外房線で御宿から上総一ノ宮へ

 3月に入りJR青春18切符の利用期間になり、少し遅くなったが求めて、昨年から訪ねている一宮神社で、千葉房総にある上総一宮玉前神社を予定した。その先にある御宿海岸や大原へも寄りたい。この辺りには、未踏の関東ふれあいの道千葉県コースも残っていることが分かったが、今回は最小限で歩くことにし、句碑を辿った前回の奥武蔵小川町歩きの疲れが抜けるのを待った。

 御宿海岸月の沙漠へ JR外房線へは、千葉駅経由の総武線が近いと知り、秋葉原駅で同線に乗り、錦糸町駅で快速に乗り換えた。千葉駅、蘇我駅を過ぎて外房線へ。駅間隔が遠くなり、田園地帯を走って上総一宮駅で安房鴨川行きに乗り継いだ。山際の地を走り、線路近くには竹林が目に付く。外房の海は見えない。大原駅を過ぎ、御宿駅に降りた。
 駅前の南国風椰子の並木が出迎えてくれた。海岸へ向け歩き、月の沙漠碑へ。二度目で、関東ふれあいの道「御宿海岸を歩くみち」を歩いた時(07.3.31)以来、13年振り。記憶とは違い少し距離があったが、王子と王女が乗った二頭の駱駝には変わりなく、太平洋の大海原を望む駱駝像は(写真上)、中々である。1923(大正12)年画家・詩人の加藤まさをが当地の滞在経験からしてイメージし作詞したらしい。最近、砂漠ではなく沙漠と知り当地を思い出し、脚を伸ばした。御宿駅から上り電車に乗車。大原駅での途中下車は諦める。先程海岸往復しただけで、脚に疲れが残るのを感じた。加齢の所為だろう。今回の目的一宮には是非参拝したい。

 上総一之宮玉前神社 上総一宮駅に降り、駅前で玉前神社の位置を確かめるが、周囲にはそれらしい風景があり、不安ながらも大通りを行く。首尾良く交差点に案内表示が見付かり、玉前神社下へ着き、石段を上がって参拝。私の知る各地の一宮神社としては、こぢんまりとした社殿と境内。それでも神楽殿や参集殿もあり、社務所には神官が常駐している。由緒書きには、戦国期に大火に遭い社殿、宝物、文書を失い歴史が明らかに出来ないが、例祭では古代からの深い意義を連綿と伝えているとある。先程車中で、孫の高校合格メールが入り、当社に纏めて報告し御礼参りとした。
 境内の一画に芭蕉句碑があり、カメラに収めた。“叡慮にて 賑ふたみや 庭かまど ばせを”とあると分かった。古木が繁る境内を一回りし(写真下)、大きなさざれ石を眺め、駅へ戻った。昼飯が未だで、途中農協の直売所を教えて貰い、焼きうどんと八朔を求め、上総一宮駅始発東京行き電車に乗り込んだ。京葉線経由で、東京駅から三田線日比谷駅へ歩き帰宅した。(2020/04/05 K.K. 1319/1400)

◇日時 2020/3/18 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符1 ◇資料 「上総國一之宮玉前神社」◇歩数等 7,000歩 5km 
「通過時間等」自宅8:45-JR巣鴨駅9:14-同秋葉原駅9:34-同錦糸町駅9:52-同御宿駅11:45=御宿海岸12:00=JR御宿駅12:32-同上総一宮駅13:00=玉前神社13:10=JR上総一宮駅13:39-同東京駅15:00-三田線日比谷駅15:16-自宅16:05

奥武蔵小川町に芭蕉句碑を辿る

 そろそろ埼玉も東上線沿線奥武蔵の頃かと、ファイルから収集パンフを出し小川町のマップ眺めていたら、芭蕉の句碑一覧を見付けた。町内各地に八つもの句碑があるという。おくのほそ道で詠んだ句ではなく、私には全句初めてのもの。なんで小川町にと思いながらも、芭蕉追っ掛けとしては飛び付き、マップ上で巡るルートを思案した。

 春日公園、八幡神社 東武成増駅から東上線で小川町駅を目指す。車中、小川町は広く八句碑全部は無理で、都幾川村境に近い南部の二句碑は次回にしようと思う。それでも広域に点在し、徒歩では残り六句碑を回り切れるかなと思いながら小川町駅に降りた。
 町内中心部春日公園は、地酒酒蔵裏手に見付かり、漢字の句碑を眺めたが分からず(写真上)、そのままカメラに収めた。地元の俳人が建てたが焼失し、その後婦人会が再建して、“梅の香に のっと日の出る 山路かな”と読み下してある。
 次からは時計回りに巡ろうと西の八幡神社へ。坂を上がった突き当たりが神社。参拝し境内に探すが見当たらず、入口にある石碑かなと訝りながらも、カメラを向けた。江戸期建立らしい石碑の字は薄すぎる。参道の無人スタンドで八朔をゲットし、ワンコインを投入。
 兜川河畔句碑 坂を左へ下り古刹大梅寺前へ至り、門前でヤッケをザックに入れる。本日無風快晴で、予報通り。国道254を横断し、八高線等を高架で渡って兜川沿いに山際を行くと、左手先に小さな石碑らしい物が見え近づくと芭蕉句碑。何と新道開削記念碑で、“桟や 命からむ 蔦可津ら”とあり、更科紀行にある句という。ここでも小川町は芭蕉の句への関心が半端ではないと改めて思う。土手にはハナダイコンやイヌフグリ、庭には菜の花やハクモクレンも咲いている。

 八宮神社から道の駅へ 同僚Kさんの母校小川高校を右に見て、駅裏を東へ直進し、中心部に右折して兜川を渡り返し、国道254へ出る。八宮神社の案内に従い行くと町屋の裏にあり、句碑もあった。横長の厚めの石碑だが、“先堂能む 椎の木も安里 夏木立”の文字は消えている。また国道254を歩き、途中の道の駅で焼きお握りを求め食べながら、今後の予定を再考。二ヶ所残るが、先に遠い下里の滝へと腰を上げた。槻川に架かる柳町橋を渡り下里地区へ。右手の仙元山は二度歩き、当地へ下りている(14.5.25)。山中の下里の大モミジを思い出した。
 徒渉し下里の滝 滝がありそうな沢はなく、島根橋を渡り奥へ奥へと進入。予定の30分は大分過ぎ坂田橋。少し遡ると川向こうに滝と句碑らしきものが見える(写真下)。川中のブロックを渡り無理に徒渉。句碑“蛇喰登 幾けばおそろし 雉子乃聲”を眺めUターン。靴下が僅かに濡れただけ。最後に予定の大聖寺の句碑は次回へと決め、同じ道を道の駅へ戻り、小川町駅行きバスを待った。先ほど大聖寺の屋根が右手山麓に見えた。疲れが生じ歩数計を見ると17kmとある。帰宅後調べたら八幡神社の写真は違っていて、再訪である。(2020/03/29 K.K. 1318/1400)

◇日時 2020/3/13 ◇天候 晴 ◇交通費 1460円 ◇資料 小川町観光協会「おがわまちロードマップ&タウンガイド」◇歩数等 25,000歩 18km 「通過時間等」自宅8:20-東武成増駅8:55-同小川町駅10:00=春日公園10:10=八幡神社10:30=兜川河畔句碑11:05=八宮神社11:35=道の駅(昼食)11:50/12:10=柳町橋12:20=島根橋12:35=坂田橋12:50=下里の滝前13:05/13:15=道の駅バス停14:02-東武小川町駅14:25-同成増駅15:35-自宅16:00

都内の門前仲町界隈を歩く

 以前収集していた資料から、都内江東の門前仲町付近の社寺や史跡を歩くコースを見付け、その内にと思っていた。2月も末になり、湯島天神で開催される恒例の生花展案内が今年もあり、生花鑑賞後、大江戸線で門前仲町行きとした。このため、展示会開始直ぐが良いだろうと早めに家を出た。

 湯島天神へ 大江戸線本郷三丁目駅から湯島へ坂を下り、右折し参道へ入ると、今年は人出が少ない。時間が早いからだけではないようだ。天神様拝殿前も参拝者は疎らで、北海道の孫高校受験合格を祈願した。そちこちでお願いしたがここは学問の神様で肝心である。これまでも4人の孫達のことをお願いし、叶えて貰った。隣の参集殿へ入ると、友人Tさんがおられ挨拶し、作品を紹介して貰う。ご自分の生花には必ずしも満足されていないような口振りだが、私にはそこまでは理解できず、カメラに収め、一回りして会場を後にし、大江戸線上野御徒町駅へと歩いた。

 富岡八幡宮から八幡橋 門前仲町駅から地上へ出て、深川公園、深川不動尊へと歩く。園内には純白なハクモクレンが咲き美しい。満開である。その先が富岡八幡宮で、横から社殿前へ出て参拝。裏の横綱力士の碑を眺め、当社は二度目を確信する(01.9.30)。江戸期勧進相撲が行われた記念碑とある。境内を裏へ抜け、八幡橋を探す。想定の地にあり、都内最古の鋳鉄製橋で、重文という。1878(明治11)年中央区楓川に架けられその後移設された橋である(写真上)。
 下町街をウロウロ 大通りを横断し下町商店街裏の住宅街へ二社巡りだが、住吉神社はなんとなく見付かる。大横川を渡った住宅の間の小社で、佃島にある住吉神社の分社らしい。次の黒船稲荷へは手間取ってしまった。所在地の番地からアプローチしたが、住宅街をウロウロし、二度尋ね隣の地区と分かり、ようやく探し当て、手を合わせカメラに収めた。鶴屋南北宅跡を確かめるのを忘れたが、そのような案内はなかったと思う。

 明治丸そして永代橋 次の重文明治丸へは間違えず辿り着く。晴海運河に繋留してあると思っていたが、商船大学(現東京海洋大学)キャンパス内陸上に保存されていた。相生橋手前から戻り大学正門から入って、見学。明治初期イギリスに発注した灯台巡視船で、北海道巡行の際には明治天皇も乗船されたという。横から前へ回って見上げ(写真下)、2,3度シャッターを切った。
 大通りへ出て、最後のポイント永代橋を目指す。門前仲町交差点を左折し行き、橋袂付近に、吉良邸から引き上げる赤穂浪士休息の地碑がある筈で、史跡は分かり易いと思っていたが、探せないまま橋へ至ってしまった。隅田川に架かる近代的な橋で、橋上からはスカイツリーが正面に見える。バスで門前仲町駅へ戻り、本日の散策をお終いにした。(2020/03/22 K.K. 1317/1400)

◇日時 2020/2/29 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス ◇資料 東京都「東京文化財ウォーク」2019年91頁 ◇歩数等 17,000歩 12km 
「通過時間等」自宅9:25-都営春日駅9:58-同本郷三丁目駅10:05=湯島天神10:15/10:30=都営上野御徒町駅10:48-同門前仲町駅11:05=富岡八幡宮11:15=八幡橋11:25=住吉神社11:40=鉄砲稲荷神社12:10=東京海洋大学・明治丸12:25=永代橋12:55=同バス停13:05-都営門前仲町駅13:22-同春日駅13:42-自宅14:15

