桜が終わっていた新宿御苑を一周する

 内閣府が主催する新宿御苑桜を見る会の案内があった。旧勤務先から電話があり承諾すると、案内の封書が届いた。昨春の叙勲受章の延長のようだが、先輩達からは聞いてはいない。どんな会か覗いてみるのも話の種になろうと、出掛けることにした。平服オーケーとあるが、久しぶりスーツにネクタイにした。もしかしたら、”そだねー”の選手達にも会えるかもと期待する。

 一万人の花見会へ 都営線新宿三丁目駅に降り御苑新宿門に着くと、既に大勢の招待客で、受付は込み合っている。私は、受付開始時間の830分頃に入園し、一時間程度在園の予定。主に苑内散策を楽しもうと思う。ぞろぞろ進む列に従い、紅白幕内の花見会場へ入ると、ここも招待客の男女が多数屯し、お酒配布のテント前に並んでいる。私も並び、紙コップに酒と記念の枡を貰う。御苑は禁酒で、本日は例外らしいが、そのためかコップの底に極僅か。会の進行もないので、紅白の幕外へ出て日本庭園の方へ歩き出す。高齢者が多く、夫人連れでご婦人方は和服を着用している。家内がいたら喜んでくれたかなと思ってしまった。次第に招待客は少なくなる。茶室で休憩しているご夫婦もいる。上の池では、1人になってしまう。

 1人日本庭園へ 御苑は広い。一万人の招待者でも会場はほんの一画で、騒音も聞こえて来ない。高遠藩33千石内藤家の屋敷跡等、18万坪の広さとある。庭園越しの高層ビルをアングルにし(写真下)、シャッターを切った。都庁舎かと思っていたが、違うビルと後に知った。池に架かる橋を渡る。八重桜は残っているかなと期待していたが、桜は全て終え葉だけ。躑躅や藤、そしてシャガが咲いている。またカップルの招待客に交差し始め、中華風の旧御涼亭から千駄ヶ谷門へ回る。こちらの受付は新宿門とは違い招待客は少ない。鳥達の囀りが聞こえるが、花を終えた桜園地を抜けると左手に、赤色が飛び込んできた。近付くとツツジ山は満開。ミリタリールックの大柄な外人と擦れ違う。映画やテレビでしか見たことがなく、私には違和感。会場周辺では自衛隊制服の方も見掛け、現内閣の好みかと思ってしまった。

早めに退苑 駐車場があり、警備が厳しそう。そろそろ主催者の出番の頃かなと、会場へ近付いたがそうでもないようだ。大木戸門へ寄り、また会場へ戻る。音楽が流れているが、挨拶等が行われている様子はない。テントで、お菓子とお弁当を貰い、10時に退苑し帰宅した。
翌日の新聞によれば、首相挨拶が行われ、梅沢富美男や冬期オリンピックのメダリスト高木美帆選手等も招待され、17,500人参加とあった(18.4.22読売)。                                (2018/05/03 K.K. 1180/1200)

□日時 2018/4/21 □天候 晴 □資料 「新宿御苑 安内図」 □歩行距離 8km 12,000歩
「通過時間等」自宅7:30-神保町駅8:15-新宿三丁目駅8:25=新宿御苑新宿門8:35=花見会場8:45=茶室楽羽亭前8:55=御涼亭9:10=ツツジ山9:25=大木戸門9:40=新宿門10:00=新宿三丁目駅10:15-神保町駅10:26-自宅11:05

 

奥武蔵みのわだ湖、おしゃもじ山ハイキング

 購読の新ハイキング誌に花見ハイク先として、奥武蔵の越生線東毛呂駅からスタートするコースをリザーブしていた。しかし、今年も桜の時期は逸したが、躑躅も早いと聞き、躑躅の花に期待し実行することにした。奥武蔵は、自称私のホームグランドだか、東毛呂駅以外一切歩いたことのないコースである。

 みのわだ湖は釣り用沼 東毛呂駅に下車。踏切を渡り住宅街を抜け、越辺川の橋を目指すが、距離がある。集落を過ぎ田園地帯を下り始めて橋であった。三叉路のコンビニ傍に”みのわだ湖”の案内を見付け、左折。直ぐ山側へ右折すると花咲く小径とある。川辺公園だが土手に突き当たり越すと、みのわだ湖。湖は大袈裟であり沼程度で、農業潅漑用という。現在では釣り池で、大勢の太公望が竿を出している(写真上)。目算で30人位か。管理事務所で、案内パンフを尋ねたが釣り用のみとのこと。池を時計回りに歩くと、シャガが咲く一画があり、カメラに収めた。

美しい新緑 コースの尾根へ上がろうと、小径を森の中へ入ると楢の樹の若葉が輝くようで、美しい。新緑の時期である。四阿で左折したら直ぐ舗道があり、ゴルフ場前。次のポイントが小用池だが、道路の左右に池があり迷うが直進を続ける。左手にそれらしい池が現れるも案内はなく、しかも工事中で近寄れない。略図を確かめ、次の分岐で荒れた畦道へ進入し林を抜けると小さな集落。工事中の掲示に現在地小用とあり、そのまま新興住宅街を進む。正面の小高い丘がおしゃもじ山かなと見当を付けた。
次の榎堂集落の裏側が目指す小山であった。当地は、埼玉鳩山町で、位置的には奥武蔵の中心だが、越生町や坂戸市、東松山市に囲まれ、東武東上線と八高線の狭間でもあり、これまで一部に踏み入ったことはあろうが、中心を歩いたことはないと思う。

躑躅満開のおしゃもじ山 現在、おしゃもじ山は公園で、石段から東南斜面を上がると躑躅に出逢う。今年は早いという情報は確かだなと思いながら上り続け、次々に躑躅の花が現れ、レンゲツツジは満開だ(写真下)。隣のヤシオツツジは散り始めている。躑躅は多くはなく、頂へ出てしまった。展望台があり、前方の低山は越生方面の山々だろう。
バス停赤沼へと尾根道を奥へ進むと、下りに入り正面に笠山があった。山容から私にも分かる奥武蔵中心の山である。望遠にしたカメラを向けた。
赤沼バス停で20分弱待ち、バスで東武坂戸駅北口に着き、駅前に店を探す。最近同僚になったM君の実家が当地で酒屋を営むと聞いていた。見付かり、晩酌用の小瓶を求め、挨拶すると父上で、私のことをご存知。事務所サイトから見たことがあると仰った。最近愛飲している新潟の地酒”菊水”とした。(2018/04/28 K.K. 1179/1200)

□日時 2018/4/16 □天候 晴 □交通費 1,300円 □資料 宇山清太郎「おしゃもじ山」新ハイキング654号34頁 □歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅8:20-東武成増駅8:40-同東毛呂駅9:45=越辺川橋10:00=みのわだ湖10:15=おしゃもじ山11:10=赤沼バス停11:53-東武坂戸駅12:22-同成増駅13:15-自宅13:35

栃木に雲巌寺から遊行柳を訪ねる

 栃木の奥にある史跡遊行柳を知って興味が湧き、是非訪ねたい。古い新ハイキング誌に資料が見付かり検討すると、JR東北線黒田原駅からバスだが、便が悪い。友人のSさんに話したら、車オーケーとの答えが返って来た。感謝しながら話しを進め、丁度北栃木の桜見頃の時期とし、黒羽の雲巌寺も入れることにした。いずれも奥の細道である。

山奥の古刹雲巌寺 板橋から雲巌寺迄、東北高速道を矢板インターで降り2時間半であった。黒羽も奥深い山中に古刹があり、隣はもう茨城県境のようだ。谷川に掛かる朱塗りの反り橋を渡り、石段を上がって山門を潜ると境内。午前中も早い時間なのに高齢者を中心に参詣者もある。Sさんと風格のある本堂前(写真上)へ進み、参拝。振り返ると広い伽藍の屋根が見渡せた。
当寺は、禅宗の道場が置かれたわが国の代表的な寺で、黒羽に滞在した芭蕉も訪ねたという。旧知で禅の師匠仏頂和尚が晩年庵を結んだ寺で、芭蕉は、”啄木も 庵は破らず 夏木立”と詠んだとある。私は、最近旅パンフから知り、吉永小百合がCM撮影をした寺とあったが、偶々テレビCMからも吉永が案内する雲巌寺を見た。

小さな史跡遊行柳 ナビで、一旦山奥へ入り、里側へ戻り伊王野を過ぎ、バイパスを走って芦野へ至り、遊行柳を探すと、左手にそれらしき風景が見え、近くに駐車場もあった。昨秋、やはりSさんとの白河の関跡からの帰途、密かに遊行柳との出会いを期待していたが、街道が一本奥で違っていた。
本日は風もあり寒い中、田圃の畦道から柳を目指す。我々と同じ見学者がチラホラ。水田地帯の真ん中に史跡はあった(写真下)。柳よりは隣の桜が満開で、目立っている。
遊行柳は、室町時代、旅の時宗の上人が芦野を通った時、老翁の姿になった柳の精を念仏で成仏させた地で、古柳がある。この故事から能楽や謡曲の題材とされ、西行法師も立ち寄り、江戸期には芭蕉も訪ねて、”田一枚 植えて立ち去る 柳かな”との句を残している。意外に小さな史跡だなと思いながら、カメラに収め、大柳の下を往復した。二本の柳は何代目だろうか。

 満開の中の芦野城跡 右手先に、ピンクに染まった丘が見え、芦野城跡と教えて貰い、我々も、芦野町内に車を駐め、坂を行き城跡御殿山へ。当城は別名桜ヶ城とある。人出があり、桜満開の下を二の丸跡へ上がると、土塁に並び咲き揃う桜が美しい。土塁上から、青空の下、未だ白雪のある那須の連山を遠望する。樹齢400年の高野槇の古木が聳え、築城記念樹という。天文年間(1532-1555年)、那須氏の一族芦野資興の築城説が有力で、芦野家は旗本格で明治迄続いたようだ。城跡から芦野温泉へ回り、入浴。込みあい昼食は出来ず、東北高速道上河内SAのレストランにし、遅い昼食に有り付いた。Sさん、またまた有り難うございました。念願の遊行柳を訪ねることが出来、感謝です。2018/04/24 K.K.1178/1200)                                

□日時 2018/4/8 □天候 晴 □資料 鈴木一雄「伝説の遊行柳を訪ねて 芦野の里」新ハイキング510号80頁 □歩行距離 7km 9,000歩
「通過時間等」高島平7:00-大谷SA8:30-雲巌寺9:30/9:55-遊行柳10:30/10:50-最勝寺10:55-芦野城跡11:00/11:35-芦野温泉11:45/12:25-上河内SA(昼食)13:20/14:00-高島平15:45

鹿浜橋から桜咲く都市農業公園へ

 今年二度目の花見ウォークは、荒川対岸にある足立の都市農業公園。以前訪ねてパンフレットが手許にあり、花の時期を待ち再訪先としていた。赤羽や王子から鹿浜橋を渡って歩くのに少し距離があるかなと読んでいた。改めて地図を眺め、4月から孫が通う学校が途中にあると気付いた。どんなキャンパスか覗いて見よう。

 鹿浜橋を渡る 王子5丁目から住宅街の中を少し歩くと隅田川があった。川幅一杯に流れ、運河のよう。足立新田高校を左に見て、前方の荒川土手へと上がる。こちらは高い土手、広い河川敷と大河である。中央の流れは遠く見えにくい。先に掛かる橋が鹿浜橋で、長い。鹿浜橋の名は知っていたが渡るのは初めて。左手先に、都市農業公園が見え始めた。橋を渡り終え、橋桁下から左岸上流へ行く。

五色桜、チューリップ 農業公園に着くと、堤脇に咲く、見頃の五色桜が出迎えてくれた(写真上)。パンフによれば、紫桜、関山、白妙、鬱金、墨染等、現在では49品種、290本あるという。花の色に微妙な違いがあり、カメラに収めた。ワシントンからの里帰り桜もある。園内に咲く様々な桜花を見上げながら、管理棟で今年のパンフを見ると、春の花まつり開催日が4月14日、15日とあり、約10日後。今年の早い開花を予想できなかったのであろう。
園内には、古民家や長屋門が移築保存してある。以前は家内の実家を思い出すことが多かったが、建て替えて50年近くなり、記憶も薄くなってしまった。
 堤下河川敷内のチューリップ園も咲き揃っている。遊歩道を巡りカメラを向けながら、色とりどりのチューリップを楽しむ。色濃くはっきりした原色の花も良い。アングル探してはシャッターを切った(写真下)。堤上へ戻って、桜の下の公園ベンチで昼食を取る。
園正面のバス停で時間を調べると30分後。鹿浜橋袂のバス停へ歩き、間もなく王子駅行きが来た。王子駅前で都電荒川線に乗り換えて直ぐ桜の名所飛鳥山公園だが、車窓から眺めたこちらのソメイヨシノは散り始めていた。

 先に孫が通うキャンパスへ 三田線板橋本町駅からバスの便があると聞いて、同駅でバス停を探し王子駅行きに乗車。初めてのコースで何処を走っているか不明だが降車バス停は、孫達に聞き知っていた。バスを降り、地図を片手に学校を探し裏通りをウロウロ。ようやく現在地が分かり、先に大きな校舎が見付かった。周囲は住宅街で、静かな地域のよう。広くはないがグランドがあり、数人の学生達がサッカーを楽しんでいる。都内としては、思ったより環境や施設的には良さそうな学校と見て後にし、少し歩くと隅田川であった。2018/04/18 K.K. 1177/1200)                                      

