茨城に酒列磯前神社、大洗磯前神社を巡る

 テレビの旅番組であったと思うが、数年前常陸三名社巡りを観て、酒列(サカツライ)磯前神社、大洗磯前神社を知り、そのうちに参拝したいと思っていた。茨城県阿字ヶ浦町と大洗町にあり太平洋寄りで、アクセスが良くなく、後回しになっていた。御岩神社は、偶々少し前に訪ねていた(17.12.9)。

 樹木のトンネル参道酒列磯前神社 常磐線特急を水戸駅の次の勝田駅に降り、ひたちなか海浜鉄道に乗り換え、最寄り駅磯前駅へ向かう。子供達が幼い頃、阿字ヶ浦へ海水浴に来た時乗ったと思う。工場地帯から田園地区を走り、磯前駅に下車。案内はなく一度尋ね、集落内で左折した先が参道口であった。参道は亜熱帯樹林に覆われたトンネル(写真上)。樹齢300年の椿やタブノキ、スダジイ等の下を行く。 

 最奥に本殿、拝殿が鎮座し(写真中)、静かな中参拝。856(斉衡3)年創建の古社。変わった社名は、醸造の神、酒の神とあるが由来はない。私の節酒や禁酒には関与しないようだ。奉納された地酒の樽を並べた社殿があり、“白鹿”が目に付いた。灘ではなく当地石岡のもので、商標が被っていることを思い出した。また、社叢のトンネルを戻った。途中の裏参道に海の見える鳥居があり寄ると、阿字ヶ浦港が覗けた。

 参拝者が多い大洗磯前神社 ひたちなか海浜鉄道磯前駅から那珂湊駅へ出て、タクシーで大洗磯前神社を目指すが、運転手は道路が混んで行けないとの返事。大回りして貰うことになり、那珂川上流の橋を渡り迂回して大洗へ入り、神社下に降りた。当社は土産店等もあり参拝客も多く、大社のよう。先ずは海岸へ出て、神磯の鳥居を眺める。意外に小さい鳥居だがカメラに収めた。

 大鳥居から高くて広い石段を上がって(写真下)、大洗磯前神社拝殿前に進み、他の参拝者に交じって手を合わせる。酒列磯前神社と創建時を同じくする兄弟社のようだが、規模、否格違いにも見える。黄門様も崇拝し、“あらいその岩にくだけて散る月を一つになしてかへる月かな”と詠んだとある。
 参拝者用バスも往復する裏参道の坂を下り、バス停でバスを待つ。通りは相変わらず混んでいて、バスは来きそうもない。反対側のバス運転手が声を掛けてくれ水戸駅行きで、乗車。お陰で、早めにJR水戸駅に着き、弁当と地酒を求めたが、石岡白鹿はないと言われた。品川行き特急に乗り、呑み鉄を開始した。(2022/7/14 K.K. 1463/1500)

◇日時 2022/06/26 ◇天候 晴れ ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス+列車、バス、タクシー代3280円 ◇資料 大洗磯前神社へのアクセスマップ外 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅7:40-JR上野駅9:00-ひたちなか海浜鉄道勝田駅10:43-同磯前駅11:07=酒列磯前神社11:25/11:50=磯前駅12:07-那珂湊駅12:20-大洗磯前神社12:40/13:20-JR水戸駅14:27-同上野駅15:38-三田線巣鴨駅16:00-自宅16:30

JR大船渡線を乗り切り、花巻へ

 大人の休日俱楽部パス2日目、本日はJR大船渡線乗り鉄から釜石経由で花巻へ出て、城跡見学の予定。大船渡線の気仙沼駅から先は初めての乗車で、何故か一度は乗ってみたく、また訪ねたい地である。宿泊地一ノ関は北東北の玄関口で、新幹線も停まり便利な地。駅前のホテルには一度泊ったことがあった。

 大船渡線今はバス 朝7時気仙沼行きに乗った。ここからJR大船渡線であるが、気仙沼駅、一ノ関駅間は一度乗った。気仙沼駅に着いてバスへ。BRT路線、震災後はバス路線だが、最初と最後は線路跡のよう。途中では高速のような道路も走った。やっぱり列車旅の雰囲気はない。陸前高田付近は、未だ整備中のような地域で建物も少ない。そんな中奇跡の一本松が見えた。現在では枯れてモニュメントと報道された。碁石海岸駅を過ぎた大船渡付近は、右手海側は漁港や水産会社が並んでいる。私には縁はなく、有名なバトミントン選手と結婚した演歌歌手の出身地位の知識だ。終点盛駅(写真上)に着いて、三陸鉄道乗換だが駅が違い戸惑った。

 三陸線で釜石へ 三陸線を釜石駅迄乗る。盛駅から三陸線は左へ走ると思ったが、途中までは大船渡線と並行し途中から左へ大きくカーブした。三陸線はリアス式海岸を走った。山間を過ぎ小さな入江が見えると駅で、これを繰り返した。恋し浜駅では長めの停車で(写真中)、入江景色を眺める時間があった。釜石駅で、JR釜石線へ乗り継ぎ花巻駅へ向かう。途中遠野を通過、当地以外は山中を走って、JR花巻駅に着いた。

 花巻城跡を見学 花巻城跡は、JR東北本線花巻駅から奥州街道を10分程度歩いた先の丘上にあった。戦国期は鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、当地の豪族稗貫氏の城であったが、秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、1590(天正18)年の奥州仕置きで領地が没収されてしまった。和賀氏と稗貫氏が一揆を起こし、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も一時は和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌1591(天正19)年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。そして稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、花巻城と改められたという。
 高台の城跡は、現鳥屋ヶ崎公園で、本丸跡が遺り、西御門が復元されていた(写真下)。中は広い平地で一回り。本丸井戸跡や台所門跡がある。当方の土塁越しの先は北上川だろうが、町家が密集し見えない。本丸跡を出て二の丸跡から濠を覗くと、今も水を湛え深そう。駅へ戻り、東北本線で北上駅へ出て、新幹線で帰京した。(2022/7/8 K.K. 1461/1500)

◇日時 2022/06/24 ◇天候 曇 ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス ◇資料 花巻市教育委員会「花巻城」 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」宿泊先7:00-JR一関駅7:19-同気仙沼駅9:04-三陸線盛駅11:08-JR釜石駅12:11-同花巻駅14:10=花巻城跡14:20/14:35=JR花巻駅15:06-同北上駅15:30-同上野駅18:10-三田線巣鴨駅18:20-自宅18:50

福島に猪苗代城跡、棚倉城跡を訪ねる

 JR東日本大人の休日俱楽部のパス利用期間になり、今回の行く先はほぼ決まっていた。東北中心で、初日は城跡巡りとし猪苗代城跡と磐城棚倉城跡。東北新幹線郡山駅を挟んで、左右に位置するが、一時間程度の距離である。未訪の城跡で、水郡線沿線にある棚倉城跡はアクセスが良くなく路線検索をし、猪苗代城跡を先にした。

 戦国期からの猪苗代城 郡山駅で新幹線から磐越西線に乗り換え、1時間弱で猪苗代城駅に着いた。折よくバスがある。乗客3人のバスは病院を回り市街地中心に入って、亀ヶ城口で下車。徒歩でも駅から30分だがこの時期歩くのは辛い。左手の奥だろうと入ると学校先に緑地帯の高台が見え、稲荷神社の並びが城の入口であった。
 石垣と土塁で桝形の面影があり(写真上)、案内もある。緩い坂を上がり、二の丸跡から本丸跡。現在では何もないが土塁に囲まれた郭跡が遺っている。

 猪苗代城は、戦国期会津黒川城主芦名氏を主家とする一族で、猪苗代氏を名乗っていた盛国が拠っていた。伊達政宗の調略を受け、主家を捨てて政宗の味方となり、1589(天正17)年の摺上原の一戦では激戦の末政宗が勝利し、芦名氏は会津から常陸へ落ちた。その後は会津若松城の支城として、一国一城令下でも例外として存置されたという。会津鶴ヶ城から本城は亀ヶ城というらしい。摺上原は磐梯山の山麓で、当城より西側と知る。
 本丸跡から二の丸跡を出て空堀跡を通って、隣の亀ヶ城稲荷神社に挨拶し、バス停へ戻った。城内に野口英世の像があった。彼は猪苗代の出身で、街中には通った学校跡もあった。

 江戸期築城の棚倉城 郡山駅へ戻り、水郡線で磐城棚倉駅へ向かう。水郡線は2度目で水田、里山、そして山間を進む。約1時間乗車し、磐城棚倉駅。磐城山地の小盆地で、駅前案内で位置を確かめ、街の中心を通り城跡を探す。なんとか現公園に辿り着いて、濠を渡って登城(写真中)。現在も四方内堀に囲まれている。中心は本丸跡で、現在も高い土塁が巡っている。こちらも亀ヶ城とある。当地は常陸から奥州への関門で、1622(寛永元年)年幕府命令で初代藩主5万石の丹羽長重が築城開始し次の内藤氏の時完成した近世の城。天守閣はない。戊辰戦争では、官軍の来襲を受け最後の藩主阿部氏は、城に火を放って壊走したのが知られる。
 土塁上から濠を覗き(写真下)、また濠端を歩き、城の往時を忍んで下城し、時の鐘を眺め秋葉神社に寄り、駅へ戻った。水郡線、新幹線で宿泊先一関へ向かう。棚倉と郡山で呑み鉄用地酒小瓶を求めた。(2022/7/5 K.K. 1460/1500)

◇日時 2022/06/23 ◇天候 曇 ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス+バス代400円 ◇資料秋田書店歴史と旅「日本城郭事典」上95頁、下91頁 ◇歩行距離等 18,000歩 13㎞ 「通過時間等」自宅6:40-JR上野駅7:46-同郡山駅9:15-同猪苗代駅10:15-亀ヶ城口バス停10:25=猪苗代城跡10:35/11:05=亀ヶ城稲荷神社11:10=亀ヶ城口バス停11:25-JR猪苗代駅11:58-同郡山駅13:43-同磐城棚倉駅14:50=棚倉城跡15:05=時の鐘15:40=JR磐城棚倉駅16:21-同郡山駅17:50-同一関駅19:05=宿泊先19:10

紫陽花を探し北の丸公園から大手門へ歩く

 6月も半ばになり、紫陽花情報も目に付く季節になった。待っていましたとばかりにネットから見頃の紫陽花園を探し、千代田区北の丸公園に辿り着いた。江戸城の一画で、現在は武道館が建つが、大半は池を中心に草木の植栽地のある公園。そして、皇居東御苑へ巡れば、自然の中に花を楽しめるだろう。

 北の丸公園と紫陽花 今回は、都営新宿線九段下駅をスタート。いつもは神保町駅からだが、九段下駅からが近いとわかった。駅を出ると靖国通りで、濠が目の前。左手濠端に九段会館が見える(写真上)。昔懐かしい会館が建っている。中学時の修学旅行で二泊した思い出の地で、カメラに収めた。
 田安門を潜って北の丸公園へ。武道館前で公園へ入り紫陽花を探し、池の周りだろうと回り込むが花はない。あってもポツリポツリで、紫陽花の咲く公園とは言えない。もっと先だろうと行くが同じ程度。池端に至り、周囲を眺めまわすが咲いている様子は見えない。

 東御苑は閉園の日 東御苑に期待しようと公園を出て、北桔橋門だが出入り不可で、平川門へ歩く。内濠は広く、流石江戸城。毎日新聞社前を通るのも久しぶり。石碑が建ち、太田道灌築城550年記念とある。当城跡は徳川ばかりが目立つが、道灌がルーツであった。
 平川門への橋口が閉鎖されている。なんと本日金曜日は東御苑閉園の日とある。えっ!である。まさかと疑ったが遅い。そのまま濠端を大手門へ歩く。先ほど来皇居一周ランナーと交差する。少なくない人数で、若い方もいる。平日も午前中、東京は多種多彩な職業の方が多いのだろう。大手門を離れた位置でカメラに写し、地下鉄大手町駅へ向かった。

 文京区あじさいまつり 3日前の14日、Sさんを案内し、文京区にある白山神社を訪ねた。紫陽花の都内の名所である。三田線白山駅を降りると人出は始まっていた。文京区あじさいまつり開催中で、多くの人が短い参道を行き交っている。
 境内へ入ると、紫陽花が咲き、満開に近く見ごろのよう(写真下)。我々は、花を眺めながら広くはない境内を巡る。濃紫や藍、そして白と様々な花が咲き誇り、カメラに収める。社殿前には長い行列が出来ていて、私は列外から目礼をした。裏に聳えるビルは東洋大学で、孫が通っている筈。校内での授業は、今年は順調のようだ。私はほぼ紫陽花に充たされて、三田線で帰宅した。Sさんもそうと思うがどうだろうか。(2022/6/30 K.K. 1459/1500)

