阿武隈川乙字の滝、須賀川に芭蕉を辿る

 白河の関を越え陸奥へ入った芭蕉は、歌枕の地を巡り、奥州街道を仙台へと歩いたが、須賀川には7泊(1689年4月22-28日 陽暦6月9-15日)もしている。市内に句碑は多く、市は奥の細道300年記念に芭蕉記念館を建てるに至っている。私の俳聖追っ掛けも、是非、須賀川は加えたいと計画し、準備した。須賀川は2度目で、須賀川城跡を訪ね(94.9.14)、市内図も残っている。

 バスで乙字の滝へ 郡山駅から戻って須賀川駅に降り、構内案内所に寄ったら、現在芭蕉記念館は閉館中という。先日、月曜休館はネットで調べたのだが。乙字の滝へのバス時間と教えられ、乗車。同滝行は躊躇していた。私の資料では芭蕉が寄ったか不明で、しかも須賀川市内からも遠い。記念館見学時間省略なので、丁度良い。調べると一度は増水で止めたが、郡山への途中回り道して寄ったと分かった。
 市内から郊外、田園地帯を走り、手前の小山の麓で降車。戻るバスは約1時間後と調べ、橋上へ出る。眺めると下流に乙字らしい形の滝、落差が見える。阿武隈川である。右岸を少し行き、下側から滝を眺め(写真上)、カメラに収めた。川幅一杯だが落差は低い。観音堂境内に芭蕉、曾良の像と句碑が建ち、“五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉”とある。2人の像は小さく可愛いもの。平日なのに、私以外も見物者はチラホラ。当地は、水郡線に近いようで、往時は石河の滝とも呼ばれていた。

 可伸庵跡 バスで市内へ戻り、句碑巡りを開始。運転手さんに教えて貰い商工会議所前で下車し、NTTアンテナを目印にそちらへ向かうが記念館は閉鎖中で、近くの可伸庵跡を探した。この辺りに芭蕉一行が滞在した相楽等躬宅があり、彼は須賀川の宗匠俳人であったという。芭蕉は、屋敷内に寄寓していた僧可伸とも交流し、“世の人の 見つけぬ花や 軒の栗”と詠んだ。現在庵跡はあるが狭く草が生い茂っている。手前の角に、小さな軒の栗庭園があり、栗の木の下に2人の像があった(写真下)。
 市内句碑巡り 今朝入手した案内図に従い、市内中心部に長松院、二階堂神社、十念寺から少し離れた市立博物館へと巡る。長松院は等躬の墓や句碑があり、神社は須賀川城跡で微かな記憶が蘇った。十念寺には、“風流の 初めや奥の 田植うた”の句碑があり1855(安政5)年女流俳人市原多代女によって建立されたとある。円谷幸吉の墓がある筈だが探せなかった。博物館庭のものは乙字の滝と同じ句の碑であった。疲れた足で駅へ向かうが、近くはなかった。(2020/9/22K.K.1349/1400)                           

◇日時 2020/9/10 ◇天候 晴れ ◇交通費 JR東日本パス+860円 ◇歩行距離等 13km 17,000歩 ◇資料 久富哲雄「奥の細道ハンドブック」60頁外、
「通過時間等」自宅7:55-JR上野駅8:54-同郡山駅10:45-同須賀川駅11:10-乙字の滝11:35/12:25-商工会議所前バス停12:40=可伸庵跡12:50=長松院13:10=十念寺13:25=市立博物館13:40=JR須賀川駅14:26-同郡山駅14:59-同仙台駅15:54-同新青森駅17:38-同青森駅17:50=宿泊先18:00

宮城の岩出山、末の松山に芭蕉足跡を辿る

 今年も9月に入って、JR東日本割安パスの販売があり、いつものように遠出の機会にし、奥の細道で訪ね残している地を中心に歩きたい。南東北では、福島や宮城の交通アクセスが不便な地が残っている。今回は、宮城岩出山と仙石線沿線を巡りたい。

 岩出山芭蕉像 東北新幹線を古川駅に降り、陸羽東線に乗り換えた。田圃はもう黄に染まり秋色である。岩出山駅先の有備館駅に下車。駅前の有備館に入館し、庭園を一周。仙台藩岩出山伊達家屋敷跡で、幕末に設けた学問所という。立派な池のある庭園を前にして萱葺の建物が現存し、母屋は1677(延宝5)年築とある。池端には大木が繁り、萩も咲く。岩出山市内の芭蕉像へ向かう。途中古い造り酒屋前を通り、地酒に惹かれたが通り越し、内川沿いに下る。南町商店街の一角に芭蕉像が建っていた(写真上)。一行は1869(元禄2)年5月14日(陽暦6月30日)、平泉から陸奥上街道を南下し岩出山に入り、一泊したとある。句は残していない。像は面長に見える。宿泊先旅籠石崎屋は今はない。その跡が、通り先の同名の現お菓子屋と、先程教えて貰い訪ねたが、何の説明もない。
 岩出山城跡 岩出山城跡を目指す。岩出山と言えば、戦国時代の1591(天正19)年、米沢の政宗が秀吉の奥州仕置きの流れで移封された地で、仙台へ築城するまで12年間在している。城山公園入口から坂を上がり、城跡内へ。それらしき郭跡はあるが、はっきりした遺構はない。政宗像が建つのは本郭跡か。上下姿で、兜の武装でないのは珍しいらしい。有備館駅へ戻り、予定の早めの列車に乗れたが、古川駅で新幹線の接続が悪い。

 末の松山、沖の石 仙台駅から仙石線で多賀城駅に降りる。当駅は2度目で多賀城跡を訪ねている(17.01.29)。この時壺の碑も見た。しかし、末の松山、沖の石は時間がなく、今回になった。駅南口から角々に案内があり、鎮守橋を渡り、すんなり導かれた。芭蕉は5月8日(陽暦6月24日)訪れている。宝国寺にご挨拶し裏へ回ると、立派な二本の松は歌枕の地で有名(写真下)。沖の石は直ぐ先、現在は住宅街の池だが、海の一部であったのだろうか。
 国分寺薬師堂句碑 仙石線を榴ヶ岡駅に降りる。以前直ぐ近い天満宮で芭蕉句碑は眺めた(18.12.04)が、陸奥国分寺の句碑は後回しにしていた。未だ16時前なので、訪ねたい。駅で距離を聞いたが不明。奮発してタクシーを利用し、境内入口で降ろして貰う。国分寺薬師堂に参拝し、隣の地に句碑はあった。“あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒”の句は、仙台で宮城野を芭蕉を案内してくれた俳人北野加之(画工加右衛門)の餞別草鞋を詠んだという。芭蕉は5月7日(陽暦6月23日)参拝した。バス停を探したが時間が合わない。野球場スタンドが見え、仙石線宮城野原駅へ歩くがこれが遠く、30分弱を要した。それでも、仙台駅から17時前のハヤブサに間に合った。(2020/9/20 K.K. 1348/1400)

◇日時 2020/9/9 ◇天候 晴れ ◇交通費 JR東日本パス+760円 ◇歩行距離等 15km 20,000歩 ◇資料 久富哲雄「奥の細道ハンドブック」100頁外、
「通過時間等」自宅8:00-JR上野駅9:14-同古川駅11:15=同備館駅11:40=有備館11:45=岩出山芭蕉像12:05=岩出山城跡12:25=JR有備館駅12:54-同古川駅14:09-同仙台駅14:36-同多賀城駅15:00=末の松山15:15=JR多賀城駅15:29-同榴ヶ岡駅15:50-陸奥国分寺16:05=JR宮城野原駅16:37-同仙台駅16:57-同上野駅18:35-自宅19:20

下板橋駅から池袋へ歩きまた板橋へ

 我が区板橋と練馬区池袋は隣接し、JR板橋駅から近い東上線を越すと池袋とは知ってはいたが、歩いたことはない。一度練馬区へ入り山手通りを歩き、板橋区へ戻るコースを思い付いた。下板橋駅には東上線記念碑があり、山手通りを戻った平尾宿付近の子安神社は未訪だ。これらをコースポイントにすれば、それなりの脱巣ごもりハイクだろう。

 東上線下板橋駅へ 最近天気は不順で、本日も午後は雨の予報。今回選定コースは午前中には帰宅出来るだろうと出掛けた。三田線新板橋駅からJR板橋駅へ寄り、来週からのJR東日本割安パスを求め、池袋へと方向を採る。
 未だ板橋区内だが初めての地。想定通り東上線を渡ったが、下板橋駅(写真上)の位置が大分成増駅方向にあった。隣の緑地に東上線記念碑見付けた。明治36年、板橋の実業家が東京と上州渋川間の鉄道敷設を計画し、最終的には東武鉄道が乗り出し、開業し、頭文字から東上線とネーミングしたとある。同線は、下板橋駅より上板橋駅が下った先で、中山道と同じであり、江戸時代の名残であろうか。
 池袋富士、現川越街道 また踏切を渡って池袋へ入り、池袋氷川神社を探す。住宅密集地で小路が入り込み、回り道したが裏から境内へ。下町神社としては立派なもので参拝し、隣を見ると富士塚があり、形がよい。池袋富士とある。江戸庶民の富士山崇拝、盛んだった富士講が窺われる。ここで右手の山手通りへと予定していたが、正面参道を行く。そろそろ右折と、重林寺先で大通りへ出たが、現川越街道とある。エッと思いながらも下ると、山手通りは先と分かる。ともに高速道路の下で同じような道路構造。大きな交差点へ至り、角の熊野神社へ詣でる。こちらも広い境内の社。狛犬をカメラに収めた(写真下)。当地は板橋区熊野町とある。

 子安神社 山手通り歩道を下り続ける。緩い坂を上がると下は、東上線。右に目をやったが、もう下板橋駅は見えない。そろそろかなと右折し子安神社であった。大きな木々が繁り境内は薄暗い。また社殿前で手を合わせ、石に腰を下ろして休憩し水を飲んだ。
 板橋区役所方向へ歩くと、宗仙寺。山門の位置が分からず、一回り。覗いたら、古刹も近代的に模様替えされ、通りすがりに寄るような雰囲気ではない。
 四つ又馬頭観音? 坂を下って、四つ又馬頭観音だが、高速道路真下に小さなお堂があるも、名は不明。道路端に案内板があり、それでは少し離れたビル街にあるとの表示。案内図に沿い二度探しまわったが、出会えない。諦めて区役所前駅から三田線で帰宅。丁度雨が落ち始めた時であった。帰宅後、ネットで調べると馬頭観音は最近移動したようで、私が見た小さなお堂らしい。我が家から近いので、その内確かめようと思う。(2020/9/17K.K. 1347/1400)

◇日時 2020/9/6 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス利用 ◇歩行距離等 7km 10,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図」22頁、「観光いたばしガイドマップ」
「通過時間等」自宅8:50=新板橋駅9:15―JR板橋駅9:25=東武下板橋駅9:40=池袋氷川神社9:55=現川越街道10:10=熊野神社10:25=子安神社10:45=三田線板橋区役所前駅11:10=自宅11:30 

都心中央区に社寺を巡り歩く

 購読紙夕刊に、“まちの記憶兜町”と題したマップがあり(20.8.24朝日夕刊)、兜神社の案内に目が留まった。日本橋の袂のようで、一度眺めたかなと思いつつ、再訪もよいと考え、歩くコースを検討。都内地図から、浜町公園、水天宮、そして日本橋の兜神社へ歩くことにした。手許資料「お江戸下町中央区神社案内」への登載はない。

 浜町公園から 三田線神保町駅で新宿線に乗り換え、浜町駅に降りると、浜町公園の真上で、直ぐ公園。名は知っていたが、初めての地。意外に緑が多く、隣の隅田川堤へ上がって川を眺める。戻ると園内端に、清正公寺がある。あの加藤清正公だろうが、何でと思ったら、当公園は肥後細川藩中屋敷跡で、藩主が祀っていたと知った。
 大通り新大橋通りへ出て右折。浜町神社は少し通りから入った地にあった。大震災、空襲を経て再建されたとある。前の方に続いて、手を合わせた。
 水天宮は再訪 大通りへ戻り、人形町に松島神社を探す。右手のビル内に鎮座していた。都内には時々ある社。また軽く頭を垂れる。水天宮は、交差点の角にあり目立ち、すんなり本殿前へ進み、詣でた。安産祈願先として有名で、兄夫婦に同行したのは何年前だろうか。姪の時で、兄の孫は今年小学校と聞いたから7年前か。子宝犬の像もマスクをしていた(写真上)。大きな交差点を渡り、右奥小公園に茶の木神社があると町内案内図に見付け、立ち寄る。水が落ちる手洗い場付き瀟洒な小神社。また手を合わせる。

 銀杏八幡宮は大通りを歩いたすぐ先。こちらは、境内は広いが、荒れた感じ。持参の冷やしタオルを濡らしたいが水道は出ない。軽く祈願し、直進すると正面に高速道路が見え始めた。右折し小網町へ。小網神社は、小路の住宅に挟まれた下町社で、右上には神楽殿もある。残り少ない小銭を賽銭箱へ入れた。
 兜神社は何処? いよいよ兜神社。高速の下の川が日本橋川で、日本橋へと向かうが、高速下の道は込み入り、日本橋の外、江戸橋もある。町内案内図も見間違え、江戸橋付近をウロウロ。日本橋は先の筈と大回りし、三越を右に見て橋を渡るが、兜神社は無い。折よく交番前で、尋ねると通り一本違うと教えてくれた。首を傾げながら行くと、江戸橋近くのビルの間に見付かった。証券会社の鎮守様で、参拝後、前にある兜岩をカメラに収める(写真下)。源義家が勝利祈願の際兜を置いたとの伝説があるという。疲れた足で、地下鉄日本橋駅へと歩いた。(2020/9/15 K.K. 1346/1400)