□日時 2018/4/2 □天候 晴 □資料 都市農業公園「都市農業公園サクラマップ」平成25年4月 □歩行距離 10km 14,000歩
「通過時間等」自宅9:50-三田線板橋本町バス停10:26-王子5丁目バス停10:40=T校キャンパス11:00=新田橋11:05=鹿浜橋11:30=都市農業公園11:40/12:10(チューリップ園11:50)=鹿浜橋袂バス停12:35-都電王子駅12:55-三田線西巣鴨駅13:15-自宅13:40

2018花見に都心の公園や神社を巡る

 今年、東京は3月末にサクラが見頃になった。例年よりは大分早い。花見ウォークに都内に未訪の地を探したが、中々見付からない。ネットや地図から有栖川公園、東郷神社、高橋是清公園、そして赤坂サカスにした。結局、桜花よりは未訪地を優先してしまった。都心に点在するため、電車と徒歩の混合である。

 2018花見は有栖川公園から 日比谷で三田線を日比谷線へ乗り換え、広尾駅から有栖川公園を目指す。駅近くに公園は見付かった。南部藩下屋敷や皇族の御用地であったという公園は思ったより広く、萌葱の樹林が繁るが、桜は少ない。花を探し園内を行くと、奥に満開の桜木二本あり、下の芝で母子グループが弁当を広げていた(写真上)。私も花を見上げ、カメラに収めた。隣が都立中央図書館。一度文献入手に来館したことがあったが、30年も前だったろうか。一回りすると満開の桜並木が隣の病院前庭を占めていた。

 初めての東郷神社へ 恵比寿駅へ出て、山手線で原宿駅に降りる。駅前は一転し若者達で混み、竹下通りは人で溢れているよう。地図から東郷神社へと住宅街へ進入すると突き当たりが境内で、先ずは参拝。桜は少ないが、花よりは初めての訪問が優先。昨年市ヶ谷の東郷公園は訪ねた(17.3.28)が神社の存在は知らなかった。境内は広く、池付庭園があり、ホテルのような記念会館も建っていた。私は裏から入ったようで、表参道前が明治通り。

鳩の森神社、是清公園 徒歩で、次の交差点を右折し鳩の森神社が近いことを知る。一度訪ね、今回の隠し花見スポットである。外苑西通りへ左折すると工事中の国立競技場。スタンドが建ち始め大分工事が進んでいる模様。手前を住宅街へ入ると想定先に神社はあり、鳥居付近に咲く満開の桜が迎えてくれた。隣が中学生棋士で話題の将棋会館だが覗かないで、境内の大きな富士塚をカメラに収め、地下鉄国立競技場駅を探した。
青山一丁目駅で降り、青山通りに面する高橋是清公園へ。是清翁は政治家や大臣として有名だが、我が特許や商標制度の創始者で初代所長。命日の2月26日には、嘗ては私の知人も追悼に当公園を訪れていたと聞いた。小さな公園で、桜は数本のみ。奥の像に挨拶し、現在も制度は継続し世の中に貢献していると報告。当地は高橋邸跡で、建物は小金井の江戸東京たてもの公園に移築されている。

 赤坂サカスは満開 最後は、TBSのある赤坂サカス。私はラジオ派で、早朝から同放送を聴いている。その中で、サカスの花は咲き始めたとか、見頃だとかアナウンスがあり、今回加えた。草月会館先虎屋手前で青山通りを離れ、ここからは山勘で左往右折しTBSビルへ。途中に以前通ったビルがあり、坂道を下ってサカス。両側には桜並木が続き(写真下)、ジャスト満開。シャッターを切りながらTBS前へ出て、同ビルを入れたアングルにした。千代田線赤坂駅は直ぐで、桜を背に地下へ階段を下りた。(2018/04/13 K.K. 1176/1200

□日時 2018/3/29□天候 晴 □交通費 640円 □資料 昭文社「東京都市図」2004年4月 □歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅10:45-日比谷線日比谷駅11:35-同広尾駅11:45=有栖川公園11:50/12:05-JR恵比寿駅12:10-同原宿駅12:25=東郷神社12:35=鳩の森神社13:10=大江戸線国立競技場駅13:36-同青山一丁目駅13:40=高橋是清公園13:55=赤坂サカス14:15=千代田線赤坂駅14:26-三田線大手町駅14:36-自宅15:10

関東ふれあいの道・千葉県18「荒磯のみち」を歩く

 関東ふれあいの道はご無沙汰している。一時積極的に歩いて、144コース中半数近くは踏破しているが、遠い群馬や栃木、茨城、千葉の各県コースは虫食い的になり、交通不便でアクセス困難なコースが残っている。昨年から大学院講師を辞し時間があり、タクシー利用も考えてみたいと思うに至った。そんな中、春休みの研究会が外房勝浦であり、翌日当地に設けられたふれあいの道を歩くことにした。

 鰹水揚げ中の勝浦漁港 朝、東京へ戻るメンバーに別れ、ふれあいの道案内板を確かめ、コース起点JR勝浦駅をスタート。市街地から直ぐ勝浦漁港で、岸壁へ近寄ると鰹の水揚げ中。漁船からベルトコンベアで運ばれている(写真上)。見るのは始めてでカメラに収め、邪魔にならぬよう直ぐ市場内を通り道路へ出た。
最初のポイントは勝浦城跡で、湾沿いから小さなトンネルを抜けた先の八幡岬に遺る城跡。一度かぼちゃ会旅行時訪ねたことがある(07.4.1)が、記憶とは少し違う。岬突端の高台が本丸跡で、海側は断崖絶壁が続く

勝浦城とお万の方 戦国期里見氏の家臣正木氏の居城であったが、1590(天正18)年小田原征伐の際徳川軍に攻められ落城したという。この折り、布を伝い断崖絶壁を降り小舟で伊豆へ逃れた姫お万が、後に家康の側室になり紀州公頼宣と水戸公頼房を生んだとある。城跡にはお万の方の銅像が建つ。一回りし断崖上から荒磯を覗き岬を離れた。
トンネル先で右方向へ進路を採ると断崖の上の道だが海岸から距離がありその感は薄いが、後方には八幡岬の絶壁が見える(写真下)。遅めの桜を眺めながら、緩やかなアップダウンのある道を行き、勝浦灯台。小振りな白い灯台を柵外から見上げる。

灯台から官軍塚へ また崖上の道を官軍塚を目指す。当地は温暖の地で桜は、既に散った樹もある。展望台のある小さな公園が官軍塚であった。1869(明治2)年函館戦争への援軍兵を乗せた熊本藩借り上げ船が難破し、遭難者130人を埋葬した慰霊塚という。小さな石碑があり手を合わせた。
坂を下り勝浦市内へ入ったようだが、十字路にあるふれあいの道標識の方向指示板が壊れていて、私は直進。違ったようで国道へ出たがコース案内は皆無。誤りと気付き、次の道を右折し海側へ。海辺の街になりコースを取り戻したようで、豊浜漁港と後に知る。海沿いから民宿やアパートのある通りで、右手先は御宿と睨む。コース終点のある部原地区に入り、国道三叉路へ着いたが、ふれあいの道案内は見当たらない。

 急遽バス乗車 交通の便から御宿駅迄歩き続け、2,3km先と読んでいた。そのまま国道筋を進むと前方が見え、小岬がせり出しトンネルがあり、駅がある風景ではない。距離があるなと思い始めた時バス停に出会い、直ぐ勝浦駅行きが来る時間で、バスも見えた。急遽予定を変更し、バスに乗車。部原地区で車窓からふれあいの道標識が見え、三叉路直前で左折を示していた。勝浦駅前で昼食を取り時間を調整し、千葉行き電車を待った。(2018/04/10 K.K. 1175/1200

□日時 2018/3/26□天候 晴 □交通費 5,380円 □資料 千葉県自然保護課「関東ふれあいの道千葉県18荒磯のみち」平成8年3月 □歩行距離 15km 21,000歩
「通過時間等」宿泊先8:25-JR勝浦駅8:40=勝浦漁港8:55=勝浦城跡9:15=勝浦灯台9:40=官軍塚10:00=国道10:25=豊浜漁港10:40=部原三叉路11:05=部原海岸バス停11:10-JR勝浦駅(昼食)11:30/12:27-同東京駅14:35-日比谷駅14:46-自宅15:25

浮間公園から新河岸川沿いに桜花を観る

 春の彼岸の日は雨であった。長男家族は前の日曜日に行ったと連絡有り、車は当てに出来ない。弟からは、ぽんちゃんのお墓参りは済んだかと、わざわざメールがあった。そんな訳で、本日に行くことしたが、既に東京では数日前開花宣言があり、咲き具合を確かめようと、浮間公園から荒川土手を歩き、墓参をし新河岸川の桜並木へと思い付いた。

 浮間公園は花見準備済み 本日は小雨だが、高島平駅前からバスで浮間公園へ向かう。JR埼京線浮間舟渡駅手前の公園口で下車し、入園。雨は止んだ中、大きな池を中心に公園は広がっている。元荒川の一部で、築堤で取り残されたという。池畔左の桜並木へ近付くと、もうぼんぼりが下がり花見準備は出来ている(写真上)が、肝心の花は開いたばかりで、12分の状態。これからである。ぼんぼりには板橋区とあり、池の左は同区で、右は北区と聞いたことがある。

 浮間地区の思い出 浮間には、少し思い出がある。旧職場関係の研究所や宿舎があり、同僚達が住んでいた。私も、土日に家族交換に訪れたり、仕事で遅くなった時や飲み会の後浮間経由でタクシー帰宅したこともあった。一度は、当時盛んであった組合の春闘支援集会が池端で開かれ、役員と高島平から自転車で参加したこともあった。その中にSさんがいて、同年代の彼とは親しく、良く旅情報等を提供してくれた。拙著500号紀行本を贈呈したら、色々指摘を含め手紙を戴いたが、最近は音信不通になってしまった。
浮間公園池を半周し、さくら草圃場前へ出て、花友Aさんと観賞に来たことを思い出した(14.5.20)。隣が氷川神社で参拝しようとしたが、本日バックが違い賽銭を不保持。通りから軽く手を合わせ、荒川土手へと上がった。次第に天気が良くなり、戸田橋を通過(写真下)。大分前だが青森東京間駅伝大会が行われていた時、戸田橋に最終区間中継所があって、アンカーがゴール大手町へ向け走ったと、Sさんが話してくれた。

 墓参し新河岸川へ ぼんちゃん達の墓のある霊園へ下りる地点を見極めながら土手上を行く。この辺りだろうと下るも一本手前の小路だったが、霊園へ歩き墓前へ進み、線香を焚きお参りし、ご無沙汰を詫びた。花は長男が飾ってくれていた。ちらちらと墓参者があり、雨で遅れたのは私だけではないようだ。
新河岸川沿いに歩くと桜並木があり、こちらは僅かに開きが早い。そして徳丸橋を渡り反対側の並木を見上げたら、五分咲き以上。南寄りで、陽当たりが違うのだろうか。携帯にも収め、友人達や北海道の孫達にも送ろう。徳丸公園の野球場、子供動物園を過ぎ高島平駅前であった。花見の下見と思いながら歩いたが、後日、埼京線利用する友人のSTさんを案内し満開の夜桜を楽しんだ。(2018/04/06 K.K. 1174/1200)

□日時 2018/3/22 □天候 小雨後晴 □資料 昭文社「東京都市図」2004年4月 □歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅11:25-高島平駅前11:45-浮間公園入口12:05=さくら草圃場前12:20=荒川土手12:30=戸田橋12:40=高島平霊園13:15=徳丸橋13:35=徳丸公園13:45=自宅14:00

奥武蔵都幾川に慈光寺から社寺を巡る

 ふと慈光寺が思い浮かんだ。埼玉都幾川にある古刹で、大分前に存在を知り訪ねたいと思っていたが、長い間実現していない。奥武蔵もJR八高線からも距離がある山奥で、アクセスが悪い。時間たっぷりあり調べると、埼玉のファイルの中に資料が見付かり、ネットで偶然越生駅からバスがあると知った。

 古刹慈光寺 越生駅に降りたら都幾川せせらぎバスセンター行きのバスが待っていた。バスは越生を出て都幾川に入り山間を走って見覚えのある地区を通過し、バスセンターに着き慈光寺行きバスを待った。休日は慈光寺直下迄バスがあり、長い慈光寺坂を上がってバスを降りた。直ぐ山門から本堂で(写真上)、木造堂宇は古刹に相応しいというよりは、シンプルで質素ささえ感じさせるもの。
奈良時代鑑真和上の高弟釈道忠が創建したという。孫達の進学先決定の報告と御礼に軽く参拝。多羅葉樹という樹があり葉書のルーツとの説明書きだが、葉に文字を書き通信手段にしたということらしい。当寺には、装飾法華経が保存され、鎌倉時代のもので後鳥羽上皇の名もあり国宝という。その写しが展示されているが読めずに一瞥し、観音堂から般若心経堂へ回ったが、傍に建つ青石板碑の畠山重忠の名方が目に付いた。鎌倉時代の当地の豪族である。境内土手に咲くハナダイコンの薄紫の花に出会う。私には春告げ野の花で好きな花。
霊山院への道は車道で、天文台へとある。左手先の堂平山には大学の天文台があるがそこへの道かなと思いながら行くと自然に境内になり、本堂前へ進み手を合わせた。

 鹿に出会った正法寺への道 慈光寺迄バスで入ったため時間に余裕があり、奥の正法寺へ歩く予定で入口を探すと、霊山院の墓地脇にあり下り始めるが、狭い山道で、参詣路ではない。ハイカー一行と擦れ違った。それも途中から荒れた上に岩が目立つ下りの薄い尾根道になる。地図上も点線表示のルート。棒きれを拾い杖代わりにしている。なんと前方に鹿が三頭現れ私を確かめ、尻を向け山中に消えて行った。慎重に下り続け、下方に屋根が見え始め、杉林の中のジグザグになりホッとした。こちらは普通の山寺のよう。軽く頭を垂れ、バス通りへ出た。

