日光文挟から例幣使街道を歩く

 日光街道の杉並木は好みのコースで、数度歩いている。それが今市に追分がある例幣使街道にも杉並木が続いていると知った。例幣使街道は宮廷の勅使が京から日光東照宮例大祭へ通った街道。中山道を倉賀野で分かれ、佐野、栃木、鹿沼を通っている。鬼怒川からの復路に巡ろうと調べると、JR日光線文挟(フバサミ)駅から歩くと日光と鹿沼の境に寄進碑があり、それも見てみたい。

 車の往来激しい例幣使街道 東武線下今市駅からJR日光線今市駅へ出て、文挟駅に下車。車窓右手に例幣使街道を確かめると一度離れたが、また日光線と並行しているようだ。小さな木造駅を出て一旦戻って踏切を渡り、例幣使街道へ入る。両側に大杉が並列して続き、薄暗い(写真上)。少し歩いてこのまま前進するのはヤバいと気付いた。街道が狭い上に、車の往来が激しい。二車線ギリギリで、歩行の私は、車通過の度端に身を寄せる始末。それで、杉並木の外側へ出て荒れた野良道らしき踏み跡を歩くが、安全だがスピードは落ちる。私がこれまで歩いた今市先の日光街道杉並木は広く、遊歩道もあって違っていた。

 寄進碑の先北鹿沼駅は? 寄進碑を目指し進むが30分過ぎても未だ先のよう。ようやく右手に人家が見えるようになり、杉並木の出口が近いと思う。正面が明るくなり、日光と鹿沼の境の小倉地区で、境石呼ばれる寄進碑があった(写真下)。日光街道杉並木は、家康忠臣相模国玉縄藩初代藩主松平正綱が、1625(寛永2)年から植樹を開始し、24年に亘ってそれを続け、杉苗は紀州熊野産で、2万4300本を街道に植樹したとある。例幣使街道の杉並木も含まれる。この旨が寄進碑に刻まれ、子息正信が建立したという。
 休憩をし、次は何処の駅へ歩くか検討。JR鹿沼駅は遠い。文挟駅へ戻るのはとうに諦めた。スマホ検索して東武日光線北鹿沼駅を探し、近くはないが何とかなりそうと例幣使街道を歩き続ける。もう杉並木はなく普通の大通り。

 親切な鹿沼の方 鹿沼武士地区へ至り、北鹿沼駅方向へと右折したら行き止まり。工場前で道を尋ねると、駅は未だ距離があるという。戻ろうとしたら車で送ってくれると言われ断ったが、結局鹿沼駅迄送って貰った。些少の謝礼も受け取って戴けなかった。ただただ感謝に耐えない。鹿沼の方は親切と、鹿沼出身友人へメールした。
 例幣使街道の前に、帰京するメンバーと下今市駅から追分地蔵と報徳二宮神社を巡った。二宮神社は、あの金次郎さんが幕府の役人として当地で農村復興策指導に貢献し祀られたらしい。(2022/01/10 K.K. 1428/1500)

◇日時 2021/12/19 ◇天候 晴れ ◇交通費 1,930円  ◇資料 日光市観光協会「日光市周遊観光ガイドマップ」2013 ◇歩行距離等 16,000歩 11㎞ 
「通過時間等」宿泊先8:50-東武鬼怒川温泉駅9:21-同下今市駅10:00=追分地蔵10:10=尊徳二宮神社10:15=JR今市駅10:36-同文挟駅10:55=例幣使街道11:05=小倉寄進碑11:30=鹿沼武士12:10-東武鹿沼駅12:37-JR北千住駅14:47-三田線巣鴨駅15:12-自宅15:45

江東二神社に芭蕉句碑を訪ねる

 ネット情報に芭蕉句碑リストの搭載があり、都道府県別である。先人に感謝しながら時々覗いている。最近の都内歩きの大半で蕉句碑を追っているのは、同リストに依存している。江東の大島稲荷や富賀岡八幡にもあることが分かったが、2004年に一度訪ねている。その頃の感心先に芭蕉はなかった。再訪し芭蕉句碑を確かめようと思う。調べると前回の時のマップがあった。

 句碑女木塚 大島稲荷神社の最寄り駅は、都営新宿線大島駅。我が家からはアクセス良く、神保町駅乗換で、1時間弱で歩き出す。丸八通りを東進すると5分程で神社であった。小名木川手前にあり、通りから境内へ入ると地元の方が作業中。茅の輪を造っているようだ。
 参拝し句碑を探すと、作業中の方が教えてくれ、入口左に芭蕉像と句碑女木塚があった(写真上)。案内には、元禄5年(1692年)、深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で当社に参拝し、“秋に添て行はや末は小松川”の句を詠んだとある。芭蕉庵は小名木川、隅田川合流付近にあったのだ。新しい碑も建ち、五月雨を集めて…の句で、奥の細道300年記念という。カメラに収め、小名木川沿いに歩く。久しぶり眺める川は記憶より広い。江戸も家康時代開削された旧中川と隅田川を繋いだ運河である。

 大石家住宅 次の仙台堀川公園へは、川を歩道橋で越した。古民家大石家住宅がある筈だが、意外に距離がある。残る紅葉を見上げながら、細長い公園を行く。そして見覚えのある茅葺古民家(写真中)に着いた。江戸後期築の家で、半農半漁暮らしであったとある。

 富賀岡八幡 葛西橋通りを渡り、少し先の交差点を右折。そろそろ八幡様があるとの山勘が当たらない。右奥に神社の屋根が見え、正面へ回り込むと静かな住宅の間に富賀岡八幡は鎮座していた。こちらも氏子の方々が作業中。神殿に挨拶し句碑を探すと、建設中の仮設通路脇に見付かった(写真下)が、カメラを向けにくい。“目にかかる雪やしはしの渡り鳥”とあるようだ(目を日、雪を雲とする句集もある)が、上手く写ったかは運に任せ。裏の富士塚を見上げだが、初めてのようだ。再訪の自信があったのだが、記憶にあったのは別の富士塚だろう。
 都営新宿線東大島駅迄戻るつもりであったが、永代通りにバス停を探す。大分歩いて錦糸町駅行きバスに乗れ、途中下車し都営新宿線住吉駅から帰宅した。
 先ほど仙台堀川公園付近で北砂の地名に出会い、叔父宅があった地で数回訪問していたが、思い出せたのは砂町銀座だけで、位置も分からなかった。叔父家族が引っ越したのは大分昔になってしまった。(2022/1/7 K.K.1427/1500)

◇日時 2021/12/12 ◇天候 晴れ ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 昭文社「東京都市図41亀戸、53砂町」2004.4版 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅9:15-新宿線神保町駅9:57-同大島駅10:15=大島稲荷神社10:20=仙台堀川公園10:30=大石家住宅11:00=富賀岡八幡11:35=南砂バス停11:55-都営新宿線住吉駅12:20-三田線神保町駅12:40-自宅13:20

寺社を巡り、汐入公園を訪ねる

 荒川区にある汐入公園を知ったのは、入谷から南千住へ浅草国際通りを歩こうとした時である。隅田川沿いに広がる比較的新しい公園で訪ねようと思った。地図で見ると、付近には寺社がある。地下鉄日比谷線三ノ輪駅から歩き出せば里歩きハイクにはなるだろう。

 三ノ輪から白髭橋へ 地下鉄大江戸線を上野御徒町駅で日比谷線に乗り換え、三ノ輪駅に降りた。乗換が私の記憶と違い距離があり戸惑った。地下から明治通りへ出て、直ぐ目黄不動尊。通りに面し参拝。寺院かと思っていたが、お堂だけの小さなお不動様。江戸期から五色不動がありここはその一つで、御成街道沿いの本駒込に目赤不動があったと思う。 
 明治通りを歩いていると思っていたが地名が違い、正面のスカイツリーも大きくなって来る。地図を見直し戻る。左折を見逃していた。隅田川白髭橋が次のポイントで、ようやく橋が見え、手前を左折。

 石濱神社、汐入公園 広い一画だが家屋や高いビルもなく、都内では珍しい開発途上の地区のよう。汐入公園は平成18年に出来たとある。そんな地域の入口に石濱神社があった(写真上)。江戸期からの古社の筈で、社殿は新しいが、境内の石碑が歴史を示している。業平の都鳥歌碑があると案内があり、探したが見当たらない。古い石塔の一つがそうらしい。私は、言問橋付近がご当地と思っていたが、業平は白髭橋辺りで詠んだらしい。
 隅田川堤を歩く。川面に船が浮き、振り向けばスカイツリー。左手下が汐入公園で、堤を降りる。最近の都市型公園らしく、遊具を備えた広場やバーべキュー広場が目立つ。テニスコートはあるがグランドはない。周囲を近くの中学生達が集団で走っている。期待した樹林帯はなく街路樹程度(写真中)。公園を過ぎ、高層住宅街の先に、胡録神社があった。川中島の戦いで敗れた上杉方武将が落ち延び定住して、祀ったとある。聞いたことのない神社名で、手を合わせた。胡録は、矢を入れて携帯する武具という。

 芭蕉矢立初めの碑を知る 南千住駅から三ノ輪橋駅へ向け、日光街道へ出たいが距離がある。右手の隅田川から離れると日光街道へ至り、素盞雄神社が見え、立ち寄る。再訪で、社殿右に芭蕉句碑があるのは知っていた(写真下)。1820(文政3)年千住の文人達が建立した奥の細道への矢立初めの碑とある。いわゆる千住論争で、荒川区側が芭蕉旅立ちの地を南千住とする根拠だろう。私は句碑の一つと思っていたが違っていた。バスを待って、三ノ輪橋まで乗車し、帰途は都電荒川線とした。(2022/1/5 K.K. 1426/1500)

◇日時 2021/12/03 ◇天候 晴れ ◇交通費 160円 ◇資料 昭文社「東京都市図25
千住、30立石」2004.4版 ◇歩行距離等 15,000歩 11㎞ 
「通過時間等」自宅8:50-大江戸線春日駅9:30-日比谷線仲御徒町駅9:49-同三ノ輪駅10:00=目黄不動尊10:05=石濱神社10:45=汐入公園10:55=胡録神社11:20=素盞雄神社11:40-都電荒川線三ノ輪橋駅12:00-三田線西巣鴨駅13:06-自宅13:30

みちのく一ノ関に猊鼻渓、厳美渓を巡る

 JR東日本大人の休日俱楽部パス期間最終日は遠出し、みちのく北東北の入口一ノ関に猊鼻渓、厳美渓の名勝地巡りにした。先日若い友人に会った時一ノ関の話が出て、思い付いた。いずれも東北新幹線も停まるJR一ノ関駅から近く、交通の便は良く日帰り可能である。渓谷の紅葉は終えているだろうが、晩秋から初冬の渓谷美も良いだろう。

 一ノ関から猊鼻渓 東北新幹線を一ノ関駅に降り、大船渡線に乗り換えた。先に猊鼻渓とし乗車時間30分であり、列車は山間を走った。大船渡線は二度目で数年前気仙沼からの帰途乗車し、車窓から猊鼻渓を眺めたと思う。
 小さな駅に降り、渓谷の方向を確かめスタート。駅裏先が猊鼻渓だが回り込み、大船渡線高架下を抜け、砂鉄川渓流を少し遡ると猊鼻渓の入口であった。 
 舟着き場があり(写真上)、舟下りがメインと知る。両側は高い崖がそそり立ち、遊歩道はなく散策程度も出来ない。パンフによれば渓谷は上流へ続き、船から眺める外はないようだ。私一人を残し皆乗船した。駅から急いでいた高齢者達も舟下りであった。僅かに見える深い峡谷にカメラを向け、舟着き場付近をウロウロ。紅葉は終えている。事前調査が足りなかったと反省しながら駅へ戻った。

 再訪の厳美渓 厳美渓は一ノ関駅前からバスで20分程。市内を抜け郊外から少し走ると厳美渓であった。本日日曜日で人出は多い。私は、下流の御覧橋から歩き出す。磐井川の深い渓谷は流れも豊富。吊り橋を渡り、渓谷が見え隠れする右岸を遡上する。天工橋の先で渓谷内岩上に見晴台があり、濡れた岩肌をそろりそろりと歩き、狭い峡谷を覗き、シャッターを切った。断崖の間に急流が走っている(写真下)。“空飛ぶだんご”、対岸の店へ綱に吊るした籠を使い注文しだんご受け取る仕掛けを見て、再訪を確かめた。確か家内と、陸羽東線経由で山形東根の実家へ帰った時厳美渓にも寄ったと思う。もう40年も前のことだったろう。古い写真から86年8月と分かった。また渓谷沿いに遡りuターン。橋袂の土産店で休憩し、団子を頼む。寒くはなく、外で食べた。
 地酒をゲットし帰途へ バスで一ノ関駅へ戻る。車窓から眺める市街地は大都市風で、スマホで調べると盛岡市に次ぐ10万都市とある。芭蕉は、奥の細道で平泉を訪ねる際当地に二泊して、その跡地の案内もあった。駅で時間があり、売店を一回りし、地酒は“南部美人”、肴はウリ漬け“金婚漬”を求め新幹線に乗車。仙台駅で乗り換え、19時前に帰宅出来た。(2021/12/28 K.K. 1425/1500)

