コスモス街道、佐久高原でコスモスを楽しむ

 9月も半ば過ぎ、コスモスが咲く季節である。群馬内山峠の先、信州佐久にあるコスモス街道へ、Sさんに車で案内を請うたらオーケーが出て、日程を調整していた。折しも、山形の姪からメールが届き、叔母さんコスモスが好きでしたねとある。忘れていた訳ではないが、家内の好きな花であったことは確かで、仏前へも手配しなくてはと思う。

 内山峠、コスモス街道 関越高速道から上信越高速道へ入り、下仁田ICで高速を降り、内山峠へ向かった。上信県境の深い山中で、左手に荒船山の垂直の崖が見える。トンネル内で県境を越し佐久へ至り、里へ出ると、コスモスが見え始め、コスモス街道であった。途切れはあるも両側にコスモスが続く。車窓からは少し遅かったようにも見えるが、未だ花期内。街道は佐久の中心中込へと続くが、花は手前迄。狩人の唱う“コスモス街道”には、右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道とあり、佐久の当街道ではなく、もっと北西の信濃追分か岩村田付近のようだ。
 Uターンして貰い、往きにチェックしていたさくらい蜂蜜店庭へ駐車。庭には満開のコスモスが咲き揃っている(写真上)。私は、カメラを手に赤やピンクの花々の間を巡り、店前のコスモス街道を上下する。街道でも山に近いからか丁度見頃。店内で休憩し、Sさんお焼きを注文。私もお相伴に預かる。若い頃家内の実家で出されて知ったが、まんじゅうの中が、漬物や茄子にはビックリ。家内が懐かしそうに食べる横で、苦闘した思い出がある。現在では、まあ食べられるようになり、一個戴いた。

 佐久高原大コスモス園 コスモス街道を上がり、旧道で内山峠へ。峠頂上には荒船山登山口があり、見覚えがある(11.10.31)。今回は通過し、佐久高原にある山荘あらふねの大コスモス園へ。Sさんがネットで探してくれたコスモスの名所。駐車場から左手先にコスモスの花々が見え始め、期待できそう。
 湖の土手から高原へ上がると、目の前に満開の大コスモス園が広がり、高原一面に花々が咲き並び、乱れている(写真下)。見物者も多く、後に付いて高原を半周。赤やピンクが中心だが、白も混じる。素人の私には、アングルが難しく、画面一杯に花を写す外はない。1200mの高地で、また広く、手入れ、管理が困難ではと余計なことを考えてしまった。高原のコスモスの花に充たされ、高原を下ると、右手先にまた荒船山の崖がくっきりと見えた。レストハウスで昼食し、Sさんの案内で軽井沢へ出て、植物園を一回りし、シオンやヒゴタイ、ミナヅキなどの珍しい花を見る。街路樹は黄色に染まり始め秋の到来を告げていた。Sさんお世話になりました。秋桜には満足しました。有り難うございました。(2019/10/11 K.K. 1288/1300)

◇日時 2019/9/29 ◇天候 晴 ◇資料 佐久市観光協会「観光ガイドマップ信州佐久」◇歩数等 11,000歩 8km
「通過時間等」自宅・高島平6:30-佐久中込9:00-さくらい蜂蜜店9:10/9:35-龍岡城跡9:50/10:20-佐久高原コスモス園10:50/11:50-軽井沢植物園12:50/13:15-自宅15:40

選定を誤った白駒池から渋の湯下山コース

 進むべきか戻るべきか 狭くて急な石ゴロ沢の途中で、脚が止まってしまった。踏み跡も、赤テープも見当たらず、進むべきか、戻るべきか。下り続けるのも容易ではない。周囲は深い森。渋の湯発最終バス時間はさっき過ぎてしまった。子供の頃祖父が教えてくれた”沢を下れば里へ出る”とは、故郷の里山でのこと。ここは北八つ山麓の深い山中である。

 麦草峠、白駒池 本日、北八つ麦草峠、白駒池を巡るため、茅野駅からバスで麦草峠へ上がった。峠最高点(2120m)を越し、白駒池へ歩いた。シラビソ原生林内の苔が有名で、カメラに収めながら池端へ出ると、高地の池は静かに水を湛えていた(写真上)。昼食休憩し、下りに備える。下りは、手許の地図にある高見石へ上がり、渋の湯へ下るコースを見付けていた。下るコースタイム1時間10分で、最終バスにも余裕がある。

 高見石から賽の河原へ 白駒池を離れ、高見石へと薄暗い林の中を上がり続ける。大石ゴロゴロの坂道で歩き難いがゆっくり脚を一歩一歩を進める。平日なのにハイカーを見掛け、二組に抜かれるも急がない。頭上に空がチラチラしてから長いが、小屋前へ出た。思ったより速く、コースタイム50分の処45分。エッ本当と疑いながら、小屋前で休憩。案内板に、渋の湯へは緩やかな道とあり、ニンマリ。しかし、30分後は状況が一変した。
 高見石から直ぐ渋の湯へ左折しシラビソ林の中苔を見ながらゆっくり下ったのは、林内だけ。30分程で賽の河原の上で、正面には天狗岳(2645m)が聳えている(写真中)。急降下の道を慎重に下りた広い沢底部の河原は、溶岩の巨石や大岩で覆われた大ガレ場で、その上を歩く。時には石上を跨ぎ、時には降りて横をすり抜け、これを繰り返すが、脚が短く、体重が重い私には簡単ではない。怪我が怖く、岩角に手を掛け、足場確保を優先。賽の河原にも赤テープがある。途中で前方に高山が見え御嶽山で(写真下)、カメラを望遠にし写した。こんな余裕は此処まで。

 戻ってコース確認 地蔵様前を過ぎ、300m以上はあった鬼の賽の河原を脱出したと思ったが、下山路はその後もゴロ石が連続する沢。コースタイムを過ぎ、そろそろ渋の湯へ飛び出すと期待するがその気配はない。そんな歩きを続け、右折したら、冒頭の地点に至った。 道を誤ったかと思い、セオリー通り右折地点へ戻ると、赤テープ通り。そのまま沢を下り続け、コース案内に出会い渋川へ出てホッとしたが、ここからも簡単ではなかった。四ヶ所の木橋はいずれも新しいもので、最近の大洪水を示し、道も荒れ途切れ途切れのよう。谷沿いを懸命に歩き続け、黒百合平への分岐を過ぎ、ふと右を見ると建物があり、渋の湯であった。高見石から3時間経過し、コースタイム二倍以上。地図の誤植を疑い、帰宅後調べたら私並みの山行記録が2例あった。電話を借りタクシーを呼び、5時の特急あずさに乗れた。(2019/10/4 K.K. 1287/1300)

◇日時 2019/9/29 ◇天候 晴 ◇交通費 15,960円 ◇資料 昭文社「山と高原地図八ヶ岳・蓼科」1995年 ◇歩数等 16,000歩 11km
「通過時間等」自宅6:50-JR同新宿駅8:00-同茅野駅10:25-麦草峠11:40=白駒池入口11:50=白駒池12:05/12:15=高見石13:00/13:10=賽の河原13:45-14:15=戻り地点15:00=渋の湯16:15/17:05-JR茅野駅17:52-同新宿駅20:15-三田線巣鴨駅20:35-自宅21:05

御成門から於岩稲荷へ歩き、浜離宮に黄花秋桜を観る

 今年も秋桜の咲く季節になり、キバナコスモスが浮かぶ。数年前都心木場公園で出会い、魅了されてしまった。その後、特にキバナコスモスを探しているが、中々感動するような花には会えない。木場公園は1年限りで、ネットでコスモス園を見ているが、結局、昨年と同じ浜離宮庭園にした。歩くコースは代えようと港区御成門をスタートし、浜離宮庭園を経て中央区新川の於岩稲荷へ歩くことにした。

 御成門、芝離宮 三田線御成門駅に降り駅を出て、御成門前から浜松町へ左折。JR浜松町駅先で、芝離宮庭園を覗く。本日高齢者は入園料フリーと教えられた。直ぐ傍に桔梗の花が咲き、紫紺の花への再会を喜び、カメラに収める。コスモスはなく、石灯籠のある池端を巡り、園を出る。次の浜離宮へは、いつもとは違い竹芝へは行かず、手前のビルの側を行くとイタリア公園緑地があり、西洋ススキ、パンパースが穂を空へ向けている(写真上)。近づきシャッターを切る。天空を指す白い大きな穂は好きである。高速道路下から、浜離宮へ。

 今年もキバナコスモス 本日は、中の御門から入園し、知っているコスモス畑へ直行。コスモスの花はあるが、倒れているものもある。先日の台風の所為だろう。キバナコスモスが一画を占め咲いているものの、私には最初の印象が強く残り、物足りない。艶がなく、色もやや褪せて見える。それでも、高層ビルを背景にしたアングルを探す(写真中)。
 園を出て、中央区へ入り、工事中の旧築地市場から波除神社へ。場外市場は健在で、外人も含め賑わっている。正面の神社へ参拝。此処も2,3度目だろう。

 鉄砲州神社富士塚に再会 隅田川のかちどき橋袂へ上がり川面を眺め、ビル街の日陰を進む。目指す鉄砲州神社は、聖路加病院前を直進すれば良いと、いつもの山勘を働かせる。病院前を通過し、有楽町線のある大通りを渡る。町内案内図はないがその儘行くと、公園の先に神社が見え、鉄砲州神社。参拝し、帰ろうとしたら、富士塚があると分かる。本殿裏手に大きな溶岩の塚があった。出発前、当社は二度目で富士塚があった筈と、記録を捲ったが見付からなかった。やはり以前に見た富士塚で、カメラを向けた。
 於岩稲荷神社へ 歩きも最後になり、於岩稲荷神社は初めての参拝。中央区湊地区から亀島川を渡り新川地区へ。また町内案内図はなく、路地を覗くと綠の木々が見え境内かと進入したら於岩稲荷田宮神社。同社は新宿左門町にあり、江戸時代、史実でないのに芝居四谷怪談の題材にされ大当たりしたという。それで、明治期に歌舞伎役者達が、芝居小屋に近い当地にも祀ったとある。奥のお百度石(写真下)も撫でて、近くの都営バス停から東京駅八重洲口行きに乗った。(2019/09/30 K.K. 1286/1300)

◇日時 2019/9/15 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 昭文社「東京都市図」◇歩数等 16,000歩 11km
「通過時間等」自宅9:55-三田線御成門駅10:45=芝離宮庭園11:05=浜離宮庭園11:25=波除神社12:00=鉄砲州神社12:30=於岩稲荷田宮神社12:45=新川二丁目バス停12:55-東京駅八重洲口13:05=三田線大手町駅13:20-自宅14:05

町田薬師池公園に森陰を歩き蓮の花を観る

 本日は、弟と小田急自然ふれあい歩道を歩く予定で、集合地町田駅へ向かっていた。しかし外は暑く、高年者のハイキングには向かない天候。車中、炎天下歩かないで済む社寺巡りや公園散策へ予定変更を思い付き、町田の薬師池公園が浮かんだ。大分前だが一度ハイク友に案内して貰ったことがあった(06.4.30)。幸い弟には歩く先は未だ伝えていない。町田駅からのアクセスをスマホで検索した。

 町田薬師池公園へ 町田駅に降りると改札口に、弟は待っていた。薬師池公園へと告げ、北口から裏通りのバス停へ出た。弟は、初めての地と言い、少しホッとする。街中から郊外へ出て、バス停薬師池に降り歩き出すと公園裏門があり、入園。樹林の下の歩道で涼しい(写真上)。森を出て小さな谷戸、狭間で、中心は湿地だが、ハナショウブは終わっている。右手に水車小屋がある。久し振りで、近付いて眺め、カメラに収めた。薬師池手前を左折し移築の古民家へ。旧地主宅が定番だと思うが、一戸は医者のお宅。薬医門から中を覗くと農家とは間仕切りが違う。先のは藁葺きの農家で、入口には広い土間である。
 薬師池と蓮の花 公園のシンボル薬師池は、そう広くはない池で、太鼓橋が架かる(写真下)。天正時代あの北條氏邦の領地で、溜池として開発され、氏邦の裁可を得たとある。彼は武蔵寄居鉢形城主として知られる。渡って反対側へ出て、警備室があり、当園パンフを貰い、七国山の位置を尋ねるが良く分からない。本園も二度目だが、記憶にある風景は見当たらない。加齢の所為だろうか。
 直ぐ先が蓮池。遅いかなとも思ったが、ポツリ、ポツリと、ピンクの大型の花が咲いている。古代蓮、大賀蓮で、弟は、池回りでアングルを探している。私は、ベンチで休憩し、水を補給しながら、埼玉白岡の蓮の花もこんなものだったと思い出した。

 薬師堂に参拝 蓮池を離れ、右手土手へ上がり、林の中を歩きちょっぴりハイキング気分を味わう。七国山へと期待したが、そう偶然はなく、野津田薬師堂へと続き、公園外へ出で、参拝。天平年間に繋がる古刹のようだが、現堂宇は明治期の再建とある。孫達の成長と家内とぽんずの引き続きの成仏をお願いした。また樹林帯の下を歩き、谷戸から裏門へ出て、バスを待った。
 町田駅で、朝預けた物をコインロッカーから出し、弟と交換。私は好物ウィスキーを貰い、弟へお裾分けの田舎料理を手渡した。駅前で昼食をし、また歩こうと約束し分かれ、私はJR横浜線で東神奈川駅へ出て、京浜東北線有楽町駅に降り買い物をし、帰宅。本記録印刷用のインクカートリッジを求めた。最近記録作成が多く、消費、交換時期が速い。(2019/09/23 K.K. 1285/1300)