 流鏑馬の萩日吉神社 滋光寺口に萩日吉神社の案内見付け、都幾川橋を渡り神社へ。この社は名前だけは知っていた。旧同僚Kさんの生家は鎌倉時代当地に土着した名家で、祭事の際3年に一度流鏑馬を奉納し、現在でもその一旦を担っていると聞いていた。入口の児持杉という樹齢800,年の古大木が迎えてくれ(写真下)、杉並木に覆われた石段を上がり参拝。境内は狭く、流鏑馬は正面に続く真っ直ぐな道路でかなと見当を付けた。山里なのにもうサクラが満開。染井吉野ではなく、多分彼岸桜だろう。また、バスを乗り継ぎ東上線武蔵嵐山駅へ出た。車中、Kさんへメールし報告したら、来月墓参に帰郷すると返信があった。(2018/04/03 K.K. 1173/1200               

□日時 2018/3/18□天候 晴 □交通費 2,100円 □資料 「国宝慈光寺経 ハイキング」 □歩行距離 10km 14,000歩
「通過時間等」自宅7:45-東武成増駅8:17-越生駅9:30-せせらぎバスセンター10:13-慈光寺10:30=霊山院11:10=正法寺11:45=萩日吉神社12:15=慈光寺口バス停12:52-せせらぎバスセンター13:11-東武嵐山駅13:47-同成増駅14:55-自宅15:15

高尾山南麓から峰の薬師を往復する

久しぶりに高尾山を歩きたいが、高尾本山は人気の山で人出が多く、静かなハイキングが楽しめない。南麓にある三沢峠を思い出した。一度辿った関東ふれあいの道東京都1号コースにあった(97.2.8)。地図を眺め梅の木平から西山峠へ上がり、三沢峠へ歩くコースを思い付く。それに神奈川県にある峰の薬師も入れたい。高尾山南麓マイコースである。

 小さな峠西山峠 日曜日の高尾山口駅は混んでいた。私は、700回記念高尾山ハイク以来である。孫怜を連れて参加した(11.10.8)。駅前から甲州街道を歩き出す。里から山へ入るに従い人の姿が少なくなり、側道を1人行く。高速の下になり、圏央道だろう。三沢峠、西山峠分岐の梅の木平へ至り、西山峠へ進もうと思うが道が不明。地元の方に教えて貰い、地図とは違う大分先の分岐を山側へ入った。料亭うかい鳥山傍を通過。200回記念高尾山ハイクの時祝宴を開いて貰った店(00.10.14)。私の退職祝でもあった。あれから約17年、残念だが有力メンバー2人も欠けてしまった。最奥の民家を過ぎると林の中で、沢沿いの山道になる。荒れていて倒木を三本、三度も跨ぐ。沢も細り山中に消えると峠の急坂が始まる。息切れする程ではないが、時々足が止まる。上がり切り小峠で休憩(写真上)。高尾山の南端だが、寂しくない程度にはハイカーと擦れ違う。

三沢峠を再訪 関東ふれあいの道の標識が立つ高尾南麓の尾根道を三沢峠へ向かう。緩やかな山道の記憶だったが結構アップダウンを繰り返す。足下にはスミレの花を見付けた。右の木立の間には湖が覗け、相模湖かなと思ったが津久井湖が伸びていると分かった。予定時間で三沢峠到着。数人の高年男女が休憩中で、私もベンチに腰を下ろし、チョコを食べた。先月の義理チョコを持参している。

 三四郎碑を見る 神奈川県側へ歩き、峰の薬師へ。:境内に姿三四郎決闘の碑があると最近知った。一度訪ねた(98.3.28)が、眺めた記憶がなく見てみたい。明治期に活躍した嘉納治五郎の高弟西郷四郎がモデルで、会津藩最後の家老西郷頼母の養子と知り、興味が湧いた。15分程で着き、先ずは本堂へ参拝し、見渡すと大きな石碑が建ち(写真下)、カメラに収めた。広くはない境内、こんな場所で決闘なんか出来たのかな思ったが、小説の話し。東京側へ上り返し、また三沢峠。
高尾山口駅へは、草戸山コースもあるが、大分疲れ、三沢峠を下ることにする。先程の西山峠への上りで苦労したことは確か。三沢峠からは平坦な林道と思っていたが、結構な下りの山道。林道となり下り続け梅の木平へ出て、また甲州街道。バス停があるがタイムリーなバスはなく、そのまま高尾山口駅まで歩いた。               (2018/03/30 K.K. 1172/1200)

□日時 2018/3/11□天候 曇り □交通費 760円 □資料 昭文社「山と高原地図22 高尾・陣馬」1994年 □歩行距離 16km 22,000歩
「通過時間等」自宅9:35-新宿線神保町駅10:20-京王高尾山口駅11:40=梅の木平12:15=西山峠13:00=三沢峠13:25=峰の薬師13:45=三沢峠14:10=梅の木平15:05=京王高尾山口駅15:35-三田線神保町駅16:52-自宅17:30

河津桜満開の下から踊り子街道を歩く

 河津桜が好きだ。色濃いピンク花は何故か私を惹き付ける。これまでそちこちで河津桜を観て、本場伊豆河津の桜へと駆り立てていた。その時期が来た。数日前新聞に咲き始めたとの記事を見て、思い立った。少し遠いが、厭うことはなく、積年の想いを晴らしたい。更に河津から湯ヶ野温泉迄歩こうと思う。東京駅から特急踊り子号に乗った。

 満開の河津桜の下を歩く 特急は伊東駅を過ぎ伊豆急線に入り、左手に大海原が見え始めた。伊豆大島が意外に近く大きく見える。その先に小さな利島や新島も霞む。河津駅に着き下車すると観桜客で混雑中。マップを貰い駅から川沿いの桜並木へ歩き出す。売店のテントが出ている中、土手へ上がり左岸を遡上。期待通り河津桜は満開で濃いピンクを超え、紫がかった花々は見事に咲き開いている。その下をカメラアングルを探しながら行く(写真上)。中高年のみならず若い人や隣国人も混じり多くの人出があり、流石河津桜の本場で、名所である。

 もう少し静かに歩き、観たいと思い土手を上流へ向けると僅かながらも見物客が減り始めた。来宮橋で右岸へ渡ると、川越しの反対側に続く桜並木が美しい。シャッターを切った。こちらは静かで、もう下るペアや家族連れがぼつぼつ。土手下にはみかんの木があり橙の実を付けている。かわづいでゆ橋でまた左岸へ渡り返すと、人出はゼロに等しく桜木も少なくなった。

 河津から湯ヶ野温泉へ 本日は湯ヶ野温泉迄歩こうと思う。温泉には踊り子碑があるようで、見てみたい。以前天城峠を越した際バスで通り、歩ける距離のように見えた(12.5.19)。地図で調べると河津駅から約6㎞程度のよう。3㎞近くは歩いているので、そう遠くはない筈。川を離れ国道となり、峰大橋を通過する。山間の集落の間の道を上がり続け、湯ヶ島へ1㎞の表示を見付け、順調。踊り子街道だろう。

 映画の儘の福田家旅館 湯ヶ野へ着き、バス停でバス時間を確かめ、温泉街へ。福田家を探しに谷川へ下りると、正面に映画やテレビで観た古い旅館があった(写真)。橋を渡り、文学碑を見る。川端の書で、踊り子像ではない。伊豆の踊り子の映画は観なかったが、鰐淵晴子や吉永小百合、内藤洋子、そして百恵ちゃんが演じたことは知っている。橋上で休憩しながら、踊り子の入浴シーンがあったのはこの温泉だったかなと谷沿いの旅館を眺めた。復路は湯ヶ野温泉からバスで河津駅へ。途中下車し再度桜の下も考えたが、電車時間が合わない。駅前に踊り子と学生の像があると知り、カメラに収め(写真下)、ホームへ上がると、もう並び列が出来ている。下田駅からの鈍行はガラガラで、席は確保できた。2018/03/24 K.K. 1171/1200

□日時 2018/3/6□天候 曇り □交通費 7,590円 □資料 昭文社「山と高原地図20 伊豆」 □歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅7:45-JR東京駅9:00-伊豆急河津駅11:40=来宮橋11:55=かわづいでゆ橋12:10=峰大橋12:25=福田家前13:00=湯ヶ野温泉バス停13:33-伊豆急河津駅14:08-JR熱海駅15:47-三田線内幸町17:45-自宅18:30

城南に東京港野鳥公園を再訪する

 先週九州から帰ったばかりだが疲れはなく、ハイキング先を巡らした。山歩きをする程の元気はなく、里歩き先として色々候補は挙がったが、品川先の野鳥公園を思い出した。一度訪ねた(01.1.21)が、大雪の翌日でなんとか辿り着いただけの印象で、野鳥観察を楽しんだ思い出はない。都内城南地区だが我が家から遠くはなく、交通の便も悪くはない。

 城南海浜公園を目指す 三田線を御成門駅に降り東京モノレール浜松町駅へ歩いてスタート地流通センター駅迄は1時間20分であった。京浜運河を橋で渡り右折し、先ずは城南海浜公園を目指す。左手が大田市場の大きな施設。初めて見る市場で、首都圏の台所を賄っているのだろう。同市場花き部が道路に面し入口付近の土手には春の花が咲き、洋ものでポピー類だろうか。海浜公園へ向け左折すると大通りは、大型トラックやコンテナ車、ダンプが往来し側道でも怖いくらい。海縁を歩こうと公園から運河を覗いた(写真上)が、通路はなくまた大通りへ戻った。
市場正門前を過ぎまた運河に掛かる橋を渡ると、左手後方に池が見え、位置的にも野鳥公園の池に違いない。橋を渡り終えたが海浜公園は未だ先のようでそれらしき風景は見えない。本日夕方友人との約束がありゆっくりは出来ない。海浜公園を諦め、野鳥公園へと方向転換。城南野鳥橋へ近付くと工事中で大回りを余儀なくされる。小さな公園が見え、もしかしてと入園したがフトウ公園で、咲き残る梅の花をカメラに収めUターン。工事中の橋を仮設橋で渡り、左手の森の中が野鳥公園の筈だが入口がない。500m先の表示を見付け懸命に進む。

 野鳥がいない公園の池 車出入り口から園内へ入り回り道し、ようやく管理事務所へ到着。17年振りだが見覚えがあった。シニア料金で入園券を求め、観察室のあるネイチャーセンターへ(写真下)。平日のためか、1人独占しテラス越しに池を眺め、野鳥達を探す。池に遊ぶ鳥は僅かで、3グループ程度。据えられた望遠鏡を使用するが、使い方が巧くいかず、見えたり見えなかったり。それでも、隣の写真と見比べると、キンクロハジロやオオバン、カワウらしい。いずれも黒っぽい色の水鳥。池の奥半分は工事中でブルーシートが張ってある。これでは鳥達も地には近づかないだろう。前回は、未だ埋め立ての途中のような荒れた原や砂山だったと思う。現在ではビルやマンションが建っている。奥の観察小屋へ移動するが、1号舎、2号舎からも鳥は1羽も見えず、静かな池だけ。がっかりし退園したが道を間違え隣の自然生態園へ。突然大きな鳥が目の前で羽ばたいて飛び立った。鷺の類で、写真は撮れなかったが、最後のサービスと感謝。
大手町で、友人Mさんに会う。昨年末入院し先月退院して静養中と思っていたが、軽くて済みもう勤務中という。早い快復を祝し乾杯した。                2016/12/27 K.K. 1170/1200

□日時 2018/2/28天候 曇り □交通費 570円 □資料 山と渓谷社「東京港野鳥公園」首都圏ハイキング1999年春号105 □歩行距離 13km 18,000

「通過時間等」自宅13:15-三田線御成門駅14:00-東京モノレール浜松町駅14:20-同流通センター駅14:35=太田市場正門前15:00=フトウ公園15:20=東京港野鳥公園15:55/16:30=同バス停16:45-京急平和島駅16:53-三田線三田駅17:15-大手町17:30/19:30-自宅20:45

火山桜島に圧倒された鹿児島訪問

 活火山桜島 黒い岩肌の鋭い岩稜が目の前に迫り(写真上)、異様な光景に圧倒されて、えっ、桜島ってこんな島、火山だっけと、これまで見た桜島と違うではないか。真黒なのは溶岩に覆われているからであろう。草木は一本もない。先程、高速道の車窓から見え始めた時、私は開聞岳かと思ってしまった。小島との記憶があったからだ。Tさんに桜島だと否定された。鹿児島は3度目で、桜島は鹿児島のシンボルであり、錦江湾に浮かぶ火山の小島とインプットされていた。歌謡曲港町ブルース6番は、女心の残り火は燃えて身をやく桜島 ここは鹿児島 旅路の果てか・・・とロマンチックである。鹿児島大に赴任した友人のKさんは、市内の全銭湯温泉だが、時々灰が降るのは桜島の功罪と話してくれた。

仙巌園と桜島 桜島は、市内巡りにも付いて回った。カーフェリーからは正面になり次第に大きくなった。島へ上陸し、展望台へ走って貰った。集落を抜けると溶岩堆積原の中に切られた車道で、大きな火山岩がごろごろしている。展望台へ上がると、冒頭のシーンに出会いビックリ。海側は波静かな錦江湾で、展望台には薩英戦争時の艦船配置の案内がある。
薩摩藩別邸仙巌園から見た桜島は見事であった。錦江湾の向こうに聳える桜島は一幅の絵(写真下)。築山、池と見立てとあるが、殿様達の趣味や見識は流石なもの。琉球等からの賓客も楽しんだことだろう。450年後の私も、変わらぬ借景をカメラにも収めた。
 最初の訪問時、桜島を一周した思い出があるが曖昧。多分観光バスだったと思う。その時は、開聞岳登山をした翌日、仙巌園を見学し、鶴丸城跡前を通り、指宿の砂風呂にも入った(95.3.18,19)。しかし短時間でそんなに回れたのかと、今になると疑問。

