河津桜鑑賞に平井旧中川を再訪する

 春の花情報第一報に接した。江戸川区旧中川に河津桜が咲き、見ごろと知った(2.22読売)。桜でも河津桜は濃いピンクが魅力的で好きな花である。これまで本場伊豆の河津へ2度も出掛けて楽しんだ(18.3.6外)。旧中川の河津桜も一度眺めたことがあり(15.3.19)、晴れる日を待っていた。

 平井駅をスタート JR総武線平井駅から歩くことにし、両国駅で大江戸線から総武線へ乗り換えた。亀戸駅を過ぎ旧中川鉄橋付近で、車窓から右手に咲いている濃いピンクの花を確かめた。
 平井駅乗降は初めてと思う。東口へ出て右へ方向を採ろうと思う。近くにあった稲荷神社へ挨拶し、商店街から住宅街の小路を行き団地へ突き当り、迂回して旧中川河畔へ出た。
 満開の河津桜 見覚えのある風景で、ふれあい橋に立つと、前方の河川敷内に花が見え、その先にスカイツリーがある。河川敷へ降り、近づく。

 河津桜は満開で(写真上)、ジャスト見頃。花下へ入り見上げながら眺め、アングルを探す。濃いピンクの開いた花びらが重なり合い咲き揃っている。シャッターを切りながら進み、スカイツリーも入れたい(写真中)が中々簡単ではなく、出来上がりに期待するほかない、人出は少ないがこれからか。総武線鉄橋下を過ぎると、桜木はなくほんの一画で、15本程度か。
 白梅も鑑賞 旧中川を出て、蔵前通りで次のポイントを思案すると、対岸の梅の花が目に入り、惹きつけられるように江東新橋を渡ってしまった。
 亀戸中央公園内の梅園も白い花が咲き誇っている(写真下)。こちらでも、カメラを向けながら園内を巡る。2度目の筈だが、殆ど記憶にない。時計台のあるエリアもある。また総武線鉄橋下を抜けたが、工場跡地と公園の続き。持参したウーロン茶と菓子で、ベンチで休憩。

 遠い亀戸駅 右手が亀七商店街通りで、抜ければ亀戸駅と読んでいたが違う。地図で確かめると京葉道路で広い大通り。山勘が外れ、総武線も反対側に逸れていた。大分歩いて右側に高架線が見え始め、更に歩いて亀戸駅であった。
 帰路は、両国駅乗換を避け総武線水道橋駅とし、三田線へ乗り換えた。要した時間は短かったと思う。
 今回は、河津桜鑑賞を中心としたが、手許のハイキング資料に、“旧中川沿路平井散策”を見付けて(新ハイキング編社「さあ、ハイキング!」218頁)、その内に思っていた。こちらには平井さくら公園があり染井吉野だろうから、また訪ねたい。(2021/3/19K.K.1379/1400)

◇日時 2021/02/28 ◇天候 晴れ ◇交通費 340円 ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 「都心あったか河津桜楽しむ」(読売2.22)、昭文社「東京都市図41」2004年
「通過時間等」自宅8:45-大江戸線春日駅9:24-総武線両国駅9:47-同平井駅10:00=ふれあい橋10:20=旧中川河津桜10:25=江東新橋10:35=亀戸中央公園10:45=亀七商店街10:55=総武線亀戸駅11:14-三田線水道橋駅11:35-自宅12:20

湯島天神、神田明神から神保町へ

 速いもので2月も後半である。この時期例年湯島天神の梅祭りに合わせ、旧友の活け花展があり、毎年参拝し鑑賞していた。処が今年の展示は中止と連絡があった。それでも、私は孫二人が受験で、天神様に是非お願いしたいし、境内の梅の花も見頃と思う。折しも購読紙に、“我がまち再発見東京・湯島編”(読売夕刊2.4../18)を見付けた。

 春日局菩提寺へ 大江戸線本郷三丁目駅をスタートし春日通りの坂を下る。最初のポイントは、左手にある麟祥院。春日局の菩提寺で像と墓があると知った。東大龍岡門への通りを越した先に、像(写真上)と山門があった。
 境内へ入らせて貰い、墓前へ。お局様墓へは案内があり、墓参者が多いのだろう。軽く手を合わせカメラに収めた。都心とは思えない自然の中の静かな境内、墓園。像は、以前春日駅先富坂左手の公園内にあり、某大学後楽園校舎へ講義に通う時見ていたと思う。

 湯島天神に祈願 表参道から湯島天神境内へ。梅祭り開催中だが、屋台も閉店中のようで、人出は少ない。先ずは天神様に合格祈願。なんと神殿の拝殿前には私一人。例年は長い列で最前列へ出るのに大変なのに。二人の孫をしっかりとお願いした。白梅は咲き開き大半は見頃(写真中)で、2.3度シャッターを切る。男坂下に復興地蔵を探し、頭を垂れた。関東大震災があった日前後に法要が営まれるとある。
 中坂から三組坂を通って蔵前橋通りへ出る。反対側に神田明神裏参道を見付け、急階段を上がって明神様へ参拝し、こちらではコロナ退散もお願いした。裏手にテレビドラマ銭形平次記念碑があった。表門角が甘酒天野屋。今回の新聞紹介で知ったが、地下にある麹用土室がテレビ旅番組で見たのを思い出した。隣の小路に旧中山道の表示があり(写真下)、ここが本当の旧道かと続く先を確かめ、カメラを向けた。

 駿河台の思い出 聖橋は近く、私が若い頃通った駿河台へと向かう。お茶の水駅、ニコライ堂を右に見て坂を下る。ここで幼馴染に偶然出会ったことがあった。多分土曜日の午後授業へと歩いていたら、向うから名前を呼ばれ、私も分かり、二つ下のよく遊んだ近所の後輩。それ以来50年以上過ぎてしまった。母校の記念館を探したが記憶違いで見付からず、太田姫稲荷前から明大通りを左折し靖国通りを渡り、三省堂書店裏のすずらん通りを歩く。学生用飲食街と呼ばれていたが、在学時代覗いたことはなく、卒業後友人と2.3度入店した。裏の狭い小路から喫茶店さぼうる前を過ぎ、三田線神保町駅へと歩いた。
 神頼みの効果があったのか、その後二人とも合格したと連絡があった。お礼参りは一年後となろう。(2021/3/13K.K.1378/1400)

◇日時 2021/02/19 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 8km 11,000歩 ◇資料 「我がまち再発見東京・湯島編」(読売夕刊2.4/2.18)、昭文社「東京都市図35」2004年「通過時間等」自宅9:20-大江戸線春日駅10:00-同本郷三丁目駅10:05=麟祥院10:20=湯島天神10:30=神田明神11:00=聖橋11:10=太田姫稲荷11:20=すずらん通り11:35=三田線神保町駅11:45-自宅12:20

隅田川厩橋を渡り旧安田庭園へ

 最近、時々都営地下鉄大江戸線を利用している。蔵前駅から両国駅を通過し、歩く先として旧安田庭園や隅田川周辺を考えた。脱板橋・城北地区に適度な地である。旧安田庭園は一度訪ねて(07.5.27)、後に芭蕉句碑があると知った。それだけでは歩き足りず、地図から近くの社寺を探し、歩き回りたい。

 出鼻くじかれる 都営地下鉄を浅草橋駅に降りた。地図から探した吾左エ門稲荷は直ぐ右先で、駅前春日通りを渡った国際通りに面している筈と上下。しかし見付からず、一旦諦めたが交差点案内版には直ぐ近くの裏通りにある表示。裏通りをまた行き来するが、それらしき建物はない。最後に地元の方に尋ねると親切に教えてくれた。細い路地裏の角に稲荷はあったが、閉鎖したらしく門には鍵が掛り、社前へは入れない。柵外から手を合わせ駅前へ戻る。行き掛けの駄賃の筈が、時間を要してしまった。次の予定は、駅前の榧寺。天正年間からある古刹で期待したが、都心では境内は狭く、それでも本堂前の一画に日本庭園がある。カメラに収め、春日通りを行く。当地は台東区で、浅草は直ぐ北側のよう。先ほどの国際通りには位置関係が混乱しかけた。
 スカイツリーを眺める 隅田川に係る厩橋を渡る。橋名は蔵前にあった米を運ぶ馬の厩に由来するらしい。スカイツリーを探すと、左手先の方向にツリーの塔は青空の下静かに建っていた(写真上)。久しぶりの再会で、ゆっくりと眺め、シャッターを切る。東京タワーとは違い、美しい形状のタワーと思う。川はゆっくりと否、動かず流れはないように見える。渡り終え、左岸を下る。

 庭園池端をウロウロ 再訪だが旧安田庭園の位置や入口が思い出せない。病院を過ぎ、刀剣博物館の裏と分かり、大回りし正門から入園。江戸時代からの大名庭園で、明治になって安田財閥創業者の所有になったが、現在は区立庭園であり、池を中心とした回遊式(写真下)。広くはない。入口案内図には芭蕉句碑はない。園内を一回りしたが、それらしき石碑には出会えない。スマホで検索すると、池を三周して見付けたとある。これに惑わされ、池傍に違いないともう半周程したがない。管理人らしき方に聞いたが知らないという。念のため聞いた別の方も同じ返事。諦めて、庭園を後にした。
 次の予定は、隅田川を渡り返し鳥越神社のつもりで、総武線両国駅へ出て両国橋を渡ろうとしたが、思い違いで同橋は大分先と分かる。脚に疲れが出始め、中途だが断念を決断。目標への未到等が続き疲れを増したのかもしれない。大江戸線両国駅まで、550mとありこれが遠かった。地下鉄に乗ったら白河清澄駅に停まり反対方向で、今回の失敗にダメを押してしましった。(2021/3/7 K.K.1377/1400)

◇日時 2021/02/14 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9km 13,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図36」2004年 「通過時間等」自宅12:20-大江戸線上野御徒町駅13:05-同蔵前駅13:10=吾左エ門稲荷13:30=榧寺13:35=厩橋13:40=旧安田庭園13:50/14:30=大江戸線両国線14:50-三田線春日駅15:29-自宅14:50

姥ヶ橋から赤羽自然観察公園へ

 新たな歩き先として、板橋本町先の姥ヶ橋延命地蔵から北区西が丘はどうかと地図を眺めたら、赤羽自然観察公園が目に付いた。調べると森林公園で、池や移設古民家もある。当然未訪の地で、グッド。三田線板橋本町駅が最寄り駅で近く、安近短だが、歩き足りない分はなんとかなろう。

 姥が橋延命地蔵 板橋本町駅に降り地上へ出たら、中山道と環七の交差点で、姥ケ橋へと環七通りをスタート。孫の高校へのバスルートで一度通ったことはある。
 加賀中付近に稲荷台遺跡があり、寄りたい。通りから少し入った校門前に石碑があった。縄文式早期の土器が出土した地とある。地名加賀は加賀藩下屋敷の由来だろうか。同屋敷とは大分離れていると思う。環七陸橋の大きな交差点へ至り、JR十条駅からの通りを渡ると姥ケ橋延命地蔵があり、参拝。最近のお願いは同じで、コロナ終息と孫の合格祈願。高架下から西が丘へ方向を採る。
 トレセン通りは学園都市風 広いトレセン通りの名のある大通り両側には、学校や研究機関が並び、高いビルはなく学園都市風景。歩道には、オリパラ競技種目を紹介した案内板が約50mごとに立ててある。オリンピック開催へのアピール活動だろうか。左手には、ナショナルトレーニングセンター、スポーツ科学センター、そして、西が丘サッカーフィルドと続き、これらでトレセンか。施設名は、味の素商標を冠しネーミングライトの行使である。サッカー場には、子供が小学生の頃正月の全国高校大会観戦に来場したが、その時の木造から近代的なスタンドへ変身していた。この辺りの風景は見覚えがある。右手の小さなサッカー場を見て思い出した。昨春赤羽駅からバスで三田線駅へ出る時通過の際眺めた地である。

 雑木林に驚く サッカー場の先が、赤羽自然観察公園。西門入口で案内図を入手し、一歩踏み入れて園内景色に驚く。正面は雑木林(写真上)。そして、沢らしき窪地には小川が流れている。武蔵野かと慌ててカメラを出しシャッターを切った。当地は都内赤羽で、多摩や埼玉ではない。赤羽にこんな森林の地が残っているとは驚きである。広さは約5万㎡強とある。木々の太さはそれ程ではない。
 雑木林先に二つの池があり、小池の畔にはカメラを構えた高齢者達が囲んでいる(写真下)。カワセミかとズームレンズ先を見渡したが不明。古民家松澤家住宅を見学。江戸後期の築で北区浮間から移設したとある。屋根は葺き替えが新しい。今時近くに職人がいるのだろうか。平屋だが屋根裏部屋があり、荒川洪水に備えていたようだ。自然観察公園から坂を上がり、地図で確かめ大通りを善徳寺で板橋方向へ左折し、歩くと小豆沢へ出て三田線志村坂上駅が近いと知り、そのコースを駅へと歩いた。(2021/3/2 K.K.1376/1400)

