川崎麦の別れの地から東海道を生麦へ

 “麦の別れ”という芭蕉の足跡の地を知った。旧東海道の川崎宿にあるという。芭蕉を追っ掛けてから久しいが初めての情報。調べると、現第一京浜国道沿いの川崎と鶴見の間で、京浜急行八丁畷駅傍と分かった。それならと箱根駅伝コース地図(昭文社「箱根駅伝まるごとガイド」2007年11頁)を引っ張り出すと、二区の鶴見中継所手前八丁畷駅傍に、“芭蕉句碑”とある。出掛けることにし、歩き足りない分第一京浜沿いの神社、鶴見中継所、そして生麦事件碑のある生麦を巡ることにした。

 芭蕉麦の別れ 三田駅で京浜急行に乗り換え、京急川崎駅に降りた。駅前へ出たが初めての地で方向を誤ってしまった。第一京浜へとアーケード街を行くが公園から稲毛神社が見えて来ない。左折し方向を修正したが半端のようで、第一京浜へ出たが公園の大分先で神社は諦め、八丁畷駅を目指す。交差点の地名案内を頼りに、元木2丁目で京浜急行線側へ右折し住宅街から突き当りを左折すると旧東海道だろう。直ぐ先に句碑(写真上)と解説板があった。覆い堂内の句碑には、“麦の穂を たよりにつかむ 別れかな”と刻まれている筈だが、崩し字で読み難い。1694(元禄7)年5月、郷里伊賀へ帰る芭蕉を門人達が送って来て、茶屋で休息し俳句を詠み合い芭蕉の返歌で、当時周りは麦畑であったという。
 そして、この旅先大坂の御堂筋が終焉の地となってしまい、本当の別れであった。そんな雰囲気も伝わる句とも読める。カメラに収めて、第一京浜へ戻る。

 駅伝中継地 箱根駅伝鶴見中継所は一度訪ねて(10.12.19)知っていた。思ったより先で、中継所を示すタスキ渡し像があった(写真中)。正月母校吉居選手の一区の快走は記憶に新しい。生麦へは京浜急行線利用の予定であったが30分程は要するだろうと想定し、このまま第一京浜を歩くことにした。鶴見川を渡り、鶴見区役所前、鶴見線国道駅を過ぎ生麦の地名が見え始めたが、生麦事件碑はない。

 生麦事件碑 途中で尋ねたら未だ先という。京急生麦駅入口を右に見て、麦酒工場らしき建物前へ至り、ようやく生麦事件碑であった。鶴見中継所から約1時間過ぎていた。
 生麦事件を知ったのは中学の修学旅行時で、幕末の1862年、薩摩藩主父島津久光の行列が通り掛った時、乗馬した英国人数名が逆行し行列に入ってしまい、藩士が刀で斬って英国人一人が死亡したという(下は浮世絵師早川松山図)。そして翌年薩英戦争が起きた。碑は明治になって地元の方が建てたとある。前回とは違い、整備されたらしい箇所の奥にあった。京急生麦駅までは、少し距離があった。(2022/4/2 K.K. 1439/1500)

◇日時 2022/03/16 ◇天候 晴れ ◇交通費 500円 ◇資料 昭文社「箱根駅伝まるごとガイド」2007年11頁 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅8:45-京浜急行三田駅9:44-同川崎駅10:10=麦の別れの地10:40=箱根駅伝二区中継所11:00=生麦事件碑12:05=京急生麦駅12:22-三田線三田駅12:51-自宅13:40

早咲き桜を求め江東深川界隈を歩く

 3月になり早咲き桜情報が出始めた。ネットで調べると深川の大横川にも咲いていると知る。河津桜だろうか。地下鉄東西線木場駅が最寄り駅で、アクセスが良い。深川周辺には、未訪の史跡等や芭蕉句碑もあり、私の里歩きには丁度良さそうだ。地図で歩くルートを想定したが、数頁に跨り複雑になりそうだ。

 大横川河津桜は満開 大手町駅へ出て、東西線に乗り木場駅に降りた。地上に出ると直ぐ先が大横川の橋である。昨年まで東陽町へ通い、バス乗車区間の永代通りで、少し土地勘がある。
 橋から川を眺めると両側にピンクの花が続いている。見頃だなと川沿いの道を行くが川端へ入る道はない。この辺りは水路で遊歩道はないようだ。少し先の公園で左折すると大横川橋で、橋からの上流には、濃いピンクの河津桜が咲き揃い(写真上)、遊歩道もあり花見散策者もいる。アングルを定めてシャッターを切った。タイミングの良さに感謝しながら、花下を行くが桜木は少ない。左隣は木場公園、右は豊住公園。

 小名木川と五本松跡 葛西橋通りへ出て左折し、五本松跡のある小名木川へと歩くが、左折が早かったようで、手間取ってしまった。小名木川へ至ったが通りが違い下流の新扇橋で、右折し上流を目指す。次の橋から小名木川沿いに歩いて、ようやく目指す小名木川橋だが、五本松跡が見付からない。最後はスマホ検索し、反対側の袂に探し当てた。
 現在では石碑一柱(写真中)だが、江戸期は五本松のある景勝地で、芭蕉が友人を訪ねる舟から、“川上と この川下もや 月の友”と詠んだのはこの辺りという。現在、この句碑は、五本松跡から小名木川と隅田川が合流する地にある芭蕉史跡展望庭園に移設されている。

 見学不可の資料館、庭園 深川江戸資料館へと水路内を歩くが、工事中で次の橋で川を出て猿江地区。大横川を猿江橋で渡り森下地区となり、深川方向へと新高橋で小名木川を越し白河地区であったが、深川江戸資料館迄は大分距離があった。ようやく着いたがなんと改修工事で閉館中。期待した芭蕉句碑も外ではなく地下展示室にあり、お目に掛れない。次に期待した都立清澄庭園も入園停止期間の張り紙があり、残念。ここにも芭蕉句碑があったのだ。
 深川では、資料館隣の霊巌寺境内で江戸六地蔵(写真下)に挨拶したのが唯一となってしまった。大江戸線清澄白河駅が近く、地下への入口を探し帰途に就いた。(2022/3/27 K.K. 1438/1500)

◇日時 2022/03/10 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 昭文社「東京都市図48深川、41亀戸、40両国」2004.4版 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅8:40-東西線大手町駅9:30-同木場駅9:40=大横川橋9:50=新扇橋10:25=小名木川橋・五本松跡10:45=霊巌寺六地蔵11:35=大江戸線清澄白河駅11:49-三田線春日駅12:06-自宅13:05

都内四谷荒木町から赤坂迎賓館へ

 大分前になるが、“四谷界隈谷めぐり”という資料を入手していた。谷というのは大げさだが都心の住宅街なのに凹凸、段差が激しい地で坂が多い地らしい。程よく寺社があり、私の里歩きコースに合う。それに安近短である。資料を良く見たら赤坂迎賓館へ続くという。同館は公開されていると知る。

 坂を上下し荒木町 新宿線曙橋駅からスタートし、駅上の靖国通りは低地を通り、左手の坂道を上がる。近くに大先輩のお宅があり数回お邪魔したがこの坂は約20年振りだろうか。大通りへ上がり横断し荒木町エリアで、最初のポイント金丸稲荷神社を探す。家並の間の小路を上下すると小公園の端にあった(写真上)。参拝し、下って石段を降りると左手にあるのが津の守弁財天社。境内には小さな策の池。谷底なのだろう。また手を合わせ、坂を上がる。回りには料理屋風の建物があり、先輩に聞いていたが元は三業地らしい。車力門の坂を上がり切り、新宿通りへ出る。

 早咲き桜に出会う 大通りを渡り、今度は下り坂の円通寺坂。寺が続く中、境内に咲く桜を見付け足を踏み入れ眺める。満開で、河津桜だろうか(写真中)。須賀神社の参道へ右折し、広めの境内を進み社殿で詣でる。孫達の成長やコロナ退散をお願いした。当社は二度目で、四谷のお岩神社が近くその時に寄っていた。
 四谷の住宅街を、JR中央線を目指すがいつもの山勘が働き、出羽坂を右に見て、高架下を過ぎると正面に大きな樹林が聳え続き、迎賓館のある赤坂離宮だろう。門に近づいて見学用西門は先だと教えて貰う。フェンス沿いに緩い坂を上がり西門へ至る。

 迎賓館庭を見学 入館は、私は予約なしで、庭園見学。早速大クスが出迎えてくれた。鬱蒼と繁り並ぶ常緑樹の大木は美しく、カメラに収めた。本館の前へ出て、主庭とあるがこの時期咲く花は乏しい(写真下)。その上噴水のある庭には入れない。ウロウロしながら、迎賓館本館へ向け2,3度シャッターを切った。
 前庭へ回るがこちらも何もない広場風。案内板があり、紀州徳川家の中屋敷跡で、明治期は東宮御所とある。その中に、戦後内閣法制局として利用されたとあり、思い出した。私が関与している現行法律案の審議も迎賓館で行われたと聞いていた。昭和25年頃で、帰宅後百年史を捲ると、“当時の内閣法制局は、古びた赤坂離宮の中にあり、くる日もくる日も通って、朝から晩まで法案の審議をしていただいたように思う。・・・昼休みに裏庭でわれわれと参事官の方々とソフトボールをして遊んだ”(「工業所有権制度百年史別巻」564頁)とあった。
 四ツ谷駅へ歩き地下鉄南北線に乗り春日駅で乗換帰宅した。(2022/3/20 K.K. 1437/1500)

◇日時 2022/03/05 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 「四谷界隈谷めぐり」 (JR東日本大人の休日俱楽部2021)◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅9:10-新宿線神保町駅9:53-同曙橋駅10:05=金丸稲荷神社10:15=津の守弁財天社10:20=須賀神社10:40=出羽坂下10:50=赤坂迎賓館11:00/11:30=南北線四ツ谷駅11:37-三田線春日駅11:50-自宅12:20

活け花展を覗き、湯島から都心日本橋を巡る

 2月末は湯島天神の梅祭りに合わせ、恒例の活け花展が開かれ、今年も旧友から案内があった。鑑賞後御徒町へ歩き、地下鉄銀座線で日本橋へ出て、また芭蕉句碑を探すことにした。歩き足りない分は、付近の神社を巡りたい。

 湯島活け花展へ 大江戸線本郷三丁目駅から春日通りで湯島天神を目指す。殆ど毎年この時期歩くコースで、途中から湯島切通しへ向け下り坂となり10分強だろう。予定通り参道から境内へ。梅も咲いているが今年は遅そう。
 人出の中、先に活け花展会場へ入ると、Wさんが出迎えてくれた。案内して貰い、一回り。今年は出展数が少ないように見える。Tさんの作品は、シンプルだが春を感じさせる優美なもののよう。Wさんのものは多彩で絢爛な花々は美しい(写真上)。カメラに収めた。作品整理で忙しいTさんに軽く挨拶し、会場を出た。湯島天神社殿前で、孫2人の合格祈願。昨年11月北海道から上京した娘とも、お願いしている。裏参道を出て、また春日通りを御徒町へ行く。思ったよりは距離はなく、前方に山手線高架が見え始め、銀座線地下鉄駅はその手前。

 松尾桃青の句碑 上野広小路駅から三越前駅まで乗車し、複雑な地下商店街を抜け、日本橋室町にある鮒佐店前の芭蕉句碑を探す。海苔店の老舗を見て、事前調査の通り小路奥の左手にあった(写真中)。“発句なり 松尾桃青 宿の春”の句で、江戸へ出て宗匠(俳句の師匠)となった初期の頃、1679(延宝7)年に詠んだもので、意気軒高な気概が素人にも窺える。桃青は芭蕉の前の俳号。深川へ隠棲する迄日本橋に住んだとある。鮒佐は佃煮店だと思うが閉店中であった。
 都心に神社を巡る 近くにある福徳神社は一本通りを違えたが着いて、意外にも立派な境内のある稲荷神社。ビルの間の祠程度と思っていた。境内端には薬粧神社があった。日本橋の一画に製薬会社の東京支店が集まり東京の道修町(大阪の薬の町)と呼ばれることを思い出した。軽く手を合わせ、隣の福徳神社に参拝。コロナ退散等をお願いする。当社の歴史は古く、江戸入封した家康や秀忠も参詣したとある。

 表通りへ出ると三越前。老舗も現在では小さ目の店舗ビル。玄関のライオンを眺めて(写真下)、カメラに収めた。先程地下鉄銀座線の中で、中学の修学旅行時三越前駅から上野駅迄乗車したことを思い出した。最近こんな昔のことを思い出すことが多く、年齢の所為は否めない。北上し江戸通りへ出て、神田方向へ左折すると、最後の白旗稲荷は常盤小の裏に見付かった。こちらは建物の間の社。またコロナ終息等を祈った。山勘で、東京駅北口から大手町が近いだろうと歩いたが、結構遠かった。(2022/3/13 K.K. 1436/1400)