  Tさんに市内を案内して貰う 鹿児島もTさんと一緒で、車で案内して貰った。朝宮崎から約2時間で着き、石橋記念公園から始まり、フェリーで桜島展望台を往復し、鹿児島中央駅前で若き薩摩の群像を見上げ、天文館通りを走って、仙巌園を巡り、そして鶴丸城跡であった。幕末、若者19人もが、国禁を破り英国へ留学したという。直前の戦争敵国へで、長崎のグラバーが斡旋し、帰国後の活躍も記してある。鶴丸城跡は城内にも入った。建物はないが、天璋院篤姫の像が建ち、大手門口の石垣には多数の弾痕があり、西南戦争時のもので、凄まじい。今年の大河は”西郷どん”だが、見ていない。
昼食は鹿児島黒豚カツを戴き、最後は空港まで送って貰った。Tさん三日間も有り難うございました。お陰様で、用事も無事済み、三県都巡りも出来、厚く御礼を申し上げます。(2018/03/19 K.K. 1169/1200)

□日時 2018/2/24 □天候 晴 □資料 鹿児島市「鹿児島市中心部マップ」2018 □歩行距離 10km 14,000歩
「通過時間等」ホテル8:25-石橋記念公園10:25-桜島フェリー10:50/11:10-桜島展望台11:25/11:40-桜島フェリー12:00/12;20-昼食12:50/13/10=若き薩摩の群像13:20-仙巌園14:00/14:50-鶴丸城跡15:00/15:25-鹿児島空港18:55-羽田空港京急駅20:40-三田線三田駅21:09-自宅22:00

宮崎に青島、佐土原城跡、宮崎神宮を訪ねる

 九州宮崎滞在2日目、本日の用事は16時開始で、時間的には余裕があるが、電車やバス、徒歩では動ける範囲が限られる。市内メインの通りと宮崎神宮位かなと考えていたが、昨日の夕食時、今回アレンジしてくれたTさんが、午前中車で案内してくれると言ってくれ、ご厚意に甘えることにした。宮崎は3度目で、いずれも仕事であるが、その中でも、そこそこ名所等は訪ねている。

 青島一周 宮崎は南国で、駅前大通は椰子の木並木である。本日、それ程暖かいわけではなく、東京と変わりはない。Tさんの車で、青島へ向かう途中、左手に宮崎野球場が見えた。現在ジャイアンツ三軍がキャンプ中だが、本日練習休みと知った。青島手前の植物園に駐車し、園内には、既にポピー類が咲き揃い温暖地を誇示しているよう。橋を渡って島内へ。本日好天で、海は穏やかで展望も良い。青島神社に参拝。Tさん、奉納絵馬へ案内してくれた。ジャイアンツのメンバーが揃って祈願してありサイン入り。前回訪問時、ファンのOさんが持ち帰りたいと言ったのを思い出した。亜熱帯植物林中から海岸縁へ出て島を一周。鬼の洗濯岩は見覚えがあり、見事なもの(写真上) 帰りに、植物園大温室で、皇后様の名が付いた洋ランの花を鑑賞した。

佐土原城跡は山の中 Tさん午後一番の仕事で郊外の佐土原へ行くので、城跡はどうかと誘われ、二つ返事でお願いした。処が、到着すると本日再建御殿は閉館日とある。横に本丸跡への案内を見付け、山城跡へ進入。大手口の筈だが溝のような崖の間の坂道を上がる。山道を行き堀切を過ぎると本丸跡であったが、小さな削平台のみ。
佐土原城は、戦国前期は伊東義祐が城主であった。彼は曽我兄弟に討たれた工藤祐経の末裔。一時は日向国一帯に勢力を張ったが島津氏に敗れ、薩摩島津氏の支配が当地まで及び明治に至ったという。1625(寛永2)年に、麓に御殿を設け山城を下りている。最近の調査で、南九州には珍しい天守閣があったことが分かったとある。
 道を挟んだ向かいの道の駅で資料を貰い、市内へ戻る交通を教えて貰うも、JR佐土原駅は遠く、駅へのバス停も一本先の通りだと知った。ウロウロしたが1時間30分後のバスしかなく、待っていたら、携帯が振動しTさんからで、仕事を終え寄ってくれるという。渡りに船で、遠慮なくまた乗せて貰った。

宮崎神宮に参拝 宮崎神宮に寄ってとお願いする。この神社の存在は知っていて、多分ジャイアンツのキャンプの際、優勝祈願をする選手達をテレビで観ていたからだと思う。実は二度目の筈だが、初めての風景のよう。広い境内は林に覆われ、直線の参道は長く続くが、参拝者はなく我々だけ(写真下)。静かな中、私はいつもの喫緊のお願いをした。ご祭神が神武天皇とあり、意外であった。
ホテルへ戻り、休憩しながら仕事に備えた。(2018/03/15 K.K. 1168/1200)

□日時 2018/2/23 □天候 晴 □資料 宮崎市教育委員会「佐土原城ガイド」2017、宮崎神宮社務所「略記宮崎神宮」 □歩行距離 13km 18,000歩
「通過時間等」ホテル8:25-植物園8:50=青島9:10=植物園9:50-佐土原城跡11:15=本丸跡11:30=同城跡前13:10=宮崎神宮13:50/14:05-ホテル14:20

県都大分に府内城跡から市内を巡る

 宮崎へ出掛ける用事が出来た。併せて九州に残る未訪県都を巡りたい。前日大分へ入り、用事を済ませた翌日は鹿児島へ出ようと考え、スケジュールを検討したら可能で、航空券やホテルを手配した。用事で使用する資料はデータで送り、法令集は薄く軽いものとし、大きめのザックで洋服等も持参した。

 駅前繁華街から城跡へ 大分空港から乗ったバスを大分駅前に降り、案内所で市内マップを入手。駅前に建つ大友宗麟(写真上)、フランシスコ・ザビエルの像を見て市内へ入った。駅前からのアーケード街は大きな繁華街で、シャッターを閉めた店舗はなく、平日なのに人通りもあり、県都である。右手に赤煉瓦が見え、近付くと大分銀行赤煉瓦館、東京駅を設計した辰野金吾作で重文とある。赤色が目立ち、最近改装したのだろうか。カメラに収め、県庁隣の府内城跡へ。大通りから右折左折を繰り返すと前方に寺らしき建物が見えたと思ったら、府内城跡の西之丸櫓であった。

再訪の府内城を一回り 濠端を行き正面へ回り、大手口から城内へ。本丸跡だが、現在天守閣建築工事中とある。廊下橋は渡れず、一旦城跡を出て、松栄神社前から濠外を回る。神社は家康の出身地上州縁の社とあった。当城は再訪だ(93.12.5)が、見覚えあるのは濠のみで、記憶よりは広い内濠である(写真下)。四方の櫓は復元だろう。
宗麟時代は館で、近世の城と城主は、手許の資料では、約400年前石田三成の妹婿福原直高12万石として築城が始まり、その後城主が目まぐるしく代わり、17世紀中頃松平忠明が城主となり明治まで続いたとある。大手門口へ戻ると左手が県庁であった。

 西洋文明伝来の地 県庁前遊歩公園からまちなかの彫刻群を巡る。伊東マンショ像や当地に伝来した西洋医術や同療養所、同演劇の発祥の地関係彫刻が続いた。キリシタン大名となった宗麟庇護の下、ザビエル後も多くの宣教師達が渡来し、西洋文明が伝わったらしい。最後に滝廉太郎像があった。明治期西洋に留学したが病気で帰国し、この近くが終焉の地とある。以前、竹田城跡で見た像を思い出させ、93年は豊肥本線で豊後竹田から大分であった。駅へ戻り、日豊本線特急に乗車した。

 途中下車し延岡城跡へ 県境を越え宮崎に入り、最初の停車駅延岡駅に途中下車し、延岡城跡を往復。駅前通りから五ヶ瀬川に掛かる橋を渡り右折した市役所先の小山が城跡であった。大回りしたが大手門から坂を上がると、有名な千人殺しという石垣。石垣の一部を外すと全体が崩れるというその仕掛けのネーミングらしい。高く立派な石垣にアングルを探した。坂を上がり続け、本丸跡、天守台跡へ。最後の藩主内藤政挙の像が建ち、鐘楼もあった。眼下に川が見え、先程渡った川と方向が違うと思ったら、当城は両側川に挟まれ、自然の要害としていたようだ。若山牧水の歌碑を見て、市役所前へ出るとバス停があり、折良く直ぐバスが来て駅へ戻り、宮崎空港行きに乗った。(2018/03/11 K.K. 1167/1200 

□日時 2018/2/22 □天候 晴 □資料 (株)ゼンリン「大分市センターマップ」2018 □歩行距離 12km 16,000歩
「通過時間等」自宅6:05-都営三田駅7:01-羽田空港8:00-大分空港10:00-JR大分駅前11:00=大分銀行赤煉瓦館11:15=府内城跡11:30=県庁前遊歩公園11:50=JR大分駅13:04=同延岡駅15:10=延岡城跡15:40/16:07=JR延岡駅16:31-同宮崎駅18:10-ホテル18:20

印西滞在の白鳥に感謝し、成田山参拝へ

 印西本埜の白鳥の郷を思い出した。多々良沼の余韻かもしれない。10年前千葉印西に白鳥を訪ねたが空振りであった(08.2.11)。今回はとネットで調べると約800羽飛来しわが国2番目の数とある。友人のSさんに白鳥の話をしたら興味を示してくれ、車を出して戴くことになった。JR成田線小林駅から徒歩の飛来地は車が至便で、有り難く、近くの成田山新勝寺参拝も加えた。Sさんは成田山は初めてという。

 居残り白鳥に感謝 都内を抜け千葉に入った車は、成田線と利根川の間を走った。農村地帯を進み見覚えのある風景になり、田圃の中にある小学校の先が飛来地である。僅かだが車が停まり、人影も見える。果たして白鳥に会えるかと、期待と不安が半々で車を降り池へ近付いた。いたいた僅かだが池中央付近に浮いている。30羽程度だろうか(写真上)。感謝しながらシャッターを切った。案内の方によれば、891羽いたが2月になって大半はシベリアへ帰ってしまったという。今朝、目の前の30羽も空へ舞い上がり帰ろうとしたが戻ったと話してくれた。気流の方向が悪かったらしい。我々はラッキーとしか言いようがなく、それで30羽に会えたのだ。Sさんもカメラを出している。私は、白鳥達に感謝し、募金箱へ私にしては多目を投入した。無事シベリア帰還を願いつつ白鳥の郷を離れた。 

 新勝寺に参拝し公園を巡る 印西から成田山は近かった。30分程で駐車場が見付かり、2人で境内へ。私は再訪だ(11.1.22)が、広く豪華な伽藍や本堂寺院に改めて驚くほどの新勝寺である。先ずは本堂に参拝。横綱達による節分の豆まき風景でお馴染みの場所である。裏手の公園を巡る。二度目の私は、Sさんを案内したが、広大な園内は殆どの初めてのよう。芭蕉や虚子の句碑があったが記憶にない。池へ出ると大きな池が二つあり、沢から清水が注いでいる。池の間を通って梅林へ。梅の花もちらちらと咲き始め、本日梅祭り初日で、野点も行われていて覗いた。先の右手高台に大きな平和塔があるが初めて見るようでカメラに収めた。瀧を案内し、坂を上がって境内へ戻るも、何処へ出たか一時不明だったが、本堂の左手先であった。途中の売店で、瓜の鉄砲漬けを求め、商標事件にもなったとSさんに説明した。

 甚兵衛渡し場跡再訪 印旛沼方向へ戻って貰った。先程成田山への途中、印旛沼に近い老松のある甚兵衛渡し場跡(写真下)傍を通り、以前家内やかぼちゃ会メンバーと歩いたこと(98.5.3)を思い出した。関東ふれあいの道千葉県コースであった。義民佐倉宗吾が将軍直訴を決断し江戸へ出る時、佐倉藩の妨害を排し舟頭甚兵衛が舟を出してくれた印旛沼渡し場跡と知った。そんな話しをSさんにし、近くで昼食にした。車は速く、常磐高速で13時過ぎには高島平であった。Sさん今回も有り難うございました。御礼を申し上げます。2018/03/05 K.K. 1166/1200

□日時 2018/2/17 □天候 晴 □資料 新ハイキング社「白鳥の郷と八十八大師巡り」604号59頁 □歩行距離 5km 7,000歩
「通過時間等」自宅7:30-印西白鳥の郷9:00/9:25-成田山新勝寺・同公園9:55/10:40-甚兵衛渡し場跡(昼食)11:05/11:45-自宅13:15

コース誤るも枡形山から東高根森林公園へ

 途中からコースを誤ったことに気付いて、府中街道のどの辺へ出るか気になった。多分手前だろうが次の東高根森林公園への遠近が問題。林を抜け住宅街を過ぎ府中街道だったが、先程渡った稲生橋の少し下流の本村橋で、目指す長尾橋の大分手前であった。またやってしまった。いつもの山勘がまた裏目に出た。 