◇日時 2022/06/17 ◇天候 曇 ◇資料 昭文社「東京都市図39神田」20004.4版 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞ 「通過時間等」 自宅8:40-三田線神保町駅9:20-新宿線九段下駅9:30=北の丸公園9:40=平川門口10:00=大手門口10:20=三田線大手町駅10:38-自宅11:05

多摩川台公園から六郷用水沿いを下る

 紫陽花の咲く時期になり、都内大田区の多摩川台公園を思い出し、ガイド誌を引っ張り出した。東横線多摩川駅スタートで、神奈川県境に近く、久しぶりに平塚に住む弟を誘った。梅雨の時期で天気予報にも注意し、日時を決め弟へメール。私は、三田線に武蔵小杉行き急行があり、約1時間と分かった。多摩川台公園は再訪である。

 紫陽花咲く公園 多摩川駅に着くと、弟が待っていた。公園は直ぐ駅前で、駅を出たら紫陽花が目に入って来た。紫陽花を眺めながら坂をゆっくり上がる。花は満開直前のよう。弟も、カメラを構えながら付いてくる。鑑賞客もあり、殆どが高齢者夫婦。私は、紫陽花は好みの花で、特に赤紫の花が好きで(写真上)、選びながら進むが、藍色系の花が多い。
 多摩川台公園には、古墳がありその展示室もあって、2人で入館。輪切り状の古墳の内部が再現されて、様々な副葬品等が展示されている。一回りし、また園内遊歩道へ戻る。最先の古墳でuターン。

 園内には 鬱蒼と大木が繁り、公園故の存在古木だろう。多摩川越しに見える高層ビル群は武蔵小杉。また紫陽花を眺めなおし、公園を出て東横線高架下を過ぎると多摩川浅間神社。急な石段に躊躇ったが上がり切り、参拝。800年前創建の古社で、北條政子に纏わる史話も遺るらしい。展望台で、多摩川を眺めた(写真中)。

 六郷用水を下る 東急多摩川線踏切を渡り、六郷用水へ至る。狭いが水路一杯に流れている。江戸期に開発された用水で、狛江付近の多摩川が水源という。現在は鯉達が泳ぐ水路(写真下)で、亀も見かけた。弟は外来種という。新幹線下を抜け用水沿いに下る。東光院、密蔵院、観蔵院と古刹があり、街並みも古そう。観蔵院手前の樹林に囲まれた建物は寺院かと思ったら個人の邸宅。大田区の御屋敷街のよう。コースを間違えたらしく環八通りへ出た先の神社は八幡神社ではなく、白山神社。手を合わせて境内で休憩。
 ここで、東急多摩川線鵜の木駅へ向かうと決意し、弟をリードして、ほぼ直線的に駅に着き、丁度入線した電車に乗って、多摩川駅に戻った。
 正午前だが、駅前中華店で昼食。弟は私の好物をお中元として渡してくれ、私は故郷からの到来品をお裾分けし、弟は下りホーム、私は上りホームで電車を待った。(2022/6/20 K.K. 1458/1500)

◇日時 2022/06/10 ◇天候 曇 ◇交通費 530円 ◇資料 新ハイキング社編「さあ、ハイキング! 多摩川台古墳と六郷用水」226頁 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 
「通過時間等」自宅8:10-東急多摩川駅9:30=多摩川台公園9:35/10:00=浅間神社10:10=六郷用水10:25=東光院10:35=観蔵院10:55=白山神社11:05=東急鵜の木駅11:24-同多摩川駅(昼食)11:30/11:58-自宅13:10

JR川崎駅から鶴見線を往復する

 ここ数年乗り鉄も楽しんでいるが、JR鶴見線を知り興味がわいた。丁度良い資料“ JR鶴見線全線に乗る”(新ハイキング692号116頁)も見付かった。鶴見線は、鶴見駅から扇町駅の本線と海芝浦駅、大川駅への二支線を持つ10㎞足らずの短い鉄路、盲腸線。梅雨の季節は乗り鉄が良いだろうと、下見的に出掛けた。我が家から鶴見線は、三田線と京急線を利用すれば遠くはない。

 JR鶴見駅発 三田駅で乗った京急線を川崎駅でJR線へ歩いて乗換え鶴見線始発駅の鶴見駅に着く。鶴見線ホームへ上がり、改めて過疎なダイアを知る。10時台は僅か3本。それも終点扇町駅行きでない電車があり、停車中の電車は本線だが途中の浜川崎駅行き。全線を乗るには行きつ戻りつが必要で、時間はありなんとかなるだろう。
 10時10分発浜川崎駅行きに乗車。通勤時間帯から離れ乗客は少ない。高架線で、第一京浜国道を越し国道駅を通過。今年の3月芭蕉麦の別れの地から生麦へ歩いた時気付いた珍しい駅名。左右とも密集した住宅街、そして工場地帯に入り、右手先が東京湾である。海芝浦駅への分岐駅浅野駅、大川駅への安善駅を過ぎるが、乗降者は僅か。本電車の終点浜川崎駅に着いたが僅か15分足らず。当駅はJR南武線乗換駅とある。

 海芝浦駅へ 私は上りの鶴見駅行きを待って乗車し、浅野駅へ戻り海芝浦駅行きを待つ。浅野駅は古めかしい駅で、田舎駅のよう(写真上)。1926(大正15)年鶴見臨港鉄道を創設した一人浅野セメント創業者を冠した駅名で、他の駅名も殆どそうらしい。踏切警報音が鳴り列車音が響いて接近が分かる。浅野駅、新芝浦駅、そして支線の終点海芝浦駅で、左手に運河を見て走った。東芝社員の通勤用駅で、その時間外は、改札口は閉鎖中。海を眺める外はない(写真中)。いしだあゆみが唄った“街の灯りがとてもきれいな横浜 ブルーライト横浜”の灯りは、横浜港から眺めたこの辺りの灯りという話がある。対岸の大工場は、日本鋼管、現JFEスチールだろうか。

 終点扇町駅を往復 発車時間となり、海を眺めていた乗客達は車内へ戻った。私は、浅野駅で、本線終点扇町駅行きを待って乗り継ぎ、浜川崎駅、昭和駅を過ぎ、そして扇町駅に着いた(写真下)。鶴見駅行きは1分後発と言われ、鉄道終点マークを確かめ、改札口でPASMOをタッチしなんとか間に合った。左右とも大企業の工場群で京浜工業地帯のコアだろう。大川駅への支線乗車はとうに諦めた。朝夕の通勤時間帯にのみ2,3本往復する支線で、乗車困難も甚だしい。鶴見川の鉄橋を渡って、鶴見駅に着いた。手前の大きな寺院は総持寺だろう。京浜東北線で、品川駅から三田駅へ向かった。(2022/6/15 K.K.1457/1500)

◇日時 2022/06/05 ◇天候 曇 ◇交通費 820円 ◇資料 祖父川精治「JR鶴見線全線に乗る」新ハイキング692号116頁 ◇歩行距離等 5,000歩 4㎞ 「通過時間等」自宅8:30-京急線三田駅9:18-JR川崎駅9:55-同鶴見駅10:10-浜川崎駅10:34-浅野駅10:58-海芝浦駅11:10/11:15-扇町駅12:10-鶴見駅12:32-田町駅12:55-三田線三田駅13:15-自宅14:05

城東行船公園、清澄庭園に菖蒲を探し巡る

 バラの次は菖蒲だろうと、鑑賞先をネット検索した。色々情報が錯綜したが江戸川区の行船公園へ辿り着く。初めて知る公園で、江戸川区も縁が薄い。バスと地下鉄を利用すれば、江東区の清澄庭園も近い。咲き具合はどうかと思いつつ、午後から晴れの予報に期待し、遅い時間に出掛けることにした。

 西葛西駅、行船公園 行船公園の最寄り駅は荒川を渡った地下鉄東西線西葛西駅で、春日駅から大江戸線に乗り門前仲町駅から東西線へ乗り継いだ。西葛西駅に降りると小雨が落ちている。バスも検討したが諦め、傘を出しスタート。初めての商店街を行くと丁字路へ着き、公園へと左折した前方に高い樹々が見え始め、間違いないだろう。大きな交差点へ至り、右手先が目指す公園であった。動物園がありその先がサービスセンターで、立ち寄ると、花菖蒲はこれからという。

 菖蒲は? 平成庭園へ入り、池を回る。遊歩路の敷石が雨で濡れあぶなかしい。躑躅は終わりで、僅かに残るに過ぎない。池への流れ口付近には菖蒲はない。一羽の鳥、鴨が毛繕いしている(写真中)。静かに接近しシャッターを切った。裏側へ出るとカメラを構えた方がいて、湿地帯で、小さな蓮の花が咲いている(写真上)。その先に花菖蒲はあったが、僅かでこれから咲く様子。やはり今年は遅いのかなと思いつつ、園を出た。銅像があり当園を寄付した方で、その屋号が行船と知った。

 清澄庭園の菖蒲 バスで都営新宿線船堀駅へ出て、森下駅で乗換え大江戸線清澄白河駅に下車。清澄庭園は駅から直ぐで、都立庭園だが、大名屋敷を三菱の岩崎家が取得し庭園を整備したもので、現在も立派な回遊式林泉庭園。中心の池を時計回りに巡る。菖蒲は右奥だろう。先ほど来雨は上がっている。
 私は再訪で、大分前だが花友と一緒で、何の花であったか忘れてしまった。池や島々、建物の風景は見覚えがある。池から離れ木々の裏へ回ったら、湿地があり菖蒲園。花はポツリポツリ状態。行船公園よりは大分増し。その先に咲き揃う薄紫の花の一画があり(写真下)、カメラに収めた。
 隣に芭蕉句碑“古池や かわづ飛び込む 水の音”があった。大石で、確か近くの深川芭蕉庵跡にあった碑を移したものと思う。
 やはり今年は花期が遅いのだろう。また探し歩き、初夏の花々を楽しみたい。特に紫陽花が好きで、都内の公園等にも咲く花である。(2022/6/12K.K.1456/1500)

◇日時 2022/05/31 ◇天候 小雨後曇 ◇交通費170円 ◇資料 昭文社「東京都市図53砂町」20004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅9:00-大江戸線春日駅9:40-東西線門前仲町駅9:50-同西葛西駅10:25=行船公園10:40/11:10-新宿線船堀駅11:25-大江戸線清澄白河駅11:55=清澄庭園12:00/12:25=大江戸線清澄白河駅12:30-三田線春日駅12:48-自宅13:20

さいたまの与野公園バラ園から別所沼へ

 5月も半ば過ぎ初夏となり、花々が咲き美しい季節で、先日は鴻巣荒川にポピーを眺め巡った。原色の花は見頃で楽しんだ。そして、紫陽花、蓮、ラベンダー、紅花と続くだろう。山歩きから遠ざかっている昨今は、これらの花も追っ掛けている。ネット情報で、さいたま市与野本町にバラ園があると知り、訪ねることにし、さいたま市で近くに住む友人Sさんを誘った。
 
 Sさんの車で高島平を出発。足の故障が長引き、車の方が都合よいという。直ぐ大宮バイパスへ出て北上し、JR武蔵野線高架を過ぎると、市内へ右折し与野公園へ着いた。しかし駐車場が満杯で苦慮。私は降りバラ園を巡っている間に、駐車場を探してくれた。

 満開の与野公園バラ園 初めての公園で、思ったより広く、バラ園はその一画。多くの鑑賞者が出ている。早速園内を巡ると、バラの種類や花の色で分けて栽培されているよう。赤色系が多い(写真上)。殆ど満開の見頃で、僅かだが咲き終わろうとしているバラもある。そんな中、シャッターを切りながら歩き回る。我が生家隣町のバラ園名のあるバラもあり、交換栽培であろうか。
 一回りし木下で休憩。塚のような小山があり、富士塚かなと上がってみたが不明。麓に石碑があり、やっぱり富士塚であった。Sさんが戻って来てバラ園へ。私は、天祖神社から隣の池にある銭洗弁天様に挨拶。鎌倉時代畠山重忠が武州から鎌倉に向かう途中、武運長久を願って太刀を洗い武勲を得たとある。駐車した市内菓子店で、僅かな買い物をし、浦和の別所沼へ向かって貰う。