北総印西に木下街道を歩く

 本棚にあったハイキングガイド誌から千葉印西市にある木下(キオロシ)街道コースが目に付いた。以前にもチェックしていたが未踏である。再読すると芭蕉が鹿島詣へ歩いた街道とあってその気になり、駅から直ぐ歩くというアクセスが良いコースにも惹かれた。暖かく、風のない日を選んで出掛けた。

 北総印西へ スタート駅は北総線千葉ニュ-タウン中央駅で、神保町駅から都営新宿線に乗り、東日本橋駅で京成線に乗り換え、高砂駅で北総線へ乗り継いだ。予報通りハイキング日和で、印西のニュータウン中央駅から新団地を抜け、浦幡新田公園を目指し最短距離で公園に至る。中央の池を覗くと鴨が数羽浮いている。木下街道へと住宅街小路から通りへ出て、次のポイント百庚申を探す。大きな四辻にあったのは一億供養塔(1799(寛政11)年に造立)で、未だ先かなと直進を続けるとバス停に白井とあり、違うようだ。地元の方に教えて貰いUターン。
 ようやく木下街道 先程の四辻を印西へ左折し行くが、現在地が不明。野菜直売所があり教えて貰うと、木下街道には間違いないようだ。大分歩いた時道路左端に石塔が多数並び浦部地区の百庚申であった(写真上)。ようやくコースに乗り歩き続けると、古い集落内になり浦部銀座通りとあるが、大半の店は閉まり、その面影はない。次のポイントは月影の井だが、その先の永治プラザの案内が見えてきた。コミュニティセンターとあり情報収集に立ち寄ってマップを得、色々教えて貰った。

 史跡、古社、古刹 センター前の月影の井の案内に従い旧道を行くと、井戸跡があった(写真下)。解説によれば、鎌倉の「星影の井」、奥州二本松の「日影の井」と並び東日本三名井とあるが、市指定の史跡という。もう少しランクが高くとも良いのではと思いながら、カメラに収めた。集落内奥から里山へ上がり、宮内の鳥見神社、観音寺と回る。境内には神楽殿もあり由緒ある古社のよう。奈良期慈覚大師創建古刹の仁王門に惹かれ、奥の拝殿を入れてシャッターを切った。そして、受験生の孫をお願いした。
 バスで布佐駅へ 本日は何故か脚に疲れを感じている。歩き始めて2時間程度なのだが。コース終点のJR成田線木下駅へは未だ半分程度だろう。先程プラザで、駅へは距離がありバス利用すればと勧められ時刻表を貰っていた。永治バス停から30分後にバスがあると分かり、木下街道へ戻りバス停を見付け時刻を確かめ、近くの空き家軒下を借りシャツを代えた。時間通りにバスは来て乗車。坂を下り田園地帯を走ってJR布佐駅に着き、20分後の上野行きに乗った。
 今回の里歩きは反省点が多い。いつものように頭に入れたコース地図に頼りすぎ、方向違いや距離感に誤りを生じ、完歩を逃してしまった。加齢の所為もあるが、地図を出して確かめ、慎重でなければならないと思う。(2020/03/15 K.K. 1316/1400)

◇日時 2020/2/24 ◇天候 晴 ◇交通費 1,930円 ◇資料 山と渓谷社「首都圏ハイキング 木下街道」1999年9月115頁 ◇歩数等 20,000歩 14km 
「通過時間等」自宅8:25-都営神保町駅9:04-京成東日本駅9:23-北総線高砂駅9:45-同千葉ニュータウン中央駅10:20=浦幡新田公園10:35=一億供養塔10:55=白井Uターン地点11:10=百庚申11:40=永治プラザ11:55=月影の井12:05=鳥見神社12:15=観音寺12:20=永治バス停13:03-JR布佐駅13:40-同日暮里駅14:31-三田線巣鴨駅14:42-自宅15:10

城南五山の池田山から八つ山へ歩く

 JR系広報誌に城南五山情報が掲載された(「大人の休日倶楽部」2020年2月号)。目黒区から品川区に掛けて山手線内側にある小山、丘陵で、現在は高級住宅街とある。私の購読誌に“高輪台・島津山・池田山”コース紹介(新ハイキング494号91頁)があったのを思い出し、見比べた。御殿山は、昨年花見時に歩いている(19.4.4)。八つ山、島津山、池田山を巡ろうと出掛けた。花房山情報は見当たらない。

 急遽高輪台駅からスタート 品川駅へ向け三田駅で電車を待っていたら、京急線はダイヤが乱れていると放送があり、都営浅草線が先に来た。同線で高輪台駅へ行き、先に池田山方面を歩きその後島津山、八つ山にしようと急遽予定変更。高輪台駅で、構内地図から袖ヶ崎神社を確かめ地下駅を出たら目の前が第二京浜国道。少し南へ下ると神社があり参拝。都心だが境内付の社。国道を渡って、五反田の高台住宅街に畠山記念館を探す。見付かったが改修工事で閉館中(写真上)。国宝もある収集の茶道具や骨董絵画類は観られない。畠山一清氏は、能登の守護大名畠山氏の末裔で荏原製作所の創業者であり、我が関係団体の会長を務め会館に像があったと思う。近くに料亭般若苑があると知り期待していたが、現在は高級マンションに代わっていた。同苑は、三島由紀夫の“宴の後”で取り上げられプライバシーの侵害事件にもなった。若い頃読み通したことがあった。
 池田山から島津山へ 高台を下り、岡山藩池田家下屋敷があった池田山公園へ。入園可能だがこちらも工事中で、庭園を一眺めしUターン。第二京浜へ戻り地下道を抜け、雉子神社へ立ち寄る。社はビル内にあり、受験生の孫をお願いした。
 次は島津山だが、左手高台に樹木を見ながら住宅街を回り込むと、清泉女子大学正門。キャンパス内が島津山で、大正時代建設の薩摩藩主島津家の洋邸がある筈だが、見学は不可と受付で断られた。周囲をカメラに収め、案内板を読むと江戸期は仙台藩伊達家の下屋敷があったとある。大学祭時なら見学可能かなと思いながら、踵を返した。

 八つ山は? 最後は八つ山だが、いつもの勘違いと早呑み込みが重なり、山手通り傍と思っていたが、大違い。私は目黒川を渡り大崎駅前へ出て山手通りを進み、第一京浜国道へ入り品川神社前から御殿山入口を過ぎ、新八つ山橋へ。箱根駅伝一区のポイントである。
 八つ山には伊藤博文邸があったが、現在は三菱の施設関東閣という。少し左手へ入ると樹林に包まれ中は見えない広い奥の一画が、八つ山らしい(写真下)。玄関を見付けデジカメ出し一歩踏み込んだら、守衛が出て来て、私有地だから出てくれと言われてしまった。一応、予定の山々は何とか巡り、品川駅へ向かった。 (2020/03/07 K.K. 1315/1400)

◇日時 2020/2/18 ◇天候 晴 ◇資料 大人の休日倶楽部「城南五山を巡る旅」2020年2月号25頁 ◇歩数等 17,000歩 13km 
「通過時間等」自宅9:55-三田駅10:40-高輪台駅11:00=袖ヶ崎神社11:05=畠山記念館11:20=池田山公園11:40=雉子神社12:00=清泉女子大学門12:20=JR大崎駅前12:40=新八つ山橋13:05=三菱関東閣玄関13:10=京急品川駅13:27=三田線三田駅13:40-自宅14:25

栃木に古峯神社から皆川城跡を巡る

 栃木の歩く先として、以前から皆川城跡を考えていたが、栃木市の郊外でアクセスが悪く後回しにしていたがそろそろとSさんに車をお願いし、オーケーを貰った。鹿沼の古峯神社も入れたい。少し距離があるが車なら回れると想定した。最近鹿沼市内に芭蕉の笠塚があると知り、そちらも寄って貰おうと思う。

 山奥の古社古峯神社 東北自動車道路を鹿沼へ降り市内を抜け、山奥向けへと走った。郊外へ出ると古峯神社の石門柱があったが、そこからも田園地帯から山裾を通って、大鳥居の下を経て山中の道になり、ようやく神社前であった。それでも車は速く、我が家から約2時間。
 門前土産店前から境内へ入り、橋を渡り石段を上がって社殿へ。参籠も出来る茅葺き社殿は広く(写真上)、800人宿泊可能とあり、殿内参拝のよう。現在も800の講もある古刹大社。既に本殿前大座敷には先客グルーブが居て、お祓いを受けている様子。終了を待ち中央へ進み、我々も参拝を済ます。記念に天狗が描かれたお札を求める。日本武尊が祭神でその使いが天狗という。二度目だ(99.7.20)が、殆ど記憶にはなく、前回は関東ふれあいの道“修験行者のみち”を歩く前に安全をお願いしたが、今回はその名や鹿沼山奥の古社に惹かれ再訪になった。土産店で、次の市内光太寺の情報を得て、鹿沼市内へ戻る。

 芭蕉笠塚へ 私の事前調査より、カーナビは正確で、鹿沼市内の東武日光線高架手前右手に、目指す光太寺はあった。当寺には芭蕉の笠塚があると前回北千住を歩いて知り、急遽、Sさんに立ち寄りをお願いした。芭蕉達は千住から日光への途中鹿沼にも泊まったがおくの細道への記述はないようだ。当地の口伝では、光太寺に泊まり笠を取り替えたという。その後芭蕉死去を伝え聞き、遺っていた古笠を祀ったとある。本堂入口にその石碑があり、カメラに収めた。芭蕉の木造像も建つ(写真中)。鹿沼は木工の町でチェーンソウ加工の像である。

 皆川城は小山だが 鹿沼を出て、栃木市内外れの道の駅で昼食後、城跡を探す。私の予想とは違い大分走って皆川地区へ至り、城山下に着いた。城跡は法螺貝城とも呼ばれる鋭鋒の小山全体からなり、七段構成の腰曲輪が山腹を巡っているのが下からも窺える。
 戦国期皆川広照支配で知られ、宇都宮氏との攻防を経て、後北條氏の傘下に入り、家康の勧めで秀吉に下った後家康に本領安堵されたという。山裾から竪堀があり(写真下)、途中まで上ったが急坂が続き、そこでシャッターを切り、山頂の本郭跡は諦めた。私の城跡巡りでは、初めてではあるが、無理は禁物とSさんと頷き合い、帰途へと栃木ICから高速に乗り、Sさんが指す右手方向を見ると、皆川城跡の本郭跡展望台が望まれた。(2020/02/28 K.K. 1314/1400)