 枡形山、民家園は再訪だが 本日は、川崎の小田急向ヶ丘遊園駅から枡形山、ばら苑付近を通って東高根森林公園を巡りJR南武線久地駅へゴールの予定で、待ち合わせた弟とスタート。駅正面の大通りを真っ直ぐに進み、二叉路を右へ採ると生田緑地東口で、ビジターセンターがありパンフなど情報を得た。枡形山へと丘に取り付きハイキングらしくなったが、直ぐ山頂広場。弟は簡単過ぎるコースと不満のよう。展望台へ上がったが周囲は見えるが雲で遠望はない。西方の眼下に長孫が通う校舎が見えた。高島平から遠く大変かなと思っていたが、元気に通い3年目になる。今朝向ヶ丘遊園駅迄は1時間ちょっとで意外に近かった。当頂は城跡で再訪の筈だが(98.6.21)記憶にない。城跡石碑をカメラに収めた。

 コースを誤る 葉を落とした木々が並ぶ尾根道は春待ち風で、好みのアングル(写真上)。シャッターを切った。下って民家園だが此処も見覚えがない。生田緑地を出てばら苑を目指す。ばら苑は住宅街の奥に見付かったが当然閉園中。正門で案内板をチェックすると、右方向は生田緑地への表示。それでは左だろうと気安くばら苑柵沿いに進むが、次第に道は細り林へ入って荒れ出した。この辺りから違うなと感じ始め、地図を眺めると府中街道へは出られると分かり、冒頭のようにそのまま進むと府中街道本村橋であった。街道を川崎方向へ行き藤子不二夫ミュージアム前を過ぎると、前方に高速道路が見えだし、方向は間違いない。弟も少し遅れながらも付いて来ている。長尾橋に至り右折すべきか迷ったが、右は大通りがそのまま先へ続きハイキングコースのある雰囲気はない。東名高速の下を右折しようとしたが道はないようだ。

 親切な案内で東高根森林公園へ そろそろ森林公園が近いと思い、右の土手に近付き上がり口を探すが探せず、地元の方に尋ねると住宅裏通路まで案内してくれた。お礼を言い土手上へ上がり、高速道路迄戻った格好で回り込むと森林公園北口があった。大きな望遠レンズ付きカメラを抱えた高齢者達が屯している。珍しい野鳥レンジャクが撮れるらしい。谷戸に広がる公園の中には、紅梅が咲き、弟は福寿草を見付け声を上げた(写真下)。私も携帯にも写した。福寿草は子供の頃生家の庭にも咲いて、弟も覚えていた。正面の南口にはバス停があるかもと半周し、正面のパークセンターで聞くと、近くのバス停を教えてくれた。山勘が時々当たるが頼りすぎると失敗する。本日は双方経験。向ヶ丘遊園駅へ戻り、駅前で昼食後、下り電車の弟と別れて帰宅した。(2018/03/01 K.K. 1165/1200                                           

□日時 2018/2/11  天候 晴 □交通費 730円 □資料 新ハイキング社「さあ、ハイキング!枡形山-東高根森林公園」平成27年、115 □歩行距離 16km 22,000

「通過時間等」自宅8:40-三田線神保町9:22-小田急新宿駅9:41-同向ヶ丘遊園地駅10:05=生田緑地入口10:20=枡形山10:30=民家園10:45=ばら苑11:05=本村橋11:20=長尾橋11:40=土手上12:05=東高根森林公園12:20=同バス停13:00-小田急向ヶ丘遊園駅(昼食)13:15/13:40-都営新宿線新宿駅14:25-三田線神保町駅14:40-自宅15:20

都心駒込、田端界隈を歩く

 都内を歩こうとして、”東京2時間ウォーキング・山の手編”を思い出し、本棚から引っ張り出した。私がハイキングを続けていると知った旧同僚からのプレゼントであった。以前は節目の記念ハイクには同行してくれたが、最近はご無沙汰である。今回は、約10コース掲載の中から未踏のコースを選び、”田端辺り”にした。スタート駅はJR駒込駅である。本日、天気良くハイキング日和。

 田端銀座へ 三田線を巣鴨駅に降り、山手線沿いに駒込駅を目指した。そう距離はなく高架橋を渡って山手線内へ入り、駒込駅前を通過しコースになった。駅先で右折し、最初のポイント田端銀座へ歩く。都心といっても北区のこの辺りはビル群はなく、低い住宅街が続く。田端銀座入口へ至り、下町の商店街で何故か懐かしく、八百屋や食肉店が両側に連なる間を通り(写真上)、カメラに収めた。八幡坂から八幡神社が次のポイントだが先へ歩くも見当たらない。あったお社は小さな湯殿山神社。道端にある地図を見ると通り越したらしい。銀座入口で左折であった。街角ウォークは時々これがあるから怖く、苦手である。

 上田端神社、日枝神社 近道で修正し、八幡坂を見付け緩やかな坂を上がると左手に神社があり、上田端八幡神社。細長い境内に古木が聳え、田舎の村社のような神社(写真下)。軽く参拝し、坂を上がり切り大通りへ出て右折。板谷波山(陶芸家)旧居跡からポプラ坂を下り日枝神社を探す。戦前ポプラ倶楽部という文士達のテニスコートとクラブあったという。今度は山勘が利いて、住宅間の奥に社が見付かり石段を上がって手を合わせた。

 芥川邸跡に出会う 赤紙仁王通りを田端駅方向へ歩き、東覚寺前へ出て赤紙を貼った仁王様に会い、ここは再訪(08.1.19)と気付いた。自己の身体の痛い部分と仁王様の同じ所に赤紙を貼り治癒を祈願するという。隣が田端八幡神社だが最近建て替えた社のようで省略し、駅前通りを横断して、与楽寺坂へ向かう。想定した先に坂があり、坂途中の大きな寺が与楽寺であった。寺裏へ回り、また山勘でゴールJR田端駅へ狭い通りを右往左往していると、芥川龍之介の邸宅跡の案内板に出会う。300坪の邸宅に大正時代から自殺するまで14年間暮らしたとあるが、現在では小さな住宅が密集するだけ。龍之介は田端文士村の中心であったらしい。切通の駅前通りへ出て階段を降りると、 JR田端駅は直ぐであった。未踏のコースの筈であったが、赤紙仁王は二度目で、近くでは、全く新規なコースを歩くことは、難しくなった。2018/02/27 K.K.1164/1200                         

□日時 2018/2/8  天候 晴 □交通費 130円 □資料 薮野 健「東京2時間ウォーキング・山の手編」2002年、75 □歩行距離 7km 10,800

「通過時間等」自宅10:20-三田線巣鴨駅10:55JR駒込駅前11:15=田端銀座11:25=上田端八幡神社11:40=日枝神社11:55=赤紙仁王様12:00=与楽寺坂12:05=芥川邸跡12:20JR田端駅12:27-三田線巣鴨駅12:40-自宅13:10

 故郷の読者S先生・歌人のお便りからです。“演技終え右足首に感謝するとひざまづきたり羽生選手は”有り難うございました。

白鳥を眺めた館林多々良沼

 ハイキングガイドの中から、未訪の「多々良沼」が見付かった(東武鉄道「みちしるべ」平成15年、141頁)。白鳥が渡来する沼とあり、グッドタイミング。東武伊勢崎線で館林駅の一つ先多々良駅起点のコースである。伊勢崎線も奥の赤城と日光線分岐の中間にあり、見逃していたのであろう。ネットでも、現在滞在白鳥の数が70羽とある。天気予報も調べ、暖かい日を選んだ。

 多々良沼白鳥見学へ JR宇都宮線を久喜駅で東武伊勢崎線に乗り換えた。途中昨夏の甲子園優勝校のある花咲駅を通過。館林駅の次多々良駅に降りると、予報通り快晴無風の良い天気。駅前案内板で多々良沼を確かめ歩き出す。駅前から田舎街通りを右折すると田園地帯。広い関東平野のど真ん中で、南西の山々は奥武蔵から外秩父の低山か。県立美術館方向へ歩き、多々良川に架かる日向橋から川沿いに下ると沼が見えだし、意外に大きい沼。案内所があり、込み合う中、パンフを得て、白鳥の居場所を教えて貰う。ガバ沼と弁天神社先の2箇所にいるという。右手先のガバ沼へ向かう。距離があるが、前方の見物者達の動きから沼の位置と距離が分かる。葦原に囲まれた沼端には、既に大勢の見物客やカメラマンがいて、小さな沼を眺めている。

 目の前を泳ぐ白鳥達 白鳥達は、反対側奥に横長に浮き、泳いでいる(写真上)。目算で3040羽位だろうか。餌取りに飛び立たないで日中もいてくれ感謝である。私は望遠にしてシャッターを切ったがどうだろう。鴨達も多数いて、沼を出て傍迄来て餌を強請っている様子。白鳥観察の際に良く見る風景で、宮城県伊豆沼で同様であった。白鳥達を目とカメラにしっかりと収めて、次の弁天神社へ多々良沼畔を行く。こちらは人出はなく、静かな遊歩道。前方の山は筑波山かと間違えたが、両毛線沿いにある栃木の山だろう。弁天様に、孫達のことを祈願し、ベンチでこれからのコースを検討。多々良駅へ戻るか、それとも小泉線成島駅へ出ようか迷ったが、スマホで電車時間を調べ成島駅へとする。

 再び白鳥を見る 直ぐ近くに鶉古城跡があった。林中に小さな土塁跡が遺り、戦国前期のもののようで、カメラに収めた。成島駅への分岐を探しながら沼端を進むと、遠くに白鳥達が見える。近付いて正面へ回ると、藪中に沼岸への進入路が切られていて、見学者もいる。私も岸へ出て白鳥を見物。こちらは20羽弱か。広い池をグループで悠々と泳ぎ、遊んでいる。またカメラを向けた。顔を上げると池越しの北の高峰は山容から日光の男体山のようだ。岸辺の野道にはイヌノフグリが咲き始め、こう寒くても、やはり春は来るのだろう。コースマップで、成島駅へのコースを確かめ、田舎道を右折左往して、駅を見付けた。1時間に一本の電車に、15分前駅到着を想定していたが、25分前に着き、小さな駅舎で1人電車を待った。2018/02/18 K.K.1163/1200                                           

□日時 2018/2/4 □天候 晴 □交通費 2,230円 □資料 東武鉄道「みちしるべ」平成15年、141頁 □歩行距離 16km 22,500歩
「通過時間等」自宅8:12-JR板橋駅8:45-同赤羽駅8:57-東武久喜駅9:44-同多々良駅10:40=日向橋11:00=多々良沼11:15=ガバ沼11:25/11:40=弁天神社11:55=鶉古城跡12:10=弁天神社先白鳥遊泳地岸12:45=東武小泉線成島駅13:38-同館林駅13:58-JR久喜駅14:30-同赤羽駅15:11-三田線新板橋駅15:25-自宅15:50

水仙の花は遅かった内房江月水仙ロード

 冬から初春の花は水仙である。この時期に咲く花は少なく水仙が唯一と言っても良い。これまでも水仙の花を求め巡り歩いたが、中々盛花には出会えない。昨年訪ねた城ヶ島も、遅かった(17/1/22)。本年は、内房保田の江月水仙ロードをチェックしていたが、厳しい寒さの日々が続き、暖かい日を選んで出掛けた。

 遠い内房保田 千葉の内房保田は遠い。東京駅から京葉線に乗り、内房線蘇我駅、木更津駅で乗り換え保田駅に降りた時は11時を過ぎていた。一週間前都内は大雪が降り我が家周辺はどっさり残っているが、京葉線の車窓からはビルの陰にも雪は見えなかった。
保田駅前案内所で尋ねると、水仙はもう遅く奥へ行けば残っているとのこと。出鼻を挫かれたが、スタートし保田神社に挨拶して、保田川を権現橋で渡り三叉路を、山側へ左折すると水仙ロードに入ったようである。当地は天候は良く、風もなく、寒さは感じない。流石温暖の内房の先である。

 遅かった水仙の花 やはり水仙はポツリポツリと各家の入口周辺あるが元気がないように見える。栽培ではなくて自生のよう。そんな水仙を眺めながらも奥へと進む。菜の花畑があり、こちらの方が見応えがあり、カメラを向けた。左手の山裾一面に水仙が咲いているが、お終いの時期で今一の模様(写真上)。道端には僅かだが、首上げて咲いている花もあり(写真中)、選んではシャッターを切る。ご夫婦の鑑賞者も見受けられ前後になりながら、水仙ロードを行く。山の斜面には茎が揃って倒れている水仙もあり、先日の雪の所為のようだ。坂道に掛かり、右手下の土手一面に水仙の花はあるが、白い花は終わりに近く皆下を向いている。
水仙広場があり直売所が出ている。帰りに寄ろうと奥へ進み、山間の二叉の道を左へ採とるとまあまあの水仙に出会い、ここからかと思ったら私有地で通行禁止とあった。広場へ戻って、テント内で休憩。売店の話しでは、見頃は今年は速く今月10日頃であり、雪は降ったが翌日に消えたという。パンと甘酒で昼食とし、土産にポンカンを求めるとザックが重くなった。帰りに見た道沿いに咲く水仙は、少し元気を得ているよう。太陽が真上に来て暖かくなったからか。

 原岡桟橋を往復 保田駅へ戻り、内房線下りに乗って富浦駅へ向かう。先日テレビで、原岡桟橋が紹介され興味を惹いた。富浦駅から海岸は近く10分程で浜へ出ると左手が桟橋で、見物者がいる。私もザックを浜に置いて桟橋を渡る。木製の桟橋が売りと思ったが長い桟橋のほんの一部が木製(写真下)。低く狭い桟橋で海水がすれすれ迄あり、怖い位。100m弱の桟橋往復し、景色を眺めたが、変哲のない小湾。海水浴に適しているようには見える。朝夕の富士のビューポイントとして有名になった桟橋と再認識し、富浦駅へ歩いた。2018/02/10 K.K. 1162/1200

