらく、防火線として設けられた土塁の上の道を進む。ハチガ沢の六の坂から一の坂を下り、ようやく山荘に到着。12時に近い。下り口に「甑岳登山口4km」と書かれた小さな木札があった。現在では、ここが東根側の登山口なのだろう。途中、右手に沼が見えた。大木沢沼だろうか。
 ハチガ沢の下り口は、多分こうだい橋のところだろうと予想。所要時間は10分か20分か。ところが、ハチガ沢は意外に深い。下れども、下れども沢は終わらない。結局、約40分を要してハチガ沢を抜け出し、こうだい橋を通過。ここからは、ひたすら東根目指して歩く。13時30分に無事帰還。実家ではそんなには心配していないのでほっとした。 

追記 甑岳は子供頃から毎日眺め、高峰と思っていたが、最近帰郷すると高めの里山に見えてしまう。北ア始めそっちこっちの高山を経験し眺めたからであろうか。それでも、甑岳は、今も麓の我が故郷を見下ろし続け、懐かしい山、懐かしい風景である。5年後同級生Yさんと再登した(99.8.29)。

湘南大磯に松並木を再訪し平塚八幡宮へ

 JR東海道本線沿線を歩くことにした。とは言っても小田原手前で、湘南の地である。大磯の東海道には松並木が遺り、一度歩いたことがあって(99.12.8)、その印象が残りもう一度である。平塚にある八幡宮にも寄りたい。駅から近いと知る。そして、茅ヶ崎の寒川神社は古社で、相模一之宮である。

 大磯駅から松並木を往復 小田原駅から乗った東海道本線を大磯駅で下車。先ほど車窓から松並木を確かめた。駅前を右手へ進み、東海道へ出て側道を行く。左手に松の木が見えて近づくと大磯町役場付近で、もっと先だろう。20年も前のことで記憶が薄い。大磯中学校前を過ぎると、松の木が見え始めた。カメラを出し歩き続ける。
 街道両側に松の木はあるが、もう並木を形成しているとは見えない(写真上)。歴史を刻んで、生き残りの松達なのであろう。アングルを探す。大磯の松並木に最初に会ったのは、中学の修学旅行時で、箱根強羅温泉を往復した際であった(1959(昭和34)年3月)。そして、正月の箱根駅伝4区、7区のコースで、テレビでも時々眺めている。東海道旧道は狭く、並木の外側に道が設けられて、現在では、上りと下りの街道が並行している。旧吉田茂邸は少し先だろう。
 駅へ戻りながら、当地の旅館に宿泊し箱根駅伝を応援したことを思い出した。1月3日の復路7区で、一度は兄夫婦と、もう一度は娘夫婦と一緒であった。箱根に宿泊先が確保できず、当地の知り合いに紹介して貰った。目の前をランナーたちは通過したが、速かった。母校の活躍を期待しているが、エースの復調がカギのようである。

 平塚八幡宮は大社 東海道本線を平塚駅に降り、駅前案内図で確かめ、八幡宮を目指す。平塚のこの辺りは初めての地。ネット情報では近いとあったが、駅前大通りを直進するがなかなか見えない。三叉路に架かる歩道橋が宮前とあり、ようやく着いた。
 意外にも大きな神社で、大鳥居から池に架かる橋を渡る長めの参道を進み本殿前へ至り(写真中)、手を合わせた。広い境内には樹木が生茂り、小社が並び神馬もいて厩舎もあり、幼稚園も併設されている。社伝では仁徳天皇68年(380年)創建という。

 境内を一回りして、駅へ戻る。歩道橋は避け、右手信号のある交差点を渡り、商店街を通り平塚駅であったが、脚に疲れが出始め、茅ヶ崎の寒川神社は止めにして、東海道本線に乗り続け新橋駅へとした。実は昨日も箱根仙石原でススキ草原を歩いていた(写真下)。その所為であろうか。年齢には勝てない。残念である。(2023/11/24 K.K.1533)

◇日時 2023/10/30 ◇天候 晴  ◇交通費 2,710円 ◇昭文社「箱根駅伝丸ごとガイド往路4区」35頁 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 
「通過時間等」 宿泊先8:00-JR小田原駅9:16-同大磯駅9:40=東海道松並木9:55=JR大磯駅10:25-同平塚駅10:35=平塚八幡宮10:45=JR平塚駅11:15-同新橋駅12:32-三田線内幸町駅12:45-自宅13:25 