◇日時 2021/11/28 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、バス代1,000円 ◇資料「猊鼻渓舟下り」、「厳美渓観光ごあんない」◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅6:50-JR上野駅8:02-同一関駅10:17-同猊鼻渓駅10:50=猊鼻渓舟着き場11:00=JR猊鼻渓駅11:35-同一ノ関駅前13:00-厳美渓13:25/14:30-JR一ノ関駅15:51-同上野駅18:10-三田線巣鴨駅18:25-自宅18:55

栃木佐野に犬伏の別れの地を訪ねる

 犬伏の別れの史跡が遺ることを知ったのは大分前である。戦国期上田真田家の命運を決断した地で、池波正太郎著“真田太平記”で読んだと思う。それが佐野市犬伏で、薬師堂が現存し訪ねることにした。JR東北本線小山駅乗換両毛線佐野駅からである。

 例幣使街道を歩く 小山駅の両毛線乗換は時間が掛った経験があり急いだが、新幹線からは近くスムーズに両毛線列車に乗れた。30分程で佐野駅に着き、案内所を探し情報収集。駅から遠く、想定の20分はあっさり否定された。バスの便も悪く、歩く。両毛線と並行する例幣使街道先と教えて貰い、同街道へ出るにも時間を要した。歩きながら佐野市は歴史の町を感じる。
 例幣使街道はこの辺りは真っすぐな道だが、佐野から栃木、鹿沼、そして日光へと左の北方へ続くと思う。正面に見える山は三毳山か。ようやく犬伏地区へ入ったが、上町、中町、下町と続き、薬師堂があるのは新町で最も奥。犬伏小学校を過ぎ、前方に高い樹々が見え始め、薬師堂であった。50分過ぎていた。

 真田父子の犬伏の別れ 本堂で参拝し(写真上)、案内書きを読む。1600(慶長5)年、家康の下で会津討伐に向かっていた真田昌幸に、下野国犬伏で石田三成から密書が届いた。豊臣方への味方の要請で、真田父子(信之、信繁・幸村)三人は当薬師堂で密談し(写真中・上田博物館蔵図)、昌幸、信繫は石田方、信之は家康方に別れて戦うことにしたという。いずれが勝っても真田家名は残るとの選択と言われるが、私は昌幸の家康嫌いが根底にあったと思う。信繫は大坂夏の陣で倒れたが、信之真田家の松代藩は明治まで続いた。お堂をカメラに収め、uターン。歩き出したがまた50分の街道歩きは辛く、タクシー呼び犬伏小学校前から乗車するも、道路が混みあいノロノロ。

 晩秋の佐野城跡 駅に着いたが、小山駅行は一時間後。駅裏の佐野城跡を巡る。1602(慶長7)年唐沢山城主佐野氏が山城を廃し当地佐野に築城したが、1614(慶長19)年改易になってしまい、僅か10数年で廃城となった城。私は再訪で、城は連郭式の平山城であり郭や堀切、土塁跡が遺る。晩秋の城跡は紅葉が盛りで美しい(写真下)。シャッターアングルを探しながら、城跡を半周し、駅へ下った。
 小山は犬伏の続きの地で、三成挙兵を知った家康が、各武将に決断を迫った小山評定を開き、家康味方を確かめ、三成討伐のため西上を開始したのが小山で、市役所前にその記念碑があり、眺めたことがある。今回もと思っていたが、上りの新幹線が直ぐあり、途中下車はしないで、帰途に就いた。(2021/12/22 K.K. 1424/1500)

◇日時 2021/11/26 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、タクシー1400円 ◇資料 「佐野.下野国らーめんの郷」◇歩行距離等 16,000歩 11㎞ 
「通過時間等」自宅11:10-JR上野駅12:18-同小山駅13:02-同佐野駅13:40=例幣使街道13:50=犬伏小学校14:20=犬伏新町薬師堂14:30=犬伏小学校14:50-佐野駅前15:00=佐野城跡15:20=JR佐野駅15:57-同小山駅16:33-同上野駅17:19-三田線巣鴨駅17:37-自宅18:10

北向観音に詣で上田電鉄別所線を往復する

 JR東日本大人の休日俱楽部パス期間になり、行く先を検討した。料金に見合う乗り鉄としては首都圏外で、新幹線利用が良い。長野上田迄北陸新幹線に乗り、上田電鉄別所線で北向観音行きを思い付いた。一昨年の大洪水で千曲川に架かる鉄橋の一部が落ち、それが今春回復し完全開通したと知った。それに、北向観音には芭蕉句碑があるという。

 上田電鉄乗車 新幹線をJR上田駅に降り、上田電鉄別所線に乗車(写真上)。久しぶりで10年振りか。二両電鉄は千曲川を渡り、山間に広がる田園地帯塩田平を走った。同平は鎌倉時代信州北条氏が勢力を張り、国宝や重文の寺院や塔が遺って信州の鎌倉と呼ばれ、左手山裾の前山寺や塩田城跡は訪ねたことがある(10.4.18)。右手前奥は戦国期甲斐武田氏と当地村上氏が戦った上田原の古戦場で、武田方重臣板垣信方の墓があるらしいが駅から遠く未訪である。

 北向観音に参拝 別所温泉駅に着き、スタート。駅前通り左手の大通りから北向観音へ歩くが初めてのルートで、途中で右へ方向を修正すると観音堂裏手であった。
 表に回り参拝。孫達のことをお願いした。前に聳える桂は、小説愛染桂縁の木とは知っていた。その傍に芭蕉句碑は建っていた(写真中)。“観音のいらかみやりつ花の雲”の句で、深川の庵で浅草寺を詠んだという。当観音とは関係しないが碑建立者が選んだ句であろう。カメラに収め表参道から温泉街へ出る。
 中心には渓流が走っていたと思うが現在は舗装道。幸村の隠し湯石湯があり、確か池波正太郎作“真田太平記”に、信繁(幸村)が女忍者と入り情報交換した記述があったと思うが小説の話。右手の旅館を眺め、職場旅行で、大勢で宿泊したことを思い出した。翌日上田市郊外旧真田町の真田古城跡を巡り、家内の実家に世話になったと思う。

 開通していた赤い鉄橋 駅前土産店で軽食をし、上田駅行に乗車。千曲川手前の城下駅に降り上田駅迄歩き、千曲川に架かる赤い鉄橋を確かめたい。一昨年ぼきんと一部が折れた写真を見た。近くに住む家内遠戚の方から、暴れた千曲川の濠流の様子を聞いていた。
 大通りへ出て、上田橋から上流の鉄橋を見る。赤色の鉄橋は整然と繋がれている(写真下)。先程往きに通ったのだから当然だが、確かめた。写真は逆光で失敗。デジカメの操作が未だ十分ではない。千曲川右岸を遡上し踏切を渡り、土手を下りると上田駅で、少し待って、新幹線で帰京。呑み鉄用は地酒“喜久盛”にしたが、帰宅後味わった。(2021/12/15 K.K. 1423/1500)

◇日時 2021/11/25 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、上田電鉄 1,130円 ◇資料 別所温泉観光協会「別所散歩街歩きガイド」2021.11 ◇歩行距離等 12,000歩 9㎞ 「通過時間等」自宅8:30-JR上野駅9:38-上田電鉄上田駅11:10-同別所温泉駅11:45=北向観音11:55=別所温泉街12:05-上田電鉄別所温泉駅13:11-同城下駅13:40=上田橋13:45=JR上田駅14:40-同上野駅16:20-三田線巣鴨駅16:40-自宅17:10

練馬に光が丘公園から古刹を巡る

 購読紙に練馬光が丘公園銀杏並木の記事(11.8讀賣)を見た。黄金色に染まるとあり、見頃のようだ。過去二度誘われ訪ねたが、散っていた。少し時間が空いたからであったろう。この度は空かさず出掛ける。練馬にも、芭蕉句碑を見付け合わせて巡れば丁度良いだろう。句碑巡りは大江戸線から西武池袋線利用になる。

 三度目の秋の光が丘公園  我が家から光が丘公園は近い。バスで東武成増駅へ出て徒歩10分程。今回はこの最短ルートで、川越街道を渡り住宅街を行き、左手先が公園北口であった。園内は樹林に覆われ、紅葉中。欅や楓のようだ。
 期待して銀杏並木下を歩くが、一部は散り始めているようだ(写真上)。カメラに収めながら、並木路を出て振り返り、またシャッターを切った。園内に点在する紅葉を眺めながら、南口を出て大江戸線光が丘駅へ向かう。

 古刹は東の高野山 大江戸線の西の終点で、初めて乗降する駅。練馬駅へ出て西武池袋線に乗り換え高野台駅が、芭蕉句碑のある長命寺の最寄り駅。駅前案内図で確かめ、笹目通りへ歩き少し通り沿いに進むと左手奥が目指す寺院であった。
 広い境内で、先ずは本堂前で手を合わせ、寺の人らしい作業中の方に句碑を尋ねたが要領を得ない。メモを確かめ本堂前左に見付け、“父母のしきりにこひし雉子の聲”とある碑だが、芭蕉の文字は読める(写真中)。高野山で詠み笈の小文の句という。当古刹は東の高野山と言われ高野山繋がりだろうか。高野は当地の地名や駅名にもなっていると知る。山門から境内を出て、若しかして業界大先輩の縁で来院したかもしれないと思った。10年以上も昔のことである。

 中村橋駅から南蔵院 西武池袋線を中村橋駅で降り、初めての地に南蔵院を探すが遠い上に、目印の小学校も見付からずうろうろしたが、最後は宅配便の方に教えて貰う。こちらも古刹で、高い樹々が見える塀内で、大回りして参道から境内、本堂であった。簡単に手を合わせ、メモの通り句碑は薬師堂前にあった(写真下)。“魚鳥の心は知らずとしの暮”(…とし忘れ”とする文献もある)とある筈だが、もう読み難い。カメラを向け、寺を出る。前の通りは南蔵院通りとある。近くのコンビニで休憩しながら軽い昼食。
 予定では次は江古田の蓮華寺だが脚に疲れが出て諦め、練馬駅へ歩く。正面に西武池袋線の高架が見え始めたが距離がある。最近練馬を訪ね歩いているが、練馬区は広い上に練馬駅付近は複雑で、駅へは中々辿り着けない。今回もその思いも深めて、西武練馬駅から地下の大江戸線練馬駅へと下った。車中スマホ歩数計を見ると10kmを超していた。(2021/12/08 K.K. 1422/1500)

◇日時 2021/11/12 ◇天候 曇り ◇交通費 300円 ◇資料 昭文社「東京都市図20石神井、21練馬」2004.4版 ◇歩行距離等 17,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅8:20-東武成増駅9:00=光が丘公園北口9:15/9:30=大江戸線光が丘駅9:42-西武高野台駅10:05=長命寺10:15=西武高野台駅10:31-同中村橋駅10:40=南蔵院11:05=大江戸線練馬駅12:00-三田線神保町駅12:45-自宅13:10

三田線沿線を歩いて、湯島天神へ

 急に湯島天神参拝が決まった。北海道音更から上京する娘の子供の合格祈願に、同行することになった。地下鉄大手町駅待ち合わせ迄時間があり、折よく調査した三田線巣鴨駅や水道橋駅近くの芭蕉句碑を訪ねようと思う。その後千代田線で湯島駅へ、である。予定を娘にメールした。

 境内は菊祭り 三田線を巣鴨駅に降りる。地蔵通り入口の真性寺に芭蕉句碑があるという。地蔵通りはこれまでも歩いて、境内の六地蔵は知っていた。駅を地上へ出ると直ぐで、境内へ入った。丁度菊祭り最中で、鉢植え菊の花々が展示してある(写真上)。そして、左手に句碑があった(写真中)。案内があり、“白露も こぼれぬ萩の うねりかな”の句で、芭蕉が杉山杉風(さんぷう)別邸採茶庵に咲く萩を見て詠んだと知る。芭蕉の高弟で深川に在住し、庵提供等の芭蕉のスポンサーとの見方もある。六地蔵に挨拶し、境内を戻る。並ぶ菊の鉢を眺め、亡父も沢山作り並べて自慢していたのを思い出した。20年以上も前になる。