 □日時 2018/1/29  天候 晴 □交通費 3,430円 □資料 鈴木一雄「江月水仙ロードから笑笑の湯」新ハイキング651109頁 □歩行距離 14km 19,000

「通過時間等」自宅7:45JR東京駅8:52-同蘇我駅9:46-同木更津駅10:28-同保田駅11:10=保田神社11:20=江月水仙ロード11:30=水仙ひろば12:10/12:20JR保田駅13:16-同富浦駅13:30=原岡桟橋13:40/14:00JR富浦駅14:46-同千葉駅16:42-同錦糸町駅17:32-大手町18:0019:50-自宅20:30

箱根旧街道を歩き杉並木へ

 箱根宿泊の会合へ参加し、私はハイキングも予定。天候が気になりネットで調べると、翌日は良くない予報。最近の予報は当たるから、前日歩くことにした。夕方以降がメインの会合だから、17時迄チェックインすれば良い。小田急線車中で地図を広げ、箱根旧街道を甘酒茶屋から元箱根へ出て杉並木を歩くコースにした。

  甘酒茶屋をスタート 箱根湯本駅に降り昼食を済ませ、旧街道を走るバスに乗車。大分前だが、湯本から旧街道を歩き旗宿は越したが七曲り坂で難渋しリタイアしてバスを待ったことがあった(04.12.13)。研究会メンバーのMさんと一緒であった。今回は、その残りを歩きたい。バスは旗宿を過ぎ曲がりくねる急坂を上がり、甘酒茶屋前に下車した。茶屋は、江戸初期創業で13代続くという。
茅葺きの薄暗い茶屋を覗いて、バス通りをスタート。裏に旧道がある筈ではと林へ近づいたが見付けられなかった。舗道を行くと直ぐ旧街道入口があり石畳の道へ入る(写真上)。石畳は歩きにくく、平らな側溝の部分の方が歩きやすい位。結構な上り坂でゆっくりと上がり続ける。真冬なのに寒くはなく、上下するグループと行き交う。歩きながら、一度反対側から越したことを思い出した。帰宅後調べると駅伝往路6区応援の帰り(09.1.3)と分かった。

 箱根馬子唄の碑 峠を上がり切り、緩やかな下りになる。箱根旧街道の最高地点は、当地ではなく先の箱根峠で(846m)、三島へ下り始める峠である。直ぐ右手の小さな広場に石碑があり、箱根馬子唄の碑。”箱根八里は馬でも越せるが・・・”は私も知っている。右手背後には二子山が迫っている。石畳の旧道は、大通りと交差したが、そのまま石畳の権現坂を下る。前方に芦ノ湖の湖面がちらつき始め、江戸時代の旅人達も、難所の峠を越したとホッとした地とある。私は初めての道で、反対側から歩いた時は大通りから旧道へ入ったのであったろう。

 杉並木を歩く 石畳道が終わり歩道橋を渡ると杉並木があった。杉並木は数回歩いているが、当地は初めてで、杉の太さは変わらないが道は狭い(写真下)。杉並木は先へ続くも右折の指示があり、現街道へ出てしまった。住宅街が迫り旧道は寸断されているらしい。
少し歩いて元箱根港、美術館前を過ぎ、また旧道の杉並木が始まった。これまで数回歩いた有名な旧道杉並木で、先程より道幅はある。”箱根八里”の唱歌を歌いながら歩いたのは従姉妹達とであったろうか。かぼちゃ会メンバーとであったろうか。
杉並木を抜け恩賜公園から関所跡、そして箱根駅伝記念碑へと歩いた。昨夏、北海道の孫達と訪ねたばかり。今回も、駅伝ゴールポールを確かめ、バスターミナルで、宮の下へのバスを待った。翌日午後は大雪になり、予報は大当たりであった。             (2018/02/02 K.K. 1161/1200)                                                  

□ 日時 2018/1/21 □天候 晴 □交通費 3,810円 □資料 昭文社「山と高原地図19 箱根」1994年8月 □歩行距離 14km 19,000歩
「通過時間等」自宅9:20-小田急新宿駅10:20-同湯本駅(昼食)12:40-甘酒茶屋13:07=箱根旧道入口13:20=箱根馬子唄碑13:40=杉並木入口13:50=杉並木14:10=バスターミナルバス停15:35-宮の下バス停16:26-仙石案内所バス停16:50-宿泊先16:55

さいたま東浦和に三社を訪ねる

正月を迎え、初詣先を思い巡らしていたら、さいたま見沼が浮かんだ。東浦和に代用水東縁や西縁があり、大分前だが数回歩き(99.4.25外)、その途中に氷川神社が二社あり、その先には大宮氷川神社もある。我が家から近く、駅から歩き出せるコース。本日15日は小正月で、遅くなったが神様は許してくれるだろう。孫達のこともお願いしたい。

 氷川女体神社へ スタート地JR武蔵野線東浦和駅は、板橋駅から武蔵浦和駅経由で1時間15分程で近い。構内案内図でも見沼代用水西縁の位置を確かめ歩き出し、予定通り西縁へ出て、遡上。冬の用水は渇水期で流れは少ない。道は時々舗装が切れ砂利道になる。行き交う人は稀である。
大牧小学校の裏手に神社境内らしき風景を見付け、踏み入ると目指す氷川神社であった。二度目の筈だが見覚えがない。しかも女体神社で、次の女体社の姫神社とある。参拝し孫達ことをお願いし、カメラに収めた。
また西縁へ戻り、用水沿いに歩く。右手に見えた林の奥が次の氷川女体神社で、うねった用水土手を下り公園を抜けると境内で(写真上)、こちらは僅かだが記憶にあった。チラホラの参拝者に混じり、手を合わせた。休憩し、持参した熱いウーロン茶を飲んだ。

 山勘が裏目に 三社の内二社に祈願をし、最後は大宮氷川神社へと当初は考えていたが徒歩では距離があり過ぎ、手許のマップ(「見沼たんぼ全域マップ」)から、中間に中山神社を見付けた。元は中氷川神社というから丁度良いと、そちらへ向かうことにした。
西縁から離れ水田地帯の中を行き、30分過ぎだが風景に変わりはない。川で遊ぶ白い鳥を見付けデジカメを構える。白鷺らしい(写真中)。大通りへ出て、北宿橋で芝川を渡り、左折し中山神社を探す。右手に神社森らしき森があり、いつもの山勘で近付いたが違っていた。ここで混乱し、この近くが中山神社と思い込み20分、30分ウロウロし、通行人にも尋ねたが不知との返事。携帯ナビでも1km以内と出たから混乱を増した。いつもの山勘頼りが裏目になってしまった。

中山神社を探す 誤り始めた地点へ戻り、2人の方に教えて貰い、最後の方は近くまで案内してくれ、住宅街に聳える林を指さしてくれた。私は、一本手前の通り付近を探していた。表参道へ回り、小さな村社といった社殿前に進み詣でる(写真下)。裏に歴史ある旧社殿が保存されていて、桃山期建築と推定されるとある。これで何とか三社を巡ることが出来、長い参道を後にした。
帰路はJRさいたま都心駅迄歩く予定であったが、疲れてバス停を探す。直ぐJR北浦和駅行きのバスが来て、北浦和駅から赤羽駅経由で帰宅した。         (2018/01/28 K.K. 1160/1200)

□日時 2018/1/15  □天候 晴 □交通費 810円 □資料 JR東日本駅からハイキング「東浦和見沼田んぼ散策」2006年8月 □歩行距離 17km 23,000歩
「通過時間等」自宅9:30-JR板橋駅10:07-同武蔵浦和駅10:32-同東浦和駅10:47=見沼代用水西縁10:55=大牧氷川神社11:08=氷川女体神社11:43=北宿橋12:30=中山神社13:35=富士見ヶ丘バス停13:52-JR北浦和駅14:20-三田線新板橋駅15:03-自宅15:30

2018年ハイク始めに三浦富士、武山を歩く

2018年歩き始めは、三浦富士から武山にした。最近三浦半島はご無沙汰で、また武山不動尊があり序でに、初詣も出来る。一度歩いて(99.3.13)、私には手頃なコースの記憶があり、海が眺められる。新年早々より弟から誘いがありこのコースを提案し、オーケーを貰った。久しぶりで事前に調べると、複数の手許ガイドに紹介してあり(散歩の達人「らくらく日帰り山さんぽ」交通新聞社74頁)、人気のコースのようである。

 三浦富士へ 三田駅で京浜急行特急に乗り三浦半島に入って鈍行に乗り換えると弟が乗っていた。長沢駅に降りスタート。少し歩いた公園脇に三浦富士コースの上り口が見付かり、緩やかな上りの広葉常緑樹の林の中を行く。亜熱帯系で楠やタブの木だろう。アップダウンを繰り返しながら僅かながら高度を上げている。赤い実を付けた灌木があり、ユズリハかなと思ったが柊らしい。時々右手の木立の間に家並みが見える。急坂下にベンチがあり、急登に備え2人は休憩。目の前の急坂を上り切ると二つの石の祠があった。記憶が蘇り、三浦富士の頂(183m)かなと思ったらやはり山頂で、数人のハイカーが休憩中。僅かな賽銭で手を合わせた。カメラを構えていた弟が”富士山”と言うので、振り向くと丹沢の山々越しに遠望出来て(写真上)、私もデジカメを出した。

  大島を眺める 一旦里道へ下りると、10人以上のグループが追い越して行った。今盛んなトレラン(山岳ラン)の訓練のようで、弟は、先程長沢駅に集合していた面々と言った。展望台があり、三浦半島の先迄望める。先端の島は城ヶ島かと思ったら、大島と気付いた。意外に近く大きく見える。里道の儘で砲台山(204m)へ着く。山頂にはアンテナ施設が建ち、その手前に丸い穴があり、先の大戦時に設けた砲台跡のようだ。前回この辺りで滑って転んだことを思い出した。

 武山からキャベツ畑を下る 次の武山(200m)へは、また一旦下るが今度は直ぐ長い階段の上りになる。ここで弟が離れてしまった。私は、先に上がり武山不動尊に参拝し遅い初詣で、孫達の成長や念願成就をお願いした。人出があり、こちらは車でも可能で、バス停も近いようだ。
境内で昼食後、展望塔へ上がる。東京湾が一望で、対岸には房総半島が広がる。小さな双耳峰は内房岩井の富山だろう。館山の房の大山はもっと先端部の筈。広葉樹林帯の中の長い直線的な山道を下る。本日、ストック二本持参し、一本は弟が使っている。賃料は肴と伝えた。
農道へ出て集落内を下ると、左手に三浦富士が見えた。全貌を捉えたが富士とは似付かない山容だ(写真下)が、カメラに収めた。周囲は一面キャベツ畑。途中の販売所でみかんを求めた。苺やサツマイモも特産とある。津久井浜駅から帰途に就き、弟とは横浜駅で別れ、また柿ピーとお茶を貰ってしまった。        (2018/01/23 K.K. 1159/1200)

□日時 2018/1/7 □天候 晴 □交通費 1,710円 □資料 山と渓谷社「首都圏ハイキング2000秋冬 三浦半島・三浦富士」 □歩行距離 12km 17,000歩
「通過時間等」自宅7:40-京急三田駅8:31-同長沢駅9:45=急坂下・休憩10:20=三浦富士10:30=展望台11:00=砲台山11:05=武山(昼食)11:25/11:55=京急津久井浜駅13:01-三田線三田駅14:15-自宅15:05

記憶と違っていた奥武蔵金勝山、官ノ倉山

今年の歩き納めはホームグランド奥武蔵の官ノ倉山とし、ハイク友Kさんに同行をお願いした。官ノ倉山は、コースは違うが数度歩き、コースに変化もある。我が家から近く、それに駅から歩き出せるのが良い。これまで家内とも登った(96.4.21)し、後輩Mさんとも歩いた(05.3.20)ことがあり、コースは記憶にあるが、調べると12年振りである。

 金勝山へ Kさんと、東上線川越駅に待ち合わせ終点小川駅で乗り換え東武竹沢駅に降り、先ずは金勝山へ向かう。線路沿いから山へ左折し、ハイキング道に入る。池には薄い氷が見える。次第に狭い山道となり急坂も混じる。Mさんと歩いたコースだろうが記憶と違いやや険しい。上がり切って、山頂(263m)で休憩(写真上)。右手先の大きな建物は、最近出来たH技研の寄居工場らしい。隣の少年自然の家のある尾根へ上り返し、舗道を下る。これからの難路に備え楽に下りたい。予定より大回りし正門から大通りを歩き八高線沿いへ出た。

 記憶と違うポイントの神社 JR竹沢駅前を通過し山側へと踏切を渡り、官ノ倉山への上がり口を探す。神社がある筈だが見付からない。地元の方にもっと先と教えられ、先程来私の記憶は当てにならないようだ。山村集落内を大分歩いた三叉路に三光神社があった。この神社には思い出がある。初孫が生まれた直後も歩き(97.12.27)、無事成長をお願いしたのが当社であった。その孫が無事20歳を迎えたことを報告し、お礼を申し上げた。直ぐ天王沼。泥沼の印象であったがそうでもない。いよいよ本日一番の難所、急坂に掛かる。傾斜に加え、崩れ跡や溝が出来ていて荒れている。夏場の大雨の所為だろう。数回ジグザグを繰り返し、峠へ上がって、休憩、昼食。