◇日時 2021/02/10 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料「赤羽自然観察公園施設案内図」、「旧松沢家住宅」「通過時間等」自宅12:15-三田線板橋本町駅12:40=稲荷台遺跡碑12:50=姥ヶ橋延命地蔵13:00=赤羽自然観察公園13:30/14:00=善徳寺14:05=志村坂上駅14:36-自宅14:50

春一番の中荒川対岸の戸田ボート場、戸田公園を巡る

 JR埼京線に乗った際戸田公園駅を通過するが、そんな公園あるのかなと地図で駅周辺を調べたが見当たらない。そんなことを繰り返していたら、戸田ボート場沿いに公園があった。戸田のボート場は有名で、1964年の東京オリンピックの会場にもなり、知っていた。その畔の緑地が戸田公園らしい。荒川の対岸先にあり、我が家から歩ける距離である。

 春一番を受ける 三田線西高島平駅をスタート。新高島平駅から一駅乗車し、西高駅北口から笹目橋を目指す。長い橋を渡り終え、左岸堤上へ出ると風が強い。南からの風で、後に本日春一番が吹いたと知り、早速の洗礼だったのだろうか。風を避けて堤を降りる。
 戸田ボート場は近く、住宅街から笹目川を渡るとボート場西端が見え始めた。長さ3000m前後、幅300m程の細長い水路型である。すぐ目の前は競艇場で、その先がボート競技(漕艇)場と分かれている。本日は、競艇の開催はなく水路には艇は浮いていない(写真上)。大きな観客スタンドも閉鎖中のよう。開催日には、高島平駅から臨時バスが出ることは知っていた。

 戸田競艇場からボート場へ 左手にTBSの放送アンテナ塔があった。そう言えば、近所に住むTBS社員の方から戸田の送信アンテナのことは聞いたことがあった。そんなに高い塔ではない。左手のボート場柵沿いに歩き、競艇場とボート競技場との境にある橋を渡り、右手へ出る。荒川土手の間に緑地が続き、こちらが戸田公園らしい。桜木もある。水路には一艘の競走用ボートが見え、二人が漕いでいる。そんな風景を眺めながら、水路沿いに歩き続ける(写真下)。
 解説版に出会い、荒川の治水対策や戦前の東京オリンピックボート競技開催用に整備されるも大会は戦争で中止になったが、戦後になり、1964年のオリンピックの前後には国体やインターハイがしばしば開かれたとある。
 戸田橋を渡る ボート競技の管理棟を過ぎると、各大学の漕艇庫が並んでいる。“C”マークの母校の庫が目に付いた。なんと東北大学のものもある。筑波大学も近くはないが、来場だけでも大変だろう。夏休み用かなと首を捻った。
 水路の東端に至り、左手が戸田公園駅、右手が戸田橋から舟渡地区。なんとなく歩き足りない気分で土手へ上がり、また南風を受けながら戸田橋を渡る。渡り終え、上流右岸の土手に、中山道戸田渡し跡碑を見て、舟渡氷川神社へ寄り、舟渡二丁目バス停へ歩いた。(2021/2/20 K.K.1375/1400)                          

◇日時 2021/02/04 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10km 14,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図10」2004年4月
「通過時間等」自宅9:50-三田線西高島平駅10:05=笹目橋10:20=戸田ボート場西端10:40=戸田公園人橋10:50=戸田ボート場東端11:25=戸田橋11:30=.中山道戸田渡し跡碑11:40=舟渡氷川神社11:50=舟渡二丁目バス停12:04-自宅12:30

都心芝、新橋に神社、史跡を訪ねる

 今年の初詣先として、新橋付近の神社をマークしていたが、正月も月末になってしまった。今年は遅れた初詣も良いとの意見もあり、出掛けることにした。今回予定の神社はすべて初めての社と思っていたが、浅野内匠頭終焉の地の碑は一度見ている筈と調べたら、塩竃神社や日比谷神社も同じ日(03.2.2)に寄っていると分かった。加齢には勝てない。

 御成門から 三田線を御成門駅に降り地上へ出て、増上寺境内の端に熊野神社を探した。東京タワーを正面に見た先で、広い境内の片隅に見付かり、参拝。隣の千躰地蔵尊(写真上)を眺める。この種地蔵を近くで見るのは初めてだ。日比谷通りへ出て、港区役所前から新橋方向へ歩く。愛宕署を過ぎ新橋へ至り、横浜ゴム社ビル付近でウロウロしたが三剱稲荷が見付からない。持参地図にはあるのだが現況に変更があったのか。諦めて、塩竃神社へ。こちらは大凡の見当が付き小公園の続きにあり、社殿前へ進み手を合わせる。由緒書きによれば、江戸初期、伊達藩主が伊達家上屋敷に塩竃本社から勧請し、その後現在地の中屋敷に遷座したとある。私は、再訪だが何ら記憶は蘇らなかった。
 塩竃神社、日比谷神社 日比谷神社も、探しあぐねビル街一画をウロウロして二周し、最後は交番で教えて貰った。数年前マッカーサー通りが出来て、神社の周辺の風景は一変したのであろう。社は新道路に面していた。こちらも二度目だが、淡々と手を合わせた。当社は現日比谷公園大塚山にあったが、江戸城の拡張で、こちらへ移転したようだ。

 切腹最中 内匠頭終焉の地碑そばに、切腹最中を販売する菓子店新生堂があると、最近の新聞(21.1.28読売夕刊)で知った。当初縁起が悪いと言われたが、お詫びの印として評判を呼んでいるとある。話のタネに最中を求めたいと店前へ出たが、本日日曜日でか、閉店中。店舗をカメラに収めて日比谷通りへ。
 終焉の地碑は記憶にあり、ほぼその地にあった(写真下)。内匠頭の即日切腹は知られている。それがこの辺りにあった一之関藩田村家の上屋敷であったのだ。そういえば、以前田村町と呼ばれていた地である。
 新橋繁華街 新橋駅前にある烏森神社へ向かう。山勘が当たらず、新橋駅右側へ出てしまう。新橋は日曜日なのに人出がある。正面の飲食街と思い直し、ニュー新橋ビルを越して飲み屋街に入ると直ぐ神社。この辺り、旧勤務先時代仲間達と二次会で時には飲みまわっていたが、あれから20年以上過ぎた。簡単に手を合わせ、レンガ通りから三田線内幸町駅へ降りた。車中、10分遅れると、待ち合わせの友人へメールした。(2021/2/16 K.K. 1374/1400)

◇日時 2021/01/31 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 7km 10,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図87」2004年4月 「通過時間等」自宅9:40-三田線御成門駅10:35=熊野神社10:40=塩竃神社11:00=日比谷神社11:25=内匠頭終焉の地碑11:30=烏森神社11:40=三田線内幸町駅11:55-同巣鴨駅(昼食)12:10/13:00-自宅13:30

練馬氷川台から環七を歩き板橋本町へ

 歩く先を板橋区内から練馬へもと広げたい。約20年前練馬から石神井川沿いに板橋へ下った時、氷川台で氷川神社を探し損ねたこと(00.3.5)を思い出し、地図を広げた。練馬へは池袋駅からの外、大江戸線で春日駅、都庁前駅経由があるが遠い。そんな中、成増から有楽町線で氷川台駅へと気付いた。路線検索では約半分ちょっとの時間である。

 成増から練馬氷川台へ 東武成増駅へバスで出て、川越街道で地下鉄成増駅へ下りた。見慣れない駅で、多分初めてかもしれない。三つ目氷川台駅に降り地上へ出て、案内地図で石神井川を探す。直ぐ先が川で、おはま井戸へと歩く。一度訪ねて、橋の先の池泉の筈と探し回るが見当たらない。地元の方に尋ねると、住宅街へ入った小公園と教えてくれた。おはま井戸は、嘗て石神井川縁の湧水池で、下練馬の鎮守氷川神社は当初ここに創建されたが現在地へ移転したとある。それでお祭りでは神輿で渡御する儀式が現在も行われているという。池などなく記憶と違う。
 おはま井戸から氷川神社 石神井川を渡り、住宅街に氷川神社を探し、丁目と高い樹木に見当付け近づくと境内、社があり(写真上)、参拝。古社の雰囲気はあるが、これまで訪ねた神社とそう変わりはない。1400年代創建との案内であるが大宮の氷川神社が一之宮で総社らしい。境内で、持参した水筒からウーロン茶を飲む。商店街を歩き練馬区から板橋区へ。左手に、あの“練鑑”があった。

 城北中央公園の思い出 城北中央公園に着く。目の前が軟式野球場で、確か昭和48年頃私が旧職場チームを案内しプレーしたことを思い出した。相手チームも覚えている。近所の友人で当管理事務所に勤務していた方が確保してくれたと思う。広場では母子でシャボン玉を飛ばしあっている。公園を出て桜川緑道を歩く。右手が区体育館、中二の孫がバスケ部で頑張っている。当体育館も走り回ったことがあるのであろうか。
 正面が安養院。昨秋偶々立ち寄り参拝して、境内の欅の大木に魅せられた。再訪だがコースに組み入れた。大寺院で広く、裏口から入り本堂へ回るのに戸惑ってしまった。今回は、手を合わせてから境内を見回し、シャッターを切った。榧の大木の下に空海像もある(写真下)。欅は葉を落としていた。
 環七を歩く 石神井川台橋へ出て、川沿いに下る。出会った大通りは、川越街道ではなく環七通り。それでは側道を行けば板橋本町駅へ至ると歩いた。予想以上に距離があり、川越街道を渡り、東上線下を通過したが、未だ先。途中交差点近くに飼い猫ぽんちゃんが入院したアニホスがあった。前方に首都高速高架が見え始めたのは、足に疲れが出始めた頃。高架下で三田線板橋本町駅へと階段を降りた。(2021/2/9 K.K. 1373/1400)                                            

◇日時 2021/01/26 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 11km 16,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図15」2004年4月 通過時間等」自宅9:45-有楽町線成増駅10:20-同氷川台駅10:35=おはま井戸10:50=氷川神社11:05=城北中央公園11:30=桜川緑道11:50=安養院12:00=環七通り12:10=川越街道12:20=東上線下12:25=三田線板橋本町駅12:44-自宅13:05

板橋赤塚公園から徳丸北野神社を巡る

 再度我が家スタート、ゴールコースを探した。前回は三田線北側の新河岸川、荒川沿いであったが、今回は、三田線南側に位置する荒川河岸段丘土手に続く赤塚公園から徳丸地区へ出て、前谷津川中流緑道を遡り、北野神社に参拝し、高島平へ戻ろうと思う。時計回りで、距離的にはやや短いと思うが、大半は初めて歩く地となろう。

 広く細長い赤塚公園 我が家から都立赤塚公園は直ぐ。団地南側交差点を渡れば園内である。野球場や陸上競技場、テニスコートの外、バーベキュー広場もある樹林に囲まれた大きな公園。本日も遊んでいる人は少なくない。久しぶりの園内で、噴水の形も変わっていた(写真上)。
 若い頃の思い出があり、地区や子供達の運動会が開かれ、野球場ではプレーしたと思う。友人達との秋の山形芋煮会は鮮明に覚えている。その広場を過ぎて高速道路下の歩道橋を渡り、土手に続く樹林地帯下を行く。こちらも赤塚公園の続き。土手と新興住宅街の間から、土手に切られた坂を上がると徳丸の辻山地区公園。昨年末偶々訪ねて、赤塚公園の東端と知った。
 北野神社へ 松月院通りの坂を下って、不動通りを渡り、前谷津川緑道へ右折。アーチ形の花棚が並ぶが、この時期咲く花はない。また不動通りを渡り返すと、両側には密な住宅街が続く。大山参りの記念碑不動明王を過ぎ、徳丸通りに突き当り、天神坂へ。坂は住宅地とは思えない程の急なもの。上がり切ると、北野神社の表参道であった。

 当社は数回目だが正面からは初めて。意外に狭い境内で、本殿前で参拝し、コロナ終息と孫の受験合格を祈願した。京から勧請した天満宮で牛の像があるのは知っていたが、真新しい(写真下)。今年の干支にちなみ更新したのであろうか。カメラに収めた。
 栗山村記念公園 松月院通りへ出て、坂を下り紅梅公園に寄り、その先に栗山村記念公園を探す。住宅街の奥、土手上に小さな緑地公園があった。
 我が区と栃木県の栗山村(現日光市)とは姉妹都市の類だろう。鬼怒川奥の山村で、私は、以前に村内の女夫淵温泉や加仁湯は訪ねたことがある。園内の木々は同村から送られたものとある。
 本日のコースは時計回りに戻って、直ぐ赤塚公園の南端。先程とは反対方向へ土手下を歩いて、高速道路下の交差点を渡って、我が団地へ戻った。(2021/2/4K.K.1372/1400)

