箱根諏訪神社、公時神社を巡り、JR御殿場線で帰途へ

 箱根仙石原泊の翌日、行く先は決めていない。箱根元町へ出て箱根神社が頭にあったが、バスの乗り換えがあり、昨日の混雑の経験からこのコースは避けたい。仙石原近くの神社や史跡を訪ね、御殿場駅へ出るコースが浮かんだ。バスで一本だろう。

 諏訪神社に参拝 宿泊先を出て、仙石原を西東に貫く通りへ出た。箱根裏街道で、御殿場から宮ノ下へ通じる国道という。バス停で路線を確かめ、通りを渡り、奥の神社を訪ねると諏訪神社が鎮座していた。江戸期前創建の古社のよう。当地は金時山(1213m)の南面山裾で、少し高い石段を上がって参拝。孫たちの成長を祈願。石段を避け、池のある裏参道を下る。当社の例大祭の湯立獅子舞 (湯立神楽) が有名で、国指定の重要無形民俗文化財とある。立派な石碑が建ち、境内にもそれらしい施設がある。

 金太郎を祀る公時神社 箱根裏街道へ戻って、乙女峠方向の公時神社へ歩く。右手に金時山の登山口があった。金時山は二度登り、最初は足柄峠へ下り(95.4.2)、二度目(10.5.15)はここへ下りたと思うが、記憶は薄い。街道は車が往来し側道を行く。公時神社迄は距離があった。同神社は初めてではないと思っていたが、入口も、参道も見覚えがなく、記憶違い。神社へ沢を渡り、途中の茶屋を越して鍵型に進み、金時山裾に建つ本殿に参拝。当社は、その名の通り、金太郎のモデルになった平安時代後期の武士、源頼光に仕えた四天王の1人坂田公時が祭神という。“熊に跨りお馬の稽古”伝説(下図は神社サイトより)の足柄山はこの近くだ。金太郎のことは、子供の頃祖父に昔話として、渡辺綱とともに大江山の酒呑童子退治の話を聞いたことを思い出した。先ほど同様無人の境内に、隣の登山道からカップルが寄り、安全登山の祈願だろう。参道出口にはゴルフ練習場があった。

 御殿場駅へ 街道のバス停でバスを待つ。少し遅れて来たバスは、御殿場アウトレット行きで、御殿場駅行きに接続するという。仙石ゴルフ場前を過ぎ、乙女峠を越したが、本日富士は雲の陰。アウトレットで乗り換え、10時台の国府津行きに間に合った。富士を眺めながら、酒匂川渓流沿いに走る御殿場線は好きで、そのうちゆっくりと乗り鉄を楽しみたい。小田急新松田発11時15分の電車に乗れた。(2024/12/22K.K.1583)

◇日時 2024/11/18 ◇天候 曇り ◇交通費 1,940円 ◇歩行距離等 9,000歩 7㎞ 
「通過時間等」 宿泊先8:00=諏訪神社8:20=公時神社8:50-公時神社前バス停9:30-JR御殿場線御殿場駅10:27-小田急新松田駅11:15-都営新宿線新宿駅13:24-三田線神保町駅13:40-自宅14:20

ロープウェイで箱根大涌谷を越し芦ノ湖へ

 箱根仙石に宿泊先が確保できた。一年振りで、アクセスルートを思案し、箱根ロープウェイ未乗車の早雲山から大涌谷へ上がり、芦ノ湖側へ下ることにした。山歩きには足りないが、秋景色を楽しみ、雰囲気には浸れよう。調べたら、箱根湯本駅からバスで、ロープウェイ早雲山駅へのルートがあった。現在の私には手ごろなコースとなろう。

 箱根湯本から早雲山へ 小田急新宿駅から小田原駅へ出て、箱根登山鉄道で湯本駅に降り、バスを待った。駅は混んでいるが早雲山駅行きバスの乗客は少ない。本日は天気も良く、風もない。湯本から大平台、宮ノ下、小涌谷へと走り、小涌園前で右折し東海道を離れると山中となり、往来する車も少なくなった。しかし、山坂途中の早雲山駅バス停付近で渋滞し、降車迄に時間が掛かり、これからの前兆であった。早雲山駅も混み合っている。

 ゴンドラ乗車 標高757mの早雲山駅から大涌谷行き上りのゴンドラは、乗車までに列をなし時間が掛かった。眼下は箱根の山々だが秋色は薄く、未だ色付き始め。今夏の暑さの影響だろう。標高1044mの大涌谷駅に着いてまたびっくり。駅舎を出るのに時間を要した。目前に広がる大涌谷は、冠ケ岳(1,409m)下の火口で相変わらず噴煙を上げている。先ほどゴンドラからも見えた。少し前噴火の兆しがあり立ち入り禁止の時期もあったが、現在は落ち着いているのは、その風景からも窺える。カメラに収めて、桃源台行きへと駅へ戻ってまたびっくり。

 富士を眺める 長い、長い列をつくり、それがなかなか進まない。大半がインバウンド客のようだ。中には、半そで半ズボンの外国人も見える。窓から富士山が見え、しばしの慰めか。富士はどこで眺めても秀麗だ。もう白富士だ。今年は初冠雪が遅れていると報道があった。30分程並んで下りのゴンドラに乗車。芦ノ湖側だが、こちらの紅葉も始まったばかりのよう。姥子駅に停車し、さらに下り続けた。芦ノ湖畔の桃源台駅(標高741m)に着き乗客が少なくなり、停車中のバスに乗って仙石へ向かう。思ったより長く山中を走り、仙石原へ出るとススキの原が広がっている。台ヶ岳バス停に降り、宿泊先には想定内の時間に着いた。(2024/12/17 K.K. 1582)

◇日時 2024/11/17 ◇天候 晴 ◇交通費 3,750円 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞ ◇資料 小田急「小田急箱根交通ガイド」24.10                                                   「通過時間等」 自宅8:55-神保町駅9:40-小田急新宿駅10:20-箱根登山鉄道小田原駅11:40-同箱根湯本駅12:40-箱根ロープウェイ早雲山駅13:15-同大涌谷駅14:20-同桃源台駅15:30-台ヶ岳バス停15:50=宿泊先16:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「念願の草紅葉を求めて尾瀬ヶ原を歩く」

 テレビの旅番組で草紅葉を知ってから、秋の尾瀬ヶ原で観てみたいと思い始めていた。尾瀬は遠く交通の便がよくない。ネットで調べると深夜発早朝着のバスが多い中、朝7時台新宿発で昼前尾瀬戸倉着の関越交通バス尾瀬号を見付けた。無理すれば日帰りも可能だろうが、一泊し翌日は至物山登山と欲張った計画をし、同行予定のハイク友Kさんの同意を得た。

 7時50分新宿を出た尾瀬号は関越高速を走り、群馬沼田からは路線バスの如く山奥の集落を回り、客を降ろして、尾瀬戸倉に着いた時は予定時刻を過ぎていた。さらに乗り換えて鳩待峠着は一時間遅れの13時少し前であった。雨が降り出した上に、土曜日の峠はハイカー達で込んでいる。

 尾瀬は紅葉シーズン 宿泊先ロッジのある山鼻迄は約1時間コースで、尾瀬ヶ原へ向けスタート。二人とも雨具を着けた。水芭蕉の時期に往復したことがあり(07.6.1)、一応道は知っているつもり。帰りのグループ等と交差しながら、木道を行く。雨で滑り易いため、ゆっくり慎重に進む。時々紅葉した木々に出合い、止まってはカメラを向ける。それにしても、ハイカーが多い。時間的に帰路のピーク時に当ったようだ。中には隣国からの方々も見える。皆草紅葉目当てなのだろうか。二度橋を渡り、林を抜けると建物が見え、山鼻到着。ビジターセンターに寄り資料を入手する。そして、今夜の宿尾瀬ロッジに荷物を預け尾瀬ヶ原へと進入した。

 これが草紅葉か 尾瀬ヶ原へ出て驚いた。湿原全体が黄土色一色に染まり広がっている。枯野ではあるが一歩手前で、これが草紅葉というものだろう。時期的にもベストである。シャッターを切り続けた。雨も止み木道を進むと、前方には燧ケ岳が姿を現した。草紅葉色に染まった広大な湿原、そして雲の上の東北一の高山(2,356m)と絶景である。池塘では逆さ燧も見た。午後も遅くなりハイカーも大分少なくなった。
 尾瀬ヶ原の中心牛首に到着し休憩し、Uターン。先には東電小屋や竜宮小屋があり、林の中に見える建物は後者の小屋だろう。草紅葉に満たされた戻り道では、明日登る至物山が前方に聳えている。登山道が見えないか目を凝らしたが、良く分からない。ほぼ真っ直ぐに下る沢のような線が見えるが直線的過ぎる。木道下に咲く紫色の花を見付け、エゾリンドウとKさんに紹介した。草紅葉一色の中の原色の花は目立ち、カメラに収めた。
 尾瀬ロッジは満員。それでも三畳だが個室が与えられ、夕食は山小屋とは思えない品数が揃い、入浴もすることが出来た。我々は、風呂と地酒の晩酌で疲れを払い、明日に備え早い時間に就寝した。(2013/10/5 47/100)

追記 尾瀬に草紅葉を探勝した。尾瀬はこれまでも数回訪ね、最初はかぼちゃ会インバーと大清水峠越えであったと思う。家内も一緒で、1967年のことであった。いずれも水芭蕉鑑賞で、主に沼山峠からである。この時翌日は至仏山に登った。

JR中央本線快速に乗り、猿橋を渡る

 本日はJR八王子駅で、弟と待ち合わせた。中央本線に乗り大月手前の猿橋へ弟を案内する予定。弟とは9月青梅線で奥多摩氷川渓谷を一緒に巡り、楽しんで貰ったようだ。今回も中央本線乗り鉄+猿橋とした。日帰りコースとしての遠出である。私は、猿橋は三度目だが、弟はどうだろう。

 旧甲州街道 今回も弟が先着していて、中央本線快速大月行きに乗車。高尾駅を過ぎ神奈川へ入り、山梨である。今年の紅葉は遅い。車窓から山を眺め、登った山々を思い出した。山歩きの初期の頃、多摩在住のリーダーに引っ張られて歩いた。石老山、高畑山、扇山、百蔵山等である。あれから約30年過ぎている。弟とも歩いたことがあると思うが、思い出せない。電車は各駅停車を繰り返しながら大月駅手前の猿橋駅に着いた。無人駅で、駅から旧甲州街道へ出る。正面左手に岩殿山が見えた。同山も2度登り、1度は猿橋へ歩いた(96.2.3)こともあった。旧街道は狭いが交通が激しい。商店が点在する通りの側道を進む。大月から旧甲州街道を歩いたことがあり、この時も猿橋へ寄っている(12.1.15)。

 大渓谷に架かる猿橋 駅から20分以上歩いて交差点を左折すると猿橋であった。橋の傍で体操をしている高齢者グループを避け、右岸の坂を下りて、真横から奇橋を見上げ、眺める。橋脚代わりに両岸から飛び出た橋を支える羽根木の層が珍しい。手繋ぐ猿に相当する。弟はカメラを出しアングルを探している。初めてではないが、今回はゆっくり見物したいという。私もカメラに収めた。渓谷への階段を降りた。深く狭い谷で、慎重に一歩一歩としんどい。柵のある展望地へ到達し、流れは緩いが深そう。橋は一番狭い地に架けられていて、僅かに見えるだけ。当地は山梨で桂川渓谷と気付いた。弟を待って、猿橋を渡った。歴史は定かではないが500年前の記録があり、あの歌川広重も“甲陽猿橋之図”として描いていると知る。

 地酒を求め帰途へ 袂の店舗で昼食を取る。平日なのに混んでいた。駅へ戻る途中、地酒“甲斐開運”を求めた。復路は、私は京王線直通で神保町駅へ出ようと、弟とはJR高尾駅で別れた。お土産ありがとうございました。(2024/11/25 K.K. 1581)

