甲州街道を上野原から相模湖へ

私の手許にある資料”甲州古道ウォーキング”を入手して久しい。これまで、大月駅から鳥沢駅、鳥沢駅から四方津駅、四方津駅から上野原駅と歩いた。また大月駅から笹子峠を越し甲斐大和駅へも歩いた。笹子峠手前で残る唯一の上野原駅から相模湖駅コースが気になっていた。今回、上野原駅へと向かった。

甲州街道を行く JR中央本線上野原駅に降り、坂を上がって中央高速道路を渡り、塚場一里塚から甲州街道だが、略図と山勘頼りで折良く一里塚跡に達し、隣の稲荷神社に挨拶し、街道を歩き始める。また高速道路を渡ると古い集落で、両側に農家らしき大きな家が並び、甲州街道の石碑があった(写真上)。諏訪神社を左手に見て坂を下る途中に諏訪番所跡を見る。大きく曲がりくねる道を歩きながら、一度車で通ったことを思い出した。近くの名倉在友人宅を訪ねた時上野原からの帰路だったと思う。直ぐ山梨と神奈川の県境と教えて貰った。私はそのまま坂を下って相模川に架かる境川橋を渡り、神奈川へ入ったが川を渡っては反対側で、コースではないと気付き橋を渡り返し、袂の小道へ方向を採った。坂を上がると、名倉入口の信号があり、コースの国道20号(現旧街道が合流)と確かめる。次が関野本陣跡だが、略図から裏の道と読み歩道橋から裏道を探したがなく、直進すると本陣跡は案内板だけ国道端に立っていた。
 コースを離れ国道20号を進む 藤野駅前を通過し同駅は名倉の友人宅の最寄り駅で見覚えがある。国道を歩き続け、吉野橋を渡り吉野宿(写真下)。吉野宿郷土資料館があり宿場パンフを期待したがなく、お雛様が飾ってあった。右手に勝瀬橋を見て略図を確かめ、ビックリ。甲州街道コースは資料館手前で国道から山側に直角に折れていた。大分進んでしまい、今更Uターンは辛い。そのまま国道を歩き続ける。自動車の往来が激しく、トラック類がひっきりなしに上下し怖い位で、舗道端をキープ。右下は落ちて相模川だが湖のように流れは見えず、広い。
相模湖駅にゴール 脚に疲れが出始めコース後半の筈だが、相模湖の街並みは見えない。小さなトンネルを抜け、ラーメン店先で山側へ回った甲州街道と再度合流する。往時相模川の谷を避け山側となったのだろう。山際と相模川の狭い間に国道、高速道路、JR中央線の3本が並列し、歩道は高速道路下の高架となり、歩きやすいが五月蠅く、眺めもない。高架を降りて相模湖の街・旧与瀬宿に入り、与瀬神社下から明治天皇巡幸記念碑を見て、信号のある交差点を相模湖駅へ左折した。
当初、歩き終えたら名倉の友人に連絡し食事もと考えていたが、二度もコースを誤り、後半の車道歩きに疲れ、電話をする気力は失い、高尾行きの電車を待った。 (2017/04/04 K.K. 1096/1100)

◇日時 2017/3/17 ◇天候 晴 ◇交通費 1,230円 ◇資料 JR東日本八王子支社「甲州古道ウォーキング相模湖→上野原駅」 ◇歩行距離 16km 22,000歩
「通過時間等」自宅8:05-新宿線神保町駅8:49-JR高尾駅10:18-同上野原駅10:40=塚場一里塚跡11:00=諏訪番所跡11:20=境川橋11:30=関野本陣跡12:10=藤野駅前12:25=吉野川橋12:50=勝瀬橋入口13:10=JR相模湖駅14:12-京王高尾駅14:25-三田線神保町駅15:33-自宅16:10

満開であった根府川のおかめ桜

テレビから得た桜情報は、神奈川根府川の桜であった。ネットで調べるとおかめ桜で、染井吉野以外にも桜があることは知っていたが、おかめ桜は初めて聞いた種類。外国人が研究し交配した桜で、淡い紅色の一重咲き、下向きの花が特徴、早咲き種とある。おかめは日本語で美人の意味から採択したらしい。どんな桜かと楽しみである。

 根府川おかめ桜は満開 JR根府川駅の小さな駅舎を出ると、駅前広場に咲くおかめ桜は満開であった。濃いピンクの桜花が樹全体を覆っている(写真上)。これがおかめ桜かと近寄り、見上げ、シャッターを切った。河津桜とも違い色が濃いと思う。これは期待出来そうと桜祭第1会場を目指し、駅前街道を行く。集落を出た分岐点で、祭幟が示す方向を間違え、戻る羽目に合う。山坂の道に至り、結構急でハイキングらしくなったと苦笑。また濃いピンクのおかめ桜に出会う。道端に2本ほどの桜木が全体に花を付け、咲き誇っている(写真下)。カメラに収めた。祭会場に近付いたようで、ちらちらと帰りの見物客と交差し始める。山腹の道下が第2会場で、咲く花と見物客が見下ろせるが通り越し、奥の第1会場へ。
祭第1会場から第2会場へ さらに坂を上がり続け会場の料理店へ着く。この店の庭周辺が花見会場のようだが、桜はポツリ、ポツリと数本だけ。並木や林ではない。本日店は休みで、当てにしていた昼食は取れない。花を求め裏山を回る。展望台があり、山の間から海が見え、相模湾だろう。肝心の桜は少なく拾い歩きだが、菜の花が満開。黄色の花は春に映え、桜を引き立てている。一回りし、第2会場へ。
山裾の小さなホテルの庭に、桜が咲いている。見物客に付いて満開の花を見上げたが、花はこれからの樹もある。陽当たりの違いのよう。レストランがあり、食事にするがメニューにある海鮮ものは売り切れという。昨日テレビで放映され本日は客が多いとの会話が漏れ聞こえた。カレーライスにした。第3会場もあるが離れている上、庭木程度の花のようだから省略し、駅へ戻る。往きに、満開のおかめ桜に出会った地点で、反対側に薄いピンクの桜を見付け、染井吉野かなと思ったら、河津桜と記してあった。その位、両桜のピンクの濃さに差があり、おかめ桜は紅色である。
根府川鉄橋 途中、白糸川に架かる赤い鉄橋があり、階段から坂道を下って鉄橋下へ出て、アングルを探したが、期待した程の風景ではない。橋の先はもう海である。
帰路小田原駅で、駅前商店街の中にある北條氏政、氏照の墓に寄る。以前探すも到達出来なかったが、今回は見付かった。寺の跡地で、現在は商店街の一画に、小さな墓地は遺っていた。本厚木駅に途中下車し、同級生と懇談。ハイキング仲間で、今回は不都合であったが、また歩こうとなり、夏の鳥海山登山の話しも出た。(2017/03/29 K.K. 1095/1100)

◇日時 2017/3/9 ◇天候 晴 ◇交通費 2,120円 ◇資料 片浦活性化推進協議会根府川支部「根府川おかめ桜まつり」 ◇歩行距離 11km 16,000歩
「通過時間等」自宅9:25-新宿線神保町駅10:06-新宿駅10:21-JR小田原駅12:09-同根府川駅12:20=祭第1会場12:55=同第2会場(昼食)13:20/13:50=根府川鉄橋下14:15=JR根府川駅14:26-同小田原駅14:35=北條氏政墓14:40=小田急小田原駅15:00-同本厚木駅15:45/17:21-新宿線新宿駅18:25-三田線神保町駅18:37-自宅19:15

河津桜を求め奥武蔵すみよしの桜の里へ

最新購読誌に、河津桜を訪ねるハイキングコースが掲載された。渡りに船と、見頃の時期を待った。すみよし桜の里の最寄り駅は東上線若葉駅で、ホームグランド奥武蔵内の坂戸市だが、私の歩く山々とは、東上線を挟んだ反対側の田園地帯で、縁が薄く、最近では越辺川に白鳥を探した位だ(15.2.8)。

 大宮住吉神社に参拝 若葉駅に降り、コンビニで略図をコピーしスタート。駅前から正面の通りは二度目で、左折地点を探りながら行く。行き過ぎたようだが工業団地で左折し、予定より先で合流した筈で、コースを進んでいるよう。農村風景となり、左手に学校が見え始め、住吉中学校。校庭ではテニス練習中。良く見ると軟式のよう。私の中学時代を思い出した。当時では珍しく田舎なのに軟式テニス部があった。学校前で、先に森が見え、森内が大宮住吉神社だろうと脚を向け、野道へ入ると一本手前で、畦道を通らせて貰い、弁天池から境内へ。足下に春の野草イヌノフグリを見た。
大宮住吉神社は古社で、境内は広く本殿の外、立派な神楽舞台があり、大木が聳える(写真上)。源義家が奥州平定の際祈願し、頼朝より北武蔵の総社に指定され、家康は勅願所としたとある。私も参拝し、孫達の成長をお願いした。一本の木がピンクの花を付け早咲きの桜。その根元には黄色のラッパ水仙が咲き、カメラに収めた。直ぐ先が西光寺。山門前で遊ぶ猫達に誘われ詣でる。道端の梅畑は満開。数多い白い花を付けた梅花を観るのも久しい。目の前が、目指すすみよしの桜の里のようで、足が速まる。
桜は5,6分咲か すみよしの桜の里は、地元の方が、谷治川、飯盛川沿いに1kmに渡り、河津桜を植えた桜並木。私は、谷治川白山橋から下る。右岸に、桜木は連なり咲き始め花を付けている。しかし、若い木で、5.6分程度で盛りではない。河津桜だがピンクが濃くはないと思う。事前にネットで調べ、花期は2月下旬から3月中旬とあり、今年は暖かく少し早いだろうと本日としたが外れた。それでも、花の下をアングルを探しながらゆっくりと進む。見物客は多い。飯盛川と合流し渡戸橋を過ぎると、地元の売店が出ている。昼時で、私は、テント下ですいとん食べる。値段の割りには美味で、空き腹を満たした。
バスで若葉駅へ また川沿いを下り桜並木が切れた。この後もコースに従い、雷電塚古墳を巡る。小さな集落内の空き地に塚が遺り、前方後円の古墳。埼玉には古墳が多いと思う。昨年西大宮駅前でも見た(16.11.10)。これを最後に若葉駅へ方向を採る。途中で道を誤り、往路の住吉中学校前へ出てしまい、修正し、左手に見えた聖天宮に近づき外側から眺める。平成7年に出来た中国・台湾の道教の廟で、原色で彩られた煌びやかな中華風の建物が美しい。少し歩いて、戸宮交差点バス停で、若葉駅行きバスを待った。(2017/03/24 K.K. 1094/1100)

◇日時 2017/3/4 ◇天候 晴 ◇交通費 990円 ◇資料 宇山清太郎「すみよし桜の里-聖天宮」新ハイキング737号119頁 ◇歩行距離 12km 16,000歩
「通過時間等」自宅9:30-東武成増駅9:57-同若葉駅10:40=住吉中学校11:30=大宮住吉神社11:45=西光寺11:55=白山橋12:10=すみよし桜の里(昼食)12:20=雷電塚古墳12:30=聖天宮13:05=戸宮バス停13:20-東武若葉駅13:38-同成増駅14:24-自宅14:50

河津桜を観に新宿から代々木へ歩く

河津桜観桜2017である。新聞情報で、代々木公園に咲いたと知った。数年前、三浦半島で河津桜を観て以来(13.3.10)、濃いピンクの桜花に魅了された。桜と言えば、染井吉野だが、花色の比較から、私は河津が好きだ。桜木を覆い重なる濃いピンクの花の群は妖艶ささえ感じる。伊豆河津が本場だが中々チャンスがなく、近くの河津桜は是非訪ねたい。

新宿御苑外周を行く 代々木公園だけでは里歩きには足りない。何処かプラスをと思っていたら、折良く、乱雑な机上から、小田急「自然ふれあい歩道新宿~南新宿駅コース」が出て来た。都営新宿線新宿三丁目駅を出て、太宗寺を探す。新宿も繁華街の端のようで飲食街。寺の名前から再訪かなと訝りながら境内へ入り見渡すと、六地蔵があり、やはり来ていた(05.6.13)。軽く参詣後、御苑へ近付き塀沿いを行くと、知り合いの事務所下。えっ、ここなのと一瞬寄ろうかと考えたがこちらは遊びの途中で、場違いと気付いた。
鉛筆の碑は真崎鉛筆 御苑大木戸門前から、四谷大木戸門跡碑、玉川上水水番所跡碑を眺め、大交差点で右へ渡り、住宅街へ。マップでは鉛筆の碑がある筈。先に見えた社は多武峯内藤神社で、寄って詣でる。新宿にお屋敷があった高遠藩内藤家に由来するらしい。狭い境内にある小さな石碑が鉛筆の碑(写真上)であった。三菱鉛筆の元祖真崎鉛筆を記念したもので、1887〈明治20)年当地創業とある。約30年前、私が担当した制度史編纂の際、調べて書いたことがあり(「工業所有権制度百年史・上巻」358頁)、真崎鉛筆は知っていた。 新宿御苑外側を大回りし、大京町から千駄ヶ谷駅前、そして北参道交差点を直進し、明治神宮内へ。この時期の都心の森は、緑色は残るが微妙な色合い。広い参道には外国人も多い。今回は参拝はしないで、原宿駅口へ出て、本命の代々木公園へ急ぐ。
公園奥に咲く河津桜 代々木公園は広い。河津桜を求め、奥へ奥へと進むが花は見当たらない。園内には、運動する部活の学生、遊び談笑する母子達、散策中の高齢者等々、いつもながら多くの人達がそれぞれである。中々到達できず、ほんの1,2本の桜が針小棒大に報道されたのではと疑念が生じ始めた頃、右先からピンク色が飛び込んで来た。あったと、ピンク先を目指した。
河津桜は咲き、満開状態(写真下)。それが4,5本が固まり、桜を囲んで、若者やご婦人達が眺め、また携帯を翳している。私も、ようやく出会えた思いで、桜木に近付き、眺め、ベストアングルを探した。木々は太くはなく、10年位か。中でも、一番咲き振りが良い木のベストポジションを見付けて、シャッターを切った。友人達へもと携帯にも収めた。満足とまでは行かないが、前回座間谷戸山公園で観たよりは増しと思う。そんな気分で、広い公園を出て、小田急代々木八幡駅へ向かった。 (2016/12/27 K.K. 1093/1100)