私が登った百の名山&低山=東北編=「乳頭温泉から田代岱湿原を往復する」

 田沢湖から乳頭温泉郷へ 盛岡から田沢湖に着くと雨は本降りとなった。雨に煙る夏休み前の湖畔は観光客も少ない。散策や釣りも適わず、レストランで麦酒を戴く。当地産の地麦酒はなかなかのものだ。バスの到着を待って、乳頭温泉郷の一つ黒川温泉を目指す。バスを降りた国民休暇村で昼食を済ませ、我々一行5人は黒川温泉に向けて歩き出した。

 一軒宿黒川温泉 秘湯と呼ばれる温泉は、やはり車で玄関横付けではらしくない。自分の足で辿り着いてこそ山奥の一軒宿の気分が増すというものだろう。タイミング良く雨は上がっている。ブナ林の中の道をゆっくりと歩くと、空吹湿原の入口が見付かったが、雨後の悪路に皆敬遠してしまった。温泉特有の硫黄の匂いがし始め、20分程で谷に下りて黒川温泉に着いた。一人、空吹湿原を歩いた。ブナの密林の一画にある小さな湿原は既に夏であった。

 田代岱湿原を往復する 山峡の谷底に建つ茅葺きの湯宿は、温泉と食事のみが楽しみだ。夕食時に聞いた山帰り客の情報では、田代岱湿原は花盛りという。当温泉がロケ地となった一昔前の女優中野良子のポスターと並んで貼られた湿原一面に咲く高山植物のポスターも、登山意欲をそそる。天気もどうやら雨ではなさそうだ。乳白色の朝湯を楽しんだ後、一行に断り、一人田代岱湿原に登ることにする。おにぎりを特注して、地図や雨具、水と一緒にザックに背負った。
 黒川温泉の下、孫六温泉先に登山口は見付かった。取り付きから急坂である。雨上がりの山道を滑らないようにゆっくりと上る。昨夜はたっぷりと睡眠を取り、休養十分で調子は悪くない。ブナの大木の間を過ぎると直登の道は更に勾配を増す。展望のない林の中のルートは頂上湿原まで、楽しみはないのだろうか。心持ち周囲の木々の背が低くなり、沢のような道になった。もう、高度は1200mを超えている筈だ。ほぼ予定の時間で潅木を抜け出し、湿原に到着。早速日光キスゲが目に飛び込んできた。

 高山植物と出会う 尾根道と交差した地点で、腰を下ろして休憩する。登山口以来人っ子一人にも出会わない。雲が低く風がある山頂の湿原は寂しさが漂い、長居は無用である。湿原に咲く花は昨夜の情報程ではない。それでも湿原の木道を少し徘徊して4種類程(イワブクロ、アカモノ、ヨツバシオガマ等)の高山植物をカメラに収めた。
 初めての山は上りと同じルートを採り、ほぼ変わらない程の時間を要して、孫六温泉に下りた。中年夫婦の入る温泉に浸かり、汗を流す。黒川温泉とは違い湯は透明であった。本格的な登山は久しぶりどころか、昨年の夏山以来で、風邪気味でもあり、体力的に心配であったが、先ずは順調にこなした。下山後、バス待ち時間に大釜温泉で秋田の地酒「酒王秀よし」を求めた。

 秋田新幹線で帰京 バスで田沢湖駅に出て、秋田新幹線で帰京した。途中、駒ヶ岳の麓を通り、未だ余力が残りバスを降りようか一瞬迷うも、展望のない山は魅力が少なく、次に回すことにした。夕方には自宅に戻り、午前中は陸奥秋田の山頂にいた筈の自分に驚いた。
 今週はK工業会研究会に招かれて、その後の分科会にも参加させて戴き、そのついでに秘湯から山を楽しませて貰った。皆さん大変お世話様でした。ありがとうございました。(2001/7/13,14 11/100)

追記 秋田の山は当山のみで、乳頭山の近くようである。乳頭温泉郷で、黒湯や孫六温泉を楽しんだ。その後、城跡巡りや乗り鉄はでは数回秋田を訪ねたが、鳥海山の鉾立口も車で往復であった。秋田駒ケ岳はチャンスが巡って来なかった。