 メタセコイヤが繁る別所沼 別所沼はこれまでも数回訪ね、私のお気に入りの地。市内も中心で県庁も近いが沼のある静かな公園で、メタセコイヤの並木が美しい。寡って、詩人神保光太郎が住まい、多くの文学者たちと交流し、詩碑がある。彼は山形出身で、母校の大先輩でもある。
 沼の畔でSさんと分かれ、一人、深緑のメタセコイヤの下を歩く。真っ直ぐに聳える樹木は相変わらずで、沼畔に彩りを添えている(写真下)。20本から30本ほどであろうか。散策者やジョガーの外、絵を描いている人もいる。遊歩道を往復し、弁天島に寄る。
 別所沼会館で昼食。この会館には思い出がある。2019年あるOB会を開いて、夫婦会員全員出席であった。年一回開催だが、その後は例の事情で開いていない。皆高齢になり最後になり兼ねない。そんなことを考えながら、沼からJR埼京線中浦和駅へ歩いて、帰宅した。Sさんありがとうございました。完治を願っています。(2022/6/8 K.K. 1455/1500)

◇日時 2022/05/25 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 さいたま市公園緑地協会「別所沼公園」 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞ 通過時間等」 自宅11:00-与野公園11:30/12:10-別所沼公園(昼食)12:25/13:15=埼京線中浦和駅13:28-同浮間舟渡駅13:52-自宅14:25

都内荒川の遊園から尾久駅を巡る

 都内唯一になった都電の荒川線は、区立あらかわ遊園前を走っている。処が長い間休園であったが、新装開園したことを知った。孫と一緒に遊ぶわけではないが、都電で前を通る度気になっていた。日暮里へ出掛けた際、確かめようと思った。前夜テレ東のアド街ック天国で、あらかわ遊園地を特集していた。

 熊野前駅から 都営舎人線で熊野前駅に降り、スタート。舎人線と都電荒川線が立体交差していて、荒川線沿いに歩くと宮ノ前駅の右手が尾久八幡神社で、立ち寄り参拝。隣の厳島神社にも軽く挨拶した。
 都電の走る通りに戻り進むと、割烹熱海があり、昨夜テレビで観た老舗料理店。小台駅を過ぎると荒川遊園前駅で、いよいよあらかわ遊園。入口通路には色とりどりのバラの花が咲き美しい。

 あらかわ遊園 遊園前には、子供連れが列をなして並び、頭上には観覧車がゆっくり動いている。ゴンドラには人影がある。私は、カメラアングルを探しながら外側を歩く。プールを過ぎ、遊園を覗くと子供を乗せたポニーが係員に引かれている。待っている子供達も多い。観覧車へ向けシャッターを切った(写真上)。

 裏側は隅田川で、川端に猫に餌をやっている若夫婦がいて、野良ではなく地区猫と教えてくれた。我が家近くの野良ちゃんは団地ネコかなと思った。
 隣の舟方神社に寄り、また荒川線へ出て、JR尾久駅を目指す。踏切で、少し待って都電の通過を眺めた(写真中)。私の上京時は23区内主要道路を縦横無尽に走り、それなりに便利で利用していた。現在はこの荒川線のみとなってしまった。道路ではなく、殆どは自前の専用敷地を走るからであろう。

 JR尾久駅で乗車 西尾久通り両側は平屋と商店街で、下町である。地名は“おぐ”だが、駅名が“おく”なのは知られた話か。尾久駅北口から駅前へ出て、正面は小さな駅舎(写真下)。当駅は、現在では宇都宮線、高崎線が停車する。それも上野駅経由の電車のみ。急遽、ここで尾久駅から上野駅へ乗車を決意。通過したことはあったが乗降したことはなく、初めての経験。ホームに上がると下り線の先は広い、広い尾久の車両基地で、多くの引っ込み線が列をなしている。山手線田端駅や京浜線上中里駅との間であろうか。到着した電車に乗車し、上野駅迄は一駅。上野駅から、大江戸線上野御徒町駅迄歩いて歩き足りない分を補った。(2022/6/3 K.K. 1454/1500)

◇日時 2022/05/22 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 都営交通「ちいさな電車でおさんぽ日和」2019.1版 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 
「通過時間等」自宅11:10・・・舎人線西日暮里駅12:50-同熊野前駅13:05=尾久八幡神社13:10=あらかわ遊園13:30=舟方神社13:40=荒川線西尾久踏切13:50=JR尾久駅14:03-同上野駅14:10=大江戸線上野御徒町駅14:27-三田線春日駅14:37-自宅15:10

赤坂氷川坂から豊川稲荷へ歩く

 港区赤坂の氷川神社の近くに勝海舟と坂本龍馬の師弟像があると知った。少し前品川立会川駅前で龍馬像を眺めて(21.10.16)、土佐以外にもあると初めて知った。確か海舟邸跡も氷川神社傍の氷川坂にあったと思う。青山通りの豊川稲荷へも寄ろうと調べていたら、鈴降稲荷神社があり、家康の伊賀越えに由来するらしい。これで都心歩きも興味が増した。

 海舟、龍馬師弟像 三田線内幸町駅からバスで六本木通りへ出ることにした。これが正解でハプニングが生じた。アークヒルズ前バス停に降り、六本木通りを渡って赤坂へ向け、商店街の坂を上がると正面に銅像らしき物が見え始め、2人の師弟像であった。探す苦労無しに出会い、想定外。海舟は座り、龍馬は隣に立ち、太平洋を向く像とある(写真上)。龍馬は、開国派の海舟斬りに訪問したが先進的な思想に惹かれ弟子入りしたとの逸話があるらしい。2016年完成し除幕式には二人の子孫も出席されたという。当地は、現在は港区の施設だが、明治期の海舟邸跡の氷川坂らしい。カメラに収めた。
 左手先が赤坂氷川神社で、高い樹々が頭を出している。石段から境内へ入ると四稲荷合祀の際、海舟がネーミングした四合(シアワセ)稲荷神社があった。銀杏の大木を眺めて、氷川神社に参拝。境内を横へ出ると本氷川坂で、幕末迄海舟邸があった地で、現在も静かな住宅街。

 鈴降稲荷と由緒 坂を下り三叉路を左折して方向が不明となってしまった。TBS社前へ出るつもりであったが、交差点を渡って坂を上がり地図で確かめると同社の裏側と分かり、隣のビルは10年数年前少し仕事を手伝った会社があったビル。息を吹き返して坂を下り、一ツ木児童遊園地隣の小路奥に、鈴降稲荷神社は見付かった(写真下)。
 手を合わせ、由緒書きを読むと、本能寺の変で、家康が堺から伊賀越えの山中で難渋していた時、鈴の音を聞いて導かれ伊賀衆の助けを得て、無事三河に帰還。恩義に感じた家康は服部半蔵外の伊賀衆を江戸へ招き四谷に住まわせ、本稲荷を祀ったという(大震災後当地に遷座)。小さな社だが、朱色も鮮明で、管理が行き届いているようである。

 豊川稲荷、是清公園 豊川稲荷へと坂を上がると、山脇学園であるが武家屋敷門があった。東京駅前付近にあった老中屋敷の門で重文とある。何故ここにと思いながら通過し、青山通りへ出て、豊川稲荷神社に詣でる。こちらは参拝者が多い。隣は赤坂御所で、反対側のとらや、草月会館前から少し歩いて、高橋是清公園に寄る。奥に鎮座する是清公像に挨拶。総理大臣を務めたが若い頃、私の旧勤務先の初代所長でもあった。地下鉄青山一丁目駅迄は距離があった。(2022/6/3 K.K. 1453/1500)

◇日時 2022/05/18 ◇天候 晴れ ◇資料 昭文社「東京都市図46赤坂見附」20004.4版 ◇歩行距離等 9,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅10:10-三田線内幸町駅11:02-アークヒルズ前バス停11:13=海舟、龍馬師弟像11:20=赤坂氷川神社11:30=鈴降稲荷神社11:50=山脇学園武家屋敷門12:05=豊川稲荷神社12:10=高橋是清公園12:20=大江戸線青山一丁目駅12:34-三田線春日駅13:06-自宅13:45

埼玉行田の前玉神社から鴻巣荒川のポピー畑を巡る

 埼玉の一之宮は大宮の氷川神社だが、行田にある前玉(サキタマ)神社も、劣らない古社ではないかと思っていた。埼玉県名のルーツである。稲荷山古墳で有名なさきたま古墳群の近くにある社で、調べると古墳の上に建つという。出発前夜テレビの天気予報の中で、鴻巣の荒川河川敷にポピーが咲いたと報じた。渡りに船で、神社参拝の後回ろうと思う。

 県名のルーツ前玉神社に参拝 埼京線から高崎線で、最寄り駅吹上駅へ向かった。高崎線乗車は久しぶりで、巣ごもりハイクが続き、最近では遠出の部類。吹上駅前から待っていたバスに乗る。産業道路バス停に降りたが、初めての地で、古墳群の方向に見当を付け、酒蔵もある古い街道筋を歩き続ける。橋を二度渡って右手奥がさきたま史跡の博物館の筈。稲荷山古墳を訪ねた時見学したが記憶は薄い。前玉神社はそろそろかと右手の小路を覗くが社は見当たらない。左手に二子山古墳があった。

 三度目が参道前で、30分を過ぎていた。広くはない境内から急な石段を上がると社殿前へ出て(写真上)、参拝。ここが古墳の上なのだろう。社務所や売店はあるが、社も境内もシンプルなもので、由緒書きも見当たらない。大化の改新以前に祀られたとの情報がある。
 行田駅行きバスがあると知り、バス停を教えて貰った。

 広い河川敷一面ポピー花 鴻巣駅に降り、そう遠くはない荒川を目指す。首尾よく住宅街を過ぎると荒川左岸の堤防で、これを越し河川敷内を下流へ行く。麦畑が続き流れは見えないし右岸も大分先のよう。後に、当地の河川敷の幅は2,537mで日本一と知った。
 前方に赤の花がちらつき出し足取りを早める。橋下を過ぎるとポピー畑で、一面に咲き始めていてジャスト見頃のよう。真っ赤花が中心だが、オレンジのポピーも畑中を埋め尽くし、美しい(写真中、下)。シャッターを切りながら、遊歩道を巡る。
 一回りしテントの下で休憩。当地鴻巣馬室の花まつりは現在準備中で、貰ったチラシには14日からとある。係りの方は、テレビ放送はフライングと笑った。また花畑を半周し名残を惜しみながら、河川敷を上がりバス停を探した。        (2022/5/28 K.K. 1452/1500)

◇日時 2022/05/12 ◇天候 曇り後晴れ ◇交通費 1,910円 ◇資料 昭文社「埼玉県道路地図33.34」1990.1 ◇歩行距離等 16,000歩 12㎞ 「通過時間等」 自宅7:50-埼京線浮間舟渡駅8:31-高崎線大宮駅8:57―同吹上駅9:40―産業道路バス停9:50=忍川橋10:05=前玉神社10:20=同バス停10:30-高崎線行田駅10:51-同鴻巣駅11:05=荒川堤11:20=馬室ポピー畑11:30/12:15=馬室バス停12:49-高崎線鴻巣駅13:07-埼京線浮間舟渡駅14:00-自宅14:30

市谷の杜から小石川後楽園を巡る

購読紙で、“市谷の杜”を知り(22.4.25朝日夕刊)、武蔵野の面影を再現に惹かれた。武蔵野の雑木林を歩こうとこれまで、三鷹の玉川上水や朝霞の平林寺、狭山の智光山公園を訪ねて武蔵野を感じている。それが都心の市谷にもあるという。大江戸線を利用し、久しぶりに小石川後楽園にも寄ろうと思う。

 市谷の杜 大江戸線牛込柳町駅に降りて歩き出す。昨年末夏目公園を歩いた時迷い込み、少し土地勘が生じた地で、大通りから銀杏坂を上がる。新宿加賀町を進むと、右手にそれらしい木々が見え始めた。早速林内の小径へ入り、新緑の中である。大企業ビル敷地内にそれなりに樹木が続いている。都心とは思えない緑地帯風景ではあるが、木々が若く武蔵野には遠い。それでも続く林を追って右折し、少し深い林(写真上)でカメラを向ける。道路を挟んだ隣のビルの林内を歩く。