◇日時 2020/2/11 ◇天候 晴 ◇資料 皆川地区街づくり協議会歴史文化部会「皆川の歴史と文化」平成27年3月 ◇歩数等 9,000歩 6km 
「通過時間等」高島平8:50-鹿沼古峯神社10:55/11:30-同光太寺12:05/12:15-西方道の駅・昼食12:40/13:10-皆川城跡13:35/13:55-自宅15:10

三ノ輪橋から北千住へ日光街道を歩く

 何故か千住神社を思い出し、再訪したくなった。大分前に訪ねて八幡太郎義家縁の碑があったと思う(03.12.31)。都内だから遠くはなく、何時でも歩ける。以前の記録を探すと略図があった。同一コースでは面白くなく、都電荒川線三ノ輪橋駅から日光街道へ出て、千住大橋を渡り北千住へのコースにしたい。寒くない日を選び、用務を終えた午後に地下鉄霞が関駅から千代田線に乗車。

 三ノ輪橋駅から千住大橋へ 千代田線町屋駅で荒川線に乗り換えた。最近知ったルートで、終点三ノ輪橋駅は近い。日光街道へ出て、千住大橋へ向け歩き出す。左手に古刹が並び円通寺境内には上野寛永寺から移された黒門があった。戊辰戦争の際彰義隊を葬った縁とある。直ぐ先の素盞雄神社は二度目で(17.2.4)、境内に芭蕉句碑があった筈と参拝後眺め、カメラに収めた。地元の文人達が江戸期(1820(文政3)年)に建てたもので、矢立初めの地が北千住か南千住かの論争の後者の論拠らしい。大橋へ至り、隅田川を渡り終えた左手に、矢立初の碑があり、“行く春や 鳥啼き魚の目は 泪”と刻んだ北千住の碑。芭蕉は、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)千住からおくの細道へ旅立った。直ぐ新旧日光街道分岐で、旧街道へ。青果市場前に芭蕉像が建っている。
 再訪千住神社 旧街道は現在も、北千住の中央商店街を貫き、往来も多い。やっちゃ場通りと呼ばれた道で、両側にはそれらしい古い店舗が並ぶ。高札場跡を探し回るも手許の略図の位置には見当たらない。諦めて現日光街道を横断し、千住神社へ。ほぼ記憶にある境内だが、奥州へ向かう義家が陣を構え戦勝祈願をした社で記念石碑が入口に建つ(写真上)。しかし芭蕉句碑や富士塚は記憶から飛んでいた。参拝後、句碑を確かめると“物言えば 唇寒し 秋の風”とあり、当地とは関係ないようだ。

 高札場跡、本陣跡は石柱のみ 旧街道へ戻り、道路端の案内図に高札場跡を見付け、交差点角に石柱が示し、一里塚跡もあった。カメラに収め、反対側へ戻ると信金前に、鹿沼産の芭蕉の木像があり、説明によれば、下野鹿沼に寄った芭蕉が笠を取り替えた寺に笠塚があるという。
 商店街を駅方向へ行き、千住宿本陣跡を探す。人出があり買い物客であろうか。北千住駅前を越したが、それらしい建物はない。Uターンし案内所に寄り、次の路地の角と教えて貰う。私は、勝手に建物かなと思っていたが、また石柱だけ。路地に本陣の解説板があり(写真下)、読んでいたら石柱をカメラに収めるのを失念してしまった。北千住駅から日比谷線に乗り、上野御徒町駅で大江戸線に乗り換えて帰宅。いつもと違い乗換通路が長く感じられ、 スマホで歩いた距離を見ると11kmとあった。(2020/02/21 K.K. 1313/1400)

◇日時 2020/2/5 ◇天候 晴 ◇交通費 370円 ◇資料 植村三郎「千住七福神」新ハイキング555号114頁 ◇歩数等 16,000歩 11km 
「通過時間等」用務先13:30=千代田線霞が関駅13:39-荒川線町屋駅14:00-三ノ輪橋駅14:10=円通寺14:20=素盞雄神社14:30=千住大橋14:35=千住神社15:20=高札場跡15:30=千住宿本陣跡15:50=北千住駅16:01-大江戸線上野御徒町駅16:22-三田線春日駅16:30-自宅17:05

伊豆七島、天城山、富士を眺めた大室山お鉢巡り

 前方に広がる海は相模湾から大島が浮かぶ太平洋になり、先には伊豆七島の利島も霞んでいる。そして、坂を上がると天城連峰が正面に見えて万二郎岳が聳え、内側に目を移せば火口が大きな口を開いている。天候良し、展望良し、そして同行者良しである。

 大室山はリフトで 本日は、伊豆会合の帰途、大室山をハイキングしようと、バスを浅間神社バス停に降りた。寒さも風もなく、ハイク日和。目指す大室山が見え、お椀型山容の独峰で、樹林はなく一面茅で覆われている珍しい山。リフトもあり簡単に登れると、Aさんも同行してくれた。
 さくらの里の間の道を進むと、濃いピンクの花を付けた桜がポツンとポツンと見える。暖冬の所為だろうか。緩い坂を上がり、広い駐車場を過ぎてリフト乗り場。リフトは動き、客を運んでいる。歩くつもりで、登山道を尋ねたらないという。私のハイキング地図には登山道が示されコースタイム上り30分とあったのだが。
 お鉢巡りで展望を楽しむ リストは10分足らずで山頂駅に着いて、目の前の丸い火口を覗く。直径100m、周囲300mとある。4000年前の噴火跡だが、死火山だろう。火口底にも人が見える。私は若い頃一度登ったと思っていたが、初めての風景。麓を通っての勘違いだろう。お鉢巡りにスタート。当山は伊東に近く、背後は同市街と相模湾で、右回りに進むと左方に島が見え、大島(写真上)。右奥に利島も捉えられ、その周囲に2,3の島影がうっすらと見える。資料によれば、新島や三宅島らしい。

 お鉢巡りは山頂へ向け坂になり、天城連峰が正面に位置した。左端の高峰は万二郎岳。その右の高峰は万三郎岳かと思ったが違っていた。天城山は二度歩き、山歩きを始めた頃怪我した山(95.5.20)とAさんへ話した。下りの外国人達に交差して、山頂(580m)へ至る。振り向いても、肝心の富士は雲の中。富士が見えれば、言うことなしとAさんと一致したのだが。
 富士も顔を出す 下りの坂道になり五体の地蔵尊前を過ぎ、リフト山頂駅へ。私は歩き足りず、火口の中壁にある浅間神社を往復。孫達の成長と、受験生をお願いした。戻ると、Aさん、“富士山が見える”と教えてくれた。 急いで展望台へ上がると、雲の上に頭を出している(写真下)。カメラを出し望遠にしてシャッターを切った。リフトで山を降り、伊東駅行きバスに乗車。天候良し、展望良し、同行者良し、最後は富士も眺め、充たされた気分で帰途に就いた。(2020/02/14 K.K. 1312/1400)

◇日時 2020/2/2 ◇天候 曇り後晴 ◇交通費 2,230円 ◇資料 池観光開発(株)「大室山リフト」 ◇歩数等 9,000歩 6km 
「通過時間等」宿泊先9:10-浅間神社バス停9:35-大室山リフト駅9:50-同山頂駅10:00=大室山山頂10:18=同浅間神社10:30=同リフト山頂駅10:40=同バス停11:11-JR伊東駅12:15-同熱海駅12:49-三田線内幸町駅14:50-自宅15:35

都内四谷、新宿を歩き新宿追分を探す

 今年の初詣は鹿島神宮にしたが、都内神社へも参拝したい。四谷の須賀神社や新宿花園神社が浮かんだが、物足りない。その間にあると思われる新宿追分を思い出し、確かめるのも面白い。地図で歩く順序やルートをあれこれ検討した。三田線を春日駅で南北線に乗り換え、四谷駅スタートが良いと分かり、序でに回る神社も加えた。

 四谷須賀神社、於岩稲荷参拝 正月も半ば過ぎたが、天気の良い日を選び出掛けた。年齢の所為か寒い中歩くのは避けたい。地下鉄四谷駅を出た新宿通りは久し振りで、こんなに広い通りであったのかと思いながら歩く。須賀神社へ左折する地点が見付からない儘四谷3丁目交差点手前迄進んでしまい、戻ると参道案内があった。住宅街の中に古社は見付かり参拝し、孫達の成長と受験生の合格を祈願した。江戸時代、赤坂清水谷から移されたという。
 戻って、通り一本裏の於岩稲荷へ。陽明寺、そして田宮神社と巡る。二度目で、約10年振り(11.4.21)。於岩さんは、芝居とは違い貞女の鏡のような田宮家のお嫁さんとある。中央区新川にも於岩稲荷があるが、移ったのではなく、新川の社は四谷怪談を演じた役者達が別途祀ったとあった(19.9.15参詣)。
 新宿追分跡を見付ける 丸の内線四谷三丁目駅から地下鉄で、新宿三丁目駅に降り新宿追分を探す。追分跡には道路にプレートがあり、新宿追分バス停もあるらしい。伊勢丹前から新宿3丁目交差点には見当たらず、甲州街道の交差点かなと新宿御苑や都立新宿高校の方へ行ってみたが分からない。3丁目交差点へ反対側歩道を戻ると、同交差点角に原標プレートがあった(写真上)。ここが青梅街道との追分であったかと、カメラに収めた。

 花園神社、鬼王神社、抜け弁天 花園神社へと明治通りを行くと次の交差点近くに裏参道があり、境内へ入り参拝。初めてではないが、記憶にない。広場があり、唐十郎の芝居テントがあった所かと眺めたが意外に狭い。通り反対側が花園饅頭店ビル。約半世紀も前のことだが、山形の叔父の出稼ぎ先で、二度程訪ねた。その叔父ももう居ない。その時花園神社へも寄ったのもしれない。
 先は歌舞伎町一帯で、ホテル街を抜け区役所通りへ出て、稲荷鬼王神社へ詣でる。高齢者ツアー一行と一緒になり、広くはない境内は大混雑。軽く頭を下げてUターン。水鉢を頭に乗せた鬼の像があり(写真下)、一度見たかなと思いながら、カメラを向けた。
 職安通りを抜け弁天へと緩い坂を上がる。この坂は反対側から一度歩いたことがある。都庁内ビジネススクールで夜間講義があり、週一通っていた時のこと。見覚えのある交差点へ至り、厳島神社(弁財天)で、抜け弁天と呼ばれる。また手を合わせた。源義家が苦難を切り抜けた縁から、抜け弁天と呼ばれると知った。当地を走る大江戸線若松河田駅へ歩いて、今回の散策は終わりにした。(2020/02/07 K.K. 1311/1400)

◇日時 2020/1/19 ◇天候 晴 ◇交通費 290円 ◇資料 西武鉄道「歩・ほ・歩 大都会に点在する新宿山の手七福神巡り」2003年104頁 ◇歩数等 13,000歩 9km 
「通過時間等」自宅9:45-南北線春日駅10:30-同四谷駅10:40=須賀神社11:00=於岩稲荷11:15=丸の内線四谷三丁目駅11:27-同新宿三丁目駅11:35=新宿追分跡11:50=花園神社12:00=稲荷鬼王神社12:15=厳島神社12:30=大江戸線若松河田駅12:42-三田線春日駅12:55-自宅13:30