都心平河町から濠端を桜田門へ歩く

 購読紙木曜夕刊の“我がまち再発見”は毎週楽しみなシリーズである。現在の私に最適なアウトドアガイドで、これまでも数度紹介コースを歩いている。今回は、東京・半蔵門コースが掲載された(23.10.12讀賣夕刊)。特に、平河天満宮が目に付いた。当社参拝を中心にマイコースを描いた。
 神保町駅から半蔵門線に乗り永田町駅に降りて、複雑な迷路を思い出した。赤坂のプリンス通りへ出たいが、これが大回りした上に南北線ホームを端から端まで歩き改札を出て、山勘で上がった先が偶然にもプリンス通りで、ラッキーであった。

 永田町駅から平河天満宮に参拝 両側にホテルがあるビジネス街と思う。直ぐ、赤坂プリンスクラッシックハウスで、西洋邸宅風のホテルが建っている(写真上)。現在もレストランとある。見上げてカメラに収めた。通りを直進し、初めてのような風景が続く。日本テレビがあった麹町はこの辺りだったろうか。
 平河天満宮を目指し右折して、右側通りを覗き、坂を下ると鳥居があった(写真中)。都心にしては広い境内。伏せた牛の像が左右にあり、本殿前で参拝。由緒書きによれば、太田道灌が江戸城内に創建したが、秀忠が当地に移したという。鳥居には空襲の痕が遺るとあり、確かめた。 

 国立劇場から濠端へ ガイドにある有名天ぷら店があったが、開店前。半蔵門は省略し、国立劇場へ。外観は正倉院の校倉造だが、老朽化で建て替えすると、先日テレビの“笑点”で知った。裏から正面へ回る(写真下)。私には縁のない劇場だが、一度だけ旧職場の観劇会に入場した。家内と一緒で30年も前のこと。
 内堀通りを渡り、濠端を下る。右手が最高裁裁判所。ここは思い出がある。旧職場時代上告案件があり、指定代理人に名を連ねた。口頭弁論が開かれ、裏門から小法廷傍聴席に入った。予定通り上告が容れられ、勝訴した(13.7.6判決 パームスプリングスポロ事件)。

 櫻田門、日比谷公園 濠を眺めながら下り続ける。広い江戸城の内濠には、水鳥が浮き、大きな白い鳥は白鳥だろうか。右手に警視庁が見え、桜田門へ左折。外門から桝形に沿い内門へ。久しぶりだが重厚な門構えは健在。平日なのに皇居一周のランナーも見受けられる。
 城外へ出て、日比谷公園へ。若い頃から馴染み深い公園だが、すっかりご無沙汰。端を通り抜け三田線日比谷駅へ降りた。日比谷公園でも、野菜や果物販売のテントが張られ、野外生け花展のような催物が行われていた。(2023/11/15 K.K.1532)

◇日時 2023/10/25 ◇天候 晴 ◇資料 「我が町再発見 半蔵門編」23.10.12讀賣夕刊、 ◇交通費 180円 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」 自宅8:40-半蔵門線神保町駅9:28-同永田町駅9:50=プリンスホテルクラッシックハウス9:55=平河天満宮社10:10=国立劇場10:25=櫻田門10:50=日比谷公園11:00-三田線日比谷駅11:16-自宅12:00

谷川一ノ倉沢から天神峠で紅葉を楽しむ

 一ノ倉沢へ 一ノ倉沢下に着いて、晴天無風の中、大岩壁を見上げた。久しぶりで、もう雪渓はなく、樹々は色好き始めているが紅葉には少し早い。当地一ノ倉沢出合は四度目だ。最初は谷川岳登攀後巌剛新道を下った時(94.7.31)で、登山家の先輩にリードされフラフラしながらであった。次は湯檜曽川を遡り、渓谷を出て眺めた(04.8.6)。そして、新潟側から蓬峠で谷川連峰を越し当地に着いたのが11年前であった(12.8.5)。

 本日は、Sさんの車で、関越高速からJR土合駅前を過ぎて、一ノ倉沢行きバス停に着いた。紅葉狩りに私が当地を推薦した。案内所では見頃ですという。電気バスに乗車し、一ノ倉沢へかう。
 湯檜曾川沿いで、山裾の山道は国道291号だが、明治初期に造られて直ぐ豪雪で崩れて新潟の清水峠へは不通となったという。ハイカーを追い越し、西黒尾根登山口、マチガ沢出合を過ぎる。巌剛新道登山口で最初の時の下山先であった。そして一ノ倉沢出合に着いた。