 戻って、時計台のある本と活字館ビル(写真中)前へ至ると、入館OKという。新聞には予約必要とあったが、見学する。DNP社は、1886(明治19)年印刷工場から始まったという。漢字中心の植字装置が目に付いた。昭和の時代も書籍や雑誌の印刷を行い、私の知る週刊誌も展示してあった。広辞苑もある。コーヒーを飲んで休憩し、お礼を言って、館を出た。先ほど加賀町で、柳田国男の旧居跡の案内に出会った。岩手県遠野市の案内したもので、遠野物語は有名である。大江戸線牛込神楽坂駅へ出た。途中の商店街は新宿とは思えない下町風であった。

 後楽園を巡る 春日駅から小石川後楽園を目指す。大回りし西門から入園。先ほどは一人であったが、こちらは多くの人出がある。大泉水を中心に時計回りに歩く。御三家水戸家の屋敷であった地で、庭園は、初代頼房が着手し次の光圀の時完成したとある。お屋敷全体は、広大なもので、現東京ドーム迄も含み、後楽園は四分一弱程度を占めていたようだ。現在では隣の高層ビルが覗いている。
 園内の草木は新緑を過ぎているが、湿地の菖蒲はこれからのよう。これまでも訪ねたが、記憶にはない園風景が多い。一つ松(写真下)や円月橋、梅林、九八屋などが印象に残る。最近時間を持て余している私は、テレビで再放送の水戸黄門を観ている。黄門様も西山荘に引っ込む前はこの庭園を巡ったのであろう。木曽川、寝覚滝を眺めて、東門から三田線水道橋駅へ歩いた。(2022/5/25 K.K. 1451/1500)

◇日時 2022/05/08 ◇天候 曇り ◇入園料 150円 ◇資料 「市ヶ谷の杜、本と活字館」2021.5、「小石川後楽園」2019.12 ◇歩行距離等 17,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅9:20-大江戸線春日駅9:57-同牛込柳町駅10:10=市谷の杜10:20=本と活字館10:30/10:55=大江戸線牛込神楽坂駅11:10-同春日駅11:20=小石川後楽園11:30/11:55=三田線水道橋駅12:05-自宅12:40

多摩川スカイブリッジを渡り川崎へ歩く

 3月に多摩川河口に、羽田と川崎を繋ぐスカイブリッジが開通したと知った。是非訪ねて渡りたい。海を眺めながらの里歩きも楽しい。これまでもレインボーブリッジや東京湾ゲートブリッジを渡り歩いている。調べると羽田空港の近くで、京浜急行羽田空港第三ターミナル駅が最寄り駅と分かった。

 羽田からスカイブリッジへ 三田線で京急三田駅へ出て、羽田空港行きに乗車。久しぶりで蒲田駅で本線と分かれ空港へ向かった。最近北海道の孫達とも御無沙汰で、空港利用はない。第三ターミナル駅に降りスタート。多摩川を目指そうとするが方向が分からず、山勘を働かせる外はない。空港敷地外は殆ど車道で歩道は限られ、左先だろうと左折すると高架道路環八がありその先と推測。船着き場の案内があり接近すると多摩川で、スカイブリッジへ上がるエレベーターがあった。

 675mを渡橋 橋の袂で新設の橋名を確かめ、左側歩道を渡り始める(写真上)。真新しい橋は未だ通行する車は少ないが、歩道を走り、歩く男女はそこそこにいる。河口は広く、直ぐ先は東京湾で、浮かぶ船も小さく見える。シャッターを切りながら675mを渡った。川崎側へ10分程で渡り切り、右岸の多摩川堤へ上がって振り返ると、全体が見え橋は結構長いが、橋桁と橋梁だけのシンプルな形状と思う(写真中)。

 川崎大師線鈴木駅を通過 堤を降り、京浜工場地帯に川崎大師線小島新田駅を探すが見付からない。あった鉄路の左右に駅はなく、JR貨物の引き込み線らしい。偶々出会った方に教えて貰い、貨物線を横断した先が目指す駅であった。京急大師線は川崎大師を参拝した時一度乗っただけ。川崎駅行きは、途中鈴木駅を通過。旧味の素駅で、味の素の創業者鈴木家に由来する珍しい駅名。同家出身の鈴木竹雄東大名誉教授を思い出した。担当していた研究誌の創刊時に巻頭言をお願いし快く書いて頂いたことがあった(鈴木竹雄「特許法昔語り」特許研究No.4 1987)。

 稲毛神社に寄る 京急川崎駅に着いて、稲毛神社へ。この前芭蕉の麦の別れの地へ歩いた時(22.3.16)、省略してしまった。先日テレビで、徳光アナの路線バスの旅を見ていたら稲毛神社が出て来て、川崎市役所付近と知った、複雑な駅前地区に戸惑ったが最後はスマホに案内されて、大鳥居から古社に詣でる。境内の大銀杏や十二支巡り(写真下干支の申)はテレビで知ったが、正岡子規の“六郷の橋まで来たり春の風”句碑があった。裏参道から川崎駅へ歩いた。(2022/5/21 K.K. 1450/1500)

◇日時 2022/05/05 ◇天候 はれ曇り ◇交通費 700円 ◇資料 昭文社「東京都市図73川崎」2004.4版 ◇歩行距離等 17,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅8:15-京急線三田駅9:07-同羽田空港第三ターミナル駅9:40=多摩川スカイブリッジ羽田側10:00=同川崎側10:10=京急小島新田駅11:08-同川崎駅11:25=稲毛神社12:00=京急川崎駅12:23-三田線三田駅12:45-自宅13:30

都電滝野川一丁目駅から山手線中里踏切へ歩く

 北区西ヶ原の本郷通りは日光への御成街道で、歴史が深く史跡等があり、これまでも歩いている。新しい情報を得て、再訪するが、新規なルートとし、駒込駅近くの中里踏切を加えたい。以前、十条地区の記録に埼京線の踏切は今時都内では珍しいと書いた(22.2.28)が、読者から山手線駒込駅付近にもある筈とご指摘があった。これを確かめたい。

 未だ遺る西ヶ原一里塚 出発駅は都電荒川線滝野川一丁目駅。西巣鴨新庚申塚駅から二つ先の駅で、初めての乗降。駅前大通りは住宅街だが、商店も点在する。西ヶ原へ向け歩き四辻で左折し、小路から本郷通りへ出ると、西ヶ原一里塚(写真上)。日本橋から二里目で、大正初期道路拡張で撤去されそうになったが、あの渋沢栄一が住民と奔走し遺ったとある(「とことこ散歩道639」21.6.18朝日)。当時渋沢邸は少し先の飛鳥山公園内にあった。一里目は東大先の本郷追分にあったが現在はない。道路を出たが、一里塚は対で、右側の塚を見逃してしまった。

 七社神社の石碑 次の七社神社は裏参道から境内へ。神殿前で参拝し、境内を見回す。左手に“枯松を祭る文の碑”があった。寡って近くに渋沢の別荘があり、庭の古松が枯れたことを嘆き悲しんだ渋沢が学者に依頼した碑文を自ら揮毫した石碑という(「とことこ散歩道640」21.6.19朝日)。カメラに収めて、境内を出た。
 社裏の狭い住宅街から高崎・宇都宮線付近へ出て、初めて崖端の線路沿いを歩く。先に上中里駅が見え始めた頃国立印刷局で右折し、坂を上がると滝野川公園。農業技術研究発祥の碑があり、明治時代農業技術試験所があったとある。

 平塚神社の歴史 隣の森内が平塚神社。後三年の役の帰途逗留した八幡太郎義家が祭神のようだ。平安時代豊島近義築城の平塚城があった。太田道灌に滅ぼされた石神井城主豊島泰経は平塚城へ逃れたと言われる。4月24日石神井城跡で、父泰経の後を追い入水した照姫のお祭りがあったと新聞で見た。

 山手線踏切 参拝後、本郷通りへ出て直ぐ左折し、聖学院を回り込んで、山手線を目指す。駒込駅、田端駅間に踏切はあった。第二中里踏切は、未だ田舎にある昔の儘のもの。電車が通過する度に警報が鳴り、左右のバーが降りる。その間を縫い買い物客が往来している(写真中、下)。思った程電車の間隔は短くはない。並行する高崎・宇都宮線は踏切下の地下通過。通過電車をカメラに収め、帰宅後件の読者に写真を送付した。(2022/05/17 K.K. 1449/1500)

◇日時 2022/05/01 ◇天候 曇り ◇交通費 160円 ◇資料 東京北区観光協会「北区観光ガイドマップ田端・滝野川エリア」 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅8:25-荒川線新庚申塚駅9:05-同滝野川一丁目駅9:10=西ヶ原一里塚9:25=七社神社9:35=滝野川公園9:50=平塚神社10:00=第二中里踏切10:25=JR駒込駅10:35-三田線巣鴨駅10:40-自宅11:10

都内杉並に善福寺公園、井草八幡宮社叢を再訪する

 神社境内を覆う林や森を社叢(シャソウ)と言うと知った。ハイキングの途中神社に寄ることが多く、森内に佇む神殿へ詣でて静かに手を合わせ、休憩を取る。社叢があるのは地方の神社だが、杉並区にある井草八幡宮を思い出した(01.2.25)。約20年前のことだが、深い森に包まれた鳥居や社殿が印象に残っていた。再訪することにした。

 井草森公園へ 大江戸線中井駅に降り地上へ出たら、太陽が顔を出し日が差している。本日の予報は曇りから雨模様だが、ラッキーと西武線新宿線に乗った。最近雨が多く、菜種梅雨というらしい。
 西武線新宿線中井駅から井荻駅まで乗車し、井草森公園へ寄る。環八通りを少し歩いた左先が公園であった。新緑の林の中に池があり、その先は花園やグラウンドもあって都市型の区立公園。広くはない園内を一回りした。咲いていた黄色の花はポピーの類いだろうか。井荻駅へ戻り、電車で上石神井駅へ。車窓から見えた野球場があり、若い頃井草のグラウンドで草野球を楽しんだことがあった。

 善福寺公園上池、下池 上石神井駅で、善福寺公園の案内地図を期待したがなく、青梅街道へ向け歩く。朧げな記憶だが街道へ出て、五差路へ至るとお地蔵様が立ち、江戸向き地蔵と知る。善福寺公園の案内があった。
住宅街を進み善福寺前を通り、更に進んだ左手が善福寺公園で、上の池であった。意外に広く、鯉のぼりが渡してある(写真上)。連休前の平日で僅かな散策者程度。ボート乗り場を見て、下の池へ。前回は見ていない池と思う。奥には萱類が繁りやや荒れた池。水鳥も浮きカルガモか。釣り人も見える。上下とも現在も湧水池という。

 森に囲まれた井草八幡宮 左手の住宅街に井草八幡宮を探す。それらしい高い樹々は見えるが参道へは大回りして、ようやく達した。大鳥居のある東参道から境内へ(写真中)。左右は高く深い樹々で、記憶通り鬱蒼と繁る社叢。右折し楼門から立派な社殿があり、とても都内の神社とは思えない大神宮である(写真下)。
 参拝しコロナの終息等をお願いした。平安時代の創建で、源頼朝手植えの老松(現在は枯れ死)があり、太田道灌も戦勝祈願をした歴史があるという。背後や周囲の木々を入れてシャッターを切った。青梅街道の都心寄りにある荻窪八幡へも予定していたが、暑さで疲れ、青梅街道バス停で荻窪駅行きバスを待った。(2022/05/14 K.K. 1448/1500)

◇日時 2022/04/27 ◇天候 曇り ◇交通費 470円 ◇資料 昭文社「東京都市図20石神井、31井の頭」2004.4版 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅8:55-大江戸線春日駅9:30-西武線新宿線中井駅10:02-同井荻駅10:20=井草森公園10:25=西武線新宿線井荻駅10:52-同上石神井駅11:05=善福寺公園11:25=同下池11:35=井草八幡宮12:05=青梅街道バス停12:25-JR荻窪駅12:45-大江戸線東中野駅13:19-三田線春日駅13:37-自宅14:10

板橋赤塚ニリンソウ自生地巡り2022

 ニリンソウ鑑賞を思い付いた。数日前咲いたとの情報があり、少し遅いかなと思いつつ自生地を巡ることにした。板橋区の花ニリンソウの自生地は、我が家から近く、徒歩圏内赤塚大門地区の土手である。昨年は、二輪草の歌碑のある上板橋からスタートしたが、今回は赤塚中心で、昨年見付けた赤塚5丁目の森や区立植物園も巡りたい。