◇日時 2024/10/7 ◇天候 晴 ◇交通費 2600円 ◇資料 大月市「日本三奇橋猿橋」2004.1
「通過時間等」 自宅7:55-神保町駅8:40―JR新宿駅9:04-同八王子駅10:02-同猿橋駅10:55=猿橋(昼食)11:20/12:45=JR猿橋駅13:18-京王高尾駅13:59-三田線神保町駅15:15-自宅

奥羽本線から仙山線を乗り鉄する

 山形へ帰郷した。私の1500紀行本発行記念に、同級生達が芋煮会を開いてくれ、幹事が営むそば店に12名が集まった。7年振りとかで盛り上がった。殆どが傘寿を迎えたと思う。私は、実家に泊った。コロナ渦で久しぶりの実家であり、兄夫婦とも会うことが出来た。翌日、陸羽東線から仙台回りで帰京の予定である。翌朝JR東根駅へ姪に送って貰った。

 新庄駅でUターン 奥羽本線新庄行きに乗車、鈍行は何年振りであろうか。村山、袖崎、大石田、芦沢、舟形と各駅を過ぎ、そして新庄駅に着いた。新庄駅で、秋田方面の奥羽本線も、陸羽東線も7月の豪雨災害で一部不通のためバス代行と言われた。鮭川の大惨事はニュースで知っていたが、最上地区広範に被害を受けていたのだ。どうしようと思ったが、発車寸前の山形行きがあり、飛び乗った。

 仙山線乗車 車中、山形から仙山線に乗り、仙台経由にしようと決めた。JR東日本の路線は殆ど乗り鉄をして記録はあるが、仙山線は未だである。山形駅で小一時間あったが駅で待った。駅前に我が読者の先輩がおられて覗いてご挨拶は、止めにした。急ぎ足での往復は無理と考えた。                                    仙台行きの快速電車は定刻通りスタート。霞城公園から北山形を通過。工場が目に付くが、私が高校通学時は未だ田圃があった。鉄橋を渡り馬見ヶ崎川だが、記憶より狭い。羽前千歳から山寺へと右折した。左手に山寺の寺院を眺め山間を進んでいる。

 面白山トンネルで宮城へ 面白山トンネルに入った。小学5年の松島修学旅行の時日本で3番目に長いトンネルと聞いた。今ではそう長さを感じないで宮城県へと出た。奥新川駅は山中で、廃止も聞いたが駅舎は健在。住所では仙台の最西地のようだ。作並駅に停車。温泉地で、我が夫婦が初めての帰郷の折、亡母と山寺見物の後脚を伸ばしたことがあった。愛子からは各駅停車で、仙台への通勤圏だろう。東北福祉大前を通過し、山形からの復路当駅に降り、大崎八幡宮を訪ねたことがあった(18.12.4)。仙山線は、20回前後往復したが、あれが山形から仙山線乗車の今回の直前かと思う。50年前私が訪ねた神社ではなく、それが仙台東照宮であったようで、今年参拝に再訪した(24.6.25)。仙台駅で東北新幹線に乗り、早めに帰宅できた。(2024/11/29 K.K. 1580)

◇日時 2024/10/25 ◇天候 晴り ◇交通費 17000円                          
「通過時間等」 実家8:50-JR東根駅9:16-同新庄駅10:12-同山形駅12:01-同仙台駅13:57-同上野駅15:35-三田線巣鴨駅15:54-自宅16:30

都心大手町から東京駅へ歩く

 また購読紙“我がまち再発見 東京・大手町編”(9.5讀賣夕刊)紹介コースを歩いた。隣の丸の内に10数年勤め、大半は知っていたがコース内に“大手町の森”があり、ビジネスビル街に森があるの?と興味を惹いた。それにデ・リーフデ号像も知らない。我が家から近いので、日暮里で友人に逢った後昼過ぎに、地下鉄千代田線で大手町駅へ向かった。 

 将門塚から 大手町では将門塚からスタートしたい。大手町駅で地上へ出て、皇居大手門へ歩くが塚はなく、道一本違いと気付き回り道して辿り着き、参拝。平将門の首塚で、大正時代も庁舎建設の際祟りがあり改めて鎮魂碑を建て祀ったとある。ビル街の中で、私は初めてではない。日比谷通りを渡り、読売新聞社。正月の箱根駅伝スタート地を過ぎ、過去の歴史の顕彰プレートを眺め、今年の母校の不甲斐なさにうんざりしている。

 ビル街のオアシス大手町の森 次の交差点を右折しビル裏を行くと左手が大手町の森であった。小さな樹林であるが、ビル群の間の緑の空間、癒しの場で、オアシスであろう。昼休みに仲間達と弁当を広げ交歓する様子が目に見えるよう。2013年オープンとあるから、私が丸の内を離れる一年前。隣区画の角にさわり大黒像があった。永代通りを渡り、銀行ビル街の前を通り丸の内へ至り、東京駅前へ。南口に動輪の広場を探すが見当たらない。反対側の旧東京中央郵便局へ入ると、現在はショッピングプセンターの中に、郵便窓口もある。この郵便局には少し思い出がある。我が父が山形の田舎から東京、大阪を経て尾道を往復したことがあった。その時の土産話の中にこの郵便局のドアが回転式で驚いたと聞いた。田舎者がびっくりしたのだろう。引き戸式が全盛で両開きがせいぜいの、70年も前のことである。

 デ・リーフデ号像 デ・リーフデ号像は丸ビル脇の繁みの裏に見付かった。八重洲がヤン・ヨーステンに由来するとは知っていた。彼が1600年乗って漂着したオランダ船の像と知る。そして家康より当地に屋敷を与えられたが、現在八重洲は反対側だが地名の変更によるとある。ウィリアムアダムス、後の三浦按針も一緒であったという。デ・リーフデ号像は初めてで、カメラに収めた。国鉄最大の動輪を展示した動輪の広場は探し損ねてしまった。東京駅の南口地下で、略図を見誤っていた。久しぶりの丸の内の地下街を歩き通して、三田線大手町駅へ出た。(2024/11/19 K.K. 1579)

◇日時 2024/10/13 ◇天候 晴 ◇交通費160円 ◇資料 “我がまち再発見 東京・大手町編”(9.5讀賣夕刊)                                                    「通過時間等」 自宅11:15-千代田線西日暮里駅(昼食)12:00/12:35-同大手町駅12:50=将門塚13:00=読売新聞社前13:10=大手町の森13:15=旧東京中央郵便局13:30=リフリーデ号像13:40=三田線大手町駅14:00-自宅14:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「岩峰を鎖で這い上がった岩櫃山」

 険路、岩場の山へ 鞍部に上がって一息を入れた。3ヶ所鎖場があったが、なくとも登れる程度の岩場であった。本日は上州岩櫃山である。険しい岩場のある山と知り、これまでは敬遠していた一方で、チャレンジ心もあった。ようやく後者が勝って、Kさんに同行を願った。危険はないよと百名山男Hさんが背中を押してくれ、インターネットで得た登山中の写真でもそれ程ではないと見え、ファイトが湧いた。先程吾妻線郷原駅から歩き出して間もなく山村集落通過中右手に聳える鋭い岩稜を見た。小型北アのようである。単身ではないこともあってか、恐怖感を抱くことなく割と冷静に密岩通りコースから山へ入った。

 岩尾根、鎖場を通過 鞍部では2人の若者が先行して、その後をゆっくりと上がると直ぐ、天狗の架け橋という一番難所の痩せ岩尾根。Kさんと迂回に合意して梯子段を下る。こちらも大岩にへばり付いた峡路で、また梯子を伝い架け橋の先へと出た。今度は崖に一本の鎖が吊り下がっている超難所。鎖だけを頼りの上に、岩角や凹みもなく足場がない。2人ともどうにか上り切った。頂上かなと思ったが、前方に登山者が立つ更に高い頂が見えた。隘路、峡路から岩棚の隙間を抜けて、また岩壁を乗り越える。鎖使用の懸垂で腕の力だけで上がらなければならない。鷹巣遺跡口から左へ回り込むと頂上下であった。

 登頂 長い鎖が二本下がり、最後の難関。命を鎖に委ねる形だが、足場になる角や窪みが適度にあり、怖さを感じることもなく頂上(802m)へと這い上がった。既に先行グールプが休憩中。記念写真後周囲を見渡すも、雲が出ていて遠望はない。僅かに白い裾野が見えるのは浅間だろうか。眼下には遅めの紅葉が広がり、吾妻も晩秋だ。反対側は榛名の連山。                
昼食後、小生が先に鎖に掴まった。落ちても命まではと思いながら、懸命に足場を探した。復路は沢コースを採る。こちらは楽な筈だが、案に相違して厳しい岩場や崖端が続く道。振り返ると、先程登った鋭峰が聳え立ち、改めて岩峰岩櫃山を見た。その後も気を許すことなく、Kさんの後を追う。

 岩櫃城跡 途中から尾根通りへとコースを分けて、落葉に埋もれた薄い山道を辿り、岩櫃城跡を見学。この城は戦国期には上田真田氏の支配下にあった。武田勝頼が信長に追われて、新府城を脱出したとき、真田昌幸が案内しようとした城である。しかし譜代の家臣小山田信茂の言に従い岩殿城を目指したが裏切られ田野の地で武田家終焉を迎えたことは知られた史実のようである。岩櫃城址は二度目で、16年前に群馬原町駅から往復した(93/8/29)。山中の城跡は変わることなく静寂を保っていた。(46/100 09/11/21)

追記 岩櫃山は、私が経験した山々で最高難度の山であったと思う。Kさんに同行を願ったのは正解であった。今でも岩峰登山の印象が強く残っている。日本百低山に選ばれている(同書110頁)。岩櫃城は池波正太郎著真田太平記で知っていた。山麓にはそんな歴史は消え去っていた。

 

篠ノ井線に乗り善光寺を詣で千曲川沿いを歩く

 信濃大町から松本へ戻り、篠ノ井線に乗車した。上高地へ行く予定であったが、雨模様の天気予報に断念した。河童橋から北アの山岳風景が眺められないのであれば上高地行きは意味がない。急遽長野へ出て、善光寺、そして千曲川とした。上山田温泉の万葉公園には、千曲川歌碑がある。

 千曲川万葉公園へ 長野駅から乗ったしなの鉄道を戸倉駅で下車した。スマホで万葉公園を検索したら当駅から10分とあるが、少し土地勘がありそんなに近くはないだろうと、駅で尋ねたが分からなかった。駅前大通りへ出て左折し、次の信号を千曲川方向に右折し、大正橋手前でまた左折し接近したが橋は見えない。ようやく万葉の地名があり、家並を過ぎた大通りの右手が万葉橋であった。千曲川の流れを見下ろしながら渡り切った右手に歌碑が並んでいた。駅から歩いて30分程経過していた。

 千曲川歌碑 “千曲川”は、山口洋子作詞五木ひろしが唄う歌謡曲で、“・・・煙たなびく浅間山 呼べどはるかに都は遠く 秋の風立つススキの径よ”と唄う旅情あふれた名曲で、青江、八代、多岐川、田川等多くの女性歌手がカバーし、私も聴いている。カメラに収めて、千曲川左岸を下る。佐々木信綱の万葉歌碑もあったと思う。後日旅番組で、歌碑付音響システムで千曲川の曲を聴いているのを観た。温泉街を左手に見ながら歩き続け、大正橋を渡る。以前上山田温泉先の荒砥城址を訪ねた時(07.3.18)歩いたコースと分かった。300m以上の長い橋を渡り切り、戸倉駅へ戻った。千曲川は山梨県境の甲武信岳麓を源流とし新潟県で信濃川となり、日本海へ注ぐ日本一長い河川で、当地はその中流である。