◇日時 2022/02/27 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇資料 「中央区・お江戸下町神社案内」 ◇歩行距離等 10,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅12:10-大江戸線春日駅12:51-同本郷三丁目駅13:00=湯島天神13:10/13:30=銀座線上野広小路13:40-同三越前駅13:50=鮒佐店前句碑13:55=福徳神社14:00=白旗稲荷神社14:25=三田線大手町駅14:48-自宅15:30

都内中野蓮華寺、哲学堂から豊島トキワ荘へ歩く

 昨年秋、光が丘公園から練馬の寺院に芭蕉句碑を訪ねたが、最後に予定していた蓮華寺は疲れで断念してしまった。再チャレンジへと調べると、蓮華寺は中野区内で哲学堂の近くと分かった。最寄り駅として、大江戸線落合南長崎駅もあり、駅を挟んだ反対側の豊島にマンガミュージアムトキワ荘が再建されたと知った。

 新青梅街道を歩く 大江戸線を都庁前駅で乗り換え落合南長崎駅に降りた。構内地図で確かめ、新青梅街道へ出てスタート。住宅街と思うが広くはない舗道の両側には商店が続く。初めての地で持参地図と町名が頼り。15分程過ぎ左手に野球場の高いネットが見え、哲学堂公園。次の交差点手前に蓮華寺の案内があり、小路の坂道を上がると蓮華寺であった。
 蓮華寺 本堂前で軽く手を合わせ、境内に句碑と塚を探す。中心部に芭蕉翁と刻んだ石碑があり(写真上)、芭蕉塚。塚とは盛土のものと思っていたが、石碑も塚というと知る。肝心の句碑が見付からない。境内をウロウロしたが、結局は芭蕉塚隣の石碑と推測しカメラに収めた。刻まれた句は“初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり”とある筈だが、もう読めない。伊賀越えの山中で初時雨に遭遇した時、1689(元禄2)年に詠んだと知る。帰宅後推測通りと分かった。

 哲学堂 交差点を渡って哲学堂公園へ入り、運動場を抜けて、哲学堂へ。哲学者井上円了が哲学を理解し広めるため、視覚的に表現した五つ程の建物がある。私は再訪で赤色の六賢台(写真中)は見覚えがあった。井上は現東洋大を創立した方で、孫が一年生に在学し、哲学堂や井上のことを知っていた。墓も、蓮華寺芭蕉塚の隣にあった。
 道を誤ってトキワ荘へ 新青梅街道を歩きながら、哲学堂からトキワ荘へ歩いたこと(16.9.28)を思い出し、これが災いし時間を喰ってしまった。いつもの早とちりで、新青梅街道を直進すれば右手がトキワ荘の位置と思い込み直進を続け、山手通りを渡ってしまった。ようやく誤りに気付いて戻り案内板で、手前の左手と分かった。現トキワ通り口を見付け進入し、松葉中華店前を過ぎ、花咲公園の奥にアパートトキワ荘があった(写真下)。

 手塚治虫を中心に、昭和27年から多くの若手漫画家達が暮らし活躍したのがアパートトキワ荘。近くの南長崎にあったが老朽化で壊され、この度この公園に再建され、前回見たミニュチュア通りの古そうな二階建て長屋風のアパートが建っていた。前回、別の場所に一部が再現された寺田ヒロオの部屋を覗き、4.5畳の狭い部屋に机や卓袱台が置かれ、乱雑に酒瓶が立ち並んでいたのを見ている。今回は外からカメラに収め、落合南長崎駅迄歩く気力を失い、公園前のバス停で新宿駅西口行きに乗った。(2022/3/6 K.K. 1435/1500)

◇日時 2022/02/24 ◇天候 晴れ ◇資料 昭文社「東京都市図・21練馬」2004年 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 「通過時間等」自宅9:05-大江戸線春日駅9:49-同落合南長崎駅10:20=蓮華寺10:40=哲学堂公園11:00=山手通り11:45=トキワ荘12:10=花咲公園バス停12:20-都電荒川線鬼子母神駅12:40-三田線西巣鴨駅13:03-自宅13:30

東十条銀座から北本通りを王子へ

 昨年入手した北区ガイドマップから未訪のコースを見付け、里歩き候補としていた。今回マップを出し、JR十条駅から同東十条駅へ下り、東十条銀座通りを抜け北本通りへ出て、王子駅へ至るコースを思い付いた。コースには社が点在しポイントになる。

 演芸場通りから富士神社へ JR十条駅をスタート。十条銀座口を右折して踏切を渡る。都内で踏切があるのはこの辺りの埼京線のみだろう。狭い商店街で、現在は演芸場通り。篠原演芸場があり(写真上)下町商店街である。
 商店街を出て左折し、富士神社に寄る。大きな富士塚があり工事中とは知っていたが完成したのではと期待したが、真っ平らで未完成。反対側の江戸中期からある古刹真光寺を覗いて、本郷通へ戻る。日光への御成街道だがこの辺りは狭い。左折し坂を下り東十条駅へ。駅前の子育地蔵に挨拶し、孫達の受験をお願いする。試験は始まったと連絡があった。

 歌手寄進提灯びっしり 京浜東北線等を高架で渡り、東十条銀座通り方向へ左折。とげぬき地蔵がある筈だが見当たらない。目当ての郵便局の隣は工事中でお隠れしているのだろうか。直進し東十条銀座通り交差点に、見守地蔵があった。祠内を見てびっくり。名入り寄進提灯が飾ってあり(写真中)、真田ナオキ初め演歌歌手の名が多い。横には森山愛子、工藤あやの(山形出身)、正面には坂本冬美や山内惠介迄多数ある。この辺りに住んでいるからかと想像したが、商店街入口にミュージックホールがありビル壁にも歌手の大小のポスターが所狭しに貼ってあった。私は最近主にBSで歌番組を楽しんでいる。その馴染みの歌手達である。
 北本通りを装束稲荷へ 商店街は両側に店舗は続くが、ビルはなく食料品店を中心とした下町風。人通りもある。店舗も疎らになると北本通りで、王子方向へ右折。通り下は地下鉄南北線が走っている。庚申観音堂を探すが見付からない。地下鉄王子神谷駅の上だろうと戻り横町へ入るとあった。今度もコロナ退散と孫達をお願いした。

 最後は王子装束稲荷とし、北本通りを歩き続ける。地下鉄一駅で1km強だろうが結構遠い。そろそろかと左手を覗き小路へ入ると少し先がお稲荷さんであった。鳥居から社殿前でまた参拝。大晦日に狐に扮した地元の方々が、伝説に倣い王子稲荷へ参詣するのが恒例という。二度目で(21.5.15)、扉の狐の面が目に付き(写真下)、カメラに収めた。北本通りへ戻り、都電荒川線王子駅から帰宅した。(2022/2/26 K.K. 1434/1500)

◇日時 2022/02/18 ◇天候 晴れ ◇資料 「北区ガイドマップ王子・十条エリア」令和1年 ◇歩行距離等 12,000歩 8㎞ 
「通過時間等」自宅9:20-JR板橋駅9:56-同十条駅10:00=真光寺10:10=子育地蔵10:15=見守地蔵10:30=東十条銀座商店街10:35=北本通り10:45=庚申観音堂10:50=装束稲荷11:15=都電荒川線王子駅11:30=三田線西巣鴨駅11:50=自宅12:20

都内駒込染井地区を巡り西巣鴨へ歩く

 そろそろ歩こうとして、予防効果の期間経過を待っていた。それでも遠出は気が乗らず、近場にしようと思う。そんな折、バンフ資料の下から、JR駒込駅周辺の略図が出て来た。大分前駅で貰い、大塚駅周辺は歩いている。ざっと眺め、駒込駅からも歩いている筈と記録と記憶を捲ったが、出て来ない。では歩こうと出掛けた。我が家からは近い。

 巣鴨駅から駒込駅へ JR巣鴨駅傍に染井吉野の碑があると掲載され、三田線巣鴨駅を地上へ出て、山手線手前に見付かった。染井吉野の文字と関八州の地図が刻んだ石碑。駒込駅裏にも記念碑があるが、何故だろうと首を傾げた。
 駒込駅へ歩く。一駅だが距離はなく10分程度で駅が見え、手前の大国神社に挨拶し、駅前商店街の小路へ入り日枝神社を探す。右手の階段を上がるとジャスト神社。都会風のシンプルな社。コロナ退散をお願いした。
 染井吉野桜の里 駒込駅へ戻り、裏の染井吉野記念公園に寄る。ここには立派な記念碑(写真上)があることは知っていた。江戸時代末期当地染井村の植木屋が品種改良した園芸品種で、明治以降全国に広まったとあり、私は駒込が染井吉野発祥のご当地と理解していた。本郷通り・御成街道を少し下ると子育て地蔵尊。孫達の成長をお願いした。この通り2,3度上下しているが、初めての参拝。次の妙義神社の入口の案内を見付け横道へ進入。太田道灌が勝利祈願したというから古社を期待したが、改装顕著な新しい社殿。簡単に手を合わせた。携帯が鳴り先輩から。私の本記録の読者で最近届いていないとのことで、再送を約束した。駒込は文京区と思っていたが豊島区とあり少し驚く。

 染井坂を上がり駒込小学校を過ぎると門と蔵のある広場。江戸後期の腕木門で(写真下)、近くにあった津藩藤堂家下屋敷の裏門とある、丹羽家は名主で大きな植木職人であったという。再訪かなと思ったがはっきりしない。
 染井稲荷神社へ寄ろうと戻る。首尾よく見付かり、朱の幟の間から参道を進み、手を合わせた。染井通りを歩くと本郷高校がある。そして染井温泉の前。利用したことはない。
 染井霊園から西巣鴨へ 十二地蔵は見逃したのか、染井霊園内となる。桜の時期に巡ったことがあるが、久しぶり。有名人の墓石の案内があり、文士が多い。その中で、末弘巌太郎が目に付いた。戦前の東大教授の法学者で、私の書棚にも著作本(「工業所有権法」新法学全集昭和17年)があり最近も学者による最初の解説書と紹介した。霊園を直進し慈眼寺で、芥川龍之介の墓があると知る。出来たら西ヶ原公園へと考えていたが方向違いのよう。住宅街を抜け、山勘通り白山通りへ出て、都電荒川線踏切を越し、三田線西巣鴨駅へ歩いた。帰宅したら先輩から、記録は届いていたと電話があった。(2022/2/21 K.K. 1433/1500)

◇日時 2022/02/12 ◇天候 晴れ ◇資料 JR東日本池袋地区「散歩マップ駒込駅」平成15年 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅10:00-巣鴨駅10:30=染井吉野碑10:35=大国神社10:50=日枝神社10:55=染井吉野桜記念公園11:00=子育て地蔵尊11:05=妙義神社11:15=門と蔵の広場11:25=染井稲荷神社11:30=染井霊園11:40=慈眼寺11:50=都電荒川線踏切12:00=三田線西巣鴨駅12:10=自宅12:35

板橋西台、志村界隈寺社巡り2022

 前回に引き続いて、近くの寺社巡りとした。今回は、我が家の東南の方向で、徒歩圏内である。手許にある“観光いたばしガイドマップ”からルートを思い巡らした。殆どは再訪であるが、久しぶりである。以前は初詣であったが、今回も未だ小正月前だから許されるだろう。

 京徳観音堂から 我が家から高速道路下へ出て歩く。高島平六の橋交差点を渡り、前谷津川緑道を行く。この緑道は昨年の脱巣ごもりハイクで知った。最初は京徳観音堂で、左折点を探しながら行く。そろそろかと住宅街小路へ入ると、土手下の路傍に石像があった(写真上)。これかなと思ったが、直ぐ右に石段があり、上がるとお堂があって京徳観音堂。参拝後広くはない境内を眺め回すと見覚えがある。記憶を辿ったが、通りすがりだったかもしれない。
 西台天祖神社 西台天祖神社を目指す。この辺りは台地で坂が多い。道路工事中で、ガードマンが通行を指示している。ついでに神社の方向を教えて貰い、坂道を上がる。学校の先で左手の坂を下ると参道へ出た(写真下)。再訪だが、何年振りかはもう不明。石の鳥居から本殿前へ進み手を合わせ、受験生孫の合格とコロナ退散をお願いした。境内は広く、神楽殿や神輿庫、そして稲荷神社もある。入口脇の塚は御嶽神社であった。