小田急玉川学園前コースを歩く

 小田急沿線コースを歩くことにした。弟と一緒で、2人が住む中間帯辺りの玉川学園駅前コースである。小田急は、各駅毎に自然ふれあい歩道というハイキングコースを設けており、これまでも10コース前後は歩いた。私が家を出たとメールしたら、未だ朝飯中と返信が届いた。弟の方が近いようだ。駅へ着くと。改札口に弟が待っていた。

 農村風景土橋谷戸 駅でコースマップを貰いスタート。コースは駅を中心にして時計回りに回るもの。玉川学園前駅は二度目と思っていたが、初めてのようで記憶にない。駅前商店街から坂道を上がり住宅街を行く。左手が地図ではキャンパスだが、校舎がみえない儘、住宅街を過ぎ階段を降り、林内になる。未だそう歩いていないのに雑木林の景色に驚く。弟がザックからカメラを出した。珍しい鳥がいると追っている。林を過ぎると田圃のある地で、土橋谷戸。丘陵に囲まれた里山風景が広がり(写真上)、多摩地区では谷戸と呼ばれている。弟と、現地は都内か神奈川かで、意見が違ったが横浜市の表示があった。
 コースを誤る 大きく右折し小川、奈良川沿いに進む。高架下から大きな団地があり、また住宅街で、コースポイント大田平公園を確かめた。生け垣のある坂を上がり、大通りへ出て直進を続ける。階段を下り、三叉路を真ん中の道を採った。新しい団地風の成瀬台の住宅街を行けども、次のコースポイント欅の街路樹や松風公園は見えて来ない。間違えたかなと途中で、地元の方に教えて貰うが今一はっきりしない。

 公園名からネット検索すると、丁目が違い、丁目表示を探しながら戻る形になり、90度方向が違っていた。先程の三叉路は右折であった。あの時、コース採りの苦手なタウンウォークだなと頭を掠めたが、嫌な予感が当たってしまった。前方に公園を見付け、首尾良く探していた松風公園で、ホッとする。直ぐ、成瀬山。葉を落とした雑木林が覆っている(写真下)。弟はまた鳥を探しているようだ。
 コースを誤る2 昭和薬科大学前から、大通り側道を歩き、右折し、左にかしの木山公園を見ながら、峠を越す。かしの木山公園も、町田駅からの小田急ふれあい歩道コース内で、弟と歩いている(17.6.15)。
 再度コースを誤る。私はマップ通りと思っていたが、コースは右折し小さな歩道であったのだ。峠下で気付いたが戻らないで、途中で駅方向へと右折。弟はまた鳥を見付けたようで、カメラを大木から伸びた枝へ向けている。巧くいったのであろうか。小田急線沿いへ出て、玉川学園前駅へは少し距離があった。駅前食堂で、2人で昼食を取った。(2020/02/01 K.K. 1310/1400)

◇日時 2020/1/11 ◇天候 曇り ◇交通費 1400円 ◇資料 小田急「小田急自然ふれあい歩道多摩学園前駅コース」2019年2月 ◇歩数等 16,000歩 12km 
「通過時間等」自宅8:10-新宿線神保町駅8:51-小田急新宿駅9:10-同玉川学園前駅10:00=土橋谷戸10:25=大田平公園10:40=松風公園11:00=成瀬山11:10=かしの木山公園峠11:40=小田急玉川学園前駅(昼食)12:20/13:01-都営新宿駅14:05-三田線神保町駅14:35-自宅15:10

初詣に鹿島神宮に参拝し、根本寺へ

 2020年になり、初詣は鹿島神宮へと脚を伸ばした。一度参拝したことがある(08.11.15)が、常陸国一之宮と知り再訪を考えていた。そして、鹿島には芭蕉句碑がある根本寺もある。暮れの忘年会の際、Bさんと初詣の話しが纏まり、鹿島行きを提案すると、Bさん、以前訪ねたかもと言いながらも、OKしてくれた。青春18切符利用には丁度良い。

 初詣は鹿島神宮 JR北千住駅を10時過ぎ出発。我孫子駅、成田駅で乗り換え、佐原駅から鹿島線に乗った。本日4日は土曜日で、車内は混見合い初詣客か。広い利根川河口の鉄橋を渡り、潮来駅を過ぎ鹿島神宮駅に着いた。
 構内から混雑しているが、神宮は徒歩10分程だから直ぐで、駅前から坂を上がると塚原卜伝像。剣聖誕生の地という。左折し参道で、屋台が並ぶ中を進む。大鳥居下から大きな森に囲まれた境内に入って楼門を潜り、本殿前に並んで参拝。孫達の成長と、受験生が1人いるので特にお願いをした。
 奥宮へもと更に進むと、さざれ石や鹿園があり、再訪の私は僅かな記憶がある。Bさん、前に訪ねたのは当神宮ではなく、香取神宮だったかなと。奥宮は拝殿前へ列をなしている(写真上)が、我々は横から簡単に手を合わせ、裏の要石へ。大分初詣客も少なくなり、霊石前でまた手を合わせる。大石の頭部だけが見え、オオナマズを押さえているとの説もある。香取神宮にも要石があり地中で繋がるとあった。近くに、芭蕉句碑が建つが、鹿島で詠んだものではない。戻って、売店傍にも石碑があるが苔むし読めない。後に、芭蕉の鹿島詣での折詠んだ句碑と分かったが、遅かった。

 芭蕉も訪ねた根本寺 参道途中の案内板で、根本寺の位置を確かめ、反対方向へ歩き出した。大通りを渡り坂道を下って農村集落へ至り、時間的にそろそろかなと思うが、寺らしき建物は見当たらない。狭い通りを更に行くと左手に墓が見え、路地へ入ると静寂な地に佇む小寺が根本寺であった(写真下)。
 聖徳太子開基と伝えられるわが国最古の寺の一つとある。芭蕉は、1687(貞亨4)年、仏頂和尚に月見に誘われ訪れた。和尚は江戸深川滞在中禅を教えた芭蕉の師。そして芭蕉は、“鹿島詣”でを表している。“月はやし 梢は 雨を持ちながら”“寺に寝て まこと顔なる 月見哉”の二句の碑が両側に建つ。本堂前で手を合わせ、句碑を眺めカメラに収めた。無住職のよう。
 私と違いデスクワーク中心のBさん、お疲れのようで遅れがち。戻る途中の三叉路でその一方が駅への近道になり、鹿島神宮駅へ戻って、また鹿島線、成田線そして成田駅からは総武線千葉駅経由で、都内へ。Bさん有り難うございました。お疲れ様でした。(2020/01/25 K.K. 1309/1400)

◇日時 2020/1/4 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符5 ◇資料 「鹿島神宮まちあるきマップ」 ◇歩数等 16,000歩 12km 
「通過時間等」自宅8:45-JR巣鴨駅9:30-同日暮里駅10:45-同千住駅10:15-同我孫子駅10:47-同佐原駅12:27-同鹿島神宮駅12:45=鹿島神宮本殿13:10=同要石13:35=根本寺14:15=JR鹿島神宮駅15:00-同佐原駅15:56-同千葉駅17:33-同秋葉原駅18:15-三田線巣鴨駅18:45-自宅19:15

芭蕉足跡を確かめに草加を再訪する

 数年前求めた芭蕉資料を眺めていたら、草加日光街道に芭蕉文学碑があることに気が付いた。草加日光街道は一度歩いて(14.2.23)、芭蕉像は眺めカメラに収めた記憶はある。芭蕉を追っ掛け始めている昨今、確かめておきたい。埼玉の草加は近く、大晦日に出掛けた。独り身の気軽さである。

 草加松原へ 草加は東武伊勢崎線だが、私は、大江戸線から仲御徒町駅へ出て、日比谷線に乗り東武伊勢崎線にした。今回の目的は芭蕉句碑とはっきりし、下車は草加駅先の松原団地駅と思っていたが、駅名が変更され、現在は獨協大学前駅。月日が経つのは速い。郊外新興住宅街で、駅前から目指す橋が見えている。直進して大通りを横断し、松並木を綾瀬川橋上から眺めた。草加松原と呼ばれ、旧日光街道の遺産で、1200本程の松並木が昭和になって激減したが、市民の努力で現在は半数ほどに回復したという。
 芭蕉文学碑 散策者に混じり遊歩道を行くと、左手に芭蕉句碑はあった(写真上)。解説によれば、芭蕉はこれからの長い旅路を案じ憂え、重い荷物を嘆えたような文で、細道誌冒頭からの引用のよう。先にある水原秋桜子碑を見てUターンし、遊歩道に架かる百代橋、矢立橋を渡る。これらもおくの細道記念で、太鼓橋風。橋名は、“月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり”等細道誌からで、前回も渡ったと思う。橋下には、ドナルドキーン博士のおくの細道記念碑もあった。案内所前に着いたが、本日は年末で閉所中。資料を期待していたが、残念。札場河岸跡も記憶にある。綾瀬川から江戸への物資輸送の拠点であったとある。植え込みの中に正岡子規の句碑“梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで”は読めた。

 芭蕉像、そして曾良像 古い木造望楼の隣に、芭蕉像を確かめる。千住を1689年5月16日(元禄2年3月27日)旅立った2人は、次の宿場が草加であったが通っただけで、泊まったのは越ヶ谷宿。句も詠んではいない。これだけ芭蕉を顕彰しているのは地元の熱意だろう。
 草加駅へ出ようと大通りを渡ると、おせん公園。草加煎餅発祥の碑がある。左手を見るとまた像が建ち、近付くと曾良の像(写真下)。希に2人並んでの像はあるが、離れては珍しい。前回の時はなかったと思うが、見逃したらしい。逆光の中シャッターを切ったがどうだろう。
 草加駅への途中、草加煎餅縁の店、おせん茶屋公園へ寄ろうとしたが見当たらない。煎餅店は散見出来、明治天皇行在所碑もあるから旧街道と思っていたが違っていた。前回寄ったから今回は外してもと、そのまま草加駅へ歩いた。(2020/01/20 K.K. 1308/1400)

◇日時 2019/12/31 ◇天候 晴 ◇交通費 840円 ◇資料 久富哲雄「奥の細道の旅」2014年18頁 ◇歩数等 10,000歩 8km 
「通過時間等」自宅8:45-大江戸線春日駅9:24-日比谷線仲御徒町駅9:38-東武獨協大学前駅10:15=草加松原芭蕉文学碑10:25=札場河岸跡10:50=東武草加駅11:29-JR北千住駅11:49-同日暮里駅11:59-三田線巣鴨駅12:14-自宅12:40