◇日時 2017/2/27 ◇天候 曇り ◇資料 小田急電鉄「小田急自然ふれあい歩道 新宿~南新宿駅コース」 ◇歩行距離 10km 14,000歩
「通過時間等」自宅9:35-新宿線神保町駅10:17-同新宿3丁目駅10:30=太宗寺10:35=大木戸門跡碑10:50=多武峯内藤神社11:00=信濃町駅前11:15=明治神宮北口11:30=代々木公園入口11:45=代々木公園河津桜12:00=同参道口12:15小田急代々木八幡駅12:30-新宿線新宿駅12:43-三田線神保町駅12:57-自宅13:55

座間谷戸山公園に河津桜を見る

弟から催促メールを貰ってしまった。先日、購読誌に彼が住む近くの日向薬師から七沢温泉への山歩きコースを見付け、情報提供していたからだ。しかし、前回の身延山久遠寺の石段上がりで筋肉痛が出てしまい、脚が痛く、山歩きは無理な状態。妥協として、小田急沿線に座間谷戸山公園の里歩きコース(るるぶ「里山ウォーキング 座間谷戸山の谷戸へ」2003,63頁)を探し、弟も同意してくれ、座間駅に集合した。

谷戸山公園水鳥は定休日 座間駅に着くと弟は待っていた。聞くと当地は少し土地勘があるという。彼の案内で、小田急線に沿い谷戸山公園を目指す。里山の裾を行くと距離はなく10分程で公園西口に着き、長屋門が迎えてくれた。古民家の里山体験館へ入り、案内パンフを貰う。民家内部は大きな農家の造りで、我々が子供の頃故郷で出入りした親戚の家々を思い出させた。
園内一周しようとコースに従い雑木林に向け坂を上がる。木々は未だ裸で春は遠そう(写真上)。時々はジョガーや散策者と挨拶を交わしながら、山腹トラバース状の遊歩道を進む。園中央に水鳥の池があり、観察小屋がある。我々は、坂道を下り池正面へ出たが、期待した水鳥の姿はない。良く見ると奥の岸辺に数羽の鳥が休んでいるようだ。やや大きめでカルガモらしい。弟は、池中にカワセミ用止まり枝を見付けたが、周囲にも鳥の様子は窺えない。諦め、遊歩道を戻ると、大きなカメラを抱えた高齢者夫婦に出会い、挨拶。思わず、”鳥達は定休日のようです。”と口走ってしまった。
 河津桜が満開 広場から伝説の丘へ。曇り空だが大山から丹沢の山々が望めた。丘下にピンクの花を付けた樹を見付け、近付くと川津桜。三本あり濃いピンクの花が満開状態(写真下)。好きな花、桜で今年は是非訪ねたいと時期を待っている。先日伊豆で開花したとの報に接したばかり。本日期せずし出会いしっかりと眺め、カメラに収めた。弟は、散り始めではないかと言いながらもシャッターを切っている。直ぐ西口だが未だ1時間歩いただけ。
座間の社寺を巡る 先程座間駅で入手した”小田急自然ふれあい歩道座間駅コース”に従い、小田急線高架下から冨士山公園、護王姫大明神、そして星の谷観音を巡る。護王姫は義経夫人で、奥州へ義経を追ったが当地で難産のため亡くなったという。墓標とした大欅が今も境内に聳えるが、2人で眺め、東根の方が遙かに巨木だねと頷きあった。星の谷観音の銅鐘は重文とある。参拝後、座間駅へ戻る。駅は近く、丁度昼時。駅前食堂で食事後、座間駅で弟と分かれ、次のハイキングに日向薬師からのコースを約束した。(2017/03/15 K.K. 1092/1100)

◇日時 2017/2/22 ◇天候 晴 ◇交通費 910円 ◇資料 小田急電鉄「小田急自然ふれあい歩道 座間駅コース」 ◇歩行距離 10km 14,000歩
「通過時間等」自宅8:20-新宿線神保町駅8:58-小田急新宿駅9:18-同座間駅10:15=谷戸山公園西口10:25=水鳥の池10:40=伝説の丘11:05=冨士山公園下11:20=護王姫大明神11:40=星の谷観音11:55=座間駅(昼食)12:10/12:43-新宿線新宿駅13:40-三田線神保町駅13:51-自宅14:25

身延線で久遠寺に詣で、富士川沿いに走る

甲府に宿泊した翌日、予定通り身延山へ向かった。我が家の宗派ではないが以前から訪ねたく機会を待っていた。調べたことがあり、甲府からは遠く、信州松本からの帰りに途中下車して寄るという訳にはいかないと分かった。若い頃下部温泉へ職場旅行した際参拝し、長い石段に苦労したことは覚えている。

身延山へ 甲府駅南口の信玄像に挨拶し、身延線特急に乗車。電車は田園地帯から山間を走る。里山には雪はなく、奥に覗く白の高峰は南アルプスだろう。山深い地を走り続け、鰍沢口、下部温泉を通る。鰍沢は古典落語で知る地名。下部温泉では、信玄隠し湯に入ったが温かったと思う。約1時間で身延駅に着き下車しバス。駅案内所で、石段は大変だから坂を上がった方が良いとアドバイスされた。門前街でバスを降り、久遠寺へ。土産店が並ぶが今一活気がない。冬期でシーズンオフだからだろう。
石段に挑戦 商店街を出ると大きな寺門・三門が目の前に現れた。大きさや黒色が異様な程の門だが、記憶にない。潜ると杉並木の先に石段が見え始めた。当然今回も上がるが、287段あり7ブロックからなると知る。ゆっくり、休み休みであれば何とかなるだろう。最初は一気に踊り場まで上がってしまい、張り切り過ぎ。真ん中に手すりが設けられ掴まり、時々は休みを入れ上がり続ける。同時に取り付いた3人と前後になりながらで、同年配だろうか。踊り場左に抜け道が見えるが無視し、石段を行く。どうにか約15分で300段弱を上がり切り、見下ろすと結構急で(写真上)、記念にカメラに収めた。
久遠寺本堂内へ入り賽銭を出して参拝し、孫達の成長をお願いした。お堂ではお坊さん1人読経中で、静寂、荘厳さを感じていたが、突然の咳込みがこれを砕いた。境内に日蓮上人のお墓の案内があり、序でにと足を向けるも、境内は広く中々見付からない。諦め掛けた頃、また案内に出会い、お墓へと導かれた。上人のお墓は笠、胴のある大きな立派なもの。手を合わせた後、坂を下った。
富士川沿いに静岡へ 身延駅から乗車した富士行き2両電車は富士川沿いに走る(写真下)。車窓から大河を眺めながら、戦国期前後から舟運が発達し、それで、今川家と武田家が姻戚関係に結ばれ、信玄は、甲斐を出て駿河から浜松迄侵出出来たのではないかと愚考した。その通り、十島駅、稲子駅辺りで峠や渓谷もなくあっさり県境を越え静岡へ入った。ネットで調べると、明治期になり、富士川の舟運業者達は鉄道建設に反対した程であったようだ。
富士山が見え始め、当初右側へ現れ方向が不明になったが、身延線は、いつも見る富士とは反対側、南西を走っていると気付き、富士宮駅付近では大富士はその位置に落ち着いた。身延線で、甲府、鰺沢口、下部温泉、身延山、そして富士宮と初めて回り、楽しい旅となった。富士駅で東海道線に乗り継ぎ、三島駅からは新幹線で帰途に就いた。(2017/03/10 K.K.1091/1100)

◇日時 2017/2/18 ◇天候 晴 ◇交通費 3,500円 ◇資料 身延山ロープウェイ「癒しと信仰のパワースポット身延山」 ◇歩行距離 7km 10,000歩
「通過時間等」ホテル8:00=JR甲府駅8:44-同身延駅9:40-身延山バス停9:55=三門10:00=久遠寺本堂10:20=日蓮上人お墓10:50=身延山バス停11:10-JR身延山駅13:34-同富士駅14:02-同三島駅14:50-同東京駅15:54-三田線巣鴨駅16:19-自宅16:50

甲府に行き武田神社、甲府城跡を再訪する

同業者の会合が甲府で開催された。私の出番は午後15時で終わり、夕方のパーティまで時間が空いた。折角だからと武田神社参拝を思い付いた。数年前奥の積翠寺から要害山城跡を歩いた時寄ったことがある(10.4.3)。その時の経験では甲府駅から徒歩30分位だったと思う。時間的には十分間に合う。ホテルに資料等を預けた。

 甲府市街から武田神社へ ホテルを出ると小雨がぱらついている。本日春一番が吹き気温16℃の予報のようで、寒さはない。傘を指すほどではなく、甲府市役所前を過ぎ、左が県庁、右が甲府城跡。JR線路を高架橋で渡り、市内が見渡せる。甲府は、私にはきれいな住みやすい街のように感じる。高層ビルは少なく、乱雑さやけばけばしさがない。それは、碁盤目のようにきっちりと市内を縦横する道路の所為かもしれない。そんなことを想いながら、駅北口から武田神社へ直進する道へ入った。次第に傾斜が現れ緩やかな坂道を上がり続け、山梨大キャンパスの間となる。バス停名に”梨大前”を見付け、嘗て友人と交わした話しを思い出した。前職場時代ことだが共通の知人が辞め、”山大”へ行くという。私は、山形大と思ったが、山口大であった。その時、当山梨大も、”山大”かななどと思い巡らしたことがあったのだが、違っていた。
武田三代の城跡 住宅街を過ぎ、正面にようやく神社が見え出した。濠に架かる橋から境内へ入り、本丸跡の社殿で参拝。そしてほぼ四方形の城跡躑躅ヶ崎館を巡る。東方の大手口先には丸馬出のある郭が最近発掘したような土むき出しの儘の状態。反対の二の丸へ回り、内枡形を見る(写真上)。3度目の来訪と思うが初めて見る遺構で、カメラに収めた。当館は、戦国期に活躍した信虎、信玄、勝頼三代の居城であるが、信虎時代駿河今川氏に攻め込まれ、一時は詰城の要害山城へ後退し、その後なんとか今川勢を追い返したようだ。信玄はその時誕生したがその地が当城ではなく、要害山山麓の積翠寺であったのはそんな事情があったからと知った。
近世の甲府城跡 信玄の墓がある近くの寺を目指したが探せないままバス時間が迫り、バスで市内へ戻って県庁前に下車。バス停直ぐの鍛冶曲輪門(写真下)から、戦国末期築城の甲府城跡へ登城。当城も再訪で(12.7.27)、その時は改修工事中であった。現在は出来上がっているようだが、工事中の箇所もある。整備、改修された石垣や門、土塁を眺めながら、石段を上がり鉄門を通って天守台下へ。天守閣はなかったというのが通説らしい。天守台へ上がったが曇り空では周囲の山々は見えない。南アルプスの展望もあるのだろうが。ホテルへ戻りパーティに参加し、翌日身延山へ回る予定と話したら、当地の方が、身延線は車窓の景色が良いと推薦したくれた。(2017/03/05 K.K. 1090/1100)

◇日時 2017/2/17 ◇天候 小雨後曇り晴 ◇交通費 3,650円 ◇資料 有峰書店新社「戦国武田の城」昭和63年4月、17頁 ◇歩行距離 5km 7,000歩
「通過時間等」ホテル15:10=甲府駅北口先15:20=山梨大前15:40=武田神社15:55/16:15=護国神社前バス停16:30-県庁前バス停16:45=甲府城天守台跡16:55=鍛冶曲輪門17:05=ホテル17:15

千葉船橋に葛飾湧水を探し歩く

首都圏を広域的に歩こうと今回は千葉県にコースを探し、葛飾湧水を見付けた。新ハイキング誌総目次から掲載誌を探すも、本棚にある筈だが抜けている。処が、偶然にも昨年末北総台地を歩いた時持ち帰った広報誌”京成らいん”(2016年12月)に掲載されていた。葛飾は古い地名で、現在は都内に葛飾区があるが、以前は市川、船橋を含む東京都、千葉、埼玉に跨る地名であったらしい。

二子浦の池、戻って二子藤の池 都営新宿線終点本八幡駅から歩き出す。駅前商店街、市川市役所前を過ぎ、並行する京成本線の駅から現在地を読みながら国道14号の千葉街道を行く。湧水だから郊外の田園地帯かと思っていたが、家並みは切れない。鬼越駅、京成中山駅を過ぎ、そろそろかなと思ったら、道路右に、”二子浦の池”があった(写真上)。大きめの個人宅の池程度で、澄んでもいない。案内板が立ち間違いないだろう。エッ、そうすると手前にあった池が”二子藤の池”だったのかと思い直し、慌てて戻った。綺麗でもなく傍に建つ家の池と思い通り越してしまった。藤棚の下に池があり、通りの反対側に案内板があった。当地は鎌倉時代以前は海岸で、二子浦と呼ばれていたが、その後干拓が進み、北側台地に降った雨が南側の当地に湧出し、農業用や生活用に使われていたという。
また戻って葛飾神社の池 千葉街道を、次の次葛飾神社の池を探しながら進む。しかし、中山競馬場への交差点を過ぎ葛飾神社前になってしまった。略図を確かめ、また戻って住宅街の間の小路へ突入すると、”葛飾神社の池”があった。当てずっぽうで辿り着いたと言って良い。葛飾神社に詣でて、これから残る湧水池を巡るが、自信を失い略図の全池は無理だろうと思い始めた。
 京成西船駅地下道を通り、お屋敷風の住宅が並ぶ大通りの坂を上がり、この辺りかなと思うが、”太刀川の源流”は見付からない。通り掛かった方も知らないとの返事。右手に高架鉄道が走るが後に武蔵野線と知った。先に高い樹木があり行ってみたが小さな神社で、池はない。諦めて、ここで駅へUターン。
偶然ゲエロの池へ また山勘で小路へ入ると略図にある八坂神社。軽く参拝し小路を下った先に池があり、葛飾湧水の一つ”ゲエロの池”で(写真下)、偶然の出会い。嘗ては生息した牛蛙に因むネーミングらしい。集落内農家の間を進むと皆塀が回った立派な古い住宅が続く。三叉路近くのお宅の庭に見付かったのが、”葛羅の井”。江戸期に太田南畝が書いた石碑が建っていた。これで、太刀川の源流を除き、略図にある湧水群を探し当て、京成西船駅へ向かったが、ここは市川ではなく、先程来船橋であった。途中に、家康に当地栗原藩に封じられ子孫が犬山城主となった成瀬家の墓がある古刹宝成寺があった。(2017/02/25 K.K. 1089/1100)