◇日時 2021/01/22 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 7km 10,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」「通過時間等」自宅10:15=都立赤塚公園10:25=同辻山地区10:40=前谷津川緑道11:00=天神坂11:10=北野神社11:15=紅梅公園11:30=栗山村記念公園11:35=自宅12:00

舟渡大橋から荒川土手を笹目橋へ

 我が家から直接歩く先を探した。密を避けて、なるべく交通機関利用も控えたい。そんな都合の良いコースはなかなか見付からないが、無理やり設けた。三田線高島平駅先の緑道を新河岸川へ出て舟渡大橋を渡り、荒川土手へ歩き、堤上を遡り笹目橋へ行って、新高島平駅へ戻るコースにした。なるべく未踏ルートを歩こうと思う。最近、加齢の所為からか寒さに極端に弱くなり、天気予報を睨めっこし歩く日を決め、本日はその日である。

 我が家から前谷津川緑道へ 我が家から高島平駅へ向けスタート。駅を越し三田線高架下を抜け、緑道へ入る。昨年歩いた前谷津川緑道の最下流で、突き当りが新河岸川。意外に広い緑道で、下流を示している。私は初めて歩く小径。板橋清掃工場で右折し新河岸川右岸を下る。高い煙突があり、清掃工場の存在は知っていたが見るのは初めて。大きな建物である。昨年の花見時は左岸を下った。
 西台橋を過ぎ、アーチ型舟渡大橋が見え始めた。袂で歩行者用階段を上がり大橋(写真上)を渡る。橋下は遊水池で川幅は広がり、淀んでいる。渡った先は、小さな水辺公園で、本日も母子連れなどが見える。
 舟渡大橋から荒川土手 私は、荒川土手へ向け直進し、交差点で左折して霊園へ寄る予定。こちら側からは初めてで少し距離があった。猫ぽんちゃんと家内の墓前で線香を上げる。花が新しい。私は昨年10月の命日以来だが、長男達が来たのだろう。霊園裏から荒川土手へ上がり、堤上を上流へ向かう。堤下は工場地帯で、中小の印刷会社が多いようだ。遠戚の方が、定年後こちらの会社の役員として勤められて、1、2度お会いし高島平駅前で、グラスを交わしたことがあった。もう5年も前のことと思う。その先には東京都の下水処理場の施設や建物が連なっている。

 笹目橋先でUターン 本日天候良く無風状態で、天気予報通り。寒さは感じない。荒川は広く、流れは見えない。河川敷には野球場やサッカー場があるが、平日で人影は見えない。前方の笹目橋は長い(写真下)。期待した奥武蔵や日光方面の山並みは遙か先か。
 順調に歩き続け、笹目橋の下を過ぎ、埼玉県へ。新河岸川に架かる落合橋で戻る予定だが、手前に通行止めの柵があった。昨春、白子川を下った時も工事中で通行禁止であった。あれから半年程過ぎたがまだ続いていて、Uターン。笹目橋下から堤下へ降りて、集落内の早瀬の渡し水神宮に参拝。水神様は往時の荒川の渡川地の記念碑らしい。早瀬橋で新河岸川を渡り、三田線新高島平駅高架下から我が家は直ぐである。今回は、自前の徒歩コースを2時間強で歩き通し、昼前に帰宅出来た。グッドである。(2021/1/29K.K.1371/1400)

◇日時 2021/01/13 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10km 14,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」「通過時間等」自宅9:30=前谷津川緑道9:45=板橋区清掃工場9:55=舟渡大橋10:10=高島平霊園10:20=荒川土手10:30=笹目橋11:05=早瀬の渡し水天宮11:25=自宅11:45

初詣に板橋の三田線沿線社寺を訪ね歩く

 2021年を迎えたが、初詣でも遠出は出来ない。板橋区のマップから神社をマークした。昨年は脱巣ごもりハイクと称し区内を巡り歩き、多くの神社や寺院に出会った。そこを中心に、地下鉄三田線で移動しながら、年頭のお参りをしようと思う。

 初詣は四ツ又馬頭観音から 三田線を板橋区役所前駅に降りた。最初は四ツ又馬頭観音で、この観音様は三度目だが、地図が不正確で二度目で観音様を確かめ、お参りした。今回は真っすぐお堂へ進み、頭を垂れて手を合わせ、コロナの退散と孫達の成長等をお願いした。お堂の横に、由緒書きがあり江戸中期からあったとある。
 次の子易神社は、旧川越街道を渡り切り、坂を越した先で、再訪の神社だが、今回は表参道の正面石段から本殿へ。近くの園児達も居て、並んで参拝。江戸初期創建の社とある。社務所には巫女さんも見え、初詣が続いているよう。山手通りを区役所前へ出て、地下鉄で次の本蓮沼駅へ。
 蓮沼氷川神社、南蔵院 蓮沼の氷川神社は初めてで、地図が頼り。思ったより距離があり、中山道から横へ入った先左側にあった。本殿前で参拝。境内には神楽殿もある。関東の多くの神社には常設のようで、私の故郷とは違う。氏子達の豊かさの差だろうか。
 直ぐ隣が南蔵院(写真上)。真言宗の古刹であり、本堂から降りて境内を見回し、すだれ桜見物に訪ねたことを思い出した。30年も前だったと思う。山門前の中山道を志村坂上駅へ歩く。志村の一里塚を見上げ、地下鉄入口階段を降りた。
 城跡にある熊野神社 志村の熊野神社は数度訪ねている。志村城跡内で高台にあり、私は城跡巡りでも来ている。坂を上がり、本日は大回りし長い表参道から境内へと進む。こちらは参拝者がチラホラとある。参詣後、神社の裏手を一回り。樹林が覆い、武蔵野の面影ともあり、その間に空堀跡も窺える。都内では稀有な遺構だろう。

 高島通りの二社 志村三丁目駅へ戻り、次の蓮根駅に降りて、高島通りを稲荷神社へ向かう。こちらも昨年末知った社。蓮根へ氷川神社を移動した時、稲荷神社の隣にその遥拝所を併設したようだ。正面から境内へ進んだが、神社名は見当たらない。ネットでは正式な名称は稲荷氷川神社とある。両社に手を合わせた(写真下)。七社目は、西台駅近くの馬頭観音様。当社も昨年知った。高島通りを戻り到達。最後も同じ祈願をして孫の入試合格と、早いコロナ終息を願うばかりである。(2021/1/24K.K.1370/1400)

◇日時 2021/01/04 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課8「観光いたばしガイドマップ」「通過時間等」自宅10:15-板橋区役所前駅10:30=四ツ又馬頭観音10:35=子易神社10:40=板橋区役所前駅10:55-本蓮沼駅11:00=氷川神社、南蔵院11:10=志村坂上駅11:40-志村三丁目駅11:45=熊野神社11:55=志村三丁目駅12:08-蓮根駅12:15=稲荷氷川神社12:25=馬頭観音12:35=西台駅12:44-自宅12:55
 故郷の読者で歌人のS先生から届いた短歌です。“ポストまで280歩の雪の道 新雪なれば靴跡著(シル)し” “投函を終えし安堵の帰り道 行きの靴あと踏みつつ歩む” 雪国の御苦労が偲ばれます。先生は、94歳のご高齢です。

駒込から本郷へと御成街道を巡る

 年末の日曜日、巣鴨で昼食をした。本日天候も良く風もない。都心を歩こうとJR巣鴨駅から同駒込駅へ出て、現本郷通りを上り、東大前から三田線春日駅へ下ろうと思う。御成街道や岩槻街道とも呼ばれる。初めてではなく、2,3度ぶつ切り的に上下しているが、久しい。

 六義園は閉園中 巣鴨駅から駒込駅は近い。今回は、山手線内側を進む。結局山手線を高架で渡り、右折し駒込駅。駅前で大國神社へ挨拶し、広場では染井吉野桜発祥の里記念碑を眺め、本郷通りへ。
 直ぐ六義園で、庭園内を眺めながら通ろうと北口門前へ近づくと,正門へと貼り紙。一昔前旧同僚の女性達と夜桜見物しその後飲み会をした店が左側であったと思う。皆定年等でお宅へ引っ込み、この頃は再会も難しくなってしまった。距離のある正門へ回ったら、今年は閉園したとあり、残念。
 富士神社、天祖神社 次は富士神社へと本郷通りを渡り、不忍通りへ入るも神社が見当たらない。ウロウロしたが辿り着けず、地図を出すと通り一本先であった。ここの神社は、富士塚の上に社があり(写真上)、石段が急で私は昇ったが、高齢の夫婦連れは女坂へ回った。初夢の一富士、二鷹、三茄子とは駒込に由来したとある。近くに鷹匠屋敷があり、茄子は駒込名産であったという。私は、家康の好物を並べたと何処かで読んだと思う。
 次は奥の天祖神社で、病院の高いビルを目標に住宅街を右往左折。その途中に駒込の名主宅が遺り、都内では珍しく、カメラに収める。天祖神社に参拝。コロナ終息と孫二人の受験をお願いした。当社の建立は、文治5(1189)年源頼朝が奥州藤原氏征伐の途中、当地で見た夢に由来するとある。御成街道へ続く長い参道は、その名残であろうか。

 銀杏が美しい本郷通り 本郷通りを上り続ける。銀杏並木があり美しい(写真下)。ここのは未だ残っている。両側には寺も古刹が多く、寺町のよう。吉祥寺の門前へ至り、案内で榎本武揚の墓があると知り、境内へ入ったが、探せず戻った。榎本は子供の頃ラジオ放送で知り、興味を持った。また大通りを歩く。地下鉄南北線が通り、本駒込駅付近の筈だが通り越してしまったようだ。そろそろ本郷追分かなとキョロキョロしたがまだ先。東大農学部前が中山道との追分であった。僅か1年前訪ねたが周囲の景色は忘れていた。加齢の所為だろうか。
 本郷弥生で本郷通りと分かれ、春日へ坂を下る。本日唯一の未踏の通りだと思う。下ると菊坂下とあり、菊坂は樋口一葉旧居の地で、確か一葉が通った質屋の建物も坂途中にあったと思う。都営地下鉄の入口に出会い、私は三田線春日駅ホームへ向かった。(2021/01/17 K.K. 1369/1400)

◇日時 2020/12/27 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10km 14,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図28,35」2004年4月
「通過時間等」自宅…JR巣鴨駅12:50=同駒込駅前13:05=六義園正門13:15=富士神社13:35=天祖神社13:50=吉祥寺14:10=本郷追分14:35=菊坂14:45=三田線春日駅14:54-自宅15:30

社寺を巡り歩いた板橋赤塚地区

 東武練馬駅前にパソコン消耗品の買い物があり、その復路に下赤塚駅へ歩こうと思う。赤塚地域は未訪で、地図からポイントになる社寺を巡り、その後松月院に寄り、高島平団地へ戻るコースはどうだろうか。東武練馬駅から下赤塚駅への距離は、予想の2㎞に反し、約半分の1㎞強と分かり、楽に歩ける。

 地図にない赤塚出世稲荷へ 駅前で買い物を済ませ、下赤塚駅へと歩き出したが、方向を失いそうになり東上線へ出て、線路沿いに歩く。同じ風景が続き、住宅街へ入ると小公園があり、徳丸公園か。本日天候良く園児達が遊んでいる。地下高速の上を渡ると下赤塚地区になり、バス通りへと出る。最初のポイントは出世稲荷だが、先日下赤塚行バス終点付近で探したが、探し損ねた。いわばリベンジで、この神社は板橋区発行の地図にはないが、埼玉県地図和光市隣の板橋赤塚には載っている(昭文社道路地図)。バス停手前に鳥居があり稲荷神社(写真上)。参拝し、神社名を見付けようとしたが、ない。境内では松の木の剪定作業中。ネット情報では、中田家個人所有の稲荷とあった。
 赤塚駅前商店街を行く 駅前大通りを渡り下赤塚駅北口へ。小さな駅改札口を久しぶりに眺め、地図で確かめて駅前商店街を行き、下赤塚小学校隣の篠塚稲荷を目指す。ここからは未訪の地で、板橋の地図が頼り。古い住宅街の小路になりクランク型に進むと、学校裏の大きな銀杏の先にお稲荷さんは鎮座していた。手を合わせ、uターン。また地図を眺め、八幡神社へ方向を採る。初めての地で道なりに進むと区の福祉施設があり、その前のメタセコイアが黄葉に染まり美しい。