 一ノ倉沢を眺める 一ノ倉沢岩壁は険しく、そそりたっている(写真上)。目が慣れたら私の記憶、印象よりは狭く、岩壁もやや鋭さが減少したようにも見える。これまでは雪渓へ上がり、近くで眺めたからか。最高部にトマノ耳(1963m)、オキノ耳(1977m)の谷川山頂を探した。双耳峰で、私はどちらも踏んでいる。Sさんを遭難者プレート碑へ案内。昭和30年代ロッククライミングの事故死が多発し魔の山と呼ばれたという。
 振り返ると白毛門(1720m)で、こちらは紅葉が進んでいる。日本海からの風を受けているからか。電気バスで戻った。2度は徒歩で、3度目はジャンボタクシーを利用したと思う。

 紅葉の天神平 ロープウェイで天神平へ上がり、さらにリフトで天神峠へ出た。こちらは、紅葉が進み、見頃直前か(写真中)。雲もなく、谷川岳の全容もくっきりと素晴らしい眺め(写真下)。
 天神峠は標高1500m程で、リフトは紅葉した灌木の間を上下した。94年私達が登ったルートもおよそ確認できた。平日なのに人出があるが列をなす程ではない、天神峠は再訪で(21.9.13)、前回は夏の終わりであった。天神平のレストランで昼食を取り、下山。
 車はJR土合駅前から水上温泉街を抜け、関越高速へ入り帰途に就いた。Sさんお世話様、ありがとうございました。谷川の紅葉いかがでしたか。(2023/11/10 K.K. 1531)

◇日時 2023/10/18 ◇天候 晴 ◇資料 谷川岳ロープウェイ「谷川岳」 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞ 
「通過時間等」 自宅6:20-谷川岳資料館前バス停9:30-一ノ倉沢出合9:50/11:00-ロープウェイ土合口駅11:30-同天神平駅11:40-天神峠12:00-ロープウェイ天神平駅(昼食)12:30/13:00-同土合口駅13:10-自宅16:00

私が登った百の名山&低山=東北編=「熊の親子に遭遇し逃げ帰った寒風山」

 ハプニングは午前10時40分に起きた。寒風山頂上が目前で、時間的にも10分程度で山頂到達の地点であった。
 今回は仙台研修旅行に参加し、翌日曜日地元在の同級生Aさんの案内で、山形、宮城県境の寒風山(1117m)を目指した。彼とは3年前やはり県境にある二口峠を歩いた(03/12/6)。国道48号線関山トンネル傍から上り始めた。取り付きから急坂で、しかも肩幅程度の山道。最初の沢を渡るとジグザグの葛篭折れを繰り返して高度を上げる。注(写真は「自然朴の会」山行記録HPより)
 東北特有のブナ林の中を、順調に行く。梅雨の時期で雨が心配だ。尾根に出ると左方に頂上が見えた。二度目の休憩を取った先からは、登山道としては珍しい直線の道が続く。また左が開けて、先の山は南面白山とAさんが教えてくれた。寒風山は県境にある山だが、仙台市と我が故郷東根市が県境を接して、現在は県境を越して東根市に入っているのかもしれない。
 小さなピークに到着し、コブノセとある。私がずっーと先頭だ。ブナ林を抜けて、少し下って笹藪の中に切られた道を進むが、草が覆い最近の踏み跡が見当たらない。東北の深山なのだろう。そう言えば、日曜日なのに、登山開始以来人っ子一人にも出会わない。雨模様で控えたのであろうか。先程来頂上が見え始め、草原状の藪から少し上りに掛かり、またブナ林に入ろうとした。