 善光寺に参拝 先に長野駅から善光寺へ歩いた。数度歩いた門前町通りだが、距離があった。25分の予定が40分程要し、後半が上り坂だからと少し納得した。否年齢の所為だろう。大勢の参拝客に交じり本堂内へ入り、手を合わせた。山形の両親を案内したことや、友人と軽井沢から脚を伸ばし東山魁夷美術館にも寄ったことを思い出した。大分前のことで、胎内巡りもしたと思う。駅へはバスを待った。今回篠ノ井線を利用して、松本駅ではなく、その先の塩尻駅迄が同線で終点と知り、松本駅は中央本線と思っていたが違っていた。 (2024/11/9K.K. 1578)

◇日時 2024/10/4 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+1000円
「通過時間等」 宿泊先7:30-JR信濃大町駅7:46-同松本駅9:09-同長野駅10:10=善光寺10:50/11:15=
しなの鉄道長野駅11:45-同戸倉駅(昼食)12:25=万葉橋13:00=大正橋13:30=
しなの鉄道戸倉駅14:13-JR上田駅15:15-同上野駅16:50-三田線巣鴨駅17:03-自宅17:30

JR大糸線で松本から信濃大町へ

 JR東日本大人の休日俱楽部パスの後半は、中央本線で松本行きとしたが、宿泊先が確保できない。日帰りも覚悟して、出掛けた。初日は大糸線で信濃大町へ行き、翌日は上高地と考えていた。新宿駅から中央本線特急で、松本駅に着き宿泊先を探したが事前検索通り、満員と断られた。取りあえず信濃大町を往復しようと大糸線に乗車した。

 大糸線で信濃大町へ 大糸線は何年振りだろうか。夏の白馬会合のため数年夏に乗ったことがある(09.7.26外)。松本から糸魚川までの長い路線で、今回はその前半で約1時間。郊外へ出て梓川を渡り、梓橋駅であった。穂高駅を通過。ここは少し思い出がある。確か燕岳登山の際、当駅で降り穂高神社に参拝した(08.8.2)。奥宮は上高地の明神池畔にあったと思う。安曇野を走っている。先程来左手に高い山々が連なり北アルプスも、蝶ヶ岳や常念岳だろう。安曇追分駅、信濃松川を過ぎて信濃大町駅に着いた。駅舎を眺め、青木湖キャンプや黒四ダムからの帰途に利用したことを思い出した。もう半世紀も前のこと。案内所で情報収集し、雨模様の中、市内大通りを上下。

 呑み鉄本線か 黒部源流にある山小屋三俣山荘の資料室を目指すが、本日は休みという。登山番組で知った唯一の寄りたい先であった。酒樽を積んだ酒蔵市野屋の前を通り、試飲の可能性を聞いたらオーケーという。店内奥へ入り、ご当地酒をちびちびと小さなカップで頂く。六角精児の呑み鉄本線である。感想は辛口、甘口だけで六角さんとはいかない。六角さんは未だだが、酒場詩人吉田類は来たという。晩酌用に四合瓶“風さやか”一本求めて辞した。実は、仲間から吞み鉄用にウィスキー容器を貰っていて、今回初めて持参していた。

 塩問屋見学 駅へ戻る途中、“塩の道ちょうじや”という庄屋平林家店舗があり入場。塩問屋や味噌、醤油の醸造業者で、江戸期からの塩蔵や家屋を見学。塩の道千国街道に面していたという。展示資料から、塩は糸魚川付近の日本海産ではなく、北前船で関西から運んだ塩であったとある。えっ!で、白馬会合の際塩の道を歩いたが、そんな疑念は生じなかった。謙信は金を払って敵に塩を送っていたのか。駅前のビジネスホテルに投宿。偶々一部屋空いていた。温泉付きで、晩酌前に手足を伸ばした。(2024/10/31 K.K.1577)

◇日時 2024/10/3 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス 
◇資料 「信濃大町チケットガイド」               
「通過時間等」 自宅7:55-JR巣鴨駅8:31-同新宿駅9:00-同松本駅11:45/12:20
-同信濃大町駅13:30=酒蔵市野屋14:10=塩の道ちょうじや15:00=宿泊先16:10

私が登った百の名山&低山=関東編=「奇峰、奇岩の妙義山腹を歩き、石門を巡る」

 今回は、Mさんと一緒に妙義山のお中道を歩く。同道は関東ふれあいの道でもある。Yさんは今朝まで仕事と言うことで不参加となり残念。彼は妙義神社参拝を楽しみにしていたと思う。Mさんとは一昨年春の両神山以来。

 妙義神社から大の字へ 妙義神社参拝の後、大の字に登る。これが後半バテた原因となる。結構急な登山道を約40分で大の字到着。鎖を使用して展望台となっている岩の上に上がる。小憩後奥の院への道を上り、途中から下る。奥の院へは更に15分上ると聞いたが、後半を考慮して次回に廻す。ふれあいの道までの下りが中々の険路。狭く、急である上に、鎖場もあり、結構苦労する。案内通りの時間を要した。その後第一見晴からはふれあいの道を歩く。これがなんでもない山道のようだが、階段が設けられた小さなピークを越す、似たような上りが十回前後続く。最後はすっかり参ってしまい、Mさんに休憩をしばしば求め、また励まされる。資料のように逆コースの方が楽のようだ。

 大砲岩、そして石門 ようやく大砲岩到着。その後石門を巡り、第二石門のかにの横ばいを通過して中之岳神社付近に下りた時には足が疲れてしまった。バスがないのでタクシーを呼びJR松井田駅に戻った。

 同行者のリード Mさんにはすっかり世話になる。鎖場は彼が先行し、彼のアドヴァイスで、恐怖感もなく安心してこなす。彼はいつものように、ゆっくりとしたペースで確実に歩を進める。小生には中々まねが出来ない。大砲岩付近ではMさんが高い離れた岩の上に上る。少し心配したが、楽々と上り、大砲岩まで上ってしまった。岩の上に猫を連れた人が見えたが、Mさんの話では最後はザックに入れて上げたらしい。小生を気にして滑った箇所があり、Mさんに余計な心配を掛けないようにしなくてはと反省する。

 妙義山を仰ぐ 妙義山は長野往復の際に車窓から見て知ってはいたが、真下で見ると迫力が違う。そそり立つ岩峰を仰ぎ、オーバーハングした岩の下を、背を屈めて歩く。長い鉄の梯は痩せ尾根にへばり付くように掛けられている。また、自然の産物とは言え連続する石門にはびっくり。チェックポイント第四石門は大規模なもので、門内に大砲岩を入れてMさんにカメラに収めて貰う。

 美しい紅葉 遅いと思っていた紅葉が盛り。真っ赤な紅葉が随所に残り、紅葉鏡に覆われた山全体が秋の日に輝き美しい。歩きながら感嘆し、足を止めてはしばし見とれる。疲れを癒すには十分と言ったところ下山後道路から見た山は、全体が茶色で飼い猫たまの背中のようであった。帰宅したら長女が北海道から戻っていて、たまを膝の上に置いて、皆と食事をしていた。               
関東ふれあいの道プラス大の字を歩いたが、小生には前者が適当。今回と逆に歩けばそう難しいコースではなく、次回は新緑の季節にでも歩こうと思う。Mさん大変お世話になりました。またよろしくお願いします。(96/11/23 43/100)

追記 本コースは、関東ふれあいの道・群馬県11「サクラの里と石門の道」である。なのに険しい岩場の道であった。大学ワンゲル部OBMさんのリードでなんとか歩き通した。彼は、私の最初の山歩き厳冬の三つ峠山も一緒で(94/02/26,27)、私の山歩きの師匠である。約30年後に妙義神社を訪ねたが石段の上下に難渋してしまった(23/1/20)。本コース踏破は、過去の話になってしまった。

弘前から東能代へJR五能線を乗り切る

 2024年10月1日五能線を乗り切った。五能線乗車は三度目だが、今回は弘前、川部そして東能代と上りで、147.2㎞、43駅である。初回は偶々案内され、鯵ヶ沢から東能代であった(87.8.17)。二度目は下りで、途中十二湖に泊り湖沼巡りをした(16.9.34)。今回は、乗り鉄に徹し岩木山や日本海展望を楽しんだ。五能線は旅好きな旧同僚推奨の路線であった。

 津軽富士を展望 朝6時47分弘前発東能代行きに乗車。ほぼ満席状態の中、右の窓側に席を確保し、定刻に発車した。五能線終点川部駅に着いたら、列車は反対方向へ向けスタートし、私の席は左側になってしまった。右側が日本海だ。しかし、リンゴ畑の先に岩木山(1625m)が聳え美しい風景で、津軽富士である。五所川原駅で長く停車。津軽鉄道との接続駅で、高校生達が乗降した。私は、津軽鉄道は未乗車で、一度は乗りたいと思っているが、中々予定が立たない。

 鯵ヶ沢、深浦 列車は快速だが時々下り列車と交換があり、停車時間がまちまちだ。津軽平野を出て、岩木山が遠くなり、右手に海が見え始めた頃、鯵ヶ沢駅であった。8分の停車時間があり、駅前に出てみた。この後リゾートしらかみ号があり、その間にわさお像へと思っていたが指定が満席で、このまま乗車を続ける。有名なブサカワ犬わさおは亡くなり、海の駅に像が建つという。

 窓の外は日本海 海沿いに走り、山間、小トンネル、入江を繰り返し、そして前方に北の大海が広がった。本日は波静かである。ご当地ソング五能線で、水森かおりは“おんなみちのく五能線 窓いっぱいに日本海”と唄う。先ほど席を右側へ移動。千畳敷の風景は見覚えがあり、岩畳や奇岩に向けシャッターを切った。深浦駅に停車。深浦は北前船の寄港地として発展したという。今夏放映六角精児の“呑み鉄本線日本旅五能線編”でもゴールデンタイムとして当地の地酒や海の幸を楽しんだと思う。しかし、私の記憶に反し、普通の小さな港か。前回は鯵ヶ沢から近いと思っていたが大分走っていた。

 そして秋田へ 海岸沿いが続いたが、左手の山が迫り白神山地だろう。十二湖駅や白神岳登山口駅もあった。列車は崖淵を走り、岩舘、あきた白神となり、青森から秋田へ入った。次第に海側から離れ平野部となり、能代駅を通過し東能代駅に着いた。10時40分で約4時間の乗り鉄となった。(2024/10/18 K.K. 1575)

◇日時 2024/10/01 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞
「通過時間等」 宿泊先6:35-JR弘前駅6:47-同東能代駅10:56-同秋田駅12:13-同上野駅16:10-三田線巣鴨駅16:30-自宅17:00

青い森鉄道で八戸から青森へ

 またJR東日本大人の休日俱楽部パス利用期間に入り、乗り鉄の旅である。今回の目玉は五能線で、これで私の乗り鉄も最後となろう。本日は弘前泊りとし、上野から八戸、青森を経て弘前へで、ある。東北新幹線八戸駅から青森駅迄は三セク線青い森鉄道乗車であり、東北本線時代一度乗ったことがある(87.8.14)。

 八戸から青い森鉄道 八戸駅で青い森鉄道に乗り換えた。2両編成で席は確保できた。直ぐ郊外となり荒涼とした地を走った。多くは休耕地であろうか。最近下北の大湊を往復した時(23.6.23)乗った線で、三沢駅始め知っている駅名が散見され、右手に小川原湖が見えた。野辺地駅に着く。大湊線との分岐駅であるが、小さな駅舎で、周囲に建物も少なく寂しい位だ。でも、この辺りも当線は複線で、幹線東北本線であった歴史を示している。