◇日時:2017/2/14 ◇天候:晴 ◇交通費:140円、シルバーパス ◇資料:京成電鉄「京成らいん 中山~船橋歴史探索マップ」2016年12月 ◇歩行距離11km, 15,000歩
「通過時間等」自宅9:45-新宿線神保町駅10:28-同本八幡駅10:50=二子浦の池11:30=葛飾神社11:45=八坂神社12:30=ゲエロの池12:35=葛羅の井12:45=京成西船駅12:58-新宿線本八幡駅13:20-三田線神保町駅13:45-自宅14:20

味スタ駅伝応援前に武蔵野の森公園を歩く

所内ウェブサイトで、我が事務所チームが味の素スタジアムで行われる駅伝に参加することを知った。私も属する中大駅伝応援メンバー3人出場するとあり、行かなければならない。会場味スタは調布にあり、近くに武蔵野の森、そして調布飛行場がある。私はハイキングも入れた応援とした。スタジアム名の味の素はネーミングライトによる。

武蔵野の森公園、調布飛行場から味スタへ 都営三田線を神保町駅で乗り換えると、味スタ最寄り駅京王線飛田給駅へは直通。飛田給駅に降り、会場を確かめてから武蔵野の森公園へとし、先ず味スタへ。駅の正面先に大きなスタジアムはあったが、一部入口が開かれているだけで外側を眺める。名前は知るも見るのは初めて。私は、武蔵野の森公園を目指す。調布の当地は学園や運動公園が集中する地域のようで、サッカー場や野球場が続き、多くの子供達がプレーしている。左手に外語大キャンパスが見えると武蔵野の森公園であった。管理事務所で案内パンフを入手したが、私が知りたい初夏キスゲの咲く地の情報はない。また早とちりで、それは当公園ではなく、少し先の浅間山公園と分かった。
隣が調布飛行場で、細長いがそう広くはない(写真上)。存在や伊豆七島便の発着地位は知っていたが位置は不知であった。滑走路には航空機は見えず、管制塔側に小型の二機が駐機している。フェンス沿いを歩き途中で運動場の間を大通りへ出て、味スタへ戻った。
味スタ駅伝で我がチームを応援 スタの本日開門ゲートから入ると、中は観客スタンドに囲まれた大競技場で、東京ドームの倍位か。メインはサッカー場のよう。既に駅伝大会は進行中だが、手前スタンドの一部だけ使用中で、大半のスタンドは空席の儘(写真下)。我が事務所チーム席は、応援旗から直ぐ見付かった。駅伝は、一人6km(第一走者のみ)又は4kmを4人で走り繋ぐ。コースは第1コーナー先で場外へ出て第3コーナーへ戻る2kmコースを1人3周又は2周し、応援席下が中継ゾーン。順位競争ではなく、各チーム独自に走り楽しんでいるよう。
我が3チームの襷渡しは確認できるが、オレンジのシャツは多く、途中では見分けが付きにくい。あの有森裕子さんがゲストで、走者とハイタッチを繰り返し声を掛けながら応援し、盛り上げている。中大応援メンバーは3人ともアンカー。Tさんは二度目の走り。昨年の東京マラソンに事務所開設30年記念と、所長に煽られて出場し、いずれも見事フルマラソンを完走した実績の持ち主達。この程度の距離は何でもないだろう。その如く3チーム3人とも150チーム中の中位で無事ゴール。お疲れ様でした。近くの深大寺温泉で汗を流し疲れを癒やした後開かれた反省会には私もお相伴に預かった。お疲れ様でした。またお世話様でした。         (2017/2/19 K.K. 1088/1100)

◇日時 2017/2/11 ◇天候 晴 ◇交通費 480円 ◇資料 東京都公園協会「都立武蔵野の森公園」 ◇歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅8:05-新宿線神保町駅8:45-京王飛田給駅9:40=味の素スタジアム9:50=武蔵野の森公園10:15=調布飛行場10:20=味の素スタジアム応援席10:50/12:20-深大寺温泉12:55/15:40=水神苑16:00/18:10-京王調布駅18:28-三田線神保町駅19:10-自宅19:55

春近し旅立ち千住に像二つ

先日、友人と伊豆長八の鏝絵の話しを交わし、若い頃西伊豆へ職場旅行した時見たことを話した。左官長八の鏝絵は都内隅田川畔の神社にもあったことを思い出し、記録かある筈と帰宅後探し見付かった(03.12.31)。北千住を巡った記録を読み返すと近くに芭蕉の奥の細道旅立ちの碑があったことも記してあった。我が家から近く、案内に備え再訪しようと思い立った。2月に入り好天の初春の日である。

長八鏝絵を見る 私の歩き始めの地は、京成線千住大橋駅で、我が家から1時間弱。駅前案内図で見当を付け、5分で橋戸稲荷神社に着くと、社殿両側に狐の鏝絵があった(写真上)。長八は伊豆松崎から江戸へ出たという。参拝後、鏝絵にカメラを向けたが、絵が薄い上に保存用の硝子が反射し写し難い。それでも2,3度シャッターを切った。本物は本殿土蔵扉に描かれ、表へ出ているのは観賞用のレプリカらしい。
足立区の碑と像 直ぐ側が隅田川で千住大橋。袂の公園に芭蕉矢立始めの碑があった。事前にネットで調べると、元禄2(1697)年3月27日(旧暦)、”行く春や鳥啼魚の目は泪”と詠んだ旅立ちの地を巡り、千住論争というものがあり、足立区の北千住説と、荒川区の南千住説とに分かれ、それぞれに芭蕉像や石碑を建てているという。目の前の碑は北千住にあるもの。足立市場前に建つ像も見ようと、一端隅田川へ下り橋下を通ると、曽良と一緒の旅立ちの壁絵があった(写真下)。蕪村の絵を模写したらしい。旅立ち時大橋は既にあり、1594(文禄3)年普請奉行伊奈忠次が架けたと知った。川を上がり像を探すが見当たらず、広い市場を一回りすると、日光街道に面した正門隣にあった。壁絵とは違い、私には太った老人に見え芭蕉かなと訝った。
 荒川区の碑と像 千住大橋を渡り日光街道を足立区から荒川区へ。右手の古社が素盞雄(スサノオ)神社。境内に、旅立ちの130年後文政3(1820)年に文人達が記念に建てた句碑があり、本殿に詣でて、古い碑をカメラに収めた。荒川区の像がある日比谷線南千住駅前へ向かうが、地下鉄もここは地上駅。回り道するも探し当て、像を見上げると、先程の像とは違い痩せた老人風。またデジカメを向けた。
三ノ輪から都電に乗車 都営荒川線三ノ輪駅迄歩こうと、商店街を抜け日光街道を渡り、三ノ輪へ。当地は昨年訪ね(16.2.11)少し土地勘があり、想定通り商店街ジョイフルに達し、アーケード下を往復。小さな食料品店が軒を接して両側に連なり、人出もあるが、シャッターを閉めた店も見掛ける。若干の買い物をし、三ノ輪駅から三田線西巣鴨駅へ出た。車中、友人へ鏝絵の写真をメールで送ったら、後日薄くて良く分からないと返信があった。長八鏝絵が、前回の多賀城・壺碑に続き芭蕉になってしまったが、故郷の読者S先生からの先日の手紙にも、”旅に病んで・・・”の句があり、この処芭蕉尽いている。(2017/02/15 K.K. 1087/1100)

◇日時 2017/2/4 ◇天候 晴 ◇交通費 310円 ◇資料 山川出版社「東京都の歴史散歩上・下町」 ◇歩行距離 8km 11,000歩
「通過時間等」自宅13:15-JR巣鴨駅13:50-京成日暮里駅14:01-同千住大橋駅14:10=橋戸稲荷神社14:15=大橋公園14:20=足立区芭蕉像14:40=千住大橋14:45=素盞雄神社
14:55=南千住駅前芭蕉像15:15=三ノ輪商店街15:30=都電荒川線三ノ輪駅15:58-三田線西巣鴨駅16:35-自宅17:05

仙台へ行き多賀城遺跡の一端を巡る

仙台の先にある多賀城跡は、以前から知っていたが、私の好む戦国期の城跡とは違う位の知識はあった。手許の資料は、「多賀城 蝦夷地開拓の前進基地」(鈴木亨・日本の古城・名城100話)のみで、地図はなく詳しい遺跡等は分からない。ネットで現地の観光情報を打ち出し、帰りに会おうと、仙台在住の高校同級生に連絡した。

 多賀城駅、国府多賀城駅 仙台駅に着き、仙石線乗り換え時案内所で多賀城関係パンフを貰い、多賀城駅へ向かった。車中、パンフの略図を眺めていたら、遺跡起点は東北線国府多賀城駅とあり、ビックリ。多賀城駅が二つあると初めて知るも、時間的に仙台駅へ戻る訳にもいかない。そのまま乗車して多賀城駅に下車し、駅で、国府多賀城駅へは徒歩30分位と聞いた。私の想定と合い、タクシーもなく徒歩で、1番近い遺跡多賀城廃寺跡を目指す。歩きながら同級生に携帯を入れ、約束時間を1時間遅らして貰った。
多賀城廃寺跡へ 東北学院大学があり、キャンパスの塀に沿い北上する。同大学は古く、進学した山形の友人知人もいる。遺跡案内はしっかりあり、廃寺跡へはすんなりと辿り着いた。その名の通り、大きな寺院跡のような松林に囲まれた広い平地で、カメラに収めた。案内板があり、次の行き先多賀城碑や政庁跡は直ぐのような案内図。これはラッキーと歩き出し、直ぐ前が多賀神社だが黙礼し通過。大きな建物は東北歴史博物館。何故当地にと思ったが多賀城遺跡の影響だろう。案内図とは違い東北線踏切までも結構距離があり、右手先に国府多賀城駅を確かめ、中央公園へ。
壺碑、政庁跡 公園先に南門跡はあったが、多賀城碑、壺碑(ツボノイシブミ)を探しウロウロ。案内板では、直ぐ近くの筈だが探せない。正面上方は政庁跡、そして、目の前が土手で、土手を越した下にあり見えなかったのだ。現在では、石碑は堂で覆われた重文(写真上)、歌枕ともされる。762(天平宝字6)年に建立された碑には、陸奥出羽按察使大野朝臣東人により724(神亀元)年築城等と刻まれ、往時は西行や芭蕉も訪ね、芭蕉は感激し奥の細道にも記したという。東征した坂上田村麻呂が弓のはずで、”日本中央”と刻んだとの話しもある。文字は風化し薄く、格子の間からシャッターを切った。
丘上の政庁跡へ。正面南大路階段は工事中で、脇の臨時通路を上がる。やはり地方の豪族や有力者の館跡ではなく、私にも、当時の陸奥・蝦夷地方支配の拠点としての政庁跡に見える(写真下)。周囲には、更に遺跡や関係社寺が点在するが、時間がなく、政庁跡を下り、南門跡の痕跡遺構に出会いながら、冬のあやめ園を過ぎると畦道の先が東北線国府多賀城駅であった。
仙台駅で夕食 仙台駅構内で、同級生と夕食。色々話しが弾んだが、多賀城跡は広大で、多くの遺跡があり、東京から午後出て来て巡ろうというのは無理も甚だしいと言われてしまった。仰る通りで再訪したいと頷き、グラスを干した。(2017/02/09 K.K. 1086/1100)

◇日時 2017/1/29 ◇天候 晴 ◇JR東日本大人の休日パス利用 ◇資料 多賀城市「多賀城悠歩 多賀城まるごとマップ」 ◇歩行距離 11km 15,000歩
「通過時間等」自宅11:05-同上野駅12:06-同仙台駅14:22-同多賀城駅14:50=多賀城廃寺跡15:10=東北線踏切15:30=多賀城碑15:45=同政庁跡16:00=JR国府多賀城駅16:49-同仙台駅(夕食)17:05/18:31-同上野駅20:10-三田線巣鴨駅20:25-自宅20:55

太平洋に浮かぶ利島を眺め伊豆爪木崎を歩く

岬へ出ると眼前に大海原が広がり、ポツンと遠くに小さな島が浮かぶ。晴天下海は青く、波静かで、1人景色を楽しみながら海岸に切られた遊歩道を進む。海辺のハイキングは好きだ。青い空、広い海と開放感一杯、そして風景を遮る森や山もない。建造物も見当たらない。特に本日は、天気良し、眺め良し、そしてコース良しである。