 新緑の中ニリンソウは 我が家から高速道路下を抜け、赤塚大門土手下の広場に入ったら、もう新緑否、深緑が目の前に広がった。欅の大木が生い茂り新鮮で美しく、春から初夏を告げている。土手下に近づくとポツリポツリとニリンソウは咲いているが、例年より花が小さいように見える(写真上)。先へ歩くと次第に白い花は咲き広がっているが、花は小さい。遅かったのであろうか。鑑賞者もいない。シーズンなら出会うのだが。カメラ写りの良いニリンソウ群落を探しながら、土手下を進んだ。大きめの黄色い花もあり、ヤマブキソウだろう(写真中)。

 土手下を出て、高架で大通りを渡り、赤塚城跡の溜池公園へ。池では竿を出している釣り人達が見受けられる。私は、城跡下と板橋郷土資料館の間の小径へ入る。昨年当地にもニリンソウがあると知った。期待通り白い大きめのニリンソウが咲いていた。日陰だからだろうか。カメラを向け、眺めながら狭い路を歩いた。いよいよ城跡先の赤塚五丁目の森へと踏み入れたが、花は少ない。やはり遅かったのであろうか。自然や季節は我を待たないのだ。ムラサキケマンの雑草が目立っている。

 板橋植物園 森から住宅街へ坂を下り、区立植物園を目指す。いつもと違う方向から近道をして一度は袋小路であったが、裏から植物園へ入園。畑地に咲く菜の花はもう満開。そしてハナダイコンの薄紫の花も咲き美しい。
 ニリンソウ栽培地へ回ったが、こちらもポツリポツリ。カメラは目立つ大きなピンクのボタンの花へ向いてしまった(写真下)。

 赤塚氷川神社へ 植物園の裏から住宅街を抜け階段を上がると体育館通り。バス通りで見覚えがあり、赤塚氷川神社へ寄る。右折地点を一本間違えたが、乳房榎の古木から参道が続く。左手に富士塚があり、覗いたが草木で荒れている様子。境内へ入って参拝。家族の健康や孫達の成長を祈願。本殿裏には御嶽塚もあった。江戸期には武蔵の当地では、富士講の外、木曽の御嶽信仰も盛んであったようだ。帰途は初めてのルートで溜池公園へ出て、自宅へ戻った。(2022/5/9 K.K. 1447/1500)

◇日時 2022/04/21 ◇天候 晴れ ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」 ◇歩行距離等 12,000歩 9㎞
「通過時間等」自宅8:40=赤塚大門自生地8:55=溜池公園9:10=赤塚5丁目の森9:20=板橋区植物園9:40=乳房榎10:15=赤塚氷川神社10:20=自宅11:05

高崎の少林山達磨寺から観音山へ

 大人の休日俱楽部パス利用の二回目で、前日自宅で休み、本日は、軽い名所見学として、高崎の少林山達磨寺から観音山白衣観音を巡ろうとした。連日の遠出は無理な年齢となり、高崎は新幹線を利用すれば1時間弱である。そして、翌日の最終利用日は房総一周の乗り鉄を予定していた。処が目論みは大幅に狂ってしまった。

 群馬八幡駅から達磨寺へ JR高崎駅に着いて、案内所でバスルートを教えて貰い、JR信越線で群馬八幡駅へ向かった。少林山達磨寺の最寄り駅で歩き出す。高崎市も郊外で、小さな街並みを抜け左折して、碓氷川へ歩く。堤防へ上がり、鼻高橋を渡ると欄干の達磨像が迎えてくれ、川向うの高台には寺が見えた。
 緩い坂の先に少林山達磨寺があった。寺院には、達磨堂(写真上)や縁起達磨を積んだ本堂があり参拝。江戸時代、行者が流木で達磨像を彫って祀ったらしい。高崎の縁起達磨として有名だが、そのルーツは当寺なのだ。境内を一回りして大通りへ下り、バス停でバスを待った。 

 清水寺石段 予定時間になってもバスは来ない。予定変更しようかなと思い始めた頃到着した。15分遅れで、躓きの前兆であった。次の行く先白衣観音へのバス停美術館口に降りた時は20分遅れとなっていた。イラストマップで、観音山中腹清水寺の石段下に芭蕉句碑を目指す。行けども、行けども辿り着かず、戻り掛け、地元の方に尋ねたらもっと先という。ようやく着いて、句碑“観音の甍みやりつはなの雲”があった(写真下)。
 本堂境内にも句碑があり、石段を上がる。上方に見えた建物は観音堂で、また石段に挑戦。数は多いが段差が低く助かる。休み休み上がり切り、本堂への挨拶もそこそこに、句碑を探す。隣の石碑かなとカメラに写したがはっきりしない。違っていた。石段は518段と分かった。マップは略図で、これに惑わされてしまった。

 遂にタクシー 駅へのバス時間が迫り、頂上の白衣観音を諦める。石段下りを避け、右手の下り坂が女坂かと突入したが墓地への路。大回りも大迂回し石段下先へ出たが、バス時間はとっくに過ぎていた。高崎市内へと歩き始めたが、足が重い。肝心の白衣観音も拝観できず心も重い。途中で座り込み、タクシーを呼んでしまった。
 高崎駅へ戻り、遅い昼食を取り、新幹線で帰京。翌朝元気が出ず、乗り鉄は断念。体力よりは、バスの時間やイラストマップを読み損ない予定通り巡れなかったショックが尾を引いたのかもしれない。こんなこと滅多にないことで、残念。(2022/5/4 K.K. 1446/1500)

◇日時 2022/04/13 ◇天候 晴れ ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス+タクシー代1330円 ◇資料「観音山イラストまっぷ」◇歩行距離等 16,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅9:15-JR上野駅10:20-同高崎駅11:24-同群馬八幡駅11:35=鼻高橋11:50=少林山達磨寺12:00=バス停12:37-同美術館口13:10=清水寺石段下13:35=清水寺13:50=清水寺石段下バス停先14:30-JR高崎駅15:10-同上野駅15:58-三田線巣鴨駅16:20-自宅16:30

桜満開の越後高田城跡から蕾も堅い飯山城跡へ

 最近城跡巡り初期の頃のメモを整理している。1987年からあり、その中に、越後高田城跡(93.9.23)や飯山城跡(94.4.24)があった。メモを読み返しても簡単な内容で物足りない。山歩き里歩き記録に入れたのは1995年以降で、大人の休日俱楽部パス利用期間が来て、両城跡を再訪することにした。丁度花見の時期で、桜の名所高田城跡に期待した。

 広い濠、城跡、そして満開の桜 えちごトキめき鉄道高田駅に降り、城跡へ向け駅前商店街を歩く。上越地方中心都市らしく、通りの雁木も高く立派である。 橋上から見ると上流に満開の花があり右折し、川沿いに進む。濃いピンクの桜は美しい。市内を右往左折し大手口から城跡へ入った。左右の濠は広く、水も貯え沼である。その端には桜が咲き連なっている(写真上)。ソメイヨシノが3400本あり、日本三大夜桜という。右奥の高山は妙高山だろう。未だ雪が残っている。花見客は多く、二の丸跡には売店も出ている。本丸跡にある三重櫓下に着いた(写真中)が、込み合い櫓見学は止めた。再建とある。

 江戸初期の1614(慶長19)年、家康の六男松平忠輝のため、舅伊達政宗の監督の下外様大名達が普請し築城した60万石の平城で、土塁で石垣はない。外様加賀前田家への備えで、そのためか南西の濠が特に広い。忠輝改易後も親藩や譜代大名が入封した。そんな案内の中に明治初期、高田藩は会津藩の降伏兵約1700人を預かったとある。初めて知る史実である。その後下北の斗南藩へ移ったようだ。反対の東側へ出て、学校の間からまた濠跡沿いを歩く。友人に名門高田高校出の方がいるが校名が違っていた。それにしても、広い城跡、それを囲む広大な濠跡が遺り、江戸城跡や大坂城跡以外では私の見学先にはないだろう。

 雪が残る飯山城跡 高田駅から妙高上越駅へ戻り、JR飯山駅に下車。城跡へ30分弱と知り、駅前通りを歩く。JR飯山線踏切を渡ると矢鱈と寺が多く、愛宕町雁木通り両側も仏具店が並ぶ。
 右折し城跡下に着き、移築門を見てびっくり。雪が残っている(写真下)。本丸跡へ上がり葵神社に挨拶し、眺めると裏は千曲川。
 戦国期上杉謙信が、武田信玄との戦いの拠点とした平山城で、江戸期は、4万石前後で主に譜代大名の飯山藩が置かれた。桜は開花どころか蕾も堅く、高田との違いにまた驚く。長野も北信濃は豪雪地帯で内陸式気候だからか。再訪だが記憶が乏しく、二の丸跡は初めて見るよう。確か前回は花見時で、賑わっていたと思う。JR北飯山駅へ出て、飯山駅から北陸新幹線で帰京した。呑み鉄用に能鷹を高田で求めていた。(2022/04/29 K.K. 1445/1500)

◇日時 2022/04/11 ◇天候 晴れ ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス ◇資料 上越観光コンベンション協会「観桜会みどころマップ」◇歩行距離等 21,000歩 15㎞ 
「通過時間等」自宅7:45-JR上野駅8:40-越後鉄道妙高上越駅10:57-同高田駅11:10=大手口11:30=三重櫓11:45=越後鉄道高田駅13:42-JR妙高上越駅14:00-同飯山駅14:20=飯山城跡14:50=JR北飯山駅15:49-同飯山駅16:03-同上野駅17:58-三田線巣鴨駅18:20-自宅18:50

都内も銀座にある神社を巡る

 購読紙に「銀座こんな所に神社」(22.2.21讀賣)の記事を見付けていた。これまで中央区の隅田川傍の浜町から日本橋界隈の神社を巡っている。銀座にもと思いながら、切り抜いていた。折よく銀座開催の友人の書道展の案内があり、その前に巡ることにした。新聞上の主な神社の所在地を地図でチェックし、徒歩中心だが効率的に巡るには、地下鉄で銀座へ出ることにした。

 歌舞伎稲荷神社から 日比谷駅で三田線から日比谷線に乗り換え東銀座駅に降りた。最初は歌舞伎稲荷神社。歌舞伎座地下を通ると大きな土産店があり歌舞伎座の人気を知る。地上へ出たら歌舞伎座ビルの端に稲荷神社が鎮座し、参拝。興行大入り等を祈願し祀られているとある。小さ目の社だが朱色も鮮やかで銀座らしい。通り反対側の煎餅店は旧同僚が担当する会社の支店で、少し手伝うと沢山の煎餅が届く。銀座中央通りの7丁目を歩き豊岩稲荷神社を探す。通りを上下したが見当たらない。ビルの間のようだが、工事中のビルもあり諦め、4丁目交差点へ歩いた。服部時計店は久しぶりだが、銀座のシンボルは健在。

 デパート屋上の神社 銀座三越に入り、屋上へ。出世地蔵があるという。処が屋上ではテントが張られ大祭中とかで、入口では一旦断られたが、一目だけと許され社殿前で手を合わせた。地蔵様もあった(写真上)。お礼を言って引き返す。ビルの屋上に社とはびっくりで、次の龍光不動尊も松屋デパートの屋上にある。銀座らしいが神様も驚いているのでは・・・。松屋屋上の不動尊は社らしく木立に囲まれた境内もある立派なもの(写真中)で、屋上とは思われない。軽く頭を垂れカメラに収めた。

 書道展へ 書道展会場に近づき友人へメール。そうしたら銀座画廊の一階入口で待っていてくれた。案内で展示会場を一回り。作品はいずれも草書も、崩した見事な書体で、素人には読めない。書道も表現を主とした芸術のようだ。友人の書は万葉集の“見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへる桜花かも”(写真下)だが、流れるような美しい筆使いで私には読み難い。芭蕉の句の書も紹介してくれたが、不知の句であった。
 会場を出て、飲食店で休憩し、私はビールを戴いた。帰り掛けに首尾よく、1丁目にある幸稲荷神社へ辿付き詣でて、またコロナ退散をお願いした。

 後日探した豊岩稲荷神社 三田線日比谷駅へ歩く途中、豊岩稲荷神社は表通りではなく一本裏通りでは思い直した。
 後日、三田線内幸町駅から銀座7丁目へ歩き、想定通り中央通り裏のビルの間に見付かり、中へ入り参拝した。暗くて洞窟内のような社であった。これで当初予定の社を巡り終えた。(2022/4/25 K.K. 1444/1500)