◇日時 2019/9/7 ◇天候 晴 ◇交通費 370円、青春18切符10 ◇資料 「薬師池」◇歩数等 12,000歩 8km
「通過時間等」自宅8:10-JR巣鴨駅8:50-小田急新宿駅9:10-同町田駅北口10:12-薬師池バス停10:30=薬師池11:00=野津田薬師堂11:20=薬師池バス停11:45-町田駅(昼食)12:15/12:52-JR東神奈川駅13:20-同有楽町鴨駅14:00・・・・自宅15:30

白馬親海湿原、姫川源流を歩く

 今年も白馬開催の会合に参加した。私は、山歩きが主目的で、白馬大雪渓へと予定していたが、夏季シーズンが過ぎバスの便がない上に、天候も良くない予報で、タクシーを奮発するのも今一である。白馬村内にある親海湿原、姫川源流を知り、駅から徒歩圏内で、そちらを歩くことにした。今回は、同行者は現れない。

 フシグロセンノウが咲く湿原 朝ホテルを出る時、大雪渓の方向を見上げたら黒雲に覆われていた。大糸線大町行きに乗り、南神城駅に降りた。小さな無人駅で、案内図で湿原の方向と道順を確かめスタート。農村集落の間を行き、中心街へ出て、湿原への案内に従い左折し森内を進むと、親海湿原へ入っていた。思ったより広くはない原っぱで、木道を行くが、自然というよりは荒れた湿原で、花は少ない。白い花はウドやカラマツ草か。ヒメシャジンもある。紺色の花はサワキキョウと知った。確かに花の色は桔梗だが花の形が違う。木道へはみ出て咲いている濃いピンクの花がある。カメラに収め、帰宅後調べるとミソハギ。最端からUターンすると途中に、フシグロセンノウの花を見付け(写真上)、近付くと多数の薄橙の花が咲いている。これまで、花の名山飯盛山等で2,3度出会っただけの珍しい花。慌ててシャッターを切り、花友へとスマホにも写した。薮には薄橙の花が多数咲いているが、歩道から距離がありカメラは届かない。それでも、フシグロセンノウの花に充たされ、湿原を一回りし入口へ戻った。

 姫川源流へ 姫川源流へと森内を行く。意外に近く、源流湧水は、地下から渾々と湧き出ているというよりは、どんどん流出している(写真下)。これが姫川になり白馬村から糸魚川へ出て日本海へ注いでいる。昨年の本会合の後、姫川沿いに走る大糸線に乗り渓谷を眺めた。信越県境の山中は大渓谷であった。源流では犬を連れたご婦人が写真を撮っている。軽く挨拶をし、持参ポットに湧水を汲む。水割り用で、思った以上冷たい。名水100選とある。カメラに収め、森を出た。青木湖が上方にあり、湿原も源流もそこからの地下水ではないかと想像した。
 塩の道佐野坂付近を通過 駅へ戻る途中、道祖神前に塩の道千国街道の標示があった。佐野地区とある。往路でも気になったが、青木湖畔から佐野坂を越し、塩の道を白馬へと歩いたのは8年前のこと(11.7.24)。確かに記憶にあるような古道である。
 南神城駅から大町駅、松本駅へ出た。予定では、篠ノ井線に乗り長野駅経由で帰るつもりであったが、丁度中央線上り塩山行きの鈍行があり、飛び乗ってしまった。青春18切符利用には有効ではあったが、些か時間が掛かりすぎ、新宿駅に着いた時は20時近かった。花は、「高山・亜高山の花ポケット図鑑」(新潮文庫)で調べた。900号記念にハイク友や花友達からのプレゼントである。(2019/09/21 K.K. 1284/1300)

◇日時 2019/9/2 ◇天候 曇り時々小雨 ◇交通費 現地分青春18切符9 ◇資料 赤旗日曜版「長野白馬村 親海湿原・姫川源流」18.7.15 ◇歩数等 15,000歩 11km
「通過時間等」宿泊先9:30-JR白馬駅10:24-同南神城駅10:35=親海湿原10:55/11:15=姫川源流11:35=佐野地区塩の道11:45=JR南神城駅12:35-同松本駅14:17-同高尾駅18:45-新宿駅19:50-三田線巣鴨駅20:08-自宅20:35

法隆寺、伏見稲荷を巡り参拝する

 前日大阪で用務を終え宿泊した。本日は帰るだけだが、いつものように法隆寺と伏見稲荷へ寄り道し、京都駅へ出ることにした。伏見城跡も浮かんだが、あれは歴史とは無関係な模擬天守と分かり、興味が退いた。出来るだけJRを利用し、残りの青春18切符を利用したい。

 JR天王寺駅で関西線奈良行きを待った。一昨年、奈良春日大社、東大寺からの帰途法隆寺へもと欲張ったが、疲れでパスした。言わばリベンジで、JR法隆寺駅に降り、ルートを確かめ歩く。ほぼ直線で20分とある。駅前から郊外になり、側道を斑鳩の里へ歩き続ける。大きな交差点で左折し、バスターミナルを過ぎて法隆寺南門参道前に着き、松林の参道を進む。
 静寂な中大古刹を廻る 法隆寺は二度目で、約50年前大阪万博を見学の際、会議の後に案内して貰ったことがあった。我々の高校生の頃山形では関西旅行が恒例であったが、我が高校だけはなく、京都、奈良は大分後に訪ねることになった。そんなことで、最初の時は、特に法隆寺を見学したことを覚えているが、駆け足であったと思う。
 南大門前に立ち、両側に続く長い土塀は記憶にあった。西院伽藍内へ入り、多くの古い寺院建築物の間を巡り始める。オフシーズンなのか、見学者は少なく、静かである。これとて目当てもなく、案内に従い、五重塔を見上げ、大講堂を通り抜け、金堂を覗いたら多くの仏像が林立している。私は知識もなく、興味も湧かない。廊下のような建物の方が古刹のポイントのように見え(写真上)、アングルを探した。案内所のお坊さん、金堂の像は13像中、10像が国宝と教えてくれた。鏡池前には、子規の句碑があり、“柿食えば・・・”で、私には、こちらの方が法隆寺である。大宝像院では、百済観音像などを見て、東大門を経て東院伽藍へ移動し、参拝後古色蒼然の夢殿回廊を一回り。こちらは太子とお札で知っているが、大分前のことである。

 総本山伏見稲荷大社へ参拝 駅へ戻って奈良駅へ行き、JR奈良線へ乗り換え伏見稲荷へ向かう。駅名が稲荷駅とは初めて知った。参拝に一回りしこの駅名には少し納得。私はこちらも二度目と思っていたが、初めての稲荷大社。
 直ぐ大鳥居が立ち、稲荷駅前から伏見稲荷参道。多くの参拝客で込み合い、それも欧米人も含む外国人観光客が多い。参拝者が交差する参道を行き、まずは本堂へ参拝。全国稲荷神社の総本山とあり、裏へも鳥居の朱色のトンネルが続き(写真下)、更にご本山稲荷山へ一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰と続いている。都内の稲荷神社でも連続する鳥居は見掛けるが、規模、長さが大違い。次の奥宮で、また孫達の成長等をお願いしUターン。次回の参拝で、本山稲荷山を廻るには、山歩きを覚悟して来なければならない。そのチャンスはあるだろうか。そんなことを考えながら、駅へ戻り、京都駅へ出た。(2019/09/16 K.K. 1283/1300)

 

◇日時 2019/8/27 ◇天候 晴 ◇交通費 現地分青春18切符8+190円 ◇資料 聖徳宗法隆寺「法隆寺縁起」 ◇歩数等 15,000歩 11km
「通過時間等」宿泊先7:30-JR鶴橋駅7:40-同天王寺駅7:58-同法隆寺駅8:30=法隆寺8:45/9:50=JR法隆寺駅10:11-同奈良駅10:23-同稲荷駅11:20=伏見稲荷11:20/11:45=JR稲荷駅11:49-同京都駅12:00-JR東京駅15:00-三田線大手町15:20-自宅16:00 

天満宮から御堂筋に芭蕉終焉の地を訪ねる

 今年の春大阪生駒山に登った(19.4.22)。その帰途大阪市内の地下鉄本町駅で、芭蕉句碑の案内に出会い、急遽地上へ出て難波別院南御堂を探し句碑を眺め、カメラに収めた。その時芭蕉終焉の地もこの辺りの筈と、スマホで検索し御堂筋へ出て、上下したが探せなかった。この度、また大阪へ行く機会があり、是非探したい。

 大阪天満宮に参拝 正午過ぎJR大阪駅に着き、友人で同業のMさんに会い、梅田で昼食しながら本日の用務の打ち合わせをした。幸い仕事は15時過ぎからで、その前に天満宮と御堂筋に寄りたいと伝え、JR北新地駅へ案内して貰った。JR東西線に初めて乗り、隣のJR大阪天満宮駅に下車し、案内図を確かめ地上へ出た。商店街の中左折すると裏参道で、天満宮へ導かれた。学問の神様道真公に参拝し、来年高校受験の北海道の孫の事をお願いし、賽銭はいつもより多目である。受験時期には湯島天神様へもお願いしたい。
 天満宮と大塩の乱 境内を巡ると、古い木造の山門や神殿で(写真上)、戦災は免れたが、あの大塩平八郎の乱で燃えたとある。中学か高校の日本史で習った事件で、スマホで調べると、天保の飢饉からの町民救済を求めての決起であり、一揆のような乱で、悪代官もいて、最近楽しんでいる水戸黄門漫遊記の筋書きのようでもある。神殿裏側に登竜門の案内があるが良く分からない。カメラに収め、後にゆっくり調べようと思う。
 徒歩で御堂筋へ 地下鉄南森駅から堺筋本町駅へ行き、徒歩で御堂筋のある本町駅へ出たい。駅員に徒歩と伝えて教えて貰い、ビルの地下街を歩く。あの船場のようだ。四つ目のビルで地上へ出ると御堂筋。同筋を左の方へ行ったが見当たらない。事前の調べでは、大通りの中の緑地帯に標柱だけが終焉の地を示していると思う。前回句碑があった難波別院南御堂もない。反対側かなと戻って、高速の下を過ぎると、前方の緑地帯にポツンと立つ標柱が見え、あれだと自動車に注意しながら近付くと、芭蕉終焉の地と刻んであった(写真下)。前回は、もっと南、心斎橋の方へ歩いてしまったようだ。

 遂に終焉の地碑 俳聖は、門人の諍いの仲裁に来坂中病臥に伏し、当地にあった花屋仁左衛門宅で亡くなった。1694(元禄7)年10月のことで、51歳、おくのほそ道の旅から5年後であった。“旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る”を詠み、辞世の句として知られ、今春、難波別院南御堂境内の句碑で確かめている。これで、私の俳聖の跡追いハイキングにも、おくのほそ道の大半を歩いたときは締めになるかもしれない。用務の時間が迫り、綿紡会館へ急いだ。
 先日、山形の読者から“奥の細道330年芭蕉展”の情報を貰い、日比谷に訪ねた。芭蕉後の蕪村達は、風流人、文人として俳聖を追跡、研究し作品を遺している。単なる追っ掛けの私は、場違いかなと思わざるを得なかった。(2019/09/14 K.K. 1282/1300)

◇日時 2019/8/26 ◇天候 晴 ◇交通費 現地分300円 ◇資料 日本メールオーダー社「大世界百科事典アルファ」1974年、5469頁 ◇歩数等 13,000歩 10km
「通過時間等」自宅7:50-JR東京駅9:02-同新大阪駅11:50-同大阪駅(昼食)12:06-同北新地駅13:26-同大阪天満宮駅13:35=天満宮13:40/14:00=南森駅14:05-堺筋本町駅14:15=御堂筋本町駅上14:35=芭蕉終焉の地碑14:45=用務地15:00

船橋県民の森からアンデルセン公園へ

 今回は近郊にしようとして、船橋のアンデルセン公園に思い当たった。ネットで四季の花々を検索すると時々ヒットし知っていた。現在ひまわりが見頃らしい。アクセスを調べると船橋も郊外で、バス利用。地図を見回していたら、北総線白井駅から県民の森を経てアンデルセン公園へのコースを思い付いた。距離があるが、私は歩きが主目的だからノープロブレン。

 北総線白井駅スタート 京成線を青砥駅から北総線に乗り換え、千葉へ入った。3年前(16.12.25)北総台地を歩いて以来の北総線で、千葉ニュータウン中央駅手前の白井駅に降り、スタート。県民の森へ向け、大通りを直進する。左右には、団地と銀行や郵便局はあるが商店は見えない。高校を過ぎ、川に突き当たりを左折したが、川沿いの道はなく戻って回り道し二重川を渡る。この辺りは地元の大きな農家が並ぶ。梨園を過ぎると県民の森。大きな森で、バーべ-キュー広場もあり本日も人出があるようだ。森内へ進入すべきか迷ったが、アンデルセン公園がメインだから、暑くなる前に公園へと、森端の道路を行く。
 県民の森からアンデルセン公園へ 今回、地図をスマホで写し保存している。見たいときは、胸ポケットから出し、拡大も出来、手軽で便利。県民の森西口前を通る。方向的には疑問だが、真っ直ぐに歩き大通りを右折。丁度バスが来て、アンデルセン公園経由とあり、正解であった。バス停先を左折すると公園西口。入園料を支払おうとしたら、高齢者はなしと聞き、ラッキー。園内マップを貰い、園内を巡る。船橋とデンマークの都市が姉妹都市で、現在はアンデルセン童話仕様の公園へ移行したとある。