 鎖場に苦戦 直ぐ上が官ノ倉山頂だが、急登な上にガレ場状。Kさんは普通に前を行くが、私はまた苦戦し、少し遅れて山頂(344m)へ上がった。東北側の木々が伐採されていて展望があり、先の山は筑波山だろう。ベンチで高年男性が1人絵を描いていた。また急斜面を下り、上り返すと石尊山で、祠があり手を合わせた。Kさんに、これからは下りの鎖場と伝えるも、彼は難なく先行するが、私はそうはいかず、落ち葉の中に足場を探し、鎖に掴まり一歩一歩下る。家内とは上りだったが良く歩いたなと思う程の難所(写真下)。しかも記憶よりは大分長い急坂。当時は未だ若かったのだ。Kさん、下り切って待っていてくれた。また荒れた狭い山道で、出口の北向観音迄は距離があった。

また東武竹沢駅 山を出て、里道を小川駅へ向かう。途中から標識を失い、また尋ねて駅方向を教えて貰ったが、小川駅近辺の風景ではないと気付く。何と出発駅の東武竹沢駅への道であった。
私のリードミスで、余計な時間が掛かり、駅前で懇親する時間がなくなってしまった。でも、Kさんと歩きながら翌年の山歩き先を相談出来た。新年もよろしくお願いします。(2018/01/17 K.K. 1158/1200)

◇日時 2017/12/29 ◇天候 晴 ◇交通費 1,920円 ◇資料 東武鉄道(株)「金勝山官ノ倉山コース」 ◇歩行距離 18km 25,000歩
「通過時間等」自宅8:20-東武成増駅9:00-同小川町駅10:18-同東武竹沢駅10:25=金勝山10:55=少年自然の家正門11:30=JR竹沢駅前11:55=三光神社12:20=官ノ倉峠13:00=官ノ倉山13:15=石尊山13:25=北向観音14:05=東武竹沢駅14:40-JR北朝霞駅15:53-同武蔵浦和駅16:00・・・・・自宅18:40

七沢温泉から登った再訪の見城山

春に弟と登った厚木奥の見城山(ミジョウヤマ)では下山コースを誤り、難渋した上に予定の七沢温泉へ下山出来なかった苦い山歩きをした。弟にリベンジしようと言われていたが、私もそのつもりで、その時が来て、今度はコースを間違えないよう下山地であった七沢温泉口から上がることにし、弟に了解を取り付けた。

七沢温泉から上る 本厚木駅前から乗ったバスを七沢温泉入口で下車。同温泉街へ入ると福元館の反対側に登り口が見付かったが、狭い急階段で、その先のコースを暗示していた。マップにも急とある。雑木林の中の薄い山道を落ち葉を踏みながら歩く。次第に傾斜を増して急坂になり一歩一歩ゆっくり上る外はない。階段もあるが歩幅が合わず楽にはならず、弟も苦戦しているようだ。鞍部へ着いて一息付く。広沢寺温泉からのコースとの合流地でもあり、そちらから勢いよく上がってきた中年グループに先行してもらった。

 急登、急登また急登 休憩後、また急坂に取り付く。ロープがあり縋り付くようにし坂を上がる(写真上)。展望のない山道は辛さを紛らわせない。弟を待ちながらも先へ先へと歩を進める。時々足は止まるが息が上がる程ではない。日頃歩き続けているからだろうか。小さな鞍部へ上がり、また小憩し弟を待つ。時間的には山頂は未だ先だ。
三度目の急傾斜の坂へ挑戦すると距離は短く、直ぐまた鞍部であった。先程先行したグループも休憩中。右手の先を見ると山頂のようで、近い。最後も急な山道が続き、山頂手前で、前回通った七曲り峠からの道に合流。前回は山頂からこの地点へ戻って、七沢温泉へ下るべきであったのだ。どうして誤ったか、標識は?と見回すと、案内板は外れて藪原に落ちていた。それで、頂へ直進したため見逃していたと結論付けたいがどうだろう。
 見城山頂(360m)には、数人休憩中。弟も遅れて上がって来て、前回の間違いの訳を伝えた。今朝本厚木駅で求めたパンで軽食。ご夫婦ハイカーが温泉への下り口を尋ねて来て、教えて上げたが、やはり分かり難いのだ。

七曲り峠を下る 下山だが、今回は上りで苦労したため、上り返す日向山へ行かずに七曲り峠から七沢温泉へ下ることで、弟と一致。前回とは逆に峠へ下りると、荒れた急な坂の道。峠で左折し、杉林の中を下るが、意外に急でロングな道。先程上がった道に見合う傾斜と距離だからと納得し、下り切って林道へ出た。日向薬師からの七沢温泉への道で、関東ふれあいの道の一部であり一度歩いたことがある(01.10.13)。七沢温泉(写真下)ではバスは出たばかりで、同温泉入口でバスを待った。本厚木駅で昼食をし、弟に別れ、鈍行で席を確保し帰途に就く。今回はリベンジなったがコース採りが利いたのだろうと思う。(2018/01/10 K.K. 1157/1200)

◇日時 2017/12/23 ◇天候 晴 ◇交通費 1,660円 ◇資料 厚木市観光振興課「厚木大山ハイカーズガイド」平成29年11月 ◇歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅7:20-都営新宿線神保町駅8:05-小田急新宿駅8:31-本厚木駅前9:40-七沢温泉入口10:10=七沢温泉登り口10:25=広沢寺温泉分岐10:50=見城山11:25/11:50七曲り峠12:00=林道12:20=七沢温泉12:30=同入口バス停13:08-小田急本厚木駅(昼食)13:45/14:24-都営新宿線新宿駅15:55-三田線神保町駅16:09-自宅16:50

和歌山市に紀三井寺から城跡を訪ねる

大阪泊の翌朝、県都和歌山市を訪ねる。和歌山市は二度目で、和歌山城跡は再訪である(91.12.9)。その後紀伊田辺から熊野那智大社へ行く途中、紀勢本線で和歌山駅を素通りしていた(06.9.8)。この程度で、和歌山には縁がなく、今回は紀三井寺も訪ねて、しっかりと巡り歩き、記録したい。

 紀三井寺参拝 JR天王寺駅から阪和線快速に乗車。堺、岸和田から日根野で、関西空港への乗り換え駅と知る。和歌山に近付くに連れ、山間を走り平野へ出ると和歌山駅であった。先に紀三井寺参拝へと、紀勢本線に乗り継ぎ二つ目の駅から歩き出す。左手の山麓に大きな塔や寺院が見え始め、770(宝亀元)年開基の大古刹紀三井寺。入口と思ったら裏門で、坂を上がって境内へ入り松下講堂から本堂前へ出て、参拝。また孫達の成長と受験のお願いをする。人出も少ない中、開山堂や重文多宝塔を巡り、目を海側へ転じると和歌の浦が広がり(写真上)、中々の眺め。正面の石段は急で、慎重に下る。当寺には三霊泉が湧き、寺名とも結び付き知られているが、石段途中に案内があるも、二つの井戸は木製蓋で覆われ泉は見えない。下の吉祥水だけ湧き水が落水していて、カメラに収めた。重文の楼門から紀三井寺駅へ戻った。

 広い和歌山城跡を巡る 和歌山駅案内所で、マップを入手した際、ご当地ラーメンを薦められ、近くの人気店で並び昼食にする。支那そば風とのことではあったがやや現代風。三年坂通りから県庁手前が城跡で、濠端に立ち眺めると濠は広く、天守も大分奥で、記憶とは違い広大な規模の城郭(写真下)。徳川御三家55万石の居城であったから当然と思い直す。1585(天正13)年羽柴秀長が築城し、1601(慶長6)年から城主の淺野幸長が改修して、1619(元和5)年頼宣が入城した。
岡口門から登城し表坂を上がり、本丸御殿跡から天守閣下に着く。昭和20年の空襲で焼け復元天守とある。先程歩いた三年坂通りが意外に広く、やはり当市も空襲を受けていたのだ。端に鞠と殿様の歌碑があり、殿様が紀州公とは知っていた。天守閣へ向けシャッターを切り、反対側へ降りる。この辺りが僅かに記憶に残るが一致しない。現存追回門を出入りし、鶴の渓から紅葉渓庭園へ。御廊下橋を渡り二の丸で小径。当城のシンボル伏虎像を見ると、傍に石垣の説明があり野面積み、打込ハギ、切込ハギと築城歴史を示しているとあり、私も確かめた。大楠下から大手門、一の橋を渡り下城した。
市内に、昨日会った友人が紹介してくれた老舗を訪ねる。思ったより距離があったが見付かり、入店し休憩。連絡があったと店長以下に丁寧に遇して貰い、教えて戴いたバス停から和歌山駅へ出た。天王寺行き快速に乗り、今回の県都巡りは予定通りに歩き終え、伊丹空港へ向かった。(2018/01/05 K.K. 1156/1200)

◇日時 2017/12/16 ◇天候 曇り ◇交通費現地 3,160円 ◇資料 和歌山市観光協会「和歌山市観光案内マップ」平成29年6月 ◇歩行距離 15km 21,000歩
「通過時間等」ホテル8:00-JR天王寺駅8:34-同紀三井寺駅10:25=紀三井寺本堂10:40=JR紀三井寺駅11:28-同和歌山駅(昼食)11:40/12:10=和歌山城跡岡口門12:30=天守閣下12:40=二の丸跡13:15=市内老舗13:45=バス停14:00-JR和歌山駅14:19-阿部野橋バス停16:00-伊丹空港18:30-羽田空港20:00-三田線三田駅20:24-自宅21:10

古都奈良を歩き県都巡りに加える

私の県都巡りは第4コーナーに差し掛かり、先日岐阜と津を加えて、残り僅かになった。年末に至りJALマイレージの利用期限もあり、航空便で大阪へ行き、奈良と和歌山を訪ね、一挙に2県都を巡ることにした。伊丹空港からのアクセスにやや不安があるが、関西は私鉄が発達し、一泊すれば時間も出来、何とかなるだろう。

伊丹空港から奈良へ 伊丹空港に着き、阿部野橋行きバスに乗車。渋滞気味の高速を走り、18年前も同じルートで大阪に入りノロノロしたバスを思い出した。10分程遅れ阿部野橋に着き、JR天王寺駅から関西本線で奈良を目指す。二度ほど乗ったことがあり駅名や車窓風景も記憶にあるものもある。意外に近く奈良駅に下車し、市内マップを入手して歩き始める。県都巡りではあるがハイキングのつもりで、若草山は外せない。その前後に、数ある寺社から春日大社と東大寺、そして復路途中に法隆寺見学も予定している。
広い春日大社境内 駅正面の大通り商店街・土産店街を行く。流石観光都市奈良は外人も含め人出は多い。間もなく右手に猿沢池が見えた。奈良は3度目で、最初は約50年前家内と、次は91年の出張であった。その時汚れた池を見たと思うが、今回はそんな感じはなく普通の池。左手が興福寺で五重塔が建つ。そろそろ奈良公園で、春日大社の境内参道に入ったようで、松林の中の真っ直ぐな道となり、鹿が現れ出した。大社へは距離があり、40分程歩いて参拝し、近くの売店で昼食。関西風うどんはあっさりし、美味である。
登れない若草山 店内で、若草山への道筋を尋ねると、多分閉鎖中で登れないとの返答。本当?と訝りながらも、修学旅行生達と行き交い山下へ着く(写真上)と、やはりケートは閉門中。奈良のシンボルのような若草山がダメでは今回訪ねた意味がないようなもの。しかし、奈良は有名寺院が目白押しで、学生達に付いて二月堂を目指す。三月堂、四月堂もあると知ったが二月堂に詣で、舞台から眺めると眼下の太堂は東大寺大仏殿だろう。二月堂は私も知るほどで、お水取りで有名だ。
大仏様に再会 坂を下ると自然に東大寺境内へ。正面の横から寺内へ進み、大仏様に再会。家内との時も、観光バスに乗り拝仏したと思う。正式名は盧遮那とあるのを見て、その事が高校時代歴史の試験に出て、答えられなかったことを思い出した。
また園内で遊ぶ鹿達に出会い南大門下を通り(写真下)、駅へと戻る。先程来、脚に疲れが出始めている。今週日曜日北茨城を歩き中四日で、いつもより間隔が短いことは確かだ。奈良駅へ戻ったが、法隆寺見学は断念。また来れるだろうといつもの楽観主義で、若草山のリベンジもある。
JR天王寺駅へ戻り、ホテルの位置を見誤り探すのに時間を喰ったが、4時前に着き休憩。友人のMさんとの夕食時間まで、部屋でゆっくりとした。(2017/12/31 K.K. 1155/1200)

勿来の関から県境を越え高萩松岡城跡へ

毎年恒例の事務所の総会が、今年は北茨城開催であった。翌日、福島いわきの勿来の関は直ぐ決まったが、常磐線沿線でもう一箇所歩きたい。手許の「城郭と城下町2 関東編」(小学館)から茨城に、”松岡城”を探し当てたが、名を知っている程度で、所在地を調べると茨城高萩とありコースとしては、勿来からの帰途の途中で、丁度良い。

 歌碑が並ぶ勿来の関 朝、ホテルから常磐線勿来駅送迎バスに乗車。途中で降ろして貰うつもりであったが、運転手さんの好意で、駅からの帰り勿来の関まで送って貰った。私は二度目だ(98.11.13)が、前回は夕方立ち寄っただけで、殆ど記憶にない。
9時前で、関所を模したような建物や歴史館があるが未だ開館前。仕方なく、1人彷徨き、中央の小径を戻ると右手の丘上が詩歌の古道で、少し記憶が蘇った。遊歩道の両側に、関を詠んだ歌碑が並んでいる。和泉式部や小野小町は前回知ったと思うが、斎藤茂吉の歌碑もある。長塚節の死を悼み当地を訪ねた時に詠んだとある。有名なのが、源義家が奥州遠征の際詠んだ”吹く風を なこその関と思へども 道もせにちる山桜かな”で、義家の騎馬像も建つ(写真上)。カメラに収め駅へ戻るがコースは前回とは違え、海岸通りへ下る。先程バスで通過する際確かめた分岐点へ出て、海を眺めながら勿来駅へと歩いた。
今回ネットで調べると、勿来の関は所在地の外、存在自体にも疑いがあり、古書には歌枕としてのみ見当たるとあった。”勿来”は禁止の意味で、読み方としても、来るなかれであり、少なくとも、蝦夷の南下を抑えたい当時の都の意思表示であったろうか。