 伊豆須崎から細間の段へ 本日は、JR東日本大人の休日パスで、伊豆下田に、爪木崎を訪ねた。東京駅9時発の特急踊子で下田駅に着いた時は、12時ちょっと前。3分後発のバスに間に合いコース起点須崎に降り、スタート。小さな湾に沿い、港に繋がれた魚船を見ながら行き、遊歩道入口を見付け、半島を覆う樹林帯に入る。上りの階段が断続し、歩幅が合わず少ししんどい。尾根へ出れば楽になろうとゆっくりと上がる。そして、上り切ったようで下りが混じり始め、林を抜けた。前方が開け、目の前に海が広がった(写真上)。伊豆七島が見えるのではと目を凝らすと尖った島があった。利島に違いない。往きの電車内でアナウンスがあった。大島は伊豆急線の大分手前で越し、次が利島、天候によっては新島や三宅島もと紹介された。デジカメを望遠一杯にしシャッターを切った。
海岸から密林地帯 遊歩道を下ると、細間の段という岩場。中間の地だが、暖かくジャケットを脱ぎザックへ入れ、通過。突き出した正面の小岬を避け歩道は海岸を離れ、直角に曲がると密林地帯。亜熱帯系の灌木で、ジャングルのよう。初めてハイカーと擦れ違い、爪木崎水仙まつりの会場が近いと思う。灌木ゾーンを過ぎまた海岸だが、灯台と大きな白い建物が見えた。岩場に切られた歩道となり小さな湾縁を辿る。花が咲き、大根の花のような花と黄色の花だが見たことのないもの。丘へ上がると人出があり、ゴールの爪木崎公園。水仙の花、アロエの花はあるが物足りない。昼食前に一回りと、高台にある昭和天皇歌碑前から下を見ると、咲き揃う水仙の花が見え、そちらがまつりの会場であった。
爪木崎水仙 見物者に付いて、水仙畑の間を巡る。高台から眺めた程は広くはない。それに近くで見るとそれ程揃ってはいない(写真下)。先日、水仙が目一杯咲き揃う爪木崎水仙まつりのポスターを都内駅で見掛けたが、小さくイメージとあった。ポスターの半分程度はと期待して来た。2,3度アングルを探しカメラに収め、会場内に設けられたプレハブ食堂で、昼食。好きなラーメンなどもあったが、折角だから鰯の寿司を注文する。伊豆下田の名物かもしれない。新鮮さは流石ご当地物である。
バスで下田駅に戻り、3時の特急に間に合い、海岸ハイキングには充たされた気分で帰途に就く。また、車窓から利島や大島が見えた。(2017/02/05 K.K. 1085/1100)

◇日時 2017/1/28 ◇天候 晴 ◇JR東日本大人の休日パス利用、バス代730円 ◇資料 下田観光協会外「伊豆下田水仙まつり」 ◇歩行距離 8km 12,000歩
「通過時間等」自宅7:50-JR巣鴨駅8:25-同東京駅9:00-伊豆急下田駅11:45=須崎バス停12:00=須崎遊歩道入口12:10=細間の段12:32=爪木崎公園(昼食)13:05/14:00-伊豆急下田駅15:04-JR東京駅17:50-三田線巣鴨駅18:36-自宅19:05

JR両毛線で小山から佐野厄除け大師へ

この時期JR東日本が大人の休日パスを発行していると知った。1月末は繁忙期ではないということだろう。色々行き先を考えゲットした。伊豆急線も含まれ下田爪木崎、仙台先の多賀城跡、そして栃木佐野厄除け大師が候補先。本日、伊豆は天候良くない予報で、佐野行きとした。新幹線も利用可能で、小山駅までは東北新幹線乗車とする。

両毛線佐野駅へ 新幹線は速い。右手に筑波山が見え始めたら小山駅であった。両毛線に乗り換え田園地帯を走る。ローカル線両毛線を知ったのは、高校卒業した年で、中高同級生が群馬大入学のため、駅へ送りに出た際、小山駅で両毛線に乗り換えると聞いた。そんな線があるのかと記憶に残った。途中、車窓左手に三毳山(ミカモヤマ)が見え、カタクリの花を探しに登ったことがあった(11.5.8)。
佐野厄除け大師に参拝 佐野駅に降り、観光案内所で案内図を貰い、厄除け大師へ向かう。市役所前から大通りを渡り市内を行くが、それらしい寺院は見えない。徒歩8分の案内なのに倍位歩いて、ようやく大師へ着く。参拝者は多く、山門から境内へ。門扉に菊の紋章があり、何故と思ったが、家康没後が久能山から日光へ移される途中当寺で一泊し、その縁で佐野東照宮と呼ばれていると知った。本堂前へ進むも(写真上)、私の年齢では厄除けは過ぎ、該当年齢には見当たらないが、家族の健康をお願いした。本堂正面に、田中正造翁の大きな墓があった。彼は佐野出身で、本寺で葬儀が執り行なわれ、現在でも毎年法事が営まれているという。
寺を出て、秋山川へ歩き天明大橋を渡り、岸辺から大通りに架かる橋を渡り返し、商店街となる。高崎付近で中山道と分かれ日光へ通ずる例幣使街道が佐野を貫いている筈で、同街道だろう。江戸期頃からの古い建物の和菓子店舗があり(写真下)、その感を深めた時、銀行前に例幣使街道の案内があった。
再訪佐野城跡 駅へ戻り、裏の城山春日岡の佐野城跡へ。駅構内から直接繋がり、現公園の城跡を巡る。佐野城は、奥にあった山城唐沢山城主の佐野信吉が、関ヶ原戦後の1602(慶長2)年新城として築いたが、佐渡金山奉行であった大久保長安の事件に連座し改易に遭い、僅か12年で廃城にされたという(歴史と旅「日本城郭事典・上」平成6年360頁)。丘上に築かれた連郭式で、三の丸、二の丸、本丸と北出丸と続き、郭間には空堀跡が遺る。唐沢山城跡の帰路以来二度目で(95.10.28)、記憶を呼び起こしながら細長い城跡を往復した。
佐野は、青竹手打ちラーメンでも知られ、70店ものラーメン店が競っているようだ。昼食は駅前でご当地ラーメンを味わった。平打ち麺の薄口醤油味で私の好みに合い、美味であった。両毛線で小山駅に戻り、待ち時間があったがまた新幹線を待った。(2017/02/02 K.K. 1084/1100)

◇日時 2017/1/27 ◇天候 曇り ◇JR東日本大人の休日パス利用 ◇資料 「佐野厄よけ大師案内図」 ◇歩行距離 8km 12,000歩
「通過時間等」自宅10:10-JR上野駅11:14-同小山駅12:05-同佐野駅(昼食)12:35/12:55=佐野厄除け大師13:10=天明大橋13:20=例幣使街道13:35=佐野城跡13:50=JR佐野駅14:19-同小山駅15:32-同上野駅16:18-三田線巣鴨駅16:36-自宅17:05

水仙観賞に城ヶ島から三崎港を巡る

冬のこの時期水仙の花が咲く頃で、房総が知られているが遠い。ネットで、城ヶ島にもあると知った。電車では三崎口からバスだが、友人Sさんに話したら車でオーケーが出た。昨年末からSさんとは、群馬方面も検討していたが、週末は天候が良くなく延ばし延ばしになっていた。今週末も天気予報を睨めなから日曜日の本日となった。

水仙の花は 車は速い。都内を高速で抜け、直ぐ羽田、横浜、横須賀を1時間で過ぎた。都内の高速は最近地下へ潜るルートも出来たことを知った。三浦半島へ出てダイコン畑の間から半島突端へ向け走り、橋を渡って城ヶ島駐車場に、1時間30分程で着いた。
水仙まつり中で、水仙の花はあるが小さい花は色も薄く疎らで、一面という程ではない。水仙とはこのような種の花で、一面に咲き誇る黄色の花は私の期待過ぎかもしれない。Sさんと安房崎へ花を探しながら歩き始める。舗道に沿い水仙は続いている。展望台に上がると風は強く、帽子を被り直す。波が高いほどではないから、海風だろう。晴天下、太平洋を眺め、正面に大島、右手にうっすらは伊豆半島か。海は青い。
安房崎から赤羽根断崖 階段を降り林を抜け、安房崎灯台は岩場に建つ無人の小さな円柱状のもの。左手は剣崎の断崖が彼方へ続いている。正面は房総半島の鋸山かそれとも館山辺りか。剣崎からは関東ふれあいの道コースがあり、当島まで歩いたことがあった(09.3.28)。周囲の岩場では釣り人が竿を出している。10人前後はいるだろう。駐車場に戻って、Sさんを赤羽根断崖へ案内。途中、咲き振りの良い水仙群に出会い(写真上)、カメラに収めた。海側へ出て、ウミウ展望台から断崖を眺める(写真下)。前回初めて見て気に入ったスポットで、写真を記録にも入れた思い出がある。私はまたデジカメを向けたが、Sさんはどうか。
城ヶ島灯台へ 島の反対側へ移動し、売店の間から城ヶ島灯台を巡る。富士は雲の中にボャーット見えるだけ。京急ホテル前から小桜弁天社と回り、売店街に出たら、”甲烏賊”の呼び込みに捕まり、店内へ。本日特別入荷の珍しい烏賊と、吹き込まれてしまった。2人で食べだが、確かにコリコリし歯ごたえ十分だが刺身は僅か数枚。まつりのスタンプラリーに参加し抽選すると私は残念賞の小さなお菓子。Sさんも同じであった。私は、末孫のお土産にしよう。
三崎港はマグロ丼 三崎港へ。私は同港は初めて。目の前の城ヶ島が自然の防波堤で良港とは素人にも理解できる。北原白秋は当地に住み、当時は渡船で島へ渡ったとある。昼飯は当然三崎マグロ丼。行列出来ている店は避け、小さな寿司屋へ。マグロは評判通り美味しく値段も安かった。Sさんもそのようで、お顔から窺えた。港産直センターを探し、買い物。勿論マグロ製品をゲットし、帰路へ就いた。一時道路が込んだがそれでも2時間を切って帰宅できた。Sさん有り難うございました。(2017/1/30 K.K. 1083/1100)

◇日時 2017/1/22 ◇天候 晴 ◇資料 三浦観光情報発信協議会「三浦半島 きままに散歩三崎口」 ◇歩行距離 8km 12,000歩
「通過時間等」自宅7:30-城ヶ島駐車場9:05=安房崎灯台9:35=ウミウ展望台9:55-城ヶ島バス停駐車場10:10=城ヶ島灯台10:20=小桜弁天社10:30=甲烏賊食堂10:55-三崎港11:20/12:15(昼食、買い物)-自宅14:00

目黒に山手七福神を巡り大鳥神社に参拝

今年の干支酉に因み目黒の大鳥神社が賑わっているとラジオで知った。同社は、JR目黒駅前から権之助坂を下った山手通りにあり、一度詣でたことがある。初詣にと思うが、一社だけではと付近に適当なポイントを探していたら、山手七福神巡りコースがあった。渡りに舟と出掛けた。我が家から三田線で直行の地である。

三田線で白金高輪へ 三田線白金高輪駅に降り、覚林寺を探す。地上へ出て、桜田通りから右折し目黒通りに入り日吉坂に掛かるが寺は見当たらない。手許のマップを確かめると行き過ぎのよう。戻って右折地点の先に、毘沙門天を祀る小さな寺があり、軽く頭を下げた。加藤清正の位牌が安置され、この辺りを清正公前ということは思い出した。以前友人が住み訪ねたことがある。清正の銅像はなかった。
先行するご婦人グループも同じ目的のようで、日吉坂を上がり彼女らの後に付いて、八方園傍から瑞聖寺へ。立派な堂宇が正面にどっしりと構え(写真上)、重文という。布袋尊だが、扉は閉じられ堂内は見られないが、正面で詣でる。本殿と鐘楼をカメラに収め、受付で、”江戸最初山手七福神”のチラシを貰った。
目黒通りを目黒駅へ 目黒通りを進み、右手に自然教育園の森を見ると、左の七福神の幅に導かれ妙円寺。小さなお堂内に福禄寿、寿老人がある筈と、靴を脱ぎ扉に手を掛けたが動かない。正月も半ば過ぎれば、公開は終わったのだろう。隣の寺も無人のよう。外から手を合わせた。次の大円寺は知っている。目黒駅前からの行人坂の途中にある。少し距離があったが駅を過ぎ急坂を下り、寺境内へ。こちらは参拝者が多い中、賽銭を入れ参拝。大黒天である。雅叙園前の坂を下って目黒川を太鼓橋で渡り、住宅街を抜け山手通りへ出て、交差点から目黒不動参道へ。左手に成就院があった。七福神はないが慈覚大師創建の古刹。素通りは出来ず立ち寄り、孫達の成長をお願いした。蛸薬師と呼ばれ、そのような壁画があった。
 目黒不動、大鳥神社へ 目黒不動は有名で、大境内。私も数回訪ねている。山門を潜り、境内図を眺めて、恵比寿は境内外れの三福堂にあると分かった。先ずはこちらへご挨拶。小さな堂に恵比寿様があった。境内へ戻って石段を上がり、お不動様に参詣。瀧泉寺が寺院名と知った。境内横から近道し山手通りへ出て、通りを少し歩くと蟠龍寺。高齢グループの参拝者で狭い境内は一杯。奥の岩屋風の堂内に七つ目の弁財天が安置されていた。1人、我が家にも良い年と祈願した。
大鳥神社は直ぐ。何十年ぶりの再訪の筈だが、位置や社殿、境内も初めての想い(写真下)。日本武尊に纏わる由緒ある古社とある。また孫達とボンズをお願いした。境内の古大木アカガシを眺め、七福神と大鳥神社を巡り終え権之助坂を上がった。(2017/01/27 K.K. 1082/1100)

◇日時 2017/1/16 ◇天候 晴 ◇資料 箱田孝光「山の手七福神(2)東京都」新ハイキング735号36頁 ◇歩行距離 14km 19,000歩
「通過時間等」自宅10:25-三田線白金高輪駅11:25=覚林寺11:40=瑞聖寺11:55=妙円寺12:10=大円寺12:30=成就寺12:50=瀧泉寺13:00=蟠龍寺13:20=大鳥神社13:30=三田線目黒駅14:00-自宅15:00