 青森は5度目か ここから、青森駅へ陸奥湾沿いに左へ走り、湾は遠く、時々林の先にチラチラっと見えるだけ。各駅停車だが、知っている駅名もない。先程八戸駅で求めたカップ酒を出し、青森は何度目かなと思いを巡らした。最初は87年の大湊恐山からで翌日酸ヶ湯から蔦温泉、その後白神山地(11.6.16)、十和田湖、奥入瀬(17.9.29)、そして竜飛崎(20.9.11)であろうか。一度雨で、竜飛崎を諦め奥羽本線で秋田(19.6.22)へもあった。青森は遠くこれだけだが、それも東北新幹線のお陰だ。浅虫温泉駅を過ぎて、左手に高山が見え、八甲田山だろう。登山も考えたがならなかった。

 青森港へ 市街地の先に湾が見え出し青森駅であった。青い森鉄道を乗り切ると思っていたが、八戸の手前岩手県境の目時から青森が同線と分かった。ねぶたを眺めながら、窓口で、明日の五能線リゾートしらかみ号の指定券を問い合わせたが、満席という。キャンセルに期待したのだが。港へ出て埠頭で、八甲田山号を眺める。嘗て青函連絡船で活躍した大型客船である。石川さゆりが唄う“津軽海峡冬景色”の歌碑があった。“上野発の夜行列車おりた時から青森駅は雪の中・・・”と、数秒で上野から青森へと阿久悠の作詩が有名になった。特急に乗り、弘前へ。途中、五能線分岐駅川部駅を通過。弘前駅前で晩酌用飲み物とつまみを求め、ホテルへ向かった。(2024/10/18 K.K. 1575)

◇日時 2024/9/30 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス ◇歩行距離等 4,000歩 3㎞
「通過時間等」 自宅9:15-JR上野駅10:24-青い森鉄道八戸駅13:28-同青森駅15:00=青森港15:10=JR青森駅15:56-同弘前駅16:30=宿泊先16:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「つつじ咲く赤城・黒桧山に登る」

 黒桧山登頂 山友Yさんと赤城山の最高峰黒桧山(1,828m)に登る。JR前橋駅から赤城神社迄タクシーを利用。神社先の登山口から登り、頂上までは1時間20分を要した。岩の多い林の中の登山道が続く中、二、三度右手が開けて赤城大沼や地蔵岳が見えた。林を抜けて背丈程の潅木の中の道を分けて進むと頂上に着く。距離的には資料どおり初心者向きだが、結構急登が多く、ゆっくりと登るも少しばてた。前夜遅かったのが影響したのかもしれない。途中赤城小沼が見え、赤城は二度目だが小沼は始めてで、意外と高所にあることを知る。黒桧山頂上は、ほぼ360度の展望があり、男体山、至仏山、谷川連峰、八ケ岳等が見えた。

 覚満淵へ 下山は、御黒桧大神、駒ケ岳を経由して、覚満淵の手前の車道に下り、覚満淵を覗いた。下山コースは、関東ふれあいの道・群馬県35「黒桧山から花見ガ原への道」の一部で、急坂には階段が設けられていたが、一部土砂が流れて横木がハードルのようになっているため、かえって歩きにくい。二カ所程鉄製の階段があったが難なく通過。

 つつじ咲く山麓 入梅時にもかかわらず一日中快晴で、それでも半袖になるほどではなく、程良い気候。丁度つつじが見頃で、高い黒桧山周辺ではピンク、下では朱色のものと違いがあり、また、白色のつつじをも見ることができた。赤城山周辺には、つつじ狩りを兼ねたハイカーなど沢山の人が出ていて、登山道、山頂でも多くの人と出会い、また帰りのバスは満員で、前橋駅前まで立ち放し。

 Yさんとは岩殿山(96/2/3)以来の同行で、神社巡りを趣味としている彼向きに本コースを選ぶ。彼は上りでやや遅かったが、大きなザックに一杯様々なものを詰めたためで、山頂では昼食に、最近仕入れたというクッキング器具を使用してライスカレーを作って貰った。
 朝、高崎迄の列車が少し遅れたため、予定の列車で前橋への乗り換えが出来ず、バスに遅れてしまい、結局、同じ事情の婦人登山者と赤城神社迄タクシーに相乗りした。料金的には割高になったが、時間的余裕ができて、黒桧山山頂でゆっくりと昼食を楽しみ、予定より一時間前に帰宅することができた。
 登る前に赤城神社で安全を祈り、日頃の御礼をして、絵馬とお守りを求めたが、今回は地酒とたまへの水は省略した。Yさんは、例によって丁寧に参拝し、社務所で持参の印帳に記帳などを受けた。
 翌日は、少し足が痛かったが、山形のおばあさんにお供して巣鴨のとげぬき地蔵に参拝。(97/6/7 42/100)

追記 赤城山の主峰黒桧山は百名山であるが、そう苦労なく登頂できた山であった。麓に広がる大沼が印象的であった。赤城山南麓に関東ふれあいの道群馬県コースがあり、歩いた(17.5.20)。笹薮の中が多く、下った先にも三夜沢の赤城神社があった

調神社から別所沼公園へ浦和を歩く

 浦和市内を歩いた。また購読紙の“我がまち再発見”からで(24.6.20,7.4讀賣夕刊)、サッカーの街浦和の紹介が中心だが、コース中、調(ツキ)神社境内の写真があり、二度程参拝しているがご無沙汰で、記憶が薄れている。最近南浦和を訪ねた時、寄る予定であったが、疲れて省略してしまった(23.11.22)。

大回りし調神社 JR埼京線武蔵浦和駅をスタート。調神社は東の方向15分程だろうと、途中の白幡沼に寄り水鳥を眺め、医王寺を過ぎて左折し、右手に神社らしき風景に出合い接近したが違っていた。これが間違いの始まりで、方向が違い住宅街に迷い込んでしまい、二度尋ねて、なんとか旧中山道へ出たが肝心の神社は見えて来ない。大分歩いて参道へ入り、狛兎を確かめ、カメラに収めた。調神社は月が出るのを待つため兎らしい。広い境内から本殿前で手を合わせた。古社で、税制租庸調の調だろうから奈良時代の創建か。

浦和歓楽街から旧中山道 浦和駅へ歩く。駅へ着き、お茶を求めて休憩。駅前で、浦和サッカータウン・モニュメントや浦和うなこちゃん像を見る。浦和宿はうなぎかば焼き発祥の地でそのシンボルという。嘗て当地は沼地でうなぎが取れ、現在もうなぎ屋30店もある町とある。駅前通りの小路を進むと飲食街。初めての光景で浦和の裏町歓楽街か。右折して旧中山道を進み、新聞記事にある書店須原屋ビルを眺めると市役所通りの交差点で、本陣跡がある筈だが見当たらない。山勘で裏手へ回ったら、小さな広場に跡を示す石碑が建っていた。中山道67次日本橋から3宿目だったとある。                                               

サッカー発祥の地像 市役所通りを西へ歩く。国道17号・現中山道を渡り市役所前に至った。そして、サッカー発祥の地像があり、二度目である(15.1.18)。埼玉師範全国制覇記念碑でもあり、師範学校でサッカーを学んだ学生達が近郊の学校に赴任してサッカーが広まり、浦和はサッカーの街となったようだ。一時期高校の優勝校は浦和の高校という時代があった。浦和レッズの活躍に繋がっているのだろう。ここからは、別所沼を目指す。左折し、奥に県庁ビルを正面に見ながら住宅街から右折し坂を下ると別所沼で、別所沼会館で昼食を取った。時間も想定通りであった。帰宅したら歩いた距離が12㎞とあり、最近では長距離であった。(2024/10/15 K.K.1571)

◇日時 2024/9/25 ◇天候 曇り ◇交通費 360円 ◇歩行距離等 16,000歩 12㎞
「通過時間等」 自宅8:45-JR埼京線浮間船渡駅9:20-同武蔵浦和駅9:45=調神社10:25=JR浦和駅前10:45=浦和宿本陣跡11:00=サッカー発祥の地碑11:15=別所沼(昼食)11:45/12:20=JR埼京線中浦和駅12:38-同浮間船渡駅13:00-自宅13:30

JR青梅線を乗り鉄し奥多摩氷川渓谷へ

 弟を奥多摩へ案内した。私の好きな奥多摩の渓谷である。二人とも山歩きは卒業した年齢になり、散策程度で、それに乗り鉄を楽しもうと思う。弟とは、御嶽山や御嶽渓谷は歩いた記憶はあるが、奥多摩は初めてと思う。平塚在の弟とは、10時JR立川駅待ち合わせとした。

分倍河原駅乗換え 私は、神保町駅から都営新宿線直通の京王線に乗り分倍河原駅乗り換えで、南武線立川駅とした。久しぶりの分倍河原駅で、跨線橋を渡りホームに着いた南武線に乗ったら、目の前に弟が座っていてびっくり。立川駅で遅れて来た青梅行き電車に乗った。青梅線は37.2㎞25駅である。以前は奥多摩行きがあったが今はなく青梅駅乗換え。多摩地区の住宅街を30分走って青梅駅に着いた。隣のホームの奥多摩行きに乗車し乗り鉄を継続。今度は次第に山間が深くなり、左手が多摩川渓谷。御嶽駅を過ぎて、山間がさらに狭まり奥多摩の地へ。両側の車窓も緑が続く。

氷川渓谷を歩く 立川から1時間30分程で奥多摩駅であった。早速駅を出て、多摩川渓谷に架かる昭和橋へ案内。渓谷は深いが狭く、流れは速いほどではないが、このところの雨の所為か水量は多い。私の好きな眺めで、いつも橋上から渓谷風景を楽しむ。弟もカメラ出しシャッターを切っているようだ。反対側上流は、日原川との合流地で、谷底は広い。地元では氷川渓谷というと知る。

吊り橋を渡る 橋を渡って多摩川右岸の遊歩道を遡上。初めての道だが少し進むと吊り橋登計橋があった。やっぱりあったと橋の中心をゆっくりと渡った。そして、少し下ると日原川に架かる氷川小橋。この吊り橋は二度程渡っている(19.7.21,23.7.21)。登計橋よりは短く狭い。渓谷を出た坂上が奥氷川神社で、弟と参拝。孫達の健康と成長をお願いした。弟も変わらないだろう。境内には御神木三本杉が聳えていた。根本は一本とあり、樹齢700年らしい。                                                  

奥多摩駅で昼食 駅へ戻り、構内の食堂で遅めの昼食。食事をしながら私は生ビールだが、下戸の弟は珈琲。故郷や家族の話を交わし、弟は、次回は一泊が良いという。気分転換には良いかなと思い、付き合うことにした。今回も弟は私の好物を持ってきてくれた。サンキューである。往路青梅線を乗り鉄し、分倍河原駅で別れた。夕方、甥から父が乗り鉄は楽しかったと言っているとメールがあった。(2024/10/9 K.K. 1573)

◇日時 2024/9/13  ◇天候 晴  ◇交通費 2,120円  ◇資料 奥多摩ビジターセンター「氷川渓谷・愛宕山・散策マップ」  ◇歩行距離等 6,000歩 5㎞            
「通過時間等」 自宅8:00-三田線神保町駅8:45-JR分倍河原駅9:46-同立川橋駅10:20-同奥多摩駅11:45=昭和橋11:50=登計橋12:00=奥氷川神社12:10=JR奥多摩駅(昼食)12:15/13:12-同立川駅14:36-京王線分倍河原駅14:56-三田駅神保町駅15:39-自宅16:20

私が登った百の名山&低山=関東編=「ベテラン先輩に引っ張られて歩いた谷川岳」

 天神尾根コースから 上りは、ロープウェイ、リフトを利用し、天神尾根コースを採った。ロープウェイの下車駅から谷川岳の頂上が遥か先に見え、あそこ迄登るのは本当かなと思える程遠くに見えた。二、三箇所急登の岩場があったが、約2時間20分を要して頂上・トマの耳に立った。