 句碑花見塚 三田線を水道橋駅に降りる。出口は後楽園とは反対側で、右手の坂を上がる。先に見える校舎の裏と山勘を働かせる。忠弥坂とあり、あの丸橋忠弥の槍の道場があった縁という。この前歩いた鈴ヶ森でも名前を見たばかり。校舎の裏へ回ると、昌清寺があり、門前左手に、句碑、花見塚があった(写真下)。“桜狩り きとくや 日々に五里六里”とあり、笈の小文で詠んだもの。当初の句碑は関東大震災で消滅し、昭和59年再建したという。カメラに収め、本堂前で頭を垂れ、uターン。

 大手町駅に着いたが、待ち合わせ時間には間がある。将門塚を眺めようと、地下道を皇居方向へ行き地上へ出ると、直ぐ傍で、塚の石塔前へ。周囲は整備されたビルの谷間の一画。以前の塚とは様変わりしていた。大手町交差点の角読売新聞社前で、箱根駅伝記念碑を眺める。100に近い優勝校が刻んであるが、母校の6連覇に目が向いてしまった。来年正月に期待しよう。

 湯島天神へ 大手町駅で娘に会い、千代田線を湯島駅に降り、天神様へと参道石段を上がる。この時期参拝者は少なく、参拝し合格祈願のお札を貰う。娘夫婦は、上二人の子供も当社に祈願し成就して、三人目の分。私は、長男の子供三男の分をお願いした。本日、結婚式があるようで、和装の花嫁、花婿一行が神殿へ入る姿を見た。この時期珍しいのではなかろうか。
 境内から裏参道へ出てバス停を探すがなく、湯島切通し坂上迄歩いてバスに乗り、三田線春日駅から我が家へとした。(2021/12/02 K.K. 1421/1500)

◇日時 2021/11/06 ◇天候 曇り ◇交通費 320円 ◇資料 昭文社「東京都市図23西巣鴨、35本郷」2004.4版 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞ 「通過時間等」自宅11:20-三田線巣鴨駅11:50=真性寺11:55=三田線巣鴨駅12:05-同水道橋駅12:10=昌清寺12:15=三田線水道橋駅12:30-同大手町駅12:35=将門塚12:40=読売新聞社12:50=千代田線大手町駅13:10-同湯島駅13:20=湯島駅天神13:40-三田線春日駅14:00・・・自宅15:00

上野公園、弁天堂、駅前商店街を歩く

 最近芭蕉句碑を追っている。上野駅近辺にもあると知り、山手線鶯谷駅をスタートし、上野公園から弁天堂、そして上野駅前の商店街を訪ねようと思う。弁天堂と上野駅前商店街に句碑があるという。私は、芭蕉句碑は案内板等があって当然と思っていたが、むしろ何の案内や説明もなく、寺社境内外れに放置されている例も多い。

 上野公園から弁天堂へ JR鶯谷駅から上野公園へ歩く。右手の坂の先が公園と思っていたが、寺と墓苑で最初から見通しが甘い。左折だろうと進むと、ようやく見覚えのある風景や建物が見え出し、公園の北端のようだ。久しぶりの園内で、樹木が覆い上野の森である。
 本日は土曜日で人出がある。博物館前、科学館前を行くと公園案内所があり、マップを貰う。庭園を公開している国立博物館は方向が違い戻るのは、諦めた。小さな野球場があり、正岡子規記念球場。確かベースボールを野球と訳したのは子規だったと思う。
 清水観音堂を左手に見て、不忍池側へと石段を降りる。弁天堂参道に芭蕉句碑を探すと、芭蕉翁と刻んだ石碑があった。参拝し、石碑建立の趣旨を社務所の方に尋ねると、調べてくれ不明と書いた文書を示してくれた。
 駅伝記念碑 不忍池畔に、駅伝記念碑があった(写真上)。1917(大正6)年奠都50年記念に三条大橋から上野不忍池迄、我が国最初の駅伝競走が行われその記念碑という。私は駅伝観戦が好きで、母校を応援している。先月箱根駅伝予選を通過し、伊勢路を走る全日本大学駅伝でも来年のシードを確保した。正月が楽しみである。
 不忍池から下町風俗資料館前を通り、上野公園正面へ出た。当公園は思い出が多い。中学修学旅行で叔父家族と面会した。現在でも、何故か中学同級生との待ち合わせは西郷さん前が定番だが、最近はご無沙汰である。上野駅口で、“ああ上野駅”の歌碑を眺める。集団就職時代のシンボルで、私の中学卒業時にも3月末に故郷から臨時列車が走って、少なくない同級生が上京した。あれから60年である

 花の雲句碑 芭蕉句碑を探し、右手の商店街へ進入する。大小の店舗が連なり、キョロキョロしながら行くが見当たらない。隣の通りかなとJR高架下へ出て、上野駅方向へ戻ると左手に石碑が二つあり、1985(昭和60)年東北新幹線上野駅開業記念碑と、芭蕉句碑(写真下)。加藤楸邨揮毫の“花の雲 鐘は上野か 浅草か”が自然石に刻んであった。地元商店街建立とある。それが芭蕉句碑とは少し渋いのではなかろうか。カメラに収め、人通りの多いアメ横を避け大通りを御徒町駅へ向かった。(2021/11/24 K.K. 1420/1500)

◇日時 2021/10/30 ◇天候 晴れ ◇資料 「都立上野恩賜公園案内図」令和3年1月 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅11:15-JR西日暮里駅12:35-同鶯谷駅12:45=上野公園12:55=弁天堂13:15=上野駅前13:30=上野商店街芭蕉句碑13:40=大江戸線上野御徒町駅13:58-三田線春日駅14:06-自宅14:40

甲州古道与瀬、吉野を歩き通す

 旧甲州街道のハイキング資料「甲州古道案内図」を入手し、大月から高尾へ向け歩き始めてから久しい。上野原迄は順調であったが、藤野を過ぎて吉野から躓いた。最初はコースを誤り、相模湖へ現甲州街道を歩いてしまった。リベンジハイクでは、与瀬への貝沢からの古道を探せず失敗し、それも二度である。ようやくショックも癒え、チャレンジした。

 三度目の貝沢口 前回(19.5.5)の帰途JR相模湖駅で入手した資料で、その時探し損ねた与瀬宿一里塚は、私の想定とは違い、貝沢から上がって戻った与瀬宿横道入口付近らしい。甲州古道は貝沢途中から沢を渡って土手を上がり、下流へ戻って横道入口へと入り組んでいると分かったが、後半の現況は不明。そんなルートを頭に入れ相模湖駅をスタートし、貝沢入口にあるラーメン店を目指した。三度目である。
 遂に探し当てた一里塚 貝沢口ラーメン店前を過ぎ、与瀬の横道地区へ坂道を歩く。坂途中で、右の貝沢方向の山中へと入る。最後の民家を過ぎ小さな広場へ至ると、奥にあった。ネット上の写真で見た一里塚を示す棒杭が立っていた(写真上)。確かめカメラに収めた。日本橋から16番目である。すぐ裏が貝沢渓谷。前回は先の上流付近で、横道地区へ強引に土手の仕事道を下りてしまっていた。一里塚は集落先と思っていたが、手前であった。反対側には相模湖が望め(写真下)、背後の高い山は丹沢端の大山であろうか。

 甲州古道を吉野へ 横道地区へ戻り集落内の甲州古道を行く。秋葉神社前から橋沢地区で、前回この辺りで諦めuターンした。山際に続く坂道を下り、古い集落は未だ神奈川の相模原で、山梨ではないと気付いた。前々回(17.10.26)、貝沢を直進してしまい陣馬山の派生尾根裾の奈良本へ出たが、その時の風景と重なり始めた。道端にキバナコスモスを見付け立ち止まり、シャッター切った。
 次の吉野へ向け、左手に90度ターン。そして、中高速道路を高架で渡る。左手先に見える高いアーチは相模川勝瀬橋だろう。
 吉野からバス乗車 坂道を下り続けるが、吉野地区の現甲州街道迄は距離があった。ようやく現街道との丁字路へ着き、吉野宿観光案内所前にバス停を見付け、藤野駅行を見ると10分後。先程相模湖駅前でチェックし、間に合えばと思っていたが、少し余裕があった。バスでJR藤野駅に着くと、直ぐ高尾行が来て乗車。近くの藤野名倉に住む友人へ連絡する間もなかった。
 今回は、与瀬宿一里塚を探し当て、吉野へ歩いて、積年の肩の荷を下ろした思いで帰途に就いた。(2021/11/17 K.K. 1419/1500)

◇日時 2021/10/24 ◇天候 晴れ ◇交通費 1,360円 ◇資料 JR東日本八王子支社「相模湖駅→上野原駅」 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 
「通過時間等」自宅8:25-新宿線神保町駅9:12-JR高尾駅10:19-同相模湖駅10:30=貝沢口10:45=与瀬宿一里塚10:55=吉野12:01=JR藤野駅12:09-京王高尾駅12:35-三田線神保町駅13:45-自宅14:20

大森貝塚跡からしながわ花海道へ歩く

 購読紙に品川の勝島運河沿いにあるしながわ花海道にコスモスなど秋の花が咲いたとの記事を見付けた(21.10.14朝日)。是非訪ねたいが、歩くには距離が足りない。地図を眺め、先に大森貝塚跡や鈴ヶ森があると知り、これらを含めコースを考えた。立会川駅付近には龍馬像があると分かり、興味を惹いた。

 大森貝塚跡へ 三田線三田駅から歩きJR田町駅で京浜東北線に乗り換え大森駅に降りた。多分同駅乗降は初めてと思う。ホームにわが国考古学発祥地の碑があった。北口を出て少し歩いた先に貝塚跡入口の案内があり、ビルの間の狭い階段を降りると線路際に古い石碑大森貝墟が建っていた(写真上)。1877(明治10)年東大に赴任する途中列車車窓から、米国人エドワード・S・モース博士が大森貝塚を発見したことは有名な話で、中学の頃社会科で習った。私も先ほど大森駅手前で、車窓から石碑を捉えた。
 鈴ヶ森 駅前通りへ戻り、鈴ヶ森への右折先を探すが地図上の通りがなく、右手に渡線橋を見付け強引に右折し広い線路帯を渡り、東海道側へ出た。これが正解だったようで、京浜急行線高架下から大森海岸駅を右奥に見て、東海道第一京浜を横断すると品川水族館前。北海道の孫達と魚やイルカを眺めたことがあった。10年以上も前のことであったろうか。旧東海道との三叉路が鈴ヶ森刑場跡。油井正雪の乱首謀者丸橋忠弥や八百屋お七の刑執行の跡が遺っていた。確か二度目だが記憶にない。

 龍馬像 旧東海道を上がる。そろそろ立会川駅かなと左手の商店街へ入ると、小公園に坂本龍馬像があった(写真中)。何故当地にと思っていたが、土佐藩鮫洲抱屋敷があり、この屋敷内に浜川砲台が築かれ、若き坂本龍馬もこの地で守備についたとある。龍馬の人気の証しでもあろう。カメラに収めたがマスクした龍馬では様にならない。浜川砲台も遺ると知り、そちらも探し当てると、ペリー来航後土佐藩が屋敷内に設けた砲台で、江戸湾へ向けた当時の大砲が復元してあった。

 しながわ花海道 隣が勝島運河で、土手沿いに花壇があり花海道(写真下)。コスモスやサルビア、マリゴールドが咲いているがコスモスは終わりのようで、疎ら。花々を眺めながら土手を行く。運河には大小の漁船などが係留してある。品川も東京湾沿いなのだ。キバナコスモスがあり、土手下からカメラを向ける。数年前夏場に江東木場公園で満開のキバナコスモスに出会い、印象深い。それと比較してしまうので、量も咲く花も物足りない。一応シャッターを切り、また土手上を歩く。運河も端へ至り、土手を反対側に降りて、京急鮫洲駅へ向かうが、少し距離があった。(2021/11/10 K.K. 1418/1500)

◇日時 2021/10/16 ◇天候 曇り ◇交通費 330円 ◇資料 昭文社「東京都市図68馬込」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅8:35-JR田町駅9:37-同大森駅9:50=大森貝塚碑9:55=鈴ヶ森刑場跡10:15=龍馬像10:35=浜川砲台跡10:40=しながわ花海道10:50=京急鮫洲駅11:05-三田線三田駅11:21-自宅12:10

都内麻布十番から御成門へ

 今年5月芝公園を歩いて、御成門は公園内ホテルの庭外れにあると知った。私は、増上寺の立派な山門を御成門と誤解していた。確かめようと思う。あの時、芝公園から麻布十番へ足を延ばそうと予定していたが、疲れてしまい途中で引き上げてしまった。今回は、麻布十番から御成門を予定した。