 蓮根氷川神社 社を出て坂を下り、次の志村氷川神社へ向け坂を上がり、西台田端公園を通ってまた坂を下る。そうしたら、高速道路下であった。それも四面歩道橋のある西台駅から直線の位置。山勘が当たり、歩道橋を渡ってバス通りへ入る。予想通りに氷川神社前であった。また社殿前へ進み詣でる。この時期境内には人影はない。
 探し損ねた御成塚 バス通りをそのまま直進し、御成塚を探そうと御成塚通りの坂下地区をウロウロしたが見付からない。江戸時代将軍家光や吉宗が鷹狩りに訪れて、古墳の塚上で指揮したという。通り名に拘って探したが、通り外の志村公園内であったらしい。探し損ね城北公園から高島通りへ出る。ここまで来れば、私にはわかり易い地区。蓮根駅先で三田線高架下を過ぎ、左手の志村福祉事務所先にある蓮根馬頭観音堂に寄り、手を合わせた。
 西台駅前ストアで、インクカートリッジを購入し、三田線で帰宅した。正午を過ぎていた。(2022/2/11 K.K. 1432/1500)

◇日時 2022/01/13 ◇天候 晴れ ◇資料 「観光いたばしガイドマップ」 ◇歩行距離等 13,000歩 10㎞ 
「通過時間等」自宅10:05=六道の辻交差点10:30=京徳観音堂10:45=天祖神社11:00=氷川神社11:15=蓮根三田線高架下12:00=馬頭観音12:05=三田線西台駅12:18-自宅12:30

板橋赤塚界隈寺社巡り2022

 2022年新年も、駅伝テレビ観戦で迎えた。母校は、箱根路を往復走り抜き久しぶりのシード権を獲得した。1区の快走が引っ張ってくれた。前日のニューイヤー駅伝でもOBが活躍し前兆を窺わせた。10区では3位でタスキを受けそのままゴールを期待したが、隣で観戦していた同窓生にそこまではと苦笑された。私の初詣は4日になった。

 四葉稲荷から 今年は近くの赤塚地区にある寺社を巡り歩くことにした。徒歩圏内で、本日は快晴無風でグッドデーである。郵便局にハガキを投函して、赤塚公園を通り越し、坂道を上がる。当地は久しぶりで、建物や店舗が増え風景が違っている。
 最初は四葉稲荷であるが、境内への右折地点を誤ってしまった。一昔前の周囲は畑地で、家屋も疎らであった。社殿前で手を合わせ、孫達の健康とコロナ終息をお願いした。隣の御嶽神社にも頭を垂れた。江戸末期には御嶽講もあったというから山岳信仰も盛んであったのだ。
 諏訪神社へ 新興住宅街を抜けて、諏訪神社を目指す。途中の土手下では、子供とザリガニを捕まえた沢らしき湿地があったのだが、舗装されてその痕跡もない。坂道を上がった右側にある表参道から諏訪神社へ入り参拝。我が地区の氏神様で初詣先であり、嘗ての三が日は賑わい売店テントも並んだ。本日は極わずか数人だけ。参道を戻り、集落先の富士塚に寄る。下から覗いてuターン。狭い上に急で登るのは省略。

 松月院、赤塚城主墓 車道を高架で渡って、こぶケヤキを見上げる。往時は諏訪神社の参道であったという。孫4人を連れ散策した時、この辺りで一番下の孫が転んで怪我したこと(14.4.5)を思い出した。その孫も今年は高校受験生。いつもとは違うコースで松月院へ。広い境内の本堂前で手を合わせ、墓地で赤塚城主千葉自胤一族の墓に参る。小さな石塔が並び戦国時代から遺ると知る。
 乗蓮寺、東京大仏 坂を下り乗蓮寺へ向かう。参拝者が多い中、石段を上がり東京大仏前で(写真上)、また色々お願いをした。大仏様の裏に、天保の飢饉供養塔や板橋郷主板橋忠康の墓、津藩藤堂家江戸屋敷伝来のがまんの鬼像等もあった。当寺は板橋本町にあった古刹で、高速道路建設で当地へ移転して、これらは引き継いだのだろう。
 境内を出る時、植村直己の墓を思い出し寄る。草野心平作の墓碑“地球にはもう彼はゐないけれども生きてゐる 修身に化けて植村直己は私たちの中に生きつゞける”があった(写真下)。何故か歩き疲れて、不動の滝の僅かな落水を眺め、帰宅した。お正月の暴飲暴食の所為だろうか。(2022/2/2 K.K. 1431/1500)

◇日時 2022/01/04 ◇天候 晴れ ◇資料 「観光いたばしガイドマップ」 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 通過時間等」自宅13:00=赤塚四葉稲荷神社13:30=赤塚諏訪神社13:45=松月院14:05=乗蓮寺14:15=不動の滝14:30=自宅15:10

西早稲田から夏目坂、牛込柳町へ歩く

 早稲田にある夏目坂を思い出し歩きたくなった。ラジオかテレビから耳に入ったのであったろうか。一度歩いたが大分前である(03.6.7)。都電荒川線面影橋駅から早稲田へ出て、夏目坂を上がり牛込方面へ行き、芭蕉句碑のある瑞光寺を探したい。今年最後の里歩きである。

 甘泉園、水稲荷 西巣鴨新庚申塚駅から乗った都電を面影橋駅に降りて、歩き出す。甘泉園公園へは記憶通りに着いて半周。大名屋敷に由来する小さな庭園だが、この時期松の木の雪吊り風景が見られ(写真上)、アングルを探した。土手を上がり、隣の水稲荷神社へ。参道には、堀部安兵衛高田馬場仇討ちの案内があったと思うが、見当たらないまま参拝。西参道を出て、早稲田大学方向へ歩き大通りを行くと、右手が穴八幡神社。裏手から境内へ入ると、参拝者が列をなしている。本日祭礼日かなと疑うが不明。人出は避けて、列外から手を合わせて境内を出た。

 夏目坂を上がる 地下鉄東西線早稲田駅口を過ぎ右折し、夏目坂。坂の由来の案内があり、漱石ではなく当地の地主であった彼の父が呼んだことからのネーミングとある。緩やかな坂を上がり続けて、喜久井町となる。寺が多く寺町風。私は、有島武郎旧居跡へとマップを覗き、戻る。夏目坂に別れ右折し進むと、有島旧居跡の案内があった。晩年1年ほど住んだ地らしい。

 漱石記念公園 漱石記念館の案内を見付け、住宅街を右往左往し記念館前へ至るが、年末で閉館中。隣が記念公園で、漱石胸像があった(写真中)。終焉の地という。奥に猫塚があったらしいが見逃してしまった。住宅街を出て、大通りを都営大江戸線牛込柳町駅へ歩く。途中、関孝和の墓の案内があり、浄輪寺に寄る。立派な墓石塔があった。私は江戸期の和算家位しか知らない。

 句碑を探し当てる 牛込柳町駅のある交差点から裏へ回り、瑞光寺を探すが見当たらない。通り掛った方に町名を尋ねると方向が90度違っていた。私は大江戸線の上の大久保通りを歩いていたと思っていたが外苑東通りで、牛込柳町交差点へ戻り、地下鉄口を過ぎて坂を上がり始めると寺院があり、目当ての瑞光寺。一安心し本堂前で手を合わせ、眺めまわすと、正面左にそれらしい石碑があり(写真下)、カメラに収めた。帰宅後ネットで調べると違いなく、“百歳の気色を庭の落葉哉”の句碑とあった。(2022/01/25 K.K. 1430/1500)

◇日時 2021/12/30 ◇天候 晴れ ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 新宿区立漱石山房記念館「漱石の散歩道」 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 
通過時間等」自宅9:30-都電荒川線新庚申塚駅10:10-同面影橋駅10:30=甘泉園公園10:35=水稲荷神社10:45=穴八幡神社10:55=夏目坂11:10=有島武郎旧居跡園11:25=漱石記念公園11:30=関孝和墓11:40=瑞光寺12:10=都営大江戸線牛込柳町駅12:20-三田線春日駅12:30-自宅13:10

道を誤った小田急自然ふれあい歩道鶴川駅コース

 小田急自然ふれあい歩道を歩いた。弟と一緒で、2人の中間的地の鶴川駅コースを弟が選んだ。ネットからコースマップを打ち出し出掛けた。小田急新宿駅からの車中、鶴川駅到着とのメールが届いたが、弟先行はいつものこと。新百合ヶ丘駅で鈍行に乗り換え、鶴川駅に降りた。初めてかなと思ったが、白洲次郎宅武相荘を訪ねた(06.12.23)のはこの駅からと思い出した。

 鶴川駅コースをスタート 弟の後ろに付いて鶴川駅をスタート。快晴無風でハイキング日和。出発前天気を調べ、この辺りは東京町田、横浜、そして川崎と入り組んでいると知った。直ぐ川へ出て、鶴見川という。本村橋を渡り、坂を上がって岡上地区へ入る。周囲はローカル的な里村風景。神社の幟があり社殿を探したが見付からない。交番前で右折し直進すると学校があり、コース上と分かった。左右に農地が広がる中、緩い坂を上がり続ける。左手の柿畑はコースマップにもある。丘上へ上がると大通りに突き当り右折。左下は緑山のグランド。TBS緑山スタジオだろうか。そのまま大通りを歩き下り坂となる。弟がマップを覗きながら先行している。後にこの手前で右折するのが鶴川駅コースであったと反省。
 右折地点見逃し玉川学園前駅コースへ 住宅街へ至って奈良町小公園で休憩し、荷物を交換する。弟は私の好物を持参してくれ、私は到来品お裾分けである。更に下り右折した先に売店があり、手作りパンを求め、弟が道順を確かめた。里山地区へ入り、突然弟は、“前歩いた所”と声を出した。正面の田圃風景を凝視し私も蘇った(写真上)。玉川学園前駅コースの土橋谷戸であった(20.1.11)。やはり右折地点を通り越してしまい、隣駅玉川学園前駅コースへ入り込んでいた。小田急設定コースはマップのみで、現地に何ら案内標識がないのが難点だ。

 駅前で昼食 玉川学園前駅へ歩く外はなく、雑木林中から石段歩きを繰り返し(写真下)何とか昇り切って安心したら、玉川学園キャンパス内へ入ってしまった。守衛さんに駅への方向を教えて貰い、途中で思い出し坂を越して駅へ左折して下ると駅前へ出た。丁度正午で、中華店で昼食を取る。すきっ腹に温かいラーメンは旨かった。玉川学園前駅で弟と別れ新宿へ。途中下車し買い物の予定もあったが、荷物が重くその儘帰宅した。
 今回は道を誤り予定コースから外れてしまったが、特に鶴川駅コース完歩に拘りなく、リベンジしたい程のコースでもない。(2022/01/15 K.K. 1429/1500)

◇日時 2021/12/25 ◇天候 晴れ ◇交通費 690円 ◇資料 小田急「小田急自然ふれあい歩道鶴川駅コース」 ◇歩行距離等 15,000歩 11㎞ 
「通過時間等」自宅8:20-新宿線神保町駅9:05-小田急新宿駅9:31-同鶴川駅10:10=本村橋10:20=岡上小学校10:35=奈良町公園10:50=土橋谷戸11:25=玉川学園11:35=小田急玉川学園前駅(昼食)12:21-新宿線新宿駅13:25-三田線神保町駅13:33-自宅14:10

日光文挟から例幣使街道を歩く

 日光街道の杉並木は好みのコースで、数度歩いている。それが今市に追分がある例幣使街道にも杉並木が続いていると知った。例幣使街道は宮廷の勅使が京から日光東照宮例大祭へ通った街道。中山道を倉賀野で分かれ、佐野、栃木、鹿沼を通っている。鬼怒川からの復路に巡ろうと調べると、JR日光線文挟(フバサミ)駅から歩くと日光と鹿沼の境に寄進碑があり、それも見てみたい。

 車の往来激しい例幣使街道 東武線下今市駅からJR日光線今市駅へ出て、文挟駅に下車。車窓右手に例幣使街道を確かめると一度離れたが、また日光線と並行しているようだ。小さな木造駅を出て一旦戻って踏切を渡り、例幣使街道へ入る。両側に大杉が並列して続き、薄暗い(写真上)。少し歩いてこのまま前進するのはヤバいと気付いた。街道が狭い上に、車の往来が激しい。二車線ギリギリで、歩行の私は、車通過の度端に身を寄せる始末。それで、杉並木の外側へ出て荒れた野良道らしき踏み跡を歩くが、安全だがスピードは落ちる。私がこれまで歩いた今市先の日光街道杉並木は広く、遊歩道もあって違っていた。