◇日時 2020/8/31 ◇天候 晴れ ◇交通費 160円 ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図」、「まちの記憶兜町」20.8.24朝日夕刊、「お江戸下町中央区神社案内」
「通過時間等」自宅8:00-新宿線浜町駅8:55=浜町公園9:00=浜町神社9:15=松島神社9:25=水天宮9:35=茶の木神社9:45=小網神社9:55=日本橋10:20=兜神社10:30=東西線日本橋駅10:45-三田線大手町駅10:55-自宅11:40

八重洲、銀座、新橋に歌碑を巡る

 先日、上板橋に川中美幸の“二輪草”歌碑を訪ねた。最近在宅が専らで、夕方は、演歌・歌謡曲を聞いては時間を潰している。他方、これまでそっちこっちを歩いて、歌碑に出会うこともある。少し前だが、小樽運河では、“小樽のひとよ”、青森港では、“津軽海峡冬景色”の歌碑を見た。そんなことで、歌碑に関心が生じ、ネットで調べると、都道府県別リストがあり、都内をピックアップし、今回は、都心の歌碑を巡ることにした。

 八重洲の“宵待ち草”の碑から リストから6碑程を抜き出し、八重洲、銀座、新橋と歩き、時間があれば、上野駅へと予定し、出掛けた。三田線を大手町駅に降り、長い地下通路を東京駅北口へ歩いた。地下を上がると、雨、それも激しく降っている。傘はあるが、歩くには支障がある。最初は八重洲の信託銀行本店前にある“宵待ち草”の碑で、傘を指し銀行の前庭かとウロウロしたが無く、警備員に教えて貰い、竹久夢二の独特の絵付きの碑がビル前にあり(写真上)眺め、カメラに写した。歌は聞いたことがある程度だが、なぜ当地に建っているのかは、その後の調べでも不明。

 雨で、地下鉄で移動 雨降りに歩くのは止め、隣の地下鉄入口の階段を降りる。銀座線日本橋駅から銀座駅まで乗車。地下鉄銀座駅は迷路で、“有楽町で逢いましょう”の碑はマリオン前だが、出口を探すのに苦労。偶然マリオンの一階へ上がり前庭へ出ると、それらしき石があり近づくと、正解。フランク永井が唄うこの歌は中学生の頃、大ヒットし、有楽町が一躍有名になったと思う。
 石原裕次郎外の“銀恋”の碑は、直ぐ先の筈だが、現在地が分からず、マリオン正面へ回り位置を知り、数寄屋橋の反対側に元西銀座デパートを探し、その空き地の先に、歌碑は見付かった。この歌はデュエットの定番曲と言われるが、唄ったことはない。
 銀座から新橋へ 地下鉄銀座駅は地下鉄三線が交差し新橋方面行きのホームの位置が想定と違い、また戸惑ってしまうが、何とか乗車し新橋駅に着く。こちらは単純で、想定通りの銀座に近い出口へ出て、歌碑“銀座の柳”へと、新橋と銀座の境辺りを行くが無い。銀座寄りだろうと早とちりしていたが、新橋郵便局の傍で、新橋側へ戻って到達。懐メロも古く、一度位聞いた程度の歌だが、その名通り、柳の下に大きめの歌碑が鎮座していた(写真下)。雨は止んでいて、“鉄道唱歌”の碑のある新橋駅烏森口は近く、烏森の駅前を探したが見当たらない。駅で汐留側と教えて貰い、あった。隣のデゴイチの車輪を入れてカメラを向けた。
 本日、久しぶりに友人との昼食で、濡れたシャツを着替えJR御徒町駅へ向かう。食事後、歩いて上野駅の歌碑“ああ上野駅”へとも考えていたが、友人は予定があると言い、大江戸線で、三田線乗り換えの春日駅にした。(2020/9/8 K.K. 1345/1400)

◇日時 2020/8/23 ◇天候 雨後曇り ◇交通費 490円 ◇歩行距離等 8km 11,000歩 ◇資料 昭文社「東京都市図」「通過時間等」自宅9:30-三田線大手町駅10:15-八重洲歌碑10:30-銀座線日本橋駅10:35-同銀座駅10:45-銀座歌碑10:55/11:00-銀座線銀座駅11:10-同新橋駅11:15-新橋歌碑11:25/11:35-JR新橋駅11:40-同御徒町駅(昼食)12:00/13:10-大江戸線上野御徒町駅13:20-三田線春日駅13:35-自宅14:05

大宮バイパスを笹目、美女木、西浦和へ

板橋近辺の脱巣ごもりハイクから少しでも変化をもたらそうと、大宮バイパス笹目通りを北上し西浦和へ歩くコースを思い付いた。気温の高くない日を待ち、本日はその日と天気予報を睨め、昨夜から決めていた。距離としては、8㎞以上だが10㎞はないと読んだ。友人Sさんは、西高島平駅から歩いたことがあると聞いていた。

 笹目橋、笹目神社 朝 7時30分高島平の自宅をスタート。首には最近求めた冷やしタオルを巻いた。暑くはない中、新高島平駅から新河岸川を渡り、早瀬渡し水神宮に寄り、荒川土手へ上がって橋下から笹目通りへ出る。バイパス笹目橋側道は、意外にも徒歩の人や自転車が通っている。荒川を橋上から眺める(写真上)。本日も大河は蕩々と流れているようだ。
埼玉へ入り、高速道路で日陰になった側道を行く。小工場が多く、仕事を開始しようとしている。最初のポイントは、笹目神社で一度歩いたことがある(12.4.12)。そんな風景になり、小川を渡ると左手に広い境内の神社があった。45分で順調。先のご婦人に次いで参拝。社殿が改装されたようだ。持参したポットから水を補給する。

 外環高速から美女木八幡 側道を歩き続けるが、外環高速の高架が見えて来ない。Sさんの車では近いのだが、そうはいかない。暑くはないが、先程来日陰を選んでいる。1時間15分で、外環高速下を歩道橋で渡り、小公園で休憩。高齢者がゲートボール中だが殆どがご婦人達。角の御嶽神社に挨拶し、美女木集落内の美笹通りへ右折。バス通りで、リタイアにはバス利用可能と知る。
 美女木八幡宮を探すのに時間が掛ったが、屋根越しに社叢らしき高い木々を見付け、なんとか到達し、誰も居ない中、参詣(写真中)。
 ここから荒川土手へとも考えていたが、徳祥寺を経て、また暑さを避け高速の影下へ戻る。JR 北戸田駅への通り案内を過ぎ、戸田から浦和へ入り、いよいよJR西浦和駅のある武蔵野線が見える筈だが、未だ先のよう。

 キバナコスモスに秋を知る 道端に咲くキバナコスモスに出会い(写真下)、好きな花で元気を貰う。花は秋到来を示している。田島へ至り、案内図に武蔵野線があり、顔を上げると、正面に見えた。田島の河川敷は桜草の自生地で、やはり高島平から歩いたこともある(04.414)。最後の力を振り絞り、バイパス側道から長い歩道橋を渡り、JR西浦和駅へ。予定を30分程オーバー。飲料を求め、シャツを着替え、ホームへ上がり電車を待った。(2020/9/3 K.K. 1344/1400)    

◇日時 2020/8/18 ◇天候 晴れ ◇交通費 170円 ◇歩行距離等 13km 18,000歩 ◇資料 昭文社「埼玉県道路地図」48-50頁 「通過時間等」 自宅7:30=早瀬渡し水神宮7:45=笹目橋8:00=笹目神社8:15=外環高速下8:45=美女木八幡宮9:10=田島9:45=JR西浦和駅9:58-同武蔵浦和駅10:13-同浮間舟渡駅前10:31-自宅17:30

下練馬富士塚から徳丸水車公園へ

 前々回、十条富士塚の見学が叶わなかった。それでか、練馬の東上沿線にも富士塚があったのを思い出し、古いファイルを探したが、記録はない。僅かな記憶から、地図で調べると東武練馬駅付近の浅間神社と分かった。丁度、同駅前イオン店での買い物があり、出掛けることにし、往きはバス利用、帰りは歩くことにした。

 下練馬浅間神社富士塚 高島平バス停から乗ったバスを、東武練馬駅前に降り予定の買い物をして、東上線踏切を渡り駅前を左折し、浅間神社を探す。駅前商店街は複雑で、行きつ戻りつし最後は教えて貰い、ようやく旧川越街道沿いの神社へ着き参拝し、隣の富士塚に登る。高く、大きく(写真上)、本殿前から中腹へ移り石段を上がり、頂上下で手を合わせ、コロナ退散をお願いした。塚に積んだ岩は富士から運んだ溶岩片だろうか。歩きながら、ここの富士塚を最初に訪ねたのは、自治会報で紹介されたからで、約30年も前のことと思い出した。時は流れ、本日初めて見る富士塚のよう。
 広い徳丸地区 東武練馬駅に戻り、不動通りへ下って直進し、中尾不動尊を目指す。先程バスの車窓から探したがそれらしい建物は分からなかった。左手の高台広場に不動尊があり、意外に小さなお堂様。また同じ祈願をした。直進を続け、信号のある交差点を左折し、西徳通りから徳丸水車公園へ方向を採るが、持参マップで確認するとまだまだ先のよう。当地は高島平隣の徳丸地区だが、先程来初めての地で、若干戸惑いながら歩き続けている。徳丸通りへ右折し、徳石公園の立体交差で階段を降りて公園へ入り、前谷津川緑道を行く。確か、高島平団地内へ流れているが現在は暗渠化され、緑道になって久しいと思う。緑道がお終しまいになり、またマップを覗く。右折し、左折すると目標の水車公園。

 水車公園は閉園時間 久しぶりの公園だが、私の知る公園とは違い、緑に包まれた広い園内に、庭園付きの徳水亭という和風建物があり、水車も大型のもの(写真下)。昭和50年代出来たばかりの頃子供達と訪ねたが、水車だけがある小さな緑地だったと思う。しかし、本日は見学が叶わない。17時を過ぎ閉園時間になっていた。柵外からシャッターを切ったかどうだろう。
 坂を上がり四葉地区を過ぎ、ようやく知った風景で、松月院通りを渡り、四葉稲荷神社に寄る。少し前迄は初詣の際には訪ねていたが、最近はご無沙汰している。境内の古大木に変わりはなかった。隣は小さな富士塚かなと思っていたが、御嶽山神社であった。ここから我が家は近い。土手を下り、高速下を過ぎると我が団地が見えた。(2020/8/28 K.K. 1343/1400)

◇日時 2020/8/8 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス利用 ◇歩行距離等 9km 12,000歩 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」
「通過時間等」自宅15:00=高島平バス停15:15―東武練馬駅前イオン店15:30/15:50=下練馬浅間神社16:00=中尾不動堂16:30=徳石公園16:45=水車公園17:00=四葉稲荷神社17:10=自宅17:30

埼玉行田に古代蓮の里を訪ねる

 最近は脱巣ごもりハイクと称して、板橋区周辺を歩くのが精一杯で、遠出は、Sさんに連れて行って貰った先々月の山形行きだけである。またSさんに、行田の古代蓮観賞に誘われた。二つ返事でオーケーしたが、蓮の花期が気になり、ネットで調べると8月上旬迄とあり、最後の花に期待した。本日から8月である。一度訪ねたことがあり、再訪となる(10.8.8)。

 車で埼玉行田へ 高島平を8時に出た。Sさんに所要時間を問うたら、行田は高速道路は使えず、1時間30分という。大宮から中山道を走り、上尾、北本、鴻巣を過ぎ見覚えのある風景もある。そして、右折すると田園地帯になり、前方に塔が見え始め、古代蓮の里に着いた。予定通りの時間。
 土曜日の早い時間だが、人出はある。入園料はなく、早速園内へ。再訪だが、約10年も前のことで、記憶は朧気。当園は広く、先月訪ねた足立堀之内公園蓮園の20倍はあろうか。
 古代蓮の里を巡る 正面左手の蓮池を巡る。蓮の葉は池一杯に生い広がっているが、花はポツリ、ポツリ(写真上)。盛期は過ぎたのだろう。我々は、白やピンクの花を拾いながら、ゆっくりと池端や木道を巡る。ピンクの花は古代蓮(行田蓮)で、1400年以前からの花で、土木工事中に掘り起こされ、咲いたという。昭和46年のこととある。花は少なく、カメラに収めるのに苦労する。隣の水生植物園へ行く途中の道端で、蛇を発見。山歩きでは出会うことは希にあるが、久し振りで、Sさんにも教えた。小さな蛇は頭を振り振り、草むらへ入り込んだ。