 麻布十番を巡る スタートを大江戸線麻布十番駅にし、我が家からの最短ルートを思い巡らした。結論は新宿線神保町駅から新宿駅へ出て、大江戸線乗換がベターだろうとその通りにし、約1時間で麻布十番駅に着き、長いエスカレータを乗り継ぎ地上へ出た。商店街にある野口雨情作“赤い靴”像を目指した。以前歌碑を探した時に存在を知った。
 小さな公園に、赤い靴の少女像は立っていた(写真上)。岩崎キミちゃんで、米人宣教師の養女になったが病気になり当地の孤児院で9歳の時亡くなったとある。異人さんと渡米はしなかったのだ。その所為か像は元気なさそうな表情に見える。今はマスク姿。赤い靴像は横浜山下公園にもあった。

 古刹善福寺、更科蕎麦の老舗 先へ進んで善福寺へ。一度訪ね大銀杏の大樹がある。再会し、樹齢700年の銀杏の木は元気で(写真中)、カメラを向けた。当寺には、江戸末期アメリカ公使館が置かれ、ハリスの記念碑があった。
 戻る途中、麻布十番には更科蕎麦のルーツ布屋太兵衛店が在る筈と思い出し、回り道すると偶然店前へ至り、大きな古い店舗が現存していた。同じく麻布永坂更科本店も近くにあるのだろうか。駅前の十番稲荷神社に石段下から軽く頭を垂れて、地下駅へ下った。
 増上寺三門、鐘楼 大江戸線を大門駅に降り増上寺へ。大門地区は繁華街で飲食店が並び、駅出口の十字路で方向を確かめ、増上寺の大門を見てから歩き出す。増上寺の大きな山門は、三解脱門とか三門と呼ばれていると知る。境内も直ぐの鐘楼をカメラに写す。前回、“鳴る鐘は芝か上野か浅草か”と江戸川柳に詠まれた歴史ある鐘と分かり、写真が欲しくなって立ち寄った。江戸初期鋳造の梵鐘とある

 御成門へ 隣のホテル敷地内へ入り、御成門を探す。右端の道路際と思うが広くて見えない。処がホテル側からは門の裏で、道路へ大回りして正面へ出た。思ったよりシンプルな大きめの普通の門(写真下)。菩提寺参拝時、将軍様のみが通る門で、江戸城側の北に設けられていたという。カメラに収めて駅を探すと三田線御成門駅は近かった。(2021/11/02 K.K. 1417/1500)

◇日時 2021/10/12 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス ◇資料 昭文社「東京都市図50麻布、51浜松町」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅8:25-新宿線神保町駅9:00-大江戸線新宿駅9:15-同麻布十番駅9:45=赤い靴像9:50=善福寺10:00=布屋太兵衛店前10:05=大江戸線麻布十番駅10:15-同大門駅10:20=増上寺10:45=御成門10:55=三田線御成門駅11:00-自宅12:15

江東の門前仲町から永代橋を往復する

 最近月一程度は江東区へ出掛け門前仲町を通ると、昭和以前の下町風な街並みを感じている。その中心は富岡八幡宮だが、境内に伊能忠敬像があると知った(「我がまち再発見 東京・深川編下」21.4.15讀賣夕刊)。同八幡には2,3度参拝しているがあったかなと思う。周辺に他の史跡等もあり、訪ねることにした。

 伊能忠敬像 門前仲町は近い。大江戸線に乗り50分程で門仲駅に着き地下を出て、商店街が並ぶ永代通り歩道を下る。表参道から大きな鳥居を潜ると、左手に像はあった。
 自作日本地図を背に武士の旅姿の伊能忠敬は、50歳は過ぎていたと思うが元気はつらつとした姿(写真上)。案内によると、忠敬は近くの深川黒江町(現門仲一丁目)に住み、全国へ測量の旅に出掛ける前、必ず参拝に訪れた縁という。伊能忠敬の測量開始から200年を記念し平成13年建立とある。その偉業はシーボルト事件を持ち出すまでもないだろう。カメラに収めた。
 本殿前で軽く手を合わせ、横綱力士碑前へ出る。当境内で、江戸期勧進相撲が興行され、手前には大関力士碑もあった。裏参道から出て、高速下を抜け清澄通りを渡る。門仲一丁目に忠敬旧居跡が遺ると知り、地図にチェックして持参し探した。ほぼ回り道しないで歩道にある石柱を見付けて確かめ、シャッターを切った。

 赤穂浪士休息の碑 次は、永代橋袂のちくま味噌社前の赤穂浪士休息の碑へ歩いた。商店街通りを行くと、正面に車の往来が見え永代通りで、偶然にちくま味噌社ビル前へ至り、件の碑はあった。本所松坂町から泉岳寺へ引き上げる浪士一行が休息し、甘粕粥をご馳走になったという。初代店主と浪士大高源吾が俳人其角門下で知り合いであったとある。
 永代橋から門仲へ 久しぶりに永代橋を眺め(写真下)、その下流には高層ビルが林立している。晴海方向で、確か今回のオリンピック村であったと思う。私が通った晴海キャンパスはその先だろう。
 橋下から永代公園へ上がるが、直ぐ工事中の通行止めで前進は出来ない。地図を眺め、土手を下り住宅街通りへ出て、門仲へ戻る。途中神社が在る筈と探しながら歩くが、伏見稲荷は見逃してしまった。地図の読み間違いのよう。戻る程のことはない。臨海小学校に突き当り、反対側の小路に小さな出世稲荷神社があり、立ち寄り詣でた。次期受験の孫二人のことをお願いした。永代通りへ出て、大江戸線門仲駅は直ぐであった。昼が近くなり、旧友と食事した店が浮かんだが一人では・・・と帰宅することにした。(2021/10/26 K.K.1416/1500)

◇日時 2021/10/05 ◇天候 晴れ ◇交通費 シルバーパス ◇資料 昭文社「東京都市図48深川」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅9:05-大江戸線春日駅9:45-同門前仲町駅10:05=富岡八幡宮10:15=伊能忠敬旧居跡10:35=赤穂浪士休息碑10:45=永代橋10:50=出世稲荷11:15=大江戸線門前仲町駅11:28-三田線春日駅11:54-自宅12:30

多摩秋津から八国山、東村山へ歩く

 都下多摩の秋津から八国山、東村山へコースを探した。東村山駅前に、志村けんの像が出来たと報道され、見てみたい。我が家の子供達が小学生の頃、“八時だよ!全員集合”を楽しんだ。公開放送に子供と出掛けて直に観たこともあった。武蔵野線新秋津駅から八国山へ歩いて、西武線新宿線東村山駅へ向かいたい。

 武蔵野線新秋津駅から 最近武蔵野線を利用し便利と知った。今回も、同線新秋津駅スタートとし、東武成増駅へ出て北朝霞駅で武蔵野線に乗車して、1時間強で新秋津駅であった。初めてに近い駅で、方向を知るのに時間を喰った。ようやく八国山の方向を見定めて、歩き出す。近くの秋津神社に挨拶し、裏手の柳瀬川遡上を開始。予定のルートだが、住宅が連なり、川が見えない。当地も東村山市と知る。清瀬市かなと思っていた。
 遠い八国山 八国山は近くで見えると思っていたが、大分距離がある。南へと歩いたつもりで、秋津橋へ至った。ここからは古い集落のようで、柳瀬橋手前で所沢街道を渡り浅田飴の工場を見て、右折。右手に寺院があり梅岩寺で、欅の古大木がある古刹(写真上)。ここで前方に八国山を確かめた。熊野神社へ寄り、大回りして西武新宿線踏切を越す。東村山の諏訪町で、ここまで来れば少し土地勘がある。徳蔵寺前から幼稚園傍を通過すると八国山下。40分の予定が倍の時間を要し、地図の読みが甘いのがまた露呈してしまった。

 八国山将軍塚で休憩 八国山は三度目程と思う。坂を上がり尾根道へ出て、将軍塚で休憩。鎌倉末期新田義貞が鎌倉攻めをし分倍河原での戦勝の際、ここに白旗を立てたという。ザックに前回谷川ロープウエイ駅で求めたせんべいが残っていて、ラッキーと口にした。八国山はその昔、駿河や甲斐など八国が眺められた山からの命名だが、現在は、深い樹林に里山は覆われ展望はない(写真中)。東村山駅へと山を下り、住宅街を行く。

 志村像に対面 20分程で、東村山駅西口広場に着き見渡したが像はない。東口へ出ると大きな立派な像が建っていた。なんと羽織袴着用(写真下)。バカ殿だと隣の人は呟いたが、そうは見えない。タレントの儘の像を想定していた。
 私は、髭ダンスが印象に残る。加藤茶と掛け合いで、髭を付けサーベルを持つ志村が、加藤が放る果物等をサーベルに刺して受ける遊びだが、音楽に合わせ、成功した時はどうや、どうやと露骨な態度で踊りまくり、しょげて落ち込んだ失敗の踊りとは、その落差が甚だしくて面白く、楽しんだ。カメラに収め、駅中へ入ろうとしたら、停車中のバスが新秋津駅行きと知り乗車し、往路を戻り帰宅した。(2021/10/19 K.K. 1415/1500)

◇日時 2021/09/27 ◇天候 晴れ ◇交通費 860円 ◇資料 昭文社「東京都市図127清瀬」2004.4版 ◇歩行距離等 16,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅8:35-東武成増駅9:10-武蔵野線北朝霞駅9:27-同新秋津駅9:45=秋津神社9:50=秋津橋10:20=梅岩寺10:45=西武新宿線踏切10:55=八国山下11:05=将軍塚11:15=東村山駅12:10-武蔵野線新秋津駅12:54-東武朝霞台駅13:18-同成増駅13:25-自宅13:45

秋の十日町松代に棚田、美人林を巡る

 越後十日町の棚田や美人林のパンフを入手し、行ってみようとしてから久しい。時々ネットで調べては後回しにした。湯沢駅からほくほく線で十日町、松代は遠い上に、アクセスも悪い。現地のバスの便も不明。先日そんな思いをSさんに話したら、OKという。車でも3時間以上だろうと早朝出発になる。感謝しながら、準備した。

 山また山の十日町 板橋区を6時にスタート。所沢で関越高速へ入り、新潟を目指した。埼玉から群馬、そして長いトンネルを通過。その前谷川岳が見え、先日天神峠から眺めたと話した。塩沢石打で高速を降り、十日町へ。山間からトンネルを抜け十日町で、塩沢や小千谷の地名は知っている。信濃川を渡り、飯山線を越し、またトンネルを抜け、松代であった。山に囲まれた小さな盆地か。当地が雪深いことは、雪国育ちの私には、家の形から分かる。
 松代棚田を巡る ほくほく線まつだい駅に9時30分に着き、駅前で情報収集し、お勧めの棚田へ向かう。最初の蒲生の棚田は道を誤り戻って、Sさんが、ここだと入った農道下に棚田はあった。眼下に小さな田圃はあり、稔りの風景であるが休耕田もあり、それ程ではない。
 次の儀明の棚田は大通りの直ぐ下にあった。こちらは棚田の数が少なく、物足りない。星峠の棚田は、その名の通り峠道を上がり、高台から見下ろした。見事な棚田が形成されて、小さな田圃が重なるように配され(写真上)、稔の秋を表現している。20枚以上はあろう。これが棚田とシャッターを切り続け、ようやく満足した。見物者が次々に来て、眺めている。Sさんもカメラを構えている。

 美人林はブナ林 美人林は少し離れていた。松之山温泉への通りを走行中、美人林の案内を見付け山中へ入って貰う。森の中を進み左手が目指す林であった。林内を歩く。広くはないが、一面ブナが林立し揃い美しい(写真下)。大正末期木炭用にすべて伐採されたが、その後ブナは再生し、すらりと育ったブナ林は、立ち姿が美しいことから美人林と呼ばれたとある。私は、カメラを向けながら遊歩道から林の中を巡る。樹齢約100年とあるがそうは見えない。それでも満たされ車へ戻った。
 山の湯を楽しむ 松之山温泉は小さな湯治場風の山の湯。薬湯で有名とある。我々は、日帰り温泉へ入り、熱めの湯をのんびりと楽しんだ。露天風呂の川端には萩の花が見えた。温泉街の食堂で昼食を取り、帰途に就く。棚田風の風景の中を十日町から湯沢へ出て、関越道。往路と同じ時間で、板橋の我が家に着いた。Sさんお世話様でした。電車、バス利用ではとても回れないコースを実感し、本当に感謝、感激である。(2021/10/13 K.K. 1414/1500)