 謙信が焼き討ちした大堂 福祉施設の先で右折しようとしたが思い直し、直進を続ける。自然に右方向へ導かれ、予定の八幡神社。隣が松月院大堂という古い阿弥陀堂。案内には、永禄4年(1561)3月長尾景虎(上杉謙信)が北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したとある。その後再建されたのであろうが、現在では、松月院からは離れた地にある荒れたお堂。また詣でて、大通りへ出て坂を上がると、松月院前へ至り、ようやく現在地が分かったが、久しぶりの地。
 大古刹松月院 山門を潜り、大きく立派な本堂で古刹に相応しい。頭を垂れて、戦国前期、下総を追われて赤塚城主になった千葉自胤氏一族の墓前へ。そして、幕末の砲術家高島秋帆の大砲型記念碑を見る(写真下)。幕末に秋帆が、徳丸ケ原で砲術演習した時本陣を置いたのが当寺という。我が高島平はその名を戴いている。松月院は裏門もある、現在も大寺院。境内には幼稚園、保育園もあった。ここからは左へ行き東京大仏から赤塚城跡経由もあるが、距離的に近い諏訪神社方向へ足を進める。近道をして、赤塚土手の坂道を下り、高速下を過ぎると我が団地であった。(2021/01/11 K.K. 1368/1400)

◇日時 2020/12/21 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課8「観光いたばしガイドマップ」
「通過時間等」自宅9:35-高島平バス停9:44-東武練馬駅前店10:20=出世稲荷神社10:55=東武下赤塚駅北口11:05=篠原稲荷神社11:10=松月院大堂11:30=松月院11:40=自宅12:10

柳瀬川沿いに歩き埼玉志木へ

 今回は、板橋区から出ようと歩く先を巡らし、東武東上沿線にある志木を探し出したが、新河岸川付近の史跡等は、既に訪ねたのではと疑い手元のガイド誌で調べると、上流の富士見市の新河岸川付近で、志木は未訪と分かった。東上線柳瀬川駅から歩き、柳瀬川と新河岸川合流地いろは橋から志木駅へのコースにしようと思う。

 柳瀬川を下る 東上線柳瀬川駅に降りた。我が家からは近く、成増駅へ出て1時間以内にスタート出来た。直ぐ左手が柳瀬川で、右岸の堤上を行く。ここの風景は、先日狭山智光山公園を往復した時、東上線車窓からも眺めた。意外に広い河川で、この下流で新河岸川に注ぐ。少しでも風を避けようと河川敷内に下りて歩いた。富士見橋を過ぎると、向う岸に大きめの白い鳥が休んでいる。三羽目の鳥は灰色で、どうもアオサギらしい。ズームにしてシャッターを切った。流れの中に、石像らしき物があり、近づくとかっぱ像。流れ着いたのかなと思ったが、供え物がある(写真上)。後に志木にはかっぱ伝説があり、そのシンボル像の一つらしいと知った。高橋で左岸へ移って下り続け、合流地の栄橋へ着く。左手の志木市役所は工事中。

 いろは樋 合流地の新河岸川にはいろは橋が架かり、三角州は親水公園。いろは48には、歴史的意味があった。玉川上水を分水した野火止用水は、志木で新河岸川へ流れ落としていたが、対岸の地区でも灌漑用水が必要と樋を掛け、それが川越からの舟運を妨げず通すため高架とし、大小の樋48を繋ぎ通したという。空気抜き付きである。その模型が展示されていた(写真中)。その創意工夫は見事という外はないが、思ったより小さ目のもの。
 当地は、引又河岸が出来て発展し宿場となり、現在も街道沿いに古い屋敷や商店も遺る。親水公園には、村山快哉堂という薬屋店舗が移築され、1877(明治10)年築とある。公園にはかっぱの像モニュメントがあり、志木のかっぱ伝説を表していた。市内には24ものかっぱ像があるという。

 富士塚に出会う 志木駅へ出る途中の旧引又宿の中で、敷島神社と富士塚の案内を見付け、惹き込まれてしまった。少し住宅街へ入り私立高校の先の正面が神社。参拝し、隣の田子山富士塚に驚く。大きい(写真下)、小山である。最近訪ねた塚では最大級のもの。国指定民族文化財とある。しかし、本日は閉められ上がれない。カメラに収め、大通りへ戻り、駅へと向かう。水車跡があり、現在の志木市内の中心に、である。
 志木駅前は一変していた。若い頃、荒川河川敷ゴルフ場に来ては駅前居酒屋で反省会をしていた。ホテルや大型スーパーのビルが建ち、その中に駅舎は埋もれていて、なんとか辿り着いた。(2021/1/5K.K,1367/1400)

◇日時 2020/12/14 ◇天候 晴れ ◇交通費 400円 ◇歩行距離等 8km 11,000歩 ◇資料 東武鉄道「東武沿線さんぽ154志木」平成18年6月、154頁 「通過時間等」自宅9:20-東上線成増駅9:55-同柳瀬駅10:15=丸橋10:35=栄橋10:55=いろは親水公園11:00=いろは橋11:10=敷島神社11:20=東上線志木駅11:52-同成増駅12:12-自宅12:40

谷中から上野公園を巡り歩く

 本日、西日暮里に出掛けるが、用事は1時間も要しないだろう。その後山手線沿いに谷中へ歩き、同霊園から上野公園を通り抜け、御徒町へと歩こうと思いを巡らした。初めてではない地も多いが、史跡や古刹も多く気軽に歩くコースとしては、楽しめると思う。

 道灌山公園、夕やけだんだん JR西日暮里駅裏の坂を上がり右手の高台は道灌山公園。太田道灌の出城跡との説もあるらしい。諏方神社から寺院を左に見て高台の寺町を行く。右手の下り坂は富士見坂とあり、都心では富士が見える唯一の坂とあるが、現在では正面に新宿の高層ビルが建ち疑わしい。十字路右手は谷中銀座商店街で、入口の階段夕やけだんだん(写真上)は久しぶり。下町銀座には人出が見られる。
 谷中から上野公園へ 私は山手線沿いに進み谷中霊園へ。広い霊園を、案内図を頼りに墓地の間を進み、五重塔跡へ至る。確か幸田露伴著の小説のモデルと思うが、塔は関東大震災や東京空襲から免れたのに、戦後放火で焼失したという。広い墓地の間を左折右往して抜け出し大通りを渡って寛永寺根本中堂境内へ。参拝して、二度目と思い出した。明治期に川越喜多院からの移築とある。国立博物館を回り込み、上野公園へ。左手はJR鶯谷駅の方向。
 公園は思ったより親子連れ等が多い。東京都美術館前から動物園へ向かう途中に、寛永寺の跡があった。上野東照宮への参道の両側には大名達寄進の石灯籠が並ぶ。寺院と思っていたが神社とあり、鳥居が建っている。右手の五重塔は寛永寺のものらしい。清水観音堂前から彰義隊の墓、西郷像となる。戊辰戦争の当事者でもある。

 上野公園と戊辰戦争 上野の寛永寺は江戸初期家光が徳川家菩提寺として建てたもので、幕末の上野戦争で焼失したが、先ほどの東照宮や五重塔は遺った。谷中経王寺には弾痕が遺っていた(写真下)。1868(慶応4)年7月4日(陰暦5月15日)のことで、勝利した官軍はその後会津へ進んだことは歴史の通り。昨秋、白河手前の奥州街道白坂宿を歩いた時知り合った地元の方に、白河口の戦いを現に見聞きした元村長が書いた.“慶応戊辰白河戦争”と題した資料等を戴いた。それによれば、上野戦争の前から官軍は白坂宿に到達していて、6月14日(陰暦4月24日)には地元の方に戦死者が出ていたとある(白坂宿顕彰碑実行委員会「奥州道中白坂宿」)。約150年後の現在では、案内資料と痕跡を突き合せれば、上野公園でも僅かに窺える程度になっている。そんなことを思いめぐらしながら、公園入口の石段を下りて、御徒町の地下鉄駅へと歩いた。(2020/12/25、2021/1/10K.K.1366/1400)

◇日時 2020/12/6 ◇天候 晴れ ◇交通費 160円 ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 「上野周辺(上野桜木・谷中)お散歩マップ」「通過時間等」自宅11:15…JR西日暮里駅12:30-道灌山公園12:35=谷中夕やけだんだん12:55=谷中霊園五重塔跡13:10=寛永寺根本中堂13:25=上野東照宮13:50=同西郷像14:00=大江戸線上野御徒町駅14:22-三田線春日橋駅14:30-自宅15:05

蓮根緑道から浮間橋を辿る

 三田線蓮根駅から新河岸川へ出て浮間橋、そして荒川土手を上下しJR北赤羽駅へという板橋区から北区を巡るコースを探し出した。今回のポイントは、浮間渡船場跡、浮間橋架橋記念碑である。そして、大半は未踏のコース。帰途は埼京線で、北赤羽駅からJR板橋駅へ出ようと思う。

 蓮根緑道を歩く 蓮根駅に降りスタート。久しぶりで高島通りへは少し距離がある。中山道方向へ歩き左手前の稲荷神社に寄り、手を合わせる。地図から見付け初めてで、住宅街なのに広い境内。高島通りへ戻ると公園らしき空き地があり、蓮根緑道に違いないと進入し、中山道を歩道橋で渡ると、緑道らしくなった。生け垣の赤い花は山茶花だろう(写真上)が、私は椿と区別がつかない。この時期は皆山茶花と思っていたが、冬椿もある。足下にツワブキの花を見付けた。緑道は新河岸川に突き当り、右折する。直ぐ上は長後さくら橋。川沿い右岸のコンクリート壁の下を下り、新河岸橋は高架下を抜け、新河岸大橋へ歩く。右手は今春辿った出井川緑道(20.5.10)。
 浮間橋へ 新河岸大橋を渡って北区へ入り、左岸を浮間橋を目指し行く。この辺りの新河岸川の流れはなく淀み川面は広く、運河のようである。そして、浮間橋設置までは小豆沢へ渡船であったという。現在も川を仕切るコンクリートの壁は高い。道路脇に渡船場跡の碑があり、カメラに収めまた先へ行く。正面が北赤羽駅で、浮間橋上の駅。浮間橋架橋記念碑は橋の袂にあった(写真下)。前回(20.5.29)何故見逃したのか分からないような位置にある。明治末からの荒川の直線化工事で、浮間地区が荒川と新河岸川の間に取り残され渡船であったが、地元農民達が資金を供出し昭和3年に橋は完成したとある。

 赤羽からまた北赤羽駅へ 浮間橋を渡り、また右岸を赤羽方向へ進む。前方に鉄橋が見え、赤羽は意外に近いと分かる。歩きながら、新荒川大橋手前に都内唯一の酒造会社があり、晩酌用に丸真正宗カップ酒を求めようと思い付き、回り道する。首尾よく店前へ至ったが閉店中。9月に店前を通ったがその時(20.9.21)も閉まっていた。
 新荒川大橋途中から荒川土手へ降りると、工事中の案内があり、ガードマンに北赤羽駅へ歩けるかと尋ねると頷いてくれた。しかし土手は途中で締め切られ、河川敷内へ下りて迂回し、鉄橋下を過ぎまた土手へ上り返す。対岸川口に善光寺が見え、9月はあちらを歩いた。右下はゴルフ場。荒川河川管理棟前から土手を下り、北赤羽駅へ。当駅は長い、長いエスカレータでホームへ上がり、停車中の電車に飛び乗った。空席を見付け、一息入れる。今回も休憩なしで歩いていた。(2020/12/18K.K.1365/1400)

◇日時 2020/12/3 ◇天候 曇り ◇歩行距離等 11km 15,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」「通過時間等」自宅9:35-三田線蓮根駅9:55=稲荷神社10:10=蓮根緑道10:15=新河岸大橋10:30=浮間渡船場跡碑10:40=浮間橋10:50=赤羽鉄橋下11:10=新荒川大橋11:25=荒川河川管理棟11:45=JR北赤羽駅11:59-三田線新板橋駅12:16-自宅

狭山智光山公園に武蔵野雑木林を歩く

 最近埼玉、奥武蔵を歩いていない。自称のホームグランドであり寂しい。奥武蔵の手前だが狭山にある智光山公園が未踏の地と思い出し、調べた。手許のガイドでは春の菖蒲園の案内だが、雑木林に囲まれているらしい。晩秋の遅い紅葉に期待した。

 最寄り駅は狭山市駅 智光山公園の最寄り駅は西武新宿線狭山市駅で、私は東武東上線川越市駅乗換にした。ここの徒歩乗換は初めてで、本川越駅へは遠回りしたが西武新宿線に乗り、狭山市駅に下車。往きはバスにしようと待つも行き先表示を誤り一台見送ってしまった。駅前から見える山々は、奥武蔵の山ではなく、奥多摩の山々で、特徴ある山容は大岳山と後に気付いた。入間川を渡りバス終点で、運転手さんに公園の方向を教えて貰いスタート。
 公園を覆う雑木林 工業団地を過ぎ、交差点で右折。左手先に公園らしき森が見えるが入口や進入路はなく、畑道へ左折し茶畑の中を進むと、森端の建物は体育館で、智光山公園。その先からは雑木林が生い茂り(写真上)、遊歩道が続く。落ち葉を踏みしめながら森内を行く。コナラやクヌギ、エゴノキに赤松が混じる。紅葉も終わりに近い。散策者は多い。こども動物園前から小川傍の木道になる。詩碑があり、評論家秋山ちえこの推薦文があった。一昔前だが、談話室というラジオ放送があり知っていた。東端のキャンプ場に至り、Uターン。