 オニバス池から隣の水鳥の池へ。カメラを据えた高齢者が待機中。こちらの池にはピンクの蓮がやはりポツリ、ポツリだが、さっきの池よりは多い(写真下)。望遠にしてシャッターを切った。貰ったパンフによれば、42種の花蓮があるとあるが、私には、ピンクの濃い行田蓮だけが目立って見える。花期が違い多くはもう散ったのであろうか。
 休憩し歌碑を眺める 入口へ戻り、売店でソフトクリームを求め、休憩。行田は関東平野の真ん中のようで、周囲には山は見えない。埼玉在のSさんは、西方には秩父の山々が連なり見える筈で、本日は雲の奥と教えてくれた。
 入口左手に、“蓮の故郷”の歌碑があった。当園を観賞したダークダックスのゲタさんの依頼で、小林亜星が作詞、作曲したとある。先程園内に流れていた楽曲が、ダークダックスが唱うそれであったのだ。
 帰途に右手に見えた古墳が、埼玉県名へと繋がったさきたま古墳群。稲荷山古墳が有名で、私は、JR北鴻巣駅から歩いたこと(04.9.4)を思い出した。12時30分に帰宅した。車は速い。Sさんまたまた有り難うございました。感謝です。(2020/08/22 K.K. 1342/1400

◇日時 2020/8/1 ◇天候 晴 ◇資料 「古代蓮の里」◇歩数等 5,000歩 4km 
「通過時間等」自宅8:00-行田古代蓮の里9:25/10:15-自宅12:25

板橋区にあった二輪草歌碑を訪ねる

 今春も近くの赤塚自生地にニリンソウを訪ね(20.4.6)、眺めた。土手下を白い花は埋め尽くしていた。ニリンソウは板橋区の花に選定され、保護されていることは知っていた。最近になり、上板橋ににりんそう公園があり、そこには、川中美幸が唱う“二輪草”の歌碑があると知った。どうしてそこにと思いながらも、訪ねることにした。

 西台から中台へ 三田線西台駅からスタート。今回も観光いたばしガイドマップを持参し、最初のポイントは駅前交差点を渡り馬頭観音堂。この辺りは通ったこともあるが初めて知り、参拝。住宅街へ右折し植村直己冒険館だが、未だ開館前。高島平にあったが移ってから久しい。小路を直進した左手が氷川神社。当社も初めてで社殿前へ進み手を合わせた。冨士塚があり(写真上)、カメラに収める。シンプルで美しいと思う。当社は志村橋付近から移設されたとあり、荒川氾濫の影響だろうと推測した。途中、山門から蓮華寺を覗いたが、由緒が不明で、通過。この辺りは大きなお宅が続き、蓮根村の農家の名残か。
 高速道路下へ出て、信号を待ち交差点渡り、中台しいのき公園。ほんの一画だが、土手に大木が繁り緑に覆われ涼しい。坂の右手に中台馬場崎貝塚がある筈だが案内はない。また山勘で住宅街裏手へ回ると、空き地に案内の杭だけがあった。戻って大通りを直進。稲荷神社へ寄り、地図を出しいよいよ目指すにりんそう公園で、位置を確かめる。

 にりんそう公園、歌碑 下り坂カーブの地点で、小路へ入り直進すると右手に小さな緑地があり、にりんそう公園。中央の小さな土手上に歌碑はあった(写真下)。川中が唱う歌詞が刻んである。作曲家弦哲也の名もある。平成11年、レコード会社テイチク(株)建立とある。この歌碑は赤塚の自生地が適当と思うが、板橋区が建てたのではない。当地もニリンソウ咲く地とある。除幕式では川中も見え、最後は、“・・・二人は二輪草”と指二本出し、唱ったのかなと想像しながら、狭い公園を眺め回した。
 最近夕方、時間を持てあまし、演歌や歌謡曲を聴き捲っているが、川中の歌は少ない。里歩き途中に偶然出会うこともある。神田川を下った時南こうせつの神田川の歌碑を眺めた(10.3.25)。万代橋では新潟ブルース(10.53)、幣舞橋では釧路の夜(16.63)の碑を見ている。いずれも美川憲一で、記録にもあり、写真も残っていると思う。岐阜柳ヶ瀬通りでは探し損ねた(17.9.7)。塩屋岬にはひばりのみだれ髪碑を訪ねた(17.7.2)。今後は歌碑巡りも良いかなと思い始めている。
 板橋平和公園 東武上板橋駅へ出て、最後に平和公園へ脚を伸ばした。板橋区の平和宣言の碑や像があった。休憩していると、板橋区主催のウォーキングに元同僚達と参加し、当公園を歩いたことを思い出した。帰宅後調べたが記録はないが94年の秋だったと思う。高島平赤塚公園まで歩き、家内が用意した芋煮鍋で打ち上げたことは覚えている。雨が降り出し、バスで、三田線板橋本町駅経由で帰宅した。(2020/08/17 K.K. 1341/1400)

◇日時 2020/7/27 ◇天候 小雨、晴 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」◇歩数等 12,000歩 9km 「通過時間等」自宅9:00-三田線西台駅9:20=馬頭観音堂9:25=氷川神社10:00=蓮華寺10:10=中台しいのき公園10:20=中台馬場崎貝塚10:30=稲荷神社10:40=にりんそう公園10:50=板橋平和公園11:20-三田線板橋区役所前駅11:50-自宅12:10

赤羽西から十条の社寺を巡り歩く

 今回の脱巣ごもりハイクは、板橋区内を出て、北区の赤羽から十条にした。コースポイントに十条の富士塚がちらついた。約20年前富士塚を眺め(99.2.6)、大きな姿に魅せられた事を思い出し、再訪したい。その前後に繋ぎのポイントを探したら、近くを走る現埼京線沿いに古社や古寺もある。

 稲付遊歩道から 赤羽駅西口には、最近利用している三田線志村坂上駅からバスにした。西口より線路沿いに十条方向へ歩き出すと稲付遊歩道があり、当地は稲付地区で、稲付城跡のある静勝寺は右手丘上だが、今回は寄らない。遊歩道から本道へ出て、交差点を渡り、法真寺の案内がある坂を上がる。
 手前に香取神社の参道を見付け、石段を上がって参拝。二度目かなと思ったが記憶にない。境内に力石があり(写真上)、カメラに収めた。
 隣が、目指す古刹で、都内とは思えない緑の中の寺院。軽く頭を垂れ、Uターン。また坂を上下し、住宅街の奥に鳳生寺を見付けたが、一般の参詣はないようで、境内から本堂前を覗き、戻った。さっきから方向のみからの山勘が当たり、予定ポイントを巡っているが、次の清水坂公園も、住宅街の小路を抜けた想定先にあり、二度目だが意外に広くない。埼京線の車窓からは広い公園に見えた。
 十条富士塚は工事中 いよいよ十条だが、埼京線西側を十条銀座方向へと行く。環七通りを渡ると富士見銀座通りとあり、名前も初めての商店街。途中の食料品店で、好物の瓜の鉄砲漬を求める。店頭に貼られた歌手多岐川舞子のポスターに引き寄せられたのかもしれない。最近夕方時間を持てあまし演歌を聴いているが、その中の1人で、主にカバー曲を聴いている。

 十条銀座入口で左折し、踏切を渡って進み、岩槻街道(日光御成街道)へ出て右折。右側に富士神社はあったが、大工事中。境内周囲がフェンスやシートに囲まれ、木々も切られている模様。警備員が居て参拝も叶わないと言われた。肝心の富士塚はシートで仕切られ一切見えず、カメラも向けられない。工事は今年一杯掛かるという。残念ながら街道を上り、地福寺へ寄ると、入口に秀吉の醍醐の花見に繋がる桜木の案内があった。
 十条駅前付近 戻って十条駅へ。途中の狭い商店街右側に篠原演芸場があった(写真下)。現在では都内二軒のみの大衆演芸場で、梅沢富美男も若い頃は出演していたらしい。また踏切を渡り十条銀座で、車窓からは駅と直角の通りと思っていたが、線路沿い右への通りと先程知った。
 十条駅前へ回ると、田舎のような小さな駅舎。駅前には長孫が4月から勤め始めた地方金融機関の支店があった。三田線の駅まで歩こうとしたが疲れ、板橋区内へ入り帝京大学前からバスで板橋駅に降り、三田線新板橋駅から帰宅。(2020/8/13 K.K. 1340/1400)

◇日時 2020/7/21 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 JR東日本「駅からハイキング十条駅」 ◇歩数等 12,000歩 9km 
「通過時間等」自宅9:15-志村坂上バス停9:40-赤羽駅西口10:05=香取神社10:25=鳳生寺10:35=清水坂公園10:45=富士見銀座通り11:00=富士神社11:10=地福寺11:20=十条駅前11:30=帝京大学11:45-三田線新板橋駅12:10-自宅12:35

今年も遅かった足立堀之内古代蓮

 昨年だった思うが都内足立区に古代蓮が咲くと知り、開花時期を待っていた。その時を迎え、訪ねる機会を窺っていたが、見頃にぴったり合わせるのは困難である。7月も半ばになり、公園へ電話で問い合わせたら、盛りは過ぎ1/3ほど残っていると教えてくれた。やっぱりと思いつつ、出掛けた。

 足立堀之内公園へ 地図で調べると荒川沿いで、鹿浜橋と江北橋の間にあり、交通アクセスは良くない。赤羽駅へ出て、バスで鹿浜橋袂に降り、歩くことにした。バスは途中から環七を走り鹿浜橋を渡って、私は次のバス停に降りた。広い環七を歩道橋で渡り、右手に荒川土手と高速道路を見ながら下る。バス停付近は見た風景であったが、それからは未知の地で、地図と山勘が頼り。公園は少し住宅街へ入った地で、そろそろかなと大きな工場側へ踏み込んだが、山勘がまた外れ一足早く、工場裏から出た大通りの先にそれらしい風景が見え、目指す堀之内公園であった。
 蓮の花を巡る 小さな公園だが、その半分程がハス園。花は咲いているも、少ない。蓮の葉は大きく、背も高いから、花は目立ちにくい(写真上)。でも、ピンクや薄ピンクの花は大きめで、美しい(写真下)。カメラを手に持ちながら、ハスの間を巡る。花弁が枯れ落ちた跡も多い。残念である。大分前に千葉で満開の大賀蓮を眺めて(08.7.28)以来、そちこちに、蓮の花を追っているが、満足したことはない。昨年の埼玉白岡でも、ポツリポツリであった(19.7.23)。最後に大回りし、来年も来ようと園を離れた。

 荒川土手、鹿浜橋 荒川左岸土手へ上がり、鹿浜橋へ向ける。広い河川敷の中央を流れる荒川を眺めながらはハイキングらしくなった。桜木の間を通ると、サクラを詠んだ俳句の掲示があり、芭蕉の“花の雲 鐘は上野か 浅草か”等も紹介してある。もう少し上流が都市農業公園で、花見に来たことがあった。足立区は五種類の桜を育てているようだ。花友と一緒だった思うが、こんな時期でご無沙汰である。蓮の花の写真、選んで送ろうと思う。
 鹿浜橋に着き、長い橋を渡る。孫の1人が当地の高校に入学し校舎はこの近くにあり、やはりハイキングの序でに立ち寄ったことがあった(18.4.2)。彼も3年になり、現在変則的な通学ながらも元気に登下校しているようだ。橋を渡り終えた先に新田一丁目バス停があり、赤羽駅行きに乗車。環七は大混雑でバスはノロノロ。孫は自転車通学に切り替えて久しいが、これではと彼の気持ちが理解できた。赤羽駅で乗り換え、最後は三田線志村坂上駅から帰宅した。
 地球温暖化で、花期が早まっているのは確かなようだ。四季の花は来年まで1年待たなければならないが、早め早めに訪ね、観賞したい。(2020/08/07 K.K. 1339/1400)

◇日時 2020/7/13 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 昭文社「東京都市図17西新井」2004年4月 ◇歩数等 11,000歩 8km 「通過時間等」自宅12:30-志村坂上バス停12:54-赤羽駅東口13:20-鹿浜橋バス停13:35=堀之内公園14:00=荒川土手14:20=鹿浜橋14:45=新田一丁目バス停15:00-赤羽駅西口15:35-三田線志村坂上駅16:00-自宅16:15

笹目通りから新倉ふるさと民家園へ歩く

 都内西端の埼玉県境を笹目通りが走っている。地域としては、板橋と和光下新倉から白子で、我が家から近い。新倉にふるさと民家園があることを知り、徒歩圏内と分かった。笹目通りを白子へ向けて歩き、下新倉から和光市内へ入るルートを思い付いた。安近短コースで、脱巣ごもりハイクにベターである。我が家にある埼玉県道路地図で調べた。

 稲荷神社から笹目通りへ 笹目通り沿いの神社を巡り、その後笹目通りを渡ろうと、白子川近くのバス停に降りようとしたが、路線違いのバスに乗り、手前の成増一丁目で降りスタート。前回白子宿からの帰途に歩いたコースへ至り、迂回したが白子川を渡り稲荷山下へ出た。頭上の数本の樹木を見上げ、目指す豊川稲荷に違いないと坂を上がる。途中に階段参道と鳥居があり、小さな社に参拝。周囲は住宅街だが、溜池造成工事のよう。