◇日時 2021/09/21 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 6,000歩 5㎞ ◇資料 十日町市観光協会「越後松代棚田群・棚田マップ」「通過時間等」自宅6:00-まつだい駅前9:35-蒲生の棚田10:10-儀明の棚田10:20-星峠の棚田10:40-美人林11:20-松之山温泉11:55/13:05-自宅16:40

信州千曲の姨捨を再訪する

 俳聖の追っ掛け記を書き始めて久しい。そろそろ終盤で、これまでの書き溜めた分も乏しくなった。以前千曲の姨捨を訪ねた時(15.6.30)、芭蕉句碑もあったと思うが棚田巡りが主で、記録はない。それで再訪することにした。ネットで調べると、姨捨長楽寺の芭蕉面影塚の外、姨捨駅や姨捨公園にも句碑があるという。これは外すわけにはいかない。

 ホームにあった句碑 JR篠ノ井線姥捨駅に着いて、ホームを見渡した。芭蕉句碑はホームにあるという。探せず渡線橋を渡るが隣のホームにも見えない。施設の陰かなと近づくとあった。更科紀行の際当地で詠んだ面影の句碑である。少なくない句碑を巡っているが、駅ホームというのは初めて。
 無人駅を出て、急坂から踏切を渡り姨捨公園へ。高浜虚子の句碑が出迎えてくれたが、公園とは程遠い小山の荒れた斜面の一画に碑が二つあり、どちらが芭蕉のものか不明。文字が薄くもう読めない。後に調べると左がそれで、“元日に田毎の日こそ恋しけれ”と知る。公園を出て、坂を下る。コスモスが咲く先に棚田の一画が覗けた。秋の稔りの棚田は美しい。前回は緑一色の時期で棚田とは分かり難くかった。
 面影塚 坂道を下り続け、月見畑を左に見て、正面に大きな姨岩があり長楽寺境内で、多くの句碑が乱立している。前回ここで芭蕉のはないと下ってしまっていた。面影塚は参道入口左にあった(写真上)。長い石柱で、“おもかげや 姨一人なく 月の友”は横に刻んであった。1688(貞享5)年8月15日姨捨の田毎の月に惹かれて訪ね、詠んだ更科紀行である。カメラに収め、本堂前へ進んで参拝した。

 秋の棚田は美しい 棚田を眺めようと、駅先へと急坂を上がる。当地は傾斜地も急で、それで棚田なのだろう。篠ノ井線姨捨駅は未だスイッチバック方式で、先程経験した。なんとか坂を上がり切り、前回の経験から一本柳踏切へと歩き、棚田を覗き眺める。
 眼下に収穫期の棚田が広がり、一枚ごとの小さな田圃が並び見事(写真下)。もう刈り終えた田圃もある。2,3度シャッターを切った。駅へ戻る途中、下方先に千曲川が見えた。前回は棚田の間を下り、千曲川を渡ってしなの鉄道千曲駅へ歩いた。当地で眺める善光寺平長野市内の夜景も絶景らしい。
 誰もいない待合室で、遅い昼食。長野駅で求めた牛かつサンドはすきっ腹には美味しい。室内には姨捨伝説が紹介してある。長野駅行き列車は、一旦バックしてから下りの線路へ入り走った。長野駅で上り新幹線に乗り換える。上田駅で途中下車し別所温泉、北向観音も考えていたが、次回として、そのまま乗り続けた。(2021/10/7 K.K. 1413/1500)

◇日時 2021/09/16 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ ◇資料 信州千曲観光局「姨捨道先案内」◇交通費 JR東日本大人の休日パス「通過時間等」自宅8:20-JR上野駅9:26-同長野駅11:12-同姨捨駅11:45=姨捨公園11:55=月見畑12:10=長楽寺境内12:20=一本柳踏切12:45=JR姨捨駅13:19-同長野駅14:25-同上野駅15:55-三田線巣鴨駅16:12-自宅16:45

天神峠で谷川岳を仰ぐ

 谷川岳大展望 正面に鋭い大岩峰が聳えそそり立つ(写真上)。双耳峰で、手前がトマノ耳、奥がオキノ耳と呼ばれる谷川岳。間近で仰ぎ、見上げるのは初めてで、本日天候良く全容を現わし、岩肌を露わにした大谷川岳である。うーんこれが谷川か。こんな急峻な岩峰に挑戦し頂上を極めたのは約20年も前(94.7.24)。そのコース天神尾根も目の前だが、厳しくも急な登攀コースだ。先輩に引っ張られた谷川岳登山であった。若さがあったのだ。10年前越した蓬峠は左も奥のようだ。

 ロープウェイで天神峠へ 本日、ロープウェイとリフトで、谷川岳麓の天神峠へ上がり、展望や僅かな山歩きを楽しみ、山の雰囲気を味わおうとしている。年齢には勝てず、山歩きは困難になり、ロープウェイのある山を訪ね楽しもうと最初に谷川の天神峠とした。
 アクセスは良く、上越新幹線上毛高原駅からバスの便があり、ロープウェイセットの割安パスがあった。土合口駅に11時過ぎに着き、乗車。94年の登山以来で、上がるに従い、右手車窓に岩山が見え出した。予想通り谷川岳で、幸先良い。そして、天神平駅でリフトへ乗り換える。本日平日なのに少なくない乗客がいる。同好者か。リフトを降り、天神峠に立った。冒頭のシーンに出会い、大展望を楽しんだ。シャッターを切っていたら、押しましょうかと隣のご婦人に声を掛けられた。お断りし、若い頃登ったんですよと言ったら、私も、ですと返って来た。峠を歩き方向を変えて、武尊山、赤城山、苗場山は私でも同定出来た。手前は白毛門だろう。小さな祠があり天神様。それで峠名や尾根名なのだと理解できた。来春も孫に受験生二人いて、その内本格的にお願いしなくては思う。新潟側の展望台で眺めた山々は名前が浮かばない。

 最後の山歩きか いよいよ下りで、ストックを出し、草原のスキー場に切られた坂を下り始める。直線的で緩くはなく、ヨタヨタ下っているのは自分でも分かる。リズミカルに歩いて少し楽になった。ススキ立つこの時期シモツケソウは枯れている。黄色の花はアキノキリンソウか。カラマツソウやトラノオのような野草もあり、時々カメラに収める。ロープウェイ駅が見え出した付近で、左手に顔を出した谷川岳も素晴らしく(写真中)、またデジカメを向けた。歩きで下るのは私一人であったが、カップルが追い越して行った。コース案内25分の処を40分程掛かってしまった。膝もガクガクしやっぱりもう山歩きは無理とダメ押しとなった。現在レストラン休業中とあり、売店でせんべい類とジュースを求め、昼飯の代わりにした。バスで往路を戻り、駅売店で買った清酒谷川岳ワンカップ(写真下)を手にして、新幹線に乗った。(2021/10/01 K.K. 1411/1500)

◇日時 2021/09/13 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ ◇資料 昭文社「山と高原地図28 谷川岳」◇交通費 JR東日本大人の休日パス、現地4,520円
「通過時間等」自宅7:50-JR上野駅8:58-同上毛高原駅10:20-谷川ロープウェイ土合口駅11:10-同リフト駅11:40=天神峠11:50=ロープウェイ天神峠平駅12:35-同土合口駅13:20-JR 上毛高原駅14:22-同上野駅15:25-三田線巣鴨駅15:47-自宅16:20

磐越東線を乗り切り、背戸峨廊口を往復

 JR東日本大人の休日パスを利用し、今回は磐越東線を乗り鉄して、江田駅で降り背戸峨廊へ寄ろうと思う。背戸峨廊は渓谷だが、大雨で崩れ通行止めであったが最近一部が解除されたと知った。磐越東線は過疎ダイヤで、郡山駅13時に出発し、いわき駅には17時前着予定。ゆうゆうあぶくまラインがニックネーム。

 郡山駅、三春駅 東北新幹線で郡山駅に着き、磐越東線いわき駅行に乗り換えた。3両程の下りの列車は込み合い、高校生の下校時に重なったらしい。何とか席は確保。郡山市内を過ぎるともう山里風景。そして直ぐ三春駅。滝桜見物で、乗降したことがある。磐越東線は乗り切ったことがあるが20数年前で、知る駅は三春駅の外、小野新町駅だけ。退屈な車中に当地出身者をスマホで検索し、丘灯至夫を思い出した。歌謡曲作詞家で、“高校三年生”が有名だが、私は、“高原列車は行く”が好きだ。彼は小野町出身で、記念館があるようだ。“高校三年生”の歌碑は、世田谷松陰高校校庭や郡山駅前にあり、訪ねたことがある。

 小野新町はオノニイマチ 列車は同じような山里風景の中を走っていたが、家並が見え出し、小野新町駅に着いた。新町はニイマチと読むとあり(写真上)、びっくり。乗客は少なくなり、阿武隈山地に入ってトンネル通過が始まり、山は次第に深くなった。夏井駅、川前駅、そして江田駅に着き、下車。私の外もう一人だけ。
 背戸峨廊はuターン 背戸峨廊は、駅横の小山を回り込んだ江田川渓谷のようだ。案内もあり、山中へ入ったが山は高く、森は深い。林道から枝道を渓谷へ下る。久しぶりにストックを持参したが、使い難い。薄い荒れた踏み跡を一歩一歩降りて谷川内へ。谷は狭く深い(写真中)。しかも流れも速い。淵の岩壁には鎖が付いているが、水面は直ぐ下で、徒渉はしたくない。遊歩道と思って来たが大違い。諦めようと、カメラに写しuターン。

 駅前商店主へ感謝 駅前に戻り、次のいわき駅行到着迄時間あり、駅前の店(写真下)で飲食物を求める。アルコール類はなく、おやつにせんべいにした。高齢のご主人は、近所の様子を色々話してれ、隣の酒店は店主が亡くなり閉めたという。ご主人は自分用缶ビールを私へと言い、代金は押し問答したが、結局私は戴いた。田舎の方の人の好さに感謝である。駅ホームベンチでビールを飲み、時間を潰した。駅前は10軒程度の山峡の小集落のようだ。
 予定時間に列車は来て乗車し、20分程でいわき駅着。指定券を得て、品川行き特急に乗る。この特急は水戸駅からは上野駅迄ノンストップ。それでも2時間以上要した。(2021/09/26 K.K. 1411/1500)

◇日時 2021/09/10 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ ◇資料 旅行読売「滝 湖畔 渓谷を歩く 背戸峨廊」56頁 ◇交通費 JR東日本大人の休日パス
「通過時間等」自宅11:00-JR上野駅12:04-同郡山駅13:26-同江田駅14:45=背戸峨廊15:00=JR江田駅16:27-同いわき駅17:21-同上野駅19:40-巣鴨駅20:06-自宅20:30

新潟下越の村上、石船神社、乙宝寺を巡る

 私がこれまで歩いたコースに奥の細道を重ね、芭蕉追っ掛け記を書いて業界紙に掲載して貰っているが、越後路迄来ている。新潟はそれなりに巡り歩き記録はあるが芭蕉の足跡を追ったものは少ない。調べると村上やその近くには、宿泊先跡、句碑のある石船(イワフネ)神社、参拝した乙宝寺がある。この辺りは下越地方と新潟出身の方に聞いた。

 タイムリーにバス乗車 新潟駅で羽越線特急に乗り換えた。車窓からは稔りの水田風景が見え、一部では稲刈りが始まっている。村上駅に下車し、案内所に寄ると石船神社行バスは直ぐという。慌ててバス停へ。バスは市内から海側へ走り、瀬波温泉。思い出があり、兄の退職祝に夫婦4人で宿泊し眺めた日本海に沈む夕日は絶景であった。約20年も前のことである。
 句碑二つ 石船神社に着く。創祀は648年(大化4)年と伝わる古社で、弥彦神社に次ぐ格という。戻りのバスは10分後で、急ぐ。句碑は二つあり一つは参道左にあり、“花咲きて七日鶴見る麓かな”とある碑。もう一つをと広い境内を駆け足で探す。参拝は遠くから頭だけ下げ許して貰おう。最後に出会い写した石碑(写真上)が、幸いに芭蕉の“文月も六日も常の夜には似ず”と刻んだものであった。直江津で詠んだと思う。岩船は漁港で有名だが、神社前の川にも多くの船が係留してあった。

 市内の井筒屋 市内へ戻り、運転手さんに井筒屋最寄りのバス停を教えて貰う。安良町に降り通り先へと進む。村上は未だ城下町の雰囲気が漂う。右手に井筒屋があった。1689(元禄2)年6月28日(陽暦8月13日)から芭蕉と曾良が2泊した久左衛門宅跡で、曾良の伊勢長島時代の知人宅であったという。井筒屋は今では鮭料理店だが、芭蕉泊の案内書きがあり(写真中)、デジカメに収めた。折よく駅へのバスがあり乗る。先ほど案内所で徒歩30分と聞き、大幅短縮できた。