 武蔵野か 中央の雑木林内の小径は、一面落ち葉で敷き詰められ、重なる枯れ葉を踏み踏みしながら歩く(写真下)。このような山里歩きはいつ以来か思い出せない。本日は晩秋の雑木林に期待していた。散策者と時々は交差する。
 埼玉の当地は武蔵野エリア内であろうか。詩人秋谷豊著“詩で歩く武蔵野”(さきたま双書序文平成10年)で、秋谷は、国木田独歩が著した“武蔵野の面影は、今わづかに入間郡に残れり”の文を引用しているのを帰宅後見付けた。狭山は旧入間郡内であろう。そんな想いに浸り、時々落ち葉を掻き分けながら歩く。国木田独歩の武蔵野文学碑は武蔵境駅から歩いた玉川上水桜橋の袂にあった(03.1.5)。釣り池から菖蒲園になり、雑木林も明るさを増し、出口が近くなる。管理事務所があり、こちらが正面入口であった。公園のバス停を探し損ね、次のバス停傍の食堂で、時間調整に昼食を取った。駅へ歩く予定もあったが、予想以上に広い雑木林の歩きに満たされた。(2020/12/11K.K.1364/1400)                                                   

◇日時 2020/11/28 ◇天候 晴れ ◇交通費 1,520円 ◇歩行距離等 9km 13,000歩 ◇資料 「智光山公園」平成30年6月、新ハイキング社「さあ!ハイキング 智光山公園-城山砦跡」平成27年4月、194頁「通過時間等」自宅8:00-東上線成増駅8:50-西武本川越駅9:27-同狭山市駅バス停10:08-日生団地バス停10:25=智光山公園体育館前10:40=同キャンプ場11:10=智光山公園入口11:30=高富バス停12:08-西武狭山市駅12:43-東武川越市駅13:14-成増駅バス停13:50-自宅14:15

黄葉は散っていた光が丘公園銀杏並木

 また散っていた銀杏並木 練馬にある光が丘公園の銀杏黄葉を思い出し訪ねた。数年前は散り終えていて、残念な思いをしたことがある(16.11.23)。今年こそはと、公園田柄口から入園。案内図を確かめ売店前へ出て、銀杏並木通りへ右折。正面の銀杏の木々は既に葉を落としている(写真上)。また間に合わなかった。残念、リベンジならない。3日前のネット情報では見ごろとあったのだが。

 練馬光が丘公園へ 光が丘公園へと、今回は東上線下赤塚駅行きバスに乗った。初めての乗車で、途中から何処を走っているか不明になったが、赤塚内だろう。駅手前の終点に下車し、商店街から踏切を渡る。右手が下赤塚駅。東上線利用の際、一時はこの駅を利用したが、高島平へ越した頃であった。古い地図にある稲荷神社を探すが見付からない。
 現川越街道を横断し、光が丘公園へ方向を採る。現在は裏街道だが旧川越街道かなと歩く。そろそろ左手に公園の高い樹林が見える筈と屋根上を見上げるがまだ先。板橋から練馬へ入ったようで住宅街へ左折し行くが、途中の案内板で大分先と知る。田柄高校前に公園への案内があり、少し歩いて田柄口へ。思い込みからの山勘がまた外れ、現川越街道からは大分距離があった。そして、黄葉を期待し、園内へ入った。

 武蔵野の面影か 残念だが、葉のない並木の下を歩く。それでも葉のある木が1、2本あり、カメラに収めた。雑木林を歩こうと、公園奥へ。葉を落としているのは同じだが、私には武蔵野の面影を感じた(写真中)。田舎育ちには懐かしくも、癒される。
 妙安寺、出世稲荷 予定通り、北西のあけぼの橋口から公園を出て、右手先が妙安寺。境内の欅の大木は見たことがあった。家康の三河以来の家臣板倉氏が江戸入封時に開基した古刹とある。静かな本堂前へ出て、参拝。二人連れの若い方もいた。白子川沿いを歩こうとしたが、川沿いには細道もなく、一度川面を覗いただけで(写真下)、中心街通りへ戻る。そして、練馬の出世稲荷で、旧川越街道沿いにあり、川越藩主松平信綱や柳沢吉保達が参勤交代の際出世を祈願した社で、現在の名になったとある。

 ここからは少し土地勘が戻る。坂を下り現川越街道へ出て、反対側の八坂神社に寄る。この神社の存在は知っていたが、初めての参拝と思う。京都の本宮から勧請したとある。手前の延命地蔵さんにも手を合わせた。ここを埼玉側へ旧川越街道が続き白子川を渡り、白子宿である。今春に歩いた(20.5.5)。今回は、高島平行きバス停のある東上線成増駅を目指した。(20/12/5K.K.1363/1400)

◇日時 2020/11/21 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 東京公園協会「都立光が丘公園」「通過時間等」自宅8:35-東上線下赤塚駅9:10=光が丘公園田柄口9:40=銀杏並木9:50=光が丘公園あけぼの橋口10:00=妙安寺10:10=出世稲荷神社10:25=八坂神社10:35=成増駅バス停11:00-自宅11:20

水車公園、粕谷家住宅と板橋徳丸を歩く

 朝、起床し動き出したら腰に痛みを感じる。歩けないほどではないが鈍痛があり、寝違えかなとも思うが、速足は無理。ここ20年程の間ほぼ週一のペースで歩いてきたが、2週間は遠のいている。そうだ、歩けば腰痛は治るだろうと気が付き、近くを歩くことにした。確か以前もこのような経験があったかもしれない。歩く先は近くとし、自宅スタートとし徳丸の水車公園、粕屋家、そして前谷津川緑道へとする。

 赤塚諏訪神社から 先ずは、赤塚諏訪神社を目指し、高速下へ出て、歩道橋で高速道路を高島平から赤塚へ渡る。私の近所だが、思ったより距離があり、見覚えのない住宅街、古い農家の間を通って、神社に着いた。我が地区の初詣先だが、最近はご無沙汰である。コロナ終息などをお願いした。
 大農家の前から、富士塚へ。塚は草木に覆われ、その面影はない。大通りへ出て、こぶ欅を眺める。以前は諏訪神社の参道から境内であったという。北海道の孫達が来た時一緒に歩いたことを思い出した。桜の時期であった(14.4.5)。
 水車内部を見学 大通り側道を直進し続け四葉へ入り、新興住宅街へ左折すると、徳丸水車公園であった。前回は閉園時間で中は見学できなかったが、大きな木製歯車が交差し噛み合い、杵が上下している(写真上)。外へ回って、回る水車をカメラに収めた。嘗ては水田稲作の地で水車は珍しくなかったとある。裏に樹林と土手があり、前谷津川の源流らしい。山でもないのにだが、関東ローム層で保水、はけが良いのかもしれない。隣の日本庭園を覗いて、徳丸の中心にある安楽寺へ。
 江戸中期築粕谷家 松月院通りを渡ると安楽寺前へ出だが、山門以外は古刹とは思えない。奥にある粕谷家住宅は、家屋の間に茅葺屋根が見え、表へ回って見学。徳丸脇村名主の隠居用住宅で、1726年(享保11)年築とある。それが現在も残る(写真下)。土間の広さが目に付いた。松月院通りへ戻り、前谷津川緑道へと歩く。左手に緑地公園があり寄ると赤塚公園とありびっくり、高島平から土手続き公園の東端と思う。

 前谷津川緑道を団地へ 不動通りを越した先に緑道があり、左折し緑道を歩く。直ぐ高速下で交差点を渡り、また緑道を歩き続ける。私達が高島平へ越して来た50年前は、未だ水路で流れが見えていた。その後住宅街では殆ど緑道化されているようだ。
 緑道は高島平へ入り、周囲は高層団地で徳丸地区とは風景が一変し、公園内遊歩道である。そして、三田線高島平駅前商店街に着き、今回のウォーキングは終了。そして、腰痛は消えていた。やはり寝違えの類であったろうか。ラッキーである。(2020/11/29K.K.1362/1400)                

◇日時 2020/11/14 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10km 13,000歩 ◇資料 「水車公園案内」、「旧粕谷家住宅」
「通過時間等」自宅13:35=赤塚諏訪神社14:00=同富士塚14:05=水車公園14:20=安楽寺14:40=粕谷家住宅14:50=赤塚公園15:05=前谷津川緑道15:15=高島平団地15:40=自宅16:00

紅葉の中、山々を眺め、蓼科高原蓼科湖を巡る

 昨日、信濃諏訪から蓼科高原に入ったら、紅葉が盛りで美しい。天候にも恵まれ、青空の下紅葉が映え、晩秋の信濃路である。そして、八ヶ岳の展望も素晴らしい。蓼科高原山中にある宿泊施設からも、八ヶ岳連山が正面に位置し(写真上)、夕方や朝も展望を楽しんだ。温泉、地酒付きである。

 蓼科高原を歩く 本日は、蓼科高原内を歩き、蓼科湖を巡りたい。アクセスが心配だが、朝フロントで、送迎バス途中下車のアドバイスを貰った。運転手さんにことわると、もう一人降りますと、ご婦人を紹介してくれた。高原山中を下り、大通りビーナスラインへ出る手前で停車し、二人は降りた。ご婦人は当地滞在中で、時々歩いているという。

 カラマツ林(写真中)から大通りへ出て、緩い坂道を上がり続ける。右手はゴルフ場だが、プレーヤは見当たらない。未だ時間が早いのだろう。バス停で、帰りのバス時間を調べると予定した時刻のバスはないようだ。立派なお寺の前を過ぎる。この辺りは自動車メーカーの用地で、その施設の外、寺も建立したとご婦人が教えてくれた。右先に建物が見え、湖は近い。
 紅葉真っ盛りの蓼科湖 蓼科湖は、ビーナスライン傍にある小さな湖、否、池でレストランや土産店もある小さな観光地。本日も好天の中、人出もある。そして、紅葉は見ごろで、湖畔を彩っている。私は、時計回りに巡る。頭上の紅や黄の葉を時々は見上げながら、ゆっくりと歩く。スワン型の遊覧ボートも繋がれている。対岸の地へ至ると、こちらの紅葉も半端ではない(写真下)。シャッターを切った。正面に見える山は、霧ヶ峰の車山だろう。そして、右手は諏訪富士とも呼ばれる蓼科山。これらの山々は複数回登っている。記念碑があり、戦後開拓用に造成した灌漑湖と知った。

 八ヶ岳山麓の思い出 今朝、宿泊先ベランダから八ヶ岳、そしてその下に広がる深い山麓を眺めた。左手の天狗岳山腹の森林地帯には、白駒池、高見石から渋温泉へのルートがあり、昨年下山で大難渋したのはあの辺りであろう(19.9.19)。八ヶ岳山域の広がりや深さを改めて目の当たりにした。
 湖を一回りし、レストランでコーヒーを飲み休憩し、道の駅を覗きバス時間を調整して、正午前の茅野駅行きバスに乗車。駅前に着いたら、予定した特急列車が既に停車しているのが見えた。やむを得ず、次の鈍行に乗車。甲府駅で特急に乗り換え、17時前には帰宅可能と分かり、車内でビールを求め呑み鉄とした。(2020/11/24K.K.1361/14000)

◇日時 2020/11/01 ◇天候 晴れ ◇交通費 5,300円 ◇歩行距離等 8km 11,000歩 ◇資料 蓼科観光案内所「蓼科湖周辺のご案内」2020.4
「通過時間等」宿泊先9:10-ビーナスライン手前9:30=蓼科湖9:55=同バス停12:00-JR茅野駅12:45-同甲府駅14:16-同新宿駅15:45-三田線巣鴨駅16:05-自宅16:35

八ヶ岳を眺めながら諏訪大社上社から前宮を巡る

 最近各地方に一之宮と称される代表的な神社があり、思い出したように訪ねている。今年は3月の上総一之宮玉前神社以来途絶えている。ネットで調べて信濃一之宮は諏訪大社と知り、予定していたが延び延びになっている。秋になり、紅葉狩りも兼ね、蓼科高原に宿泊先を確保し、準備した。

 諏訪大社上社へ 信濃行きは、新宿駅発特急あずさである。上諏訪駅に降りると、上社経由のバスがあると分かり、乗車。甲州街道を通り郊外へ出て、中央高速の先へ走った。
 途中の古い商店街に、“麗人”、“真澄”、“信州舞姫”の酒造会社の酒蔵が並んでいた。真澄は都内へも入っていて、飲んだことがある。
 バスを降り、北参道から上社本殿前に進む。本日は土曜日で、広い境内には七五三参りもチラホラあり、並んで拝殿へ(写真上)。私は、若い頃訪ねたと思っていたが、境内は間違いなく記憶にダブった。確か近所の方と一緒で、家内も同行していたように思う。