◇日時 2022/04/07、17 ◇天候 曇 ◇交通費 160円 ◇資料 「銀座こんな所に神社」(22.2.21讀賣)、昭文社「東京都市図85、86銀座」2004.4版 ◇歩行距離等 9,000歩 6㎞ 「通過時間等」自宅14:20-日比谷線日比谷駅15:03-同東銀座駅15:10=歌舞伎稲荷神社15:15=三越出世地蔵尊15:40=龍光不動尊15:50=銀座美術館書道展16:00/16:20=幸稲荷神社17:00=三田線日比谷駅17:27-自宅18:10

都内西巣鴨から北大塚へ桜を探しながら歩く

 乱雑な机上から、偶々“観光エリアすがも おおつか”の地図が出て来た。入手先や存在すら忘れていた。開くと通り沿いに桜マークがあり、花見ハイクに丁度良い。
 しかも巣鴨は近く、エリア内から歩くコースを見付けた。大半は新規な未訪のエリアで、桜はもう終期だろうが残り花に期待する。

 西巣鴨から庚申塚 三田線西巣鴨駅から明治通りをスタート。直ぐ大正大学正門で、学生が出入りしている。新入生だろうか。旧中山道交差点先の千川上水公園に寄る。江戸時代玉川上水を水源とした千川上水の江戸市中へ分流掘割があったという。
 旧中山道へ戻ると、嘗ては種子屋街道と呼ばれた程野菜等の種問屋が並んでいたとある。右手の延命地蔵様に挨拶し、都電荒川線を渡って、庚申塚に詣でる。久しぶりで手を合わせる。猿田彦に纏わるのか狛犬が猿像でその下に三猿が彫られ(写真上)、カメラに収めた。
 直進すれば巣鴨地蔵通りだが、旧中山道を右折し折戸街道へ。折れて江戸へに由来し、旧中山道よりは近道だったらしい。高校の前を通り、校庭に咲く桜を見上げ、シャッターを切った。孫の母校で、その弟も今春入学した。

 探し損ねた神社 折戸街道を離れ、荒川線を渡り返し大通りへ出る。初めての地で方向を確かめ宮仲公園へ至ったが、工事中で地図には桜マークがあるが見当たらない。ここで大塚方向へuターンし商店街を行く。出世稲荷神社へと山手線空蝉橋から探したが密な住宅街でウロウロするばかり。地番からも結局不明であった。
 諦めて空蝉橋手前の桜並木を眺めた(写真中)。両側に花は残り、商店街の祭り提灯が未だ飾られている。大塚駅への通りも未知の地で、直ぐJR大塚駅。地図にある駅前史跡は見付けられない。また荒川線を渡って坂を上がる。警察署は巣鴨警察とあり、ここは大塚と思っていたのだが。

 桜並木から巣鴨へ 菅原神社は、山勘通りに辿り着き、参拝。孫達の成長とコロナ終息をお願いした。当地の名主が屋敷神として道真公を祀ったとあり、静かな境内や社にはその歴史が窺える。
 山手線傍へ出て、線路沿いに進むと桜並木がありこちらも大分残っている(写真下)。満開後雨や寒さが続いた所為だろう。巣鴨駅に近いこの辺りは、友人と飲食後酔い醒ましにうろついたことがあった。桜の下を歩いて、地下鉄三田線巣鴨駅へ下りた。(2022/4/22 K.K. 1443/1500)

◇日時 2022/04/05 ◇天候 曇後晴れ ◇資料 豊島にぎわい創出機構「観光エリアすがも おおつか」2006.3 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅12:40-三田線西巣鴨駅13:10=千川上水公園13:20=庚申塚13:30=宮仲公園14:10=空蝉橋14:25=大塚駅前14:30=菅原神社14:40=三田線巣鴨駅14:55-自宅15:30

都内城北に爛漫桜の中を歩く

 音無親水公園を出て、飛鳥山(25m)下から見上げてびっくりした。正面に満開の桜が広がった。薄ピンクの100本以上はあろう染井吉野が一斉に咲き重なり、連なり、広がっている(写真上)。飛鳥山は花見の名所ではあるが、これほど咲き誇り、咲き揃う花々は見たことはない。時期ぴったり、場所ぴったり、天気も花曇りか。カメラに収めた。帰宅後、一句捻った。“花の雲 沸きて靄がる 飛鳥山”、芭蕉をバクったような駄句である。

 桜の石神井川、中央公園へ 本日は花見ハイクで、石神井川、飛鳥山に、最近知った中央公園を加えた。城北地区も北区である。三田線新板橋駅に降り石神井川へ歩くと、見頃な桜が川沿いに咲いている(写真中)。当地も桜の名所で数回訪ねている。花を眺め、カメラを向けながら左岸を下る。埼京線鉄橋下から谷津子育観音像へ着き、川を離れ寿徳寺へ。初めての寺で軽く手を合わせ、中央公園へ回り道をする。昨年歩き桜もあると知った。
 公園の入口がありグラウンドから一回りする。桜並木があり満開寸前の様子で、花の下をゆっくりと歩く。文化センタービル前から公園を出て、また石神井川へ戻り、滝野川橋から左岸を下る。川へ突き出た桜の枝もあり美しい。
 人出があり、散策者と交錯するようになる。紅葉橋を過ぎると桜花も途切れ途切れとなる。左手に北区役所が見え始め、音無親水公園で、川沿いに横列に並び咲く桜も見頃である。またシャッターを切った。川を出て音無橋を渡り、飛鳥山公園へ。

 満開の飛鳥山公園 明治通りを歩道橋で渡ると冒頭のシーンに出会った。カメラに収めて、公園中央を行く。約600本ある太い桜木が林立し、その下にブルーシートも見え、花見の場所取り。飛鳥山は将軍吉宗が整備し、江戸城の苗木を植樹して、寛永寺境内の上野とは違い歌舞音曲も許したという。その由来を刻んだ石碑があるが難しくて読めないようである。
 桜に充たされながら花の下を出て、園内の一画博物館前から、渋沢栄一邸跡の渋沢資料館庭園へ入る。こちらには桜はない。庭には、「晩香廬」と「青淵文庫」の建物が遺り、いずれも重文というが、見学の可否は不明。
 庭園から本郷通りへ出て、都電荒川線駅へ歩いていると園外なのに、桜の枝が延びていて目の前に有り(写真下)、お見送りに応えて、またシャッターを切った。本日夕刊には、先ほど歩いた石神井川の桜が紹介されていた(22.3.29讀賣夕刊)。(2022/4/17 K.K. 1442/1500)

◇日時 2022/03/29 ◇天候 曇 ◇資料 東京北区観光協会「北区観光ガイドマップ王子・十条エリア」◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅8:50-三田線新板橋駅9:20=石神井川9:30=寿徳寺9:40=中央公園9:50=滝野川橋10:10=音無親水公園10:25=飛鳥山公園10:35=都電荒川線飛鳥山駅11:05-三田線西巣鴨駅11:20-自宅11:45

都心愛宕山から六本木毛利庭園へ花見ハイク2022

 開花宣言もあり、今年も桜が咲き始めた。毎年この時期桜花を求め歩いているが、そろそろその時期で、今年の最初は都心の愛宕山から桜坂へ歩き、六本木毛利庭園のコースとした。毎朝我が家から近くの桜の咲き具合を眺めているが、五分咲き前後だろう。

 陽光桜は満開 愛宕山は都心も港区にある丘陵(25m)で、愛宕神社の境内には桜があり名所と思う。虎ノ門勤務時代見物していた。
 三田線御成門駅から芝公園の北端を歩き愛宕通りへ出て、慈恵医大前を過ぎると左手にトンネルが見えた。愛宕山下の隧道で、初めて見た時は都心なのにとビックリした。山下へ左折すると正面が急で高い出世の石段(写真上)。江戸時代真垣平九郎が馬で上下し、将軍家光の期待に応えたとの逸話は有名だ。
 私は、今回は女坂を上がる。社殿で参拝し、桜を見上げる。陽当たりの良いのは八分咲きだが、二、三分咲き程度のものも多い。隣がNHK-放送博物館で、1925(大正14)年わが国最初のラジオ放送が当地にあった施設からであったという。前庭に咲く桜は満開。陽光桜で濃いピンクで美しく(写真中)、カメラに収めた。

 霊南坂、桜坂 山の裏側へ下って、桜田通りを渡り葺城稲荷を探すと、大きな会館の前の高台にあって、また手を合わせた。ホテルオークラの間を通り、桜坂を目指す。ホテル横の坂は、数年前ある授賞式がホテルで行われた時通り、見覚えがあった。式には孫の母親に同伴して貰った。
 左手の霊南坂教会は、友和、百恵ちゃん夫妻の結婚式で有名になったと思う。そして、坂を下ると桜坂。こちらも五、六分程度の桜並木で、今一の様子。ここは思い出がある。アークヒルズ内ビルに勤務していた時期があり、毎年同僚達と夜桜見物をし、居酒屋へ流れた。同僚達も定年を迎え集合も稀となってしまった。時期も悪いが、昨年末の最年少者の歓送会には5名が集まった。

 高層ビルと毛利庭園 六本木通りをANAホテル前から六本木の毛利庭園へ向かう。大きな交差点を歩道橋で渡り、緩やかな坂を上がり続ける。久振りの地で、思った以上に距離がある。俳優座は右手の同じ場所にあった。
 六本木交差点へ至り、先の六本木ヒルズ森タワービル内へ入ると、裏に日本庭園があった。毛利庭園で、毛利藩分家長府長門藩の上屋敷があった地とある。桜が咲く中、高層ビルと池のある庭園のアングルを探した(写真下)。六本木交差点へ戻り、地下鉄大江戸線で都庁前駅経由で帰途に就いた。(2022/4/15 K.K. 1441/1500)

◇日時 2022/03/25 ◇天候 晴れ ◇資料 「東京の日本庭園2021毛利庭園」◇歩行距離等 12,000歩 8㎞ 
「通過時間等」自宅8:45-三田線御成門駅9:40=愛宕山9:55=葺城稲荷神社10:15=桜坂10:30=六本木交差点10:50=毛利庭園11:05-大江戸線六本木駅11:32-三田線春日駅12:06-自宅12:35

句碑を訪ね浅草から今戸へ歩く

 最近は都内にも芭蕉句碑を探し歩いている。調べると浅草寺やその先の熱田神社にもあるという。台東区内で、我が家からはアクセスが良くなく、その内にと思っていたが、丁度上野広小路で会合があり、その後訪ねることにした。地下鉄銀座線で10分程度だろう。

 国際通りから浅草寺へ 上野広小路のビルを出て、地下鉄駅へ下りた。雷門から仲見世通りの人込みを避け、浅草駅手前の田原町駅に降りて、国際通りから浅草寺へ歩いた。歩きながら、今はない浅草国際劇場で、SKDの東京踊りのラインダンスを観たのを思い出した。中学の修学旅行時で、二階席であった。大人の先生方は楽しんだようであったが、ダンスへの思い出はない。

 広い境内に句碑を探す 右手先の境内へ入ると人出は少なくない。境内には句碑二つあり、いずれも浅草寺を入れ詠んだ句で、一つは時の鐘近くの筈と、鐘撞堂のある弁天堂へ回ると見付かった。有名な“観音の いらかみやりつ 花の雲”の句碑(写真上)で、カメラに収めた。二つ目は五重塔付近にはなく、案内所で尋ねると、奥山だろうと本堂左手の薬師堂付近を教えてくれた。石塔はあるがそれらしき碑は見当たらない。更に奥の庭園らしき地の入口にあった。宗因、芭蕉、其角の三匠句碑(写真中)で、芭蕉のは、“花の雲 鐘は上野か 浅草か”で、この句も知られ、この鐘の音は当寺時の鐘のものである。二句とも深川の芭蕉庵で詠んだという。本堂前で頭を下げ、ご挨拶をした。