 ひまわりは満開 晴天下家族連れが目立つ中、未知の洋花を眺めながら(写真上)、奥へのメルヘン丘へ入り向日葵畑へ。一面咲き揃い満開(写真下)。これまで見た花より小振りで丈が低く、黄色そのもので橙系ではない。カメラに収めがなら花に近付く。親子も写真を撮り合っている。デンマークの農家の前から、アンデルセン像を見上げて、風車の広場。レストランもある。ベンチで一休みし、暑さが増す前にと腰を上げ、自然体験ゾーンへ。池の橋を渡ると母子が水中に網を入れている。バケツを覗いたら、小魚とザリガニがいた。林の中の遊歩道を巡る。こちらは陽が差さず涼しいのに、歩くのは私一人。僅かな間ハイキング気分を味わって、西口へ戻る。
 船橋駅経由し都内へ 色々迷ったが、バス一本で船橋駅へ戻れるので、西口バス停へ。直ぐバスが来て、乗車。途中からバスは、昨年不動の滝へ歩いたコースを通り、夏見町を通過。当地から通う大学同級生がいて、彼は司法試験に合格し弁護士開業していると年賀状で知っていた。あれから50年、来月末大学主催の記念パーティがあり、会えるかなと期待している。
 京成船橋駅、同八幡駅から都営新宿線で帰途に就いた。(2019/09/11 K.K. 1281/1300)

◇日時 2019/8/24 ◇天候 晴 ◇資料 「ふなばしアンデルセン公園」平成30年6月 ◇歩数等 19,000歩 13km
「通過時間等」自宅8:05-新宿線神保町駅8:47-東日本橋駅9:01-北総線白井駅10:00=白井高校10:15=富ヶ岡橋10:25=県民の森10:35=アンデルセン公園11:05/11:55=西口バス停12:02-京成船橋駅12:58-新宿線本八幡駅13:20-三田線神保町駅13:45-自宅14:20

相模線、横須賀線を乗り切る

 ハイキングにのめり込んで以来20数年。歩く先の資料類は多い。地図やガイド、各地のパンフの外、JR全路線図も手許にある。古い時刻表から外しファイルしてある。これで、行く先の位置や交通アクセス検討に便利にしている。特に乗り鉄には欠かせない。今回は、その中「拡大図(東京付近)」で(写真上)、相模線から横須賀線を選んだ。

 八王子駅から橋本駅へ 相模線は、茅ヶ崎駅から橋本駅へ走る神奈川県内の路線だが、私は八王子駅から横浜線で橋本駅とした。新宿駅へ出て、中央線に乗り八王子駅で横浜線に乗り換える。乗り鉄には座席確保が先決で、始発駅だと可能性が高い。首尾良く座ることが出来、橋本駅を目指す。私が10年程前通った南大沢キャンパスの南側を走り、少しは記憶にある風景が見える。直ぐ橋本駅に着き、ホームを移動し相模線へ。橋本駅構内も久し振り。やはり南大沢キャンパス時代に数回乗降した。
 相模線乗車 こちらも始発で長椅子に座り茅ヶ崎駅を目指す。相模線は1,2度乗っただけの線で、乗り切ったことはない。左右は田園地帯で、右手に相模川やその河原が見えると思う。知る駅名は原当麻駅や相武台駅だけ。弟と小田急線座間駅から歩いたのは相武台駅先のひまわり畑へだった。その時期だが今年はどうだろうか。海老名駅、厚木駅を通過し、小田急線と接近し乗り換え可能駅で、一度走ったことを思い出したが、どちらの駅であったろうか。相模線も後半になり、寒川駅では寒川神社に詣でたことがあり、大きな由緒ある社であった。茅ヶ崎駅に到着し、相模線は終わり、東海道本線で、横須賀線に乗るべく大船駅へ。

 横須賀線久里浜駅往復 車中スマホで、横須賀線を少し調べてみた。同線は大船駅から久里浜駅までの短い路線と知った。私は、東京駅、久里浜駅間の通勤路線と思っていた。1889年(明治22)年開設され横須賀駅迄で、軍港都市への輸送のためであったという。1944(昭和19)年久里浜駅へ延長された。三浦半島の真ん中を走り、鎌倉駅、逗子駅を通過し、低い山々の間からトンネルが多いが、皆短い。田浦駅は、梅林があり初春に二度ほど来ている。左手が横須賀港で、繋留された大きな数隻の軍艦が見えた(写真)。現在でも変わりはないのだ。横須賀には、祖父方の遠戚の方がおられて、子供の頃夏休みには帰郷し、遊びに寄ってくれることがあった。お互いに消息が途絶えて久しい。そんなことを思い出しながら、久里浜駅に着き駅前へ出た。初めての駅で、駅前は空き地のような風景。先に京浜急行の高架が見え、あちらは三崎口駅往復に良く利用している。駅舎をカメラに収めて、東京行きの横須賀線に乗った。(2019/09/08 K.K. 1280/1300)

◇日時 2019/8/18 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符7 ◇資料 「JR全路線図・拡大図(東京付近)」 ◇歩数等 8,000歩 6km
「通過時間等」自宅10:00-JR巣鴨駅10:31-同新宿駅10:51-同八王子駅11:50-同橋本駅12:14-同茅ヶ崎駅13:23-同大船駅13:37-同久里浜駅14:20/14:40-三田線巣鴨駅16:40-自宅17:10

水戸線に乗り水戸城跡を巡る

 8月に入り、青春18切符を既に購入している。今回は、Sさんを誘い水戸へ行くことにした。彼は水戸は未訪の地という。往きは宇都宮線で小山駅へ行き、水戸線に乗り換え水戸駅である。復路は常磐線にし、新松戸駅で武蔵野線とすれば、武蔵浦和駅へは近いだろう。朝は、赤羽駅に待ち合わせた。

 ハイキング先と水戸線 宇都宮線小山駅までは、昨年暮れ2人で乗車し両毛線に乗り換えたが、今回は反対方向の水戸線で、タイミング良く友部行きが待っていた。水戸線は数回乗ったがいずれもハイキングである。結城駅は結城城跡を訪ねた時乗降し、結城紬を見て魅せられたことがあった(15.6.28)。下館駅からは真岡鐵道が分岐し、益子焼き見学に来ているし、奥の茂木駅からは那珂川へ歩き簗場で鮎を食べた(96.8.17)。電車は筑波山の裏を走り、岩瀬駅を通過。大分前だが、関東ふれあいの道が筑波山へ続く縦走コースに挑戦したが、途中でリタイアしてしまった(00.4.1)。Sさんにそんな話しを紹介しながら乗り続ける。笠間駅は水戸線の中心で、笠間稲荷や城跡があり、躑躅も有名で、花友と訪ねている(17.4.30)。先日、母親の実家に疎開した縁で、坂本九の歌碑が当地にあるとテレビで観たとSさんに話したら友部駅に着き、発車メロディが“上を向いて歩こう”で、2人は顔を見合わせてしまった。
 水戸城跡と弘道館見学 友部駅で常磐線に乗り水戸駅到着。駅前の黄門様一行の銅像を案内し、市内へ。正面の大通りを行き、弘道館へ右折するが、三の丸濠跡へ出てしまった。城跡内へ入り、偕楽園からの戻りに二度ほど歩いたルートを通り、県庁脇から水戸藩の藩校弘道館へ入館。重文の正庁(写真上)から内部を一回りし、見学。幕末に徳川斉昭公が推進し、藩士とその子弟が学んだという。あの黄門様が編纂した“大日本史”が教科書として使われ、展示してあり(写真下)、思わずカメラに収めた。当館は全国の藩校の中でも有名で、他藩から多くの見学者が訪れたが、その中に吉田松陰もいたと知った。

 御三家の水戸城は広く、弘道館の前が二の丸跡でありその先で、大手門の再建工事中。深い濠跡を橋で渡って本丸跡だが現在は遺構はない。濠の底地を水郡線が走っている。さらに先の本丸跡に水戸一高があり、薬医門が移築され、シャッターを切った。戻って、水郡線に沿い駅へ戻り、昼飯用弁当を求め、常磐線へ乗車。
 霞ヶ浦を眺める 土浦駅に途中下車し、霞ヶ浦へのルートを確かめ往復する。わが国二位の広さの湖というが、眺めた位置が悪いのか、そんなには見えなかった。我孫子駅からは各駅停車に乗り、新松戸駅で武蔵野線とし、我々の終点武蔵浦和駅に着いた。Sさん、今回も有り難うございました。またお付き合い下さい。(2019/09/06 K.K. 1279/1300)

◇日時 2019/8/11 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符5、6 ◇資料 「水戸市観光案内」◇歩数等 9,000歩 6km
「通過時間等」自宅8:06-JR板橋駅8:33-同赤羽駅8:57-同小山駅10:07-同友部駅11:19-同水戸駅11:40=三の丸濠11:55=弘道館12:00=薬医門12:40=JR水戸駅13:00-同土浦駅13:45=霞ヶ浦湖畔14:05=JR土浦駅14:32-同新松戸駅15:20-同浮間舟渡駅16:46-自宅17:15

最北の美幌峠に立ち屈斜路湖を眺める

 今年の渡道は、美幌峠へのバスの便が開始した時期に合わせた。十勝音更からの帰路は、網走から美幌峠を目指した。前日網走駅前に泊まり、峠へ向かったのであるがとんでもないミスをしてしまった。生来の早呑み込みとそそっかしさの所為である。一瞬峠行きは諦めようかとの思いが頭を掠めた。それでも、峠に立つことが出来た。

 女満別駅か、美幌駅か 北海道滞在最終日、美幌峠へ向かうべく、朝8時過ぎ網走駅で石北線に乗り、女満別駅に降りた。しかしバス停はなく、駅で聞いたがないという。駅前をウロウロしようやく気が付いた。峠行きバスは、女満別空港発だがバス停のある駅は女満別駅ではなく、二つ先の美幌駅ではなかったかと思い、スマホで検索したら美幌駅と分かった。駅の方にタクシー会社の電話番号を教えて貰い、タクシーを呼ぶ。時間、費用とも、何とか間に合い、美幌駅でバスを待った。
 峠の先は屈斜路湖 美幌峠は二度目である。若い頃に訪ねた思い出から、学生の頃見た小林旭の大草原の渡り鳥シーンと重なり、今回再訪を計画。美幌駅は記憶になく、古い鉄道車輌のある倉庫のような展示室が浮かぶだけ。定刻に阿寒バス社のバスが来て、小型バス内は7人の乗客。市街地を出て、峠へ走った。高原地帯へ上がり、峠頂上手前に降りると周囲は緑一色の草原だが、私のイメージと同じではなく、前回の記憶とも違うと思う。観光客の多い中、先ずは峠展望台へ坂道を上がる。途中に唄が流れ、美空ひばりの“美幌峠”の歌碑があるが、私は初めて聞く唄。カメラに収め、展望台へ。私の予想に反し、反対側は落ち込みその先は大きな屈斜路湖(写真上)。旭の渡り鳥が馬で渡った大草原ではなかった。

 “君の名は”のロケ地 峠の道の駅へ入ったら、当地がロケ地になった映画君の名はの第二部が紹介され、当時の写真が展示してある。主演佐田啓二と岸恵子の有名な映画だが、当地も舞台になりロケが行われ、アイヌの娘役で北原三枝も出ていたとある。初耳で、そう言えば、歌手織井茂子が“クロユリは恋の花 アイヌの神のタブーだよ・・・”と唱う、君の名はの主題歌があり、それで符合すると知った。昭和20年代の後半で、よくこんな最北の地を舞台やロケ地にしたと感心してしまった。
 バスの時間になり、私は女満別空港行きに乗り、峠を下った。美幌駅での休憩中、駅前に“君の名は”の碑と“まちこ杉”があった(写真下)。ここの駅でも春樹と真知子の擦れ違いがシーンが撮られたようである。帰宅後、アルバムを探したら見付かり、峠は“平成元年8月25日”の日付で、まちこ杉の写真もあった。あの時は、確か弟子屈に泊まり、バスで摩周湖、硫黄山、屈斜路湖、そして美幌峠で、その後美幌駅へ下りて阿寒湖、釧路だったと思い出した。若い頃にした初めての北海道の旅で、30年前は遠い過去であった。 (2019/08/30 K.K. 1278/1300)

◇日時 2019/8/3 ◇天候 晴 ◇交通費 5,630円 ◇資料 ひがし北海道観光協議会「2019ひがし北海道」 ◇歩数等 9,000歩 6km
「通過時間等」網走宿泊先8:30-JR網走駅8:40-同女満別駅9:10-同美幌駅10:00-美幌峠10:40/11:55-女満別空港15:05-羽田空港16:00-三田線三田駅16:30-自宅17:15

釧網線原生花園駅に下車し北の花を楽しむ

 十勝音更からの帰路は、北見又は網走へ回り、女満別空港から帰京と決め予約していた。美幌峠へのバスも走り出し、帯広駅から網走駅へと鈍行利用で、持参の青春18切符が役に立つ。釧路駅からの釧網線は、この時期原生花園駅に臨時停車すると分かり、寄ることにした。北の夏の野花を眺めたい。それも原生花園で期待が膨らんだ。

 釧網線原生花園駅下車 17時前、原生花園駅に降りた。未だ明るい中、前方に湿原が広がり、左手先には端正な斜里岳が見える。降りたのは私一人だが、見物客はいる。インフォメーションセンターがあり入ったら閉店準備中。案内パンフもない。問題は、次の網走駅行きが2時間30分後。夕食で時間稼ぎも出来ない。バス停を見付け、1時間後網走行きがあると知り、花園巡りを開始。
 湿原に設けられた遊歩道の木道へ進む。花は数種類咲いているが、名前が分かるのはハマナスだけ。花が大きいように思う(写真上)。後に調べようとカメラに収めながら湿原へ。大分先には馬が放されている。地図では濤沸湖とあるがこの時期、湖水は退き草原から湿原のよう。
 オホーツク、知床、砂丘の花々 踏切を越し海側へ。砂丘へ上がると、オホーツクの大海が直ぐ前だが、本日は波も静か。8kmも海岸線が続き、右手先には知床半島が見えるも、もう山々は確認できない。砂丘に花々を求め、カメラに写しながら巡る(写真下)。ハマナスの外、エゾフウロやエゾカワラナデシコ、キタノノコギリソウ、ハマヒルガオ、ツリガネニンジン、アキカラマツ等。フウロのハクサンフウロやアサマフウロは高山植物として有名たが、北の国では砂丘に咲いている。
 バス停にいると、一頭の馬が遊歩道へ近付いて来た。水飲み場があり、勢いよく飲んで、また仲間の方へ戻って行った。時間通りバスは来たが、網走駅前迄は結構時間がかかった。