 突然、ザ、ザ、ザっと藪を掻き分ける音がした。カモシカか、それとも熊か。いつかカモシカが草原を走るのを目撃した時、似たような音を聞いたことがあった(94/8/8)。我々を察知して右の方へ逃げたのだ。しかし、フン、フンと動物の鼻息らしい音がする。3m程先である。後ろのAさんにその旨伝え、前方のブナの木を見上げたら、真っ黒な小さな獣、熊の子供が、こちらを見ているではないか。そうすると先程の音は親熊で、近くに潜んでいるに違いない。これはやばい、子連れの母熊は一番危ないと聞く。
 二人は急遽戻ることにし、Uターンした。一瞬、熊の子を携帯で写そうとも考えたが、逃げるのが先であった。熊の方が我々の接近を知り、先に逃げてくれたから助かった。出っくわしたらと思うとぞっとした。Aさんがザックに鈴を付けていた。これが静かな山中では熊に届いたのかもしれない。普段は付けていないが、今回特別に準備したという。何か感ずるところがあったのだろうか。私もジュネーブで求めたカウベルを付けているが音が小さい。
 コブノセまで戻り、Aさんは昼食にしようと言ったが、熊が追って来そうで、食欲がわかない。臆病だなとAさんは言う。こういう場合は、臆病な方が良いんだと言い訳をした。そのまま登山口関山トンネルへと下りた。丁度これから登ろうとする男性に熊出現を伝えた。彼はその地点を我々に確認しながら、笛を持っていると言って、山中へ入って行った。作並温泉で汗を流し、食事にした。仙台へ戻り、Aさん宅に招かれて、当地名産で旬のほやを肴に麦酒をご馳走になった。(2006/6/25 10/100)                                                               追記 熊との直接の遭遇の記憶は未だに残る。熊たちの生活圏に、こちらが挨拶なしに踏み込んだのだから止むを得ない。熊さん御免なさいで、被害を受けなかったのが幸いだったろう。東信濃の山中でカモシカに出会ったが、こちらを一瞥して去っていった(葛尾城址 94.4.25)。羅臼岳の登山道でエゾシカ二頭にも遭遇した(07.8.31)。今年の熊さん達の行動は異常なようだ。
仙台在の高校同級生Aさんとは、栗駒山や会津磐梯山を登った。

秩父に小鹿野ダリア園を鑑賞し両神神社へ

 ネットで、秩父小鹿野のダリア園が見頃と知った。小鹿野は秩父鉄道から離れ、アクセスが良くない地で、西武秩父駅からバスとある。折しも、Sさんから紅葉狩りの話があり、提案したら乗ってくれ、小鹿野行きとなった。天候と花の咲き具合が心配だが、互いの空いている日となった。ダリアの花期は短くはないだろう。

 秩父小鹿野へ 晴天の下、6時30分我が家近くで待ち合わせ、大宮バイパスから浦所道路を走って、関越道へ入った。長瀞迄は、1500回の宝登山行きと同じコース。高速からは順調に進み、秩父市手前で山側へ右折し小鹿野となった。役場付近からダリア園の案内があり、秩父も奥地となり、山裾のダリア園に着いた時は、9時過ぎであった。

 広いダリア園を巡る 小鹿野ダリア園は山峡の農地に、農家の方々が栽培している園で(写真上)、350種、5000株、関東地方最大級との宣伝フレーズ。早速入園料を支払い、鑑賞開始。
 意外と広い園内を私は、左側の列から巡り始める。多種多彩な花々が満開で、花の色も赤、橙、黄色と様々な花々が咲き揃っている(写真中、下)。黒っぽいのもある。長くはない列にも、数種類のダリアが連なり、私は、背が高く好きな色の花へカメラを向け、列の間を歩いた。ダリアは花の色が鮮明で、しかも花の形状も多彩であり、見応えがある。
 子供の頃父が庭で咲かせていて少し馴染みがあったが、久しぶりのダリアは、山奥の斜地一面に列をなし咲いていた。人出が増えた中、列から上下へ移動して、花を楽しんだ。最後に道を渡り、諏訪神社前から山裾の園を往復した。ダリアの花束を求めて園を出た。

 両神神社参拝 Sさん、両神神社へという。狭い山道を上がり続け、少し歩いた最奥の地大谷口の両神山登山口にあった社は、見捨てられたような古い木造で、参拝にも踏み抜くではと心配になる始末。一応手を合わせ戻った。私は、少し先にある両神神社を思い出し、下った先を旧両神村側へ右折するようSさんを案内。
 私の山勘が当たり、少し走った先に道の駅や薬師の湯があり、その手前に両神神社はあった。参拝し直した。私は、四阿屋山(アズマサン771m)に登った時、ここでバスを降り往復したことがあり、それで少し記憶が働いた。帰宅後調べると13年前であった(2010.11.20)。さらに、百名山両神山へ(1995.4.29)も、小鹿野役場前から両神神社のある大谷口登山口を通っていた。
 道の駅で昼食後、往路を戻り、15時前に帰宅した。Sさんありがとうございました。お世話様でした。(2023/11/3 K.K.1530)

◇日時 2023/10/05 ◇天候 晴 ◇資料 小鹿野町観光協会「小鹿野ダリア園」 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 
「通過時間等」 自宅6:40-小鹿野ダリア園9:10/10:10-大谷口両神神社10:40-両神神社11:45-道の駅昼食12:00/12:45-自宅14:45