上信電鉄で貫前神社、山名八幡宮へ

 最近各地に一之宮と呼ばれる古社があると知り、首都圏内を調べ歩く先にしようとしている。武蔵一之宮小野神社参拝が契機になった。上州群馬、千葉上総、甲斐山梨の一之宮は未訪で、今後楽しみである。青春18切符を利用し、上州一之宮貫前(ヌキサキ)神社を訪ねることにした。高崎駅から上信電鉄で最寄り駅は、その名も上州一ノ宮駅である。

 上州電鉄乗車 JR赤羽駅から普通電車で1時間40分前後で高崎駅に着き鈍行から降り、上信電鉄ホームへ急いだ。上州一ノ宮駅は終点下仁田駅の手前である。烏川鉄橋を渡り高崎郊外へ出て、田園地帯を走った。当電鉄乗車は3度目と思っていたが、大分前に富岡製糸場見学に高崎駅から往復し4度目になる。本日貫前神社だけでは歩き足りず、高崎観音も検討したが距離があり過ぎ、山名駅から近い山名八幡宮に寄ろうと思う。山名駅を通過した際、屋根が車窓から見えた。富岡駅を過ぎ、下に鏑川渓谷を見ると上州一ノ宮駅であった。
 貫前神社は下り参道 駅前案内で、神社の位置と道順を確かめ歩き出す。富岡市の郊外だが意外に住宅が立ち込め、山里ではない。一度位置を間違え教えて貰い、参道前へ。桜木並木の直進する坂道を上がって石段を昇り大鳥居下を行くと、今度は下りの石段(写真上)。下り参道は珍しいらしい。杉の大木を背に、大きく高い朱色の神殿が横に広がっていた。創建531年と伝えられ延喜式内社の格式相当なのだろう。現社殿は江戸期に家光の命で建てられたという。改装が最近なのか朱色が目立つ。
 平日なのに参拝者はある。参拝し、孫達の成長をお願いする。処が本殿と拝殿とは別で、先に本殿前へ進んでしまったようで、拝殿で再度手を合わせ、頭を垂れた。その前に記帳した。カメラに収めようとしたが、大きな社殿は一度では無理で、分けてシャッターを切る。当社の由緒書き等はない。説明しなくとも、参詣者には分かっている筈ということか。石段を上がって大鳥居下へ。関東ふれあいの道の案内がある。群馬県7「歴史を訪ねるみち」が通り当神社もコースポイントだが、今回検討するも起点が更に奥地でアクセスが悪く諦めた。

 山名八幡宮へ 駅へ戻り、高崎行きを待つ。山名駅に降り、ホームから八幡宮を確かめた。今年3月ユネスコ世界の記憶登録の“上野三碑”を巡った際(19.3.20)のコース上に八幡宮はあったのだが、巡回バスに乗ったら省略されてしまった。
 駅裏に参道があり、参拝。こちらの境内は大分狭いが、文治年間(1185-1190年)新田義重の長男で山名城主義範(山名宗全祖)創建と伝わる古社。参拝後、境内を一回りすると社殿の彫刻(写真下)は1769(明和6)年関口文治郎作とあり、デジカメを向けた。高崎駅へ戻り、停車中の湘南ライン始発電車に乗り込んだ。(2020/01/17 K.K. 1307/1400)

◇日時 2019/12/27 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符3+1950円 ◇資料 富岡市観光おもてなし課「群馬県富岡市観光ガイド」 ◇歩数等 13,000歩 9km 
「通過時間等」自宅8:45-JR板橋駅9:30-同赤羽駅9:39-上信鉄道高崎駅11:23-同上州一ノ宮駅12:10=貫前神社12:30/12:55=上信鉄道一ノ宮駅13:23-同山名駅13:55=山名八幡宮14:00=上州電鉄山名駅14:22-JR高崎駅14:52-同赤羽駅16:40-三田線本蓮沼駅16:59-自宅17:25

東海道本線に乗り清水を訪ね、次郎長生家等を巡る

 冬休み用青春18切符を求めた。全国のJR路線利用可能がメリットの一つで、JR東日本路線を越えJR東海路線で清水行きを計画した。東海道本線の乗り鉄である。鈍行利用がルールで、時間的には清水駅往復が限度かなと見込んだ。駿河の清水と言えば次郎長親分で、手許にガイドがある。車でお世話になっているSさんに話し、同行が決まった。

 赤羽から東海道本線へ 朝、JR板橋駅に集合し、私は池袋駅経由の予定であったが、Sさん、赤羽駅から上野東京ラインで東海道本線が良いと言われ、赤羽駅へ出た。小田原行きや熱海行きがあり、我々は小田原行きへ乗車。尾久駅を通過したのは何年振りだろうか。東京駅、横浜駅を過ぎ東海道本線を走った。同線沿いに箱根駅伝コースがあり、時々車窓から見える。正月は、我が母校のシード確保を応援しようと、同窓のSさんにテレビ観戦を提案する。
 熱海で乗り換え清水へ 小田原駅で、後続の熱海行きに乗り、熱海駅でJR東海の列車になった。長い丹那トンネルを抜け静岡県に入る。三島駅、沼津駅を通り、富士が見え始めた。東田子の浦駅、富士駅は富士山麓で、久し振りに、“田子の浦ゆ うち出てみれば・・・”の和歌を思い出した。Sさんも秀峰に見入っているようだ。由比駅、興津駅間にある薩埵峠は歩いたことがあり(11.12.4)、Sさんへ紹介した。駿河湾と山裾の狭い間に国道1号、JR東海道本線、東明高速道路が重なり併行しているのは車窓からも確認出来た。そして、清水駅到着。赤羽駅から約3時間30分を要した。
 次郎長生家へ 清水駅は、思った以上に大きく、駅前商店街は県都並みのよう。商店街から東海道本線を渡橋し静岡鉄道新清水駅前を行く。通りは異常に広く、後に調べると清水市も終戦直前空爆を受けたとある。仙台や富山と同様である。三遊亭昇太師匠の出身地で、広告を見掛ける。巴川を渡り、小さな商店街が次郎長通りで、奥の古い家が生家であった(写真上)。彼は養子に出され、大親分宅ではない。カメラに収め、禅業寺を探すも見付からず、途中のラーメン店で昼食。老婦人一人の狭い店で、寺の位置を教えて貰う。

 幕末の鉄舟 梅陰禅寺は親分の菩提寺で、遺物館も備えている。入館し一回りすると、見たような銅像や大政、小政、石松の墓も並んでいた。御茶をご馳走になる。“清水港の名物は お茶の香りと・・・”であった。鉄舟寺は遠く、Sさんを大分歩かせてしまった。山岡鉄舟が明治になって再建した寺で、銅像もある(写真下)。幕末徳川慶喜の意向を受け、鉄舟が清水で隆盛と予備折衝し海舟との無血開城へ導いたようだ。鉄舟は次郎長とも交わりがあったと資料にあった。バスで清水駅へ戻って、熱海行き普通電車に乗り、また車窓には富士の白峰が覗いた。(2020/01/12 K.K.1306/1400)

◇日時 2019/12/21 ◇天候 曇り ◇交通費 青春18切符1 ◇資料 JTB「大人の遠足 次郎長生家から鉄舟寺へ」2000年12月、96頁、『「江戸城無血開城」実像は?』2019.12.28読売 ◇歩数等 15,000歩 11km 
「通過時間等」自宅7:20-JR板橋駅7:55-同赤羽駅8:07-同小田原駅10:05-同熱海駅10:35-同清水駅11:45=次郎長生家12:20=昼食12:50/13:15=梅陰禅寺13:25=鉄舟寺13:50-JR清水駅14:40-同熱海駅15:55-同赤羽駅18:15-三田線志村坂上駅18:36-自宅18:50

葛飾柴又から矢切の渡しを歩く

 年末が近づいて、寅さんや柴又が話題になっているようだ。帝釈天から寅さん記念館は江戸川縁を歩いた際寄ったが大分前で(01.12.24)、記念館もリニューアルされたと知った。弟へ話しをすると、彼は未訪だと乗って来た。柴又から矢切の渡し、そして金町へ歩けば、ハイキング程度にはなろう。

 さくら像もお出迎え 今回、弟との待ち合わせは思案の末、千代田線大手町駅にした。そのまま千代田線に乗り町屋駅で京成線へ乗り換え、京成高砂駅で金町線へ乗り継ぐと柴又駅であった。駅前の寅さん像は有名で、現在は、さくらの像も新設されている。寅さんは似てないと見る度に思うが、さくらはどうかと眺め(写真上)、似てるなと思いながらシャッターを切った。案内所でマップを貰い、帝釈天参道へ入る。映画でもお馴染みの飲食店街が両側に続き、団子の高木屋もある。ぽちぽちと閉めている店も見え、寅さんも景気には勝てないのか。本日も人出はあるのだが。
 帝釈天と参道商店街 帝釈天の山門は、古びて歴史を感じさせて建ち、寺男源ちゃんが出て来そう。映画とは違い境内はそう広くはない。題経寺本堂に参拝し、1629(寛永6)年創建の日蓮宗のお寺と改めて知る。左手が高い鐘楼で、源ちゃんが鐘突番。
 寺を出て、寅さん記念館へ向かう。途中に、料亭川甚と山本邸があった。川甚では寅さん映画でも結婚式が行われたが、私も入ったことがある。江戸川河川敷で野球大会があり、試合後相手チームに招待されたことがあった。私が草野球の現役の頃で、もう40年も前のこと。和風建築で書院庭園の山本邸では、庭木には雪吊りがしてあり、祖父を思い出した。祖父はお屋敷勤めで、毎年雪吊り作業が晩秋の仕事であった。
 寅さんとマドンナ 寅さん記念館から山田洋次ミュージアムへ入館。くるまやのセットや寅さん映画シリーズの展示物は変わらないようだが、デジタル化され画面タッチでマドンナも出で来る。多くの有名女優の中で、私は樫山文枝や中原理恵が印象に残っている。寅さんが乗った鈍行列車の古い座席もある。山田監督は、映画釣り馬鹿日誌にも関与していると分かりビックリ。

 矢切の渡し 江戸川土手へ上がり、弟を矢切の渡しへ案内。先の大雨で桟橋が流され休業していたが、現在土日は渡航中とあるも本日は平日で、休み。演歌でも有名になり、石本美由紀・船村徹の歌碑を弟へ紹介した。細川たかしやちあきなおみ達が唱う。本日は天候も良く、江戸川は静かに流れているが、先月の大雨時は溢れてしまったのであろうか。また土手へ上がり、途中から常磐線沿いに金町へ出て、駅前で昼食し、金町線から京成線へ乗り継ぎ町屋駅で、来年もまた歩こうと言いながら、弟と別れた。(2020/01/09 K.K. 1305/1400)