 仁王門で大わらじを見た(写真下)。これは我が故郷の隣町村山市で造り奉納していることは知っていた。当初は戦前に雪害解決祈願に奉納したらしい。
 今戸熱田神社 境内を裏の言問通りへ出て、今戸の熱田神社へ向かうが、同じ台東区内だが少し距離がある。馬道通りへ左折し北上する。地図を出し、隣の吉野通りの裏の筈だが、今戸は住宅密集街で、通りから神社らしき建物は見えない。交差点角に交番があり、お巡りさんがいて裏通りと指さしてくれ、七福神巡りかと声掛けられ、句碑巡りと返した。
 熱田神社は大きめの境内と社で、本殿前で手を合わせ句碑へ。池の傍にあり、“古池や 蛙とびこむ 水の音”の筈だが読めない。藪の中でカメラ向けるのにも一苦労。これで、予定の句碑は巡りは終え、吉野通りへ戻ったが、浅草へ歩くのは少し辛く、バス停を探す。少し待って来たバスは、大江戸線蔵前駅に停車すると分かり、ラッキーと乗り込み帰途に就いた。(2022/04/09 K.K. 1440/1500)

◇日時 2022/03/21 ◇天候 曇り後晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 昭文社「東京都市図29入谷」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅・・・銀座線上野広小路駅13:25-同田原町駅13:35=浅草寺五重塔13:45=弁天堂時の鐘13:55=奥庭三匠句碑14:00=熱田神社14:40=今戸バス停14:55-大江戸線蔵前駅15:14-三田線春日駅15:25-自宅15:55

川崎麦の別れの地から東海道を生麦へ

 “麦の別れ”という芭蕉の足跡の地を知った。旧東海道の川崎宿にあるという。芭蕉を追っ掛けてから久しいが初めての情報。調べると、現第一京浜国道沿いの川崎と鶴見の間で、京浜急行八丁畷駅傍と分かった。それならと箱根駅伝コース地図(昭文社「箱根駅伝まるごとガイド」2007年11頁)を引っ張り出すと、二区の鶴見中継所手前八丁畷駅傍に、“芭蕉句碑”とある。出掛けることにし、歩き足りない分第一京浜沿いの神社、鶴見中継所、そして生麦事件碑のある生麦を巡ることにした。

 芭蕉麦の別れ 三田駅で京浜急行に乗り換え、京急川崎駅に降りた。駅前へ出たが初めての地で方向を誤ってしまった。第一京浜へとアーケード街を行くが公園から稲毛神社が見えて来ない。左折し方向を修正したが半端のようで、第一京浜へ出たが公園の大分先で神社は諦め、八丁畷駅を目指す。交差点の地名案内を頼りに、元木2丁目で京浜急行線側へ右折し住宅街から突き当りを左折すると旧東海道だろう。直ぐ先に句碑(写真上)と解説板があった。覆い堂内の句碑には、“麦の穂を たよりにつかむ 別れかな”と刻まれている筈だが、崩し字で読み難い。1694(元禄7)年5月、郷里伊賀へ帰る芭蕉を門人達が送って来て、茶屋で休息し俳句を詠み合い芭蕉の返歌で、当時周りは麦畑であったという。
 そして、この旅先大坂の御堂筋が終焉の地となってしまい、本当の別れであった。そんな雰囲気も伝わる句とも読める。カメラに収めて、第一京浜へ戻る。

 駅伝中継地 箱根駅伝鶴見中継所は一度訪ねて(10.12.19)知っていた。思ったより先で、中継所を示すタスキ渡し像があった(写真中)。正月母校吉居選手の一区の快走は記憶に新しい。生麦へは京浜急行線利用の予定であったが30分程は要するだろうと想定し、このまま第一京浜を歩くことにした。鶴見川を渡り、鶴見区役所前、鶴見線国道駅を過ぎ生麦の地名が見え始めたが、生麦事件碑はない。

 生麦事件碑 途中で尋ねたら未だ先という。京急生麦駅入口を右に見て、麦酒工場らしき建物前へ至り、ようやく生麦事件碑であった。鶴見中継所から約1時間過ぎていた。
 生麦事件を知ったのは中学の修学旅行時で、幕末の1862年、薩摩藩主父島津久光の行列が通り掛った時、乗馬した英国人数名が逆行し行列に入ってしまい、藩士が刀で斬って英国人一人が死亡したという(下は浮世絵師早川松山図)。そして翌年薩英戦争が起きた。碑は明治になって地元の方が建てたとある。前回とは違い、整備されたらしい箇所の奥にあった。京急生麦駅までは、少し距離があった。(2022/4/2 K.K. 1439/1500)

◇日時 2022/03/16 ◇天候 晴れ ◇交通費 500円 ◇資料 昭文社「箱根駅伝まるごとガイド」2007年11頁 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅8:45-京浜急行三田駅9:44-同川崎駅10:10=麦の別れの地10:40=箱根駅伝二区中継所11:00=生麦事件碑12:05=京急生麦駅12:22-三田線三田駅12:51-自宅13:40

早咲き桜を求め江東深川界隈を歩く

 3月になり早咲き桜情報が出始めた。ネットで調べると深川の大横川にも咲いていると知る。河津桜だろうか。地下鉄東西線木場駅が最寄り駅で、アクセスが良い。深川周辺には、未訪の史跡等や芭蕉句碑もあり、私の里歩きには丁度良さそうだ。地図で歩くルートを想定したが、数頁に跨り複雑になりそうだ。

 大横川河津桜は満開 大手町駅へ出て、東西線に乗り木場駅に降りた。地上に出ると直ぐ先が大横川の橋である。昨年まで東陽町へ通い、バス乗車区間の永代通りで、少し土地勘がある。
 橋から川を眺めると両側にピンクの花が続いている。見頃だなと川沿いの道を行くが川端へ入る道はない。この辺りは水路で遊歩道はないようだ。少し先の公園で左折すると大横川橋で、橋からの上流には、濃いピンクの河津桜が咲き揃い(写真上)、遊歩道もあり花見散策者もいる。アングルを定めてシャッターを切った。タイミングの良さに感謝しながら、花下を行くが桜木は少ない。左隣は木場公園、右は豊住公園。

 小名木川と五本松跡 葛西橋通りへ出て左折し、五本松跡のある小名木川へと歩くが、左折が早かったようで、手間取ってしまった。小名木川へ至ったが通りが違い下流の新扇橋で、右折し上流を目指す。次の橋から小名木川沿いに歩いて、ようやく目指す小名木川橋だが、五本松跡が見付からない。最後はスマホ検索し、反対側の袂に探し当てた。
 現在では石碑一柱(写真中)だが、江戸期は五本松のある景勝地で、芭蕉が友人を訪ねる舟から、“川上と この川下もや 月の友”と詠んだのはこの辺りという。現在、この句碑は、五本松跡から小名木川と隅田川が合流する地にある芭蕉史跡展望庭園に移設されている。

 見学不可の資料館、庭園 深川江戸資料館へと水路内を歩くが、工事中で次の橋で川を出て猿江地区。大横川を猿江橋で渡り森下地区となり、深川方向へと新高橋で小名木川を越し白河地区であったが、深川江戸資料館迄は大分距離があった。ようやく着いたがなんと改修工事で閉館中。期待した芭蕉句碑も外ではなく地下展示室にあり、お目に掛れない。次に期待した都立清澄庭園も入園停止期間の張り紙があり、残念。ここにも芭蕉句碑があったのだ。
 深川では、資料館隣の霊巌寺境内で江戸六地蔵(写真下)に挨拶したのが唯一となってしまった。大江戸線清澄白河駅が近く、地下への入口を探し帰途に就いた。(2022/3/27 K.K. 1438/1500)

◇日時 2022/03/10 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 昭文社「東京都市図48深川、41亀戸、40両国」2004.4版 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅8:40-東西線大手町駅9:30-同木場駅9:40=大横川橋9:50=新扇橋10:25=小名木川橋・五本松跡10:45=霊巌寺六地蔵11:35=大江戸線清澄白河駅11:49-三田線春日駅12:06-自宅13:05

都内四谷荒木町から赤坂迎賓館へ

 大分前になるが、“四谷界隈谷めぐり”という資料を入手していた。谷というのは大げさだが都心の住宅街なのに凹凸、段差が激しい地で坂が多い地らしい。程よく寺社があり、私の里歩きコースに合う。それに安近短である。資料を良く見たら赤坂迎賓館へ続くという。同館は公開されていると知る。

 坂を上下し荒木町 新宿線曙橋駅からスタートし、駅上の靖国通りは低地を通り、左手の坂道を上がる。近くに大先輩のお宅があり数回お邪魔したがこの坂は約20年振りだろうか。大通りへ上がり横断し荒木町エリアで、最初のポイント金丸稲荷神社を探す。家並の間の小路を上下すると小公園の端にあった(写真上)。参拝し、下って石段を降りると左手にあるのが津の守弁財天社。境内には小さな策の池。谷底なのだろう。また手を合わせ、坂を上がる。回りには料理屋風の建物があり、先輩に聞いていたが元は三業地らしい。車力門の坂を上がり切り、新宿通りへ出る。

 早咲き桜に出会う 大通りを渡り、今度は下り坂の円通寺坂。寺が続く中、境内に咲く桜を見付け足を踏み入れ眺める。満開で、河津桜だろうか(写真中)。須賀神社の参道へ右折し、広めの境内を進み社殿で詣でる。孫達の成長やコロナ退散をお願いした。当社は二度目で、四谷のお岩神社が近くその時に寄っていた。
 四谷の住宅街を、JR中央線を目指すがいつもの山勘が働き、出羽坂を右に見て、高架下を過ぎると正面に大きな樹林が聳え続き、迎賓館のある赤坂離宮だろう。門に近づいて見学用西門は先だと教えて貰う。フェンス沿いに緩い坂を上がり西門へ至る。

 迎賓館庭を見学 入館は、私は予約なしで、庭園見学。早速大クスが出迎えてくれた。鬱蒼と繁り並ぶ常緑樹の大木は美しく、カメラに収めた。本館の前へ出て、主庭とあるがこの時期咲く花は乏しい(写真下)。その上噴水のある庭には入れない。ウロウロしながら、迎賓館本館へ向け2,3度シャッターを切った。
 前庭へ回るがこちらも何もない広場風。案内板があり、紀州徳川家の中屋敷跡で、明治期は東宮御所とある。その中に、戦後内閣法制局として利用されたとあり、思い出した。私が関与している現行法律案の審議も迎賓館で行われたと聞いていた。昭和25年頃で、帰宅後百年史を捲ると、“当時の内閣法制局は、古びた赤坂離宮の中にあり、くる日もくる日も通って、朝から晩まで法案の審議をしていただいたように思う。・・・昼休みに裏庭でわれわれと参事官の方々とソフトボールをして遊んだ”(「工業所有権制度百年史別巻」564頁)とあった。
 四ツ谷駅へ歩き地下鉄南北線に乗り春日駅で乗換帰宅した。(2022/3/20 K.K. 1437/1500)

◇日時 2022/03/05 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 「四谷界隈谷めぐり」 (JR東日本大人の休日俱楽部2021)◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅9:10-新宿線神保町駅9:53-同曙橋駅10:05=金丸稲荷神社10:15=津の守弁財天社10:20=須賀神社10:40=出羽坂下10:50=赤坂迎賓館11:00/11:30=南北線四ツ谷駅11:37-三田線春日駅11:50-自宅12:20

活け花展を覗き、湯島から都心日本橋を巡る

 2月末は湯島天神の梅祭りに合わせ、恒例の活け花展が開かれ、今年も旧友から案内があった。鑑賞後御徒町へ歩き、地下鉄銀座線で日本橋へ出て、また芭蕉句碑を探すことにした。歩き足りない分は、付近の神社を巡りたい。

 湯島活け花展へ 大江戸線本郷三丁目駅から春日通りで湯島天神を目指す。殆ど毎年この時期歩くコースで、途中から湯島切通しへ向け下り坂となり10分強だろう。予定通り参道から境内へ。梅も咲いているが今年は遅そう。
 人出の中、先に活け花展会場へ入ると、Wさんが出迎えてくれた。案内して貰い、一回り。今年は出展数が少ないように見える。Tさんの作品は、シンプルだが春を感じさせる優美なもののよう。Wさんのものは多彩で絢爛な花々は美しい(写真上)。カメラに収めた。作品整理で忙しいTさんに軽く挨拶し、会場を出た。湯島天神社殿前で、孫2人の合格祈願。昨年11月北海道から上京した娘とも、お願いしている。裏参道を出て、また春日通りを御徒町へ行く。思ったよりは距離はなく、前方に山手線高架が見え始め、銀座線地下鉄駅はその手前。