大晦日に多摩丘陵稲城を歩く

2016年のどん詰まりに歩くことになった。弟が年内にと言い、歩き納めにしようと付き合った。年始はちょっとせわしいし、正月早々はハイキングをしたことはない。今回はなんと母校が予選落ちし箱根駅伝は興味が薄れ、これまでとは違う三が日となろう。2人が住む中間辺りの南多摩に歩いたことのないコース「大丸-上谷戸親水公園」(新ハイキング731号137頁)が見付かった。

 駅前直ぐ大丸城跡 集合駅JR南多摩駅は南武線。調べる迄横浜線かと思っていた。京王相模原線を稲田堤駅に降り乗り換えた。南武線は何年ぶりだろうか。意外に近く我が家から1時間半で着くと、弟は待っていた。真冬なのに寒さも風もない中、南口からスタート。直ぐ右手が目指す城山公園かと里山へ近づいたが入口が違い、先の坂道を上がる。郭跡のような削平地らしき広場からいきなり急階段となる。未だウォーミングアップも出来てなく、辛い。足を止めながらも程なく上がり切り、頂は本郭跡と思うが、それらしき痕跡も案内もない。我が家の文献では、築城の詳細は不明とし、鎌倉期頃からか府中付近の多摩川徒渉地点の監視や物見用の砦とみている(田中祥倖彦「多摩丘陵の古城址」90頁)。弟も追い付いて来て、反対側 へ尾根道を下る。ファインタワー(展望塔)下から直ぐ公園を出た。手洗いを探して近くのスーパー内をウロウロし、方向感覚を失ってしまったらしく、当地の案内看板があるのだが目の前の道路状況と一致しない。尋ねて正面方向へ。
鶴川街道へ出たが 多摩ニュータウン向陽台で、直ぐ稲城中央公園、そしてくじら橋(写真上)を見て公園内を行く。ここで方向を間違えた。公園内池付近を下るのがコースだが、園外を下り、一度戻ろうとしたが行き止まり。鶴川街道へ出ることを確かめ、コースとは違うとは思いながらも坂を下り続ける。左に貨物線高架が走る。南大沢キャンパスに4年間通い車窓から眺めて少しは知る風景だ。鶴川街道へ下り三沢川砂場の橋から川沿いに遡る(写真下)。新きさらぎ橋でコースを回復したが、次の中橋付近が工事中で大回り。そしてまたコースを失ってしまった。
コースを外れ若葉駅へ 丘陵途中に見える高い構造物が上谷戸親水公園のものかと、坂を上がったが違っていた。私はここで諦め、京王相模原線若葉台駅へと考え始めた。弟は、上谷戸大橋付近で、以前に一度歩いたコース(15.12.27小田急黒川駅自然ふれあい歩道)ではないかという。私は似た風景だが違うと否定し駅行きを提案。弟は土地勘があるのだろうと言い、不満ながらも付いて来た。距離があったが若葉駅に着き、昼食。弟はまた来て歩きたいと言ったが私は返事を濁してしまった。新宿へ出て、”良い新年”を言い交わし別れた。歩き納めにならない里歩きとなってしまい、リベンジコースに入れるか迷っている。(2017/01/15 K.K. 1080/1100)

○日時 2016/12/31 ○天候 晴 ○交通費 920円 ○資料 宇山清太郎「大丸-上谷戸親水公園」新ハイキング731号137頁 ○徒歩距離 12km 17,000歩
「通過時間等」自宅8:00-都営新宿神保町駅8:42-JRE稲田堤駅9:22-同南多摩駅9:35=大丸城跡9:55=くじら橋10:15=三沢川砂場の橋11:00=上谷戸大橋11:30=京王相模原線若葉台駅(昼食)12:00/12:33-都営三田線神保町駅13:27-自宅14:10

亀有に葛西城跡を確かめ、両さん像を巡る

自宅に居て、ふと葛西城跡は石碑を見逃していたことが頭を掠めた。確か年末で、亀有駅前でどら焼きを買ったことや銀行に並んだことも思い出された。当時(02.12.30)の記録ファイルを引っ張り出すと、里帰り中の長女に両さんどら焼きを頼まれたが違う物を土産にしたことや香取神社で井戸跡「玄恵井」も探せなかったことが記録してあった。そう言えば、今年漫画、”こち亀”は終了したが、亀有では両さん像が人気を集めていることを耳にしている。これは再訪しなければならない。

 葛西城跡石碑を確かめる 西日暮里駅で千代田線に乗り換え亀有駅に下車。駅前から亀有銀座商店街を通り環七通りへ出て現水戸街道を越すと右手に、小さな緑地があり御殿山公園。環七を挟んだ向かい側が葛西城址公園。前回は名前から後者園内のみを見回し城跡を示すものは公園名だけと思ったが、後日、隣の公園に石碑があると知った。
小さな園内を見渡すと古い石碑があり、「青砥藤綱城跡」と刻んであり(写真上)、葛西城の別名だろう。後北條時代迄は存在したが、江戸初期廃城にされ、将軍の鷹狩り用屋敷が設けられそれで御殿山公園のようだ。石碑や案内板をカメラに収め、環七を渡り二つに分断された隣の城址公園へ。中川河畔の城跡は流域に埋もれてしまい両公園共に城跡痕跡皆無は承知の上だが残念。直ぐの中川堤へ上がり大橋を渡り日枝神社、西念寺に寄る。天気は良いが川風は冷たく、杭のカモメ達も寒そう。日枝神社は前回も回ったかもしれない。香取神社に着き参拝し、広い境内に玄恵井を探す。現在では井戸跡はなく石碑とネットで知った。見付けられず社務所で尋ねると工事中で移設してあるとのこと、諦め駅前に戻った。
亀有に両さん像を巡る 両さん像は亀有駅を中心に北口側、南口側の双方にあった。駅に、日本語版パンフは切れていたが、中国語版があって像の位置は分かり、北口からカメラに収めながら巡る。北口前の像は花束を持ち正月用か。交番傍は麗子さん像。亀有公園にも二つの像があった。北口商店街の端にも見付かった。
漫画こち亀は、理髪店の待ち時間に眺めた程度だが、両さんやその同僚達のキャラは楽しく面白く、好感を持っていた。南口前には同僚達と三人の像。他の像はメタリックな単色だがこの像はカラーもの。亀有銀座商店街伊勢屋で両さんどら焼きとクッキーをゲット。先程往きに店の位置を確かめておいた。中央商店街へ回り更に2,3の像を眺めて駅へ。10像程巡ったが、気に入ったのは最後の祭り姿像(写真下)。私には、如何にも両さんらしく見えた。
常磐線で新松戸駅へ出て武蔵野線に乗り換え武蔵浦和駅前で、Sさんと年末の会食をした。仕事上のお付き合いだが、記録の読者でもあり毎号コメントをメールしてくれ、感謝である。大学の後輩で、先日箱根駅伝予選落ち残念会をやった。         (2017/01/11 K.K 1079/1100)

○日時 2015/12/30 ○天候 晴 ○交通費 1,050円 ○資料 JR東日本「旧水戸街道・亀有」 ○歩行距離 11km 16,000歩
「通過時間等」自宅13:00-JR巣鴨駅13:30-千代田線西日暮里駅13:39-JR亀有駅13:50=亀有公園13:55=亀有駅南口14:15=御殿山公園14:40=日枝神社15:00=香取神社15:25=伊勢屋15:40=JR亀有駅15:59-同新松戸駅16:22-同武蔵浦和駅(夕食)17:00/18:20-三田線新板橋駅18:46-自宅19:15

新たな歩き先千葉北総台地を訪ねる

千葉の北総地域に北総線が開通して何年になるだろうか。JR成田線と京成成田線の間だと思うが、私には未訪の地である。ハイキング先の偏りを避けようとしていたら千葉の北総地区が目に付いた(新ハイキング社「千葉を歩く・北総 歴史散歩」臨時増刊37頁以下)。我が家からは遠く、未知の地で情報が乏しく少し不安である。新たに歩く候補地域開拓に下見に出掛けることにした。

 北総線で千葉ニュータウンへ 日暮里駅から乗車した京成線を高砂駅で北総線に乗り換えた。北総線が成田空港まで続くと初めて知る。千葉県に入り東松戸駅、新鎌ヶ谷駅を過ぎると両側に森が広がり、その間の平地に住宅街が点在する地になり、北総中心地の千葉ニュータウン中央駅に着いた。我が家から1時間30分で、私の予想よりは遙かに速かった。未だ新しく大きな駅舎を出ると、駅前通りには高層ビルが建つが周囲の空き地とはミスマッチ風。我が高島平団地の引越し時を彷彿させた。
古社、名刹を巡る ニュータウン大橋を渡ると花の丘公園。右折し団地の間を行き、田畑地帯となる。厳島神社を探し路地へ入ると農家も大農家が並ぶ。集落の端にあった神社は小さな社。参拝し、境内には出羽三山の石塔を見た。集落内を右折、左折し見付けた案内に従い結縁寺へ(写真上)。行基菩薩建立とあるがその雰囲気は窺われない。すぐ隣が熊野神社。入口に入定塚の立札が立つが初めて見るもので、案内もなく私には意味不明(帰宅後の調べでは行者・修験者の供養塚らしい)。前にある蓮池先に頼政塚を探したが一本先の道と気付いて到達。平氏打倒の兵を挙げるもが成らず自刃しその首塚という。奥へ進むと田畑が広がる。丘陵を覆う樹林帯で仕切られ(写真下)、何故か私には千葉の田舎らしい風景に見え、その中の一本道を行く。大通りへ出たが目印のコンビニがない。右か左かと迷い、ふと正面を見ると寺院風の屋根が見えた。もしかしてと近付くと目当ての多門院。詣でた後境内隅で休憩し、持参したお茶を飲む。
 印西牧の原駅へ ここで、次の草深森は省略し、大通りを真っ直ぐ印西牧の原駅へ向かうことにする。冬の森は惹くものがないだろう。通りから直ぐの印西太子堂への左折点に注意しながら側道を歩き、工業団地を過ぎるもその地点が中々来ない。見逃したかとも思ったが、予想より大分先を左折。お堂はあったが荒れた建物だけで、寺名を示すものは何もないが位置から間違いないだろう。軽く頭を垂れて、後にする。ここにも出羽三山の石塔があった。駅までは未だ距離があるが、近付くに連れビルが目立ち、通りも広くなり、交通量も増した。メタセコイヤの並木通りに至り、アングルを探しカメラに収める。牧の原駅へはもう少し歩かなければならなかった。今回、近い上JR成田線小林駅へは歩ける距離と分かり、コースが増えるだろう。 (2017/01/08 K.K. 1078/1100)

○日時:2016/12/26 ○天候:曇り ○交通費:2,330円 ○資料:新ハイキング社「千葉を歩く・北総 歴史散歩」臨時増刊平成19年1月,44頁 ○徒歩距離:15km, 20,000歩
「通過時間等」自宅8:30-JR巣鴨駅8:55-京成日暮里駅9:11-北総線高砂駅9:32-同千葉ニュータウン中央駅10:00=花の丘公園10:15=厳島神社10:35=結縁寺10:45=熊野神社10:50=頼政塚11:10=多門院11:30=印西太子堂12:15-北総線印西牧の原駅12:56-JR日暮里駅13:50-都営三田線巣鴨駅14:01-自宅14:30

高坂岩殿観音に参拝し、未踏のちご沢へ

2017年を迎え、初詣は何処にするか迷った。出来るだけ未訪の神社、寺院にしようと調べたがハイキングに結びつけると行く先は決まらない。そんな中、以前入手していた「東松山市ふるさと自然のみち」から岩殿観音にし、後半には、気になっていた大東文化大キャンパス裏を回り高坂駅へ歩く、新たなマイコースを是非巡りたいと思った。

 高坂駅から岩殿観音へ 東武東上線高坂駅は、私のホームグランド奥武蔵も近場の駅であるが、ご無沙汰である。西口から彫刻のある通りを行き、関越高速道路を渡り、右折地点を探す。二度目(97.6.28)で標識があったと思っていたがなく、そろそろかと右折。しかし、行き過ぎの感があり住宅街を出て戻り、橋を渡って森近くの田舎道へ。予定通り、室町期足利基氏の本陣跡、その先が鳴かずの池。坂上田村麻呂の龍退治伝説がある池だが、位置も大きさも記憶とは違っていた。20年振りでは仕方ないか。
岩殿観音様に参拝 次の集落が岩殿観音正方寺の門前町。坂東33観音10番札所として江戸時代からのもので、真っ直ぐな通りの両側に整然と往時を偲ばせる町屋が今も並んでいる。ここも再訪の筈だが思い出せない。山門から石段を上がり参拝。孫達の健康とぽんずの成仏をお願いした。初詣に高齢者ペアがチラホラ。境内の大銀杏は見覚えがあった(写真上)。地下道から物見山へ。東征した田村麻呂が物見した山で、比企丘陵の最高峰(135m)とある。小さな頂から川越、東京方面を眺めたが、スカイツリーは確かめられなかった。
マイコースの近道はなし いよいよマップから自分で想定した未訪のコースへと意気込む。大東文化大キャンパス端の谷沿いにちご沢へ出ようとした。調べたような道はなく、キャンパス内かなと守衛さんに聞くと通れないと断れた。私の行く大手町蕎麦屋の店長さん大東大OBで、昨年末ここのコースを話したらこども動物園は知っていた。箱根駅伝予選会1位通過と威勢が良かったが、またシード落ちとなった。
山里風景のちご沢 こども動物園を大回りしこどもの城を過ぎ、橋を渡り左折。先程来歩いたことのない地域に入っている。最奥の一軒家を見て、小さな流れちご沢沿いに下る。隣には深い森が繁茂している(写真下)。家屋は見当たらず、ハイカー一人と擦れ違い、林で作業中の方を見掛けただけだ。奥武蔵も高坂にこんな静かに広がる山里風景に驚き、期待以上。小径は先のちご沢の森へと続くが、深緑や晩秋時の再訪のため残しておこうと沢を横断する高架道へと上がった。高坂ニュータウンの団地で、マップから駅まで約50分と読む。コースを離れ近道しようと山勘で駅を目指すが簡単ではない。東上線を走る電車が見え、そう間違ってはいないと気を取り直し、やや遠回りするも読み通りの時間で高坂駅到着。長く歩いたと感じたがそうでもなかった。(2017/01/20 K.K. 1081/1100)