 鈍行で帯広、釧路、網走へ 今朝遅く娘に帯広駅へ送って貰い、釧路行きに乗車。車内も暑いが扇風機。昨年釧路駅から乗っている(18.6.8)ので、大凡の駅や風景は記憶にある。牧場風景から山へ入って越し、右に海が見えて進むと釧路駅であった。釧路駅で昼食を取った。
 網走行き2両の気動車は、外国人旅行者も交え満席状態。こちらも扇風機が回っている。程なく左手に釧路湿原を眺めながら、塘路駅を過ぎる。ここまではノロッコ号で往復したこと(10.7.16)があった。湿原を過ぎると森の中を走り、標茶駅から摩周駅になる。以前弟子屈駅と言い摩周湖の最寄り駅で3年前乗降した(16.6.3)。原生林の中になり各駅間も距離がある。清里町駅付近から深い森を出て家並みが見え出し、右手に斜里岳(1.547m)が聳えている。窓越しにシャッターを切った。知床斜里駅から浜小清水駅を越し原生花園の大湿原へ入った。(2019/08/25 K.K. 1277/1300)

◇日時 2019/8/2 ◇天候 晴 ◇資料 JR北海道「釧網本線絶景の旅」2019、同「天然の花畑小清水原生花園ウォーク」 ◇歩数等 7,000歩 5km
「通過時間等」K宅9:10-JR帯広駅10:20-同釧路駅(昼食)13:10/14:12-同原生花園駅16:55/17:52-網走駅前宿泊先18:30

夏の十勝士幌に孫達と遊ぶ

 音更東士幌の長女宅滞在2日目、こちらも30℃を超し暑いが蒸し暑さはなく、夜は過ごしやすい。本日は、車で案内するから行きたい所はと聞かれたが、少し考えて、”富良野の五郎の家”と言ったら、遠すぎるという。層雲峡の方が近いと言われ、距離感覚が分からない。お任せにし、孫3人と車に乗った。

 ナイタイ高原牧場へ 東士幌の河田牧場を出た車は、牧場に点在する酪農家の間を北上していると思うが、私には同じ風景が続き、何処を走っているか分からない。もう10回程は来ているが、広大な十勝の牧場風景に惑わされている。山へ近付き、山腹に切られた舗道を上がる。左右は高原牧場だが、牧草地に牛や馬の姿は見当たらない。そうしたら一本の木下に、牛10数頭程が丸く固まっていた。牛達の暑さ凌ぎという。河田牧場の牛達も暑さで、乳の出が落ちていると聞いた。ナイタイ高原牧場のテラスに着き、眼下に綠一色の高原を眺めながら、孫達とご当地アイスクリームを食べる。久し振りのアイスクリームは美味しい。ミルクが違うのか。標高800mの山腹だがそう涼しいとは思わない。
 全貌を現したタウシュベツ橋激 次は、上士幌糠平のひがし大雪自然館。名前を聞いて二度目と思い出した(09.6.13)。同じメンバーであるが、今回は長孫が留守でいない。羆やエゾシカの剥製があったと思う。館は改装されて、位置は違っていたが再会した。記憶と違い剥製は少し小さいように見えた。孫達も中学生2人と小五で静かに観ている。一回りし、館を出た。私は、此処まで来たら、タウシュベツ橋は近い筈と是非にとお願いし、回って貰った。旧国鉄士幌線の鉄橋であったがダム建設で線路が付け替えられて、放置された橋。糠平湖ダムの水位で見え隠れすることで人気になり、一度孫達のこちらのお祖父さんに案内して貰ったが、僅かしか見えなかった(12.7.17)。夏場の渇水期に期待。舗道沿い駐車場に降り、原生林下の小径から湖畔へ出た。樹林の間から覗くと、幻の鉄橋は全体が姿を現していた(写真上)。慌ててズームにし、シャッターを2,3度切った。そんな私の側で、孫達はクール。復路で、代わった士幌線跡を跨いで舗道へ出た。

 孫達と山ノ湯を楽しむ 糠平温泉で入浴。古い木造旅館で、風呂場も板張りの如何にも山ノ湯らしい(写真下)。丁度良い加減で、我々だけで温泉を楽しんだ。嘗ては永六輔達文化人の句会も開かれたとあり、色紙等が飾ってあった。
 最後に、上士幌鉄道資料館に入館。再訪で、孫達と資料を見学。1925(大正14)年に地元の大歓迎を受け開通したが、1987(昭和62)年廃止された。森林伐採、木材の積み出しに活躍したようである。帯広まで繋がり、孫達の祖父母やその兄弟達も通学に利用していたという。長孫は、帯広の高校へはバス通学である。帰宅後、隣の祖父母宅でジンギスカンをご馳走になり、麦酒はサッポロClassicであった。(2019/08/23 K.K. 1276/1300)

◇日時 2019/8/1 ◇天候 晴 ◇資料(株)カーチ「ナイタイテラス」、上士幌町「ひがし大雪自然館」2016、上士幌町鉄道資料館「心に士幌線は走る」◇歩数等 8,000歩 6km
「通過時間等」K宅11:30-ナイタイテラス12:30-ひがし大雪自然館13:30-糠平湖14:10-糠平温泉中村屋(入浴)14:30/15:25-上士幌鉄道資料館15:35-K宅16:50

富良野線を乗り切り孫達が住む音更へ

 夏になり、今年も渡道を計画。北海道は夏季に観光地を結ぶバスの便が良くなり、待っていて7月末から8月にした。処が高2の孫のアメリカホームスティに重なってしまった。ご免なさいをして、計画通りにした。旭川から富良野線で富良野を経て、根室本線に乗り換え新得へ出て、帯広にした。JR北海道乗り鉄である。

 旭川から富良野線で美瑛へ 旭川空港から旭川駅へ出るのは何年ぶりだろうか。長女達が美深に住んでいた頃は数度経験している。旭川駅は建て替えられて近代的な駅になっていた。最初の美深行きの時、家内と地下の食堂で、珍しい鯖味ラーメンを食べたのを思い出した。
 一台前の美瑛行きに乗れ(写真上)、旭川駅を出たディーゼル車は、郊外住宅地の小さな駅停車を繰り返して走り、程なく両側が畑地になり、この時期トウモロコシ畑が広がっている。白い花は蕎麦か。背が低いように見える。先程降りた空港が左手奥の地を通り、林の中を走り美瑛駅であった。旭川駅美瑛駅間は初めての乗車。駅前は二度目で見覚えがある。前回は新得駅、富良野駅からで、新栄の丘とケンとメリーの木を往復し、バスで旭川空港であった(14.7.20)。飲み鉄用に地酒男山を求めた。
 富良野行きに乗り継ぎ、林を出て、右手にラベンダー畑を見ながら、列車は富良野駅へ走った。もう花の時期は過ぎ、臨時駅での乗降も少ない。富良野駅構内で昼飯にし、案内所で情報を得たが、北の国からの展示館は閉鎖されていた。五郎の家は徒歩では無理な位遠いと分かった。

  代行バスで狩勝峠を越す 根室本線東鹿越駅新得駅間は3年前の台風被害で不通になり、現在バス代行とは知っていた。山中へ入り東鹿越駅に下車しバスへ。バスは山村にある幾寅駅、落合駅に寄り僅かな客を降ろし、坂を上がり続ける。美瑛を歩いた時一度新得駅から富良野駅へ乗ったが、この辺りの根室本線はジャングルのような深い森の中の沢沿いを走ったのを思い出した。台風被害と復旧困難は分かるような気がする。
 峠は狩勝峠で、一度は訪ねたいと思っていた。長い下りを経て、新得駅に着き(写真下)、待っていた帯広行きに乗る。新得は、我が故郷東根と縁があり、明治期の最初の入植者が東根からの13戸で成功し、現在では姉妹都市という。今年東根市長に聞いたら、数回訪問していると答えてくれた。蕎麦が名産で、駅構内の製品展示のショウケースは蕎麦が中心で、カメラに収めた。
 帯広は近く、十勝清水駅、芽室駅から、孫達の父が通った高校のある西帯広駅を過ぎ、下車駅であった。音更へはバスも予定したが、娘が車で迎えてくれた。この度は孫達の同乗はなく、初めてのことで成長の証しであろうか。(2019/08/21 K.K. 1275/1300)

◇日時 2019/7/31 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符3 ◇資料 ふらの観光協会「富良野・美瑛広域観光まっぷ」令和元年年6月  ◇歩数等  7,100歩 5km
「通過時間等」自宅5:45-三田駅6:30-羽田空港7:30-旭川空港9:55-JR旭川駅10:39-同美瑛駅12:08-同富良野駅14:19-同東鹿越駅15:13-同新得駅16:35-同帯広駅17:10-長女宅17:50

埼玉白岡に古代蓮見物へ

 7月も半ばを過ぎ、蓮の花も咲く頃である。埼玉白岡に古代蓮を巡る駅からハイキングパンフを入手しタイミングを計っていたら、ネットでも咲き始めたとある。白岡は、JR宇都宮線沿線だが、大宮の先で、そう遠くはない。同僚には通勤していた方もいた。前回の秘湯の会集合地久喜駅の手前で、私は通ったことはあるが、乗降したことはない。本日曇りだが雨空ではなく、ようやく梅雨明けの兆しだろうか。

 白岡地元の社寺へ スタート地は新白岡駅。蓮花情報はないかと改札付近を見回したがない。駅前は、いかにも新興住宅地のような風景で、空き地の中に新しい住宅が建ち、商店街もない。当駅の設置もそう古くはないと思う。線路沿いに蓮池への案内板を見付け確認し、ハイキングコースに従い、反対側の観福寺へ歩き出す。疎らな住宅街を過ぎ農家のある地になり、野牛久伊豆神社があり、その先が観福寺。通りから寺と社を覗き軽く頭を下げ、駅へ戻る。コースは西側を通るが、先程見付けた蓮池への案内に頼ることにした。
 蓮の花は咲いてはいるが 宇都宮線と住宅街の間の通りを行き、右手に大きな水槽のような池があり、近付くと目指す蓮池であった。蓮の葉は池を覆っているが花は僅かで、ポツリポツリのよう。正面の見物台から見回すが、ピンクの花は、葉の数にしては少ない。千葉公園でみた大賀蓮(08.7.24)は花の数といい、色付きといい見事であったと思う。しかし、行田の池(10.8.8)では本日と同じでパラパラあった。ここのも大賀蓮とあり、これから咲くのかなとも考えたが不明。それでも、大きく咲いた花を狙いカメラに収め(写真上)、薄ピンクの花に感謝し池を離れた。

 再び地元社寺を巡る 次のコースポイントは須賀神社だが、距離がある。集落を抜けて、一面水田や畑の地帯。ひと昔前の農村風景である。そこに切られた舗道の端を次の集落へと歩く。故郷山形の水田地帯は周囲は山だが、当地は関東平野のど真ん中で広く、山は見えない。コース通りに歩いたつもりであったが、神社はなく、水郷の橋を目印に戻ったりして、ようやく須賀神社に辿り着き、参拝。就活中の長孫のことをお願いした。直ぐ先が篠津久伊豆神社と浅間神社。境内で休憩し、水分を補給する。白岡には大きな八幡宮があり知っていたが今回のコースにはなく、案内標識に出会うも遠く、寄るのを諦めた。
 腰を上げ、最後のポイント興善寺へ。大通りへ出て、直進し続けると右手に参道があり、山門から奥の本堂前へ進み手を合わせた。境内に大きな石の達磨像があり(写真下)、思わずシャッター切った。バス停があるが駅へのバスの便はなく、歩き続ける。大通りから用水路脇の道へ出て、白岡駅へ向かう。左手に宇都宮線が見え始め、駅前商店街を通って駅であった。駅からハイキングコースは歩き通したが、蓮の花は期待には沿わず、残念である。(2019/08/17 K.K. 1274/1300)

◇日時 2019/7/23 ◇天候 曇り ◇交通費 1,370円 ◇資料 JR東日本駅からハイキング「・・・古代蓮の里白岡を巡る」2006年 ◇歩数等 19,000歩 14km
「通過時間等」自宅12:40-バス停12:58-JR浮間舟渡駅13:16-同大宮駅13:41-同新白岡駅14:10=観福寺14:20=蓮池14:35=須賀神社15:15=篠津久伊豆神社15:25=興善寺15:40=JR白岡駅16:05=同浮間舟渡17:00-自宅17:25

友人と青梅線から南武線の乗り鉄を楽しむ

 学校の夏休みの時期に入り、青春18切符が発売され、今回も求めた。前回Sさんが奥多摩へ行ったことがないと聞いていたので、まずは青梅線に乗り、奥多摩駅を往復しようと連絡したらオーケーを貰った。途中の御嶽駅近くにある玉堂美術館も案内したいと思う。そして、立川駅へ戻り、南武線へ乗り継ぎ、川崎駅から新橋駅へ出る予定を組んだ。