 白子御岳神社? 右手の笹目通りへ出て、側道を行く。バイパスの交通量は多い。白子の城山交差点を渡り、左手の小さな屋敷林に、次のポイント御岳神社の見当を付け、接近。古い建物はあるが閉鎖してあり、立ち入り禁止とある。奥か裏かと覗いたが、社等は見当たらない。もっと先かとバイパス側道を進むと東上線上へ出てしまい、Uターン。今度は集落内通りに探すがそれらしい建物はない。近くの老人に尋ねたら、全く違う場所の神社を教えてくれた。昨夜のネット調査ではヒットせず、既に廃社になったのかなとは頭を掠めていた。
 下新倉、ふるさと民家園 城山交差点を渡り、下新倉氷川八幡神社を探す。氷川通りとあり裏参道から詣でて、小休憩。こちらは広い境内に舞台も備えてある。次は、いよいよ新倉古民家だが、住所の地番が頼りで、後はいつもの山勘。小川の三つ目の橋を目標に、集落内を下る。農村風で、眺めた景色が子供の頃観た故郷田舎を思い出させ、止まってカメラに収めた。首尾良く小川・谷中川を渡る。私は白子川へ注いでいるかと思っていたが流れは逆。和光の市街地へ出たようだが方向を失い、通り掛かった方に案内して貰い、古民家へ到着。

 土手下に古民家旧富岡家は移築されていた(写真上)。300年前建築の農家だが、広さや部屋の数、構造から小作ではないことは明らかで、組頭宅のようだ。内部も煤けた天井や広い土間、囲炉裏、釜戸と古民家の条件十分。座敷では、ご婦人方が趣味会開催中。最後に庭に咲く芙蓉の花を眺めシャッター切り(写真下)、園を出て、和光市駅へ歩いた。
 閉鎖した御岳神社 帰宅後、白子の御岳神社をネット検索すると二度目に出て来た。搭載者も?付している。確認しようと後日再訪。件の閉鎖建物前で真剣かつ慎重に目を凝らしたら繁みの中に社らしき一部が見え、そちらへ回ると小さな朱色の社、鳥居、石段もあるが名はない。そうしたら、自分の私有地だから出てくれと声が掛かり、個人所有の屋敷神という。御岳神社は隣で、大分前に閉鎖し御本体は返却したと教えてくれた。私の地図は30年前発行であった。(2020/08/03 K.K. 1338/1400)

◇日時 2020/7/10,8/2 ◇天候 小雨 ◇交通費 150円 ◇資料 昭文社「埼玉県道路図」1990年1月 ◇歩数等 12,000歩 9km 「通過時間等」自宅9:10-成増バス停9:20=豊岡稲荷神社9:55=白子御岳神社跡10:10=下新倉氷川八幡神社10:30=谷中川10:45=新倉ふるさと民家園10:55/11:10=東武和光市駅11:25-同成増駅11:36-自宅11:55

板橋宿から石神井川、川越街道へ

 1ヶ月前、平尾宿から板橋宿を歩いた時、仲宿の脇本陣跡を探せなかったが、その後跡地の位置が分かった。それに、歩き残した中山道を渡った先の智清寺や日曜寺を訪ね、旧川越街道を下り、平尾宿へのコースを思い付いた。三田線で近いので、直ぐ出掛けられる。暑さが増す前にと、いつもより早めにした。

 仲宿脇本陣跡は案内だけ 三田線を板橋区役所前駅に降り、真っ直ぐ進んだ先の板橋宿仲宿通りへ出て、旧中山道を歩く。遍照寺前から本陣跡を確かめ、次の小路で左折。前回は脇本陣跡は旧中山道に面していると思い探したが、小路奥と分かった。ビル前庭に案内があり(写真上)、脇本陣跡の明示はないが、名主屋敷跡との説明。そのまま直進し、現中山道を渡ると直ぐ先に氷川神社参道があり、細長い境内で参拝する。富士塚は以前も眺めたことがある。少し歩くと石神井川で、釣り堀公園では釣り糸を垂れている人も見える。

 石神井川から川越街道 藍染め橋を渡り閑静な住宅街で、奥に室町創建の古刹智清寺、少し歩いて日曜寺で、軽く手を合わせる。日曜寺は吉宗の子孫田安家の信仰厚く、山門額は田安家出の松平定信書とある(写真中)。区内の大和町から双葉町だが初めての地で、板橋としては高級住宅街か。また氷川神社があり立ち寄り頭を垂れ、疫病退散をお願いした。
 石神井川へ出て、日陰を求め川沿いを行く。東上線高架下から現川越街道が見始めた地へ至り、下頭橋と六蔵祠。僅かな賽銭を入れまた同じお願いをした。前の通りが旧川越街道で、左手に豊敬稲荷があるが、記憶がない。大分前にこの通り歩いたと思う。通り二本先に轡神社があった。奉納された草鞋で思い出した(写真下)。家康が休息し残された馬の轡を祀ったとある。前回は雪があったと思う(01.1.28)。

 大山商店街で混乱 現川越街道へ出て、大山商店街手前にお福地蔵案内を見て立ち寄るも見え覚えがない。大山商店街へ戻り、今回もコース後半で区役所は近い筈と、各店舗を眺めながら大きなアーケード街を進む。最近はご無沙汰だが、2,3度は訪ね見覚えのある店もあるよう。
 処が、東上線踏切から大山駅へ至り、区役所付近ではない。何処で間違えたかと戻るも、不明。偶々お巡りさんに出会い教えて貰う。区役所は踏切を渡ったもっと先という。混乱である。大山商店街は長く、私が知る商店街は大山駅迄の区役所側の一画に過ぎず、商店街は駅を越し川越街道へと続くと知った。近道と踏切を渡り養育院。現在は大きな病院だが明治期に救民施設として設けられ、初代院長が渋沢榮一で、大きな銅像があり見上げた。ここからは土地勘が戻り、グリーンセンター、税務署から山手通りを渡り区役所前で、今回はゴールにした。(2020/07/28 K.K. 1337/1400)

◇日時 2020/7/2 ◇天候 晴 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」◇歩数等 15,000歩 11km 
「通過時間等」自宅7:40-三田線区役所前駅8:00=仲宿脇本陣跡8:15=釣り堀8:30=智清寺8:40=日曜寺8:50=下頭橋・六蔵祠9:15=轡神社9:40=大山商店街10:00=養育院10:15=三田線板橋区役所前駅10:30-自宅10:55

10年振りに蔵王お釜を覗き宮城蔵王へ

 山形行き3日目、前夜は蔵王温泉に泊まった。温泉は、木造湯船で白濁の硫黄泉は2日間の疲れを癒やしてくれた。本日は、エコーラインで蔵王山頂下へ上がり少し歩いて宮城県側へ下るというルートを、Sさんにお願いしている。久し振りの蔵王温泉で、早起きし高湯温泉街や周辺散策もあったが、脚が重く、朝食後ホテル前から車に乗り込んだ。

 蔵王山頂付近へ 山裾の蔵王ラインからエコーラインを上がり、坊平高原を過ぎ、刈田岳下へと走った。10年振りとなる(11.8.8)。月曜日早朝、車は殆ど走っていない。現在は上がっているが、夜中は雨であったようで、道路は濡れている。
 刈田岳下駐車場に着いたが、誰もおらず我々だけで、売店も開店前のよう。私の当初の予定では、刈田岳から大黒天か駒草平へ約1時間程宮城蔵王を下ろうと考えていたが、足下が緩い上に、1人では心細く怖じ気付いてしまい、Sさんに中止を伝えた。
 お釜、刈田岳、茂吉歌碑 蔵王のお釜を眺めようと坂道を上がる。馬の背を越しお釜を覗く。火口湖は静かに水を湛えている。一時右側に崖崩れ跡があったが、見えない。お釜は小学5年の林間学校の時登山し眺めたのが最初で、その時馬の背の地名も知った。それ以来、5,6度は眺めているだろう。カメラに収めようと覗くと、熊野岳山頂は雲に覆われている(写真上)。蔵王最高峰で、山頂には山麓上ノ山出身茂吉の“陸奥をふたわけざまに・・・”歌碑が建つ。私の記録読者天童のS先生は、アララギ派茂吉系の歌人で、地元短歌会でご活躍されている。90歳を超えるご高齢だが旺盛で、私の駄文にも毎号ご感想の外、冒頭には詠まれた短歌を載せて下さる。最新では、“枕辺に 蛙の声を聞かず過ぎ 休耕田に夏草繁る”とあった。感謝とご健康を願うだけである。私が未だ歩き駄文を書き続けているのは、先生の励ましにも負うている。

 宮城蔵王側へ 刈田岳山頂付近を歩き駐車場へ戻り、宮城県側へ下る。私は初めてのコースで楽しみである。大黒天、駒草平を過ぎ高原状の地から深い森林地帯へ入り、峨峨温泉口、青根温泉口を通過する。名前をだけ知る山ノ湯で、もっと高地にあると思っていたが、蔵王山麓も中腹下のよう。遠刈田温泉は山を出た平地で、隣の白石インタから東北自動車道へ入り、昼過ぎには高島平であった。
 Sさん、この度は特に大変お世話様でした。お陰様で、久し振りの山形で、念願の奥の細道を新庄、清川と辿り、鳥海山を眺め、宮城蔵王側を初めて知り、また神町では同級生豊農園に寄り旬の佐藤錦(写真下)を直に食べ、脱巣ごもりには最適で、リフレッシュされました。(2020/07/23 K.K. 1336/1400)

◇日時 2020/6/22 ◇天候 曇り ◇資料 昭文社「山と高原地図37蔵王」1994年版◇歩数等 5,000歩 4km 「通過時間等」 蔵王ホテル7:40-刈田岳下駐車場8:20=刈田岳8:30=同下駐車場8:40-東北自動車道白石インタ9:30-高島平・自宅13:15

鳥海山麓で展望を楽しむ

 本日は鳥海山山麓である。東北2位の高山(2,236m)は、子供の頃から出羽富士として知り、登山計画を立てたことがあったが、実現していない。最近も同級生のハイク友に登ろうと言われたが、言葉を濁した。遠いし難所もあり長時間を要する。その下見も兼ね、今回Sさんに同行。山麓遊歩道があれば歩きたいと思ったが、事前調査では見当たらない。

 ブルーラインで鉾立口へ 酒田駅前をスタートし、郊外から遊佐へ向け国道を走る。本日天候良く、鳥海山は右手にくっきりと大山容を現している。小さな雲がポツリポツリと浮くが、影響ない。日本海沿いに北上し、遊佐から吹浦へ入り、山麓の山岳道路鳥海ブルーラインへと上がった。私の想定とは違い山麓を巡る道路ではなく、登山口へ上がる道路のよう。周囲は深い森林で覆われ、薄ピンクの花はシャクナゲか。程なく樹林も低くなり大平口で、多くの車が駐車し登山者用と知る。雪も残る。その奥が鉾立口で、もう秋田県。こちらも中腹の登山口で、山へ取り付こうとしている登山者も見えるが、車が次々到着し、準備している者も多い。山頂までは5時間前後らしい。私にはもう無理だろう。
 山頂、日本海を展望 展望台へ上がる。山頂が見えたが、直ぐ雲が覆ってしまい(写真上)、Sさんは間に合わず、残念がった。眼下が奈曽渓谷で、深いV字渓谷は大鳥海らしい。反対側へ目を転じると象潟方面で、陸の松島のような風景も見え、数年前訪ねたことがあり(18/07/03)、Sさんに紹介した。日本海側へ回ったが、海上に飛島は見えない。
 大物忌神社へ参拝 ブルーラインを下り、鳥海山大物忌神社へ寄って貰う。先程見付けていて、本社は山頂だが吹浦之宮があり、出羽一之宮という。松林を抜け、海岸へ出ると正面に飛島が見えた。吹浦河口の風景が目に入った時、高校時代夏休みに海草採集に来たこと思い出した。生物の先生と10人前後であったと思う。約60年前のことである。
 古くて大きな神社で参拝し、次回の山での天候と展望をお願いした。Sさんは朱印を戴き、自分の思いを伝えたようだ。山麓トレッキングをし鳥海湖へとも考えておられると後に知るが、事前準備やそれなりの日程も必要と思う。

 猿羽根峠から遠望 車で、遊佐、酒田郊外、清川、本合海と走り、新庄へ入らないで舟形へ至り、急遽だが猿羽根峠へ寄って貰った。私は一度訪ねている(12/10/19)が、最近芭蕉句碑があると分かった。奥の細道で新庄へ入る前、芭蕉も越している。観音様周辺だろうとウロウロしたが結局見付けられず、駐車場へ戻ると、正面に鳥海山の姿が見え(写真下)、カメラを出しSさんへも知らせた。峠先からは故郷北村山郡で、大石田、村山富並、東根を過ぎ、今夜の宿のある蔵王温泉へ。途中、同級生が営む蕎麦屋で昼食し、日本一の大欅を案内し、神町でさくらんぼを求めた。(2020/07/17 K.K. 1335/1400)

◇日時 2020/6/21 ◇天候 晴れ ◇資料 遊佐町役場「鳥海山」19.6 ◇歩数等 9,000歩 6km
「通過時間等」酒田駅前ホテル8:10-鳥海ブルーライン入口8:35-鉾立登山口8:55/9:30-鳥海山大物忌吹浦之宮10:00-猿羽根峠11:30-村山富並そばの陣12:20/13:30-東根大欅14:05-神町豊農園14:20-蔵王温泉ホテル16:10

山形最上川沿いに芭蕉史跡を辿る

 山形鳥海山麓へ行くからどうかと、Sさんに誘われた。最近奥の細道を辿り始め、山形では新庄と本合海が未訪で、今年の候補先にしている。車のSさんに、新庄付近で降ろして貰らえればと、同行をお願いした。Sさんは翌日新庄の予定という。山形の読者が送ってくれた地元紙の細道情報も持参。今回の自粛も、都府県境を越すお出掛けが、前日解禁された。