◇日時 2017/1/7 ◇天候 晴 ◇交通費 1,030円 ◇資料 東松山市ウォーキングセンター「東松山市ふるさと自然のみち」 ◇歩行距離 16km 22,000歩
「通過時間等」自宅9:20-東武成増駅9:59-同高坂駅10:35=足利基氏塁跡11:25=鳴かずの池11:30=岩殿観音11:45=物見山12:00=こども動物園入口12:30=ちご沢12:45=高坂ニュータウン団地13:05=東武高坂駅14:00-同成増駅14:48-自宅15:10

湘南深沢から稲村ヶ崎へ出る

鎌倉、湘南方面に未訪のコースを捜した。平塚在の弟から誘いがありコースを2,3挙げたが歩いたことがあり、それならと手許のガイドを捲るも、初めての地は少ない。そんな中から、「湘南深沢から稲村ヶ崎」(「東京近郊里山ハイキング」175頁)が見付かった。寺社巡りのようである。弟へ連絡し、大船モノレール駅改札口に待ち合わせた。

モノレールで湘南深沢へ JR大船駅に降りモノレール駅を尋ね行くと、弟が待っていた。このモノレールは私は初めての乗車。直ぐ深沢駅で、運転手へ乗車券を渡し階段を降りる。駅前に当地の案内図は見当たらず、手持ちの略図で等覚寺へ向かうが、小路が交差し戸惑っていると地元の方が指さしてくれた。古い住宅街の中に古刹はあった。簡単に詣でて、深沢小学校へ。校内に鎌倉の御家人梶原景時父子の墓がある筈だが見付からない。裏へ回っても行き止まりで諦め、学校先の御霊神社へとし、山門的な社の後に石段がありその上に本殿があって(写真上)、2人で参拝。
御霊神社、仏行寺、三嶋神社 ここからは弟に地図読みを任せ右折、左折し坂を上がり、彼の指示通りに小さな坂を下ると仏行寺前であった。参観料を箱に入れ、本堂前でぽんずの成仏をお願いし、裏の庭園へ回った。小さな泉水庭園が広がり、カメラに収める。戻ろうとしたら、屋根を走る小動物を見る。リスのようで、当地には外来種が繁殖しているらしい。集落内歩行中、弟が、”ここっ”と言い、見上げると三嶋神社。頼朝創建と言われる古社で、急な石段上がり小さな拝殿に手を合わせ簡単にお参り。夫婦池への分岐では、池は省略し目の前の丘笛田公園へ上がる。広いグランドがあり少年野球の練習中。足下にボールが転がって来て、返して上げようとしたが、ネットを超えず見事に失敗。”嘗ての野球少年もダメだね”と弟に笑われてしまった。
鎌倉山神社から稲村ヶ崎へ 休憩後、峠を行き鎌倉山神社を目指す。鎌倉も別荘地帯のようで、高級らしき住宅が多い。有名人の門前には警備員を見た。一旦下るが違うと気付き戻ると標識があり、山方向へ入って神社前。こぢんまりな社であった。そのまま奥へ進むと急に山道となる。ハイキングらしくなったが、弟に確認するとコース内との返事。標識があり、稲村ヶ崎へ方向を採り、工事中の仮設通路を過ぎて山中を抜け、住宅街。本日当地ではロードレースがあるらしく若者や家族連れ大勢が通りを往復しジョグしている。江ノ電踏切を渡り、海側へ出ると右先が江の島(写真下)、左が稲村ヶ崎。海は穏やかだが波乗りするサーファーは少ない。我々は左折し岬へ上がる。ツワブキが咲く一方、水仙が開花し温暖の地を示している。中学の修学旅行で、”剱投ぜし古戦場”と知り、また二度目のハイクと思うが何時かは思い出せない。岬展望台で海上に霞む大島を眺め、江ノ電稲村ヶ崎駅前で昼食。弟は蕎麦だが、私は麦酒を添えた。(2016/12/27 K.K. 1077/1100)

○日時 2016/12/18 ○天候 晴 ○交通費 1,780円 ○資料 新ハイキング社「東京近郊里山ハイキング・湘南深沢から稲村ヶ崎」平成16年5月 ○徒歩距離 15km 21,000歩
「通過時間等」自宅7:55-JR新橋駅8:51-湘南モノレール大船駅9:37-同深沢駅9:45=等覚寺9:50=御霊神社10:10=仏行寺10:30=三嶋神社10:40=笛田公園10:50=鎌倉山神社11:25=稲村ヶ崎12:05=江ノ電稲村ガ崎駅(昼食)12:15/12:59=小田急片瀬江の島駅13:21-都営新宿駅14:40-同神保町駅14:51-自宅15:30

小諸から千曲川沿いに歩き布引観音に詣でる

北軽井沢に会議で宿泊した。翌日は迷わず、しなの鉄道で小諸駅へ出て千曲川を眺めながら布引観音に寄り、家内の故郷東御市を予定した。このコースは数年前から温めていたコース。一度車で通ったことがあり、また五木ひろしの”千曲川”にも影響されたかもしれない。地図を開き、小諸から布引観音迄は普通に歩ける距離と見立てていた。

浅間山麓は雪模様 朝雪がちらつき、宿泊先のある裏側から見る浅間山は真っ白。峠を越す軽井沢側は晴れていることを期待した。マフラーや帽子、簡易カイロと寒さ対策は準備した。軽井沢駅で、東京へ帰る一行と別れ、1人しなの鉄道に乗車。浅間山の麓を走り、約30分で小諸駅に着く。車中で、しなの鉄道小諸駅滋野駅間は約6kmと分かったが、滋野駅から田中駅迄は不明。乗車時間から4km程度とみた。昨夜家内の実家Yさんへ連絡したら、田中駅で待つという。
布引観音へ石段を上がる 小諸駅から大手門を経て北国街道に入る。風はなく寒いほどではない。道路標識に布引観音へ4kmとあり、想定通り。市街を出て坂を下り、街道と分かれると目の前に田畑が広がった。奥の山裾が千曲川だろう。大久保橋を渡り川沿いに行く。渇水期に入ったかなと思ったが、流れは多い。集落内を通ると武田信繁の墓の案内を見る。何故当地にと思ったが寄る余裕はない。山が迫り川との峡路となる(写真上)。谷川瀬音は久しぶり。庇状のトンネルを抜けると布引観音下であった。待ち合わせ時間から通過もあるが、此処まで来て素通りは許されないだろうと石段を上がる。二度目で往復20分程度かなと進むが、岩崖の間の参道は急で石があり歩きにくい(写真下)。牛岩や善光寺抜け穴を見て上がり切り本堂に参拝。参拝客はチラホラ。往復に40分要し、田中駅へ向け急ぐ。社務所で駅への時間を聞いたが、歩いては分からないといわれた。
迎え車に感謝 右を流れる千曲川の流域は荒涼とし、晩秋から初冬の風景。到底千曲川を口ずさむ雰囲気ではない。藤村ではなく五木千曲川だが。小諸市から東御市に入り、大分歩いて布引温泉。滋野の義姉に連れられ入浴したと思う。秋の刈り上げのお相伴で、家内も一緒だった。布岩の下を通り、方向を右手に採り布下集落へ。携帯が振動しYさんからで、予定時間よりは遅れて布下内と応えると、車で迎えに来てくれるという。ラッキーとばかりに、布下集落内の現在地を伝えた。
千曲川境橋が見え始めた地点で、後から車が来て駐まった、私が近道と細い道路に入ったため擦れ違ったらしい。田中駅前のゆうふる田中へ案内されると、義妹、義姉も一緒だった。温泉で汗を流し会食。私は先日の法事の御礼を申し上げた。帰りには、ご馳走になった上、お土産まで戴き、上田駅から新幹線とした。(2016/12/27 K.K. 1076/1100)

○日時 2016/12/11 ○天候 曇り ○現地交通費 480円 ○資料 小諸市観光案内所「信州小諸マップ」 ○徒歩距離 15km 21,000歩
「通過時間等」宿泊先8:50-しなの鉄道軽井沢駅10:04-同小諸駅10:35=大久保橋11:00=布引観音下11:30=布引観音11:50=布下12:30=境橋手前12:50-ゆうふる田中13:00/15:10-JR上田駅15:56-同上野駅17:25-三田線巣鴨駅17:43-自宅18:10

都心千代田区に神社を巡り歩く

一週間以上空いてしまった。北陸、宮城・山形と遠出が2週続き土日は休みとしたからだが、疲れも取れ、近くに歩く先を探した。以前予定したが省略してしまった九段にある筑土神社を思い出した。それに手許の資料から、飯田橋駅に近い東京大神宮、そして筑土八幡宮を加えた。靖国神社はコース途中にある。歩き足りないなら、小石川後楽園もと欲張った。スタートは三田線神保町駅である。

千代田区筑土神社へ 神田神保町駅に降り九段へ向け靖国通りをスタート。直ぐ俎橋で、中学修学旅行の時、ガイドさんが橋名とその右奥が専修大学と案内してくれた。同大では友人が現在も私と同じ分野を講義しているし、今春から孫がお世話になり身近になった。右手に筑土神社がある筈と案内板で確かめ、ビルの谷間にそれらしい屋根を見付け、裏側の鉄製階段を上がるとびっくり。立派な社殿はあるがビルに組み込まれ境内はなく参道もビル内(写真上)。平将門を祀り武道の神様で、江戸城の鎮守であったという。軽く参拝し、参道を出た。
九段の靖国神社境内は広い。参道を進みながら、上京して間もない頃、母と母方の祖父を案内したことがあった。最近、島倉千代子の”東京だよお母さん”を聴く度に思い出す。はとバスだったろうか。正面に建つ大村益次郎像は記憶にあった。参道両側の銀杏並木の黄葉が美しい。正殿前で黙礼し、飯田橋へ。
東京大神宮を探す 道端の案内図に次の東京大神宮を見付け、住宅街の隘路を左右に行く。千代田区内は案内図がしっかりしているようだ。角川ビルを目印にし右折すると正面に大神宮はあった。伊勢神宮の東京遙拝殿で、東京のお伊勢様と呼ばれるという。日比谷にあったが関東大震災で当地に移転したとある。平日なのに参拝者が多く、列の後に並ぶ。縁結びの神様のようで、若い女性が多い。私は、孫達の成長とぽんずの成仏をお願いした。
神楽坂から築土八幡 飯田橋駅へ方向を採ると、牛込見附跡の大石垣に出会う。見附跡は江戸城の四方に遺るが当見附は初めて。カメラに収め、濠を渡って新宿区へ入り外濠通りから神楽坂へ。料亭街で現在もチラホラ残り、坂は軽子坂。奥が築土八幡の筈と、大久保通りを渡り御殿坂を上がると右手に社殿が見え、目指す筑土八幡宮であった。江戸名所図絵登載の古社だが、小さな神社。誰もいない境内に1人詣で、正面石段を降りた(写真下)。飯田橋駅が近いが、三田線春日駅へ出ようと水道橋方向へ歩き始める。前方に後楽園遊園地の高い遊技施設が見え始めたが、意外に距離がある。右手にある小石川後楽園には寄らずそのまま駅へ直行。一本通りが違い、やや疲れが出始めた頃春日駅入口に着いた。(2016/12/24 K.K. 1075/1100)

○日時 2016/12/8 ○天候 晴 ○交通費 シルバーパス ○資料 山川出版社「東京都の歴史散歩・中」1999年16頁 ○徒歩距離 8km 12,000歩
「通過時間等」自宅9:45-三田線神保町駅10:25=築土神社10:40=靖国神社11:00=東京大神宮11:20=牛込見付け跡11:35=筑土八幡宮11:50=三田線春日駅12:20-自宅12:50
故郷の読者歌人Sさんの専門誌掲載の短歌です。「女に似合ふ手仕事をもてと諭しくれし棟梁の父を誇らしく語る」同じく読者美容師のAさんを詠んだものです。