 奥多摩駅を目指す 8時前に板橋駅に落ち合い、新宿駅発ホリデー快速奥多摩行きに乗車。ハイキング用電車で、早い時間の発車だが、停まる駅が少ない。以前は良く利用したが、久し振りで立川駅から青梅線(旧奥多摩線)へ入り、奥多摩駅へ向かう。青梅駅は今春花見ハイクに来ている。昨年末は軍畑駅に降り高水山へ登った。Sさん、山中の深い樹林帯を走る路線に、開発時の工事の苦労に思いやる。御嶽駅の次は終点奥多摩駅で、下車。私は、数度来ているが、最近では海沢三滝ハイク以来だろうか。
 多摩川渓谷を眺める 駅前から街道へ出て、多摩川に架かる昭和橋へ案内し、橋上から渓谷を眺める。私の好きな風景で、まだ梅雨が続き流れは多いが、釣り人が見え、鮎だろうか。少し戻って氷川神社に参拝。杉の古大木は健在であった。谷川へ近づき吊り橋を往復。ここらは東京都内かと思うような深い谷川風景である。駅舎は山小屋風に改装されていて(写真上)、カメラに収めた。また電車に乗り、右下に時々多摩川を見下ろしながら、御嶽駅へ。青春18切符は途中下車が自由で、良い。
 玉堂美術館へ 駅前正面の橋を渡り、袂の細道を降り玉堂美術館へ入館。大分前に友人に連れられて来て以来3,4度訪ねている。芸術に疎い私でも、日本画は分かりやすく好きである。今回の展示中の画は、渓谷での釣りや筏流しもある谷川風景で、時節を表している。川合玉堂は、戦前に文化勲章受章した大画家であるが、疎開し青梅に住み着いたという。観賞者が少ない中、一回りし、隣のレストランで、昼食。

 私は、早速清酒を注文。隣の駅にある醸造元の沢乃井である。Sさん、本日車でないので付き合ってくれたが、殆どは私が戴く。沢乃井は旨い。一昔前の話だがエリザベス女王が来日した時宮中晩餐会で出されたのが都下の地酒沢乃井であったと思う。今回は車中飲みはやらなくて済みそう。吊り橋を渡り、駅へ。多摩川をラフティングボートが下って行った(写真下)。
 南武線乗り切る 青梅駅で乗り換え、立川駅に着く。まだ時間があり、予定通り南武線ホームへ。私は、ハイキングの際登戸駅前後では南武線を利用しているが、乗り切ったことはない。Sさんもそうと言う。登戸駅を過ぎ、若い頃を思い出した。多摩川河川敷グランドへ職場の野球に来たことがあり、また、沿線に住む同級生がいて狭いアパートに泊めて貰ったこともあった。電車は川崎市内へ入り、高層マンション群の間を走った。以前は工場地帯と思っていたが、一変していた。我々の終点は、新橋駅近くの”最上川”蕎麦店で一致し、川崎駅で東海道線の上り電車を待った。(2019/08/10 K.K. 1273/1300)

◇日時 2019/7/21 ◇天候 曇り、雨 ◇交通費 青春18切符1 ◇資料 ◇歩数等 8,000歩 6km
「通過時間等」自宅7:20-JR板橋駅7:58-同新宿駅8:19-同奥多摩駅9:55/10:30-同御嶽駅10:55=玉堂美術館(昼食)11:05/12:05=JR御嶽駅12:19-同立川駅13:35-同川崎駅14:20-同新橋駅(反省会)14:50-三田線内幸町駅15:20-自宅16:05

関東ふれあいの道栃木県23「ヤシオ咲く庚申のみち」

 今年の秘湯の会は、栃木足尾の庚申山荘泊に決まっていた。関東ふれあいの道だが未踏であり、調べるとコース後半は厳しい登山道で、私には久し振りの本格的な山歩きになる。どの位歩けるか今後の目安にしようと準備した。処が梅雨が続き一度は延期したが、今回も2日目は雨の予報。ザックは最小限の荷物にし、軽くしたが、雨具は入れた。

 足尾銀山平、一の鳥居 宇都宮線久喜駅を8時に出発。今回は会長、百名山男Hさんの3人。車は埼玉から一旦群馬へ入り、渡良瀬渓谷を眺めながら栃木の足尾へ進み、渓谷を離れ銀山平に着く。国民宿舎かじか荘先に車を駐めて、スタート。最近は専ら里歩きで脚に自信のない私は、先行させて貰う。途中で追い越されると想定。左に深い谷川を眺めながら、林道を行く。舗道が砂利道になり、車が追い越して行った。通行禁止の筈で、後に山荘の管理人と分かる。天狗の投げ石と呼ばれる自然の集石地を過ぎると、一の鳥居前で、1時間10分経過であった。腰を下ろし昼食を取っていたら、2人が到着。直ぐ先の庚申七滝へ。狭い沢を激流が走り、流れ落ちている(写真上)。
 山道を上がり続け庚申山荘へ ここからが本格的な上りで、また先行。雨が降り出す前に山荘に着きたい。鳥居前から沢を渡り、石が転がる山道を上がり続ける。傾斜はさほどではない。靴は、登山用もあるが、軽くいつも履いているハイキング用にした。鏡岩で休憩。私にしては順調だろう。ここからは傾斜も増し、岩ゴロ道になる。ストックを使い足場を確かめながら、一歩、一歩進む。沢を離れ、夫婦蛙石、仁王門石を通過し、一層傾斜が増すが山道とはこんなもんだろうとゆっくりと上がる。林上に空が見え始め、先程山荘へ1km地点を通り越した。猿田彦神社跡へ上がって左折し、沢の中のような道をこなすと、山荘が見え始め、庚申山荘であった(写真下)。ザックを下ろし、休憩していると2人が上がって来た。彼らはザックが重く、レトルト食品や飲み物を背負って来てくれた。

 山荘に素泊まり 2人に、関東ふれあいの道コース終点天下見晴は先だから、そこを極めようと促され、山荘を出て奥へ再度歩き出す。20分程で着いたが、鎖付き岩場で、霧で展望もないようで、2人に任せ私は下で待った。
 夕食は会長持参のカレーを食べながら、同宿者と管理人も入り、山の話し。我々持参の酒が切れたら、管理人が日本酒を出してくれた。2階の広い一間で就寝。
 2日目は予報通り雨。会長調理の朝飯を戴き、雨具を着け、また私が先に下り始める。雨に濡れた石や岩は怖く、ストックに頼りながらフラットフットを心がけ慎重に往路を下り続ける。一度の滑り掛けもなく、一の鳥居へ下りて一安心。林道途中で、Hさんに追い付かれ、会長も少し遅れて駐車場到着。かじか荘で、温泉に入り疲れを癒し、昼食をして、帰途に就いた。皆さん有り難うございました。お陰様で無事往復し、今後の山歩き継続に自信になりました。(2019/08/05 K.K. 1272/1300)

◇日時 2019/7/13,14 ◇天候 曇り、雨 ◇交通費 1,140円 ◇資料 栃木県監修「関東ふれあいの道栃木県23 ヤシオ咲く庚申のみち」 ◇歩数等 20,000歩 15km
「通過時間等」自宅6:20-JR板橋駅7:00-同赤羽駅7:10-同久喜駅8:00-銀山平11:30=二号橋11:40=見晴橋12:05=笹美木橋12:20=一の鳥居12:40/13:00=百丁目13:30=鏡岩13:35=庚申山荘14:40  同山荘8:05=仁王門石8:30=夫婦蛙石8:40=鏡岩8:55=一の鳥居9:35=銀山平(入浴、昼食)10:40/13:00-JR桶川駅16:50-同赤羽駅17:25-三田線新板橋駅17:45-自宅18:10

3度目に見学出来た関口芭蕉庵

 最近、俳聖芭蕉翁のおくのほそ道を歩いている。先日も、故郷山形へ帰り、尾花沢から大石田を訪ね、句碑等を確かめて来た。芭蕉の江戸でのルーツは深川の芭蕉庵であるが、その前に神田川の側に住み、その跡が現在も遺されているとは知っていた。文京区にある関口芭蕉庵である。処が、昨年末から2度訪ねたが閉館中であった。新宿への用事の帰途にまた寄った。3度目の正直はなるかである。

 早稲田駅から歩く 今回は、いつもと同じアクセスルートでは面白くないと、東西線早稲田駅から歩いた。駅を出たが、現在地も不明な初めての地。いつもの山勘で、北西方向へ下れば、早稲田大学周辺だろうとスタート。込み合う住宅街の下り坂をジグザグを繰り返しながら行くと、校舎風の建物があり大学キャンパスの端のよう。そして間もなく、大学正門付近のバス停へ至り、ここまで来れば関口芭蕉庵へは数回歩いている。
 大学裏から目白通りへ出て、また住宅街を抜け神田川の橋を渡り、庵に到着(写真上)。さて本日は開館の筈と入口へ回ると、開いていた。前2回もネット上では開館の日であったが何故か閉めてあった。近くに住む友人に聞いたが、ボランティアの方が管理し、その方の都合であるらしい。
 古池や句碑 早速庵内を回る。他の客グループもおられて、狭い庭で擦れ違う。様々な石碑があるが、芭蕉句碑を探すと、池の側にあった(写真下)。’古池や 蛙とび込む 水の音’ で、古池は、瓢箪池で、私は、前回訪ねた時(00.5.14)、ここで詠んだ句と理解していた。その後、深川芭蕉庵にあった池を詠んだというのが有力のようだ。
 俳句や句碑に疎い私は、ご当地俳句をその地に建てるものと思っていた。処が歩き回っていると、そんなことはなく、芭蕉句碑は、翁未訪の全国各地にあると知った。建立者の好みの句を選んでいるのだ。

 「史蹟関口芭蕉庵案内記」 広くはない庵の庭は、草木に覆われ、古池も回りは繁みに近い。前回回れた土手へは進入禁止とある。亜熱帯風の高い樹は芭蕉の樹だろうと、カメラを向けた。帰り際、現芭蕉庵建物内で、「史蹟関口芭蕉庵案内記」を求めた。それによれば、当時34歳の芭蕉は、郷里伊賀から江戸へ出て、1677(延宝5)年から深川へ移る迄の4年間、当地に住み神田上水の改修工事の監督をしたとある。芭蕉が江戸で名声を得る出発地と言えよう。当然句を詠み宗匠の立場であったようだ。3度目の正直にして見学叶い、庵を後にし、都電早稲田駅へ向かった。
 本日午前は、関西在住の友人Yさん宿泊のホテルを訪問し、懇談した。そして、先日完成した1200紀行本を贈呈した。(2019/07/27 K.K. 1271/1300)

◇日時 2019/7/6 ◇天候 小雨 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 史蹟関口芭蕉庵保存会「史蹟関口芭蕉庵案内記」平成26年 ◇歩数等 13,000歩 9km
「通過時間等」自宅9:00-大江戸線都庁前駅9:50-ホテル10:00/10:40=JR 新宿駅11:00=新宿御苑11;30=線新宿三丁目駅11:44-東西線九段下駅11:57-同早稲田駅12:10=関口芭蕉庵12:25/12:40=都電早稲田駅12:50-三田線西巣鴨駅13:10-自宅13:35

福島に文知摺観音を訪ねる

 故郷滞在の最終日、庄内鶴岡を歩き羽越本線に乗り新潟経由で、帰京の予定であった。朝の天気予報に庄内地方は雨、それも強い雨とあり、断念。山形新幹線で帰ることにし、途中の福島で、おくのほそ道コース文知摺観音に立ち寄ることにした。先月飯坂温泉に泊まった時、少し調べ情報はある。今回の帰郷は雨に振り回されている。

 文知摺観音を往復 福島駅に降りると雨は落ちて無く、案内所で文知摺観音へのバス時間を尋ねると1時間後という。途中の岡部迄は10分後にあり、歩けば3km程度だろうといつもの山勘で、保原行きに乗車。市内を出て阿武隈川を渡り岡部バス停に下車し、バスは左折したが私は、相馬への国道を直進し続ける。
 文知摺観音迄はバス停4つだから遠くはない筈と、郊外も田園地帯を歩く。正面の里山の山麓辺りと見当を付け、大きく右へカーブし集落を越すと、小学校前に文知摺観音への参道の案内があった。
 入口に着き、境内へ入ると芭蕉像が出迎えてくれた。直ぐ、鏡石とも呼ばれる文知摺石があり(写真上)、芭蕉句碑は隣の岩の上にあった。当地には、京から下った役人と長者の娘との悲恋伝説があり、役人が詠んだ”みちのくの忍もちずり誰故に乱れ染めにし我ならなくに”が小倉百人一首という。歌枕の地として知られ、5月2日(陽暦6月18日)に芭蕉も訪ね、”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺”と詠んだ。正岡子規や小川芋銭も来訪し句を残してその碑も建っている。
 当地は、嘗てこの地にある綾形石の紋を模様にしたもちずり絹を産し、それを文知摺石は伝えていたが、芭蕉来訪後土中に埋まり、明治になって掘り起こしたらしい。一回りし、観音様に詣で、入口で芭蕉像を振り返り、またバス停岡部迄歩いた。今回は、首尾良くおくのほそ道ポイントを一つ加えることが出来、満足し福島駅で新幹線を待った。

 天童で句碑を案内して貰う 前日、天童に同級生で読者のAさん宅を訪問。歌人のS先生も来ておられ、1200紀行本発行のお祝いをして戴いた。食事懇談後、舞鶴山麓にある芭蕉句碑への案内をお願いする。昨年12月、山寺から歩いた時(18.12.2)、夕方探したが見付からなかった。多分日が短く、暗かったからだろうと思っていた。
 車で案内して貰い、Aさんのアドバイスで、近くの旧東村山郡役所史料館の受付で教えて戴き、句碑等は隣の念仏寺跡広場の奥にあった。翁塚と句碑があり、”行末は 誰肌にふれむ 紅の花”の句(写真下)。天童在に住むS先生も初めてと喜んでくれた。92歳のご高齢だが、我々と一緒に公園を歩き回って戴いた。
 これで、昨年末探し損ねた天童の句碑も確かめ、山寺天童間のおくのほそ道行は一応完結した。Aさん、S先生有り難うございました。(2019/07/23 K.K. 1270/1300)