 予定変更し清川へ 深夜、車は埼玉、栃木と東北自動車道を北上し、福島から山形道へ入った。山形市内だが7時前で、庄内道へ左折し月山山麓を過ぎ庄内が近づくも、鳥海山は雲の中。肝心の展望は望めそうもない状況。私は、明日の天気予報を見て本日の予定を変更し、清川から新庄へはどうかと提案。Sさんが了承してくれた。羽黒山門前町から最上川沿いの清川へ。車は速く、小さな集落清川には8時過ぎに着いた。芭蕉上陸地は小学校跡の隣にあり、江戸期清川関所があった地で、堤防の下(写真上)。新庄本合海から乗船した芭蕉達は、1689(元禄2年)6月3日(陽暦7月19日)、関所でトラブルがあったが上陸出来、出羽三山へ向かった。句碑と芭蕉像があり、“五月雨を 集めて早し 最上川”で、大石田では、“涼し”であったが、“早し”へ改めたのは乗船後である。カメラに収めた。清川は、帰郷の折羽黒山三山神社参拝へ家族で来た時以来で、当時の写真から34年前と分かった。
 芭蕉、曾良の像のある本合海 最上川沿いに、本合海へ向かって貰う。左手に大河を眺め、右側には陸羽西線が狭い山裾に続く。昨年鳥海山麓を訪ねたSさんは、山中の林道を走り真室川から新庄へ出たという。カーナビの指示で、最上川には出合わなかったと話してくれた。大河は山形盆地を北上し、西の庄内平野、海へと方向転換する辺りが本合海。左手に白い崖が見え始め八向の楯の地で、持参資料にある(19.6.17山形新聞)。
 大橋を渡り集落内の最上川縁に、乗船の地は見付かった。新庄に2泊した芭蕉は、地元の俳人達に見送られたという。曾良との2人像があり(写真下)、ご当地東山焼製。歌碑・句碑が多く、子規や茂吉、金子兜太達も来訪し、詠んだようだ。最後に新庄市内へ向かって貰う。

 新庄市内に句碑二つ 地図を眺めているとバイパスを走っているようで、句碑のある柳の清水は近い。JR線高架下から市内外れに見付かった。“水のおく 氷室尋る 柳かな”だが読めないのは良くあること。近くに羽州街道鳥越の一里塚があった。市内中心の市民プラザの庭にも、“風の香も 南に近し 最上川”の句碑があった。二句とも新庄で詠んだもの。これで、本日の私の予定、否今回の山形訪問は充たされた。Sさんに大感謝である。
 車での移動は順調で未だ午前中。昼飯は、清川へ戻り、先程見付けた食堂で蕎麦と地元食麦切りを戴いた。太い素麺のようだが、腰があり旨かった。私は、羽黒山麓に泊まるSさんに別れ、清川駅からジーゼル車で、酒田へ。時間があり、最上川河口付近にある日和山公園を往復し、芭蕉像をデジカメに写した。前回眺めた(15.4.27)が、写真はない。明日の好天を期待し、駅前ホテルに投宿した。(2020/07/11 K.K. 1334/1400)

◇日時 2020/6/20 ◇天候 曇り ◇現地交通費 910円 ◇資料「おくのほそ道の風景地 本合海」19.6.17山形新聞 ◇歩数等 12,000歩 9km 「通過時間等」自宅高島平3:00-月山湖付近7:30-羽黒山門前町8:00-清川8:30-本合海9:20-新庄柳の清水9:45-同市民プラザ10:15-清川(昼食)11:00/11:35-JR清川駅11:48-同酒田駅12:30-日和山公園13:50-駅前ホテル15:10

菖蒲を求め都内綾瀬しょうぶ沼公園へ

 紫陽花と共に、菖蒲の花の季節である。ネット検索したら足立の綾瀬にあるしょうぶ沼公園がヒットした。都内や近郊の菖蒲園は殆ど訪ねているが、未訪の花園で飛び付いた。最寄り駅が千代田線北綾瀬駅で、こちらも乗降したことがない。駅傍でグッドだが、歩き足りない分、帰路は綾瀬駅まで歩こうかと考えた。

 北綾瀬しょうぶ沼公園へ 綾瀬駅はJR常磐線の筈だが、現在は地下鉄千代田線のみが乗り入れし、大手町駅で千代田線へ乗った。北千住駅を過ぎ地上へ出て荒川を渡り綾瀬駅で、一駅先の北綾瀬行きへの乗り換えだがホームの階が違い、初めてで戸惑った。
 直ぐ北綾瀬駅で降車し、駅前のしょうぶ沼公園位置を確かめると、出口斜向かいが公園で、その奥がしょうぶ沼ではなく、池のよう。小さな水車があり、湿地帯には菖蒲があるが、目に付く花は疎ら。咲く花を求め池端を巡る。花の種類を示す木札が揃い管理は行き届いているが、問題は花期か。次第に花も多くなり、それなりに花開く区画もあり(写真上)、咲く花を拾いカメラに収めながらゆっくり回る。ベンチは高齢者が占拠しているのは何処の園も同様。一回り半程し、偶々案内を見付けた東綾瀬公園へ向かう。

 東綾瀬緑道を歩く 道順を間違えたが、大通り先の右手の緑地一帯が目指す公園。樹林の奥にグランドもある。流れの傍に咲く黄色い花はシャガだろうか。デジカメを向けた。公園から綾瀬駅方向へ緑道が続いているようで、ラッキーと林の下を歩き続ける。涼しい緑道広場では、先生に連れられた園児達が遊んでいる。横目で眺め、孫達の幼い頃を思い出しながら、駅へと行く。緑道を抜けると、東京武道館横。綾瀬駅は近いなと歩を進め、駅裏へ出た。
 千代田線に乗り、町屋駅に降りる。往きの通過の際、ここで都電荒川線早稲田行きに乗り換え飛鳥山公園で、紫陽花観賞を思い付いた。町屋駅は、京成本線も交差し、相互に乗り換え可能と最近知り、利用を始めている。
 飛鳥の小径の紫陽花 都電を降りJR王子駅前から飛鳥山公園へ。この時期、飛鳥の小径と名付けられた紫陽花の咲く遊歩道が山裾に続き、私は数度観賞し、最近では5年前には花友を案内し満足して貰ったと思う(15.6.11)。山裾とJR線の間の道へ踏み込むと、花は咲いているが、何故か物足りない。これまでの経験から多分な期待からだろうが、花は色が薄く、いつもより花数も少ないような気がする。擦れ違う観賞者も少ない。シャッターを切りながら、奥へ入ると赤紫の花もあり、花数も増えたようだ(写真下)。これまでは小路を往復し紫陽花を楽しんだが、今回はそのまま坂を上がり飛鳥山を越し、また飛鳥山駅から都電早稲田行きへ乗車。新庚申塚駅から三田線西巣鴨駅へは少し距離があった。(2020/07/05 K.K. 1333/1400)

◇日時 2020/6/16 ◇天候 晴 ◇交通費 410円 ◇資料 昭文社「東京都市図18」 ◇歩数等 11,000歩 8km 
「通過時間等」自宅8:25-千代田線大手町駅9:13-同北綾瀬駅9:45=しょうぶ沼公園9:50/10:05=東綾瀬公園10:15=綾瀬駅10:42-都電荒川線町屋駅11:00-同王子駅11:15=飛鳥の小径11:20=都電荒川線飛鳥山駅11:40-三田線西巣鴨駅11:56-自宅12:20

品川に紫陽花を眺め、高輪ゲートウェイ駅に降りる

 今年も新聞に載った品川の紫陽花 いつものように朝刊を開いたら、都内版に紫陽花満開の記事があり、良く見ると品川中央公園の紫陽花(20.6.13朝日)。カラーで見事な満開の紫陽花の写真である。えっと、声を出しそうになった。2日前同じ公園へ出掛けたが、公園の一画に僅かに咲く花があるだけで、不満足であったからだ。私は、数年前、多分新聞情報で知り、同公園は紫陽花の名所だろうと思い、訪ねた。

 青物市場駅から品川区役所前へ 6月に入り、今年も初夏の花の季節がやって来た。満を持し、紫陽花の品川中央公園へ出掛けた。三田線から京浜急行線に乗り換え青物市場駅に降り、スタート。
 初めての地で駅裏の歩道橋上から、行く先ルートを確かめた。左手先に寺の屋根が見え、海晏寺だろうとそちらへ歩き出す。山門から本堂を覗き、右折し坂を上がる。旧仙台坂とある。大きな交差点を渡ると大井銀座商店街通り。大井町駅を過ぎ、右手にある品川区役所を探す。首尾良く区役所前へ至り、目指す公園はあった。
 しかし、紫陽花は通路沿いの植え込みに咲いているだけ。こんなものではないだろうと、中央へ入り高台から見回したが、紫陽花は見当たらない。通路沿いにポツンポツンと咲いているだけ。そう言えば、公園をネットで検索したが、紫陽花情報はなかった。
 公園一画に咲く紫陽花 折角来たから一回りしようとグランドの方へ行くと、小さな遊園地がありその先のコーナー一画に紫陽花があり、満開。少し低地で、見えなかったのだ。カメラを出し写しながら眺めるが、僅かな区画に咲いているだけ。通路の右土手には花は多い(写真上)が、左側2列ほど。私の外、観賞者はいるが数人。この程度でマスコミは取り上げるのか。同じ区内ならとは思うが、都内全域には大袈裟で、交通費を掛けて来るほどの花園ではないと思った。しかし後日、今年の報道を含め、季節感を伝えたもので、観賞先を紹介したのではないと気付いたが、遅かった。広くはない公園の外周を歩いたら、平成12年に、企業跡地を公園化したとあった。

 新設の高輪ゲートウェイ駅 JR大井町駅へ戻って京浜線に乗り、高輪ゲートウェイ駅へ。今年3月開設された山手線30番目の新駅で、見ておきたい。駅ホームーへ電車は滑り込んだが、乗客は殆どいない。降りた者も僅か。
 駅舎の天井は高く、ホームを含めすっぽり屋根で覆われている(写真下)。大きな体育館のようである。窓口もなく、駅員は見当たらず全て自動化のよう。周辺の通勤客専用なのだろう。私は、エスカレータで改札口へ上がり、高輪側へ出ると駅前は未だ工事中。都営浅草線泉岳寺駅へ歩いた。(2020/07/01 K.K. 1332/1400)

◇日時 2020/6/11 ◇天候 晴 ◇交通費 320円 ◇資料 昭文社「東京都市図68」 ◇歩数等 11,000歩 8km 「通過時間等」自宅8:35-京浜急行三田駅9:28-同青物市場駅9:50=旧仙台坂10:00=品川中央公園10:15/10:35=JR大井町駅10:55-同高輪ゲートウェイ駅11:05=都営浅草線泉岳寺駅11:15-三田線三田駅11:21-自宅12:10

朝霞に重文古民家を見学し、和光の代官屋敷へ

 埼玉朝霞に古民家高橋家住宅の情報を得ていた。朝霞は近く、東武東上線で板橋成増駅から二つめである。その間の和光を最寄り駅とする代官屋敷柳下家の存在を先日知った。これらを結びつけ、訪ねることにした。双方とも駅から徒歩の距離で、グッドである。
今、自粛期間中だが高橋家の公開を確かめた。

 朝霞駅から高橋家へ 朝8時過ぎ、バスで成増駅へ出て、鈍行に乗車。いつものハイキングは急行だが、朝霞駅には停まらない。10分弱で着き、北口から歩き出す。
 朝霞は久し振りで、一時長男一家が住んでいて、昨年成人した2番目の孫はここで誕生したから約20年前か。見覚えのある駅前通りを北上するが、略図のみで、住所の地番が頼り。いつもの山勘で、左折し住宅街へ入るが、目指す地番は見当たらない。コンビニからバス停をチェックし二度尋ねて、迂回したが古民家高橋家住宅前へ出た。
 江戸中期享保年間建築の農家で、復元を経て重文指定という。茅葺き、土壁の平屋で(写真上)、荒川に近い武蔵野台地の端に建つ。内部は広い土間と4部屋造り。母屋の回りに、納屋や倉、室、井戸小屋も遺っているが、母屋よりは新しいようだ。はっきりした建築時期は棟札があれば分かるのだが、見付からないのだろう。家内の実家もそうであった。
 屋敷は広く、裏は沢で、屋敷森も遺されている。立派な母屋や屋敷の広さから高橋家は小作ではないだろうと思ったら、資料に本百姓とあった。一回りし、数回カメラのシャッターを切った。
朝霞駅南口にある本田美奈子記念碑へ立ち寄った。一時活躍したアイドル歌手だと思うが難病で早世されたようだ。名前を知るのみだが、板橋生まれで、工藤の姓に身近さを感じた。