 八ヶ岳連峰を展望 紅葉が盛りの参道を出て、前宮へ歩く。先ほど1.5kmと聞いた。春宮や秋宮は訪ねていたが、この度前宮の存在を知った。諏訪大社内の宮であろう。
 大通りを北上する。秋晴れの下、左手先に八ヶ岳連峰が、屋根越しに見え隠れする。田園地帯になるとばっちり正面に見え出した(写真中)。2000m以上の高峰が横に連なり、素晴らしい連峰山岳風景で、アングルを探しシャッターを切った。当地の方にとっては見慣れた風景だろうが、季節毎ではどうだろうか。 
 前宮に参拝 前宮は意外に遠く、大分歩いてようやく見え出した。もう1.5kmは過ぎたと思う。裏参道と思しき坂を上がると山門前へ出たが、本殿は、更に離れた坂上であった。

 先ほどの上社とは違い古い木造の社殿。案内には、以前に上社があったから前宮というとある。社殿等の建物にも歴史が感じられる。また僅かな賽銭を出し、手を合わせ、コロナの終息と受験生をお願いした。
 有名な御柱が左右に建っている(写真下)。上社では見逃していた。今回上社、前宮を訪ねて、下諏訪にある春宮、秋宮は既に訪ねて私の記録にあり(02.10.19/15.5.14)、これで諏訪大社満願の筈だが、ご利益は期待できるだろうか。健康が第一である。各社に格式の上下はないと知った。
 タクシーを呼び、茅野駅へ送ってもらう。茅野駅へ着くと、もう宿泊先の送迎バスは待っていた。夕食時に、信州舞姫を飲む。湯上りに丁度合い、私は甘口かなと思った。(2020.11.20K.K.1360/1400)

◇日時 2020/10/31 ◇天候 曇り ◇交通費 6,100円 ◇歩行距離等 7km 10,000歩 ◇資料 「諏訪市観光案内図」令和2.4「通過時間等」自宅8:45-JR新宿駅10:00-同上諏訪駅12:30-諏訪大社上社13:00/13;25=同前宮13:55/14:05-JR茅野駅14:20-宿泊先15:00

板橋に四つ又馬頭観音から茂呂遺跡を巡る

 板橋区役所先の四つ又馬頭観音を探し損ねた脱巣ごもりハイク(20.9.6)から少し時が経ってしまった。近いからその内にと思っていたが、やはり確かめておきたい。また板橋区地図を取り出し、歩くコースを検討した。三田線板橋区役所前駅から四つ又馬頭観音を最初のポイントにした。

 四つ又馬頭観音を確かめる 区役所前駅から、前回確かめ損ねた四つ又馬頭観音を目指す。旧川越街道の中央分離帯の小さな箱型社(写真上)へ近づくも、周囲には案内はない。今回は確かめようと社前へ進むと横の板に案内が貼ってあり、間違いない。川越街道と池袋への高田道との四辻にあった観音様という。手を合わせ挨拶し、前回の見過ごしを詫びた。賽銭箱もない小社である。前回もう一歩踏み込んでいればだが、いつも、何事にも詰めが甘いのは生来の性格。この高齢ではもう治せないだろう。
 山手通りを渡って、大山商店街へ。ここも先のハイクで躓いた通りで、方向を失ったことがある(20.7.2)。本日は反対の区役所側から商店街へ入る。両側に店舗がひしめき合うが、一時の勢いが窺えない。早い時間で開店前の店もあるからか。東上線大山駅に着き、次のポイントへはときわ台駅迄電車に乗る。

 古社、古刹を巡る 駅前の天祖神社へ参拝。社叢に囲まれた神社は、初めてではないが見覚えがない。確かご両親が当地出身の友人がいて里帰りに、一緒に訪ねたと思う。大戦時の空爆の弾痕が狛犬台座に今も残っていた。ここからは初めての地で、地図が頼り。現川越街道へ出て、町名を確かめ下町住宅街へ左折。小路を行き番地から右手を覗くと、目指す東新町の氷川神社であった。立派な社殿、境内、そして社務所には神官が常駐しているよう。コロナの終息と受験生をお願いした。また地図を眺め表参道を右折し、突き当りが安養院。鎌倉時代創基の大古刹。境内に並び聳える欅に見とれる(写真下)。アングル変えシャッターを切った。庭園もある。
 茂呂遺跡 石神井川へ出て、台橋から川沿いに歩く。正面が都立城北公園で、その手前左手が茂呂遺跡。旧石器の石器が出土した遺跡で、以前、通り掛に知ったが見学はしていない。柵に施錠してあり入れない。外から眺めれば、普通の土手のよう。カメラに収め、石神井川を渡り返し、石段を上がり御嶽神社に寄る。先日本社の木曽御嶽神社里宮に参拝したことを報告。ここから東上線上板橋駅へは2,3度歩いている。川越街道を横断時、五本欅の健在を確かめた。途中文房具屋を見付け、クリアファイルを求めた。ハイキング記録保存用で、これで、有楽町へ出掛ける必要はなくなった。(2020/11/17K.K.1359/1400)

◇日時 2020/10/26 ◇天候 晴れ ◇交通費 300円 ◇歩行距離等 8km 11,000歩 ◇資料 「観光いたばしガイドマップ」「通過時間等」自宅9:30-三田線板橋区役所前駅9:50=四つ又馬頭観音10:00=東上線大山駅10:16-同ときわ台駅10:30=天祖神社10:35=氷川神社10:50=安養院11:00=茂呂遺跡11:10=御嶽神社11:20=東上線上板橋川駅11:47-同東武練馬12:00-自宅12:40

小田急自然ふれあい歩道狛江から多摩川へ

 久しぶりに弟と一緒で、歩く先を検討し結局は二人の中間地にある小田急自然ふれあいの道にした。小田急狛江駅から社寺や公園を巡って多摩川縁を歩き、和泉多摩川駅へのコースで、我々高齢者向きである。これまでも、二人で向ヶ丘遊園駅や玉川学園前駅、町田駅コースなどを歩いた。

 小田急狛江駅をスタート 私が新宿駅で小田急線に乗り換えたら、弟から狛江駅に着いたとメールがあった。弟の先着はいつものことで、こちらは小田急車中と返信した。狛江駅改札口で弟と一緒になり、駅前からスタート。
 駅前公園内の弁財天池、そして泉龍寺が最初のコースポイント。駅前とは思えない森の中に小さな池があり、その隣に古刹があった。本日天候良く、境内では園児達が遊んでいる。山門から本堂前へ進み参拝。
 住宅街を行き、むいから古民家を探す。一度方向を間違えたが戻って到着。茅葺の農家と長屋門が保存されている。多摩地区は昭和の中頃までは古民家が残る農村地帯であったのだろう。入口で検温され、連絡先記入を求められた。一回りしカメラに収め、道路を渡って西河原公園へ。道路沿いの細長い園内を先へ歩く。先導する弟が右折地点を通過してしまい、万葉歌碑の案内に右折する。
 万葉歌碑、伊豆美神社 万葉歌碑(写真上)は、“多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき”とあり玉川碑と呼ばれ、オリジナルは松平定信の筆らしい。多摩川の洪水で流され、再建されたとある。弟が、やはり伊豆美神社、兜塚古墳を通り越したと言い、住宅街の通路を戻る。神社は見付かり詣でる。井伊直弼の石碑があり、当地は井伊家の領地でもあったとある。参道も長く並木がある。兜塚古墳は行きつ戻りつしたが、神社の裏手にあった。塚上には木々が繁り、確かめただけで西河原公園前へ出て、また同じ道を行き、万葉歌碑案内のある交差点を左折し、多摩川土手へ。

 五本松に再会 多摩川を眺めるのは久しい。下流もこの辺りでは川幅は広く、流れはその中心。下ると直ぐ五本松(写真下)。土手下に十本に満たない松林がある。以前反対側から歩いた時(08.3.11)、昭和の時代劇ロケ地と知った。
 コースも後半で、多摩川水道橋袂で休憩。目の前は世田谷通りとある。小田急線高架下からまた堤上を下る。コースポイントもなく、宿河原堰堤を見て土手を降り、だらだらと商店街や住宅街を抜け、大通りを左へ歩くと小田急和泉多摩川駅であった。駅前で昼食を取ろうとしたが、店が少ない上に、あった店も持ち帰りのみと言われ、食事を諦め、駅ホームへ上がった。弟に、誕生祝にと高級ウィスキーを渡された。律儀な弟に感謝である。(2020/11/10K.K.1358/1400)

◇日時 2020/10/21 ◇天候 曇り ◇交通費 520円 ◇歩行距離等 13km 17,000歩 ◇資料 「小田急自然ふれあい歩道 狛江駅~和泉多摩川駅」「通過時間等」自宅8:20-都営新宿線神保町駅9:04-小田急新宿駅9:23-同狛江駅9:50=泉龍寺10:00=むいから民家園10:15=万葉歌碑10:35=伊豆美神社10:40=兜塚古墳11:10=多摩川五本松11:25=多摩川水道橋11:40=小田急和泉多摩川駅12:23-都営大江戸線西新宿駅13:00-三田線春日駅13:18-自宅13:55

都内新宿から中野、世田谷へ歌碑を訪ねる

 先月から遠出が続き、近くに歩く先を探し、都内の歌碑巡りが浮かんだ。先々月銀座や新橋の歌碑を巡ったが、都内には未だ数か所残っている。この際、新宿に二箇所、それに中野や渋谷、世田谷にもある。そして、最後は、“あゝ上野駅”歌碑にしようと思う。

 新宿に歌碑二つ巡る 都営大江戸線東新宿駅をスタート。最初は、藤圭子の“新宿の女”の歌碑がある西向天神で、一度訪ねた社(11.4.28)。東新宿駅から道路へ出て坂を上がり、神社入口へ着き右折し行くと目指す神社。階段を上がり本殿に手を合わせ、境内左奥に白く目立つ歌碑があった(写真上)。
 藤圭子が活躍したのは30年も前だろうか。この歌は彼女のデビュー曲で、その出陣式が当社であったと知る。私は聞いたことがある程度の歌。歌碑をカメラに収め、新宿中心街へ向かう。
 区役所通りから繁華街入口を右に見て、遊歩道らしき小道から大通りを回り込み、歌碑のある花園神社へ。正面入口で見まわしたら、新しそうな白い碑が見え、近づくと藤圭子の“圭子の夢は夜開く”の歌碑。この歌は良く知っている。彼女が無表情で、独特の声と節回しの歌であった。オリジナルは園まりの歌で、その違いを強調しているようでもあった。藤は、本当は陽気で明るい娘であったが、それを否定するような歌姿はプロデューサーの指示と、後に知った。
 “神田川”歌碑は2度目 都営新宿線新宿三丁目駅から乗り新宿駅で、大江戸線へ乗換え中野坂上駅に降り、山手通りへ出る。次は、南こうせつの“神田川”歌碑だが、井の頭公園から神田川を下った時(11.3.25)、偶然出会い2度目。こちらは首尾よく碑のある神田川河畔の公園へ直行できた。記憶とは違い石製ではなく、コンクリート製。山手通りで渋谷駅行きバスに乗車。渋谷区富ヶ谷に降り、地図片手に、舟木一夫の“高校3年生”歌碑の建つ松陰高校を探すが、方向違いのよう。2度尋ねその通りへ入ったが距離がある。目黒と世田谷の区境が目指す高校だか、通り越してしまった。

 “高校3年生”歌碑 以前テレビで、歌手山川豊、田川寿美が同歌碑を訪問したのを見ていて、広い校庭大きな校舎が目に付いていた。その前に、校内へ入り見学が許されるかも気になっていた。ようやく校門に達すると、門は開かれ守衛さんもいない。左手庭に歌碑があり(写真下)、カメラに収めた。テレビでは、歌手二人は高校3年生を唄った。私が高校卒の翌年に出され、大流行した。その年に後輩達が合宿で唄った思い出がある。作詞家丘灯至夫は、新聞記者で当校を取材した時見た校庭でフォークダンスをする高校生の様子のようだ。彼の出身地縁の郡山駅にも歌碑があり寄っている(20.12.7)。小田急東北沢駅が近いと分かり、渋谷からの歌碑は次回にし、そのまま小田急代々木上原駅から地下鉄千代田線に乗り換え帰宅した。松陰高校へは予定以上の時間と距離を歩いてしまった。(2020/11/06K.K.1357/1400)

◇日時 2020/10/16 ◇天候 曇り ◇交通費 330円 ◇歩行距離等 11km 15,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図 新宿37外」「通過時間等」自宅7:50-都営大江戸線春日駅8:32-同東新宿駅8:50=西向天神社9:05=花園神社9:30=都営新宿線新宿三丁目駅9:40-同中野坂上駅10:00=神田川河畔10:15=宮下バス停10:20-富ヶ谷バス停10:50=松陰高校11:40-小田急東北沢駅11:55-千代田線代々木上原駅12:00-三田線大手町駅12:17-自宅13:00

