社寺を巡り歩いた板橋赤塚地区

 東武練馬駅前にパソコン消耗品の買い物があり、その復路に下赤塚駅へ歩こうと思う。赤塚地域は未訪で、地図からポイントになる社寺を巡り、その後松月院に寄り、高島平団地へ戻るコースはどうだろうか。東武練馬駅から下赤塚駅への距離は、予想の2㎞に反し、約半分の1㎞強と分かり、楽に歩ける。

 地図にない赤塚出世稲荷へ 駅前で買い物を済ませ、下赤塚駅へと歩き出したが、方向を失いそうになり東上線へ出て、線路沿いに歩く。同じ風景が続き、住宅街へ入ると小公園があり、徳丸公園か。本日天候良く園児達が遊んでいる。地下高速の上を渡ると下赤塚地区になり、バス通りへと出る。最初のポイントは出世稲荷だが、先日下赤塚行バス終点付近で探したが、探し損ねた。いわばリベンジで、この神社は板橋区発行の地図にはないが、埼玉県地図和光市隣の板橋赤塚には載っている(昭文社道路地図)。バス停手前に鳥居があり稲荷神社(写真上)。参拝し、神社名を見付けようとしたが、ない。境内では松の木の剪定作業中。ネット情報では、中田家個人所有の稲荷とあった。
 赤塚駅前商店街を行く 駅前大通りを渡り下赤塚駅北口へ。小さな駅改札口を久しぶりに眺め、地図で確かめて駅前商店街を行き、下赤塚小学校隣の篠塚稲荷を目指す。ここからは未訪の地で、板橋の地図が頼り。古い住宅街の小路になりクランク型に進むと、学校裏の大きな銀杏の先にお稲荷さんは鎮座していた。手を合わせ、uターン。また地図を眺め、八幡神社へ方向を採る。初めての地で道なりに進むと区の福祉施設があり、その前のメタセコイアが黄葉に染まり美しい。

 謙信が焼き討ちした大堂 福祉施設の先で右折しようとしたが思い直し、直進を続ける。自然に右方向へ導かれ、予定の八幡神社。隣が松月院大堂という古い阿弥陀堂。案内には、永禄4年(1561)3月長尾景虎(上杉謙信)が北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したとある。その後再建されたのであろうが、現在では、松月院からは離れた地にある荒れたお堂。また詣でて、大通りへ出て坂を上がると、松月院前へ至り、ようやく現在地が分かったが、久しぶりの地。
 大古刹松月院 山門を潜り、大きく立派な本堂で古刹に相応しい。頭を垂れて、戦国前期、下総を追われて赤塚城主になった千葉自胤氏一族の墓前へ。そして、幕末の砲術家高島秋帆の大砲型記念碑を見る(写真下)。幕末に秋帆が、徳丸ケ原で砲術演習した時本陣を置いたのが当寺という。我が高島平はその名を戴いている。松月院は裏門もある、現在も大寺院。境内には幼稚園、保育園もあった。ここからは左へ行き東京大仏から赤塚城跡経由もあるが、距離的に近い諏訪神社方向へ足を進める。近道をして、赤塚土手の坂道を下り、高速下を過ぎると我が団地であった。(2021/01/11 K.K. 1368/1400)

◇日時 2020/12/21 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課8「観光いたばしガイドマップ」
「通過時間等」自宅9:35-高島平バス停9:44-東武練馬駅前店10:20=出世稲荷神社10:55=東武下赤塚駅北口11:05=篠原稲荷神社11:10=松月院大堂11:30=松月院11:40=自宅12:10