 寄進碑の先北鹿沼駅は? 寄進碑を目指し進むが30分過ぎても未だ先のよう。ようやく右手に人家が見えるようになり、杉並木の出口が近いと思う。正面が明るくなり、日光と鹿沼の境の小倉地区で、境石呼ばれる寄進碑があった(写真下)。日光街道杉並木は、家康忠臣相模国玉縄藩初代藩主松平正綱が、1625(寛永2)年から植樹を開始し、24年に亘ってそれを続け、杉苗は紀州熊野産で、2万4300本を街道に植樹したとある。例幣使街道の杉並木も含まれる。この旨が寄進碑に刻まれ、子息正信が建立したという。
 休憩をし、次は何処の駅へ歩くか検討。JR鹿沼駅は遠い。文挟駅へ戻るのはとうに諦めた。スマホ検索して東武日光線北鹿沼駅を探し、近くはないが何とかなりそうと例幣使街道を歩き続ける。もう杉並木はなく普通の大通り。

 親切な鹿沼の方 鹿沼武士地区へ至り、北鹿沼駅方向へと右折したら行き止まり。工場前で道を尋ねると、駅は未だ距離があるという。戻ろうとしたら車で送ってくれると言われ断ったが、結局鹿沼駅迄送って貰った。些少の謝礼も受け取って戴けなかった。ただただ感謝に耐えない。鹿沼の方は親切と、鹿沼出身友人へメールした。
 例幣使街道の前に、帰京するメンバーと下今市駅から追分地蔵と報徳二宮神社を巡った。二宮神社は、あの金次郎さんが幕府の役人として当地で農村復興策指導に貢献し祀られたらしい。(2022/01/10 K.K. 1428/1500)

◇日時 2021/12/19 ◇天候 晴れ ◇交通費 1,930円  ◇資料 日光市観光協会「日光市周遊観光ガイドマップ」2013 ◇歩行距離等 16,000歩 11㎞ 
「通過時間等」宿泊先8:50-東武鬼怒川温泉駅9:21-同下今市駅10:00=追分地蔵10:10=尊徳二宮神社10:15=JR今市駅10:36-同文挟駅10:55=例幣使街道11:05=小倉寄進碑11:30=鹿沼武士12:10-東武鹿沼駅12:37-JR北千住駅14:47-三田線巣鴨駅15:12-自宅15:45

江東二神社に芭蕉句碑を訪ねる

 ネット情報に芭蕉句碑リストの搭載があり、都道府県別である。先人に感謝しながら時々覗いている。最近の都内歩きの大半で蕉句碑を追っているのは、同リストに依存している。江東の大島稲荷や富賀岡八幡にもあることが分かったが、2004年に一度訪ねている。その頃の感心先に芭蕉はなかった。再訪し芭蕉句碑を確かめようと思う。調べると前回の時のマップがあった。

 句碑女木塚 大島稲荷神社の最寄り駅は、都営新宿線大島駅。我が家からはアクセス良く、神保町駅乗換で、1時間弱で歩き出す。丸八通りを東進すると5分程で神社であった。小名木川手前にあり、通りから境内へ入ると地元の方が作業中。茅の輪を造っているようだ。
 参拝し句碑を探すと、作業中の方が教えてくれ、入口左に芭蕉像と句碑女木塚があった(写真上)。案内には、元禄5年(1692年)、深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で当社に参拝し、“秋に添て行はや末は小松川”の句を詠んだとある。芭蕉庵は小名木川、隅田川合流付近にあったのだ。新しい碑も建ち、五月雨を集めて…の句で、奥の細道300年記念という。カメラに収め、小名木川沿いに歩く。久しぶり眺める川は記憶より広い。江戸も家康時代開削された旧中川と隅田川を繋いだ運河である。

 大石家住宅 次の仙台堀川公園へは、川を歩道橋で越した。古民家大石家住宅がある筈だが、意外に距離がある。残る紅葉を見上げながら、細長い公園を行く。そして見覚えのある茅葺古民家(写真中)に着いた。江戸後期築の家で、半農半漁暮らしであったとある。

 富賀岡八幡 葛西橋通りを渡り、少し先の交差点を右折。そろそろ八幡様があるとの山勘が当たらない。右奥に神社の屋根が見え、正面へ回り込むと静かな住宅の間に富賀岡八幡は鎮座していた。こちらも氏子の方々が作業中。神殿に挨拶し句碑を探すと、建設中の仮設通路脇に見付かった(写真下)が、カメラを向けにくい。“目にかかる雪やしはしの渡り鳥”とあるようだ(目を日、雪を雲とする句集もある)が、上手く写ったかは運に任せ。裏の富士塚を見上げだが、初めてのようだ。再訪の自信があったのだが、記憶にあったのは別の富士塚だろう。
 都営新宿線東大島駅迄戻るつもりであったが、永代通りにバス停を探す。大分歩いて錦糸町駅行きバスに乗れ、途中下車し都営新宿線住吉駅から帰宅した。
 先ほど仙台堀川公園付近で北砂の地名に出会い、叔父宅があった地で数回訪問していたが、思い出せたのは砂町銀座だけで、位置も分からなかった。叔父家族が引っ越したのは大分昔になってしまった。(2022/1/7 K.K.1427/1500)

◇日時 2021/12/12 ◇天候 晴れ ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 昭文社「東京都市図41亀戸、53砂町」2004.4版 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」自宅9:15-新宿線神保町駅9:57-同大島駅10:15=大島稲荷神社10:20=仙台堀川公園10:30=大石家住宅11:00=富賀岡八幡11:35=南砂バス停11:55-都営新宿線住吉駅12:20-三田線神保町駅12:40-自宅13:20

寺社を巡り、汐入公園を訪ねる

 荒川区にある汐入公園を知ったのは、入谷から南千住へ浅草国際通りを歩こうとした時である。隅田川沿いに広がる比較的新しい公園で訪ねようと思った。地図で見ると、付近には寺社がある。地下鉄日比谷線三ノ輪駅から歩き出せば里歩きハイクにはなるだろう。

 三ノ輪から白髭橋へ 地下鉄大江戸線を上野御徒町駅で日比谷線に乗り換え、三ノ輪駅に降りた。乗換が私の記憶と違い距離があり戸惑った。地下から明治通りへ出て、直ぐ目黄不動尊。通りに面し参拝。寺院かと思っていたが、お堂だけの小さなお不動様。江戸期から五色不動がありここはその一つで、御成街道沿いの本駒込に目赤不動があったと思う。 
 明治通りを歩いていると思っていたが地名が違い、正面のスカイツリーも大きくなって来る。地図を見直し戻る。左折を見逃していた。隅田川白髭橋が次のポイントで、ようやく橋が見え、手前を左折。

 石濱神社、汐入公園 広い一画だが家屋や高いビルもなく、都内では珍しい開発途上の地区のよう。汐入公園は平成18年に出来たとある。そんな地域の入口に石濱神社があった(写真上)。江戸期からの古社の筈で、社殿は新しいが、境内の石碑が歴史を示している。業平の都鳥歌碑があると案内があり、探したが見当たらない。古い石塔の一つがそうらしい。私は、言問橋付近がご当地と思っていたが、業平は白髭橋辺りで詠んだらしい。
 隅田川堤を歩く。川面に船が浮き、振り向けばスカイツリー。左手下が汐入公園で、堤を降りる。最近の都市型公園らしく、遊具を備えた広場やバーべキュー広場が目立つ。テニスコートはあるがグランドはない。周囲を近くの中学生達が集団で走っている。期待した樹林帯はなく街路樹程度(写真中)。公園を過ぎ、高層住宅街の先に、胡録神社があった。川中島の戦いで敗れた上杉方武将が落ち延び定住して、祀ったとある。聞いたことのない神社名で、手を合わせた。胡録は、矢を入れて携帯する武具という。

 芭蕉矢立初めの碑を知る 南千住駅から三ノ輪橋駅へ向け、日光街道へ出たいが距離がある。右手の隅田川から離れると日光街道へ至り、素盞雄神社が見え、立ち寄る。再訪で、社殿右に芭蕉句碑があるのは知っていた(写真下)。1820(文政3)年千住の文人達が建立した奥の細道への矢立初めの碑とある。いわゆる千住論争で、荒川区側が芭蕉旅立ちの地を南千住とする根拠だろう。私は句碑の一つと思っていたが違っていた。バスを待って、三ノ輪橋まで乗車し、帰途は都電荒川線とした。(2022/1/5 K.K. 1426/1500)

◇日時 2021/12/03 ◇天候 晴れ ◇交通費 160円 ◇資料 昭文社「東京都市図25
千住、30立石」2004.4版 ◇歩行距離等 15,000歩 11㎞ 
「通過時間等」自宅8:50-大江戸線春日駅9:30-日比谷線仲御徒町駅9:49-同三ノ輪駅10:00=目黄不動尊10:05=石濱神社10:45=汐入公園10:55=胡録神社11:20=素盞雄神社11:40-都電荒川線三ノ輪橋駅12:00-三田線西巣鴨駅13:06-自宅13:30

みちのく一ノ関に猊鼻渓、厳美渓を巡る

 JR東日本大人の休日俱楽部パス期間最終日は遠出し、みちのく北東北の入口一ノ関に猊鼻渓、厳美渓の名勝地巡りにした。先日若い友人に会った時一ノ関の話が出て、思い付いた。いずれも東北新幹線も停まるJR一ノ関駅から近く、交通の便は良く日帰り可能である。渓谷の紅葉は終えているだろうが、晩秋から初冬の渓谷美も良いだろう。

 一ノ関から猊鼻渓 東北新幹線を一ノ関駅に降り、大船渡線に乗り換えた。先に猊鼻渓とし乗車時間30分であり、列車は山間を走った。大船渡線は二度目で数年前気仙沼からの帰途乗車し、車窓から猊鼻渓を眺めたと思う。
 小さな駅に降り、渓谷の方向を確かめスタート。駅裏先が猊鼻渓だが回り込み、大船渡線高架下を抜け、砂鉄川渓流を少し遡ると猊鼻渓の入口であった。 
 舟着き場があり(写真上)、舟下りがメインと知る。両側は高い崖がそそり立ち、遊歩道はなく散策程度も出来ない。パンフによれば渓谷は上流へ続き、船から眺める外はないようだ。私一人を残し皆乗船した。駅から急いでいた高齢者達も舟下りであった。僅かに見える深い峡谷にカメラを向け、舟着き場付近をウロウロ。紅葉は終えている。事前調査が足りなかったと反省しながら駅へ戻った。

 再訪の厳美渓 厳美渓は一ノ関駅前からバスで20分程。市内を抜け郊外から少し走ると厳美渓であった。本日日曜日で人出は多い。私は、下流の御覧橋から歩き出す。磐井川の深い渓谷は流れも豊富。吊り橋を渡り、渓谷が見え隠れする右岸を遡上する。天工橋の先で渓谷内岩上に見晴台があり、濡れた岩肌をそろりそろりと歩き、狭い峡谷を覗き、シャッターを切った。断崖の間に急流が走っている(写真下)。“空飛ぶだんご”、対岸の店へ綱に吊るした籠を使い注文しだんご受け取る仕掛けを見て、再訪を確かめた。確か家内と、陸羽東線経由で山形東根の実家へ帰った時厳美渓にも寄ったと思う。もう40年も前のことだったろう。古い写真から86年8月と分かった。また渓谷沿いに遡りuターン。橋袂の土産店で休憩し、団子を頼む。寒くはなく、外で食べた。
 地酒をゲットし帰途へ バスで一ノ関駅へ戻る。車窓から眺める市街地は大都市風で、スマホで調べると盛岡市に次ぐ10万都市とある。芭蕉は、奥の細道で平泉を訪ねる際当地に二泊して、その跡地の案内もあった。駅で時間があり、売店を一回りし、地酒は“南部美人”、肴はウリ漬け“金婚漬”を求め新幹線に乗車。仙台駅で乗り換え、19時前に帰宅出来た。(2021/12/28 K.K. 1425/1500)

◇日時 2021/11/28 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、バス代1,000円 ◇資料「猊鼻渓舟下り」、「厳美渓観光ごあんない」◇歩行距離等 14,000歩 10㎞ 「通過時間等」自宅6:50-JR上野駅8:02-同一関駅10:17-同猊鼻渓駅10:50=猊鼻渓舟着き場11:00=JR猊鼻渓駅11:35-同一ノ関駅前13:00-厳美渓13:25/14:30-JR一ノ関駅15:51-同上野駅18:10-三田線巣鴨駅18:25-自宅18:55

栃木佐野に犬伏の別れの地を訪ねる

 犬伏の別れの史跡が遺ることを知ったのは大分前である。戦国期上田真田家の命運を決断した地で、池波正太郎著“真田太平記”で読んだと思う。それが佐野市犬伏で、薬師堂が現存し訪ねることにした。JR東北本線小山駅乗換両毛線佐野駅からである。