県境・境の明神から白河宗祇戻しへ

 先月から奥の細道で訪ね残している地を歩いている。南東北では、福島や宮城の交通アクセスが不便な地が残っている。今回は福島南部を虫食い的に歩く予定。

 陸奥は境の明神から 芭蕉は、白河の関を越え陸奥へ踏み出したと思っていたが、その前に下野から、白河にある境の明神を訪ねて陸奥へ入ったという。1689(元禄2)年4月20日(陽暦6月7日)のことである。境の明神へはJR東北線白坂駅から約3kmの地と分かり、歩くことにした。順調に歩き、奥州街道へ出たと思い十字路も直進したが、予定の時間になるも白坂の集落は見えない。十字路へ戻って左折すると奥州街道で白坂であった。

 帰りのバスには間に合わずバスは諦め、見学優先にする。更に20分先が県境で、境の明神様が鎮座していた(写真上)。本殿に参拝し、句碑を眺める。やはり風雪に晒された句碑は読めない。1番立派なのが芭蕉のもので、“風流の はじめや 奥の田植え唄”と刻まれているという。県境を越し、下野側の神社にも手を合わせた。
 車で送って貰う 白坂は奥州街道の宿場として栄え、道路の両側に旅籠の屋号が遺り、また本陣跡の案内もあったが、この明神様付近にも旅籠があったようでその名残が窺える。衣替え清水や馬洗い池を見て、白坂へ戻る。偶々出会ったご婦人に教えて貰い、タクシーを呼ぼうとしたが繋がらない。そんな窮状を見かねたのかご婦人が車で送ってくれるという。本当に渡りに船で、白坂駅へ車で送って貰った。感謝に余りある。ご主人作成の白坂宿資料も戴いた。

 宗祇戻しへ 白河駅に降り、白河市内にある宗祇戻しを訪ねた。室町時代の連歌師飯尾宗祇が連歌興行に参加するため白河に着き、通りがかりの婦人に蓮歌興行のことを訊くともう終わったというので、戯れにその婦人が持つ綿を見て、“その綿は売るか”と尋ねたら、婦人が見事な和歌で返したため宗祇は驚き、旅の途中であったが京へ戻ったという逸話のある地であるが、芭蕉達は寄ってはいない。市内外れの三叉路に石碑が三つ程あり(写真下)、芭蕉句碑“早苗にも 我色黒き 日数哉”もあった。芭蕉150回忌に地元の俳人が建立したとある。隣の和菓子屋で、記念に宗祇戻しの塩羊羹を求めた
 安積山公園往復 4月29日(陽暦6月16日)須賀川を発った芭蕉達は、乙字の滝を経由し郡山に泊まり、翌日奥州街道を北上し、安積山に寄っている。万葉集にも詠まれた歌枕の地である。私は、電車を日和田駅に降り、現安積山公園へ歩いた。奥州街道は日和田地区の中心に残り、緩い坂を上がると、松の木が見え旧街道の並松。公園はその先で、丘の北側に芭蕉の小径と石碑があった。文学碑で、碑文は奥の細道の引用らしいが、もう読めない。丘上で休憩。松が多く、間に見える高峰は安達太良山だろうか。郡山駅から新幹線で帰京し、夕方には帰宅できた。白坂で車で送って戴いた方のお陰である。改めてお礼を申し上げたい。(2020/10/30 K.K. 1356/1400)

◇日時 2020/10/5 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本パス+910円 ◇歩行距離等 17km 24,000歩 ◇資料 「新白河羅針盤」、白坂宿顕彰碑実行委員会「奥州道中白坂宿」「通過時間等」自宅6:50-JR上野駅7:50-同新白河駅9:52-同白坂駅9:57=境の明神11:05=白坂11:30-JR白坂駅11:44-同白河駅12:20-宗祇戻し12:30-JR白河駅13:01-同日和田駅13:50=安積山公園14:05=JR日和田駅15:00-同郡山駅15:38-同上野駅16:57-三田線巣鴨駅17:15-自宅17:45

両毛線国定に田園の地を歩き社寺を巡る

 今年のJR東日本割安パス発売は変則で、10月にもあり求めた。新幹線利用可能で、今回は上越新幹線で高崎駅へ行き、両毛線国定駅から歩くコースにした。手許のガイド誌に、「講談・大衆演劇の主役活躍の地」(るるぶ情報版「大人の遠足歴史・文学あるき」98頁)として、国定忠治の故郷が紹介されている。忠治に興味は薄いが、アクセスが手頃な上、駅からスタートが良い。私には初めての地。

 両毛線国定駅スタート 新幹線を高崎駅で両毛線に乗り換え前橋駅、伊勢崎駅を過ぎ、国定駅に降りた。駅前は商店街もない田舎の閑かな住宅街。直ぐ田畑の中の道になり、稲穂は実りの秋状態(写真上)。水田の先は赤城山の筈だが、肝心の山は雲が多く、影も見えない。
 最初のポイントは赤城神社。ガイドにはないが地図から見付け、寄った。群馬も当地では外せない神社と思う。小さな集落奥に社はあり、手を合わせた。戻って、両毛線踏切を渡る。田んぼの畔には彼岸花が咲いている。
 赤城と忠治 道路に、忠治の墓と養寿寺の案内があり有名さが窺える。古刹の本堂に一応挨拶し、裏の墓地へ入ると、目指す墓は一見して分かり、導かれた。大きな石碑や石塔が建つ。幕末当地方周辺を縄張りにした忠治は、その後の浪曲や芝居で大衆間で有名になったと言われる。私のハイキングでも出会い、浅間山麓池の平には忠治隠れ岩という岩場があり、本当かなと疑った(06.8.14)。また、赤城山南山麓鳥居峠には、名月赤城山の歌碑があり、下った滝沢温泉に忠治岩窟入口の案内があった(17.5.20)。
 鹿島神社、小泉稲荷 大通りを下り、橋を渡った右手に鹿島神社があり、立ち寄る。何処にもある社と境内で、また大通りを下り続ける。国定駅への道を通り越し下ると、目の前に北関東高速が現れ、高崎駅案内所で入手した地図で確かめ、小泉稲荷へ向け左折する。左手にあずま運動公園や体育館を見る。現在は伊勢崎市だが、国定村はその後東村になった。未だ学校や公共施設にはあずまと付いている。高架下を右折すると、後方田圃の真ん中に大鳥居が見えて、右折地点を間違えたようだが、そのまま稲荷神社へ歩く。田舎の道は見えるも遠く、重い脚になってしまった。

 小泉稲荷神社は大鳥居、赤鳥居で有名とある。長くない参道に二列の鳥居がびっしり重なり建っている。片側100基程のようで、半端ではない(写真下)。潜って本殿に参拝。コロナの終息と孫達の健康をお願いした。
 駅まで1時間程だが歩く元気はなくなり、バスも2時間後。やむなくタクシーを手配。到着まで道路端に腰を下ろしてしまった。タクシーは大鳥居の下を走ってくれた。国定駅前で、呑み鉄用にと探したが自販機もなく、高崎駅でも、新幹線がすぐ来て買えず、帰宅迄持ち越しになった。偶にはこんなことも良いだろう。(20201030K.K.1355/1400)

◇日時 2020/10/3 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 13km 17,000歩 ◇資料 「いせさきマップ 伊勢崎市北部」「通過時間等」自宅10:20-JR上野駅11:30-同高崎駅12:37-同国定駅13:15=赤城神社13:35=養寿寺13:50=鹿島神社14:00=北関東高速下14:30=小泉稲荷15:05/15:30-JR国定駅16:22-同高崎駅17:14-同上野駅18:12-三田線巣鴨駅18:30-自宅19:00

御嶽山を眺め、滝を巡り里宮へ

 御嶽山を仰ぐ 御嶽山を正面に見て(写真上)、その雄大さを実感している。主峰剣ヶ峰(3,067m)は左右に裾を引き、山肌が全面に広がっている。御嶽の麓田の原へ上がり王滝登山口で、晴天の青空の下昨日叶わなかった展望を、驚きながらも楽しんでいる。剣ヶ峰には山小屋らしきものが見える。シャッター切り続けたが、大御嶽を捉えたであろうか。

 再度王滝口へ 本日木曽山中の二日目、期待通り天候は良い。御嶽山を眺め全容をカメラに収めたい。私の願いを察してくれたSさんは、また田の原王滝登山口へハンドルを切ってくれた。昨日往復したが、道路の左右はスキー場で、今は秋の草原でロッジも閉まり、閑散としている。王滝口には数台の車があり、本日も登山者がいるようだ。山頂へ向け、直線的な登山道も薄っすらと見える。

 北アを遠望 Sさん、反対側の三笠山(2,256m)に登り更なる展望をという。意外と簡単に山頂神社へ着いたが、周囲はしらびそ林で展望はない。途中のスキー場リフト小屋付近へ出て、御嶽山の右奥を見やると、遠く遥かに高山を望み、北アルプスの穂高らしい(写真中)。吊り尾根右手は前穂だろう。その先には槍もあるようだ。Sさんはこれが主目的と言い、一眼レフを覗いている。手前左手の高山は乗鞍と教えてくれた。私もカメラを出し望遠にしたが、自信はない。
 木曽福島へ向け山麓を下る。深い森の中の曲がりくねった狭い道路。現在も土日や夏季には登山バスが走っているようだ。

 御嶽信仰 新滝の案内を見ると直ぐ下が清滝で、停まった。滝は道路右上だが、急坂で少々難儀する。渇水期なのに幅広の滝一杯に流れ落ちている(写真下)。御嶽修験道の滝行場で、現在も行われ更衣室がある。隣の不動明王に手を合わせ、下から漠流を眺めた。更に下ると、御嶽神社里宮で、私は参拝したいとお願いしていた。都内近郊を歩いていると時々御嶽神社に出会い本宮へもと関心が向いた。奥宮は無理で里宮にした。石段が380段と知り、少々ビビッたが、見上げるとそう急ではない。何とか上がり切り頭を垂れ、コロナ終息と孫達の健康等をお願いした。
 御嶽神社や先程の滝行場は御嶽信仰が盛んな証だが、麓の道路両側に建つ霊神碑の数には驚いた。薄い石碑だが一箇所に数百重なり、それも道沿いに数か所に建っているのが車窓からも確かめられた。死後、魂が御嶽山へ還ることを願い建てられたものと知った。富士信仰も厚いがそのような碑はないと思う。本日の予定は無事終え、木曽福島の中山道へ出て、中央高速へ向け、車は木曽谷を走った。(2020/10/24K.K.1354/1400)

◇日時 2020/9/28 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 6km 7,000歩 ◇資料 木曽観光連盟「木曽路ガイドマップ」2020.4「通過時間等」宿泊先7:35-田野倉王滝口7:50-三笠山8:15-清滝9:20-御嶽神社里宮9:50-諏訪湖畔(昼食)11:35/12:20-高島平自宅15:00

木曽御嶽飯森高原から寝覚の床へ

 週末に、木曽御嶽山麓へ出掛けることになった。Sさんの車便乗である。6月鳥海から蔵王を巡った時、車中でSさんから話があり、同行をお願いしていた。それが実現し、宿泊先も確保したと連絡があった。最近朝が弱く、私の希望で5時出発にして貰った。

 中央高速から中山道へ 木曽へは中央高速である。車は速く、都内から高尾山を過ぎ、相模湖を見たと思ったら、次の休憩は諏訪湖畔であった。伊那高遠経由の予定であったが、ナビの指示で塩尻から中山道へ入った。奈良井宿に寄って、木曽福島先から右折し木曽谷を渡り、広く深い山麓を上がり続け、ロープウェイ下駅に着いた時は9時30分であった。
 御嶽山7合目飯森高原 先程来、御嶽山を見上げているが、残念ながら、本日雲の中。剣ヶ峰,摩利支天山、継子岳の内見えるのは手前の継子岳のみ。八ヶ岳付近から遠望する御嶽山は平らに見えるが三峰が並んでいるからのよう。ロープウェイはゴンドラ型リフトで、上駅飯森高原まで15分も要した。2,150mの7合目は、本日も登山者は多く、山中森林へと消えていく。我々は、飯森高原散策。紅葉色の灌木もあるが、高山植物も残る。アカモノか。御嶽社に参拝。反対側の展望はあり(写真上)、高山、低山が連り伊奈境の木曽駒もあろうが、地理不案内で分からない。
 開田高原へ回ってくれた。高原の開拓地とはいえ、広い山麓に牧場や集落が散らばり、見える馬はご当地木曽馬であろう。木曽福島迄下るのに一走りで、約20km位か。駅前に食堂を見付けるのに一苦労し、昼飯は、私は五平餅付きにした。