宮城北部に有壁宿、伊豆沼を訪ねる

故郷東根へ帰る用事が出来た。折良く、JR東日本大人の休日パス利用期間と重なった。時間はあり、前後に何処へ回ろうかと色々候補先を物色したが、以前から気になっていたJR東北線沿線にある宮城北部の有壁宿、そして白鳥到来の伊豆沼とした。仙台へ出て、同級生Aさんと夕食を期待しメールしたが、不都合と前日返信があった。  
奥州街道有壁宿本陣へ 東北新幹線を一関駅に降り、東北線上りを待ち、隣宮城の有壁宿情報を得ようとしたが、県が違い駅案内所にはなかった。有壁駅は無人駅で、案内図もない。駅前商店で本陣への経路を聞き、橋を渡り川沿いを行く。川面には氷が見え、当地は寒さが厳しい。直ぐ元本陣で、古いが立派な旅籠風木造建物が、道路に沿って建ち往時の儘(1744(延享元)年改築)遺っていた(写真上)。前は奥州街道。参勤交代で松前や八戸、盛岡藩主達が宿泊し、明治期には明治天皇が休息されたとある。御成門はその後開かずの門という。保存に感謝しながら、カメラに収めた。裏へ回ると大きなお屋敷で、現在もお住まいのよう。本陣以外は宿跡を示すものはなく、山裾の農村地帯。川向かいに酒屋があり荻野酒造で、今時赤煉瓦煙突が珍しい。清酒小瓶を求め、駅へ戻り列車を待った。
 白鳥達が遊ぶ伊豆沼 伊豆沼最寄り駅は新田駅。手前から右手に沼が見え始めた。当沼は渡り鳥白鳥の越冬の湖沼で、私が知る程有名。大分前に湿地保全のラムサール条約に登録されている。小さな田舎駅を出て、踏切を渡ると目の前が伊豆沼。先ずは展示館で情報を収集しようと入館する。写真が主で、2階から沼を眺めると、意外に大きな沼。鳥達も見えるが遠い。パンフの類はなく、沼へ。手前の土手下に小さな鳥達が集まり、餌を強請っている様子。本日は土曜日で、それなりの見物客がいる。鳥達は馴れていて土手まで這い上がって来た。鴨や雁のようだ。
奥へ進み、大沼の土手へ。いたいた白鳥達が。広い湖面の中央、左手、そして右手と三箇所に分かれ、浮いている。シベリア方面でもそれぞれ生存地が違い、仲間ではないのだろうか。私のデジカメでは届かない。1人、右へ土手道を進み、白鳥達へ知られないように近付く。幸いに未だ距離があり、湖面で遊び、飛翔し、独特の鳴き声を上げている(写真下)。シャッターを2,3度切り、携帯も取り出した。時計を見て新田駅へ。また一関駅へ戻ることにした。
晩秋のみちのく路の思い出 車窓から当地・現栗原市の田園風景を眺め、遠い小学5,6年の頃を思い出した。当時、毎年10月末から一週間掛け都道府県対抗の青森東京間駅伝があり、毎朝新聞で山形県チームの成績を楽しみにしていた。その4日目がみちのく路一関仙台間で、国道4号沿いに広がる晩秋の穀倉地帯を走る写真が掲載された。目の前の風景がそのよう。山形県の成績は芳しくなかった。青東駅伝が廃止されて久しい。遠戚の方が走ったようで、母の法事の時従兄弟に聞いたことがある。明日、母の7回忌だが、我々だけと兄から連絡があった。仙台、山形を経由しさくらんぼ東根駅に降りると兄が迎えに出てくれていた。(2016/12/19 K.K. 1074/1100)

○日時 2016/11/26 ○天候 晴 ○交通費 15,000円 ○徒歩距離 9km 13,000歩
「通過時間等」自宅7:50-JR上野駅8:54-同一関駅11:54-同有壁駅12:00=有壁宿12:10=JR有壁駅12:50-同新田駅13:11=伊豆沼13:20=JR新田駅14:05-同一関駅14:48-同仙台駅16:00-同山形駅17:54-さくらんぼ東根駅18:25-実家18:40

散っていた光が丘公園銀杏並木

新聞から光が丘公園銀杏の黄葉が見頃と知った(16.11.14朝日夕刊)。甲州街道高尾や神宮外苑並木通りで黄金色に染まった銀杏並木を見て、是非訪ねたいと思ったが、直ぐ北陸行きがあり遅くなった。自宅周辺の銀杏は未だ黄葉の儘で、間に合うだろうと出掛けた。新ハイキング誌から練馬中央部散策コースを探し、最後に光が丘公園へとした。

コースポイントを外す 前半は、西武池袋線富士見台駅スタートの練馬市街地歩き。これまで市街地歩きでは道を間違えることが多く、特に都内散策では苦労している。そんな予感がした。今回は、光が丘公園の銀杏並木が目当てで、その前の練馬区内歩きはコース通りでなくとも構わないだろうと駅前を出発。
早速その通りとなった。最初のポイントは目白通りを渡った地の北真教会だが、消防署の近くとあり探したが見付からないまま石神井川へ出てしまった。川沿いに戻り、橋を渡ると横丁の奥に神社が見えた。次のポイント八幡神社であった。軽く参拝し、環状8号線高架下から富士大山道を目指すが、何となく道一本手前と感じ、迂回したら谷原延命地蔵があった。コースポイントで、どうにかコースを取り戻し、富士大山道を進む。
豪邸の薬医門へ 大きな交差点へ出て、谷原の陸橋を渡る。ポイントの増島家薬医門へ到達すべく30分程ウロウロしたあげく尋ねたら、全然方向が違っていた。私は、笹目通りを渡ったと思っていたが、目白通りで位置も、方向も間違っていた。目印の一つとした塔も見違えていた。手許マップの地名と、現地名をチェックしどうにか薬医門前へ出た(写真上)。当地は練馬区内だが農家集落の雰囲気が残る地域。屋敷前には撓に稔った柿畑がある。増島家は当地の豪農だったのだろう。同姓の豪邸屋敷が三軒も並んでいた。
 終わっていた銀杏の黄葉 ここからはコース通りに歩き、光が丘団地前から公園へと急ぐ。以前周囲を通ったことはあるが入園は初めて。米軍のグランドハイツがあった地で、未整備の頃に来たかもしれない。団地から意外に距離があった。園内は広く、モミジ紅葉の下人出があり、家族連れは子供と遊び、昼食を楽しんでいるよう。管理棟で園パンフを貰い、銀杏並木を教えて貰うと、もう遅いと言われた。直ぐ見付かったが葉を落としている中(写真下)、僅かに残す樹を選んでは見上げ、シャッターを切った。来訪が遅れたから仕方ない。成増駅へ出ようと北口へ行くと、猫と遊ぶ男性を見掛けた。野良猫だろうか。ぽんずを思い出してしまった。バスを乗り継ぎ約1時間遅れで、高島平へ帰った。私は、都内の市街地歩きは不得意で、また予想が当たってしまった。 (2016/12/15 K.K. 1073/1100)

○日時 2016/11/23 ○天候 曇り ○交通費 360円 ○資料 植村三郎「練馬区中央部を散策」新ハイキング614号124頁 ○徒歩距離 16km 22,000歩
「通過時間等」自宅9:55-JR巣鴨駅10:30-西武池袋駅10:44-同富士見台駅11:10=八幡神社11:30=谷原延命地蔵11:55=増島家薬医門12:55=光が丘公園13:20=同北口13:50=東武成増駅バス停14:10-自宅14:85

辿り着けなかった能登金剛海岸

北陸旅行2日目、またフリーコースを選び能登金剛行きを予定し色々調べたが、アクセス情報が不確かで自信が持てない。地図もない。取り敢えず、幹事設定コースに入れて貰い、バスで山代温泉から東尋坊へ行き、三国港に寄り加賀温泉駅から和倉温泉へと特急に乗車した。その夜宴会時、顔なじみの添乗員に話したら、JR七尾線羽咋駅前からバスで牛下バス停下車と、時間まで教えてくれた。流石旅行会社である。

荒れた能登海岸をウロウロ 3日目、幹事に独自行動と断りを入れ、羽咋駅前から乗ったバスを牛下(羽咋郡志賀町)に降りた。運転手は後と指さしてくれた。先程駅で案内板を見て、牛下は能登金剛の真ん中と思い、直ぐ後ろの下が目指す海岸と急な荒れた小径を下り海岸へと出た。遊歩道はなく、海岸も石、岩そして漂流ゴミの類。前方に小さな岩峰の島があり(写真上)、そちらへ行けば開けるのだろうと甘く考え前進。踏み跡も消え、野蔓に引っ掛かりよろめく始末。違うなと思い始めたが、戻るに戻れない。遂に断崖下となり前にも進めず、上の舗道にも出られない地点となった。仕方なく戻って大回りし、舗道バス通りへ上がった。
能登金剛は先の筈と舗道の端を北へ行くも、金剛の海岸らしき風景はない。既に帰りのバス時間には20分を切った。諦めUターンすると頭上の交通標識が目に入り、厳門は右先とある。金剛海岸の名所の一つであるが、もう遅かった。運転手が指していたのはもっと後だったのだ。北先にある松本清張作”ゼロの焦点”の舞台ヤセの断崖が頭にあり、混乱と思い込みで、無駄な歩きをし時間を費やしてしまい、能登金剛の一部にも触れることも出来なかった。能登半島なら金剛へと勧めてくれた旧同僚に、何やってんのと笑われそうだ。残念、事前に現地の地図を入手出来なかったのが致命傷であった。
東尋坊を眺める 前日のコースの最初は東尋坊であった。同地は二度目だが記憶は薄い。朝からの小雨も止み、売店通りから岬へ出て、高い岩が切り立ち狭い入江を形成する断崖を眺める。海は穏やか。確かに眺めは良いが、スケール感がないなとそんなことを想いながら、シャッターを切り、歩いては断崖を眺め、小さな入江を見下ろす。前回は海岸縁の岩場まで下りられたと思うが。観光船も浮かび、通路も整備されているようで、あれから20数年も経っている。崖上の遊歩道を左手へ進むと、松林も、黒松。そして、樹下一面に咲く花は、ツワブキの黄花。いずれも私の好みのもので、カメラに収め、一枚は、海を入れたアングルとした(写真下)。売店で買い物をし、バスで三国港に寄り、北陸本線加賀温泉駅から特急に乗車。港で渡されたカニ弁を食べながら和倉温泉へと向かった。(2016/12/12 K.K. 1072/1100)

○日時 2016/11/20 ○天候 曇り ○現地交通費 3,340円 ○資料 「石川県まるごと観光マップ」 ○徒歩距離 9km 13,000歩
「通過時間等」宿泊先7:40-JR和倉駅8:01-同羽咋駅9:20-牛下バス停10:15=牛下海岸10:25/11:00=牛下バス停11:36-JR羽咋駅12:55-同金沢駅14:20-同上野駅17:20-三田線巣鴨駅宿17:35-自宅18:05

北陸越前に大野城跡を訪ねる

以前から越前大野城跡は注目していた。最近霧に浮かぶ天空の城として紹介されているが、私には城跡見学が先である。しかし、北陸福井の山中大野は遠く、中々機会が来ないと思っていたら、事務所旅行が今年は北陸で、小松空港行き航空便で北陸へ入るという。これはチャンスと初日は自由行動を希望し、アクセスを調べ準備した。

バスで越前大野へ 小松空港からJR福井駅行きバスに乗車。 同駅からJR越美北線の予定であるが、発車まで約1時間あり、立ち寄った駅前案内所で5分後にバスがあると教えて貰う。見学時間が増えると急遽バスに変更。当地は二度目で、数年前、大野市手前の一乗谷朝倉館を訪ねた時も往きは福井駅からバスであった(11.5.21)。郊外から山中を進みバスが山を抜けると、目の前に盆地が広がった。遠野市や高山市、栃木烏山でも似たような風景に出会ったことを思い出した。大野市中心でバスを降り、城跡のある亀山を確かめる。通りには商店街が形成され当地方の中心なのだろう。亀山麓の柳廼社(やなぎのやしろ、後に藩主土井利忠を祀ったと知る)境内から山上の城(写真上)を目指す。
大野城、大野藩史 大野城は、戦国期の1580(天正8)年、信長より当地を拝領した金森長近が築城した平山城。明治になって取り壊されたが、1968年鉄筋コンクリートで再建された模擬天守という。見所は石垣で、築城当時の儘で野面積みとある。紅葉が混じる林の中坂を上がると石垣が現れ出した。天守閣下に着き、やはり石垣は不揃いで野面積み(写真中)。見上げてカメラに収めた。この石垣は金森時代のもののようで、崩れず500年も持つとは凄い。二層三階の天守内は史料館だが、先ずは360度展望の最上階で、山に囲まれた大野市内を眺める。展示資料を観て驚いた。江戸期初期より、大老の土井利勝の子孫が4万石で藩主を承継し、後期の土井利忠時代には、藩校洋学館を設置し蘭学から西洋医学を講じて諸藩より勉学に多くの者が来藩し、物資販売に江戸や大坂等に出店大野屋を設け、また幕末には大野丸という舟を建造し蝦夷との交易や樺太開拓にも乗り出したとある。先程坂の途中に帆船の石碑(写真下)がそれだった。江戸時代の越前も山奥の小藩のことである。これらの藩史を初めて知り、藩主の識見の高さにビックリし、感心である。
越美北線で宿泊先へ 小さな天守閣を出て、また石垣を眺めながら天守台を一回りし、防火用水お福池から坂を下ると藩主土井利忠の銅像が建っていた。大野丸石碑前を過ぎて百軒坂を降り、藩庁跡・現グランドへ出た。バスのお陰で、当地見学時間に余裕が出来、近くにある日本100名水御清水に寄り、横道へ入り歩くと、江戸から続くような商店造りの店が並んでいた。
越美北線大野駅から福井駅経由で、今夜の宿泊先山代温泉へ向かった。     (2016/12/05 K.K. 1071/1100)

○日時 2016/11/18 ○天候 晴 ○現地交通費 4,310円 ○資料 東京堂出版「城郭みどころ事典・東国編 越前大野城」2003年220頁 ○徒歩距離 9km 13,000歩
「通過時間等」自宅7:10-羽田空港9:26-小松空港10:55-福井駅前12:05-大野市六間通り13:05=柳廼社13:15=天守閣13:30=百間坂14:05=御清水14:20=JR大野駅15:18-同福井駅16:12-同加賀温泉駅17:00-宿泊先17:20

大野山に登り大富士を眺める

大野山に登った。丹沢山系端の南西にある低山(723m)だが富士展望の山として知られる。厚木在の読者Kさんからも、良かったと聞いた。手許のガイドの多くに掲載され、初心者向けの山とある。以前からノミネートし、弟と数回予定したが、雨や用事で延び延びになっていた。ようやく実行に至った。