 トマの耳、オキの耳登頂 途中、寝不足等のためか、息が切れていつもよりは調子が出なかった。このコースは、団体客、家族連れで賑わい、中には幼児や犬を連れた者も見受けられた。岩場付近から肩ノ小屋にかけては高山植物が見られ、釣鐘草の可憐な姿や二ッコウキスゲも散見された。天気が良く、そのため、高山でも暑く、汗が引っ切り無しに出た。途中の眺めも良く、特に新潟県側の山や谷がよく見えた。・
 登頂後、単独でオキの耳を往復した。Hさんの予告どおり30分を要した。オキの耳では、恐る恐る一ノ倉沢やマチガ沢の岩壁を覗くことができた。

 西黒尾根、巌剛新道を下る 下りは、西黒尾根、巌剛新道コースを採った。西黒尾根は、急激な下りの岩場が連続し、尻を付き両手を使って慎重に下りた。ガレ沢の頭に着いた時は膝がガクガクとなってしまった。同地で上を見上げると岩場が覆いかぶさって見え、良く下りたと一人で感心した。巌剛新道は、悪路で、岩ばかりの段差のある道が続き、二人の後をフ一フー言いながら、マイペースで下った。途中で、水筒の水がなくなり、マチガ沢から流れた谷川と出会ったときは、正に慈雨だった。その中で、HTさんがタイムリーに出してくれたオレンジには助けられた。時々、左側にマチガ沢の岩壁と雪渓が見えたが、下るのが精一杯で眺めを楽しんでいる余裕はなかった。頂上から約3時間15分、ガレ沢の頭から約2時間を要して、巌剛新道の入口に着いた。ゆっくりとしたぺ一スという。小生が遅れたからだ。

 一ノ倉沢見物へ その後、一ノ倉沢見物に出掛けた。約30分で到着。そそり立つ連続した巨大な岩壁、その下の雪渓、初めて見る風景だ。同沢下は見物客で一杯だった。ロープウェイ乗場を経由して土合駅着。下りのホーム迄は500段以上の階段を降り、膝がガクガクの小生はダメを押された。湯沢では温泉で汗を流し、麦酒で乾杯して疲れを癒した後、Hさんと別れて、HTさんと二人で帰京した。
 今回は、約8時間歩き通す初めての経験となった。前記の通り、小生は下りでバテたが、Hさん、HTさんは上りも下りもスイスイとこなし、御二人の経験のみならず、スタミナ及び技術には圧倒された。下りで膝が笑ったため、特に、登山靴が重いためか左足がスムースに出ないとき、また、不慣れのためか登山靴の重さ、大きさが分からないのではないかと思われたときがあった。今後一考を要する。(94/7/24 41/100)

追 記 夏山に、初心者の私が山男のようなベテラン二人に引っ張られて谷川岳を経験した。上りは兎も角、下りはバテバテだったのは今でも思い出す。連峰の仙ノ倉岳(96.7.13)や蓬峠(12.8.5)も歩いた。その後、天神峠(21.9.13)や一の倉沢下(04.8.6,23.10.18)を訪ね、尾根を見上げては、良く登頂出来たなあと眺めた。若かったのである。

植村冒険館から石神井川を下り板橋駅へ

 旧友のSさんから板橋の植村冒険館を見学し、その後散策したいからコースの選定をとのメールを貰っていた。その日がやって来た。三田線板橋区役所前駅集合とし、8人参加と分かった。冒険館見学後は、石神井川を埼京線鉄橋付近迄下り、JR板橋駅前で昼食をしようと思う。同じメンバーでは、最近では、雑司ヶ谷(22.11.13)や東京湾お台場(23.3.19)を歩いている。

 植村冒険館見学 区役所駅前出口に集合時間10時に全員揃った。板橋区加賀にある冒険館へ案内する。直ぐ仲宿で旧中山道を横断、この街道の左奥に板橋の地名になった石神井川に架かる橋がある。そして、左側の立派なビルが植村冒険館であった。早速入館し展示物やビデオを観賞した。植村さんの活躍や偉業は知られたことではあるが、私は、彼がエヴェレストにも登山したことや北極点到達には用意周到な準備を重ねたことも知った。1984年には国民栄誉賞受賞したとある。マッキンレー登山後の下山中の行方不明の遭難事故は知っていた。数年前遺体発見の報があったが、見付かっていないという。彼は、名誉板橋区民となり、それで当地に冒険館が設置されているのだろう。奥さんが板橋在で、一緒に暮らしていた。

 石神井川を下る 冒険館裏手にある石神井川へ案内する。私のハイキングコースで、今春も花見に歩いた。両側にソメイヨシノが咲き区内の花見処である。現在は、両側コンクリート壁の深い水路で、流れは少なく底を這っている感じ。当川の源流は石神井池のさらに先の多磨の小平と、当メンバーのOさんが教えてくれた。右手の公園が区立加賀公園で、加賀前田家の下屋敷跡。築山が遺り、登る。私は少し大変だったが、若手のメンバーは簡単に上下した。途中で橋を渡り、右岸から左岸へ移り下り続ける。そして、埼京線手前の橋で渡り返した。

 板橋駅前で昼食 ここで、石神井川を離れ、住宅街を通り現中山道へ出て、三田線新板橋駅構内を抜けさせて貰い、JR板橋駅前に着いた。食事処を探しそば屋に入店。生ビール等を求め、再会に乾杯。OさんやTさんは多分、お台場以来だと思う。歓談後、次は、田園調布の紫陽花園と暗黙に了解し、1時間ほどで解散し、私は、メンバー二人と三田線新板橋駅へ歩いた。(24/10/6 K.K. 1572)

◇日時 2024/9/8 ◇天候 晴 ◇資料 植村冒険館「北極点単独到達」 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅8:55-三田線新板橋駅9:20-JR板橋駅前9:30-三田線新板橋駅9:45-同板橋区役所前駅10:00=植村冒険館10:25/11:00=石神井川11:05=加賀公園11:15=埼京線鉄橋手前11:35-JR板橋駅前11:50/13:00=三田駅新板橋駅13:05-自宅13:30

神田お玉が池跡や神田川河口柳橋を巡る

 神田須田町に旧友を訪ねることになり、地図等で調べたら、近くにお玉が池の跡があると知った(「東京都の歴史散歩上」92頁)。お玉が池と言ったら千葉道場で、江戸時代の剣豪の物語や漫画赤胴鈴之助を思い出し、跡地と雖も眺めてみたい。折よく、購読紙の“我がまち再発見”が、神田川河口の柳橋付近であった(24.8.8讀賣夕刊)。地下鉄を乗り継ぎ、回ることにした。

 お玉が池跡、千葉道場跡 神保町駅で新宿線に乗り換え、岩本町駅に降りた。地上へ出て交差点を渡り、水天宮通り商店街を行く。途中に案内地図があり、お玉が池跡を見付け、現在は稲荷神社があるようだ。横丁へ入ったら、お社があり、お玉稲荷大明神様に手を合わせた。隣の史跡案内には、お玉が池跡とあるが、その痕跡は何らない。嘗ては上野不忍池から当地へ川が流れ、お玉が池も不忍池を凌ぐ広い池との説もあったが、江戸になり埋め立てられて寺が出来、街になったとある。                               
千葉道場跡を探す。少し駅へ戻った通り沿いの空き地に石碑があった。北辰一刀流の千葉周作が開いた道場玄武館と刻まれていた。千葉道場は、私には物語の世界で、天保水滸伝大利根無情の用心棒平手造酒や赤胴鈴之助(少年画報連載)である。赤胴鈴之助は映画化され、仲間達と観て、話題にした少年時代の記憶がある。坂本龍馬も学んだ道場かなと調べたら、周作の弟の道場とあった。神田駅周辺は大小の通りが交差し複雑で、大回りし神田川傍の柳森神社に辿り着き、参拝した。

 柳橋へ 岩本町駅から地下鉄に乗り馬喰横山駅で、浅草線に乗り換え浅草橋駅に下車し、柳橋を目指した。駅を出て、最近両国橋を歩いた時(24.4.30)見た風景と気付いた。直ぐ神田川浅草橋で、右岸を下る。柳がありその陰を歩く。係留の舟は釣り船だろう。実は柳橋は再訪の筈だが記憶にない。井の頭公園から神田川を二回に分けて下り、確か柳橋は薄暗かったと思う(12.1.26)。アーチ形鉄橋の立派な橋、直ぐ先が隅田川。袂にある売店は見覚えがあり、入店し佃煮を少々求めた。今晩の肴用である。                                                        帰路は、長い乗換え通路を歩く馬喰横山駅経由を避け、JR浅草橋駅へ歩き同水道橋駅からとしたが、浅草橋駅へは想定以上距離があった。(2024/9/18K.K.1571)

◇日時 2024/9/2 ◇天候 晴 ◇交通費170円 ◇歩行距離等 13,000歩 10㎞  「通過時間等」 自宅8:40-新宿線神保町駅9:25-同岩本超駅9:40=お玉が池跡9:50=千葉道場跡10:00=柳森神社10:30=岩本町駅10:40-同浅草橋駅10:50=柳橋11:00=JR浅草橋駅11:20-同水道橋駅11:30=三田駅神保町駅12:39-自宅13:10

私が登った百の名山&低山=関東編=「勤務先ワンゲル部に同行し日光白根山へ登る」

 勤務先所内ウェブに日光白根山登山者募集を見て、即座に参加を申し込んだ。偶然だが今夏日光白根山は百名山だが登りやすい山と知り、調べたらアクセスが悪く、何とかならないかと思っていた。都内集合でレンタカー利用とある。ワンゲル部の若いメンバーと一緒で、彼らのペースに付いていけるかが少し心配だが何とかなるだろう。

 遅れて正午前スタート 関越高速道路の大渋滞に巻き込まれて、登山口丸沼高原には1時間30分遅れであった。準備しロープウェイで山頂駅に上がり、山ガール含め一行13名は11時50分登山開始。晴天下の正面に白根山が聳え鋭い岩峰は登山を阻んでいるかのようである(写真上)。登山道は針葉樹林の中を進み、急坂ではなく、順調に上がり続ける。若い二人が先頭で、ペースが速い。私も、T部長も“もっとゆっくり”とアドバイスした。休憩も少なく、七色平分岐で立ち止まった程度。下山者と交差しながら緩やかな上りの山道をグングン進み、先頭グループ、殿小集団、その中間の私はいつもよりペースを上げている。小さな急降下地点を通過し中間点を過ぎて、いよいよ急登の地。皆自然に初めての大休憩。隣の女性達からチョコが回って来た。

 ザレ場、ガレ場、山頂へ 上り切ると森林限界を超え、正面上には白根の岩峰、振り返ると雲海の中に冨士も浮かび、この時期の冨士は黒色である。ザレ場の登山道は歩き難い。直登は尚更で、一歩一歩足下を固めながら上る外はない(写真下)。ここでグループに遅れ、最後尾からも離れて必死に山頂を目指す。ガレ場から岩場となり、右手に火口跡を見ると山頂で、社の前に皆休んでいた。私も当地以北最高の山(2578m)の頂を踏んだ。昼食を取りながら眺めると、窪地を挟んだ隣の峰の方が高く見える。向うが山頂のようで、若い人達は元気に挑戦したが、私にはその気力はなく、ここで十分と休憩を取り続けた。気になっているのが16時というロープウェイの最終時間。現在14時で、下りが苦手な私にはギリギリの状態。上りが2時間であった。リーダーに告げ、皆の予定より10分前に、私は下山開始。多分中間地辺りで追い付かれるだろう。下りのザレ場では高山植物が紅葉色に染まり美しい。カメラに収めた。

 一足先に下山開始 遅い午後の時間のためか、下山者は少ない。ストックを使いながら、懸命に下り続ける。想定通り、中間の地獄薙ぎで、元気な中年2人に追い付かれて、一緒に下る。そして、七色平分岐で、後続グループを待ったが、その後はまた離されてしまった。不動岩下から山頂駅に着いた時は、15時55分。ところが先着メンバーは足湯を楽しんでいた。最終ロープウェイは16時30分であった。携帯が振動し、娘から。木曽御嶽山の件を知った。直ぐ、登山中だが白根山と返信した。無事下山し、紅葉が始まった金精峠への道からいろは坂を下り、宿泊先鬼怒川温泉へと向かった。ワンゲル部の皆さん有り難うございました。お陰で高山登山を楽しみ、記録に加えることが出来ました。 (2014/9/27 40/100)