 古刹乙宝寺 村上駅で乗った特急を隣の坂町駅に降り、タクシーで乙宝寺へ向っても貰う。広い水田地帯を海側へ走って、松林の中へ入り、門前に降りる。736(天平8)年開山という古刹の静寂な境内はその雰囲気で、人影もなく私一人で寂しい位。芭蕉達は、7月1日(陽暦8月15日)参拝している、私も本殿前で手合わせご挨拶。芭蕉句碑の案内があり(写真下)、確かめシャッターを切った。ここのは丸い石の句碑で、“うらやまし浮世の北の山桜”の句である。山門左の三重塔は江戸時代初期村上城主の寄進で重文とある。またタクシーを利用し、羽越線平木田駅発14時35分の新潟行に乗車。予定より2時間早い。村上でのタイムリーなバス利用が迅速に予定地を回れた。案内所に感謝である。新潟駅で、越後の銘酒吉乃川を求め新幹線へ乗り込んだ。(2021/09/23 K.K. 1410/1500)

◇日時 2021/09/07 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ ◇資料「新潟県村上の道路地図」◇交通費 JR東日本大人の休日パス、現地4,460円 「通過時間等」自宅7:20-上野駅8:30-新潟駅10:56-村上駅11:49-石船神社12:10/12:25=井筒屋12:50-村上駅13:19-坂町駅13:40-乙宝寺13:50/14:20-平木田駅14:35-新潟駅15:37-上野駅17:45-巣鴨駅18:06-自宅18:35

大浅間を眺めながら鬼押出しを歩く

 軽井沢から鬼押出しを訪ねようと思う。以前から鬼押出しは歩く先に挙げていた。アクセスは悪くはなく、自然の岩園でアップダウンもあり、現在の私には適度なハイキング先だろう。折よく、夏の終わりに軽井沢泊があり、翌日目指した。約50年前、長野の家内家族と訪園したが風景迄はもう浮かばない。

 大浅間は・・・ 軽井沢駅から乗車したバスは、中軽井沢駅を経由し温泉街を抜け、山中へ入り峠を越して浅間山裾を走った。一昨年小浅間山へ登った時(19.11.25)も同じコースだったが、峰の茶屋を越し群馬県の鬼押出しへ着いた。本日は平日で来園者は少ない。受付で遊歩マップを貰い、大回りの60分コースを採ろうとスタート。左上の大浅間山(2,568m)には雲が掛かっている。
 浅間山観音堂に参拝 惣門から表参道を観音堂へと歩く。道の両側は大きなゴツゴツした溶岩大石が占め連なり、それが山麓一帯を覆っているようだ。標高1400mの高地には、時々涼風が通る。浅間山観音堂に参拝。東京上野寛永寺別院という。それは、当時の寛永寺住職の宮様が、1783(天明3)年の浅間山大噴火で犠牲になった人々の追悼法会や救済、復興に尽くされたことからの縁で、1958(昭和33)年創建とある。振り返ると雲が去り、大浅間の全容が見え(写真上)、カメラに収める。その隣の低い山が黒斑山(2,405m)だろう。山友と登ったのは約10年前か(13.8.3)。

 群馬側は大溶岩台地 三叉路で展望台へコースを採ったが、想定とは違ったと後に分かった。左手の奧参道へ入るべきであった。晩夏のこの時期高山植物の花は終わり、ヤマハハコ、アキノキリンソウ、シモツケソウ位。岩穴の底にはヒカリゴケがある。
 展望台から草津や志賀の山々が見え、手前には溶岩台地と灌木地帯が広がっている(写真下)。大噴火で、鎌原村が溶岩流に流され全滅したという。それが眼下一帯付近の地域で、もう住むことや耕すことも叶わないのだろう。都内葛飾の善養寺を訪ねた時(16.4.14)、江戸川で大噴火犠牲者の死体を収容し供養した碑に出会ったことを思い出した。溶岩流は吾妻川を伝い渋川まで到来したというから江戸川の件も不思議ではない。
 レストランからも大浅間 遊歩道も下り坂になり、溶岩の間に大浅間のアングルを探しながらゆっくりと歩く。正面の山は浅間隠山だろう。来園者に交差し人も出始めたようだ。40分程で、一回り。時間があり、レストランでコーヒーを戴く。席は窓際にし、浅間山を眺めながら味わった。この時期アルコール類メニューはないようだ。
 本日は、軽い散策であったが、大浅間を眺めながらで満たされた。園を出て、バス停で待った。(2021/9/18 K.K. 1409/1500)

◇日時 2021/08/30 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9000歩 7㎞ ◇資料「鬼押出し園遊歩マップ」◇交通費 現地4,440円 「通過時間等」宿泊先8:30-軽井沢駅9:10-鬼押出し園10:05=浅間山観音堂10:20=展望台10:30=レストラン11:10=鬼押出し園バス停11:55-JR軽井沢駅13:00-同上野駅14:15-三田線巣鴨駅14:36-自宅15:10

小石川善光寺坂を上り、安藤坂を下る

 先日入手した文京区の地図を眺めていたら、小石川付近で目が止まり、澤蔵司稲荷を思い出した。一度訪ねた(01.6.9)。ネットで調べると芭蕉句碑があると分かった。追っ掛けとしては確かめたい。小石川の最寄り駅は春日駅で、三田線一本で近い。早速出掛けた。

 こんにゃくえんま源覚寺 春日駅は現在でも時々利用しているが、本日は反対側の出口から大回りし、春日通りへ出た。持参したマップには、小石川天満宮があり、この社を探す。小路奥に境内らしき緑の木々を目指し進んだが違っていた。戻ってウロウロしたが見付からない。通りが一本先のこんにゃくえんま源覚寺に参拝。目の悪い老婆が祈り続け満願の日にお告げ通りに治り、好きなこんにゃくを絶って応えたという。
 善光寺坂を上がる 商店街から左折すると緩く長い坂道で、善光寺坂。正面が善光寺だが、現在は無住職のよう。隣が慈眼院で、その右奥が澤蔵司稲荷。低い沢のような地にあるお稲荷には記憶があった。手を合わせ、uターンし句碑を探す。ネット情報通り、寺境内の木の陰にあった(写真上)。“一しぐれ 礫や降りて 小石川”の碑だが、崩された文字て一部しか読めない。芭蕉初期の作で、晩年の趣は感じない。カメラに収めて、寺を出る。

 むくの木から伝通院 坂を上がり切った地が、幸田露伴邸。現在も表札は娘と孫の名前。その前が、むくの古木。空襲で一部焼けたが、今なお健在だ(写真下)。好きな大樹で、カメラを向けた。直ぐ先が伝通院。手前の寺々は、江戸期伝通院下の一院という。徳川家の菩提寺の一つで、生母於代や孫千姫の墓があることは知っていた。伝通院は於代の法名という。清河八郎の墓もあるとある。何故と思ったが、新撰組の前身浪士組が門前の寺で結成されその中心であった縁かなと愚考した。春日通りを渡る。右手に、狐の澤蔵司が蕎麦を食べに通ったと伝わる萬盛の店が今もある。
 安藤坂を下る 坂の途中に萩の舎跡の案内があった。塾主中島歌子が開いた歌塾で、樋口一葉も学んだとある。小路へ入り、突き当りの石段を上がると、北野神社。社殿前で手を合わせ、境内を見回すと初めてではないような気がする。裏へ回り、当地は静かな学園地帯かなと思いながら、春日通りへ出て少し右へ歩くと、中大理工学部キャンパス。ご無沙汰しているが、一時期週一大学院の講義に通っていた。中大高校から礫川公園と冨坂を下る。公園内の春日局像は湯島の麟祥院前へ移されたことは今春知った。春日駅は近く、坂を下った。(2021/09/12 K.K.1408/1500)

◇日時 2021/08/24 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 7000歩 5㎞ ◇資料 「メトロニュースN0293後楽園エリア」「通過時間等」自宅9:00-三田線春日駅9:35=源覚寺9:50=善光寺坂10:00=慈眼院・澤蔵司稲荷10:10=むくの木10:15=伝通院10:25=安藤坂10:35=北野神社10:40=三田線春日駅11:00-自宅11:35

東武東上線を乗り切り、秩父鉄道へ

 埼玉寄居へ出掛けた。脱巣ごもりハイクにしようと東武東上線から秩父鉄道のミニ乗り鉄を目論んだ。寄居では昼食にアユ料理を戴く。以前荒川崖上の寄居鉢形城跡を訪ねた時、対岸の古い建物が京亭というアユ料理店と知り、その後ハイク友と2,3度アユ料理を味わったことがある。同行者と東武池袋駅に待ち合せた。

 東武東上線を乗り切る 奥武蔵を走る東武東上線は良く利用しているが、池袋駅からは滅多にない。途中の成増駅が私の最寄り駅。快速電車は成増駅を過ぎ、川越市郊外になって車窓には緑が広がった。終点小川町駅で寄居行に乗り継ぐと、途中にみなみ寄居駅がありびっくり。昨年末開業の新駅で、近くの自動車工場用らしい。寄居駅から料理店へ歩く。10分程だが、駅前が再開発中で、一変していた。3年振りだと思うが、案内所を兼ねた地元産品直売所の店や喫茶店は消えていた。
 鉢形城跡対岸の京亭 新鮮なアユ料理を戴いた。同行者は美味と楽しんでいるが、ノンアルコールでは、私は今一。わざわざ前日アルコール類は出せないと電話があった。京亭は君恋しの作曲家佐々紅華の旧邸という。庭へ出て、荒川を眺めると流れは多めで、濁っている(写真上)。対岸の崖上が、戦国期北条氏支配の北端の拠点であった鉢形城跡で、同城は北条氏邦が護っていた。秀吉の小田原征伐で前田、上杉、真田軍に攻められて落ちたと思う。

 秩父鉄道へ 寄居駅(写真中)で同行者に別れ、秩父鉄道で秩父へ向かう。平日の午後はダイヤが疎らで30分以上待つ。この沿線もハイキングで歩き、15年程前は右手の城峰山や破風山、陣見山、榎峠、長瀞アルプス・宝登山へ登ったが、最近は左手の山麓で躑躅や紫陽花、桔梗・女郎花、ムクゲの花と里歩きをし私の加齢を表している。東秩父高原でポピーを観て皆野駅へ出たのは3年前で、それぞれの乗降駅を通り過ぎ頭をよぎった。親鼻駅では蒸気機関車と擦れ違ったが、カメラを出すチャンスを逸してしまった。

 最後は西武池袋線乗車 秩父駅で降車し秩父神社へ寄る。駅近くに境内があり参拝。左甚五郎作の彫刻が飾られている社殿(写真下)を一回り。未だ色あせない彫刻は本当に甚五郎作かなと初訪時疑ったが、スマホ情報でも肯定している。それなら重文指定でも良いと思うが。正面参道を歩いて、お花畑駅を越し西武秩父駅から東飯能駅を目指す。
 ミニ乗り鉄も終盤で、八高線東飯能駅から川越駅へ出て東武東上線を予定していた。車中、スマホで乗換検索すると、川越駅着が18時を過ぎてしまう。八高線東飯能駅で30分以上待ちと分かり予定を変更し、西武飯能駅から池袋駅へ出ることにした。急行に乗り、19時前に帰宅出来た。(2021/9/4 K.K. 1407/1500)

◇日時 2021/08/20 ◇天候 晴れ ◇交通費 2.320円 ◇歩行距離等 8000歩 6㎞ 
「通過時間等」自宅9:20-JR巣鴨駅9:55-東武池袋駅10:30-同小川町駅11:41-同寄居駅12:00=京亭12:15/13:30=寄居駅14:34-同秩父駅15:20=秩父神社15:30=西武線秩父駅16:07-同飯能駅17:08-JR池袋駅18:05-三田線巣鴨駅18:18-自宅18:45

涼しく森の中を歩いた小石川植物園

 8月に入り暑さもピーク期で、連日猛暑が続いている。少しでも暑さを避けて歩ける先を巡らし、小石川植物園を思い出した。これまで2度程歩いて、森の中の園で、覆い繁る樹木が太陽の直射を防いでくれるのではと期待した。我が家からは近く三田線一本である。雨が上がってから遅めに家を出た。