◇日時 2019/6/29 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日倶楽部パス、600円 ◇資料 文知摺観音・普門院「信夫文知摺」 ◇歩数等 11,000歩 8km
「通過時間等」実家9:20-JRさくらんぽ東根駅9:45-同福島駅11:45-バス停岡部12:05=文知摺観音12:30/12:50=バス停岡部13:26-JR福島駅14:16-同上野駅15:50-三田線巣鴨駅16:05-自宅16:35

おくのほそ道尾花沢、大石田を訪ねる

故郷山形へ帰ることにした。実家に泊まり、友人達と交歓の外、俳聖芭蕉が歩いたおくのほそ道コースを辿りたい。新庄郊外の本合海を予定したが、予報の通りで雨模様。山形新幹線車内で、駅から近い尾花沢と大石田へと急遽変更した。新庄駅手前の大石田駅で、新幹線を下車。傘も雨用コートも持参している。

 鈴木清風、養泉寺 JR大石田駅を出ると小雨模様。折良く尾花沢経由銀山行きのバスがあり乗車し、尾花沢市内へ。養泉寺へと告げバス停を運転手に教えて貰い、中町で降りる。尾花沢は私の生地東根とは離れていて、殆ど未知の街。直ぐ中心街で、鈴木清風邸跡の標識があり、その裏手に芭蕉清風歴史資料館がある。先ずは養泉寺へ。街外れに小さな寺が見付かり、境内には句碑、涼し塚があった(写真上)。尾花沢で詠んだ”涼しさを 我が宿にして ねまる也”と刻んである。
5月17日(陽暦7月12日)堺田の封人の家有路家から山刀伐峠を越して尾花沢へ入り、江戸の句会で交流のあった鈴木清風を訪ね10日間滞在し、その内7日間は当寺に泊まったとある。紅花を扱う豪商清風は多忙のためでもあったらしい。それでも、数回近くの俳人達と句会を催し、先の句を詠んだとある。中心街へ戻り、歴史資料館へ入館。入口に芭蕉像が建つ。二度目で、確か祖父母の法事で帰郷した折、兄に案内して貰った。その時が初めての尾花沢であった。

当地の古い商家を復元し、資料を展示し公開している。清風の年表や、句誌類、手紙類があり、芭蕉の直筆もある。丁度、おくのほそ道330年記念ということで、坂田 燦の版画で巡る「おくのほそ道展」開催中で、バス時間を睨み、一回りした。芭蕉は、清風の勧めで山寺立石寺へ詣でるため尾花沢を後にし、この時東根六田宿を通っている。
 最上川と五月雨の句 バスで大石田駅前へ戻り、芭蕉句碑がある西光寺を目指し、近くを流れる最上川へ向け坂を下る。静かな小さな町で、地図通りに寺は見付かり、境内裏手に句碑はあった(写真中)。”さみだれを あつめてすずし もがミ川”とある。”はやし”で知られているが、当地では、”すずし”であったらしい。直ぐ前が芭蕉も眺めた最上川で、堤上遊歩道を歩く。川幅一杯にし大河はゆっくりと下方へ動いている(写真下)。堤は低く、洪水は大丈夫かと、この地を通る度思ってしまう。堤下に、高野一栄宅跡があり、記念の石碑と案内があった。5月28日山寺から戻った芭蕉は一栄宅に3泊したとある。久し振りの最上川の流れをカメラに収め、駅へ戻った。

 約60年前のことだが、当地で北村山郡中学野球大会があり、我々東根中は初優勝し、夕方優勝旗を掲げ、他の多くの運動部員が見守る中、大石田駅へ凱旋した。駅前では私が旗を持つ番であった。実家での夕食時、そんな思い出話しを兄夫婦と交わし、故郷の初日を過ごした。(2019/07/20 K.K. 1269/1300)

◇日時 2019/6/27 ◇天候 曇り時々小雨 ◇交通費 JR東日本大人の休日倶楽部パス、480円 ◇資料 「芭蕉が旅した山形 山刀伐峠・尾花沢、大石田・最上川」(読売新聞山形版19.5.4/5.8 山形在読者提供) ◇歩数等 10,000歩 7km
「通過時間等」自宅8:00-JR上野駅9:02-同大石田駅12:35-尾花沢中町バス停12:50=養泉寺13:00=芭蕉清風歴史資料館13:10/13:40=尾花沢中町バス停13:50-大石田駅前14:10=西光寺14:25=大橋14:55=JR大石田駅15:33-同さくらんぼ東根駅16:00-実家16:10

仙台在友人と震災地名取閖上地区を歩く

 青森から秋田へ奥羽本線を乗り鉄した後、秋田新幹線で仙台へ出た。友人と夕食を考えていたが、彼の家に泊まることになった。高校同級生で、卒業以来付き合いが続き、本記録の熱心な読者でもある。本格的に山をやり、磐梯山は彼の案内で登頂した(06.8.26)。現在は、私同様、奥さんに先立たれ1人暮らしだが、様々な方面で積極的に活動している。

 海へ広瀬川を下る 朝起床したら、本日朝市があるからと誘われ、同行。徒歩40分程と聞き朝の散歩に丁度良い。住宅街を過ぎると直ぐ水田地帯。当地は仙台市内だが、郊外のよう。清掃工場兼プール前から土手を上がると、大河がゆっくり下っている。広瀬川と知る。この辺りの下流では、あの青葉城恋歌歌詞の面影はない。河川敷には草木が生い茂り、鳥の囀りを聞きながら、海方向へ堤上を下る。左下は水田に農家が点在。
 目の前を仙台東部高速道路が走っている。この道路が津波を防ぎ、海側は津波被害をまともに受けたが、町側は大きな被害は受けなかったと教えてくれた。確かに土手下の農家住宅は新しいものではない。広瀬川は名取川に合流し、太平洋は近い。
 震災地閖上地区 歩き初めて40分なろうとしているが、朝市会場はまだ先。海岸が見えた地で、行灯松並木を右手に見て、閖上大橋を渡り名取市へ入ると、震災地とはっきり分かった。閖上(ユリアゲ)地区である。工事中の広い更地だが建つ家は疎らで、皆新しい。土手下に店が並び、”かわまちてらす閖上”。準備中の店があるが開店前。また工事中の区画から先へ進むと、新しい団地や住宅街があるがいずれも人が住んでいる気配は窺えない(写真上)。商店や病院、学校などのインフラ整備が未だのようだ。土砂の山もある。
 前方に小山があり、日和山で、海側の筈。山上の神社は流されたが、再興され参拝。裏に聳える一本の古い松は、津波に耐えたのだろう。道路を挟んで慰霊碑があった。案内によれば、当地は震度6強で、最大浸水高約9m、犠牲者約900名という。あの震災で、名取市も大被害の地と思い出したが、仙台の隣の当地とは知らずに来ていた。彼は、現場を見せたかったのだろうと想像。漁港の街であったが、現在はご覧の通りのまだまだで、一部水産加工工場は出来ているが、復興はこれからだろう。

 朝市で買い物 ようやく朝市会場に着き、長屋風建物の下に店が出ていて、買い物客で、込んでいる(写真下)。海産物や野菜などの食品が中心。屋台を覗きながら上下し、晩酌用肴を2.3品求めた。僅かな買い物では、支援にはならないだろう。
 彼は、帰りはバス停へ案内してくれた。徒歩40分の予定が倍近く掛かり、また歩いて戻るのはしんどく、ラッキー。名取駅へ出て東北本線で長町駅に降りタクシーで、Aさん宅へ戻った。
 お陰で、この度改めて津波の恐ろしさや大震災の復興状況を目の当たりにすることが出来た。(2019/07/17 K.K. 1268/1300)

◇日時 2019/6/23 ◇天候 曇り ◇交通費 2,150円 ◇資料 ふらむ名取「閖上震災を伝える会」 ◇歩数等 20,000歩 15km
「通過時間等」Aさん宅6:10=高速道路下7:00=閖上大橋7:15=日和山7:50=朝市会場8:00/8:20=閖上バス停8:30-JR名取駅8:49-同長町9:00-Aさん宅9:25/10:30-JRあおば通り駅10:49-同仙台駅11:30-同上野駅13:05-三田線巣鴨駅13:24-自宅13:50

青森から秋田へ奥羽本線に乗る

 青森駅で、竜飛岬行きを諦め、奥羽本線を乗り鉄することにした。本日は竜飛岬への予定であるが、雨が降り続いている。今朝一ノ関駅での東北新幹線への乗車も雨の中であった。昨夜の天気予報も青森を含め、雨の予報。今、梅雨シーズン真最中で止むを得ない。9時過ぎ青森駅に着き外へ出て見たが小降りの雨は止む様子はない。これでは津軽海峡の展望は楽しめない。岬は逃げない、また来れば良いと決断し、案内所で岬のパンフを入手した。

 思い出の奥羽本線へ 奥羽本線は、私にとっては思い出の鉄路である。上京する迄高校時代から約4年間乗車した。東根駅から山形駅への間だが、奥羽本線は福島から青森へと長く、ほんの一部に過ぎない。私が利用していた昭和30年代は能代行きや大館行きが走り、夜行は弘前行きや青森行きもあったと思う。国鉄時代である。その後半世紀経過し乗り重ねたが、弘前、秋田間は未乗車である。今回乗り切るチャンスにした。
 弘前駅で乗り継ぐ 青森駅発9時52分弘前行きに乗車。構内にねぶた山車灯籠がありシャッターを切った(写真上)。満席の電車は新青森駅を過ぎ高原のような地帯を走り、川部駅を通過した。五能線の分岐駅。同線は、数年前十二湖駅から乗ったことがある(16.9.4)。弘前駅で時間があり、乗り鉄用カップ酒を求め、秋田行きを待つ。過去に白神山地ハイキングや弘前城見学で数回乗降した駅(12.6.16外)。名産リンゴの大きな飾り物がロビーに飾られている。
 未知の小さな駅に停まりながら、雨の津軽を行く。大鰐温泉駅は、過去に冬の国体が開かれ知っていて、確かめようとスマホ検索したが出て来ない。碇ヶ関駅から山間の峠を越え秋田へ入り、わが国では何処の県境も山を越すのが殆どのようで、やはり山国である。

 ハチ公の故郷大館 平地へ出て、大館駅へ。忠犬ハチ公のふるさとの案内があり(写真下)、そうかハチ公は大館生まれであったのだ。カメラに収めた。当駅から盛岡駅へ花輪線が繋がるが乗ったことが無く、今後も乗れるだろうか。
 東能代駅を過ぎ、右の車窓に広い水田と沼が見え、八郎潟地区。米作全盛の時代、干拓事業の一大モデル地区であり、小学校の社会科教科書にも載っていた。追分駅とは珍しい駅名。旧街道宿場名ではあるが、男鹿線との分岐駅で地名もそうなのだろう。男鹿は是非訪ねたい地である。
 両側の車窓風景が住宅街になり、秋田市内へ入ったことを知る。そして、秋田駅へ滑り込み、私の奥羽本線乗り鉄は終わった。手許の地酒カップは大分前に空になっていた。
 秋田新幹線へ乗り換える 秋田新幹線は全席指定券が必要と知り急遽求める。次の地酒は既に手にあった。大曲駅迄は進行とは反対向きの座席に座り、そう、大曲だったなと思い出し、2時間強で仙台駅に着き改札を出ると、同級生Aさんが待っていてくれた。彼の計らいで、今夜は仙台Aさん宅泊にした。(2019/07/10 K.K. 1267/1300)

◇日時 2019/6/22 ◇天候 雨 ◇交通費 大人の休日倶楽部パス ◇資料 JR東日本路線図 
「通過時間等」宿泊先6:50-JR一ノ関駅7:12-同新青森駅9:11-同青森駅9:52-同弘前駅11:23-同秋田駅14:14-同仙台駅16:30-Aさん宅17:10

石巻、気仙沼そして一ノ関へ乗り鉄をする

 今年もJR東日本大人の休日倶楽部パスの利用期間になり、早速出掛けた。今回の私の目玉は竜飛岬行きだが、遠い上にアクセス便が悪く、検討の上仙台か岩手に一泊し、翌日岬への予定を立てた。初日は、仙石線、気仙沼線そして大船渡線の乗り鉄をすることにし、泊まり先は一ノ関駅前に予約。鉄路の大半は初めての乗車である。

 仙石線乗車し石巻日和山へ 東北新幹線を仙台駅に降り、仙石線に乗った。仙台発の路線で、これまで塩竃や野蒜迄は乗車し、その先からは初乗車。塩竃駅、松島駅を過ぎ海岸沿いを走るが、周囲は未だ仙台のベットタウンの様相。右手に時々海岸が迫るも、震災の跡は見えない。石巻が近くなり新しい家が目立つのはその影響だろう。また住宅街になり石巻駅に着いた。予定の日和山公園へは、電車時間を考慮し往きはタクシーを利用。坂を上がり石巻高校前を左折した先に公園があり降車した。
 日和山は漁師が海の天気を観察した高台のようだ。同名の山は酒田にもある。芭蕉像を探す。1689(元禄2年)年5月10日(陽暦6月26日)おくのほそ道で寄っているが句は残していないようだ。石巻湾や反対側の北上川を覗いて大回りしたが、像はあった。ここのは2人の像(写真上)。鹿島御島神社に参拝し、駅へ向け下った。石巻高校前で右折。俳優中村雅俊の出身高である。予定より早めに駅に着き、昼食用にサンドと飲み物を求め、石巻線電車に乗った。

 気仙沼線はBRT 石巻線は小牛田から古川へ繋がり、一転し水田地帯を走る。前谷地駅に着き、気仙沼線に乗り換えだが、私は不知で戸惑ったが駅前からバスであった。最初は道路を走り、渡る大河は北上川のようだ。柳津駅からバスは線路跡に入り、トンネルを進んだ。これがBRT(バス高速輸送)だろう。リアス式海岸を出入りしトンネル、狭間、トンネルを繰り返し、小さな狭間には土砂の山があり工事中で、一見し震災跡である。平地へ出て道路を走り南三陸町志津川であった。疎らな新しい住宅、広い空き地と復興の兆しは見えるがまだまだのよう(写真下)。