◇日時 2019/12/16 ◇天候 晴 ◇交通費 400円 ◇資料 テクノプラザかつしか「かつしか柴又マップ」2019年4月 ◇歩数等 11,000歩 8km 
「通過時間等」 自宅9:10-千代田線大手町駅9:55-京成町屋駅10:15-同高砂駅10:37-同柴又駅10:45=帝釈天題経寺10:55=寅さん記念館11:10=矢切の渡し11:55=金町線金町駅(昼食)12:54-京成高砂駅13:05-荒川線町屋駅13:26-三田線西巣鴨駅14:10-自宅14:35 

那須高久に芭蕉句碑を訪ねる

 JR東日本大人の休日パス利用最終日は、那須高久に芭蕉足跡を辿ることにした。当初仙台経由で常磐線相馬行きも考えたが、本日夕方忘年会がある。また先日越後新潟を巡り、その疲れもないことはない。それで、距離的にも近く、興味もある高久に落ち着いた。おくの細道の芭蕉は、黒羽から殺生石へ向かう途中2泊したのが高久と知った。

 遠い高久の地 東北新幹線を那須塩原駅で東北本線に乗り換え、黒磯駅に降りた。次が高久駅だがこちらの方が近いようだ。期待した案内所は閉まっていて、駅前案内板地図で高久の位置を確かめスタート。黒磯郊外の地で3,40分程度とみた。黒磯中心街へ出て右折し、陸羽街道を行く。既に郊外で、那珂川を渡る。そろそろかなと掃除中の地元の方に尋ねると、目指す高福寺は約2km先という。左手が那須湯本への交差点を直進すると、建物は疎らになり森林地帯中の街道になる。次の三叉路から緩くカーブした右手に寺が見え、高福寺であった。
 高福寺句碑 普通の田舎寺で、芭蕉句碑等の案内はない。本堂で手を合わせ、居合わせた檀家の方に取り次いで戴き、和尚さんに案内して貰った。正面の庭の松の根本に他の石塔に並んでいた(写真上)。1689(元禄2)年4月16日(陽暦6月2日)から高久に2日間滞在し詠んだ“落ちくるや たかくの宿の 郭公”が刻んであるという。お礼を言い、カメラに収めた。郭公は字数も合わずおかしく、“ほととぎす”と読むのではと気付き調べるとそうであった、芭蕉の足跡地でも、案内や説明はあるに違いないという先入観は捨てなければならないと思う。

 高久名主と芭蕉 福島白河への街道を更に行くと山村地帯へ至り、“芭蕉二宿の地”の標柱に出会う。当地の名主高久覚左衛門宅で、現在も屋敷を構えている。その先に、芭蕉翁塚「杜鵑の墓」という史蹟があった。覚左衛門の孫が1754(宝暦4)年建てたとある。芭蕉が記念に高久家に残した句文も紹介してある(写真下)。杜鵑(トケン)とは漢語のほととぎすのことと知る。石碑は屋根付きではあるが風雨に曝され文字はもうはっきりしない。墓とは、殺生石上を飛び毒で死に落ちたホトトギスのものという意味で、芭蕉の句に合わせたものだろう。
 Uターンだが、バス停は見当たらず、予定通り徒歩を続ける。また高福寺前から那須湯本への十字路を過ぎると那珂川に架かる高い橋。流れは下方の中心部を流れているが、先頃の大雨で下流は氾濫したとも聞いた。駅前通りには未だ古い商店が遺り、店頭に芭蕉のおくの細道殺生石から遊行柳へ歩いた一節が紹介してあり、思わずカメラを出した。また那須塩原駅からは東北新幹線に乗り東京駅へ出て、竹橋開催の忘年会に参加した。(2020/01/05 K.K. 1304/1400)

◇日時 2019/12/9 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日パス ◇資料 久富哲雄「奥の細道の旅」2014年4刷38頁 ◇歩数等 18,000歩 13km 
「通過時間等」自宅11:10-JR上野駅12:18-同那須塩原駅13:26-同黒磯駅13:40=高福寺14:20=芭蕉翁塚14:35=那珂川橋15:00=jR黒磯駅15:43-同那須塩原駅16:02-同東京駅駅17:17-竹橋忘年会会場18:00

白鳥の水原瓢湖から会津若松へ

 今回の越後新潟行きの目的は、水原瓢湖の白鳥見物である。わが国有数の白鳥到来地として有名で、10数年来訪ねたいと念願し、ようやく実現した。白鳥滞在のピークは厳寒の2月頃と誤解していた。12月前後がピークで、その後はシベリアへ帰るという。あちらの季節に合わせていると知り、この時期の訪問になった。そして、見物は早朝か夕暮れで、新潟駅前へ泊まり、朝立ちにした。

 瓢湖は白鳥3000羽 朝7時、羽越本線水原駅に降りて歩き出すと、早速上空を2,3羽の白鳥が飛び、鳴き声を出し歓迎してくれた。阿賀野市水原は小さな田舎町と思っていたが、駅前に広がる住宅街を左折し、そして右折し直進しても、瓢湖のある水田地帯へは至らない。途中で教えて貰い、ルートに乗るが未だ距離があり郊外住宅街を進み大通りへ出て、通りに並ぶ商店街の裏が目指す湖であった。
 湖畔へ出ると、大きな水面が広がり、多数の白鳥達が見える(写真上)。水面に浮かぶ白鳥、飛び立つ白鳥、そして上空を舞う白鳥と多彩に過ごしている模様。3000羽滞在中とあり、最盛期は4000羽以上だからもう帰ったのであろうか。現地資料には更に南下するともある。飛ぶ白鳥を撮ろうとカメラを構えるが、難しい(写真下)。広い湖、多数の鴨類等で、3000羽にしては疎らとも思う。見物客も次第に増え出し、私は遊歩道を移動しながら眺めては、シャッターを切る。最後に友人へも送ろうとスマホで白鳥を追ったがどうだろう。電車時間もあり、白鳥達に別れ駅へ戻った。

 磐越西線で会津へ 水原駅から新津駅へ出て、磐越西線に乗車。電車は越後平野から鉄橋を渡り、山間へと入った。阿賀野川の大河が右、左に付きまとう。その水量は凄く半端ではない。磐越西線は二度目で多くの駅を通過するが、知っているのは津川駅だけ。現在津川は新潟県だが、江戸時代以前は会津領。戊辰戦争最中、会津藩家老西郷頼母が、藩主と衝突して戦線離脱し、逃亡したルートが会津から越後であったと思い出し、現磐越西線沿いかなと想像した。
 福島県西会津へ入り未だ深い山中で、谷川沿いに進み阿賀川とある。調べると福島県では阿賀川、新潟県へ入ると阿賀野川と呼ばれるという。喜多方が近くになり山域を出て盆地が広がり、磐梯山を探すと、白峰であった。会津若松駅に着き、昼食は喜多方ラーメン。滝沢陣屋、飯盛山往復の予定もあったが、次回に回す。案内所で会津坂下春日八郎記念館の情報を得た。
 磐越西線に乗り続け、郡山駅から東北新幹線で帰京。乗換の際、駅東口に歌碑“高校3年生”を探した。作詞家丘灯至夫が福島出身の縁らしい。この唄は私の高卒翌年ヒットし、当時偶々手伝った女子校部活合宿打ち上げで、後輩達が唱ってくれて知った。(2019/12/28 K.K. 1303/1400)

◇日時 2019/12/7 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日パス ◇資料 五頭温泉郷旅館協同組合「朝の白鳥見学バス」 ◇歩数等 15,000歩 11km 
「通過時間等」宿泊先6:20-JR新潟駅6:27-同新津駅6:49-同水原駅7:05=瓢湖7:30/8:05=JR水原駅8:45-同新津駅10:00-同会津若松駅(昼食)12:10/13:26-同郡山駅15:05-同上野駅16:27-三田線巣鴨駅16:44-自宅18:05

出雲崎から佐渡を眺め越後線を乗り切る

 芭蕉は、象潟から日本海沿いに歩き越後へ入って出雲崎で名句を残している。私も、出雲崎を訪ねるべくJR東日本大人の休日パスを待ち、白鳥到来時期に合わせ水原瓢湖行きとセットで出掛けることにした。ルートは北陸新幹線から直江津経由もあるが、上越新幹線で長岡経由にした。この時期寒さ対策が重要とそれなりの準備をする。

 越後平野は雪一色 トンネルを抜けると雪国であったは、有名な小説で、湯沢駅付近の雪は想定内だが、越後平野中央へ出でも、白一色。昨夜からの雪らしい。長岡駅に降り、柏崎行きの信越線に乗り換えた。雪の中の電車は越後平野をスピードを落とし走った。これでは出雲崎も雪に覆われ芭蕉追っ掛け処ではない。車中、予定変更を検討し、越後線乗り鉄が浮かんだが、過疎ダイヤで柏崎か出雲崎の何れかで時間を潰すか迷った。その中で、日本海寄りは雪は少ないのではと一縷の望みを持った。
 芭蕉と出雲崎 20分程遅れで柏崎駅に着き、越後線が待っていて乗り換えた。電車が出雲崎に近づくに連れ雪は無くなり問題はない。ラッキーである。出雲崎駅前案内所で、情報収集。マップで芭蕉園の位置を教えて貰い、徒歩で時間はと尋ねると担当者は“うーん”と唸り言葉を濁した。私は、30分程度と読みスタート。峠を越えたが未だ先で海も見えない。小さな峠を二つ越し良寛記念館。出雲崎は良寛の出身地で、良寛史蹟があるのは事前調査で知った。マップ上記念館と芭蕉園が並ぶが、通りが違うと気付き、海寄りへと階段を下る。手前高台から日本海と佐渡が望め(写真上)、カメラを向けた。

 古い街並みになり北国街道。江戸期佐渡からの金荷揚げ地として賑わい、流人を送る港でもあった。第四銀行支店の先に芭蕉園はあった。1時間を要した。小さな公園で、芭蕉像(写真下)と石碑があり“銀河ノ序”で、“荒海や 佐渡に横たふ 天河”と結んだ当地を記した句文碑のよう。有名な句だが、出雲崎ではなく次の直江津で披露したらしい。天候等からその前に、新潟から出雲崎へ歩いた際着想を得て完成させたとの説がある。元禄2(1689)年旧暦7月4日、二人が泊まった大島屋は、園斜め向かいにあったが今はない。
 北国街道を行き、左手の石段を上がり妙福寺で、芭蕉の弟子達がその後に2人も訪ね俳聖を偲んだ記念の碑・俳諧伝灯塚があった。出雲崎駅へはデマンドタクシーを呼んで戻る。案内所の紹介で、多分半額以下の料金。
 越後線で新潟へ 越後線に再度乗車し、新潟駅へと向かう。暗くなり車窓からの眺めのない中、吉田駅で乗り継ぐ。この駅は弥彦山へ登った時(09.5.5)も、新潟行きに乗り換えた駅。先程出雲崎で、海へ突き出た美しい山を眺めたが弥彦山であった。電車は新潟へ近付くに従い通勤客で込み合い、18時に新潟駅に降り、混雑する駅ビルを出て、ビジネスホテルを探した。(2019/12/23 K.K. 1302/1400)