 松尾桃青の句碑 上野広小路駅から三越前駅まで乗車し、複雑な地下商店街を抜け、日本橋室町にある鮒佐店前の芭蕉句碑を探す。海苔店の老舗を見て、事前調査の通り小路奥の左手にあった(写真中)。“発句なり 松尾桃青 宿の春”の句で、江戸へ出て宗匠(俳句の師匠)となった初期の頃、1679(延宝7)年に詠んだもので、意気軒高な気概が素人にも窺える。桃青は芭蕉の前の俳号。深川へ隠棲する迄日本橋に住んだとある。鮒佐は佃煮店だと思うが閉店中であった。
 都心に神社を巡る 近くにある福徳神社は一本通りを違えたが着いて、意外にも立派な境内のある稲荷神社。ビルの間の祠程度と思っていた。境内端には薬粧神社があった。日本橋の一画に製薬会社の東京支店が集まり東京の道修町(大阪の薬の町)と呼ばれることを思い出した。軽く手を合わせ、隣の福徳神社に参拝。コロナ退散等をお願いする。当社の歴史は古く、江戸入封した家康や秀忠も参詣したとある。

 表通りへ出ると三越前。老舗も現在では小さ目の店舗ビル。玄関のライオンを眺めて(写真下)、カメラに収めた。先程地下鉄銀座線の中で、中学の修学旅行時三越前駅から上野駅迄乗車したことを思い出した。最近こんな昔のことを思い出すことが多く、年齢の所為は否めない。北上し江戸通りへ出て、神田方向へ左折すると、最後の白旗稲荷は常盤小の裏に見付かった。こちらは建物の間の社。またコロナ終息等を祈った。山勘で、東京駅北口から大手町が近いだろうと歩いたが、結構遠かった。(2022/3/13 K.K. 1436/1400)

◇日時 2022/02/27 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 「中央区・お江戸下町神社案内」 ◇歩行距離等 10,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅12:10-大江戸線春日駅12:51-同本郷三丁目駅13:00=湯島天神13:10/13:30=銀座線上野広小路13:40-同三越前駅13:50=鮒佐店前句碑13:55=福徳神社14:00=白旗稲荷神社14:25=三田線大手町駅14:48-自宅15:30

都内中野蓮華寺、哲学堂から豊島トキワ荘へ歩く

 昨年秋、光が丘公園から練馬の寺院に芭蕉句碑を訪ねたが、最後に予定していた蓮華寺は疲れで断念してしまった。再チャレンジへと調べると、蓮華寺は中野区内で哲学堂の近くと分かった。最寄り駅として、大江戸線落合南長崎駅もあり、駅を挟んだ反対側の豊島にマンガミュージアムトキワ荘が再建されたと知った。

 新青梅街道を歩く 大江戸線を都庁前駅で乗り換え落合南長崎駅に降りた。構内地図で確かめ、新青梅街道へ出てスタート。住宅街と思うが広くはない舗道の両側には商店が続く。初めての地で持参地図と町名が頼り。15分程過ぎ左手に野球場の高いネットが見え、哲学堂公園。次の交差点手前に蓮華寺の案内があり、小路の坂道を上がると蓮華寺であった。
 蓮華寺 本堂前で軽く手を合わせ、境内に句碑と塚を探す。中心部に芭蕉翁と刻んだ石碑があり(写真上)、芭蕉塚。塚とは盛土のものと思っていたが、石碑も塚というと知る。肝心の句碑が見付からない。境内をウロウロしたが、結局は芭蕉塚隣の石碑と推測しカメラに収めた。刻まれた句は“初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり”とある筈だが、もう読めない。伊賀越えの山中で初時雨に遭遇した時、1689(元禄2)年に詠んだと知る。帰宅後推測通りと分かった。

 哲学堂 交差点を渡って哲学堂公園へ入り、運動場を抜けて、哲学堂へ。哲学者井上円了が哲学を理解し広めるため、視覚的に表現した五つ程の建物がある。私は再訪で赤色の六賢台(写真中)は見覚えがあった。井上は現東洋大を創立した方で、孫が一年生に在学し、哲学堂や井上のことを知っていた。墓も、蓮華寺芭蕉塚の隣にあった。
 道を誤ってトキワ荘へ 新青梅街道を歩きながら、哲学堂からトキワ荘へ歩いたこと(16.9.28)を思い出し、これが災いし時間を喰ってしまった。いつもの早とちりで、新青梅街道を直進すれば右手がトキワ荘の位置と思い込み直進を続け、山手通りを渡ってしまった。ようやく誤りに気付いて戻り案内板で、手前の左手と分かった。現トキワ通り口を見付け進入し、松葉中華店前を過ぎ、花咲公園の奥にアパートトキワ荘があった(写真下)。

 手塚治虫を中心に、昭和27年から多くの若手漫画家達が暮らし活躍したのがアパートトキワ荘。近くの南長崎にあったが老朽化で壊され、この度この公園に再建され、前回見たミニュチュア通りの古そうな二階建て長屋風のアパートが建っていた。前回、別の場所に一部が再現された寺田ヒロオの部屋を覗き、4.5畳の狭い部屋に机や卓袱台が置かれ、乱雑に酒瓶が立ち並んでいたのを見ている。今回は外からカメラに収め、落合南長崎駅迄歩く気力を失い、公園前のバス停で新宿駅西口行きに乗った。(2022/3/6 K.K. 1435/1500)

◇日時 2022/02/24 ◇天候 晴れ ◇資料 昭文社「東京都市図・21練馬」2004年 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 「通過時間等」自宅9:05-大江戸線春日駅9:49-同落合南長崎駅10:20=蓮華寺10:40=哲学堂公園11:00=山手通り11:45=トキワ荘12:10=花咲公園バス停12:20-都電荒川線鬼子母神駅12:40-三田線西巣鴨駅13:03-自宅13:30

東十条銀座から北本通りを王子へ

 昨年入手した北区ガイドマップから未訪のコースを見付け、里歩き候補としていた。今回マップを出し、JR十条駅から同東十条駅へ下り、東十条銀座通りを抜け北本通りへ出て、王子駅へ至るコースを思い付いた。コースには社が点在しポイントになる。

 演芸場通りから富士神社へ JR十条駅をスタート。十条銀座口を右折して踏切を渡る。都内で踏切があるのはこの辺りの埼京線のみだろう。狭い商店街で、現在は演芸場通り。篠原演芸場があり(写真上)下町商店街である。
 商店街を出て左折し、富士神社に寄る。大きな富士塚があり工事中とは知っていたが完成したのではと期待したが、真っ平らで未完成。反対側の江戸中期からある古刹真光寺を覗いて、本郷通へ戻る。日光への御成街道だがこの辺りは狭い。左折し坂を下り東十条駅へ。駅前の子育地蔵に挨拶し、孫達の受験をお願いする。試験は始まったと連絡があった。

 歌手寄進提灯びっしり 京浜東北線等を高架で渡り、東十条銀座通り方向へ左折。とげぬき地蔵がある筈だが見当たらない。目当ての郵便局の隣は工事中でお隠れしているのだろうか。直進し東十条銀座通り交差点に、見守地蔵があった。祠内を見てびっくり。名入り寄進提灯が飾ってあり(写真中)、真田ナオキ初め演歌歌手の名が多い。横には森山愛子、工藤あやの(山形出身)、正面には坂本冬美や山内惠介迄多数ある。この辺りに住んでいるからかと想像したが、商店街入口にミュージックホールがありビル壁にも歌手の大小のポスターが所狭しに貼ってあった。私は最近主にBSで歌番組を楽しんでいる。その馴染みの歌手達である。
 北本通りを装束稲荷へ 商店街は両側に店舗は続くが、ビルはなく食料品店を中心とした下町風。人通りもある。店舗も疎らになると北本通りで、王子方向へ右折。通り下は地下鉄南北線が走っている。庚申観音堂を探すが見付からない。地下鉄王子神谷駅の上だろうと戻り横町へ入るとあった。今度もコロナ退散と孫達をお願いした。

 最後は王子装束稲荷とし、北本通りを歩き続ける。地下鉄一駅で1km強だろうが結構遠い。そろそろかと左手を覗き小路へ入ると少し先がお稲荷さんであった。鳥居から社殿前でまた参拝。大晦日に狐に扮した地元の方々が、伝説に倣い王子稲荷へ参詣するのが恒例という。二度目で(21.5.15)、扉の狐の面が目に付き(写真下)、カメラに収めた。北本通りへ戻り、都電荒川線王子駅から帰宅した。(2022/2/26 K.K. 1434/1500)

◇日時 2022/02/18 ◇天候 晴れ ◇資料 「北区ガイドマップ王子・十条エリア」令和1年 ◇歩行距離等 12,000歩 8㎞ 
「通過時間等」自宅9:20-JR板橋駅9:56-同十条駅10:00=真光寺10:10=子育地蔵10:15=見守地蔵10:30=東十条銀座商店街10:35=北本通り10:45=庚申観音堂10:50=装束稲荷11:15=都電荒川線王子駅11:30=三田線西巣鴨駅11:50=自宅12:20

都内駒込染井地区を巡り西巣鴨へ歩く

 そろそろ歩こうとして、予防効果の期間経過を待っていた。それでも遠出は気が乗らず、近場にしようと思う。そんな折、バンフ資料の下から、JR駒込駅周辺の略図が出て来た。大分前駅で貰い、大塚駅周辺は歩いている。ざっと眺め、駒込駅からも歩いている筈と記録と記憶を捲ったが、出て来ない。では歩こうと出掛けた。我が家からは近い。

 巣鴨駅から駒込駅へ JR巣鴨駅傍に染井吉野の碑があると掲載され、三田線巣鴨駅を地上へ出て、山手線手前に見付かった。染井吉野の文字と関八州の地図が刻んだ石碑。駒込駅裏にも記念碑があるが、何故だろうと首を傾げた。
 駒込駅へ歩く。一駅だが距離はなく10分程度で駅が見え、手前の大国神社に挨拶し、駅前商店街の小路へ入り日枝神社を探す。右手の階段を上がるとジャスト神社。都会風のシンプルな社。コロナ退散をお願いした。
 染井吉野桜の里 駒込駅へ戻り、裏の染井吉野記念公園に寄る。ここには立派な記念碑(写真上)があることは知っていた。江戸時代末期当地染井村の植木屋が品種改良した園芸品種で、明治以降全国に広まったとあり、私は駒込が染井吉野発祥のご当地と理解していた。本郷通り・御成街道を少し下ると子育て地蔵尊。孫達の成長をお願いした。この通り2,3度上下しているが、初めての参拝。次の妙義神社の入口の案内を見付け横道へ進入。太田道灌が勝利祈願したというから古社を期待したが、改装顕著な新しい社殿。簡単に手を合わせた。携帯が鳴り先輩から。私の本記録の読者で最近届いていないとのことで、再送を約束した。駒込は文京区と思っていたが豊島区とあり少し驚く。

 染井坂を上がり駒込小学校を過ぎると門と蔵のある広場。江戸後期の腕木門で(写真下)、近くにあった津藩藤堂家下屋敷の裏門とある、丹羽家は名主で大きな植木職人であったという。再訪かなと思ったがはっきりしない。
 染井稲荷神社へ寄ろうと戻る。首尾よく見付かり、朱の幟の間から参道を進み、手を合わせた。染井通りを歩くと本郷高校がある。そして染井温泉の前。利用したことはない。
 染井霊園から西巣鴨へ 十二地蔵は見逃したのか、染井霊園内となる。桜の時期に巡ったことがあるが、久しぶり。有名人の墓石の案内があり、文士が多い。その中で、末弘巌太郎が目に付いた。戦前の東大教授の法学者で、私の書棚にも著作本(「工業所有権法」新法学全集昭和17年)があり最近も学者による最初の解説書と紹介した。霊園を直進し慈眼寺で、芥川龍之介の墓があると知る。出来たら西ヶ原公園へと考えていたが方向違いのよう。住宅街を抜け、山勘通り白山通りへ出て、都電荒川線踏切を越し、三田線西巣鴨駅へ歩いた。帰宅したら先輩から、記録は届いていたと電話があった。(2022/2/21 K.K. 1433/1500)

◇日時 2022/02/12 ◇天候 晴れ ◇資料 JR東日本池袋地区「散歩マップ駒込駅」平成15年 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅10:00-巣鴨駅10:30=染井吉野碑10:35=大国神社10:50=日枝神社10:55=染井吉野桜記念公園11:00=子育て地蔵尊11:05=妙義神社11:15=門と蔵の広場11:25=染井稲荷神社11:30=染井霊園11:40=慈眼寺11:50=都電荒川線踏切12:00=三田線西巣鴨駅12:10=自宅12:35