 御当主奥様に案内して貰う 和光市駅南口に降り、下新倉の代官屋敷柳下家へ向かう。最近川越街道白子宿を歩いた時調べ偶然知った。旗本酒井忠吉の陣屋である。こちらもまた山勘で、現川越街道手前の旧道へと直進、左折を二度繰り返し出会った町内地図で確認すると下新倉で、直ぐ代官屋敷前であった。
 お屋敷を眺めると、屋根がトタン葺きに改築されているが面影が遺り、デジカメに収めた。念のため、近くにおられたご婦人に確かめると、柳下家の奥様で、屋敷門を開け正面からどうぞと言われた(写真下)。恐縮しながら伺うと、ご先祖は甲斐武田家の重臣の出で、当地に約600年お住まいという。ご婦人にもそのような気品が感じられた。
 お礼を申し上げ、旧川越街道をくらやみ坂から現笹目通りを渡って大坂を下り、前回訪ねた白子宿へ。本陣富澤家の前を過ぎ右折し、埼玉から東京の成増へ入り、バス停を探しバスを待った。(2020/06/25 K.K. 1331/1400)

◇日時 2020/6/7 ◇天候 晴 ◇交通費 300円 ◇資料 「江戸期の農家の客間に質素な竹すのこ床」しんぶん赤旗20.3.29 ◇歩数等 13,000歩 9km 「通過時間等」自宅8:30-東武成増駅9:12-同朝霞駅9:20=本田美奈子記念碑9:25=高橋家住宅9:50/10:05=東武朝霞駅10:34-同和光駅10:40=代官屋敷柳下家10:55=成増2丁目バス停11:20-成増駅バス停11:35-自宅11:55

平尾追分から板橋宿の史跡を巡る

 先日川越街道白子宿を歩いて、同街道は板橋の平尾宿で中山道から分かれ、平尾が追分と知った。三田線新板橋駅と板橋区役所駅との間で、近い。調べると、旧友のハイク友達と巣鴨から石神井川の板橋へ歩いたが、もう20年近くも前で(02.10.20)、記録には中山道開道400記念とあった。今回は史跡を確かめながら歩こうと思う。昨年末から都心に本郷追分、新宿追分を探し歩いている。

 西巣鴨から旧中山道へ 三田線を西巣鴨駅に降り、明治通りへ出て、直ぐ大正大学前だが閉校中のよう。次の交差点で旧中山道と交差し、右折し旧道へ入る。静かな商店街で、少し歩いた左手のJR板橋駅前に近藤勇の墓がある。近藤は流山で新政府軍に捕まり、平尾宿外れで処刑され、新撰組の1人が当地に墓碑を建てたという。JR埼京線踏切付近に平尾一里塚があって、刑場もこの辺りに特設されたらしい。
 平尾宿、平尾追分へ 平尾宿跡の解説板に出会い(写真上)、商店街の吊された幟には平尾宿と染め抜いてある。現中山道と交差点角にあるのが平尾交番で、地名が遺る唯一のものらしい。交差点を渡り右手の東光寺へ寄り、宇喜多秀家の供養塔を眺める。関ヶ原戦西軍の副大将であった秀家は家康に八丈島へ流されたが、明治になって許され、当地にあった縁者加賀前田家下屋敷に子孫が戻ったという。 20年前も案内したが、ハイク友達は関心を示さなかったと思う。
 大通りへ戻って、川越街道と旧中山道の分岐点で追分だが、その印し等はない。カメラに収め、平尾宿内の右の旧道を行く。同宿脇本陣跡は右へ入ったマンション前にあった。説明によれば、捕縛された近藤はここに留置されていたという。
 本陣跡 次の板橋仲宿には、本陣飯田家跡があった。表札から現在もお住まいのようだ。板橋には、平尾宿、仲宿、上宿とあり総称して板橋宿で、本陣は仲宿に置かれ、他には脇本陣があったとある。日本橋から近い当宿では旅人の休憩や出迎えが中心で、それで足りたらしい。もう一つの脇本陣跡を探しウロウロしていたら、高野長英を一時匿い逃亡を助けた門人で医師水村玄洞宅の案内があった。

 板橋、縁切榎 石神井川に架かる板橋に至る(写真下)。現区名の由来の橋。木製の感じはしない。20年前は残っていたような気がする。参加者全員で、板橋を背景にした写真が私の紀行本にある(「山歩き里歩き500紀行」60頁)。
 橋を渡り終えた地辺りが上宿の中心で、江戸の内を示す大木戸があったらしいが、現在は仲宿程の賑わいはない。縁切り榎へ着き、小さな祠天神に参拝。女性からの縁切りの祈願先で、幕末降嫁した皇女和宮通過の際は薦で覆われたと、前回知り私の記録にも書いていた。解説板に目をやると、和宮一行は迂回したとある。平成18年の日付で、その後の調査で書き換えたのだろうが、エッである。環七通りへ出て、三田線板橋本町駅から帰宅。脇本陣跡と旧板橋役場跡をネットで調べると、街道の奥の地と分かり、近いから直ぐ再訪しようと思う。(2020/06/19 K.K. 1330/1400)

◇日時 2020/6/2 ◇天候 晴 ◇資料 板橋区くらしと観光課「観光いたばしガイドマップ」◇歩数等 10,000歩 8km 「通過時間等」自宅9:05-三田線西巣鴨駅9:35=近藤勇墓9:50=平尾交番10:10=東光寺10:15=平尾脇本陣跡10:25=仲宿本陣跡10:40=石神井川板橋10:55=縁切り榎11:05=三田線板橋本町駅11:20-自宅11:40

北赤羽から志村坂下を歩く

 先月志村小豆沢神社を訪ねたが、初めてではなかった。記録作成の際、過去の記録から見付かり、99年11月23日に歩いている。本殿や境内も見覚えもなく初訪と思って帰宅し、記録作成を準備していたのだが。20年も前のことで、加齢を認めざるを得ない。周辺略図もあり、その時訪ねた神社隣の龍福寺や北赤羽の諏訪神社を確かめたく、また歩くことにした。

 荒川堤を北赤羽へ下る 今回は、北区荒川土手から北赤羽を経て諏訪神社を訪ね、その後志村方向へ歩くことにし、バスを浮間舟渡駅手前に降り、浮間池岸から荒川土手を目指す。桜並木の下で、数年前Sさんと夜桜や団子を楽しんだ。荒川堤右岸を下る。堤下には、河川敷ゴルフ場が続き、本日もプレー者が見受けられる。JR北赤羽駅迄の歩く時間が不明だが、右手の高架は埼京線でその先の建物は駅舎らしい。歩きながら、戸田橋から左岸を川口へ下るのも、脱巣ごもりハイクコースにはどうかと思い付いた。
 下り続けると広場と防災管理棟があり数組の親子連れが遊んでいる。直ぐ先が新河岸川で、右折し堤を下り駅へ歩く。持参マップにある浮間橋の碑を探しながら進むも見付からない。ネットで調べると、明治から昭和初期の荒川直線化工事で取り残され、渡船地区になった浮間の住民達が費用を供出し造った橋の記念碑とある。

 諏訪神社を探す 現浮間橋を渡り、埼京線高架下の環八通り交差点を右折し諏訪神社へ。ウロウロし袋町公園へ至って現在地が分かり、戻って探し当て参拝。再訪だが記憶にある風景とは違う(写真上)。裏の懐杉の切り株を眺めても同じで、信濃諏訪大社から勧請した和尚が、苗を懐に入れ持って来た杉との伝説は思い出した。直ぐ前の庚申塔へ立ち寄り、宮の坂を下って環八通りを渡り、新河岸川へ出て、遊歩道を行く。水神宮は病院の敷地内との記憶であったが、隣で社の向きも違っていた。
 龍福寺、板碑 遊歩道へ戻り、川沿いを歩き続ける。正面に新河岸大橋が次第に大きくなり、小豆沢河岸公園。現在は水上バス乗り場とあり、隅田川と水上バスが往来しているのであろう。小憩後、環八通りを横断し、小豆沢土手を上がる。
 今回は小豆沢神社の隣、龍福寺がポイントで、そちらへ回る。想定の地に寺院はあったが、こちらも見覚えがない。手を合わせ、境内にある板碑(写真下)を見ても、蘇らない。カメラに収めた。直ぐ小豆沢神社で深緑のスダジイに囲まれている。今回は表参道からも目を凝らしてみたが、1ヶ月前と同じで、風景は重ならず20年の歳月は遠い。
 土手を下り、御手洗不動の小池には波が立ち三匹の鯉が泳いでいる。土手下を歩き、最後のポイント薬師の峰庭園を目指す。中山道の手前で着いたら、門が閉ざされ今回の騒動で閉園中、残念。三田線志村三丁目駅迄は少し距離があった。(2020/06/14 K.K. 1329/1400)

◇日時 2020/5/29 ◇天候 晴 ◇資料 JR東日本池袋地区「散歩マップ 北赤羽」◇歩数等 15,000歩 11km 
「通過時間等」自宅8:30-舟渡一丁目バス停9:05=荒川土手9:15=堤上遊園地9:35=浮間橋9:50=諏訪神社10:10=水神社10:25=小豆沢河岸公園10:40=龍福寺10:55=薬師の峰庭園口11:10=三田線志村三丁目駅11:26-自宅11:50

奥武蔵小川町に芭蕉句碑を辿る2

 2ヶ月前埼玉小川町に芭蕉句碑を訪ねたが、8句碑中4句碑のみで、再訪を予定していた。残りは広い小川町に散らばり、徒歩では困難で、タクシー利用をも検討していた。またSさんに車を相談したら、了解してくれた。前回の記録を読んだKさんからは、都幾川の実家に帰った際に探したと、情報を送ってくれた。
 読者から何故多数の芭蕉句碑あるのかと疑問が呈されたが、古くから小川町は和紙始め工芸品の産地として栄え、財をなし粋な旦那衆の存在かなと思い巡らしている。

 松郷峠下へ 小川町へ向かう車は、関越高速を東松山に降り、嵐山町を通り左折し小川町に入った。最初に停止した交差点は、松郷峠入口。峠手前に句碑があり、私がタクシーを考えた先。南の山側へ左折し集落を抜け、坂道を上がり続ける。都幾川へ通じる道だが意外に狭い。Kさんからは見付けられなかったとあり、ネットで念入りに調べた。
 目印の採石場を右に見て、林内になりカーブの先で止めて貰い、探した。通りではなく旧道があった右手の林中のようだ。土手へ上がり見下ろしたが見当たらない。少し下って再度覗くとあった。石塔は道標で、句はないと思ったが、目を凝らすと微かに文字が浮かぶ(写真上)。“てふの飛ぶ 者可利野中の 日可け可那”とある筈。カメラに写し、峠頂上でUターンし戻る車を待った。

 八幡神社、氷川神社境内 次は、青山の氷川神社だが、山間を出て右折地点が分からず、街中へ出てしまった。それではと西の八幡神社へ向かって貰う。前回訪ねて知った道筋になり、坂を上がって境内横に着き、欅の大木下へ。前回探し損ね再訪で、想定の地に見付かった。“者流もやや 氣色とと乃ふ 月登梅”の句碑をデジカメに収め、本殿に参拝し境内を出た。青山の氷川神社は、Sさんが街内を右折左往し、表参道へ付けてくれた。カーナビと問うとカンピュータと笑った。こちらは先に石段を上がり手を合わせ、戻って句碑を見る(写真下)。“木の毛登に 汁母鱠も 散久良可那”の句だが、先にKさんから写真が届いていた。
 大聖寺句碑 最後は東の大聖寺だが、その前に道の駅に寄り、時間的には早いが昼食を提案。Sさんオーケーしてくれ、醤油焼きお握りを求め、三蜜を敬遠し外のテーブルで食べる。私が前回歩いた時と同じである。
 車は便利で、狭い参道を進み坂を上がり、山腹の寺下駐車場に付けて貰った。句碑は本堂ではなく、上の観音堂傍に見付かった。先に用意した賽銭を入れ頭を垂れ、句碑前へ。“観音能 甍見屋りつ 花の雲”とあり、私には芭蕉らしい雰囲気を感じた。途中、見下ろすと、前回とぼとぼ歩いた道の方向が見えた。これで全8句碑辿り、Sさんまたまたお世話様でした。感謝です。(2020/06/09 K.K. 1328/1400)

◇日時 2020/5/24 ◇天候 晴 ◇資料 小川町観光協会「おがわまちロードマップ&タウンガイド」◇歩数等 4,000歩 3km 
「通過時間等」自宅・高島平7:50-小川町松郷峠下9:15-同八幡神社9:45-青山氷川神社10:10-道の駅(昼食)10:30/10:40-大聖寺11:00-自宅12:30

北の丸田安門から桜田門へ歩く

 有楽町へ出掛ける用事が出来た。この際散策も、脱板橋のチャンスである。三田線を神保町駅に降り、北の丸から濠沿いに桜田門まで歩き、有楽町へのコースが良い。皇居半周で、初めてではないが、濠や綠が多く、散策には適切である。千鳥が淵にも寄りたい。有楽町の店開店情報を調べ、開店中とある。

 俎橋から田安門へ 三田線神保町駅に降り、北の丸へ歩いた。直ぐ俎橋で(写真上)、中学修学旅行の時ガイドさんが案内してくれ、変わった橋名が記憶に残った。右手奥がS大とも教えてくれた。我が長孫が今春同大を卒業し社会人になり、先日初給料でのお相伴に預かった。彼は小田急線の生田へ4年間通った。私は神保町で近いよと教えたと思うが誤っていた。
 左手に濠を眺めながら九段坂を上がって北の丸へ至り、田安門へ入る。鍵型に進み門を見上げる(写真下)。初めてではないが見覚えがない。田安は地名からで、御三卿田安家は後に出来たと知った。本日何故かカメラを持参していない。スマホに写した。
 千鳥ヶ淵を歩く ここで北の丸を出て、先に千鳥ヶ淵へ回ることにする。靖国神社手前を左折し遊歩道を行く。桜並木の下で、花見時に、花友達と夜桜見物に歩いたこともある。散策やジョギングと擦れ違う人が多い。本日マスク着用だが、外すタイミングを見計らっている。
 千鳥ヶ淵へ着き、右手が戦没者霊苑だが、閉園中。花友の1人が、先日家元が献花当番に当たり花を生けたと聞き、寄ったのだが、残念。右手の小さなホテルに一週間ほど籠もって仕事をしたことがある。千鳥ヶ淵に百恵ちゃんがいたと興奮して話した朝の散歩帰りの若者もいた。あれから約40年過ぎ、賀状交換者も極僅かになってしまった。