 寝覚の床の思い出 隣の上松宿の寝覚めの床へ回って貰う。上松に着き、臨泉寺境内から木曽川を覗く。中央線の先に、白い岩崖や大岩が重なる渓谷景観である(写真下)。竜宮城から戻った浦島太郎が当地に辿り着き、ここで玉手箱を開け老人になったとの伝説の地という。私は、古い思い出がある。大阪から長野行き特急に乗り車窓から眺めた微かな記憶があるが、本日眺めなおし、50年前の風景を戻した。境内には、芭蕉句碑“ひる顔に ひる寝せふもの 床の山”があり、更科紀行の折りの句か。
また木曽福島手前から山麓へ戻り、宿泊先を通り越し、田の原の王滝登山口へ上がってくれた。こちらも、御嶽山は雲に覆われ見えないが、大きな裾野が見え隠れし、雄大さが窺える。明日の天候に期待する。
 早朝の奈良井宿 朝木曽福島の前に、奈良井宿を歩いた。2度目の私は(17.11.28)、Sさんを案内。未だ8時で、目覚めたばかりの宿場は静寂、新鮮で、誰もいない旧中山道奈良井宿を往復した。木造町家や旅籠がびっしり並んでいるが、木工細工や塗り物細工等の土産店は未だ開店前。私は、再感激したが彼はどうだろう。本日スマホ歩数計には10kmと出たが、そんなに歩いたのであろうか。宿泊先では、入浴後の夕食で、私は馬肉と岩魚を肴に地酒七笑を戴く。岩魚は当然天然ものであった。下戸のSさん御免なさいである。(2020/10/18 K.K. 1353/1400)

◇日時 2020/9/27 ◇天候 晴れ ◇交通費 ロープウェイ2,600円 ◇歩行距離等 10km 13,000歩 ◇資料 成美堂出版「日本百名山 御嶽山」136頁「通過時間等」高島平4:55-奈良井宿8:05/8:35-御嶽ロープウェイ下駅9:45-同上駅10:05/10:25-同下駅10:45-木曽福島(昼食)11:35/12:20-寝覚の床12:45/13:15-御嶽田の原14:30-宿泊先15:00

                               

戸田橋から荒川左岸を下り新荒川大橋へ

 また脱巣ごもりハイクで、板橋区から北区、そして埼玉戸田、川口のコースにした。少し前に、浮間から北赤羽へ荒川右岸を歩いて対岸を眺め、あちらは未踏で歩いてみたいと思った。舟渡から戸田橋を渡って左岸を下り、新荒川大橋を渡り返し北赤羽へと、である。地図上から9km前後と読んだ。平地で、いつも歩いている距離である。夕方の用事に合わせ遅いスタートを予定していたら、長男夫婦から彼岸のお墓参りの連絡があった。一緒なら車で都合良く、先に墓参りしそのまま起点舟渡へ行くことにした。墓参りは、孫3人も一緒で、家内やぽんちゃん達を偲んだ。お盆の時は、免許取りたての長孫が運転しての墓参りであった。私は、彼らと別れ、浮間舟渡行きのバス停へ歩いた。

 舟渡から戸田橋へ 舟渡町バス停に降り、中山道へ戻って戸田橋へ坂を上がる。橋を渡ると並行するJR埼京線、新幹線鉄橋を列車が上下し、その間隔は短い。戸田橋は多分2度目の渡橋と思う。渡り終え、埼玉の左岸堤防へ出る。川下にJR東北線等の鉄橋が見え、その先にはスカイツリーもある。土手を下り、河川敷内の遊歩道を行く。荒川は静かで流れが動くのがよく見えない。土手は草で埋もれ夏草のようである。運動広場に遊ぶ人はいない。戸田市から川口市へ入ったようで、正面に大きな三領水門があり(写真上)、土手へ上がる。

 鉄橋下から寺境内 前方の鉄橋も大分近づいたが未だ距離がある(写真下)。右下は浮間ゴルフ場で、プレーヤーが見える。私も若い頃、家内の従兄弟と楽しんだ。近くに住む彼は、早朝ゴルフに誘ってくれた。東北線等鉄橋は高架下を通る。その先が自動車教習所で、私が予定した遊歩道は途切れてしまった。仕方なく土手上へ戻り、荒れた道の先の善光寺境内へ入ってしまう。頭を下げて通らせて貰い、墓地先から道路へ出る。右上に新荒川大橋への通り日光御成街道が見えて、大回りしたが予定の橋へ歩く。本日いつもより足が疲れ調子が出ない。久しぶりにやや重い登山用短靴にしたからかなと思う。橋の袂に隙間があり、善光寺の方と繋がっているように見える。強引に土手上を突破すればよかったのかもしれないが、最近その元気はない。
 新荒川大橋から赤羽駅へ 長い橋を渡り、新河岸川も渡る。ここで右折し北赤羽への予定であったが、赤羽駅へと変更し直進する。この辺りも歩いたことがあり、左手に23区内唯一醸造場丸眞正宗の小山酒造があるが閉店中。
 いよいよ疲れて、バス停椅子に座り込み水を補給。ここからも赤羽駅へも距離があり、何とか到達した。スマホで歩行距離を見ると10kmを超していた。北赤羽へ歩いても距離的にはそう変わらなかったかもしれない。夕方の約束迄は時間があり、駅で調整し集合場所へ向かった。(2020/10/10K.K.1352/1400)

◇日時 2020/9/21 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇歩行距離等 10km 13,000歩 ◇資料 昭文社「埼玉県道路地図」32頁 「通過時間等」 自宅13:00=高島平墓苑13:20=新河岸バス停13:40-舟渡町バス停13:45=戸田橋13:50=三領水門14:30=東北線等鉄橋下14:55=善光寺15:05=新荒川大橋15:15=JR赤羽15:50・・・・・夕食会17:00-自宅18:45

総武線を乗り鉄し銚子港を眺める

 JR東日本割安パス最終日は、総武線乗り鉄で、銚子駅往復とした。前日八戸から帰って疲れが残り、遠出は避けたい。特急利用なら昼頃からでも夕方に帰宅できると分かった。以前青春18切符でも予定したが実行していない。その時Sさんにも話しているので、今回は下見ということで、了解を得なくてはと思う。

 千葉、佐倉、成東通過 現在総武線の始発は東京駅である。地下鉄大手町駅から近いホームで、地下を歩いて東京駅改札から更に地下へ降りた。特急は速い。止まる駅も少なく、錦糸町駅から本来の総武線へ入り、千葉駅を通過。千葉市郊外はベッドタウンで、この辺りから通勤する同僚達も多く、現在もお住まいである。佐倉駅から成東駅を過ぎる。佐倉はあのミスターの出身地で、高校後輩は郷土の英雄だと言った。テレビで未だお見掛けする。成東はハイキングの思い出がある。隣の東金市出身の方と机を並べた時があり、関東ふれあいの道伊藤左千夫生家コースを一緒に歩くことになり、成東駅に待ち合せたら母上もご一緒で、同行し案内して貰った。途中彼女の高校時代の自転車通学路も歩いた(09.4.5)。

 OB会の思い出 特急は、終点銚子駅へ向け走っている。OB会を九十九里浜で開催したことがあり、旭駅が最寄り駅であった。私は、その前に横芝駅に降り、中世の坂田城跡を往復した(17.6.2)。海が近い筈なのに、森の中で海は見えない。飯岡でもOB会を開いたことがあり(08.4.6)、家内も一緒で、佐原を訪ねた後で、成田線経由であったと思う。やはり東金在先輩Oさんにお世話になった。

 漁港と醤油の町 銚子駅に着き、予定通り漁港へ。正面の通りを歩いて、利根川。思ったより大利根の河口は広くはない。漁港も同じで、小型の漁船が係留してある(写真上)。カメラに収め戻り、途中白幡神社に参拝。駅前通りの広さに違和感があり、スマホ検索すると、当地も終戦間際空襲を受けたとある。津や富山、青森もそうであった。

 駅構内に醤油樽が展示してあり(写真下)、醤油の町銚子のモニュメントで、現在もヒゲタやヤマサの大手会社がある。商標登録証を思い出し、調べると、濱口儀兵衛名義で、登録制度開始直後の明治18(1886)年6月15日に第272号(右図)として登録を受けていて、拙著に引用掲載してあった(「商標法の解説と裁判例」6頁)。
 駅前で名物醤油味ぬれ煎餅を求め、東京行き特急に乗車。地酒も忘れず、呑み鉄である。千葉手前で、当地在のTさんへメール。総武線乗り鉄を楽しんでいる旨である。彼は、商標情報サイトを開設している方で、私もお世話になっている。銚子の新鮮な魚はどうでしたかと返信があった。残念ながら、今回はそのチャンスはなかった。(2020/10/7K.K.1351/1400)

◇日時 2020/9/12 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本パス ◇歩行距離等 4km 5,000歩 ◇資料 「観光ガイドマップ銚子散歩」「通過時間等」自宅12:30-大手町駅13:15-JR東京駅13:40-同銚子駅15:30=銚子港15:50=白幡神社15:55=JR銚子駅16:39-同錦糸町駅18:25-三田線水道橋駅18:47-自宅19:20

龍飛崎に立ち津軽海峡を眺める

 岬先端の丘上に立つ。目の前に海が広がり、風も波もなく静かな津軽海峡である(写真上)。薄い雲が出ていて、案内にある松前や仏ケ浦迄は見えず、残念。先ほどバスで降りた先に歌碑があり、“ごらんあれが竜飛岬北のはずれ…”と石川さゆりが唄う津軽海峡冬景色が流れた。本日は遂に龍飛崎に立つことが出来た。それも風や波もなく穏やかな海峡である。3度計画し、最初は天気予報で諦め、2度目は雨の青森駅でUターンした。今回はラッキーにも天候に恵まれた。

 龍飛崎を巡る 龍飛崎は、自然の中に漁村があるだけの本州北端の辺地で、観光地ではない。ホテルが一軒あるも、土産店や食堂もない。灯台へ上がり、海峡展望を楽しみ、吉田松陰や大町桂月達の記念碑も見る。幕末に松陰は外国船の海峡通過探査に当地を訪ねたとある。丘に咲く薄紫の花はハクサンフウロのようだ。階段国道339号という山道を下り漁村へ出て、小さな漁港を見渡し、帯島手前の弁天神社に挨拶した。
 観光案内所の旧奥谷旅館を見学する。明治35年頃創業の岬唯一の旅館で、太宰治や高橋竹山、棟方志功も泊まったという。往時は船運か海岸歩きしかない陸の孤島のような岬であったようだ。私以外の観光客は極わずかで、帰りのバスは私一人であった。

 津軽線で三厩へ 今朝青森駅から朝一番の津軽線蟹田行に乗車。列車は田畑地帯を進み、途中から右手に陸奥湾が見え出した。乗客は高校生が多い。途中貨物列車と交換、盲腸線の筈なのにと疑問を持ったが、在来の津軽海峡線は現在貨物専用で北海道発と分かった。

 蟹田駅で三厩駅行きに乗り換える。こちらは山中を走り、殆ど集落は見えない。そんな中に終点三厩駅があった(写真下)。本州最果ての駅は、秘境駅の感である。
 岬には義経蝦夷行き伝説があり、案内によれば、平泉から三陸海岸寄りに北上し当地へ来て、羽根のある三頭の竜馬に乗り、海峡を渡ったとある。それで三厩なのだそうだ。以前訪ねた八戸城跡隣の社に弁慶石があり、義経の蝦夷行き伝説の説明があった(18.6.30)。駅前に、龍飛崎行小型バスが到着した。
 青函トンネルを往復 三厩駅発青森行列車を津軽二股駅に下車し、隣の奥津軽いまべつ駅で北海道新幹線に乗り換える。JRでは乗換駅ではないと案内はしないが乗換可能。待ち時間に昼食、構内道の駅食堂の客は多い。
 函館北斗行に乗車し津軽海峡下の青函トンネルへ。北海道新幹線は初乗車。北斗駅から、十勝音更の娘に、“今北海道にいるよ”とメールしたら驚いたような返信があった。復路の車中、北海道限定のご当地麦酒を飲みながら、また海底トンネルを通過。そして、本日の宿泊先のある八戸駅に降りた。(2020/10/1K.K.1350/1400)

◇日時 2020/9/11 ◇天候 晴れ ◇交通費 JR東日本パス+200円 ◇歩行距離等 6km 7,000歩 ◇資料 「青森県外ヶ浜町観光ガイド」外、「通過時間等」宿泊先5:55-JR青森駅6:15-同蟹田駅7:07-同三厩駅8:17-龍飛崎バス停8:40=文学碑8:55=灯台9:10=階段国道9:25=漁港9:45=旧奥谷旅館10:10/11:00-郵便局前バス停11:38-JR三厩駅12:37-同津軽二股駅12:52=同奥津軽いまべつ駅14:15-同函館北斗駅15:08/15:39-同八戸駅17:10=宿泊先17:20