 気仙沼出身Oさんの思い出 またバスはトンネル通過を繰り返した。気仙沼へ入ったようで、小さな駅で下校する高校生を乗せ街並みの中の舗道を走った。所々に盛り土が放置されている。気仙沼駅は、海側に小山や島があり細長い湾の奥。当地に来たのは元同僚Oさんの出身地だからだ。親しい仲間の1人で、仕事も遊びも一緒であった。将棋は強く、高校時代全国大会出場した実績があるといった。彼は早世し、20年近くなる。家内と一緒の病院で、帰りに見舞うと家内のことを心配してくれたが、先に逝ってしまった。駅前でそんなことを思い出し、案内所で出身の水産高のことを聞くと、湾入口にあって震災で大津波を浴び、現在は移転したと教えてくれた。大船渡線で一ノ関へ向かう。北上山地の南端を越し、19時過ぎ、駅前ビジネスホテルに投宿した。(2019/07/08 K.K. 1266/1300)

◇日時 2019/6/21 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日倶楽部パス、タクシー代860円 ◇資料 JR東日本路線図 ◇歩数等 10,000歩 7km
「通過時間等」自宅7:55-JR上野駅8:54-同仙台駅11:21-同石巻駅12:47-日和山公園13:00/13:15=JR石巻駅13:49-同前谷地駅14:23-同気仙沼駅16:55/17:50-同一ノ関駅19:10=宿泊先19:20

武蔵嵐山ラベンダー畑から嵐山渓谷へ

 朝のラジオから埼玉の武蔵嵐山にラベンダーが咲いたと流れ、飛び付いた。ラベンダーと言えば富良野で、首都圏ではそう観賞できる花ではない。ネット検索すると菅谷館跡先の槻川を渡った地で、私がハイキングを始めた頃良く歩いた奥武蔵も武蔵嵐山エリア内と分かった。弟へ連絡すると乗って来て、池袋駅で待ち合わせることにした。手許のハイキング資料から、「武蔵嵐山観光案内図(昭和60年11月版)」を探した。

 菅谷館跡へ 東武東上線を武蔵嵐山駅に降りると、まつり開催中で案内所が設けられていて、パンフレットを貰いスタート。弟を、先ずは中世城跡の菅谷館跡へ案内しようと駅前通りを直進する。住宅街を抜け大通りを渡った先が館跡で、現在も遺る広い史跡は森の中で、直ぐ畠山重忠像。当地を領した館主で、鎌倉幕府の有力御家人であった重忠とは久し振りの再会。弟もカメラを向けている。左右に土塁や空濠跡を眺めながら、横断し館跡を出て、二瀬の地。都幾川と槻川が合流している。川は増水の様相で、梅雨の時期を示している。
 ラベンダーは期待外れ 槻川左岸沿いを遡上すると、川向こうにラベンダー畑が見え出し、既に人出が始まっているようだ。槻川橋を渡りまつり会場で、案内に従いラベンダー畑へ近づいたが、確かに咲いてはいるが未だ花は咲き始めの様子で(写真上)、今一である。紫の花が畑一面に咲き揃う風景を眺められかと思っていたが残念。畑の周辺を往復しても、そう変わりはない。四季の花巡りはこれがあるから難しい。花期を外すと1年待たなければならない。弟も同じ感想で、2人とも2,3度シャッター切って、畑を離れた。

 久し振りの嵐山渓谷 嵐山渓谷へ向かったが、ルートを誤り林の中で、野良道は途切れてしまった。槻川沿いに渓谷へ歩いた筈だがもう10数年も前のこと。結局、地元の方に教えて貰い、大回りし正規のルートで、塩沢冠水橋を目指すが、私は初めて歩く集落の中の道。舗装道が終わり森内へ入ると渓谷手前の小広場で、見覚えがある。上流奥に、売店とその対岸にバンガローがあった筈と、崖端の小径を進んで見たが、崖下は流れを漫漫と湛えた狭い渓谷。脚を踏み外したらと途中でUターンしてしまった。10数年も前のことだから無くなっているかもしれない。広場へ戻り、弟と冠水橋を渡る。四万十川の沈下橋は有名だが小さな冠水橋は奥武蔵でも見掛ける。流れは橋の大分下である(写真下)。またカメラに収めた。右岸沿いの遊歩道はあるが飛び石が冠水し進めないと、戻って来た人が教えてくれた。左岸の道を行くと、途中の山坂から、川面に透ける飛び石が見えた。山坂を上がり続け、嵐山本町へ出て、途中のファーストフード店で昼食。そして、嵐山町役場前を通り、武蔵嵐山駅へ戻った。
 肝心のラベンダーは満足出来ず、改めて花の観賞は難しいと知らされた。東上線を私は成増駅で降り、弟と別れた。お疲れ様でした。(2019/7/6 K.K. 1265/1300)

◇日時 2019/6/16 ◇天候 晴 ◇交通費 1,650円 ◇資料 嵐山町外「らんざんラベンダーまつり」 ◇歩数等 19,000歩 14k
「通過時間等」自宅8:50-JR巣鴨駅9:30-東武池袋駅9:45-同武蔵嵐山駅11:00=菅谷館跡11:20=二瀬11:30=ラベンダー畑11:45/12:10=塩沢冠水橋12:40=昼食13:20/13:40=東武武蔵嵐山駅14:00-同成増駅15:00-自宅15:20

石神井川を王子へ歩き紫陽花を観る

 6月に入り紫陽花の季節になった。都内にも紫陽花の名所は数カ所あるが、その中で飛鳥山公園は近く、これまでも2,3度訪ね観賞している。未だ早いかなと思いながらも、咲き具合を確かめたく、出掛けることにした。歩き足りない分、三田線新板橋駅から石神井川を下りJR王子駅へ出て、王子稲荷や名主の滝公園も巡ることにした。

 東光寺から石神井川へ 三田線を新板橋駅に降り少し戻って、東光寺を目指した。二度目だが間が空き過ぎ、通りを間違えウロウロしたが先に見付かり、参拝。境内に宇喜多秀家の供養塔がある筈だが分からない。関ヶ原戦西軍大将秀家は、家康に八丈島へ流されたが明治になって許され、縁者の加賀前田藩下屋敷であった当地の寺に塔が建てられたと知っていた。諦め、住宅街を石神井川へ出る。前田家の庭園築山跡は僅かだが現在加賀公園として遺っている。石神井川を橋を渡り返しながら側道を下る。この時期流れは多めで、両側の木々も緑深く初夏は過ぎている。埼京線鉄橋下から小公園を越し、板橋から北区へ入ると左岸に大きな谷津観音像があり、黙礼し下り続ける。右手に遊水池を見て、金剛寺。頼朝も参拝した古刹という。北区役所手前の音無橋へ至る。石神井川もこの辺りでは名を変え音無川と呼ばれる。川を離れ大銀杏を見上げ、王子神社に参拝。由緒書きによれば、往時の領主豊島氏が熊野から勧請した社で、それで地名も王子になったとある。初めて知った。

 王子稲荷、名主の滝公園 ここから北上し王子稲荷を捜す。再訪だが、道を誤り尋ねて裏側から境内へ入り詣でる。狐を祀った別社にも手を合わせ、階段を上がり穴様・狐の穴も覗いた。落語王子の狐のモデルらしい。正面へ出て、また北上すると名主の滝公園。園内は緑に覆われている。現在では都内北区の貴重なオアシスで、庭園内に小さな滝があるが枯れ滝で、唯一男滝は蕩々と流れ落ち(写真上)、カメラに収めた。

 時期が早い紫陽花JR 王子駅前へ戻り、飛鳥山公園下の紫陽花が咲く飛鳥の小径へ。花は開いているが疎らで色付きも薄く、時期が早いようだ。奥へ入るに連れ、花も大きくなり、色付きも良い。シャッター切りながら奥へと進む。観賞者は多い。”豊島園は満開だったよ”との声も飛び交っている。
 私は紫陽花の大振りの花が好きで、臙脂や赤系の花を好む。これまでも、毎年弟や花友と紫陽花巡りを繰り返している。先駆けとして当地へ来たが、やはり咲いてはいるものの未だ見頃ではない。しかし、更に奥へ進むに従い、花は咲揃い色濃さも増しているようだ(写真下)。多分南側で、陽当たりが違うのだろう。花友用に携帯にも写した。飛鳥の小径を戻り、途中から飛鳥山へ上がり山を越し、都電荒川線飛鳥山駅を探した。(2019/06/25 K.K. 1264/1300)

◇日時 2019/6/7  ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス使用 ◇資料 山と渓谷社「江戸のお花見名所・飛鳥山」駅からハイキング2003,12頁 ◇歩数等 15,000歩11km

「通過時間等」自宅8:25-三田線新板橋駅8:55=東光寺9:10=加賀公園9:20=JR埼京線鉄橋下9:30=金剛寺9:45=音無橋10:00=王子神社10:05=王子稲荷10:20=名主の滝公園10:30=飛鳥の小径10:55=都電荒川線飛鳥山駅11:15-三田線西巣鴨駅11:26-自宅11:55

満開のポピーが咲き誇る東秩父高原を巡る

 躑躅や紫陽花、菖蒲と初夏は花の季節で、そろそろポピーも咲いた頃かとネット検索したら、昨年からリザーブしていた茨城藤代のポピー園は5月末に終了し刈り取ったとある。埼玉東秩父にもポピー園があった筈と調べたら、丁度開園中という。少しアクセスが良くないが、ハイキングの一貫だから歩けば良く、しかも東秩父は私のホームグランド内である。ポピーは初めての観賞。

 峠道を上がる 東上線小川町駅に降り、白石車庫行きバスに乗り換えた。運転手に最寄りバス停は橋場と教えて貰う。バスは見覚えのある街から山間に入り、東秩父村で、これまで歩いた城跡や峠はこの辺りにもある。最近はご無沙汰で、10年振り位か。橋場に着くと、ポピー会場への案内があり、4km先との表示。徒歩でも1時間を要しないが峠の坂道だがら+20分かなと見当を付け、スタート。
 秩父へ通じる道は結構車の往来があり、くねる舗道の右端を上がり続ける。3kmとの表示に出会い時計を見ると20分経過で、順調。時々山村集落があるが現在では過疎状態のよう。栗和田集落を過ぎ粥仁田峠への分岐に至り、同峠からの下りに歩いたこと(96.9.16)を思い出した。今回は直進だが舗道は大きく左右に振れ始め、左手木立の間に見える山は武甲山のようだ。峠を上がるポピー見物の車が渋滞し始め、数珠繋ぎで、徒歩の私が車を追い越して進む。尾根が近くなり右側が牧場。そして二本木峠へ上がり、ここで左へコースを採り、下りになる。未だ繋がる車の間を徒歩で上がって来る男女が多くなり、ポピー園が近いと知り、山の端を出ると目の前に広い高原が広がった。

 満開のポピー園を巡る 一瞬眼下のポピー園は狭く花も少ないと感じたが、近付くに連れそうではないことが分かった。バス停から80分で着き、受付を済ませ入園。南向きの斜面一杯に赤色中心のポピーが華やかに咲き広がっている。先ずは遊歩道から花を至近で眺める(写真上)。大きな柔らかな花弁は、赤色だがきつい程ではなく丁度良いと思う。シャッターを切り続ける。そして、全体を見回すと、晴天下高原を埋め尽くす程に咲き揃い、鮮やかで美しい(写真下)。またアングルを探す。ポピーを眺めてはカメラを向けるのを繰り返しながら、ゆっくりと進む。芥子の一種で栽培禁止の花もあるようだが、子供の頃は近所の家庭で栽培し、珍しい洋花だなと眺めたことがあった。本日日曜日で人出は多く、列をなし遊歩道を上下している。最奥のベンチで休憩し、昼食。隣の家族連れの一行は、隣国の方々らしい。今度は、下から花畑を見上げるとこれも良い。またカメラに収め、花友へもと携帯にも写した。帰りはバスで秩父鉄道へ出ようと決め待合所へ下ると、下の区画はピンク系のポピー。これも美しい。ポピーの花に充たされ、シャトルバスで秩父鉄道皆野駅へ出て、寄居駅経由で帰宅した。 (2019 K.K. 1263/1300)

◇日時 2019/6/2  ◇天候 曇り ◇交通費 3,040円 ◇資料 ポピーまつり実行委員会「天空のポピー」 ◇歩数等 13,000歩 10km

「通過時間等」自宅8:05-東武成増駅8:50-同小川町駅10:14-バス停橋場10:40=栗和田11:10=東秩父ポピー園12:00/12:45-秩父鉄道皆野駅13:28-東武寄居駅14:04-同小川町駅14:23-同成増駅15:25-自宅15:45

満開であった栃木八方ヶ原の躑躅

 またSさんにお世話になった。しかも彼の機転で、満開の躑躅を堪能することが出来た。栃木矢板の八方ヶ原はつつじの名所と大分前に知り、調べると最寄り駅はJR東北線矢板駅だが、バスの便はなく後回しにしていた。ツツジ花の時期を迎えSさんに話したら、オーケーを貰った。またまた感謝である。問題は現地の花期で、ネットで調べたが咲き始めたようだが、今一はっきりしない。