 猫が出迎え 三田線白山駅から歩き出す。久しぶりだが知ったルートで、小石川の丘を上下し植物園入口に着いた。本日月曜日だが山の日の祝日で、開園の日。受付では猫が出迎えてくれた。聴くと野良という。我が家のぽんちゃんを彷彿させた。今回は、本館前から左回りに園内を大回りしよう思う。前回は菖蒲の花が目的で逆回りだったと思う(16.6.12)。
 クスノキの大木 東端のシダ園や温室を覗き、カエデ並木下を歩いて、園の中心部へと歩く。想定通り暑さは感じない。本日は雨上がりで暑さが和らぐ予報でもある。左手にクスノキの大木群があり、左折。見覚えのある大木が変わりなく聳え、見上げシャッターを切った。江戸時代にあった旧養生所の井戸跡があり、赤ひげ先生の遺構である。ハンカチの木を思い出し回って踏み込んだが、白い葉は見当たらない。時期違いだろうか。

 ボダイジュの思い出 中心に戻って、ボダイジュ並木下。洋風大木と思っていたが、少し印象が違う。前回、“中学時代、シューベルトの冬の旅・菩提樹が教科書にあり、一級上の方が講堂で、ピアノ伴奏で歌われたのを思い出した。”と書いた。その歌われた転校生のことをまた思い浮かべた。次第に雑木林に入り、足元に野草や水たまりもある細い道となり、西端で左折。
 建物は、移設された旧東京医学校本館。前は日本庭園で池が広がる(写真上)が、花はない。森を出たら、風で高い樹々が揺すられ音を出している。ザワザワという自然の音を聞いたのはいつ以来だろうか。都心とは思えない密林風(写真中)。最後にメタセコイヤ林に寄り、園を出た。受付で、教育の森公園への道筋を訪ねたら、マップを出し徒歩15分以上と教えてくれた。窓口のカウンターには件の猫が昼寝していた(写真下)。

 教育の森公園へ 植物園の長い塀沿いを歩くと、簸川神社。石段が高く躊躇したが本殿前へ。大正天皇も参拝したようだ。以前は氷川神社であったが、出雲の本社に倣い改称したとある。住宅街を歩き、教育の森公園だがこちらも塀に囲まれ、入口がない。学校角から坂を上がり入口があったが、中へ入らず、不忍通りへ出てバス停を探す。歩き疲れた。林野会館前にありバスを待ちながら、当館で役員を務めていた遠戚の方を思い出した。お別れしてから10年近いだろうか。バスを千石で降り、三田線で帰宅した。(2021/8/27 K.K. 1406/1500)

◇日時 2021/08/09 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 11000歩 8㎞ ◇資料 「東京大学大学院付属植物園(小石川植物園)案内図」2020 
「通過時間等」自宅10:25-三田線白山駅11:00=小石川植物園11:10/12:05=簸川神社12:25=教育の森公園口12:40=千石3丁目バス停12:55-三田線千石駅13:04-自宅13:35

厚木にレンゲショウマを探し、山中陣屋跡へ

 厚木在同級生のハイク友Kさんから、近くにレンゲショウマが咲き始めたからどうかと誘われた。異存はなく、日時を決め、近くに住む弟へも連絡したら、同行するという。厚木荻野の植物園周辺の地図を眺めていたら、山中陣屋跡公園が目に付いた。時間があったら寄りたい。Kさんに話してみようと思う。

 小田急本厚木駅に着いたら弟が待っていた。本日は私も約束時間前であった。駅前からバスに乗車し、Kさん指定のバス停公所で下車し、迎えの車で荻野運動公園へ向かう。広い公園で、体育館やサッカー場、プールがあり、その奥山側の一画が植物園のようだ。本日も天候良く暑くなりそうだ。
 広い植物園、咲き初めのレンゲショウマ 坂を上がって、入園する。遊歩道を少し進んで驚いた。谷あり丘あり池あり、そして樹林に覆われている。自然をそのまま利用した植物園。ガーデンの延長ではない。この時期目ぼしい花は見当たらない。上下する遊歩道を巡り、レンゲショウマを目指し奥へと入るが何処だろうか。Kさんが頼りだが、半周程したがなく、戻って探す。そうしたら、“あったよ”とのKさんの声。繁茂する野草に混じり、レンゲショウマの花が咲いていた(写真上)。咲き始めたばかりで、目ただない。丸い蕾を付けこれからだろう。カメラに収めた。この花は奥多摩の御岳山で出合ったこと(01.8.11)がある。土手の一画に沢山咲いていた。
 園を出た坂の途中に芙蓉の花があり、回り道して下から見上げる。大きな白い花が数個固まって咲いている。先ほど、Kさん宅の庭にカサブランカが咲いていた。私は白百合かと思ったが、Kさんがカサブランカと教えてくれた。

 山中陣屋跡 山中陣屋跡へ送って貰う。バイパス新道を走った少し先の左側にあった。水田先の丘の上で、現在は史跡公園(写真下)。そう広くはない緑地公園のようで、案内がなければ分からない。祠と石碑が建つだけで、広場は郭跡と思われ、僅かなうねりは土塁の痕跡か。1783(天明3)年、小田原藩大久保家の子孫が当初6,000石で分家独立し当地に陣屋を構えたという。2,3枚カメラに収め、バス停へ歩いた。
 先ほど、郊外レストランで昼食し、同級生や知人の消息を交換した。Kさんとは甲州街道を歩いて以来(15.10.4)と思う。地元の山仲間と歩いているようだ。今回は、案内して戴いた上に、お昼もごちそうになった。Kさん大変お世話様でした。(2021/8/18 K.K. 1405/1500)

◇日時 2021/07/18 ◇天候 晴れ 交通費 1600円 ◇資料 荻野運動公園「野草園」
「通過時間等」自宅6:55-新宿線神保町駅7:35-小田急新宿駅8:03-同本厚木駅8:58-公所バス停9:35-荻野運動公園10:00=植物園10:15/11:30-昼食-山中陣屋跡12:10=公所バス停12:32-小田急本厚木駅13:09-新宿駅14:15-三田線神保町駅14:27-自宅15:00

新河岸川志村橋を渡り、浮間に北向地蔵を訪ねる

 一時板橋近郊を集中的に歩いていた。今年の花見ハイクも板橋から北区内で、浮間池から新河岸川へ出て、志村橋袂であった。その時、コース内の社寺も巡ったが、浮間にある北向地蔵を見逃していた。多分近くの桜並木通りに目を奪われたのであったろう。その北向地蔵参拝をと、板橋から北区へ新ルートを描いた。最近新潟や福島と遠出が続き、丁度良いだろう。

 西台駅から新河岸川へ 今回は、三田線西台駅をスタートし、舟渡大橋を目指した。初めて歩くコースだが大橋は直ぐ先で、新河岸川は意外に近い。右岸を下り始める。次の蓮根橋を渡り左岸へ。この時期流れは多くはない。昨春歩いた時川内からコンクリート堤を乗り越えた場所があった。垂直壁の梯子に苦労したのを覚えている。現中山道の志村橋は幅広い。天城山で足を怪我して駆け込んだ志村橋外科は左手にあったが、見当たらない。そのまま2週間入院し家内には世話を掛けてしまった。25年も前のことであった。
 浮間地区 また右岸を行き直ぐ平成橋。志村橋へ向けシャッターを切った(写真上)。左手河畔にはマンションが多いようだ。長後さくら橋手前から左折し、JR浮間舟渡駅へ方向を採る。少し距離があったが駅前通りを抜け浮間地区へ。
 本日も天候良く暑い。少しでも避けようと埼京線高架裏の小径へ入ると、彫刻像が置いてある緑道。本道へ戻って北区住民センターに寄る。当地の観光マップを貰おうとしたが、不首尾に終わってしまった。直ぐ先の専門店で、前回求めた好みの銘柄酒をと入店したがない。店員も滅多に入らないと応対してくれた。柳の下に泥鰌は2匹いなかった。

 北向地蔵に参拝 北向地蔵を探す。事前にネットで探したが出て来ない。北向観音で検索していた。信州別所温泉の有名観音様が頭に擦り込まれていたようだ。その時浮間2-4とメモし、地番を頼りに住宅街を右往左往。最後は地元の方に教えて貰い到達。確かにお地蔵様は北を向いている(写真下)。江戸期後半には荒川河川敷にあったが、大正期の改修工事で当地へ移されたとある。コロナ退散をお願いした。疫病阻止の役割も担っているとある。
 左手先が浮間池。氷川神社前から桜草圃場前を通過。桜草は花友と見物したことがあった。もう大分前のことである。大池には釣り人が見える。JR浮間舟渡駅前から東武練馬行のバスに乗車し、今回の里歩きは終えた。北向地蔵には参拝出来たが、観光マップとお好み酒は入手出来なかった。(2021/8/6 K.K. 1404/1500)

◇日時 2021/07/11 ◇天候 晴れ ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」「通過時間等」自宅8:30-三田線西台駅8:40=舟渡大橋8:50=蓮根橋9:00=志村橋9:10=長後さくら橋9:20=JR浮間舟渡駅前9:30=浮間区民センター9:50=北向地蔵10:15=浮間池10:25=JR浮間舟渡駅前バス停10:30-自宅11:00

常磐線を乗り切り中村城跡を訪ねる

 今年最初の乗り鉄先を常磐線とした。同線は前半の上野駅、いわき駅間は数回往復したことはあるが、その先仙台駅へは未乗車区間。最近全通したと知った。車窓からではあるが震災復興地を確かめて見たい。途中の相馬に中村城跡が遺る。ここも未訪である。仙台駅から上りの電車にした。

 被災駅通過 上野駅発8時46分発に乗り、仙台駅で10時36分発相馬行きに乗車出来た。仙台が近いのではなく、新幹線が速い。常磐線は5両編成でローカル線ではない。岩沼駅迄は東北本線と並行で、ようやく常磐線へ。周囲は水田地帯となる。亘理駅から山下駅、坂元駅を通過。両駅は高架ホームで新しい。被災後の再築が窺われる。左側の水田先が海のようだが近くはなく、津波の大きさを改めて知る。大津波に襲われた名取市閖上地区は直ぐ北か。宮城県から福島県へ入り相馬駅に着いた。
 濠に囲まれた中村城跡 中村城跡情報を得ようとしたがなく、事前の調べで城跡へ向かう。相馬は民謡の盆唄や野馬追を知っているだけ。地図を頼りに市役所先へ歩く。市民会館の前が大きな濠で、石垣はなく近世城跡とは思えない。濠には藻が浮き古池のよう(写真上)。明治まで残った筈だ。濠端から桝形、中の門で右折し、石段を上がり本丸に架かる赤橋を渡る。濠を巡らされた高台で、後ろの二の丸跡は現在野球場。広い本丸跡には建物はなく、中心奥に相馬神社が鎮座。相馬家始祖を祀り、私もご挨拶をした。
 中村城は、相馬利胤が1611(慶長16)年に築城し明治まで相馬藩6万石城主の居城であったという。隣の伊達氏に備え北側の濠は三重にして、現在もその大半は遺っている。本丸だけは鉢巻き石垣造りで、土塁と濠で仕切られている。

 坂を下り、城郭の内で隣の相馬中村神社へ寄る。1643(寛永20)年創建のもので社殿は重文とある。カメラに収めた。外大手一の門は工事中で近付けない。写真を忘れ、唯一の現存建物と知り悔いた。徒歩で相馬駅へ戻る。途中で、呑み鉄用に奥の松を求めた。二本松の地酒である。
 原ノ町からいわきへ 再度常磐線に乗車。原ノ町駅で乗り換え(写真下)、いわき駅へ向かう。浪江駅、富岡駅は被災の中心であったと思うが、復興が進み車窓からでは分からない。新築の駅舎で、緑地が新しく、土山らしきは改造、整備の痕跡だろうか。この辺りの常磐線は海際を走ると思っていたが、そうではない。時々海が見え隠れする程度。そして、いわき駅に着いた。私は常磐線を乗り切って、16時18分発品川行き特急に乗り、帰途に就いた。(2021/7/29 K.K. 1403/1500)

◇日時 2021/7/5 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日パス7,600円 ◇資料 JTB「時刻表さくいん地図(東北地方)」
「通過時間等」自宅7:40-上野駅8:46-仙台駅10:36-相馬駅11:40=中村城跡12:00/12:30=相馬駅13:41-原ノ町駅14:08-いわき駅16:18-上野駅18:40-三田線巣鴨駅18:55-自宅19:25

越後西端の市振、直江津に芭蕉を辿る

 新潟の市振は数年前知った。芭蕉は、象潟から日本海沿いに歩いて、越後の西端市振へ至り、有名な句を詠んでいる。市振は遠く、アクセスも良くない。北陸新幹線糸魚川駅からであるが、市振駅はえちごときめき鉄道。直江津にも寄るべく資料を収集した。