 桜田門、二重橋 半蔵門を過ぎ下り坂になる。服部家の屋敷があったからのネーミングだが、祭り用張り子の象が入らなかったからとの説もあると、案内板にあり首を捻ってしまった。右先に見えるのは最高裁。2001年のことだが担当事件の口頭弁論が開かれ傍聴し、勝訴した思い出がある。右手に霞が関官庁ビルが見えだし、左手の濠は深い。
 警視庁前で左折し桜田門。眺める度、大きく高く頑丈な造りと感心しながら、スマホに写した。二重橋は本日特に美しく見える。ここも修学旅行が最初だが、母や祖父、同窓会に上京してくれた中学恩師、そして兄夫婦とも眺めた。兄達とは、新年参賀で橋を渡り皇居内へと進んだ。家内も一緒だったと思う。
 散策も終わり、有楽町へ向かう。昨年3月まで勤務した事務所のあるビルが正面。そう言えば、当時は時々窓際へ出て、皇居を眺めながら仕事をしていたのだ。地下で、有楽町へ歩いた。帰りの地下鉄車内で、スマホ写真が失敗したと分かり、二番目の孫にSOSメールをした。(2020/06/01 K.K. 1327/1400)

◇日時 2020/5/10 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 昭文社「東京都市図」2004年4月 ◇歩数等 12,000歩 9km 「通過時間等」自宅8:25-三田線神保町駅9:15=俎橋9:25=田安門9:35=千鳥ヶ淵墓苑前9:50=半蔵門口10:05=桜田門10:20=二重橋10:25=有楽町店舗10:50/11:15=三田線日比谷駅11:30-自宅12:15

板橋出井川緑道から出井の泉跡へ

 巣ごもり状態が続いている。その中、また板橋区地図を眺めながら、歩く先を探し、出井の泉跡が目を惹いた。区内泉町にあり、古くは清水があったらしい。そして、その流れが出井川になって新河岸川へ注ぎ、現在は緑道として遺っているようだ。その途中に、池のある見次公園がある。泉町は三田線本蓮沼駅が近い。

 浮間舟渡駅から出井川緑道へ 朝出掛ける際、前回新河岸川から浮間舟渡駅へ出る近道を探し損ねた(20.4.30)が、今回同駅から新河岸川へ歩き、出井川注ぎ口から緑道を遡るのが分かり易いと考え、バスで浮間舟渡駅へ向かった。前回地図上はっきりせずウロウロし大回りしたが、地図改訂版にはそれらしいルートがある。駅裏へ出て、大きな下水道施設の塀沿いの小路を見付け進むと、新河岸川に架かる長後さくら橋であった。前回は橋手前で右折していた。
 御成塚 橋を降り、新河岸橋下を過ぎ、出井川水路を探すが柵があり直接近づけない。工場を回り込むと裏手が緑道で、住宅街の間に続いている(写真上)。現在では暗渠化し木々が植樹され、綠の通路である。中山道を渡ると橋の欄干が遺り、新小袋橋跡。また緑道を行くと、小さな公園があり御成塚があった。江戸時代鷹狩りの際将軍吉宗が指揮した高台跡とあり、通りは現在も御成塚通りと呼ばれているようだ。環八通りを横断すると住宅街も密になり右折左折を繰り返して、三田線の高架が見えだした。
 高速下から見次公園 志村三丁目駅で緑道は切れてしまったが反対側に見付かり、また歩く。こちらでは散策者と擦れ違う。高速下で、歩道橋へ上がり緑道の先を見渡したが確認できない。予定通り高速下を見次公園へ向かう。近いと思っていたが距離があり、途中で、地図で確かめ住宅街へ入って近道をする。突き当たりに高い樹木が見え、目指す公園。二度目で(00.4.16)、擂り鉢状の池と記憶していたが違い、広く大きい池が中心で、釣り人や家族連れが大勢楽しんでいる。私は湿地に咲く菖蒲の花をカメラに収め、ベンチで休憩。

 出井泉の跡 最後のポイントで、未知の出井の泉は、高速下を進み右へ入った地と確かめ、再スタート。左手の寺院が長徳寺で立ち寄ろうとしたが大きな境内で入口、山門が分からず、素通り。右折地点に見当付け、小公園先で銭湯前の横断歩道を渡り、泉町内を地番を見ながら行くと、住宅街なのに正面に土手が見え、出井の泉跡(写真下)。井戸が再現してあり最近の工事でも地下に湧水があると分かったと説明してある。嘗ては、此処を水源とし見次の池を経て、出井川になり新河岸川へと流れていたのだ。
 板橋泉町には、高校同級生が上京時下宿し、二度ほど遊びに来たことがあった。池袋から都電であったろうか。そんなことを思い出しながら、三田線本蓮沼駅へ出る。今回は複雑な住宅街を巡るコースを間違えないで歩き通し、珍しいことである。(2020/05/26 K.K. 1326/1400)

◇日時 2020/5/10 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 板橋区広聴広報課「板橋区図」2019-2020 ◇歩数等 12,000歩 9km 「通過時間等」自宅9:00-JR浮間舟渡駅9:35=長後さくら橋9:40=新小袋橋跡10:10=御成塚10:15=志村三丁目駅10:25=高速下10:35 =見次公園10:50=出井の泉跡11:10=三田線本蓮沼駅11:34-自宅11:55

川越街道白子宿から白子川を下る

 我が板橋区内を川越街道が走っている。そして成増を通り、隣の埼玉和光市に白子宿があり、面影を遺している。我が家から近く、脱巣ごもり散策先候補とし、先日、朝霞から車での帰途に、Sさんに回って貰い確かめた。徒歩圏内ではあるが往復はきつく、往路は東武成増駅迄はバス利用としたい。

 白子宿本陣 バスを成増駅北口に降り、川越街道は南口先だが、そのまま東上線沿いにスタート。この辺り、現在は近代的なビル街に変身しているが、一昔前は小さな工場が並んでいた。直進道は終わり、高架橋で川越街道側へ渡る。住宅街の小路を下ると小川へ出て、目指す白子川で白子橋があり、旧川越街道。橋もとを見ると童謡“靴が鳴る”の歌詞が刻んである。作詞者の縁らしい。
 板橋区から和光市へ入り、直ぐ先を直角に左折し白子宿通り。そして現街道との交差点へ出て、古い商店も見える。街道の両側は樹木に覆われた武蔵野の高台で、切通坂の途中に清水が湧いている。交差点へ戻り、右折した先に古くて大きなお屋敷があった(写真上)。本陣跡で、佐和屋を屋号とし雑貨商を営んでいた富澤家邸宅。カメラに収めた。同家は現在でも当地で、病院や郵便局も経営し、先程の清水は富澤涌水とあった。代官所跡が遺るとの情報があり、探すが見当たらない。
 古社熊野神社 隣の熊野神社境内へ。1000年前熊野から勧請された古社は森をバックに鎮座していて参拝し、非感染をお願いした。富士塚も高く、一登りに息切れしそうで、山頂からの眺めも中々なもの。表参道から現白子通りへ出て、白子川沿いに下ろうとする。同川は、練馬大泉の井頭公園を源流とし、埼玉県境沿いに流れ、笹目橋上で新河岸川へ注いでいる。これまで上流は二度歩いている(17.4.3外)。途中、和光市コミュニティセンターに寄り、ガイド誌を入手した。

 菅原神社を探す 東上線下から白子川側道を下る。次のポイントは成増の菅原神社で、白子川の橋から位置を想定し、成和橋で成増地区へ入るが、それらしい風景は見当たらない。途中で尋ねたが分からない。成増北口商店街通り迄戻り、飲み物をゲット。本日暑く、熱中症注意と朝のラジオで流れていた。
 スマホで菅原神社で検索すると一区画違い、成和橋の一つ先の通りの坂を上がると神殿が見え、ようやく到達。私の思い込みとは違い、高台にポツンと社殿があり(写真下)、周囲は畑地。その名の通り道真公を祀った社だが、天満宮や天神様ではない。成増村の鎮守という。また同じお願いを繰り返した。
 少々歩き疲れ、成増駅北口からバスも考えたが、白子川沿いを下り続け、都営成増団地からバスにしようと30分と読み、藤ノ木橋から川沿いを歩く。コンクリートの排水路で、緑は一切なく、水面も見えない。住宅街を併行する旧白子川緑道にすれば良かったと悔いたが後の祭り。新装団地に着きバス停を探し、バスを待った。〈2020/05/19 K.K. 1325/1400〉

◇日時 2020/5/5 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 「和光おさんぽGUIDE」 ◇歩数等 11,000歩 8km 
「通過時間等」自宅10:05-東武成増駅北口10:40=白子橋10:50=熊野神社11:10=菅原神社12:00=藤ノ木橋12:10=成増団地バス停12:29-自宅12:45

志村小豆沢神社から浮間沼へ歩く

 板橋区地図から気軽に歩くコースを想定し、それなりのポイントを見付けようとしたが、区内の寺社や史跡等の殆どは一度訪ねているので、簡単ではない。そんな中、小豆沢神社は未訪で、三田線志村坂上駅が起点。そして新河岸川を渡って北区へ入り、浮間公園へ歩くコースにした。脱巣ごもり散策程度にはなると思う。桜草圃場は時期遅れだろうか。

 志村一里塚からスタート 三田線志村坂上駅に降り、志村一里塚へと地上に出た(写真上)。眺めたことはあるが、何年振りだろうか。現中山道両側に遺り、日本橋から三番目で、12㎞とある。約400年前設置され、中山道で現存は二塚のみという。傍の斎藤商店の区指定木造建築が目を惹き、カメラに収めた。昭和初期建替え建築の竹細工店とある。中山道を下り、総泉寺前を右折し小豆沢公園へ入る。野球場があり、芝生やネット、スタンドと近代風に改装されていた。若い頃、近所の少年野球チームを連れ2,3度来たことがある。手前に戸田橋親柱があった。躑躅咲く土手下の池では、ザリガニ釣りをしている孫と祖父がいた。
 小豆沢神社へ参拝 隣の森内が小豆沢神社だが、工事中で一旦高台を降り少し歩いて、御手洗不動前から上がると、ニリンソウが咲いている。我が近所の赤塚土手が自生地で知られているが、此処にもあり、板橋区の花らしい。鬱蒼としたスダジイ樹林に囲まれた神社に参拝(写真下)。家族の非感染を切にお願いする。高台を降りると環八通り、そして新河岸大橋で、初めての風景。北区の高校に通う孫は高島平からここを自転車で往復しているのかと思い、帰宅後聞いたらそうと言った。車に気を付けて欲しい。

 大橋を渡り北区へ 大橋は立派な鉄骨造りのもの。川幅も、上流早瀬橋付近の倍以上。左岸堤下に遊歩道があり、続いている。狭い路で自転車の父子連れと擦れ違う。隣の小公園は閉鎖中で施錠してある。
 先に歩道橋が見えだし、新河岸川を離れ右手の団地内へ入る。記憶にあるような地で、浮間舟渡駅へ近道があるのではと団地内をウロウロ。というのは、以前当地域には、旧職場の研究所や職員住宅があり、少し土地勘があった。最後は尋ねて大回りし駅方向へ向かう。
 現下水道センター前から埼京線高架先を左折し、次のポイント浮間氷川神社や桜草圃場への道筋が理解できた。右折した先が氷川神社で、また同じお願いをし、隣が圃場だが、柵越しに覗くと見事に桜草は撤去されていた。温暖化で一月遅いのだろう。花友を案内し、確か花見と一緒に桜草を観たことがあった(14.4.20)。久々に浮間池を眺め荒川土手下を歩き、舟渡氷川神社を探しまたお願い。十度の宮があり荒川の洪水で度々流されたが、祠は十度も戻ったという。歩き疲れ、近くのバス停へ歩いた。(2020/05/12 K.K. 1324/1400)

◇日時 2020/4/30 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 板橋区広聴広報課「板橋区図」平成20年8月 ◇歩数等 13,000歩 10km 
「通過時間等」自宅8:55-三田線志村坂上駅9:15=志村一里塚9:20=小豆沢野球場9:30=小豆沢神社9:50=新河岸大橋10:15=新河岸橋10 :25 =浮間氷川神社10:50=舟渡氷川神社11:05-舟渡2丁目バス停11:10-自宅11:35

埼玉南部に難波田城跡、岡城跡を再訪する

 外出自粛から大分経過したが収まる様子は見えず、ハイキングもままならない。電車やバスは三密ではないが避けたく、在宅が続き、晩酌が唯一の楽しみである。そんな私の想いがSさんが察してくれ、近郊を車で案内してくれるとメールがあった。持つべきは友と感謝しながら、近郊に行く先を探した。