 例幣使街道を歩く 小山駅の両毛線乗換は時間が掛った経験があり急いだが、新幹線からは近くスムーズに両毛線列車に乗れた。30分程で佐野駅に着き、案内所を探し情報収集。駅から遠く、想定の20分はあっさり否定された。バスの便も悪く、歩く。両毛線と並行する例幣使街道先と教えて貰い、同街道へ出るにも時間を要した。歩きながら佐野市は歴史の町を感じる。
 例幣使街道はこの辺りは真っすぐな道だが、佐野から栃木、鹿沼、そして日光へと左の北方へ続くと思う。正面に見える山は三毳山か。ようやく犬伏地区へ入ったが、上町、中町、下町と続き、薬師堂があるのは新町で最も奥。犬伏小学校を過ぎ、前方に高い樹々が見え始め、薬師堂であった。50分過ぎていた。

 真田父子の犬伏の別れ 本堂で参拝し(写真上)、案内書きを読む。1600(慶長5)年、家康の下で会津討伐に向かっていた真田昌幸に、下野国犬伏で石田三成から密書が届いた。豊臣方への味方の要請で、真田父子(信之、信繁・幸村)三人は当薬師堂で密談し(写真中・上田博物館蔵図)、昌幸、信繫は石田方、信之は家康方に別れて戦うことにしたという。いずれが勝っても真田家名は残るとの選択と言われるが、私は昌幸の家康嫌いが根底にあったと思う。信繫は大坂夏の陣で倒れたが、信之真田家の松代藩は明治まで続いた。お堂をカメラに収め、uターン。歩き出したがまた50分の街道歩きは辛く、タクシー呼び犬伏小学校前から乗車するも、道路が混みあいノロノロ。

 晩秋の佐野城跡 駅に着いたが、小山駅行は一時間後。駅裏の佐野城跡を巡る。1602(慶長7)年唐沢山城主佐野氏が山城を廃し当地佐野に築城したが、1614(慶長19)年改易になってしまい、僅か10数年で廃城となった城。私は再訪で、城は連郭式の平山城であり郭や堀切、土塁跡が遺る。晩秋の城跡は紅葉が盛りで美しい(写真下)。シャッターアングルを探しながら、城跡を半周し、駅へ下った。
 小山は犬伏の続きの地で、三成挙兵を知った家康が、各武将に決断を迫った小山評定を開き、家康味方を確かめ、三成討伐のため西上を開始したのが小山で、市役所前にその記念碑があり、眺めたことがある。今回もと思っていたが、上りの新幹線が直ぐあり、途中下車はしないで、帰途に就いた。(2021/12/22 K.K. 1424/1500)

◇日時 2021/11/26 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、タクシー1400円 ◇資料 「佐野.下野国らーめんの郷」◇歩行距離等 16,000歩 11㎞ 
「通過時間等」自宅11:10-JR上野駅12:18-同小山駅13:02-同佐野駅13:40=例幣使街道13:50=犬伏小学校14:20=犬伏新町薬師堂14:30=犬伏小学校14:50-佐野駅前15:00=佐野城跡15:20=JR佐野駅15:57-同小山駅16:33-同上野駅17:19-三田線巣鴨駅17:37-自宅18:10

北向観音に詣で上田電鉄別所線を往復する

 JR東日本大人の休日俱楽部パス期間になり、行く先を検討した。料金に見合う乗り鉄としては首都圏外で、新幹線利用が良い。長野上田迄北陸新幹線に乗り、上田電鉄別所線で北向観音行きを思い付いた。一昨年の大洪水で千曲川に架かる鉄橋の一部が落ち、それが今春回復し完全開通したと知った。それに、北向観音には芭蕉句碑があるという。

 上田電鉄乗車 新幹線をJR上田駅に降り、上田電鉄別所線に乗車(写真上)。久しぶりで10年振りか。二両電鉄は千曲川を渡り、山間に広がる田園地帯塩田平を走った。同平は鎌倉時代信州北条氏が勢力を張り、国宝や重文の寺院や塔が遺って信州の鎌倉と呼ばれ、左手山裾の前山寺や塩田城跡は訪ねたことがある(10.4.18)。右手前奥は戦国期甲斐武田氏と当地村上氏が戦った上田原の古戦場で、武田方重臣板垣信方の墓があるらしいが駅から遠く未訪である。

 北向観音に参拝 別所温泉駅に着き、スタート。駅前通り左手の大通りから北向観音へ歩くが初めてのルートで、途中で右へ方向を修正すると観音堂裏手であった。
 表に回り参拝。孫達のことをお願いした。前に聳える桂は、小説愛染桂縁の木とは知っていた。その傍に芭蕉句碑は建っていた(写真中)。“観音のいらかみやりつ花の雲”の句で、深川の庵で浅草寺を詠んだという。当観音とは関係しないが碑建立者が選んだ句であろう。カメラに収め表参道から温泉街へ出る。
 中心には渓流が走っていたと思うが現在は舗装道。幸村の隠し湯石湯があり、確か池波正太郎作“真田太平記”に、信繁(幸村)が女忍者と入り情報交換した記述があったと思うが小説の話。右手の旅館を眺め、職場旅行で、大勢で宿泊したことを思い出した。翌日上田市郊外旧真田町の真田古城跡を巡り、家内の実家に世話になったと思う。

 開通していた赤い鉄橋 駅前土産店で軽食をし、上田駅行に乗車。千曲川手前の城下駅に降り上田駅迄歩き、千曲川に架かる赤い鉄橋を確かめたい。一昨年ぼきんと一部が折れた写真を見た。近くに住む家内遠戚の方から、暴れた千曲川の濠流の様子を聞いていた。
 大通りへ出て、上田橋から上流の鉄橋を見る。赤色の鉄橋は整然と繋がれている(写真下)。先程往きに通ったのだから当然だが、確かめた。写真は逆光で失敗。デジカメの操作が未だ十分ではない。千曲川右岸を遡上し踏切を渡り、土手を下りると上田駅で、少し待って、新幹線で帰京。呑み鉄用は地酒“喜久盛”にしたが、帰宅後味わった。(2021/12/15 K.K. 1423/1500)

◇日時 2021/11/25 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、上田電鉄 1,130円 ◇資料 別所温泉観光協会「別所散歩街歩きガイド」2021.11 ◇歩行距離等 12,000歩 9㎞ 「通過時間等」自宅8:30-JR上野駅9:38-上田電鉄上田駅11:10-同別所温泉駅11:45=北向観音11:55=別所温泉街12:05-上田電鉄別所温泉駅13:11-同城下駅13:40=上田橋13:45=JR上田駅14:40-同上野駅16:20-三田線巣鴨駅16:40-自宅17:10

練馬に光が丘公園から古刹を巡る

 購読紙に練馬光が丘公園銀杏並木の記事(11.8讀賣)を見た。黄金色に染まるとあり、見頃のようだ。過去二度誘われ訪ねたが、散っていた。少し時間が空いたからであったろう。この度は空かさず出掛ける。練馬にも、芭蕉句碑を見付け合わせて巡れば丁度良いだろう。句碑巡りは大江戸線から西武池袋線利用になる。

 三度目の秋の光が丘公園  我が家から光が丘公園は近い。バスで東武成増駅へ出て徒歩10分程。今回はこの最短ルートで、川越街道を渡り住宅街を行き、左手先が公園北口であった。園内は樹林に覆われ、紅葉中。欅や楓のようだ。
 期待して銀杏並木下を歩くが、一部は散り始めているようだ(写真上)。カメラに収めながら、並木路を出て振り返り、またシャッターを切った。園内に点在する紅葉を眺めながら、南口を出て大江戸線光が丘駅へ向かう。

 古刹は東の高野山 大江戸線の西の終点で、初めて乗降する駅。練馬駅へ出て西武池袋線に乗り換え高野台駅が、芭蕉句碑のある長命寺の最寄り駅。駅前案内図で確かめ、笹目通りへ歩き少し通り沿いに進むと左手奥が目指す寺院であった。
 広い境内で、先ずは本堂前で手を合わせ、寺の人らしい作業中の方に句碑を尋ねたが要領を得ない。メモを確かめ本堂前左に見付け、“父母のしきりにこひし雉子の聲”とある碑だが、芭蕉の文字は読める(写真中)。高野山で詠み笈の小文の句という。当古刹は東の高野山と言われ高野山繋がりだろうか。高野は当地の地名や駅名にもなっていると知る。山門から境内を出て、若しかして業界大先輩の縁で来院したかもしれないと思った。10年以上も昔のことである。

 中村橋駅から南蔵院 西武池袋線を中村橋駅で降り、初めての地に南蔵院を探すが遠い上に、目印の小学校も見付からずうろうろしたが、最後は宅配便の方に教えて貰う。こちらも古刹で、高い樹々が見える塀内で、大回りして参道から境内、本堂であった。簡単に手を合わせ、メモの通り句碑は薬師堂前にあった(写真下)。“魚鳥の心は知らずとしの暮”(…とし忘れ”とする文献もある)とある筈だが、もう読み難い。カメラを向け、寺を出る。前の通りは南蔵院通りとある。近くのコンビニで休憩しながら軽い昼食。
 予定では次は江古田の蓮華寺だが脚に疲れが出て諦め、練馬駅へ歩く。正面に西武池袋線の高架が見え始めたが距離がある。最近練馬を訪ね歩いているが、練馬区は広い上に練馬駅付近は複雑で、駅へは中々辿り着けない。今回もその思いも深めて、西武練馬駅から地下の大江戸線練馬駅へと下った。車中スマホ歩数計を見ると10kmを超していた。(2021/12/08 K.K. 1422/1500)

◇日時 2021/11/12 ◇天候 曇り ◇交通費 300円 ◇資料 昭文社「東京都市図20石神井、21練馬」2004.4版 ◇歩行距離等 17,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅8:20-東武成増駅9:00=光が丘公園北口9:15/9:30=大江戸線光が丘駅9:42-西武高野台駅10:05=長命寺10:15=西武高野台駅10:31-同中村橋駅10:40=南蔵院11:05=大江戸線練馬駅12:00-三田線神保町駅12:45-自宅13:10

三田線沿線を歩いて、湯島天神へ

 急に湯島天神参拝が決まった。北海道音更から上京する娘の子供の合格祈願に、同行することになった。地下鉄大手町駅待ち合わせ迄時間があり、折よく調査した三田線巣鴨駅や水道橋駅近くの芭蕉句碑を訪ねようと思う。その後千代田線で湯島駅へ、である。予定を娘にメールした。

 境内は菊祭り 三田線を巣鴨駅に降りる。地蔵通り入口の真性寺に芭蕉句碑があるという。地蔵通りはこれまでも歩いて、境内の六地蔵は知っていた。駅を地上へ出ると直ぐで、境内へ入った。丁度菊祭り最中で、鉢植え菊の花々が展示してある(写真上)。そして、左手に句碑があった(写真中)。案内があり、“白露も こぼれぬ萩の うねりかな”の句で、芭蕉が杉山杉風(さんぷう)別邸採茶庵に咲く萩を見て詠んだと知る。芭蕉の高弟で深川に在住し、庵提供等の芭蕉のスポンサーとの見方もある。六地蔵に挨拶し、境内を戻る。並ぶ菊の鉢を眺め、亡父も沢山作り並べて自慢していたのを思い出した。20年以上も前になる。

 句碑花見塚 三田線を水道橋駅に降りる。出口は後楽園とは反対側で、右手の坂を上がる。先に見える校舎の裏と山勘を働かせる。忠弥坂とあり、あの丸橋忠弥の槍の道場があった縁という。この前歩いた鈴ヶ森でも名前を見たばかり。校舎の裏へ回ると、昌清寺があり、門前左手に、句碑、花見塚があった(写真下)。“桜狩り きとくや 日々に五里六里”とあり、笈の小文で詠んだもの。当初の句碑は関東大震災で消滅し、昭和59年再建したという。カメラに収め、本堂前で頭を垂れ、uターン。

 大手町駅に着いたが、待ち合わせ時間には間がある。将門塚を眺めようと、地下道を皇居方向へ行き地上へ出ると、直ぐ傍で、塚の石塔前へ。周囲は整備されたビルの谷間の一画。以前の塚とは様変わりしていた。大手町交差点の角読売新聞社前で、箱根駅伝記念碑を眺める。100に近い優勝校が刻んであるが、母校の6連覇に目が向いてしまった。来年正月に期待しよう。

 湯島天神へ 大手町駅で娘に会い、千代田線を湯島駅に降り、天神様へと参道石段を上がる。この時期参拝者は少なく、参拝し合格祈願のお札を貰う。娘夫婦は、上二人の子供も当社に祈願し成就して、三人目の分。私は、長男の子供三男の分をお願いした。本日、結婚式があるようで、和装の花嫁、花婿一行が神殿へ入る姿を見た。この時期珍しいのではなかろうか。
 境内から裏参道へ出てバス停を探すがなく、湯島切通し坂上迄歩いてバスに乗り、三田線春日駅から我が家へとした。(2021/12/02 K.K. 1421/1500)