追記 久しぶりの百名山であった。単独行も予定していたが、アクセスが悪くのびのびとなっていた、ワンゲル部のお陰で、登山を楽しんだ。毎秋、木曾御嶽山の噴火事故の報道の度、私は本山を思い出す。

りんかい線から武蔵野線下りを乗り鉄する

 今年の夏はやけに暑い。7月は観測史上最高の暑さであったと報道された。これまでの経験からこの時期は乗り鉄しかない。飲み物や冷たいタオルを用意し、車内の冷房が頼りだ。今回は、池袋駅から埼京線大崎駅を経て、新木場駅で武蔵野線下りに乗車しようと思う。武蔵浦和駅で武蔵野線完乗である。

 りんかい線で新木場駅へ 巣鴨駅から山手線に乗り、池袋駅で埼京線に乗り換えた。新木場行きで、多分初めての乗車。新宿、渋谷を通過し、大崎から山手線を離れ、大井町、天王洲アイルで地下を走り、りんかい線と知った。国際展示場駅、東雲駅があり、東京湾下で、ゆりかもめ線と並行であろうか。新木場駅に着いた。武蔵篠線へ乗換えだが、改札口が違い、戸惑った。この駅は、木場駅(地下鉄東西線)とは近くはないと思うが、方向感覚はない。

 舞浜駅の思い出 下りの府中駅本町行きに乗車。海側に座り、直ぐ荒川を渡って東京湾を眺める。河口で広い。湾沿いは工場や倉庫群で、こんな風景は久しぶりである。舞浜駅を通過し、東京ディズニーランドのある街。前勤務先の恒例行事として、家族を含めたディズニーランド見学があり、孫たちと一緒に参加した。5,6年は続いたと思う。パーティもあり孫たちは喜び、楽しみにしていた。その孫も今や社会人と大学生となっている。車窓からディズニーランド施設を眺め、ホームには見学の家族連れが見える。

 西船橋、新松戸、そして武蔵浦和駅 市川塩浜駅で大きく左折し西船橋駅へと走り、海側から離れ内陸へと走った。東松戸駅を通過し速いなと思ったら、新松戸駅と間違えていた。新松戸駅通過の際交差する常磐線を探したが、見当たらず見逃した。三郷や吉川は少し縁がある。近くの江戸川野球場で職場対抗野球大会があり、若い頃は選手として、その後は応援に駆け付けた。大分昔の話になってしまった。東川口駅、南浦和駅、そして武蔵浦和駅であった。これで今回の武蔵野線下りの乗り鉄は達成で、埼京線に乗り継いだ。前回は当駅から府中駅本町駅迄乗った(24.8.1)。板橋駅に降りPASMOで清算したら、今回は一筆書きにはならなかった。新木場駅で改札したからであった。(2024/9/4 K.K. 1570)

◇日時 2024/8/18 ◇天候 晴 ◇交通費 1,080円 ◇歩行距離等 4,000歩 3㎞
「通過時間等」 自宅8:30-JR巣鴨駅9:10-同池袋駅9:20-同新木場駅10:16-同武蔵浦和駅11:32-三田駅新板橋駅12:04-自宅12:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「遂に登った両毛線沿いの山・三毳山」

 栃木県両毛線沿いにある三毳山(ミカモヤマ)の存在はハイキングを始めた頃から知っていた。特に春のカタクリの花の名所として、そっちこっちの資料に紹介されている。山自体は低山(229m)で、初心者向きだが、アクセスが悪い。最寄り駅が両毛線岩舟駅で、バスの便はなく徒歩約1時間とある。

 両毛線岩舟駅から 連休中の新聞に挟まれたチラシ広告に、両毛線直通臨時列車が走ることを見付けた。これはチャンスと、飛び付いた。この時期ツツジが咲くという情報もある。岩舟駅に降ると直ぐ田畑地帯で、その先に資料で眺めたなだらかな山容が見えた。右手に古墳を眺め、高速道下から左手麓を回り込んでとちぎ花センター先の公園東口まで、丁度1時間であった。管理事務所で、マップを貰い上り始める。晴天下の連休最後の日子供連れが多い。三毳山南半分は公園化されて、フラワートレインという乗物が走っている。そんな様子を横目で見て、山中へ入る。東山道跡の案内から関所跡への道を上がるが、僅かな急坂がきつい。

 尾根を上下 ゆっくりが基本だが、直ぐ先の尾根を目指して急いているのだろう。関所跡で休憩し、先ずは三毳神社へと南方向へ尾根筋を行く。中岳頂上を経ると、林が開けて、眼下に関東平野が広がった。ハンググライダー離陸場もあり、レールがあった。下から機体を運ぶものだろう。神社は奥社で社だけポツンとあった。簡単に参拝してまた休憩。本山の山頂は北にある青龍ケ岳のようで、Uターンして再度尾根筋を歩く。先程の関所跡からは、急にハイカーや散策者が少なくなった。緑が冴えてブナ林が美しい。また急登が始まるがジグザグに上がると程なく、青龍ケ岳に着いた。狭い頂上をアンテナ塔が占領している上に、林で展望もない。

 万葉集歌碑 小憩後、ザックからストックを出して、下り始める。歩きやすい山道だが、慎重に進む。途中山ツツジの花に出会いカメラに収めた。こんなに上ったのかなと思う程に下りが続き、カタクリの里を通過。そして管理事務所前へと下りた。傍に有名な“下野の三毳の山のこ楢のすまぐはし児ろは誰が笥か持たむ”の万葉集歌碑があった。シャッターを切り、公園北口から岩舟駅へ向けて、舗道を歩き続けた。

 三毳山の前に、岩舟駅先の富田駅に降りて足利フラワーパークに藤の花を観賞した。これにはわけがある。昨年友人を案内したが時期が早く花はさっぱりで、残念な思いをした。今回は期待できるとの情報を得て、その通りであった。大藤、下がり藤、花房のような藤、白藤と昨年は嘘であったかのように、全て咲き揃っていた。これが足利の藤かとせっせとカメラに収め、携帯も使用。帰りの電車内から花友Aさんに三回に亘って、藤花のメールを送り続けた。直ぐ、“素晴らしい藤の花”と返信があった。(2011/05/08  39/100)

追記 三毳山はハイカーには知られた山である。「日本100低名山を歩く」(同書82頁)でも紹介されている。しかし、関東平野の北に位置し栃木県にある孤峰で、アクセスも良くない。私は両毛線岩舟駅から歩いた。万葉歌は、下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれと結婚するのかなの意という。東北高速道路が山裾を走り、通るたび三毳山を眺め、思い出している。

東急世田谷線に乗り、沿線に神社を巡る

 購読紙の“我がまち再発見”が世田谷の三軒茶屋であった(24.5.2讀賣夕刊)。三軒茶屋には、世田谷線の終着駅があり、下高井戸駅からの短い路線だが乗り切ったことはなく、ミニ乗り鉄も良いだろう。10駅、5㎞と知る。太子堂八幡神社も紹介されていて、未訪で参拝したい。暑い中だが、なんとか凌いで巡りたいと思う。車中は問題ない。

 下高井戸から三軒茶屋へ 京王線下高井戸駅で、世田谷線に乗車した。二両編成の電車は、住宅街を走った。これまで沿線を歩いた際、細切れに2,3度乗ったことはあるが、三軒茶屋駅迄はない。山下駅が小田急線の乗換駅で、見覚えがあった。駅というより停車場である。そして、右手が世田谷八幡神社、左手が豪徳寺から世田谷城址で、これまで訪ねたことがある(01/03/24)。松陰神社のある駅も通過、幕末の吉田松陰を祀った社が世田谷にある。電車は終点三軒茶屋駅に着いた。25分程度の乗車であった。立派な駅舎で、私の知る50年前の三軒茶屋駅とは違っていた。

 古社太子堂八幡に参拝  駅前へ出ると暑く、蒸し暑い。コンビニに入り冷茶を求め、太子堂八幡神社へと茶沢通りを行く。初めての地で、下町の商店街通り。新聞にもあった屋上にゴリラ像のあるビルがあった。ランドマークとある。左折し、住宅街となり、大分歩いた先に太子堂八幡神社は鎮座していた。鬱蒼とした森に囲まれた広い境内で、大きな鳥居の下から社殿前に進み手を合わせ、孫達の健康と成長をお願いした。前九年の役(1052-1061年)の際当地で、源頼義、義家の父子が戦勝祈願したことに由来する古社とある。都内とは思われない立派な社叢で、ご神木大楠を見上げた。表参道の先が西太子堂駅であった。

 再び世田谷線 世田谷線は路面電車との情報があったが、踏切は多いが、全て専用の複線鉄路で都電荒川線とは違っていた。復路で松原駅に降り、赤堤六所神社に寄る。往きの車窓から見当を付けていて、少し戻って左折し裏参道からであったが境内に入り、社殿前で参拝。やや狭い境内に神楽殿から結婚式場もある本格的な神社。線路脇にひまわりの外、キバナコスモスを見付けてカメラに収めた。自然は移ろい、夏の盛りも過ぎようとしているのか。下高井戸駅から神保町駅へ戻った。(2024/8/22 K.K.1569)

◇日時 2024/8/6 ◇天候 曇り ◇交通費 830円 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞        
「通過時間等」 自宅8:10-都営新宿線神保町駅8:53-世田谷線下高井戸駅9:20-同三軒茶屋駅9:45=太子堂八幡神社10:00=世田谷線西太子堂駅10:14-同松原駅10:30=赤堤六所神社10:40=世田谷線松原駅10:50-京王線下高井戸駅11:06-三田駅神保町駅11:39-自宅12:15

私が登った百の名山&低山=関東編=「雨中の中5時間歩き通した日光鳴虫山」

 10時20分に東武日光駅をスタートした。日光の鳴虫山(ナキムシヤマ)に登頂し下山口発電所を経て、やしおの湯に着いた時は15時間20分で、丁度5時間を経過していた。久しぶりのロングコースであり、また難コースでもあった。今回は、ハイク仲間Kさんに同行を願った。鳴虫山は厳しい深山で、単身では少し不安があった。また今夏予定している北アルプス燕岳登山への足慣らしも兼ねた。最近新調した軽登山靴も試さなければならない。

 曇天の下スタート 登山口は東武日光駅から15分程歩いた住宅街の裏に見付かった。出掛けの東京は曇りであったがこちらは曇天で今にも降り出しそうである。のっけから急な坂道を上がる。右手に天王山神社が現れる。資料には展望が良いとあるが何も見えない。安全をお願いして本道へ戻る。右折して笹の覆う細い坂道を過ぎると神ノ主山であった。スタート後約1時間であった。ここでも眺望は得られない。休憩して水とチョコレートを補給。

 尾根道を上下し登頂 樹林帯の尾根道を行く。小さなピークの上下を繰り返す。それでも結構厳しい上りもある。息が切れないのは日頃歩いている所為であろう。突起点に達した。時間的には頂上かと思ったが案内もなく、鳴虫山トップにしては寂しい。この辺りからKさんに遅れがちになるが、マイペースを努めながらも後を追う。更に二つの短い急登を経た先が鳴虫山の頂(1,103m)であった。先人ハイカー数名が休憩中。そう言えば入山以来人っ子一人にも出会わなかった。天候に加えて、夏はこの山の好適シーズンではないのかもしれない。