変化に富んだ山道を上がる 大野山は小田急線新松田駅からバス。予想に反しバスはガラガラ。途中、山北駅から歩いているハイカーが見えた。登山口に降りスタート。標識に従い集落鍛冶屋敷へ入り、直ぐ急な坂である。旧共和小学校前へ上がると、正面に樹林越しに富士が見え、2人は早速カメラを出した。グランドには大勢の人出がありゲートボール大会のようだ。市間分岐を左へ行き大野山への山道となる。急坂、ヤセた尾根道、小さな岩場とあり中々の登山道。初心者向けとあったから気軽に考えていたが、そうでもない。肩幅程度の長いトラバース状の道となる。途中休憩を取り、水を補給した。林の間から左手先に頂上付近が覗け、そう遠くないことを知る。
山頂から大富士を 深い林を抜けると、一面カヤトの原野で、山頂一帯は高原牧場という。登山道はその端を一直線に上がる木段。休みを入れながら一歩一歩とこなす。弟も苦戦のようで、間が空いてしまった。上り切り肩へ出ると、目の前に丹沢の山々が広がった(写真上)。右端は山容から大山、そして塔の岳、丹沢山だろう。晴天下、秋色を帯びた山々は美しく、暫し展望を楽しむ。弟も追い付いて、牧場用舗道を山頂へ。犬くびり地点には駐車場もあり、車を降りた男女がスタスタと先行する後を、疲れた脚で最後の急坂を上がった。直ぐ先に大きな富士山があり、山頂広場では多くのハイカーが眺めている。箱根の山から見る富士と同じである。我々もザックを置いて、雲の切れるのを待ちながら、富士にカメラを向けた(写真下)。弟は場所やアングルを選びながら、シャッターを切っている。
遠い谷峨駅 昼食後、御殿場線谷峨駅へ向け下山開始。70分とあり、近い。ススキ原の南斜面をジグザグを繰り返しながら高度を下げる。鹿除けフェンスから舗道へ出て、林の中を下り続けて頼朝桜。現木は数代経ていることは疑いない。集落を抜けると左右へ振れる下りの大曲が連続する車道。東名高速の下で、時計を見ると70分は過ぎたが、駅手前の酒匂川も見えない。我々の歩きは早くないことは確かだが、そう遅いとも思っていない。川面が見え出し、傍の紅葉が深紅で綺麗だ。橋を渡り田圃から国道246号へ上がるとようやく谷峨駅で、100分近く経過していた。大野山は私には久しぶりの山歩きらしいハイキング先であった。(2016/12/02 K.K. 1070/1100)

○日時 2016/11/13 ○天候 晴 ○交通費 2,330円 ○資料 山と渓谷社「首都圏ハイキング 大野山」1999秋冬号74頁 ○徒歩距離 17km 23,000歩
「通過時間等」自宅7:25-JR巣鴨駅7:57-小田急新宿駅8:10-同新松田駅前9:50-大野山登山口10:20=旧共和小学校10:40=山道入口10:50=休憩11:15=大野山肩12:00=大野山山頂(昼食)12:15/12:50=フェンス口13:25=頼朝桜13:50=JR谷峨駅14:38-小田急新松田駅15:01-都営新宿線新宿駅16:29-三田線神保町駅16:40-自宅17:20

大宮西部に清河寺から三貫清水を歩く

購読誌「新ハイキング」誌に、”三貫清水緑地-花の丘農林公苑”を見付けた。隣の埼玉大宮西部で近く、しかも駅から歩けるコースである。花の丘はサルビア鑑賞に訪ねたことがある(08.10.7)が、三貫清水に惹かれた。太田道灌が狩りに訪れた時、当清水から汲んだ水で茶を点てて出した処、とても美味いと三貫文の褒美をくれたことに由来するらしい。この話しがまた興味を注いだ。

見付からない清河寺 スタート地JR川越線西大宮駅は、我が家から約1時間で、予定通り。同駅は初めての乗降で存在も知らなかった。寒さ対策を準備したが、本日は寒さは感じない。最初のコースポイント大塚古墳は駅から直ぐの右手に見付かる。小山をカメラに収め、次の清河寺(セイガンジ)を目指し新興住宅街を進む。六差路を越し左手が寺の筈だか中々現れない。清河寺団地に至り、この中かと踏み込んだが寺らしき建物は見当たらない。通り越した林の裏かと戻って回ると、見付かった。
足利尊氏が、病気を治してくれた亡兄の為に建立した古刹という。現在では、清楚でシンプルな本堂(写真上)、軽く頭を下げ境内を出ると清掃中の住職がおられて、御用はと問われ、散策中と答えた。序でに県指定の大欅を教えて貰った。隣の林の端に樹齢650年の大木は聳えていた。見上げてシャッターを切り、花の丘農林公苑へ向かう。
国道17号を渡り、いつもの山勘と当てずっぽうで農道、畦道を通り正規のゲートではない横の柵の間からから公苑へ辿り着いた。秋桜を期待したがなく、他に咲く花も少ない。昼食予定の苑内レストランは改築のため閉鎖中。管理棟でパンを求め昼食をする。当苑は二度目だが、苑自体も見覚えがなく、各施設の位置も不明。
三貫清水を探し当てる いよいよ三貫清水へ。隣の戸崎の浅間塚を見て、ようやく再訪を実感した。当塚は、大宮を越え上尾市にあり、前回記録を見た上尾に住む従姉妹に寄ってくれといわれたことを思い出した。行き過ぎを戻り、また行き止まりに出会い、ようやく目印の聖学院大学の位置が分かった。大学の先で鴨川を渡り、田圃越しの林の中に清水はあった。その前を通る道が往時の鎌倉街道らしい。
現在では、清水ではなくやや綺麗な古池(写真下)。開発は免れたが、近くまで住宅が迫り止むを得ない。三貫文は現在50万円相当という。今夏、磐梯高原で百貫清水に出会ったが、大分価値が違うが時代の差か。池をカメラに収め、ゴールのJR宮原駅へ。途中、前回花の丘農林公苑を訪ねた時見た豪農大邸宅前をまた通った。庭に聳える欅は、先程眺めた清河寺の欅より太いように見えた。(2016/11/30 K.K. 1069/1100)

○日時 2016/11/10 ○天候 曇り ○交通費 930円 ○資料 宇山清太郎「三貫清水緑地-花の丘農林公苑」新ハイキング725号120頁 ○徒歩距離 15km 20,000歩
「通過時間等」自宅9:55-JR板橋10:23-同西大宮駅11:10=大塚古墳11:05=清河寺12:05=同大欅12:10=花の苑農林公苑12:30/12:55=戸塚浅間塚13:00=三貫清水13:30=JR宮原駅14:08-同赤羽駅14:32-三田線新板橋駅14:58-自宅15:25

車で栃木山奥に尚仁沢湧水を探す

我が記録の読者Sさんから、交通アクセスの悪いハイキング先は車を出しても良いとの話しを戴いた。有り難い話しで、確かに1000回を超えた現在では、首都圏では交通の便が悪い山や谷、城跡等が残り、手を拱いている。そんな先は十指に余り、その一つに栃木塩谷山奥の尚仁沢湧水がある。日本100名水に選ばれ、テレビで観てチェックしたら東北線矢板駅からバスのようだが、ネットでは見付からない。Sさんにお願いした。

高速道路から塩谷尚仁沢へ 浦和付近から高速に入り、東北自動車道を順調に走った。日曜日朝の下りは車は多くはない。一時事故渋滞でスピードが落ちたが、直ぐ回復し、矢板インターを降り、車は山中を進む。私は地図をコピーして来たが、カーナビは正確で、着実に目的地へ誘導するとSさん。その通りで、栃木塩谷の山奥の道を右へ左へとぐんぐん行く。放射性廃棄物処理場反対の看板が見え出し、目指す湧水の地が近いと知る。車が止まり、湧水入口の駐車場であった。出発してジャスト2時間。電車であれば、未だ宇都宮手前辺りであろう。
立て看案内図で湧水地を確かめ、ザックを背負いスタート。30分先とあり、意外に距離がないと知る。ネットでは不明であった。山中の谷川尚仁沢の周囲は紅葉が始まっている。熊注意の標識にザックに付けた鈴を鳴らしたが音は小さい。歩きやすい道も堰堤先で終わり、険しい崖上り。越して吊り橋を渡り尚仁沢の右岸を行く(写真上)。広い谷川で水量も多く、湧水とは結び付かない。道はなく目印のリボンに沿って踏み跡を辿る。Sさんは多分ハイキングには縁がないと思うが、私の後に付いている。また小さな岩場を上下すると湧水の入口で、板橋で歩道が作られていた。
噴出する大量の湧水に驚く 山腹から数列の清水が勢いよく噴出している。私は、清里の吐竜の滝を思い出した。湧水の源泉は別にあった。先でザックを下ろし、小沢に近づいてびっくり。目の前を沢水は流れているが沢は途切れ上方には続いていない。底から渾々と湧き、水を大量に噴出している(写真左)。それが小沢となって流れているのだ。ここが源泉と分かり、慌ててSさんを呼んだ。彼も湧き出す水量には驚いた様子。カメラに収めたが、上手く捉えられたか。資料には日量6,500トンとあるが見当が付かない。水温は年間通して11度前後という。私は、ペットボトル2本に湧水を汲んだ。当湧水は一支流で、尚仁沢の源流はなお奥の釈迦ケ岳である。源泉地から、また右手に吐竜群を眺めて、Uターン。約30分で、駐車場に戻り、ザックからペットボトルを出し、車のトランクへ。思った程重くはなく運べた。
Sさんに感謝 先の東荒川ダムサイトにある尚仁沢はーとらんどへ。道の駅風の施設で、2人で昼食を取り、買い物をした。山奥なのに客は多い。皆車なのだろう。
我々は、また高速を走り、同じく2時間で高島平に着いた。Sさん有り難うございました。本当にお世話様でした。お陰様で、山奥の有名湧水を訪ね探して、昨夜も名水でウィスキーを楽しむことが出来ました。(2016/11/24 K.K. 1068/1100)

○日時 2016/11/6 ○天候 曇り ○資料 塩谷町観光協会「塩谷町 尚仁沢湧水」2015.07版 ○徒歩距離 5km 7,000歩
「通過時間等」高島平待合場所7:55-尚仁沢駐車場9:55=吊り橋10:10=湧水地10:25/10:40=吊り橋11:00=尚仁沢駐車場11:15-尚仁沢はーとらんど(昼食)11:25/11:45-高島平13:45

山中城跡を再訪し広い城跡を巡る

私のハイキング候補リストに山中城跡がある。同城跡は一度訪ねて(93.2.27)、現在でも少しは記憶にある。何故リストアップしたかは不明だが、記録に残していないことは確か。特に最近は、箱根へ泊まった時は是非脚を伸ばそうと思っていた。お城好き落語家春風亭昇太が書いた山中城レポート(JR東日本「大人の休日倶楽部」掲載)を見て拍車が掛かった。そのチャンスが来た。

箱根から山中城跡へ 宿泊先からバスを二度乗り継いで三島行きに乗り、国道1号にある山中城バス停に降りた。雨は落ちていないが風がある。前回のように箱根峠から旧東海道を歩くことも考えたが、雨の予報にバスにした。反対側に城跡標柱を見付け荒れ野の道へ。一度道が途切れ畦を通らせて貰い、城跡へと入った。西櫓跡付近のようで、時計回りに進む。左手には富士ある筈だが本日はお姿はない。右下は本城特有の畝壕跡が美しい(写真上)。畝がくっきりと見え、最近整備されたようだ。敵を壕中で討ち取る防御施設で、畝壕や障子壕は北條独自の形態といわれる。今年私が訪ねた松戸小金城や山北河村城も採用し、北條系を示していた。石垣はなく土塁と壕のみである。カメラに収め前進。一度階段を上がると広い西の丸跡だが低い土塁に囲まれているに過ぎない。見学者もチラホラ。戻って林の中を行き北の丸跡。木橋を渡って天守台跡、そして本丸跡。その右手に木橋が架かり二の丸跡。また畝壕で仕切られている。本丸傍には矢立の杉が聳えるが近付けない。先程来風はなく寒さは緩んでいる。
本城の歴史 山中城は、戦国末期1560(永禄3)年小田原北條氏が西の最前線防衛拠点として箱根の先に築城した。その後秀吉の小田原征伐が現実となり、氏政は本城を整備強化し、岱崎出丸を増設していたが未完成の儘、1590(天正18)年秀吉軍を迎えてしまった。秀次を総大将とする4万の大軍に4千で抗したが、僅か半日で落ちてしまったという。緒戦を失い、北條氏滅亡への第一歩となったことは有名だ。激戦で、城将松田康長、副城将間宮康俊、そして秀吉方武将一柳直末が命を落とした。
岱崎出丸見学 本丸下の駒形諏訪神社に詣でた後、城跡内を貫通する国道へ出て、宗閑寺に寄る。浄土宗の本寺は戦死者を弔うため建立され、左手に敵味方双方の古いお墓が並んでいた。国道を渡って、岱崎出丸へ。前回は見逃したと思う。西方へ細長い出丸の先はすり鉢曲輪跡で(写真左)、戦闘は当曲輪から始まったとある。現在では芝生で覆われた窪地には、そのような痕跡は一切見当たらない。馬場曲輪跡を通って戻り、途中三島へ下る旧東海道を覗いて、バス停で箱根元町行きバス時刻を確かめた。 (2016/11/22 K.K. 1067/1100)

○日時 2016/10/30 ○天候 曇り ○交通費 4,560円 ○資料 小学館「城郭と城下町3 東海」173頁、昭和62年9月 ○徒歩距離 9km 12,000歩
「通過時間等」箱根宿泊先8:30-仙石原8:36-宮の下8:55-箱根町9:28-山中城跡バス停9:45=西櫓跡9:55=北の丸跡10:10=宗閑寺10:25=岱崎出丸すり鉢曲輪跡10:50=山中城跡バス停11:20-元箱根港バス停11:50-小田急湯本駅12:26-都営新宿線新宿駅14:29-三田線神保町駅14:45-自宅15:20