◇日時 2021/11/06 ◇天候 曇り ◇交通費 320円 ◇資料 昭文社「東京都市図23西巣鴨、35本郷」2004.4版 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞ 「通過時間等」自宅11:20-三田線巣鴨駅11:50=真性寺11:55=三田線巣鴨駅12:05-同水道橋駅12:10=昌清寺12:15=三田線水道橋駅12:30-同大手町駅12:35=将門塚12:40=読売新聞社12:50=千代田線大手町駅13:10-同湯島駅13:20=湯島駅天神13:40-三田線春日駅14:00・・・自宅15:00

上野公園、弁天堂、駅前商店街を歩く

 最近芭蕉句碑を追っている。上野駅近辺にもあると知り、山手線鶯谷駅をスタートし、上野公園から弁天堂、そして上野駅前の商店街を訪ねようと思う。弁天堂と上野駅前商店街に句碑があるという。私は、芭蕉句碑は案内板等があって当然と思っていたが、むしろ何の案内や説明もなく、寺社境内外れに放置されている例も多い。

 上野公園から弁天堂へ JR鶯谷駅から上野公園へ歩く。右手の坂の先が公園と思っていたが、寺と墓苑で最初から見通しが甘い。左折だろうと進むと、ようやく見覚えのある風景や建物が見え出し、公園の北端のようだ。久しぶりの園内で、樹木が覆い上野の森である。
 本日は土曜日で人出がある。博物館前、科学館前を行くと公園案内所があり、マップを貰う。庭園を公開している国立博物館は方向が違い戻るのは、諦めた。小さな野球場があり、正岡子規記念球場。確かベースボールを野球と訳したのは子規だったと思う。
 清水観音堂を左手に見て、不忍池側へと石段を降りる。弁天堂参道に芭蕉句碑を探すと、芭蕉翁と刻んだ石碑があった。参拝し、石碑建立の趣旨を社務所の方に尋ねると、調べてくれ不明と書いた文書を示してくれた。
 駅伝記念碑 不忍池畔に、駅伝記念碑があった(写真上)。1917(大正6)年奠都50年記念に三条大橋から上野不忍池迄、我が国最初の駅伝競走が行われその記念碑という。私は駅伝観戦が好きで、母校を応援している。先月箱根駅伝予選を通過し、伊勢路を走る全日本大学駅伝でも来年のシードを確保した。正月が楽しみである。
 不忍池から下町風俗資料館前を通り、上野公園正面へ出た。当公園は思い出が多い。中学修学旅行で叔父家族と面会した。現在でも、何故か中学同級生との待ち合わせは西郷さん前が定番だが、最近はご無沙汰である。上野駅口で、“ああ上野駅”の歌碑を眺める。集団就職時代のシンボルで、私の中学卒業時にも3月末に故郷から臨時列車が走って、少なくない同級生が上京した。あれから60年である

 花の雲句碑 芭蕉句碑を探し、右手の商店街へ進入する。大小の店舗が連なり、キョロキョロしながら行くが見当たらない。隣の通りかなとJR高架下へ出て、上野駅方向へ戻ると左手に石碑が二つあり、1985(昭和60)年東北新幹線上野駅開業記念碑と、芭蕉句碑(写真下)。加藤楸邨揮毫の“花の雲 鐘は上野か 浅草か”が自然石に刻んであった。地元商店街建立とある。それが芭蕉句碑とは少し渋いのではなかろうか。カメラに収め、人通りの多いアメ横を避け大通りを御徒町駅へ向かった。(2021/11/24 K.K. 1420/1500)

◇日時 2021/10/30 ◇天候 晴れ ◇資料 「都立上野恩賜公園案内図」令和3年1月 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅11:15-JR西日暮里駅12:35-同鶯谷駅12:45=上野公園12:55=弁天堂13:15=上野駅前13:30=上野商店街芭蕉句碑13:40=大江戸線上野御徒町駅13:58-三田線春日駅14:06-自宅14:40

甲州古道与瀬、吉野を歩き通す

 旧甲州街道のハイキング資料「甲州古道案内図」を入手し、大月から高尾へ向け歩き始めてから久しい。上野原迄は順調であったが、藤野を過ぎて吉野から躓いた。最初はコースを誤り、相模湖へ現甲州街道を歩いてしまった。リベンジハイクでは、与瀬への貝沢からの古道を探せず失敗し、それも二度である。ようやくショックも癒え、チャレンジした。

 三度目の貝沢口 前回(19.5.5)の帰途JR相模湖駅で入手した資料で、その時探し損ねた与瀬宿一里塚は、私の想定とは違い、貝沢から上がって戻った与瀬宿横道入口付近らしい。甲州古道は貝沢途中から沢を渡って土手を上がり、下流へ戻って横道入口へと入り組んでいると分かったが、後半の現況は不明。そんなルートを頭に入れ相模湖駅をスタートし、貝沢入口にあるラーメン店を目指した。三度目である。
 遂に探し当てた一里塚 貝沢口ラーメン店前を過ぎ、与瀬の横道地区へ坂道を歩く。坂途中で、右の貝沢方向の山中へと入る。最後の民家を過ぎ小さな広場へ至ると、奥にあった。ネット上の写真で見た一里塚を示す棒杭が立っていた(写真上)。確かめカメラに収めた。日本橋から16番目である。すぐ裏が貝沢渓谷。前回は先の上流付近で、横道地区へ強引に土手の仕事道を下りてしまっていた。一里塚は集落先と思っていたが、手前であった。反対側には相模湖が望め(写真下)、背後の高い山は丹沢端の大山であろうか。

 甲州古道を吉野へ 横道地区へ戻り集落内の甲州古道を行く。秋葉神社前から橋沢地区で、前回この辺りで諦めuターンした。山際に続く坂道を下り、古い集落は未だ神奈川の相模原で、山梨ではないと気付いた。前々回(17.10.26)、貝沢を直進してしまい陣馬山の派生尾根裾の奈良本へ出たが、その時の風景と重なり始めた。道端にキバナコスモスを見付け立ち止まり、シャッター切った。
 次の吉野へ向け、左手に90度ターン。そして、中高速道路を高架で渡る。左手先に見える高いアーチは相模川勝瀬橋だろう。
 吉野からバス乗車 坂道を下り続けるが、吉野地区の現甲州街道迄は距離があった。ようやく現街道との丁字路へ着き、吉野宿観光案内所前にバス停を見付け、藤野駅行を見ると10分後。先程相模湖駅前でチェックし、間に合えばと思っていたが、少し余裕があった。バスでJR藤野駅に着くと、直ぐ高尾行が来て乗車。近くの藤野名倉に住む友人へ連絡する間もなかった。
 今回は、与瀬宿一里塚を探し当て、吉野へ歩いて、積年の肩の荷を下ろした思いで帰途に就いた。(2021/11/17 K.K. 1419/1500)

◇日時 2021/10/24 ◇天候 晴れ ◇交通費 1,360円 ◇資料 JR東日本八王子支社「相模湖駅→上野原駅」 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 
「通過時間等」自宅8:25-新宿線神保町駅9:12-JR高尾駅10:19-同相模湖駅10:30=貝沢口10:45=与瀬宿一里塚10:55=吉野12:01=JR藤野駅12:09-京王高尾駅12:35-三田線神保町駅13:45-自宅14:20

大森貝塚跡からしながわ花海道へ歩く

 購読紙に品川の勝島運河沿いにあるしながわ花海道にコスモスなど秋の花が咲いたとの記事を見付けた(21.10.14朝日)。是非訪ねたいが、歩くには距離が足りない。地図を眺め、先に大森貝塚跡や鈴ヶ森があると知り、これらを含めコースを考えた。立会川駅付近には龍馬像があると分かり、興味を惹いた。

 大森貝塚跡へ 三田線三田駅から歩きJR田町駅で京浜東北線に乗り換え大森駅に降りた。多分同駅乗降は初めてと思う。ホームにわが国考古学発祥地の碑があった。北口を出て少し歩いた先に貝塚跡入口の案内があり、ビルの間の狭い階段を降りると線路際に古い石碑大森貝墟が建っていた(写真上)。1877(明治10)年東大に赴任する途中列車車窓から、米国人エドワード・S・モース博士が大森貝塚を発見したことは有名な話で、中学の頃社会科で習った。私も先ほど大森駅手前で、車窓から石碑を捉えた。
 鈴ヶ森 駅前通りへ戻り、鈴ヶ森への右折先を探すが地図上の通りがなく、右手に渡線橋を見付け強引に右折し広い線路帯を渡り、東海道側へ出た。これが正解だったようで、京浜急行線高架下から大森海岸駅を右奥に見て、東海道第一京浜を横断すると品川水族館前。北海道の孫達と魚やイルカを眺めたことがあった。10年以上も前のことであったろうか。旧東海道との三叉路が鈴ヶ森刑場跡。油井正雪の乱首謀者丸橋忠弥や八百屋お七の刑執行の跡が遺っていた。確か二度目だが記憶にない。

 龍馬像 旧東海道を上がる。そろそろ立会川駅かなと左手の商店街へ入ると、小公園に坂本龍馬像があった(写真中)。何故当地にと思っていたが、土佐藩鮫洲抱屋敷があり、この屋敷内に浜川砲台が築かれ、若き坂本龍馬もこの地で守備についたとある。龍馬の人気の証しでもあろう。カメラに収めたがマスクした龍馬では様にならない。浜川砲台も遺ると知り、そちらも探し当てると、ペリー来航後土佐藩が屋敷内に設けた砲台で、江戸湾へ向けた当時の大砲が復元してあった。

 しながわ花海道 隣が勝島運河で、土手沿いに花壇があり花海道(写真下)。コスモスやサルビア、マリゴールドが咲いているがコスモスは終わりのようで、疎ら。花々を眺めながら土手を行く。運河には大小の漁船などが係留してある。品川も東京湾沿いなのだ。キバナコスモスがあり、土手下からカメラを向ける。数年前夏場に江東木場公園で満開のキバナコスモスに出会い、印象深い。それと比較してしまうので、量も咲く花も物足りない。一応シャッターを切り、また土手上を歩く。運河も端へ至り、土手を反対側に降りて、京急鮫洲駅へ向かうが、少し距離があった。(2021/11/10 K.K. 1418/1500)

◇日時 2021/10/16 ◇天候 曇り ◇交通費 330円 ◇資料 昭文社「東京都市図68馬込」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 「通過時間等」自宅8:35-JR田町駅9:37-同大森駅9:50=大森貝塚碑9:55=鈴ヶ森刑場跡10:15=龍馬像10:35=浜川砲台跡10:40=しながわ花海道10:50=京急鮫洲駅11:05-三田線三田駅11:21-自宅12:10

都内麻布十番から御成門へ

 今年5月芝公園を歩いて、御成門は公園内ホテルの庭外れにあると知った。私は、増上寺の立派な山門を御成門と誤解していた。確かめようと思う。あの時、芝公園から麻布十番へ足を延ばそうと予定していたが、疲れてしまい途中で引き上げてしまった。今回は、麻布十番から御成門を予定した。

 麻布十番を巡る スタートを大江戸線麻布十番駅にし、我が家からの最短ルートを思い巡らした。結論は新宿線神保町駅から新宿駅へ出て、大江戸線乗換がベターだろうとその通りにし、約1時間で麻布十番駅に着き、長いエスカレータを乗り継ぎ地上へ出た。商店街にある野口雨情作“赤い靴”像を目指した。以前歌碑を探した時に存在を知った。
 小さな公園に、赤い靴の少女像は立っていた(写真上)。岩崎キミちゃんで、米人宣教師の養女になったが病気になり当地の孤児院で9歳の時亡くなったとある。異人さんと渡米はしなかったのだ。その所為か像は元気なさそうな表情に見える。今はマスク姿。赤い靴像は横浜山下公園にもあった。

 古刹善福寺、更科蕎麦の老舗 先へ進んで善福寺へ。一度訪ね大銀杏の大樹がある。再会し、樹齢700年の銀杏の木は元気で(写真中)、カメラを向けた。当寺には、江戸末期アメリカ公使館が置かれ、ハリスの記念碑があった。
 戻る途中、麻布十番には更科蕎麦のルーツ布屋太兵衛店が在る筈と思い出し、回り道すると偶然店前へ至り、大きな古い店舗が現存していた。同じく麻布永坂更科本店も近くにあるのだろうか。駅前の十番稲荷神社に石段下から軽く頭を垂れて、地下駅へ下った。
 増上寺三門、鐘楼 大江戸線を大門駅に降り増上寺へ。大門地区は繁華街で飲食店が並び、駅出口の十字路で方向を確かめ、増上寺の大門を見てから歩き出す。増上寺の大きな山門は、三解脱門とか三門と呼ばれていると知る。境内も直ぐの鐘楼をカメラに写す。前回、“鳴る鐘は芝か上野か浅草か”と江戸川柳に詠まれた歴史ある鐘と分かり、写真が欲しくなって立ち寄った。江戸初期鋳造の梵鐘とある