 厳しい難路を下る 昼食後、雨具を着けて反対側へ下山開始。急降下が三箇所もあると資料にある。先程の老ハイカー達が駅側へ下ったのも難所を避けたのだろう。心して一歩一歩下る外はない。最初は階段が設けられた地点。長い階段だが危険はなく下り続けて、合峰を通過。下りの急坂が続くと僅かな上りも辛い。独標で休憩。これからが最後の難関の筈。滑りやすい坂にはロープがあって、掴まりながら慎重に歩を進める。下りが苦手でモタモタ歩く小生と、スイスイ進むKさんとの間には距離が開き、先行した彼は待っていてくれた。

 やしおの湯へ下山 急降下地点を終えてなだらかな山道になると林道へ出て一安心。しかし気を抜いたわけではなかったが、小さな傾斜に滑って軽く尻餅を付く。無事発電所傍に下山。雨と汗で濡れた身体には温泉が一番と、30分先のやしおの湯まで最後の一踏ん張りをする。これが長い距離、膝が笑い始めていた脚には堪えた。温泉施設に到着してザブーンと飛び込む。体重は大台を僅かながらも割っていた。次の燕岳にも少し自信がついた。Kさん、お付き合い戴き有り難うございました。(08/7/21 38/100)

追記 日光市街の裏手で、曇天から小雨の中、アップダウンが厳しい尾根道、展望のない樹林帯をKさんに引っ張られて歩き通した印象が強い。温泉までも距離があった。鳴虫山は、「日本100低名山を歩く」登載の山であった(同書76頁)。

太平山に登り関東ふれあいの道と交錯する

 太平山に登った。栃木県にある低山(343m)だが北関東ではハイキングのメッカになっている。頂上下の太平山神社や麓の大中寺が関東ふれあいの道(栃木県11「サクラ咲くパノラマの道」)に含まれているので、大分前だが歩いたことがあり、古刹大中寺の風雪に耐えた石段が記憶に残っている(96.11.9)。今回は栃木県出身のMさんが一緒で、彼は高校時代以来数回登っているという。

 謙信平、太平山神社 東武日光線を新大平下駅に降りて、客人神社参道から山中に入った。雨後の石段や坂道は歩きにくい。散策中の親子連れや茸狩りの男性に出会う。もう初秋でその時期なのだ。林を抜けて飛び出た地が謙信平。関東平野が一望でき、その中に小山が浮かぶようで陸の松島と呼ばれ、戦国期関東へ進出した上杉謙信も感嘆してこの名が付いたという。ベンチの一画を借りて一休み。傍には当地出身の山本有三の記念碑があった。急な石段を上り切ると太平山神社。参拝した後、社務所で絵馬を求めた。

 太平山、晃石山 神社裏手から頂上を目指す。僅かな上りで富士浅間神社に到達。三角点を探したが見付からない。ふれあいの道案内板によると山頂一帯が中世山城・太平山城跡とある。しかし痕跡は薄い。昼食にして、Mさん持参のガスコンロでみそ汁とコーヒーを戴く。手際よく支度して湯を沸かし山での食事を賑やかなものにしてくれた。
 山頂からは急降下の道。踏み跡は林の中にもあり、木々に掴まり、スピードを殺して下った。ぐみの木峠に出て、決断が迫られた。数少ない快速電車に乗るには左折して大中寺に下りることになる。しかし、次の晃石(テルイシ)山へのコースは関東ふれあい道・栃木県25「稜線をたどるみち」となっている。この際ふれあいの道を踏破しようと直進し、やや荒れた道を上って晃石山頂(419m)に着いた。ここでもおばさんグループとすれ違う。ご婦人ハイカーはどこの山でも多く、しかも皆元気である。

 晃石神社、清水寺 頂を下りると晃石神社。この先が資料にもある急坂で、初心者には下りではなくて、上りを薦めている。慎重に下れば大丈夫だろうと踏み出した。確かに急な下り坂が連続している。先程同様に、木を伝い岩角に手を掛けて下り続ける。しかしMさんとの距離は空いてしまい、やはり小生は下り坂が苦手で遅いことが実証されてしまった。この坂を上りとして歩いた場合でも決して容易いとは思えず、下りの方が楽だろうなどと考えている内に、長い坂も終わり林が切れて小さなお堂の前に出た。清水寺で、水場もあり休憩した。

 大中寺 萩の咲く林道から集落に入り、ふれあいの道(栃木県10「かかしの里・ブドウのみち」)標柱を見付けて大中寺が近いことを知る。杉林の参道から、例の石段を上がる。曹洞宗の古刹は太平山の山腹に静かに山門や本堂を構えていた。先の謙信は後北條方とこの寺で和議を結んだこともあるという。境内で小憩した後、当寺に纏わる七不思議の油坂や、崩れそうな開かずの雪隠、馬首の井戸などを眺めて、駅へ急いだ。途中、道に落ちた山栗を拾い孫達への土産にした。(2004/9/07 37/100)

追記 栃木の謙信平から大平山、晃石山と低山を歩いた。晃石山は日本百低山に選ばれていると知った(小林泰彦著106頁)。関東ふれあいの道栃木県コースと交錯していた。戦国期当地へ侵攻した謙信の名や歴史が遺り、古刹大中寺もその一つであった。再々訪は未だ叶わない。

武蔵野線、南武線、上野東京ラインで赤羽へ

 天気予報を睨めっこしながら7月が過ぎ、一ヶ月空白となってしまった。そして、気温の低い日を選び、JR武蔵野線の武蔵浦和駅から府中本町駅へ乗り、JR南武線で川崎駅へと乗り鉄を計画した。車内は涼しいだろう。何故か武蔵浦和駅から府中本町駅間の乗車は記憶が薄い。今回は、ゆっくり半周したい。暑さに備えて、保冷バッグに冷やしタオルを用意した。

 武蔵野線を半周 武蔵浦和駅へは板橋駅から埼京線とした。20分程で着き、武蔵野線ホームへ出て、府中本町行きに乗り換えた。直ぐ西浦和駅で、友人Sさんの最寄り駅と聞いている。埼大前から荒川鉄橋を渡る。河川敷は広く、その中心を大河は流れている。満席に近いがクーラーが効き、暑さは感じない。そして、北朝霞駅を通過。東武東上線との乗換駅で、私はここから武蔵野線利用が多い。左手先が平林寺だが、直接確認はできない。ハイキングで歩き回った地である。東所沢駅付近から多摩地区へ左折する。当地は武蔵野台地で、乗車する度に、トンネルや溝の底を走っている感がして、もぐら線である。これが西国分寺駅辺りで解消し、車窓風景が現れた。武蔵野線終点府中本町駅に到着し、南武線ホームは離れていた。今春訪ねた大国魂神社社叢が見える筈だが、そのチャンスはなかった。

 南武線の思い出 川崎行きに乗る。多摩川を渡り、神奈川に入った。南武線は駅名を知る程度。稲田堤駅は、京王相模原線乗換駅で、多摩キャンパス通勤時代2度程乗換えたが、両駅間は離れていて戸惑った経験がある。登戸駅を過ぎて、若い頃の南武線沿線を思い出した。工業高校を卒業し、当地の機械メーカーに就職した同級生が多くいた。当時発展途上で若いエンジニアが必要とされたのだろう。その彼らと付き合いがあり南武線を上下した。しかし、大半はuターンし残った人は少ない。武蔵溝ノ口、同新城、同中原、同小杉を通過し川崎駅に滑り込んだ。

 尾久駅を過ぎ赤羽駅降車 上野東京ラインを思い出し、少し待って高崎行きに乗車。ホームは暑く、冷えたタオルで顔を拭いた。停まる駅は少なく、品川、新橋、東京、上野を通って、なんと尾久駅に停車。私にはハプニングで、カメラを出しホームを写した。赤羽駅に降りて、西口からバスで三田線志村坂上駅前に降り、帰宅した。鉄道運賃は、板橋駅、赤羽駅間で清算され、途中下車なしの一筆書き運賃であった。(2024/8/12 K.K.1568)

◇日時 2024/8/1 ◇天候 晴 ◇交通費 167円 ◇歩行距離等 4,000歩 3㎞     「通過時間等」 自宅8:25-JR板橋駅8:59-同武蔵浦和駅9:28-同府中駅本町駅10:10-同川崎駅11:00-同赤羽駅12:08-三田駅志村坂上駅12:15-自宅12:30

阿武隈急行に乗り仙台東照宮へ

 仙台にも東照宮があることを知った。上京前に仙台滞在中案内して貰ったのが大崎八幡宮と思っていたのだが、それが仙台東照宮だったのではないかと思うに至った。先に大崎八幡宮を訪ねた(18.12.4)が再訪の筈が違っていたからだ。大人の休日俱楽部パスの三回目は仙台行きとし、福島駅から宮城の槻木駅間は、阿武隈急行乗車とした。

 仙台東照宮の思い出 仙台東照宮は、仙山線東照宮駅下車で、仙台駅の次であった。駅前が東照宮で、横断歩道を渡り、参道から石段へと進んだが、記憶は蘇らない。仙台東照宮は、家光に願い出て、二代仙台藩主忠宗が1654(承応3)年創り上げたとある。本殿前へ出て、参拝。そして、また四方を見渡した。50年前の朧げな記憶では、杉並木、長い石段だが、似てはいるが違うようでもある。境内を大回りし、坂道を下りた。車で送迎して貰ったのはこの辺りであったかなと思い浮かんだ。振り返って見て、石段、杉並木が小振りに思えるも、多分、50年前私が仙台で参拝した神社は当社だろうと思うに至り、駅へ戻った。

 阿武隈急行で福島から宮城へ 東北新幹線を福島駅で降り、阿武隈急行に乗車した。三セク路線で宮城の槻木駅迄54.9㎞、24駅とある。初めての乗車で、知る駅名も数駅だけ。信夫山の山裾を走って、新幹線の高架下を出て、住宅街に入った。福島市のベッドタウンのようだ。次第に田園風景が広がり、見える河川は阿武隈川かその支流だろう。福島県は広く、中通り地区か。梁川駅であったと思うが、伊達氏のふるさとの案内があった。政宗の先祖は米沢ではなく、福島の伊達市出身で、戦国期政宗の祖父晴宗の隠居城は現福島市内にあった。山間を進み、左手に大河が見え隠れし、兜駅を過ぎ宮城県へ入った。宮城から丸森駅迄嘗ては国鉄が通っていたようだ。東船岡駅付近でJR東北線が近いと感じ、次が終点槻木駅であった。現JR線とホームも併用していて、隣に着いた仙台行きにスムーズに乗り換え、30分弱で仙台駅に到着した。

 仙台東照宮参拝後、時間があり急遽、古川駅へ行き同駅から小牛田駅へ陸羽東線の空白を埋めようと思い付き、新幹線で古川駅へ出たが、小牛田駅行きがタイミング悪く、そのまま東京行きに乗るほかはなかった。事前調査を怠った罰である。残念。(2024/7/30 K.K.1567)

◇日時 2024/6/25 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス+980円 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞ 「通過時間等」 自宅7:55-JR上野駅9:02-阿武隈急行福島駅10:49-JR槻木駅12:16-同仙台駅12:49-同東照宮駅13:00=仙台東照宮13:05=JR東照宮駅13:17-同古川駅13:51-同上野駅16:28-三田駅巣鴨駅16:47-自宅17:10

私が登った百の名山&低山=関東編=「行道山から萩の咲く尾根を歩く」

 秋分の日を挟む三連休の中日、遠出も可能で、栃木県足利市にある関東ふれあいの道コースを歩く。快晴だが、先日から気温が急に下がり秋らしくなって、久しぶりに長袖シャツにした。ハイキングには絶好の日和だ。北千住駅から東武伊勢崎線特急を利用して、足利市駅発午前中1便という市営バスに間に合わせた。車窓から眺めた富士は白富士で、初冠雪は数日前に報道された。