武家屋敷が遺る松岡城跡 常磐線鈍行で、福島から茨城へ入り高萩駅下車。初めての地で、案内所はなく、頭にあるアバウトな地図とルートで、城跡にある松岡小学校へ向けスタート。途中からコースに乗ったようで、下手綱地区に至り、大通りから関根川沿いに行くと小学校前で、城跡案内があった。
 松岡城は、江戸の初期、関ヶ原後、佐竹氏の秋田左遷と交代的に戸沢氏が出羽角館から封じられて築城、改名したという。その戸沢氏は最上新庄へ転封となり、私は、新庄城跡見学で松岡城を知った。その後、水戸徳川領になり、付け家老中山氏支配の地になったとある。
確かに、小学校の外周は土塁跡のよう。校門脇には、中山家土蔵が遺っていた。校門から正面の橋を渡ってびっくり。大手口のお屋敷通りで、今も両側に武家屋敷があり(写真下)、江戸末期から明治時代の儘のよう。立派な藁葺き長屋門が連なるが、崩壊寸前で工事中のテント貼りの門も見受けられる。カメラに収めながら、現在の大通りへ出ると、街中でまた同じような長屋門に出会う。当地は交通の要衝から外れ開発の波を受けなかったからであろう。そんな感想を抱きながら、駅へ戻ったが、途中のバス停で時間を見て、バスを待った。(2017/12/27 K.K. 1154/1200)

◇日時 2017/12/10 ◇天候 晴 ◇交通費現地分 600円 ◇資料 いわき市勿来関文学歴史館「歴史浪漫への誘い」、小学館「城郭と城下町2関東編」158頁 ◇歩行距離 17km 23,000歩
「通過時間等」ホテル8:00-勿来の関8:25/8:55=海岸通り分岐9:05=JR勿来駅9:45-同高萩駅10:10=松岡城跡10:55=バス停11:52-JR高萩駅12:31-同上野駅14:40-三田線巣鴨駅14:54-自宅15:20

東川口にさざんかの花観賞に出掛ける

ラジオだったと思うが、川口の植物センターにさざんかが見頃になったと聴いた。さざんかは冬期の花だとは知っているが、花自体は定かではない。細長の葉に赤い実を付けた花かな、違うかな程度で、ネットで調べると椿の仲間とある。我が団地の生け垣に咲いている花がそのようだ。少し引けたが、最近遠出が続いたので、近くの東川口は丁度良い。

 西福寺三重塔へ 最寄り駅は、地下鉄南北線からの埼玉高速鉄道戸塚安行駅と分かった。JR巣鴨駅から山手線に乗り隣の駒込駅で、南北線に乗り換えた。この線に乗ることは少なく、特に赤羽の先からは初めてだと思う。戸塚安行駅に着き地上へ出て、持参マップと方向を確かめた。さざんかだけでは物足りなく、近くにある西福寺を目指す。古刹で、三重塔があるという。途中から寺の案内があり、難なく三重塔と寺院へと辿り着いた。高さ23mの塔(写真上)を見上げカメラに収めた。将軍家光の娘千代姫が奉建したとある。

遅めの紅葉に包まれた田舎道を抜け南下し、外環高速下となる。迷わず、最初の交差点を右折したが植物センターが現れない。左手の筈だが、また交差点へ至り見覚えのある風景。赤山日枝神社があり、赤山城跡を訪ねた時(02.11.17)、寄ったと思う。通り一本間違えたと気付いて左折し東方へ行き、そろそろかと途中から植木園のような畑地へ進入したが、植物センターではない。マップにある安行氷川神社があったが、センターの方向が不明。尋ねてようやくセンターの通りへ出たが、先にある興善院前であった。紅葉で有名で、本日も人出がある。15時半になりセンターの閉園時間を気にし、紅葉に覆われた参道を覗きシャッターを切っただけで、左手に見え始めたセンターへと急ぐ。

期待しすぎのさざんかの花 植物センターへ入園すると、さざんかはあったがやや遅めの感じ。赤やピンクの花を付けたさざんかは椿似だ(写真下)。カメラを向けながら、広くはないセンター内を一回り。季節の花観賞では時々思うことだが、ラジオで宣伝する程の花園かなと疑問が生じ、特に量的に少ないことが多い。今回も、さざんかの木は、他の樹木に混じり、ぽつりぽつりあるだけ。私の先入観が誤りか、それとも期待感が強すぎるのだろうか。満足するには至らず確かめた程度で、駅へ戻る。管理事務所でパンフしようと思ったが、本日は閉まっていた。
川口安行は植木の街らしく、栽培している植木屋さんの並ぶ通りから戸塚安行駅を探して、地下ホームへと降りた。途中王子駅から寄り道して巣鴨駅へ出て帰宅した。(2017/12/24 K.K. 1153/1200)

◇日時 2017/12/3 ◇天候 晴 ◇交通費 1,420円 ◇資料 昭文社「埼玉県道路地図」◇歩行距離 9km 13,000歩
「通過時間等」自宅13:40-JR巣鴨駅14:13-南北線駒込駅14:20-戸塚安行駅14:50=西福寺15:00=赤山日枝神社15:15=興善寺15:30=川口緑と花振興センター15:35/15:50=戸塚安行駅16:16-王子駅16:40-三田線巣鴨駅17:25-自宅18:00

先日の1146昭和の森編について、故郷の読者で歌人のS先生から、句を戴きました。
“トンネルの白さが語る未知の里”です。有り難うございました。

中山道奈良井宿から鳥居峠を越す

中山道の宿場と言えば馬籠や妻籠だが、これらの宿場を歩いた後、奈良井宿も馬籠などに引けを取らない宿場街が遺ると知った。資料を眺めその内にと考えていた。そうしたら長野の家内実家からいとこ会の案内が届き、上田の鹿教湯温泉開催とある。この機会にと調べると、奈良井からは松本、長野を経由すれば集合時間ギリギリのようである。

 奈良井宿にびっくり 新宿発8時丁度のあずさ2号を塩尻駅に降りると寒い。想定していたがその通りで、用意した防寒対策をし中央西線に乗り換えた。木曽峡谷の隘路を走って奈良井駅に着き、11時15分スタート。奈良井宿、鳥居峠、藪原宿へと歩き、藪原駅から木曽福島駅へ行き15時の特急長野行きに乗車する。
駅の左手直ぐが奈良井宿場街。江戸期の宿場が山中に忽然と現れたような街で、木造の古い商家や宿屋、個人宅が狭い通り両側に並んでいる(写真上)。それが隣り合い密集して宿場街を形成し、約1km続くという。土産店や食堂、旅籠の外、漆器店が木曽路らしい。驚きながら、眺め、シャッターを切り続け、先へと急ぐ。途中の観光案内所で、薮原迄は徒歩3時間と聞いた。事前調べと同じ。

鳥居峠を越す 宿場街も終わり、高札場、鎮神社前から坂道となり、いよいよ中山道の難所鳥居峠に掛かる。石畳の道から展望台下、葬り沢、そして中の茶屋跡を過ぎると本格的な峠の上り。当地は紅葉は終わっている。先程来会う人もないが本日は平日であった。小さなジグザグをこなし、一里塚を過ぎるが標柱の路程表示が区々で、峠への距離が読めない。道路へ上がった地点で、外人一行と擦れ違い挨拶。休憩舎が峠の茶屋跡らしく、切通を抜けると、鳥居峠の頂(1197m)で、約1時間であった。正面に雪を被った高峰が見え、御嶽山か。小憩し、ここからは藪原駅へ直行し1時間前の電車を捕まえようと、予定変更を決断。神社や史跡は省略し、薮原への坂道を急ぐ。落ち葉を踏みながら下り切って石畳の道となり、薮原は近いと分かり、予定より1時間前の電車乗車を確信し始める。林を抜け大通りを横断し、天降神社、原町清水を眺め、集落内の坂を下って尾張藩御鷹匠役所跡、飛騨街道追分跡を過ぎ、中央西線高架下を出ると薮原宿であった。

黄楊の櫛屋さん 奈良井宿とは違い、昭和の街並みに古い町屋が点在する程度。その中に黄楊の木櫛屋さんを見付け(写真下)、またビックリ。私の好きな原田悠里が唱う”木曽路の女”の2番にも出て来て、木曽の特産品である。思わずカメラに収めた。しかし、藪原駅は宿場の外れで、また中央西線地下道を上がるとようやく駅で13時25分着、近道したからであるが、奈良井駅から2時間10分であった。
木曽福島駅発14時25分発長野行き特急に乗れ、長野駅から新幹線で上田駅に降りると、義弟夫婦や家内の従姉妹達と一緒になり、鹿教湯へ向かった。(2017/12/20 K.K. 1152/1200)

◇日時 2017/11/28 ◇天候 晴 ◇交通費 12,600円 ◇資料 奈良井宿観光協会「奈良井宿ご案内図」、「中山道鳥居峠越えコースガイド」 ◇歩行距離 13km 18,000歩
「通過時間等」自宅6:55-JR新宿駅8:00-同塩尻駅10:50-同奈良井駅11:15=鎮神社11:35=一里塚12:10=鳥居峠12:20=同峠口12:50=原町清水13:00=尾張御鷹匠役所跡13:10=JR藪原駅13:38-同木曽福島駅14:25-同長野駅16:18-同上田駅16:30-鹿教湯温泉ホテル18:00

白河に城跡、南湖公園、関跡を訪ねる

昨年末から友人Sさんの車で、アクセスの悪い深山幽谷や辺境の地へ送迎して貰い歩き、そんな記録が二桁になろうとしている。感謝であるが、私が歩いている間はSさんに車の中で到着を待って貰うことになり、忍びない。一緒に城跡や関跡を巡るコースを考えた。彼も史跡巡りは付き合ってくれるだろうと期待した。

 雨上がり小峰城櫓見学 車は東北自動車道を走った。本日、午前中は小雨だが午後は上がるとの予報。そのとおり、福島白河へ近付くに連れ小降りになっている。高速を降り、白河市内へと進み小峰城へと向かう。小峰城は、14世紀中頃結城親朝の築城に始まり、江戸時代会津領を経て、初代白河藩主丹羽氏から榊氏、本多氏、松平氏、阿部氏と親藩等が続き、奥州玄関口を固めていた。3度目の私は、JR東北線白河駅裏へと回って貰い、公園駐車場に着いた。傘を指さずに城内へ。前回弟訪ねた時は東日本震災被害に遭い工事中で、入れなかった(14.8.24)。一部工事しているが、天守閣相当の三重櫓は見学可能で、二の丸跡から濠を渡り、高い石垣の間の石段を上がると広い本丸跡で、そして櫓であった。戊辰戦争で焼失したが平成3年復元するも木造三階であるため(写真上)、建築基準法の許可はないらしい。そのためか、入場料もなく、階上へは3人ずつと見学制限がある。Sさんと私は、別々に梯子段を上がり見学。木造櫓内は明るく美しい位。城内周辺も散策し、次の南湖公園へ。

 紅葉が残る南湖 白河市内を抜け、東南にある南湖公園へ走って貰う。車は速く、直ぐ湖畔に到着。前回は新白河駅から弟と歩いた。1801(享和元年)年白河藩主松平定信が造ったわが国最古の公園と言われる。大きな池中心に、定信は17の景勝地を選び名を付け大名達が詠んだ和歌や漢書の石碑を配している風流の地でもある。私は、歩き残している北側の湖畔を往復。落ち葉を踏み少し山腹へ上がると紅葉が残り、晩秋の彩りである(写真中)。思わずシャッターを切った。Sさんと昼食後、定信を祀る南湖神社へ参拝し、隣の翠楽園を歩く。典型的な日本式庭園で、瀧と紅葉のコラボは流れに映え美しい。同じく散策中のSさんに追い付いた。

 二度目の白河の関 最後は白河の関跡。南湖公園から距離があり、途中から奥州街道だろう。Sさんとナビは正確で、関跡の前へ駐車。私は20数年振りだが、僅かに見覚えのある風景(94.9.14、写真下)。正面から続く参道石段を上がり、白河神社に詣で、関跡を彷徨く。能因法師外の古歌を刻んだ碑を眺め、隣は濠跡、土塁があり中世の館跡のよう。右奥の地に江戸時代の関所があると知り、そちらへ。白河の関は奈良、平安時代の国境の関であったがその後廃され、江戸時代は別に関所が設けられたと知った。そのためか、芭蕉と曾良の像は、江戸期の関所に近い方に建っていた。関所の建物は平屋の番所風で、確かに箱根にある関所の建物に近いように思えた。2人は、一応一回りし、帰途に就く。西の空を見上げると晴れていた。
私は、山中の集落を縫う狭い奥州街道を通り栃木県黒羽へ入って貰った。Sさん、またまた有り難うございました。(2017/12/18 K.K.1151/1200)

◇日時 2017/11/23 ◇天候 小雨、曇り、晴 ◇資料 白河観光協会「歴史のまち白河ガイド・マップ」 ◇歩行距離 8km 11,000歩
「通過時間等」自宅7:55-白河小峰城跡10:25/11:05-南湖公園(昼食)11:15=南湖神社12:15=翠楽園12:30-白河の関跡12:45=江戸時代関所13:15-自宅17:00