 御成門へ 隣のホテル敷地内へ入り、御成門を探す。右端の道路際と思うが広くて見えない。処がホテル側からは門の裏で、道路へ大回りして正面へ出た。思ったよりシンプルな大きめの普通の門(写真下)。菩提寺参拝時、将軍様のみが通る門で、江戸城側の北に設けられていたという。カメラに収めて駅を探すと三田線御成門駅は近かった。(2021/11/02 K.K. 1417/1500)

◇日時 2021/10/12 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス ◇資料 昭文社「東京都市図50麻布、51浜松町」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅8:25-新宿線神保町駅9:00-大江戸線新宿駅9:15-同麻布十番駅9:45=赤い靴像9:50=善福寺10:00=布屋太兵衛店前10:05=大江戸線麻布十番駅10:15-同大門駅10:20=増上寺10:45=御成門10:55=三田線御成門駅11:00-自宅12:15

江東の門前仲町から永代橋を往復する

 最近月一程度は江東区へ出掛け門前仲町を通ると、昭和以前の下町風な街並みを感じている。その中心は富岡八幡宮だが、境内に伊能忠敬像があると知った(「我がまち再発見 東京・深川編下」21.4.15讀賣夕刊)。同八幡には2,3度参拝しているがあったかなと思う。周辺に他の史跡等もあり、訪ねることにした。

 伊能忠敬像 門前仲町は近い。大江戸線に乗り50分程で門仲駅に着き地下を出て、商店街が並ぶ永代通り歩道を下る。表参道から大きな鳥居を潜ると、左手に像はあった。
 自作日本地図を背に武士の旅姿の伊能忠敬は、50歳は過ぎていたと思うが元気はつらつとした姿(写真上)。案内によると、忠敬は近くの深川黒江町(現門仲一丁目)に住み、全国へ測量の旅に出掛ける前、必ず参拝に訪れた縁という。伊能忠敬の測量開始から200年を記念し平成13年建立とある。その偉業はシーボルト事件を持ち出すまでもないだろう。カメラに収めた。
 本殿前で軽く手を合わせ、横綱力士碑前へ出る。当境内で、江戸期勧進相撲が興行され、手前には大関力士碑もあった。裏参道から出て、高速下を抜け清澄通りを渡る。門仲一丁目に忠敬旧居跡が遺ると知り、地図にチェックして持参し探した。ほぼ回り道しないで歩道にある石柱を見付けて確かめ、シャッターを切った。

 赤穂浪士休息の碑 次は、永代橋袂のちくま味噌社前の赤穂浪士休息の碑へ歩いた。商店街通りを行くと、正面に車の往来が見え永代通りで、偶然にちくま味噌社ビル前へ至り、件の碑はあった。本所松坂町から泉岳寺へ引き上げる浪士一行が休息し、甘粕粥をご馳走になったという。初代店主と浪士大高源吾が俳人其角門下で知り合いであったとある。
 永代橋から門仲へ 久しぶりに永代橋を眺め(写真下)、その下流には高層ビルが林立している。晴海方向で、確か今回のオリンピック村であったと思う。私が通った晴海キャンパスはその先だろう。
 橋下から永代公園へ上がるが、直ぐ工事中の通行止めで前進は出来ない。地図を眺め、土手を下り住宅街通りへ出て、門仲へ戻る。途中神社が在る筈と探しながら歩くが、伏見稲荷は見逃してしまった。地図の読み間違いのよう。戻る程のことはない。臨海小学校に突き当り、反対側の小路に小さな出世稲荷神社があり、立ち寄り詣でた。次期受験の孫二人のことをお願いした。永代通りへ出て、大江戸線門仲駅は直ぐであった。昼が近くなり、旧友と食事した店が浮かんだが一人では・・・と帰宅することにした。(2021/10/26 K.K.1416/1500)

◇日時 2021/10/05 ◇天候 晴れ ◇交通費 シルバーパス ◇資料 昭文社「東京都市図48深川」2004.4版 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」自宅9:05-大江戸線春日駅9:45-同門前仲町駅10:05=富岡八幡宮10:15=伊能忠敬旧居跡10:35=赤穂浪士休息碑10:45=永代橋10:50=出世稲荷11:15=大江戸線門前仲町駅11:28-三田線春日駅11:54-自宅12:30

多摩秋津から八国山、東村山へ歩く

 都下多摩の秋津から八国山、東村山へコースを探した。東村山駅前に、志村けんの像が出来たと報道され、見てみたい。我が家の子供達が小学生の頃、“八時だよ!全員集合”を楽しんだ。公開放送に子供と出掛けて直に観たこともあった。武蔵野線新秋津駅から八国山へ歩いて、西武線新宿線東村山駅へ向かいたい。

 武蔵野線新秋津駅から 最近武蔵野線を利用し便利と知った。今回も、同線新秋津駅スタートとし、東武成増駅へ出て北朝霞駅で武蔵野線に乗車して、1時間強で新秋津駅であった。初めてに近い駅で、方向を知るのに時間を喰った。ようやく八国山の方向を見定めて、歩き出す。近くの秋津神社に挨拶し、裏手の柳瀬川遡上を開始。予定のルートだが、住宅が連なり、川が見えない。当地も東村山市と知る。清瀬市かなと思っていた。
 遠い八国山 八国山は近くで見えると思っていたが、大分距離がある。南へと歩いたつもりで、秋津橋へ至った。ここからは古い集落のようで、柳瀬橋手前で所沢街道を渡り浅田飴の工場を見て、右折。右手に寺院があり梅岩寺で、欅の古大木がある古刹(写真上)。ここで前方に八国山を確かめた。熊野神社へ寄り、大回りして西武新宿線踏切を越す。東村山の諏訪町で、ここまで来れば少し土地勘がある。徳蔵寺前から幼稚園傍を通過すると八国山下。40分の予定が倍の時間を要し、地図の読みが甘いのがまた露呈してしまった。

 八国山将軍塚で休憩 八国山は三度目程と思う。坂を上がり尾根道へ出て、将軍塚で休憩。鎌倉末期新田義貞が鎌倉攻めをし分倍河原での戦勝の際、ここに白旗を立てたという。ザックに前回谷川ロープウエイ駅で求めたせんべいが残っていて、ラッキーと口にした。八国山はその昔、駿河や甲斐など八国が眺められた山からの命名だが、現在は、深い樹林に里山は覆われ展望はない(写真中)。東村山駅へと山を下り、住宅街を行く。

 志村像に対面 20分程で、東村山駅西口広場に着き見渡したが像はない。東口へ出ると大きな立派な像が建っていた。なんと羽織袴着用(写真下)。バカ殿だと隣の人は呟いたが、そうは見えない。タレントの儘の像を想定していた。
 私は、髭ダンスが印象に残る。加藤茶と掛け合いで、髭を付けサーベルを持つ志村が、加藤が放る果物等をサーベルに刺して受ける遊びだが、音楽に合わせ、成功した時はどうや、どうやと露骨な態度で踊りまくり、しょげて落ち込んだ失敗の踊りとは、その落差が甚だしくて面白く、楽しんだ。カメラに収め、駅中へ入ろうとしたら、停車中のバスが新秋津駅行きと知り乗車し、往路を戻り帰宅した。(2021/10/19 K.K. 1415/1500)

◇日時 2021/09/27 ◇天候 晴れ ◇交通費 860円 ◇資料 昭文社「東京都市図127清瀬」2004.4版 ◇歩行距離等 16,000歩 12㎞ 
「通過時間等」自宅8:35-東武成増駅9:10-武蔵野線北朝霞駅9:27-同新秋津駅9:45=秋津神社9:50=秋津橋10:20=梅岩寺10:45=西武新宿線踏切10:55=八国山下11:05=将軍塚11:15=東村山駅12:10-武蔵野線新秋津駅12:54-東武朝霞台駅13:18-同成増駅13:25-自宅13:45

秋の十日町松代に棚田、美人林を巡る

 越後十日町の棚田や美人林のパンフを入手し、行ってみようとしてから久しい。時々ネットで調べては後回しにした。湯沢駅からほくほく線で十日町、松代は遠い上に、アクセスも悪い。現地のバスの便も不明。先日そんな思いをSさんに話したら、OKという。車でも3時間以上だろうと早朝出発になる。感謝しながら、準備した。

 山また山の十日町 板橋区を6時にスタート。所沢で関越高速へ入り、新潟を目指した。埼玉から群馬、そして長いトンネルを通過。その前谷川岳が見え、先日天神峠から眺めたと話した。塩沢石打で高速を降り、十日町へ。山間からトンネルを抜け十日町で、塩沢や小千谷の地名は知っている。信濃川を渡り、飯山線を越し、またトンネルを抜け、松代であった。山に囲まれた小さな盆地か。当地が雪深いことは、雪国育ちの私には、家の形から分かる。
 松代棚田を巡る ほくほく線まつだい駅に9時30分に着き、駅前で情報収集し、お勧めの棚田へ向かう。最初の蒲生の棚田は道を誤り戻って、Sさんが、ここだと入った農道下に棚田はあった。眼下に小さな田圃はあり、稔りの風景であるが休耕田もあり、それ程ではない。
 次の儀明の棚田は大通りの直ぐ下にあった。こちらは棚田の数が少なく、物足りない。星峠の棚田は、その名の通り峠道を上がり、高台から見下ろした。見事な棚田が形成されて、小さな田圃が重なるように配され(写真上)、稔の秋を表現している。20枚以上はあろう。これが棚田とシャッターを切り続け、ようやく満足した。見物者が次々に来て、眺めている。Sさんもカメラを構えている。

 美人林はブナ林 美人林は少し離れていた。松之山温泉への通りを走行中、美人林の案内を見付け山中へ入って貰う。森の中を進み左手が目指す林であった。林内を歩く。広くはないが、一面ブナが林立し揃い美しい(写真下)。大正末期木炭用にすべて伐採されたが、その後ブナは再生し、すらりと育ったブナ林は、立ち姿が美しいことから美人林と呼ばれたとある。私は、カメラを向けながら遊歩道から林の中を巡る。樹齢約100年とあるがそうは見えない。それでも満たされ車へ戻った。
 山の湯を楽しむ 松之山温泉は小さな湯治場風の山の湯。薬湯で有名とある。我々は、日帰り温泉へ入り、熱めの湯をのんびりと楽しんだ。露天風呂の川端には萩の花が見えた。温泉街の食堂で昼食を取り、帰途に就く。棚田風の風景の中を十日町から湯沢へ出て、関越道。往路と同じ時間で、板橋の我が家に着いた。Sさんお世話様でした。電車、バス利用ではとても回れないコースを実感し、本当に感謝、感激である。(2021/10/13 K.K. 1414/1500)

◇日時 2021/09/21 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 6,000歩 5㎞ ◇資料 十日町市観光協会「越後松代棚田群・棚田マップ」「通過時間等」自宅6:00-まつだい駅前9:35-蒲生の棚田10:10-儀明の棚田10:20-星峠の棚田10:40-美人林11:20-松之山温泉11:55/13:05-自宅16:40

信州千曲の姨捨を再訪する

 俳聖の追っ掛け記を書き始めて久しい。そろそろ終盤で、これまでの書き溜めた分も乏しくなった。以前千曲の姨捨を訪ねた時(15.6.30)、芭蕉句碑もあったと思うが棚田巡りが主で、記録はない。それで再訪することにした。ネットで調べると、姨捨長楽寺の芭蕉面影塚の外、姨捨駅や姨捨公園にも句碑があるという。これは外すわけにはいかない。

 ホームにあった句碑 JR篠ノ井線姥捨駅に着いて、ホームを見渡した。芭蕉句碑はホームにあるという。探せず渡線橋を渡るが隣のホームにも見えない。施設の陰かなと近づくとあった。更科紀行の際当地で詠んだ面影の句碑である。少なくない句碑を巡っているが、駅ホームというのは初めて。
 無人駅を出て、急坂から踏切を渡り姨捨公園へ。高浜虚子の句碑が出迎えてくれたが、公園とは程遠い小山の荒れた斜面の一画に碑が二つあり、どちらが芭蕉のものか不明。文字が薄くもう読めない。後に調べると左がそれで、“元日に田毎の日こそ恋しけれ”と知る。公園を出て、坂を下る。コスモスが咲く先に棚田の一画が覗けた。秋の稔りの棚田は美しい。前回は緑一色の時期で棚田とは分かり難くかった。
 面影塚 坂道を下り続け、月見畑を左に見て、正面に大きな姨岩があり長楽寺境内で、多くの句碑が乱立している。前回ここで芭蕉のはないと下ってしまっていた。面影塚は参道入口左にあった(写真上)。長い石柱で、“おもかげや 姨一人なく 月の友”は横に刻んであった。1688(貞享5)年8月15日姨捨の田毎の月に惹かれて訪ね、詠んだ更科紀行である。カメラに収め、本堂前へ進んで参拝した。