◇日時 2019/12/6 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本大人の休日パス、タクシー500円◇資料 久富哲雄「奥の細道の旅」2014年4刷165頁 ◇歩数等 13,000歩 9km 
「通過時間等」自宅7:50-JR上野駅8:58-同長岡駅10:57-同柏崎駅12:13-同出雲崎駅12:50=芭蕉園13:55=妙福寺14:05-JR出雲崎駅16:02-同吉田駅17:00-同新潟駅17:55-宿泊先18:05

都心本郷に追分を探す

 手許の歴史書から、東京都心も東大付近に追分があると知った。追分は主要街道の分岐点で、私には信濃追分は有名であり、二度訪ねている。灯台下暗しで、我が家近くにもあり、そこには高崎屋という江戸期宝暦年間からの酒店が現在も営業しているという。以前この辺りは良く歩き、少しは知っている地区だから尚驚きでもある。

 本郷のかねやす 中山道と日光御成街道の追分は、文京区の祢津神社付近かなと思ったが、本郷の東大近くらしい。三田線春日駅を出て、本郷へ向け坂を上がった。途中の右手に弓町の大楠があり寄って大木を眺めた (19.2.13)。昨年ラジオ放送から知り一度訪ねている。坂を上がり切った交差点右角が化粧品のかねやす店。“本郷も かねやすまでは 江戸の内”という川柳で有名で、今も壁にプレートが貼られている(写真上)。この歴史を教えてくれたのが先輩Tさんで、特許担当の彼は技術史にも詳しかった。亡くなられて久しいが、彼が焼いた湯飲みを私は現在も使っている。
 東大前古書店街を通過 交差点を左折し、本郷通りを東大方向へ歩く。左手法真寺境内に樋口一葉縁の案内があった。彼女が晩年住んでいたのはこの下方だったと思う。赤門前を過ぎ、左側には古書店が並ぶ。若い頃の一時期、専門書を求めに良く通った。本棚にはその時の古書類は10冊以上はある。家内に、お金がないのに買い過ぎではと言われたことがあった。その後の私の駄文では、良く引用したと思う。最近でも、コラム原稿に、「清瀬一郎著・特許法原理(昭和4年再版)」を引用している(冒認商標出願について=専門用語は正確に=網野誠著「商標」の思い出)。家内の嘆きの名残でもあろう。最近は毎年法改正があり、古書の役割は減少している。その店伸松堂を覗くと、特許法の古書が並んでいる。農学部前を過ぎ、大通りの直進を続ける。

 追分から中山道へ 通りに立つ文京区の案内板には、御成街道とあり白山の地名も見え、通り過ぎかと戻る。高崎屋があり、現在も酒屋さんのよう。横が三叉路交差点で、中山道と御成街道の追分と分かった。いつもの先入観で、大きな分岐で案内もあると思っていた。特に中山道は狭い普通の道路。酒屋の前に“追分一里塚”の案内板が唯一史蹟を示していた(写真下)。カメラに収め、中山道を行く。文京区内だが、住宅街、商店街とも付かない下町通りで、私は初めての地。ほうろく地蔵があり覗くと、あの八百屋お七を供養したとある。隣の大円寺にあるという高島秋帆の墓は探せない。中山道を歩き続け白山へ至り、三田線白山駅は近いが、千石駅まで歩く。左手が東洋大学キャンバスで、新しい大校舎ビルが建っていた。現中山道へ合流し千石駅は近く、エレベーターで地下駅へ降り、私の都心の追分探訪は終わりになった。(2019/12/20 K.K. 1301/1400)

◇日時 2019/12/3 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用  ◇資料 山川出版社「東京都の歴史・中」137頁 ◇歩数等 10,000歩 7km 
「通過時間等」自宅11:25-三田線春日駅12:00=弓町大楠12:05=本郷かねやす12:10=法真寺12:20=古書店街12:30=本郷追分12:50=ほうろく地蔵13:05=三田線千石駅13:30-自宅14:05

大浅間を仰ぎながら小浅間山へ登る

 節目の山歩き里歩きが近づき、何処を歩こうかと思案したが、山歩き、否、山登りにしたい。高山は無理だが、低山ならなんとかなるだろう。以前から東信濃軽井沢の奥にある小浅間山(1655m)は目標にしていた。浅間山の山域ではある。タイミング良く、長野の家内姉からいとこ会の案内があった。それまで回数を合わせ、その日を待った。問題は、当日の天候、特に寒さである。

 軽井沢で霧が晴れる 朝宿泊先を出たら霧、それも結構深い。しなの鉄道田中駅へ車で送って貰ったが霧の中慎重な運転であった。いつも車窓から見える浅間山は霧の陰の儘、中軽井沢駅に着いた。処が、バスを待っている間、霧が退き浅間山が見え出した。何とラッキーかと1人喜ぶ。バスを登山口峰の茶屋に降り、登山カードに記入しスタート。義姉に貰った重い土産は、繁みの陰に置いた。歩きやすい一本道で、雑木林は全て葉を落とし、初冬である。深い山中で、ハイカーもなく、単身では寂しい位だが、黙々と行く。少し傾斜が増し、左手樹林の間に浅間山が見え出し(写真上)、カメラを出したが、シャッターチャンスが難しい。

 峰の茶屋から馬返しへ 右手に回り込み坂を上がると、浅間山への分岐、馬返しに着く。現在は浅間山への登山道は立ち入り禁止中。私は反対側の小浅間山への標識を確かめ、いよいよ登山道である。ガイド通り、火山灰に覆われたザレ場で、道も薄く、草木も下になった。いつものように一歩、一歩慎重に上がり続ける。右手に遠望する山並みは八ヶ岳と蓼科山か。振り向くと、大浅間山。活火山は黒色一色で、未だ雪は見えない。一息入れて、また歩き出す。先程来、靴跡があり、それも新しいように見える。トラバース状の道を進み、頂端を回り込むと頂上であった。僅か50分で、コースタイムより僅かに遅いだけで、私には大順調。高年夫婦が休んでいた。挨拶し、大浅間を背景に標柱を入れカメラに収めた(写真下)。腰を下ろし休憩。群馬側の山々が目の前に広がる。浅間隠し山や鼻曲山だろう。こちらも遠望にしシャッターを切った。濃い朝霧だったがその影響はなく、山頂でも寒さを感じる程ではない。天候も味方してくれ、私は付いているのだろう。

 登頂し下山 下山開始。頂上ザレ場を直線的に下るが歩き難い。途中で選んだ道が、上りとは違ったらしく草木のある道へ入り、やや不安を感じながら下り続ける。広い道へ出て、上方を見上げると、先程の馬返しの地点で、少し下へ出たのであった。そのまま一本道を戻り、予定通り峰の茶屋口へ下りた。軽井沢行きバス迄1時間以上あり、義姉からの荷物をザックに入れ、峰の茶屋で昼食。義姉達に、御礼と、小浅間山から無事下山し1300回達成とメールした。(2019/12/15 K.K. 1300/1300)

◇日時 2019/11/25 ◇天候 曇り ◇交通費 6,640円 ◇資料 軽井沢町「歩く軽井沢 ⑨峰の茶屋から小浅間山」17頁 ◇歩数等 15,000歩 9km 
「通過時間等」宿泊先8:20-しなの鉄道田中駅8:50-同中軽井沢駅10:25-バス停峰の茶屋10:55=馬返し分岐11:25=小浅間山11:45/11:55=馬返し分岐下12:15=峰の茶屋(昼食)12:35/13:45-JR軽井沢駅14:59-同上野駅16:18-三田線巣鴨駅16:36-自宅17:05

晩秋の上田城跡、小諸城跡を巡る

 東信濃に上田城跡から小諸城跡を訪ねた。今回は弟と一緒である。これには経緯があり、多分、大河ドラマ真田丸放映中の頃だったと思うが、弟から上田城跡案内してくれと言われ、その内にと答えたことがあった。今年になって、催促され今回の同行になった。夕方東御市で開催の家内いとこ会参加の前に、案内することにした。

 上田城跡へ弟を案内 上野駅で落ち合い、北陸新幹線で上田へ向かった。先月の千曲川大氾濫には驚いた。その影響で新幹線ダイヤは未だ戻っていない。我が親戚達は、千曲川から離れ被害は無かったようだ。上田駅に降り、駅前幸村(信繁)像を案内すると、早速弟はカメラを出した。
 案内所で教えて貰ったルートを行き、坂を上がると左手が城跡で、正面から二の丸跡へ入城。紅葉が盛りで美しい。石垣にある真田石という大石を見て、櫓門から本丸跡へ。左の南櫓は昔からあったが、右の北櫓と門は後の復元と思う。家内の実家が近いこともあり、私は数度訪ねている。弟は櫓内も見学した。
 紅葉の中の古城跡 本丸内に真田神社があり、七五三参りで込んでいる。我々も手を合わせ、弟を裏の真田井戸へ案内。井戸は抜け穴になっていて、上田郊外の太郎山へ続いていると聞いたことがある。西櫓を見上げる。以前は内部も覗けたが、柵が出来ている。濠を眺め(写真上)、本丸土塁を巡る。木々は紅葉真っ盛りで、その下を歩きカメラに収める。左手奥に野球場があり、思い出した。当地出身のプロ野球選手がいて、家内が高校時代二軍戦がこの球場であり応援したと聞いた。南海の堀込選手(小諸商出)だったと思う。そんな話しを弟にした。城跡を出て、家老屋敷跡、現上田高校へ回って上田駅へ下った。

 小諸城跡から千曲川を眺める しなの鉄道で小諸へ移動。小諸城跡は駅から直ぐで、高架通路を渡り三の門から入城。右手に野面積みの高い石垣が遺り、弟へ伝える。こちらも紅葉に囲まれ晩秋である。二の丸跡は、関ヶ原戦の折、中山道を急ぐ秀忠が陣を敷いたとある。先程門前に秀忠憩石と案内があったが、目の前の敵、曲者上田城主真田昌幸と対峙中で、憩いの心境とはとても思えない。
 弟と藤村碑前から水の手展望台へ上がり、眼下に千曲川を眺める(写真下)。本日の大河は蕩々と流れ、先日の大暴れの様子は窺えない。戻って、富士見展望台へ。ここから富士が見えるとは初めて知った。義弟の案内で、我が両親と当城を巡ったことがあった。約40年前のことで、善光寺参拝の後であった。
 大手門へ 2人で天守台へ上がる。三層の郭があったが落雷で焼失し再建されなかったという。この年齢になると高い所は怖い。バランス感覚が以前とは違う。隣の神社に詣でて、下城。場外街中にある大手門へ。一度道を誤ったが案内出来た。駅へ戻り、帰宅の弟は上り、会参加の私は下りの電車に乗車。弟は満足したであろうか。(2019/12/13 K.K 1299/1300)