 浄因寺から行道山 ハイキング客だけを載せたバスを終点で降りて、行道山(ギョウドウサン)浄因寺を目指して歩き出す。山道の両側に流れが落ちている二つの滝が迎えてくれる。阿吽の滝というらしい。杉林の道から石段を上り詰めると浄因寺。資料に関東の高野山とあるが、古刹を窺わせるも、山腹に建つ小さな寺(713(和銅6)年行基が開山)であった。先程参道で山を下るお坊さんと会釈を交わしたが当寺の住職だったのだろう。小憩後、寺の裏から尾根に出る。近くに寝釈迦像があると知り、立ち寄るも50cm足らずの小さな石像であった。

 展望を楽しむ 本格的なハイキングコースとなり、程なく石尊山山頂(442mに上がる。バスで一緒だったハイカー達と見晴らしを楽しむ。北は男体山、西は赤城山から榛名山、東には筑波山がそれぞれ特徴のある山容を見せている。案内には富士山もあるが樹木が育ち遮っている。水を補給し、ベストをザックに仕舞い、尾根歩きを続ける。

 両崖山城址 一旦山を下り舗道に出て大岩毘沙門天に着く。途中剣ケ峰(417m)を踏んだ筈だが小さなピーク程度で気付かずに越してしまったらしい。参拝後、舗道歩きから両崖山への山道に入る。山頂に遺るという中世城跡に期待する。空壕跡を思わせる窪地や鞍部を三度横切ると山頂(251m)であった。足利城(両崖山城ともいう。)本郭跡だろう。藤原秀郷の孫足利成行が1054(天喜2)年に築城し数代続き、城主足利長尾氏を経て小田原の役で廃城になったという。北限という椎の大木が繁る城跡で、犬を連れたハイカーの側で昼食を取った。

 足利織姫神社へ 更に萩の花が咲き始めた尾根伝いを歩き、展望台から足利市街を見下ろし、小さな岩場道を通過。織姫公園に下り園内から織姫神社に到着して、行道山からのミニ縦走は終点となった。6.1kmのコース中、小さなアップダウンを数度繰り返したが、顔の汗を2,3度拭っただけで、暑さを感じることはなかった。

 ふれあいの道は足利市内から両毛線足利駅までに延びており、鑁阿寺(バンナジ)、足利学校を見学して駅にゴール。今回は浄因寺から足利駅まで、ふれあいの道コースを一度も外れることなく歩き通した。珍しいことである。(2001/9/23 36/100)

追記 関東ふれあいのみち栃木県コース7「歴史のまちを望むみち」を歩いたら、石尊山、剣ケ峰、両崖山を貫いていた。行道山と知る。同山は、「日本100低名山を歩く」登載の山であった(同書72頁)。

会津若松から新津へ山中を走しる磐越西線に乗る

 JR東日本大人の休日俱楽部パス2日目は、予定通り、会津若松駅から新津駅へ磐越西線乗り鉄にした。同線は郡山駅からで、会津若松駅からは後半であるが、私にとってはこちらが磐越西線である。新津駅から2度乗ったが、いずれも冬季で、今回は、初夏の車窓風景が楽しみである。梅谷心愛が唄う演歌“磐越西線ひとり”も、会津や猪苗代湖、磐梯山付近の前半だけである。過疎ダイヤで、会津若松駅で2時間ほどの待ち時間があった。

 会津若松、喜多方、山都 新津行きは定刻に会津若松駅を発車。当初郡山行き線路と並行したが、喜多方方面へと左へ大きくカーブし水田地帯を走った。喜多方駅迄は雄国沼湿原ハイクの際一度乗降した(08/07/13)。広め川を2度渡ったが阿賀川ではない。次第に上りの林の中となり、山都駅に着いた。秘湯の会で、車で西会津から津川を巡った時(15/05/30)、当地も通り、駅付近の深い谷川、阿賀川は眺めたことがあった。山間を進み、左手はダム湖のような川で、こちらの印象が残っていた。

 西会津の中心野沢 そして、野沢駅、西会津町の中心で、前回詣でた大山祇神社の最寄り駅と知った。停車時間があり、ホームへ出て一眺めした。更に深い山の中を進み、同じ会津でも只見線とは違い渓谷ではなく、山奥へ、山奥へと山中を突き進んでいる。阿賀川は右手に現れ、川幅一杯に流れ下っている。駅間は長くなり、徳澤駅から豊実駅で新潟へ入り、阿賀野川となった。峠ではなく、トンネルもない県境。津川駅は当線の主要駅だと思うが停車時間は短かった。戦国時は会津領で津川城があり、阿賀野川と支流の合流地山稜の先端部にあった。阿賀野川は大河となり、本日も右手を流れ下っている。

 新潟平野へ下る 新潟側も山中だが、深い森は脱したよう。列車も下りに入りスピード感を増した。乗車時間2時間を過ぎ、疲れを感じ、ザックから会津産地酒を出した。越後平野の東端へ出たようで、五泉駅を通過。同級生の一人が転勤で赴任した地で、名前だけは知っていた。左奥に高山を望み、若しかしたら八海山かと思ったが自信はない。そして、終点新津駅に滑り込んだ。会津若松駅から約2時間30分を要し、磐越西線後半を乗り切った。ここで、信越本線に乗り換え新潟駅へ出て、新幹線で帰京した。(2024/7/16 K.K.1566)

◇日時 2024/6/23 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞ 「通過時間等」 自宅9:35-JR上野駅10:43-同郡山駅12:15-同会津若松駅14:33-同新津駅17:14-同新潟駅17:50-同上野駅19:55-三田駅巣鴨駅20:17-自宅20:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「川治温泉に埋蔵金伝説の南平山を訪ねる」

 南平山(ナンダイラヤマ)は鬼怒川温泉の奥、川治温泉のそばにある山である。同温泉に宿泊する機会があり、夕方現地集合の間を利用して南平山に登る。資料によれば、源平合戦に敗れた平家の落武者が、源氏の追撃から更に奥の川俣、湯西川方面に逃れる際、南平山に平家再興のための軍資金を埋蔵したと伝えられるという。

 川治温泉駅から 北千住から東武線、野岩線直通の電車で川治温泉駅に下車し、鬼怒川を挟んで真向かいの南平山を目指す。小網ダムを通って対岸に渡り、林の中の小径を川治温泉方面へ進むと程なく南平山の案内標識を見付ける。直ぐそばの山道に入ると道は荒れて薄くなってしまった。資料には「標識より少し先」とあったのを思い出し、戻って先に登山口を探すが見当たらない。赤いテープを確かめ再度標識そばの道に入る。思い切って荒れた道を先に進むと次第に道がはっきりし、「頂上まで3km」の標識に出会いホッとする。山頂までは2時間弱の見当か。一旦林を抜けると鞍部に出て左右が開け、左に川治温泉駅、右に同温泉方面が見える。鉄塔の下で休憩し水を飲む。

 独り上り続ける 再び展望のない林の中の緩やかな上りの道をゆっくりと進む。道は悪くはないが最近歩いた形跡はないようだ。そういえば先程から人っ子一人に会わない。ハイキング雑誌に紹介されている程の山だから、本日は土曜日だし一人ということはないだろうなどと思いを巡らす。道を塞ぐ倒木がやたら多くこれを避けながら、二俣分岐の道を左に採り、小さな葛折の道を更に上ると四阿に着く。四阿は休憩する人もなく、林の中にひっそりと立っていた。標識は200mごとに設けられ埋蔵金が描かれた洒落たものだが、荒れた道、倒木、無人の山とはアンバラな感じ。

 山頂で昼食後下山 標識が教えて呉れる残り距離を頼りに山腹にジグザグに刻まれた道を一気に上ると山頂(1,007m)に到達。周りが木々に囲まれて眺望は得られず、頂上を示す標識と埋蔵金伝説の案内があるのみ。誰もいない寂しい山の頂で、簡単な昼食を取る。
 下山は同じコースを採り、ジグザグ道をショートカットすることもなく安全第一で、上りには1時間30分要したが1時間5分で下った。結局山行中他にハイカーを見掛けることもなく、約3時間埋蔵金伝説の山を一人独占した。途中、猿の腰掛けを見付け土産に採ろうとしたら、見事に失敗し木から離れた茸は山の傾斜を転がり落ちて行ってしまった。現在でも山の宝には手を触れさせない平家落武者の怨念だろうか。
 下山後、川治温泉の宿泊先まで歩き、温泉で汗を流した。(99/5/29 35/100)

追記 山中で、人っ子一人にも出会わなかった。その後も含めて、こんな経験はない。それでも寂しさも感じなかったと思う。埋蔵金伝説の案内が多かった。そして、下山後宿泊先の旅館まで歩いて、温泉に浸かった。翌日は、早朝に尾瀬へと出発した。若かった時代のことである。

馬流から東小諸へJR小海線を乗り鉄する

 今年もJR東日本大人の休日俱楽部パスの利用期間となった。処が体調不十分で、2日遅らせ、近場から開始した。五能線は次の機会にしようと思う。新幹線の乗り鉄にすれば、この時期雨でも、暑くともそう影響なく楽しめる。北陸新幹線で、佐久平駅から小海線にした。一度小淵沢駅から小諸駅迄下りに乗ったことがある(18.9.23)が、今回は上りにする。車窓からの風景も違うだろう。

 小海線馬流駅 佐久平駅で、小海線上り列車を待った。高原鉄道で、日本一高い駅野辺山駅(標高1375m)に向かって上りの路線で、標高800m以上の駅が続いている。岩村田駅、中込駅、龍岡城駅、臼田駅を過ぎた。佐久地方の中心だと思うが、間もなく田園地帯で、田植えも済んでいる。右手先の山々は八ヶ岳連峰と気付いた。車窓からもはっきり見え、カメラに収めた。八千穂駅から馬流(マナガシ)駅に着き、下車。当地に、秩父事件の慰霊碑があると知ったのは前回当駅通過時である。駅の前にあった墓園は違っていた。

 秩父事件慰霊碑 地元の方に伺い、少し右先へ行くと慰霊碑はあった。秩父事件は、1884(明治17)年秩父の主力産業生糸が大暴落し、農家の高利貸しへの借金返済等が困難になって、農家、民衆が高利貸しや警察、役人を標的として暴動を起こした秩父困民党事件である。3日程で鎮圧され、秩父から県境の峠を越し当地馬流しに拠点を移したが、軍隊迄出動して抑え込まれ、その時死亡した者の秩父の孫達が40年後慰霊碑を建てたという。立派な慰霊塔と戦死者の墓と題する由緒書きがあった。私は、軽く頭を下げ、カメラに写した。下り列車に乗り、思い出した。永六輔が秩父事件は日本最後の百姓一揆で、フランス革命に通じるところがあると言ったと思う。高原鉄道の下りは速いように感じた。

 小諸馬子唄から追分節へ 佐久平駅を越し、三岡駅を通過。永六輔が疎開した先で、彼はここから上田駅迄、汽車通であったという。上田中学のことはしゃべらなかったようだ。東小諸駅に降り、平和公園にある小室節歌碑を往復。“こもろ出てみりゃ浅間の山に今朝も三筋の煙経つ”と刻んであった。有名な馬子唄で、これが信濃追分で歌われ、飯盛り女の三味を通じ北国街道で新潟へ出て、北前船で北上し秋田を経て、松前、江差へ伝わり発展したと、追分公園の石碑で知った。原点が小諸馬子唄である。近くに北国街道唐松一里塚があった。隣の食品スーパーで昼飯と飲み物を求める。当店は義理の姪の旦那さんが務める店と思い出した。東小諸駅から佐久平駅に戻り、新幹線を待った。(2024/7/9 K.K. 1565)

◇日時 2024/6/22 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」 自宅7:40-同上野8:48-同佐久平駅10:18=同馬流駅11:00=秩父事件慰霊碑11:10=JR馬流駅11:19-同東小諸駅12:15=平和公園12:25=JR東小諸駅13:04-同佐久平駅13:48-同上野駅15:18-三田駅巣鴨駅15:36-自宅16:05