 秋の棚田は美しい 棚田を眺めようと、駅先へと急坂を上がる。当地は傾斜地も急で、それで棚田なのだろう。篠ノ井線姨捨駅は未だスイッチバック方式で、先程経験した。なんとか坂を上がり切り、前回の経験から一本柳踏切へと歩き、棚田を覗き眺める。
 眼下に収穫期の棚田が広がり、一枚ごとの小さな田圃が並び見事(写真下)。もう刈り終えた田圃もある。2,3度シャッターを切った。駅へ戻る途中、下方先に千曲川が見えた。前回は棚田の間を下り、千曲川を渡ってしなの鉄道千曲駅へ歩いた。当地で眺める善光寺平長野市内の夜景も絶景らしい。
 誰もいない待合室で、遅い昼食。長野駅で求めた牛かつサンドはすきっ腹には美味しい。室内には姨捨伝説が紹介してある。長野駅行き列車は、一旦バックしてから下りの線路へ入り走った。長野駅で上り新幹線に乗り換える。上田駅で途中下車し別所温泉、北向観音も考えていたが、次回として、そのまま乗り続けた。(2021/10/7 K.K. 1413/1500)

◇日時 2021/09/16 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ ◇資料 信州千曲観光局「姨捨道先案内」◇交通費 JR東日本大人の休日パス「通過時間等」自宅8:20-JR上野駅9:26-同長野駅11:12-同姨捨駅11:45=姨捨公園11:55=月見畑12:10=長楽寺境内12:20=一本柳踏切12:45=JR姨捨駅13:19-同長野駅14:25-同上野駅15:55-三田線巣鴨駅16:12-自宅16:45

天神峠で谷川岳を仰ぐ

 谷川岳大展望 正面に鋭い大岩峰が聳えそそり立つ(写真上)。双耳峰で、手前がトマノ耳、奥がオキノ耳と呼ばれる谷川岳。間近で仰ぎ、見上げるのは初めてで、本日天候良く全容を現わし、岩肌を露わにした大谷川岳である。うーんこれが谷川か。こんな急峻な岩峰に挑戦し頂上を極めたのは約20年も前(94.7.24)。そのコース天神尾根も目の前だが、厳しくも急な登攀コースだ。先輩に引っ張られた谷川岳登山であった。若さがあったのだ。10年前越した蓬峠は左も奥のようだ。

 ロープウェイで天神峠へ 本日、ロープウェイとリフトで、谷川岳麓の天神峠へ上がり、展望や僅かな山歩きを楽しみ、山の雰囲気を味わおうとしている。年齢には勝てず、山歩きは困難になり、ロープウェイのある山を訪ね楽しもうと最初に谷川の天神峠とした。
 アクセスは良く、上越新幹線上毛高原駅からバスの便があり、ロープウェイセットの割安パスがあった。土合口駅に11時過ぎに着き、乗車。94年の登山以来で、上がるに従い、右手車窓に岩山が見え出した。予想通り谷川岳で、幸先良い。そして、天神平駅でリフトへ乗り換える。本日平日なのに少なくない乗客がいる。同好者か。リフトを降り、天神峠に立った。冒頭のシーンに出会い、大展望を楽しんだ。シャッターを切っていたら、押しましょうかと隣のご婦人に声を掛けられた。お断りし、若い頃登ったんですよと言ったら、私も、ですと返って来た。峠を歩き方向を変えて、武尊山、赤城山、苗場山は私でも同定出来た。手前は白毛門だろう。小さな祠があり天神様。それで峠名や尾根名なのだと理解できた。来春も孫に受験生二人いて、その内本格的にお願いしなくては思う。新潟側の展望台で眺めた山々は名前が浮かばない。

 最後の山歩きか いよいよ下りで、ストックを出し、草原のスキー場に切られた坂を下り始める。直線的で緩くはなく、ヨタヨタ下っているのは自分でも分かる。リズミカルに歩いて少し楽になった。ススキ立つこの時期シモツケソウは枯れている。黄色の花はアキノキリンソウか。カラマツソウやトラノオのような野草もあり、時々カメラに収める。ロープウェイ駅が見え出した付近で、左手に顔を出した谷川岳も素晴らしく(写真中)、またデジカメを向けた。歩きで下るのは私一人であったが、カップルが追い越して行った。コース案内25分の処を40分程掛かってしまった。膝もガクガクしやっぱりもう山歩きは無理とダメ押しとなった。現在レストラン休業中とあり、売店でせんべい類とジュースを求め、昼飯の代わりにした。バスで往路を戻り、駅売店で買った清酒谷川岳ワンカップ(写真下)を手にして、新幹線に乗った。(2021/10/01 K.K. 1411/1500)

◇日時 2021/09/13 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ ◇資料 昭文社「山と高原地図28 谷川岳」◇交通費 JR東日本大人の休日パス、現地4,520円
「通過時間等」自宅7:50-JR上野駅8:58-同上毛高原駅10:20-谷川ロープウェイ土合口駅11:10-同リフト駅11:40=天神峠11:50=ロープウェイ天神峠平駅12:35-同土合口駅13:20-JR 上毛高原駅14:22-同上野駅15:25-三田線巣鴨駅15:47-自宅16:20

磐越東線を乗り切り、背戸峨廊口を往復

 JR東日本大人の休日パスを利用し、今回は磐越東線を乗り鉄して、江田駅で降り背戸峨廊へ寄ろうと思う。背戸峨廊は渓谷だが、大雨で崩れ通行止めであったが最近一部が解除されたと知った。磐越東線は過疎ダイヤで、郡山駅13時に出発し、いわき駅には17時前着予定。ゆうゆうあぶくまラインがニックネーム。

 郡山駅、三春駅 東北新幹線で郡山駅に着き、磐越東線いわき駅行に乗り換えた。3両程の下りの列車は込み合い、高校生の下校時に重なったらしい。何とか席は確保。郡山市内を過ぎるともう山里風景。そして直ぐ三春駅。滝桜見物で、乗降したことがある。磐越東線は乗り切ったことがあるが20数年前で、知る駅は三春駅の外、小野新町駅だけ。退屈な車中に当地出身者をスマホで検索し、丘灯至夫を思い出した。歌謡曲作詞家で、“高校三年生”が有名だが、私は、“高原列車は行く”が好きだ。彼は小野町出身で、記念館があるようだ。“高校三年生”の歌碑は、世田谷松陰高校校庭や郡山駅前にあり、訪ねたことがある。

 小野新町はオノニイマチ 列車は同じような山里風景の中を走っていたが、家並が見え出し、小野新町駅に着いた。新町はニイマチと読むとあり(写真上)、びっくり。乗客は少なくなり、阿武隈山地に入ってトンネル通過が始まり、山は次第に深くなった。夏井駅、川前駅、そして江田駅に着き、下車。私の外もう一人だけ。
 背戸峨廊はuターン 背戸峨廊は、駅横の小山を回り込んだ江田川渓谷のようだ。案内もあり、山中へ入ったが山は高く、森は深い。林道から枝道を渓谷へ下る。久しぶりにストックを持参したが、使い難い。薄い荒れた踏み跡を一歩一歩降りて谷川内へ。谷は狭く深い(写真中)。しかも流れも速い。淵の岩壁には鎖が付いているが、水面は直ぐ下で、徒渉はしたくない。遊歩道と思って来たが大違い。諦めようと、カメラに写しuターン。

 駅前商店主へ感謝 駅前に戻り、次のいわき駅行到着迄時間あり、駅前の店(写真下)で飲食物を求める。アルコール類はなく、おやつにせんべいにした。高齢のご主人は、近所の様子を色々話してれ、隣の酒店は店主が亡くなり閉めたという。ご主人は自分用缶ビールを私へと言い、代金は押し問答したが、結局私は戴いた。田舎の方の人の好さに感謝である。駅ホームベンチでビールを飲み、時間を潰した。駅前は10軒程度の山峡の小集落のようだ。
 予定時間に列車は来て乗車し、20分程でいわき駅着。指定券を得て、品川行き特急に乗る。この特急は水戸駅からは上野駅迄ノンストップ。それでも2時間以上要した。(2021/09/26 K.K. 1411/1500)

◇日時 2021/09/10 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ ◇資料 旅行読売「滝 湖畔 渓谷を歩く 背戸峨廊」56頁 ◇交通費 JR東日本大人の休日パス
「通過時間等」自宅11:00-JR上野駅12:04-同郡山駅13:26-同江田駅14:45=背戸峨廊15:00=JR江田駅16:27-同いわき駅17:21-同上野駅19:40-巣鴨駅20:06-自宅20:30

新潟下越の村上、石船神社、乙宝寺を巡る

 私がこれまで歩いたコースに奥の細道を重ね、芭蕉追っ掛け記を書いて業界紙に掲載して貰っているが、越後路迄来ている。新潟はそれなりに巡り歩き記録はあるが芭蕉の足跡を追ったものは少ない。調べると村上やその近くには、宿泊先跡、句碑のある石船(イワフネ)神社、参拝した乙宝寺がある。この辺りは下越地方と新潟出身の方に聞いた。

 タイムリーにバス乗車 新潟駅で羽越線特急に乗り換えた。車窓からは稔りの水田風景が見え、一部では稲刈りが始まっている。村上駅に下車し、案内所に寄ると石船神社行バスは直ぐという。慌ててバス停へ。バスは市内から海側へ走り、瀬波温泉。思い出があり、兄の退職祝に夫婦4人で宿泊し眺めた日本海に沈む夕日は絶景であった。約20年も前のことである。
 句碑二つ 石船神社に着く。創祀は648年(大化4)年と伝わる古社で、弥彦神社に次ぐ格という。戻りのバスは10分後で、急ぐ。句碑は二つあり一つは参道左にあり、“花咲きて七日鶴見る麓かな”とある碑。もう一つをと広い境内を駆け足で探す。参拝は遠くから頭だけ下げ許して貰おう。最後に出会い写した石碑(写真上)が、幸いに芭蕉の“文月も六日も常の夜には似ず”と刻んだものであった。直江津で詠んだと思う。岩船は漁港で有名だが、神社前の川にも多くの船が係留してあった。

 市内の井筒屋 市内へ戻り、運転手さんに井筒屋最寄りのバス停を教えて貰う。安良町に降り通り先へと進む。村上は未だ城下町の雰囲気が漂う。右手に井筒屋があった。1689(元禄2)年6月28日(陽暦8月13日)から芭蕉と曾良が2泊した久左衛門宅跡で、曾良の伊勢長島時代の知人宅であったという。井筒屋は今では鮭料理店だが、芭蕉泊の案内書きがあり(写真中)、デジカメに収めた。折よく駅へのバスがあり乗る。先ほど案内所で徒歩30分と聞き、大幅短縮できた。

 古刹乙宝寺 村上駅で乗った特急を隣の坂町駅に降り、タクシーで乙宝寺へ向っても貰う。広い水田地帯を海側へ走って、松林の中へ入り、門前に降りる。736(天平8)年開山という古刹の静寂な境内はその雰囲気で、人影もなく私一人で寂しい位。芭蕉達は、7月1日(陽暦8月15日)参拝している、私も本殿前で手合わせご挨拶。芭蕉句碑の案内があり(写真下)、確かめシャッターを切った。ここのは丸い石の句碑で、“うらやまし浮世の北の山桜”の句である。山門左の三重塔は江戸時代初期村上城主の寄進で重文とある。またタクシーを利用し、羽越線平木田駅発14時35分の新潟行に乗車。予定より2時間早い。村上でのタイムリーなバス利用が迅速に予定地を回れた。案内所に感謝である。新潟駅で、越後の銘酒吉乃川を求め新幹線へ乗り込んだ。(2021/09/23 K.K. 1410/1500)

◇日時 2021/09/07 ◇天候 晴れ ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ ◇資料「新潟県村上の道路地図」◇交通費 JR東日本大人の休日パス、現地4,460円 「通過時間等」自宅7:20-上野駅8:30-新潟駅10:56-村上駅11:49-石船神社12:10/12:25=井筒屋12:50-村上駅13:19-坂町駅13:40-乙宝寺13:50/14:20-平木田駅14:35-新潟駅15:37-上野駅17:45-巣鴨駅18:06-自宅18:35