平尾追分から板橋宿の史跡を巡る

 先日川越街道白子宿を歩いて、同街道は板橋の平尾宿で中山道から分かれ、平尾が追分と知った。三田線新板橋駅と板橋区役所駅との間で、近い。調べると、旧友のハイク友達と巣鴨から石神井川の板橋へ歩いたが、もう20年近くも前で(02.10.20)、記録には中山道開道400記念とあった。今回は史跡を確かめながら歩こうと思う。昨年末から都心に本郷追分、新宿追分を探し歩いている。

 西巣鴨から旧中山道へ 三田線を西巣鴨駅に降り、明治通りへ出て、直ぐ大正大学前だが閉校中のよう。次の交差点で旧中山道と交差し、右折し旧道へ入る。静かな商店街で、少し歩いた左手のJR板橋駅前に近藤勇の墓がある。近藤は流山で新政府軍に捕まり、平尾宿外れで処刑され、新撰組の1人が当地に墓碑を建てたという。JR埼京線踏切付近に平尾一里塚があって、刑場もこの辺りに特設されたらしい。
 平尾宿、平尾追分へ 平尾宿跡の解説板に出会い(写真上)、商店街の吊された幟には平尾宿と染め抜いてある。現中山道と交差点角にあるのが平尾交番で、地名が遺る唯一のものらしい。交差点を渡り右手の東光寺へ寄り、宇喜多秀家の供養塔を眺める。関ヶ原戦西軍の副大将であった秀家は家康に八丈島へ流されたが、明治になって許され、当地にあった縁者加賀前田家下屋敷に子孫が戻ったという。 20年前も案内したが、ハイク友達は関心を示さなかったと思う。
 大通りへ戻って、川越街道と旧中山道の分岐点で追分だが、その印し等はない。カメラに収め、平尾宿内の右の旧道を行く。同宿脇本陣跡は右へ入ったマンション前にあった。説明によれば、捕縛された近藤はここに留置されていたという。
 本陣跡 次の板橋仲宿には、本陣飯田家跡があった。表札から現在もお住まいのようだ。板橋には、平尾宿、仲宿、上宿とあり総称して板橋宿で、本陣は仲宿に置かれ、他には脇本陣があったとある。日本橋から近い当宿では旅人の休憩や出迎えが中心で、それで足りたらしい。もう一つの脇本陣跡を探しウロウロしていたら、高野長英を一時匿い逃亡を助けた門人で医師水村玄洞宅の案内があった。

 板橋、縁切榎 石神井川に架かる板橋に至る(写真下)。現区名の由来の橋。木製の感じはしない。20年前は残っていたような気がする。参加者全員で、板橋を背景にした写真が私の紀行本にある(「山歩き里歩き500紀行」60頁)。
 橋を渡り終えた地辺りが上宿の中心で、江戸の内を示す大木戸があったらしいが、現在は仲宿程の賑わいはない。縁切り榎へ着き、小さな祠天神に参拝。女性からの縁切りの祈願先で、幕末降嫁した皇女和宮通過の際は薦で覆われたと、前回知り私の記録にも書いていた。解説板に目をやると、和宮一行は迂回したとある。平成18年の日付で、その後の調査で書き換えたのだろうが、エッである。環七通りへ出て、三田線板橋本町駅から帰宅。脇本陣跡と旧板橋役場跡をネットで調べると、街道の奥の地と分かり、近いから直ぐ再訪しようと思う。(2020/06/19 K.K. 1330/1400)

◇日時 2020/6/2 ◇天候 晴 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」◇歩数等 10,000歩 8km 「通過時間等」自宅9:05-三田線西巣鴨駅9:35=近藤勇墓9:50=平尾交番10:10=東光寺10:15=平尾脇本陣跡10:25=仲宿本陣跡10:40=石神井川板橋10:55=縁切り榎11:05=三田線板橋本町駅11:20-自宅11:40