 小さな宿場市振 北陸新幹線を糸魚川駅に降り、在来線に乗り換えた。JR西日本管内で、数年前親不知見学に乗車したことがある(18.9.2)。日本海を右に眺め、長いトンネルを通過し、市振駅に着いた。意外に閑散とした駅前。地図で確かめ左折し、二股地には歓迎用奥の細道の大きな案内板があり、高架で鉄道を越すと北陸街道市振宿であった。小学校があり、その先が関所跡。そして、街道両側に民家が並び、海辺の街らしく低い家並。右手の大きめの民家が桔梗屋跡(写真上)で、芭蕉達が泊り、“一つ家に 遊女もねたり 萩と月”と詠んだ。芭蕉としては、艶っぽい句であるが、これには芭蕉の創作説がある。曾良日記にはないからか。カメラに収め、この句碑のある長円寺へ。山側へ右折し国道下を抜け、寺境内へ上がると端に立派な句碑があった(写真中)。相馬御風揮毫とある。彼は糸魚川出身で明治期に活躍した文学者と知る。

 街道へ戻ると弘法井戸。その先の宿場外れに聳え市振の目印であった海道の松は数年前の台風で倒れてしまい、写真とその後植樹した若松があった。海岸へ出ると右手奥には親不知の断崖が続いている。私は断崖の上から眺め、芭蕉達通過の際の難儀に思いを馳せたことがあった。正面に島が見え、佐渡だろう。

 直江津は句碑を往復 市振駅へ戻り、直江津へ向かう。駅案内所でマップを入手し、バスを教えて貰い琴平神社を訪ねる。想定通り、関川河口傍に神社は見付かり、句碑があった(写真下)。“文月や 六日も常の 夜には似ず”は当地今町・現直江津で詠んだ句。同じ境内に安寿と厨子王供養塔があった。姉弟が人攫いに遭ったのはここの港という。
 芭蕉が宿泊に予定した聴信寺は探し損ねた。一度は断られたが、今町に二泊し歌仙を巻き先の句を詠んだ。破れ笠の見すぼらしい姿で断られたと伝わるという。駅へ歩き、上越高原駅から予定より早い新幹線に乗車。途中、長女が一時寄宿した南高田駅を通過し、メールしたらもう20年も前のことと返信あった。呑み鉄用は能鷹にした。(2021/7/22 K.K. 1402/1500)

◇日時 2021/7/2 ◇天候 晴れ ◇交通費 11280 ◇資料 久富哲雄「奥の細道の旅 33直江津・高田 34親不知・市振」168頁以下
「通過時間等」 自宅6:55-上野駅7:58-糸魚川駅10:35-市振駅10:55=海道の松跡11:20=市振駅11:51-糸魚川駅13:00-中央二丁目バス停13:10=琴平神社13:20=糸魚川駅14:28-上越高原駅15:00-上野駅16:55-自宅17:45

二年越しに鑑賞できた足立堀之内公園古代蓮

 初夏から夏へ向けた季節になり、古代蓮の花が気になり始めた。以前千葉公園で眺めたピンクの大賀蓮の花を眺めて魅せられてしまった。昨年は足立堀之内公園や行田古代蓮の里を訪ねたが花は終わっていた。それ以来一年近くなり、今年こそである。調べるとそろそろという。花友も同行してくれた。昨年よりは2週間ほど早い。

 足立堀之内公園へスタート ネットで調べると最寄り駅は、舎人線江北駅と知り、待ち合せた。徒歩15分とあり、スタート。蓮の花は朝の花で、午後は萎むと知り、未だ9時30分である。荒川の堤へ向け、商店街を行く。広くはない道だが、バスが往来する。初めての地で地名と地番を確かめながら直進を続ける。荒川堤手前へ至り、丁度交番があり、公園は二つ目の信号を右折と教えてくれた。少し遠いなあとも思いながら、予定通り信号のある交差点を右折した先が堀之内公園であった。
 今年はピッタリ 古代の蓮の花は咲き、大きなピンクの花々は咲き開いている。広くはない蓮池を蓮の葉が埋め尽くさんばかりだが、葉から頭一つを出した多くの花が満開か八分咲き状態。昨年とは大違いで、ジャスト見頃期。同行のAさんも、スマホを翳しながら池端を巡っている。古代蓮は初めての鑑賞と先ほど聞いた。私は、アングルを選びながら二回り。自然に咲く花達は、鑑賞者とは無関係に、太陽へ向け競っているよう。薄ピンクの花は清楚で気品がある。2人はベンチで休憩し、飲料水を補給。傍の案内によると、1997年、大賀蓮を千葉公園から分けて貰ったとある。 
 名残惜しいが、最後にもう一度見回して、花達に別れを告げ公園を出た。

 夏祭りの氷川神社 小川沿いに戻ると、左手に氷川神社があり、祭礼中のよう。寄ろうと合図し鳥居から参道へ。茅の輪や七夕飾りがあり、夏越の大祓と知る。年始年末の茅の輪は経験があるが、夏もあるとは。本殿に参拝し、コロナ退散をお願いした。Aさんも同様か。
 往路を戻り、バス停で私は王子行き、Aさんは反対方向のバスに乗ることにした。昼食時間には未だ早い。そう違わない時間にそれぞれのバスが来て、帰途に就いた。荒川を江北橋で渡り北区だが、今春歩いた地区で見覚えのある風景や地名を過ぎ王子駅前へ着く。未だ時間があり、あの時歩き残した製紙会社発祥の地碑や石神井川に架かる桜橋を確かめ、三田線西巣鴨駅へ出ようと都電荒川線に乗車した。(2021/7/17 K.K. 1401/1500)

◇日時2021.6.26 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 昭文社「東京都市図17」 ◇歩行距離等 10,000歩 7km 「通過時間等」自宅8:15-JR巣鴨駅9:00-舎人線西日暮里駅9:10-同江北駅9:30=荒川堤手前交差点9:45=堀之内公園9:55/10:15=江北氷川神社10:25=江北2丁目バス停10:40-王子駅前バス停11:00=桜橋11:10=荒川線王子駅11:15-三田線西巣鴨駅11:40-自宅12:10

海辺を眺め八景島から野島を巡る

 節目のハイキングとなった。高尾山や御岳山の低山も考えたが、暑さや体力を考慮して里歩きとし、紫陽花もある横浜先の金沢八景島から野島を歩くことにした。先日紫陽花も咲き始めたとの情報を得ていた。八景島は風光明媚な島で知られ、初めての地で楽しみである。海辺も久しぶりで、ちょっぴり遠出でもある。

 八景島と紫陽花 我が家から最寄り駅京急線金沢八景駅は、三田駅乗換はあるが一直線。横浜駅を過ぎ金沢八景駅に降り、横浜シーサイドラインに乗り換える。高架式モノレール電車で、入り江風景を眺めながら八景島駅に下車。駅前で方向を間違えたが、松林の下の海岸から橋を渡って八景島へ。遊園地があり家族連れが目立つ中、私は紫陽花鑑賞。島内中心へ向け坂道を上がると両側に紫陽花があり、咲いている。青色中心で、あじさい坂とある。次第に紫陽花が増え、坂を上がり切り左折したが、紫陽花は続く。花を選んではカメラを向ける。当島オリジナル八景ブルーの紹介もある。

 島のトップでuターンし下り始めたが、どう間違えたか遊園地傍からシーサイドガーデンとなる。海、入江を背景に赤紫の紫陽花を捉えた(写真上)。海を眺めながら歩くのは、多分昨秋の銚子港以来と思う。暑い中、海からの微風が涼しい。ウィンドサーフィンも浮かんでいる(写真中)。

 野島を巡る 駅へ戻り、またシーサイドラインに乗車。歩いて野島へ渡るつもりであったが、暑さを避けた。野島公園駅に降り、橋を渡る。左手は小さな漁港で漁船が繋いである。
 正面の公園管理センターで案内パンフを貰い、見付けた旧伊藤博文別邸へ向かい、外から見学。明治期築の木造平屋で(写真下)、海側に開放的な部屋があり、庭園も広い。折よく、海から涼風が吹いて来た。
 公園に咲く紫陽花を拾いながら歩く。こちらは赤系の花が多い。野球場があり試合中で、草野球と思うが硬式使用のよう。小山の下に旧海軍の飛行機用防空壕があり、掩体壕というとある。野島神社に参拝。石段両側に狐が対で多数並んでいる。狛犬ではない。野島から夕照橋で渡り、金沢八景駅へ歩いた。野島は、再訪であった(02.2.11)が全て記憶から飛び、重なる風景はなかった。帰途の車中から、弟初めハイク友や花友へ1400回を歩いたとメールした。晩酌には、昼食用に求めた海鮮丼も付き合ってくれた。(2021/07/09K.K.1400/1400)

◇日時 2021/06/20 ◇天候 曇り ◇交通費 1,620円 ◇歩行距離等 10km  13,000歩 ◇資料 「あじさい八景めぐり」、横浜市緑の協会「野島公園」
「通過時間等」自宅8:30-京急線三田駅9:31-横浜シーサイドライン金沢八景駅10:30-同八景島駅10:40=八景島10:50/11:20=八景島駅11:30-野島公園駅11:40=旧伊藤博文別邸11:55=野島神社12:05=夕照端12:20=京急線金沢八景駅12:52-三田線三田駅14:09-自宅15:00

調布布多天神社から世田谷代官屋敷へ

 久しぶりに京王線に乗車した。新聞地方版から調布の布多天神社を見付け、不知の社で目を引いた。ハイキングの際入手したマップを引き出したら、調布駅の正面で甲州街道沿いと分かった。隣駅布田近くの国領神社を加え、更に高幡不動の紫陽花へ足を延ばそうかなと思い浮かんだ。都内も城北地区に偏っている最近の里歩き先の修正にもなろう。

 古社布多天神社 京王線へは、私は都営新宿線神保町駅経由で、笹塚駅では準特急に乗り換える。それでも調布迄は1時間30分程要し近くはない。駅前へ出ると、都下の調布は大都市でビルが建ち並び、方向を確かめ難い。正面先の甲州街道へ向けスタート。同街道を渡った右先に参道があり、布多天神社。広い境内で、立派な社叢もある(写真上)。早速本殿に参拝。コロナ終息等を願う。当社は、平安時代頃からの古社で、後に道真公を合祀したという。租庸調の税制時代、朝廷へ布での納付が調布の由来と思うが、当社の布もその意味で、「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」という万葉歌が遺るとある。裏の林へは進入禁止であった。参道には、江戸末期からの教育機関布田郷学校跡の碑があった。

 甲州街道、国領神社 甲州街道へ出て、側道を遡上する。両側にケヤキ並木が途切れ途切れにあり、カメラに収めるが、車の流れは途切れない(写真中)。布田交差点右先に、国領神社があった。社前に進み手を合わせる。境内には藤の巨木が枝を広げている。藤の花が有名で、千年乃藤と呼ばれるがもう時期外れ。布田駅へ向かう。途中旧甲州街道があり、古道が東西に延びていた。

 世田谷代官屋敷へ 京王線布田駅から下高井戸駅へ戻る。急遽世田谷代官屋敷へと予定を変更した。往路下高井戸駅通過の際、東急世田谷線に乗り換えれば、世田谷代官屋敷は近いと気付いた。昨年訪ねた時改装中で見学出来なかった。乗換後10分程で、上町駅に着き、代官屋敷の最寄り駅。
 屋敷には、今回はすんなり入れた。表門の屋根は茅葺が新しく、他の屋根とは色が違う。屋敷主の大場家は、江戸中期以降彦根藩井伊家の世田谷領の代官を務めたという。江戸期からの大きな古い住宅で(写真下)、座敷や土間はそっちこっちに遺る地方の名主宅と変わらないが、部屋数や式台、そして表門の存在が代官屋敷相当だろう。現存代官屋敷は、都内では唯一とある。一回りしカメラに収め、上町駅から小田急豪徳寺駅へ出て、帰路も新宿駅、神保町駅経由とした。(2021/7/4K.K.1399/1400)

◇日時 2021/06/11 ◇天候 晴れ ◇交通費 880円 ◇歩行距離等 7km  9,000歩 ◇資料 総武国道事務所「甲州街道古道マップ 布田五宿」4頁、大場代官屋敷保存会「世田谷代官屋敷」「過時間等」自宅7:35-新宿線神保町駅8:18-京王調布駅9:05=布多天神社9:20/9:35=国領神社9:45=京王布田駅10:03-東急世田谷線下高井戸駅10:30-同上町駅10:40=世田谷代官屋敷10:45=東急世田谷線上町駅11:00-小田急豪徳寺駅11:08-新宿線新宿駅11:34-三田線神保町駅11:45-自宅12:20