 我が家からも、Sさん宅からも近い、埼玉富士見の難波田城跡と朝霞の岡城跡見学とし、帰路に川越街道白子宿を通って貰うことにした。
 10時に高島平コンビニ前に待ち合わせ、スタート。荒川沿いで羽根倉橋を渡ってと伝えた。笹目橋を渡り大宮バイパスを走って左折し、埼玉大前から羽根倉橋を渡り志木市へ入った。右折し田畑地帯を行くと富士見市内で、難波田城公園の案内があり、到着。公園も、駐車場も開放中で、既に見学者がいる。

 富士見市難波田城跡 当城跡は、武蔵七党の村山党支族難波田氏の居館という中世城跡を復元したもので、私は見学している(00.9.21)が記憶は薄く、初めてのよう。我々は東門から登城し、復元木橋を渡り曲輪から、本城門を見る。黒色木製の冠木門。左手が濠で、水を湛えている〈写真上〉。右手端には古代蓮池があり、行田から来たとある。資料館は本日閉館中で、古民家ゾーンへ。こちらも内部へは入れず、外から眺めるだけ。いずれも明治期建築の長屋門、平屋の民家で、子供の頃には我が田舎の奥にも遺っていたと、Sさんに紹介した。棚に藤の花も吊り下がり、美しい。
 立教大野球場 城跡公園を出ると立教大学グランドは直ぐ。往路に確かめていた。野球場の外、馬術場もある。中へ入り眺めると、以前は土のグランドであったと思うが、近代的に球場に整備されていた〈写真下〉。あの長嶋父子も練習したグランド。SさんはG党で詳しく、息子は高校時代から活躍したと教えてくれた。記念にカメラに収め、後にした。

 朝霞市岡城跡 志木市へ戻り秋ヶ瀬橋手前を右折し、朝霞市に向かって貰う。黒目川を渡り城山公園下に着いた。この時期新緑というよりは、もう緑一色に城山が覆われている。人出があり端に駐車し、城跡へ上がった。戦国期太田道灌築城との史料もあるらしいが詳細は不明のようだ。二度目の筈だ〈93.6.13〉が未記録であった。中心の二つの平らな部分が曲輪跡で、その間が空壕跡という痕跡程度。Sさんへと説明板を探したがない。物見櫓跡の案内が唯一のもので、デジカメを向けた。もしかしたら三度目では思い始めた。新座市から黒目川沿いに下ったが道に迷い、夕方当城跡下を通り掛かったことがあった(13.01.18)。
 川越街道へ出て成増手前で左折し、白子宿を通って貰う。我が家から近く、脱巣ごもりウォーク先候補。宿場街雰囲気はあるようだ。本日は車で巡ったが、歩行距離も4㎞になり、1人晩酌もいつもより良い気分で楽しめた。久し振りに外の空気を思い切り吸えたからだと思う。改めてSさんにお礼を申し上げたい。(2020/05/04 K.K. 1323/1400)

◇日時 2020/4/26 ◇天候 晴 ◇資料 富士見市立難波田城資料館「難波田城公園」平成20年8月 ◇歩数等 5,000歩 4km 
「通過時間等」自宅9:50-難波田城公園10:35/10:55-立教大学グランド11:05-岡城山公園11:35/11:55-白子宿12:10-自宅12:20

赤塚どんぐり山からニリンソウ群生地へ

 板橋区の花はニリンソウで、我が家から近い赤塚大門の土手に群生している。先日、自転車で訪ねると白い花が咲き始めていた。脱巣ごもり状態の解消散策にはグッドタイミングである。折角だから距離を伸ばし、赤塚公園先のどんぐり山からニリンソウ群生地へ歩き、諏訪神社、赤塚城址、そして氷川神社へ脚を伸ばすコースにした。大分前だが孫達と歩いた(14.4.5)花見コースに重なっている。

 赤塚どんぐり山へ 郵便局でレターパックスを投函し、隣の赤塚公園の歩道橋から坂を進み土手上へ右折する。荒川河岸段丘が東西に長く連なって土手を築き、貴重な緑地帯である。当地は初めてではないと思うが、見慣れない新興住宅街。切通へ下りてまた土手道を上がると遅い桜が残っている。どんぐり山で広場があり、本日天候良く、子供達が遊んでいる。保育園児だろうか。ようやくここで北海道の孫に、どんぐり山の頂上は何処と聞かれ困ったことを思い出した。当時6年生だったが、高3になった。樹林帯の小道を下る(写真上)。木々は新緑期を迎え清々しく、カメラに収めた。
 区の花ニリンソウ ニリンソウ群生地へ着く。土手裾の細長い地に白い花が咲き揃い、広がっている(写真下)。自然に咲く花だが、一時消滅の危機があり、ボランティアの活動で維持されている。そして1980年区の花に選定された。毎春4月初旬に咲き、北海道の大学へ渡った娘が家を出る時もニリンソウが咲いていた。お祝いに来た弟や甥と一緒に眺めたと思う。25年程も前のことである。今年も咲き揃っているが、いつもより観賞者が少ないようだ。デジカメを向けながら群生地を歩いた。

 諏訪神社、赤塚城址、氷川神社 土手を上がり、諏訪神社に参拝。我が地区の氏神様で初詣先であるが、最近ご無沙汰している。北海道の孫の高校合格を報告し、御礼を申し上げた。隣は竹の子公園。孫達とは松月院へ左へ向かったと思うが、本日は右の赤塚城址公園へ。途中の交差点で、左手先にある不動の滝を思い出し、立ち寄る。流れが無い時が多いが、本日は一筋落ちている。交差点へ戻り、城跡への土手を上がった梅林の先が本丸跡で、ここも久し振り。広場になっていて、家族連れが目立つ。戦国期、下総を追われた千葉自胤の居城跡。現在も、本丸を中心に濠跡が遺る。城跡の隣も、今では住宅街。氷川神社へと、表参道を探す。山勘が当たり、怪談噺のモデル乳房榎下へ出て、右手が先に直線の参道が続く。境内に富士塚がある筈と、参道を出ると塚前へ出て眺めるが記憶ほど高くはない。当社は、赤塚城主千葉氏が武蔵一之宮氷川神社より勧請したとある。本殿前で手を合わせ、どんぐり山からの里歩きの最後のポイントにし、Uターンした。(2020/04/27 K.K. 1322/1400)

◇日時 2020/4/9 ◇天候 晴 ◇資料 板橋区広聴広報課「板橋区図」平成20年8月 ◇歩数等 13,000歩 9km 
「通過時間等」自宅10:05=赤塚どんぐり山10:40=ニリンソウ群生地10:50=諏訪神社11:00=不動の滝11:10=赤塚城址11:15=氷川神社11 :45 =自宅12:15

桜を眺めながら板橋新河岸川を下る

 4月に入って、もう桜は散り始めている。しかし今年は花見ハイキングは未だである。外出自粛がのし掛かっているが、散歩程度は可能とも聞こえる。近くの桜咲くコースとして新河岸川が浮かんだ。川の両岸に並木がある地もあり、荒川土手手前で、我が家から近い。散る前にと、晴れの日に出掛けた。

 桜残る新河岸川 我が家から三田線高架下を過ぎ、板橋市場の先が新河岸川で10分も要しない。早瀬橋を越した上流右岸に桜並木があり、一度眺めたことがある。10年も前だったろうか。近づくと満開は過ぎたが見頃である(写真上)。花下を歩き、早瀬人道橋でUターン。反対の左岸には桜はないと分かり、そのまま右岸を早瀬橋まで戻り、橋上から下流を眺めると両岸に、薄いピンクの花が続いている。水鳥も浮いている。鴨だろう。
 この時期流れは少なく、コンクリート水路の底部を流れている。昨秋の大雨時は、橋すれすれまで増水したと聞いた。今でこそ排水路のような人工河川に見えるが、嘗ては川越と江戸を結ぶ舟運路として利用されていたようだ。埼玉志木辺りから荒川と併行して流れ、北区先で荒川に合流している。
 初めての舟渡大橋、水辺公園 桜の多い左岸を行く。徳丸橋付近は、地名も新河岸地区で都営新河岸団地もある。花下を歩き続け、ゴルフ練習場を過ぎると左手奥が墓園で、先日も長男一家とぽんちゃんと家内の彼岸参りをした。ここから先は私には初めて歩く地になり、西台橋、舟渡大橋へ至り、未知の風景。途切れながらも桜もある。舟渡水辺公園では、母子連れが遊んでいる。川幅は広くなり、公園は貯水池のようだ(写真下)。
 川端に続いていた小道はなくなり、荒れた空き地で行き止まりになって、水路堤への階段を越すと、水路内部へ降りてしまった。

 水路内を歩く 1人の釣り人に出会う。階段傍の自転車の主のようだ。狭い後を通り抜けようとしたら、丁度釣り上げた瞬間、思わず“鮒ですか”と聞いたら、“鯉、30cm”と教えてくれた。歩き難い水路壁下の斜めの地を進む。水路の外は大きな工場のようだ。水路内だが平地歩きに戻り、前方に見える橋は、中山道に架かる志村橋だろう。スマホ歩数計で7kmを示し、水路を脱することにするが、普通の階段はなく、垂直の壁に足掛けがあるだけ。橋傍に探したが同じで、チャレンジするしかない。内側は何とか上がり切ったが、道路側の足掛けがなく、飛び降りるのは嫌だなと思いながら、手を離し着地した。 高島平行きバス停を探す。浮間舟渡駅前発の舟渡バス停まで少し距離があったが、直ぐ来て乗り込む。先程の新河岸都営団地前から数人の客が乗り込み、慌ててバックからマスクを出した。(2020/04/20 K.K. 1321/1400)

◇日時 2020/4/3 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 板橋区広聴広報課「板橋区図」平成20年8月 ◇歩数等 11,000歩 8km 
「通過時間等」自宅9:15=早瀬人道橋9:35=早瀬橋9:40=徳丸橋9:55=舟渡水辺公園10:05=志村橋10:40=舟渡小前バス停10:47-高島平警察署前バス停11:05=自宅11:15

散り終えていた江東汐風遊歩道の白木蓮

 新聞都内版に、江東の運河にある汐風遊歩道に白木蓮が咲き始めたとの記事を見た(3.8読売)。数年前ハクモクレンの花を知り、浦和に訪ねて魅せられた。青空の下に咲く純白の花は映えて美しい。それ以来春になると目に付き、我が団地内にも咲き眺めている。汐浜運河の近くに、洲崎球場跡があり、プロ野球草創期の球場で確かめたい。

 洲崎球場跡を探す 江東区東陽町での用務が終えた昼過ぎスタートし、新砂地区に、ネット検索した洲崎球場跡を探す。現在では碑があるだけらしい。大通りから運河方向へ右折し進んだが見当たらない。通り一本先かなと方向を修正し、運転免許試験場前へ出て行くと、道端にやや大きめの碑があった(写真上)。1936(昭和11)年、巨人対タイガースの優勝決定戦が行われた球場で、あの沢村と景浦が投げ合ったようだ。海傍で満潮時には海水が浸水した時もあるという。数年後には撤去されたとある。折しも3月23日が川上哲治生誕100年で、記念試合開催の記事を見た。彼は、少し年代が違うかなと思ったが、ネット情報では、1938年プロ入りし、デビュー戦が当球場とあった。
 終わっていた白木蓮 先へ進み大通りへ出て、新砂橋袂から汐浜運河側道に降りる。狙いの汐風遊歩道だが、白い花は見えない。木には花弁一片も残っていない。遅そかったかなとは思ったが、今年は特に暖かく例年とは違うと思い知らされてしまった。有色モクレンを見上げ、遊歩道を歩く。運河風景は河川とは全く違う。幅は一定で、水は動いていない。両側には高いビルや建物がびっしりと並び続いている(写真下)。大きな水門で行き止まり。遊歩道は続くとの私の想定は誤り。戻って橋から木場地区へ降り、洲崎神社は、予定の地に見付かり参拝。参道右側に、津波警告の波除碑があった。1791(寛政3)年の大津波で被害があり、幕府は当地付近を買い上げ空き地にしたという。

 鉄砲稲荷は南北宅跡 木場から牡丹へ歩き、先日訪ねた鉄砲稲荷神社へ脚を伸ばす。稲荷神社は鶴屋南北宅跡と知り確かめたい。少し距離があったが、途中から見覚えある街角になり、前回は随分戸惑ったが今回はすんなり鉄砲稲荷へ辿り着いた。手を合わせ、見回すと左手の壁に、南北宅跡の案内があり、カメラに収めた。見逃したのか、忘れたのか何れも加齢の所為と思う。
 更に歩いて永代橋手前の、赤穂浪士休息の地碑までとも考えていたが、ギブアップ。脚に疲れを感じ始めている。最近感じることが多く、これも年齢の影響かな。これでは春から秋に掛けての山歩きは心許ない。週一出掛けるペースの変更だろうか。 (2020/04/13 K.K. 1320/1400)

◇日時 2020/3/25 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 「青空の下純白 ハクモクレン」(2020.3.8読売) ◇歩数等 14,000歩 10km 
「通過時間等」用務先12:15=洲崎球場跡碑12:35=新砂橋・汐風遊歩道12:45=洲崎神社13:25=牡丹町公園13:45=鉄砲稲荷神社13:50=大江戸線門前仲町駅14:04-三田線春日駅14:24-自宅15:05