 八方ヶ原高原を下る 先月に続き、また東北高速道を北へ向け走って貰った。矢板ICで高速を降り八方ヶ原へ向かい、最奥の集落を越し山中へ入った。那須高原手前の山麓は広く、森林地帯は深い。県民の森は過ぎたが、未だ躑躅の原は見えない。案内に従い、レンゲツツジ群生地へ左折し森を抜けると高原へ出て、10時前に目的地大間々の地に着いた。つつじは咲いてはいるがぽつりぽつり。少し早かったかなとは2人の感想だが、それでも人出は多く、駐車場も満杯。展望台へ上がり高原を見渡したが花はこれからの模様。
 私は高原道路を徒歩で下り、Sさんは先行し途中の駐車場で待って貰うことにした。私はツツジの花を拾いながらカメラに収め、下り続ける。朱色のレンゲツツジの外、ピンクのヤシオツヅジも咲いている(写真上)が、多くは固い蕾状態の木々。一度道路から灌木地帯へ入り躑躅に接近して眺め、シャッターを切った。鳴き声は蛙か。湿原地帯で水溜まりもある。森林地帯へ下り、小さな駐車場があったがSさんは見当たらない。そのまま下り続けると携帯メールが入り、Sさんは山の駅たかはらに居て、つつじは満開とのこと。位置が不明だが、大通りへ出れば分かるだろうと歩き続ける。見物者は多く、車が上がってくる。大通り分岐に案内板があり、山の駅は直ぐ先であった。

 満開躑躅の間を巡る 大通りから山の家へ右折したら、濃い朱色の花の一群が目に飛び込んで来た。近付くとそれも次々に連なっている。満開のヤマツツジが山の家を囲んで、Sさんのメールの通り、否それ以上か。Sさんはいないが、裏へ出て、先ずはツツジの間を巡る(写真下)。これが八方ヶ原の躑躅かと納得し、シャッターを切るのが忙しい。Sさんがつつじの間から出て来て、咲き揃う花の道を教えてくれた。広くはないツツジ群生地を凡そ八分程回り、丁度見頃の花々を観賞し、写し、山の家で昼食にした。
 温泉入浴に塩原温泉へ向かって貰う。また山中を走り、南会津への標識のある交差点を反対側へ曲がり、塩原福渡温泉へ着く。箒川原の露天風呂を探したが吊り橋を見付けられず、かんぽの湯に入り、先程食べ損ねたアイスクリームを湯上がりに戴く。帰途は那須へ出て、東北高速道は順調であった。
 Sさん、お陰様で、遂に、それも満開の八方ヶ原の躑躅を観賞することが出来ました。有り難うございました。(2019/06/11 K.K. 1262/1300)

◇日時 2019/5/26  ◇天候 晴 ◇資料 成美堂出版「花の名所と緑の散歩道230・躑躅八方ヶ原」46頁 ◇歩数等 11,000歩 8km

「通過時間等」自宅・高島平7:30-矢板八方ヶ原大間々9:55=山の家たかはら10:30/11:35-塩原温泉かんぽの湯12:30/13:20-高島平・自宅15:30

おくのほそ道武隈の松、黒塚を訪ねる

 私のおくのほそ道行き2日目、久富哲雄著「奥の細道の旅」からピックアップし、宮城岩沼の武隈の松と福島安達ヶ原黒塚にした。俳聖の旅程とは逆だが、夕方帰京する私の都合。いずれも奥州街道沿いで、現在ではJR東北線で訪ねられる。宿泊先飯坂温泉から、飯坂線で福島駅へ出た。

 岩沼武隈の松、竹駒神社 福島駅で仙台行きを調べると、次は岩沼手前の白石行きで、仙台行きはその後の発。スマホで検索したら白石駅から仙台行きがあり、やっぱりと乗車。福島、仙台間は初乗車か。県境で山間を走り、左奥に蔵王、右に船岡城跡を見て白石駅に着き、乗り換えた。岩沼駅前広場で、小さな芭蕉像が出迎えてくれた。2人は5月4日(陽暦6月20日)当地という。駅で武隈の松情報を得ようとしたがなく、大通りへ出て右折し直進。三つ目の信号の先かと行くと、大きな松が見え始め二本あり、近付くと武隈の松(写真上)。説明書きもあり、歌枕で有名になり現在は7代目の松という。カメラに収め、竹駒神社へ。大きな境内で参拝者もある。入口の古石に惑わされ芭蕉句碑が探せない。参拝後社務所で聞いて、ようやく見付け、”さくらより松は二木を三月越し”と刻まれた細長い句碑であった。岩沼駅へ戻り、また白石駅で乗り換え福島駅で郡山行きの発車を待つ。車中、読者からメールが来て、妹さんと、おくのほそ道を歩いた過去の私の記録を出して見ているという。余りの偶然に驚きながら、昨日からほそ道を歩いていると返信した。

 徒歩で安達ヶ原黒塚へ 次は二本松市の安達ヶ原黒塚。アクセスが悪く、色々調べたがJR安達駅から歩くことにした。駅間の距離から2.5km程度と見当。安達駅に降りるとホーム案内板に黒塚2km、徒歩20分とあり、ニンマリ。改札で方向を尋ねたら五重塔が目印で観世寺へ徒歩40分という。倍である。駅前を田園地帯へ出て農道から川端土手ヘ上がると五重塔がはっきりし出した。阿武隈川堤を行き安達ヶ原大橋へ上がり、袂左手先が観世寺であった。やはり教えられた時間とおり。

 岩屋に驚く 安達ヶ原鬼婆伝説の謡曲が有名で、歌舞伎にもなり、芭蕉達は5月1日(陽暦6月17日)に訪ねたが俳句は残していないようだ。境内に入って岩屋にびっくり(写真下)。巨岩が重なり、それも周囲は山でも崖でもなく、平地の一ヶ所に集中し窟風である。鬼婆の住処で、シャッターを切った。一回りし、黒塚へ。阿武隈川河川敷内にあり、退治された鬼婆の墓。大きな杉の古木が墓標のように聳えていた。
 受付で二本松駅へ徒歩20分と聞き、大橋を渡り二本松市内へ。道順を聞き間違えたようで迂回してしまい、こちらも倍の時間で駅。郡山駅から新幹線に乗り、二本松の地酒奥の松を飲みながら、メモを続けた。奥の松は以前仕事で知った。(2019/06/05 K.K. 1261/1300)

◇日時 2019/5/19  ◇天候 晴 ◇交通費 6,000円 ◇資料 真弓山観世寺『奥州安達ヶ原「黒塚」』 ◇歩数等 26,000歩 19km

「通過時間等」宿泊先8:15=飯坂温泉駅9:05-JR福島駅9:53-同岩沼駅11:10=武隈の松11:20=竹駒神社11:30=JR岩沼駅12:22-同福島駅14:18-同安達駅14:45=安達ヶ原観世寺15:25=黒塚15:40=JR二本松駅16:51-同郡山駅17:30-同大宮駅18:28-三田線新板橋駅19:05-自宅19:30 i

おくのほそ道福島医王寺から飯坂温泉へ

 私のおくのほそ道は、俳聖を追い福島へ脚を伸ばした。奥州街道沿いに多くの足跡を残しているが、アクセスの便から先ずは主な史跡の地を訪ねることにした。一泊二日の予定で、飯坂温泉に宿泊先を確保。初めての温泉で、東京、山形の中間の地にあり、今後は兄達や同級生達と交換する温泉地として利用したいと下見的にと予約した。

 飯坂線初乗車 医王寺は、福島駅から私鉄飯坂線医王寺前駅からである。東北新幹線を福島駅に降り、乗り換えた。飯坂線は初めての乗車で、スマートな車輌。地方私電は都会のお下がり電車が多いが、それではない。
 果樹園地帯を小さな鉄橋を渡りながら走る。水田は田植え済みのようだ。医王寺前駅に下車し、集落の間を医王寺へ歩く。15分程で着き、拝観料を支払い、古刹に参拝し、見学した。

 義経、芭蕉も訪ねた医王寺 医王寺は、826(天長3)年弘法大師開基とある。平安時代、当地を支配していた佐藤基治は子息継信、忠信兄弟を、平泉から平家打倒へ立ち上がった義経の従者として使わしたが、2人は屋島や京都で戦死し戻らなかったという。その後平泉に逃げ延びる際、義経と弁慶は立ち寄り、基治へ兄弟の奮戦を伝え、法要を営んだとある。当寺に3人の墓所があり、これらの故事を知る芭蕉は、1689(元禄2)年5月2日(陽暦6月18日)に訪ねた。

 本堂は古刹とは見えない普通の田舎寺風。手前左に句碑はあるが、もう文字は読めない。隣の立て札によれば、”笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟”と詠んだ。参拝後句碑をカメラに収めた。杉並木の参道へ戻り、直進すると右手に、3人の像があり佐藤父子と思ったが、真ん中は義経のようだ(写真上)。奥の薬師堂の裏に、佐藤父子とその妻達の墓所があり簡単に手を合わせ、帰りに宝物殿へ入ると、弁慶の笈が目に付いた。芭蕉が詠んだのもこの笈のことだろう。

 飯坂温泉芭蕉記念碑 医王寺前駅から飯坂温泉へ。飯坂温泉は、有名な温泉地で、狭い山間の地に旅館と歓楽街が込み合うのかなと想像していたが、ゆったりとした温泉地で、飲食店は少なく、山は奥である。観光案内所で情報を得て、少し距離のある宿泊先へ入った。
 芭蕉縁の地は、翌朝訪ねた。駅への途中で、石段を摺上川へ降りた狭い地に記念碑はあった。当地にあった滝の湯で入浴し泊まった記念の地らしいが、現在では、別説があり、昨日温泉街を通った時あった元湯鯖湖湯(写真下)が台頭しているとある。ほそ道記には、土間に筵をしいたような貧しい家で一夜を過ごしたとあるようだ。直ぐ前を摺上川渓谷が激しく流れ、次の桑折へ芭蕉達は舟で渡ったのかと思いを馳せた。駅へ出ると、芭蕉像があった。曽良と一緒の像も多いがここは1人。昨日見逃していた。福島へ出て本日の訪ねるほそ道史跡へ向かうべく福島駅行きに乗車した。(2019/05/31 K.K. 1260/1300)

◇日時 2019/5/18  ◇天候 晴 ◇交通費 6,740円 ◇資料 「医王寺」、「飯坂温泉遊歩マップ」 ◇歩数等 10,000歩 7km

「通過時間等」自宅11:00-JR上野駅12:18-同福島駅14:15-飯坂線医王寺前駅14:35=医王寺14:50/15:30=医王寺前駅15:48-飯坂温泉駅15:55=宿泊先16:40/8:15=芭蕉記念碑8:30=飯坂温泉駅前芭蕉像8:45

横浜港で三塔を眺め、松本清張展へ

 新聞で、松本清張展が神奈川近代文学館で開かれていると知った。若い頃彼の推理小説を良く読んだ。現在も、本棚には文庫本20冊程は残っている。北九州にある清張記念館からの出張展示で、取材ノートや貴重な資料が展示されているようだ。その前に、先日整理し見付かった「横浜三塔物語」(「ザ・ファミリー」08.2.1)をガイドに、横浜港を歩くことにした。

 横浜三塔を眺める 三田線を日吉駅で乗り換え、みなとみらい線馬車道駅に降り、地上へ出た。税関や県庁、そして開港記念館のビルが塔を持つとは初めて知った。日曜日の午前10時、人出も少ないオフィス街を行き右折した先に税関があり、見上げると塔(1934年完成)があった(写真上)。最高部は薄緑の丸形でクィーンと呼ばれているという。アングルを調整しシャッターを切った。少し進んだ右側が県庁ビル。確かに塔はあるがビルが大きく塔の位置が良くない。正門前へ回ると当然ながらはっきり見え、通称キングらしい四角形2階造りの大きな塔(1928年完成)であった(写真中)。後へ下がりカメラに収めた。
 県庁を正面から右へ回り込むと、交差点角のビルに高い塔があった(写真下)。開港記念館のジャックと呼ばれる塔で、一番古く1917年完成とある。車の途切れるのを待ちシャッターチャンスにした。横浜の三塔は、ビルが少ない時代は目印になり、入港する船に安心感をもたらしたという。

 山下公園、港が見える丘 波止場へ近付き山下公園へ。童謡赤い靴の少女像を探すと見付かった。子供の頃から知っていた歌だが、”異人さん”の意味が分からず何のこと思っていたが、後に知った。少し歩くとカモメの水兵さんの歌碑、二度目だと思うが忘れていた。隣のばら園を横切り、山下公園を出た。港が見える丘公園はこちらも再訪だが、大通りから林が茂る丘へ石段を上がった。元フランス領事館があり、フランス山と呼ばれているという。関東大震災で被災し建物跡が残る。案内によると、開港当初はフランス軍も駐留したとあり、ビックリ。そんなこと許されたのは不平等条約の所為か。港が見える丘展望台から眺めたが、カメラを向ける風景はなく、奥の近代文学館へ入館。

 清張小説の思い出 松本清張と言えば、直ぐ浮かぶのは、”ゼロの焦点”や”点と線”、”砂の器”であろう。時代を背景に裏の素性や影、差別をも取り上げた社会派推理小説だったと思う。高齢者達の中、資料を眺めながら、西郷札は西南戦争時発行の紙幣だったことやゼロの焦点の舞台能登金剛を訪ねたがヤセの断崖へは辿り着けなかったこと、新聞連載の砂の器は母親も読んでいたなと思い出していたら予定の倍近くの時間を費やしていた。それでも、夕方の友人の来宅前に帰宅できた。(2019/05/27 K.K.1259/1300)

◇日時 2019/5/12  ◇天候 晴 ◇交通費 1,110円 ◇資料 「横浜三塔物語」(「ザ・ファミリー」08.2.1 ◇歩数等 11,000歩 8km

「通過時間等」自宅7:55-東横線日吉駅9:16-みなとみらい線馬車道駅9:50=横浜税関前10:00=神奈川県庁前10:10=開港記念館前10:15=山下公園10:30=港が見える丘公園10:55=神奈川県立近代文学館11:00/11:45=みなとみらい線元町中華街駅12:03-京急横浜駅12:21-三田線三田駅12:51-自宅13:40