私が登った百の名山&低山=東北編=「天候に翻弄された宮城の名峰栗駒山」

 晴れ後雨、そして風 東北新幹線をくりこま高原駅に降りると晴れていた。よし、本日は登山日和と微笑んだ。数日前の予報は良くなかったからだ。今回は仙台在の同級生Aさんと栗駒山を目指す。この山は東京でもマニアには知られた山で、以前から目を付けていた。車は宮城県の穀倉地帯を走る。山が近付くに従い雲行くが怪しくなってきた。ついには暗雲が立ちこめて雨が落ちてきた。しょうがないなーとあきらめざるをえない。山間を走りやや長いトンネルを抜けると雨は降っていない。登山口いわかがみ平に到着。風は強いが雨は止んでいる。

 東栗駒コースは悪路 雨具はザック内のまま出発。最初から沢登り。水はないが溝の中を、泥を避け、岩を越して進む。車中で想定したコースではなく、Aさんが変化を持たせるため、わざわざ選んでくれた。彼は地元のメンバーと数回登山済み。それにしても歩き難い。段差が激しい大岩は一気には上がれない。足場を探し、草木を捕まえては前進を続ける。紫のリンドウが咲いているが携帯を向ける余裕がない。Aさんとは離れてしまった。“東高ファイト、ファイト”と高校時代の掛け声で前方から励ましてくれた。

 滑め沢、淵に出会う どうにか沢を上り切ったら大きな川(新湯沢)に出た。既に高度1,500mはあろう地に幅5m程の谷川が出現し、激しく流れている。一度は岩上から跳んで渡渉し、滑め沢や淵を覗きながら行く。こんな山歩きは珍しい。
 再度山側に突入。歩き易い灌木地帯から草原の道。両側にはリンドウが咲き誇っている。右下に先程のいわかがみ平の駐車場を確認して、東栗駒山(1,434m)を越した。相変わらず風は強い。帽子が飛ばされないようにポケットに仕舞った。大岩の傍で外人と二人連れペアに会う。入山して初めて、こちらは裏コースらしい。

 雨具を着ける 雨が強くなってレインコートを着る。栗駒山は近いと思っていたが未だ先とAさんはいう。高原状の尾根道から階段になり傾斜がきつくなる。ナナカマドが色付き当山は秋の気配が漂っている。二人は前後になりながら上がり続ける。左手からの中央コースの道と合わせた。Aさんが言うには、地元では深田百名山に漏れたのを嘆いているという。整備された階段のある山では資格がないと冷やかした。13時ジャストに登頂(1.627m)。既に山頂広場には数名が休んでいた。その後も次々に上がってくる。それも老若男女と様々。流石人気の山である。登頂コースも宮城県側、岩手県側と5,6以上あるようだ。

 広大な栗駒山域 山頂神社に参拝し、記念写真を撮って昼食。小雨、風で展望はない。鳥海山が望めると期待はしていたのだが。中央コースを下山。雲が散った合間に山腹から裾野一帯を一望する。ブナ林に覆われた栗駒山麓は広大であった。可愛い名とは違い深く、広い山域を有している。百名山を目指したのも納得できた。急な直線コースを下る。途中小ピークから東栗駒山を捉えた。しかし、携帯を向けている間に雲間に隠れてしまった。

 下山後晴れる いわかがみ平に下山し、駒の湯で入浴。元湯治場で、汗を流して、仙台へと向けた。車窓から太陽が顔を出したのが見えた。残念、本日の天気はどうなっているのだろう。山の天気は移り気だということか。仙台駅まで送って貰い、帰京。また今夏も登山のガイド、送迎とAさんには大変お世話になってしまった。有り難うございました。翌日岩手、秋田は大雨と報じられた。(2007/9/16 9/100)

追記 仙台在の同級生の案内で栗駒山に登った。奥羽山脈宮城の主峰である。上りのコースは変化に富んだきついコースであったが、下りは踏まれた一般登山コースでゆっくり下山した印象であった。「栗駒山というのはやさしい名前の山だと思う。・・・5月中下旬の頃、山頂西側に飛翔する天馬(駒)の雪形が浮かび上がるのが、山名の由来という」とある(岩崎元郎「ぼくの新日本百名山」朝日文庫252頁)。
駒の湯は、2008年の地震で被害を受けたが、ネット情報ではその後復興したとある。