◇日時 2019/11/24 ◇天候 曇り時々小雨 ◇交通費 4,890円 ◇資料 上田市観光課「上田城」、小諸懐古園事務所「懐古園」 ◇歩数等 9,000歩 6km 
「通過時間等」自宅8:35-JR巣鴨駅9:10-同上野駅9:38-同上田駅10:55=上田城跡11:15/12:00=家老屋敷跡12:20=しなの鉄道上田駅(昼食)12:59-同小諸駅13:25=小諸城跡13:30/14:20=大手門14:30=しなの鉄道小諸駅14:58-同田中駅15:20-東御保養所15:50

紅葉を求め和光樹林公園へ

 秋晴れの好天に誘われ、在宅中の午後急に歩くことにした。我が家から近い板橋、練馬、和光の埼玉県境に紅葉が美しい公園があった筈と、ネットで探すと和光樹林公園と大泉中央公園と分かった。昨年かなと思うが紅葉情報を新聞で読んだ記憶がある。バスや車で近くを通過し、笹目通りの先と凡その位置は分かっている。バスで成増へ出て、スタートしたい。これまで一度も歩いたことのない新規なコースになる。

 川越街道から笹目通りへ 東武成増駅から商店街を通り川越街道へ出た。商店街通りは久し振りで、昔の飲食街から脱したように見える。川越街道を下り、旧道から埼玉へ入り白子宿を過ぎ、笹目通りへ上がる。角に神社があったのではと探すと次の交差点で、諏訪神社。現街道を渡り、笹目通り側道を進み、次の交差点で病院前を埼玉方向へ右折。直ぐ先が東京外環道で目指す公園は近いとウロウロしたが見付からない。見える紅葉は、桜の並木通りで公園ではない。途中で大分先と教えてもらい、バス停路線図から司法研修所を見付け、バス通りを行く。研修所の隣が大泉中央公園。その前にある筈の外環道は、後に当地は地下通過と分かった。

 遠かった和光樹林公園 司法研修所前へ出て、隣の大泉さくら運動公園案内板で確かめ、直ぐ先に和光樹林公園をようやく探し当てた。広い大公園である。中央に芝生広場が広がり、その中に遊歩道が切ってある。ジョグや散歩している方も見える。周囲には様々な木々が聳え紅葉も始まり、私は、赤や黄色に染まった紅葉を拾い、シャッターを切りながら公園を巡る(写真上、中)。サクラやクスノキ、タブノキ、メタセコイヤ等である。公園全体を知りたく、案内パンフ入手しようと管理事務所へ寄る。総合体育館の手前にあり、貰った。色付いたコキアがあり、近付いてカメラを向けた。

 そして大泉中央公園 当公園は、旧陸軍施設を戦後米軍が接収し使用していたが返還されて、公園化されたとある。都近郊にこんな広い空き地があるのはやはりそのような経緯で、私の想像と違わない。また紅葉を見上げながら、往きのコースを戻り、大泉中央公園へ入る。こちらの方も、樹林が多い公園で、一画には陸上競技場があるが、走っている者はいない(写真下)。未だキバナコスモスの花が残り、カメラに収めた。もう季節外れだろう。散策者と交差する。犬を連れた方が多い。公園を出て、バス停を探す。成増駅から大泉学園駅行きバスが当地を走り、一度乗ったことがあり、司法研修所の存在は記憶にあった。思ったよりバス便は少なく、30分程待ち乗車し、ほぼ私が往きに歩いたコースを走り、成増駅前であった。(2019/12/10 K.K. 1298/1300)

◇日時 2019/11/19 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス利用 ◇資料 昭文社「東京都市図14大泉」 ◇歩数等 14,000歩 10km 
「通過時間等」自宅12:30-東武成増駅13:15=諏訪神社13:40=大泉さくら運動公園14:20=和光樹林公園14:30=大泉中央公園前バス停15:25-東武成増駅16:00-自宅16:30

多摩に小野神社、谷保天満宮、府中宿高札場跡を巡る

 今春、多摩の武蔵一之宮小野神社を訪ねた(19.3.29)。この時、多摩川を挟んだ対岸の府中にも小野神社があると知った。いずれも由緒を延喜式内社と称しているという。多摩川の氾濫で流されて、両岸に再建されたらしい。江戸時代多摩の小野神社が一之宮として遇され、それ以来多摩の社が武蔵一之宮として扱われているという。興味が湧き府中の小野神社を訪ねた。

 府中小野神社へ 京王線中河原駅が最寄り駅。同線は何度も往復しているが中河原駅には初めての降車。構内案内図で確かめ、10分程歩き探し当て境内へ入り参拝。古社ではあるがこぢんまりした社と境内である(写真上)。掃除を終えた氏子連であろうか数人屯している。1人が私に近づいて来て、何処からと聞き、延喜式内社とある由緒書きを渡してくれた。私は、対岸の方が一之宮と称しているのではと水を向けたが、現在では双方の関係者に親戚もあり張り合わないと笑った。山川出版社「東京都の歴史散歩下・多摩島嶼」には、“明確な結論は出ていない”とある(同書91頁)。
 谷保天満宮へ歩く 境内を裏から抜け、中央高速道路下を潜り、国立の谷保天満宮へ向かう。当初駅へ戻り南武線へ乗り換えようと思っていたが、地図上から歩ける距離と分かった。NEC工場を過ぎ府中西高付近で出会った府中用水に沿って進む。このまま天満宮へ行けるのではといつもの山勘であったが、大ハズレ。また高速道(インタからの進入路)を高架橋で渡り混乱してしまった。二度尋ね新興住宅街から田圃の中の小径を森へ向け左折し渡る橋が天神橋とあり、一安心。境内へ横から入ると、本殿前は参拝者で一杯。着飾った子供連れで七五三参りと知る。私は、頭越しに手を合わせ、来春入試の孫をお願いした。当社は再訪(98.1.24)だが記憶になく、小社と思っていたが会館や社務所もある立派な天満宮で、縁起には道真公が太宰府へ左遷された時、当地に三男道武公が配流されたとある。

 府中宿高札場跡 南武線谷保駅は近く、乗車し府中本町駅へ。谷保駅で飲み屋街を覗くのを忘れてしまった。私の愛読書の作家山口瞳のたまり場で、作品もある。府中本町駅前の広場は国府跡で、また家康の御殿跡という。遺跡はないが立ち寄り、直ぐ先の大国魂神社へ。先の小野神社を含む六宮を合祀する武蔵総社で格上の社。私は数度訪ねている。こちらも七五三参りで大混雑。
 神社前を左折し旧甲州街道へ。次の交差点が川越街道、相州街道と交わる四辻で、高札場が今も遺る(写真下)。高く大きな高札場に驚きながらカメラを向けた。反対側が蔵造りの酒屋で、一度眺めたことがあるかなと思っていたが、初めて。また参道へ戻り欅並木を往復し、京王線府中駅へ上がった。欅の紅葉には速かった。(2019/11/30 K.K. 1297/1300)

◇日時 2019/11/10 ◇天候 晴 ◇交通費 760円 ◇資料 山川出版社「東京都の歴史散歩下・多摩島嶼」1992年、JTB「大人の遠足」54頁 ◇歩数等 15,000歩 11km 
「通過時間等」自宅8:50-都営線神保町駅9:35-京王線中河原駅10:25=府中小野神社10:35=谷保天満宮11:25=JR谷保駅11:45-同府中本町駅11:55=国府跡12:00=大国魂神社12:05=府中宿高札場跡12:15=欅並木12:30=京王府中駅12:59-大江戸線西新宿駅13:35-三田線春日駅13:48-自宅14:10

勝沼に大善寺へ参拝し勝沼氏館跡を見学する

 最近近郊歩きが続き、遠出したい。三連休の最終日に新宿発ホリーデー山梨を利用し、勝沼ハイクを思い付いた。同列車は小渕沢行きの快速で、停まる駅は少なく速い上に普通料金で、塩山から恵林寺参拝(19.03.24)以来の乗車である。コースは、駅からハイキングの“勝沼ぶどう郷めぐり”で、ワインと展望の里を楽しむとある。コース外だが地図上に勝沼氏館跡を見付け、寄りたい。

 甲州盆地の眺め 早めに着き新宿駅で座席を確保した。思った程は込み合ってはいない。中央線を走り大月駅から笹子トンネルを抜け、勝沼ぶどう郷駅に到着。駅案内所で情報を得てスタート。本日天候良く寒くもなく、ハイキング日和。駅前通りを左折し、早速葡萄棚の間の農道を歩く。高台をトラバースする小径となり、眼下には、南アルプス連峰を背景に盆地が広がり(写真上)、甲府盆地と知る。大半の山々は雲を被っているが右端の鋭鋒は甲斐駒だろう。次のポイント大善寺への案内標識が途切れてしまった。持参のマップと見比べると、直ぐ下の葡萄園を貫いている舗道はなく、最近の道路か。小径をそのまま下るとまた大善寺の案内がありホッとする。
 古刹大善寺の歴史 ようやく旧甲州街道が見え始め、左折すると大善寺は近い。山門下へ回り、石段から山麓の本堂に参拝。古式ゆかしき木造で古刹に相応しく、国宝とある(写真下)。養老年間(717-724年)、行基創建と伝わるという。驚いたのは、戦国期、勝頼が新府城から岩殿城へ退避する時最初に宿泊したのが当寺で、尼であった理慶尼(信玄の従姉妹)が書いた記録が遺るとある。小山田の裏切りに遇い日川上流の天目山で自刃したが、日川が寺下を流れている。

 幕末には、新撰組近藤率いる甲陽鎮撫隊と板垣退助の新政府軍が当寺付近で交戦し近藤軍は惨敗したとある。いずれにも歴史に遺る事件だが、古刹自体は巻き込まれることはなかったのだ。境内に芭蕉句碑“勝沼や馬子はぶどうを喰ひながら”があったが、芭蕉を少し調べている私には疑問で、ネット情報では贋作ともある。
 勝沼氏館跡 寺前から旧甲州街道を歩き、勝沼氏館跡へ。街道裏と教わり進入すると、藁小屋が建ち、当時の家臣屋敷跡とある。中世の城跡で家屋の復元は珍しく、カメラに収めた。裏が鍛冶工房や木製品工房跡とある。その先に、濠と土塁に囲まれた立派な内郭が遺っていた。甲州市の資料によれば、15-16世紀の居館跡で、武田信虎の弟信友が拠点としていたようだ。内郭を巡り、土塁上を歩いた。隣を流れる日川が天然の要害であったろう。また旧甲州街道へ戻り本陣跡の案内を眺め、駅へと坂道を上がり続けるとシャトー勝沼前へ出た。ワイン工場で、ぶどうの丘は対面に見えるが近くはなく寄らないでそのまま駅へ歩いた。駅前には食事処はなく、ワインと菓子類を求め、ホームで上り電車を待った。(2019/11/23 K.K. 1296/1300)

◇日時 2019/11/04 ◇天候 晴 ◇交通費 2,760円 ◇資料 JR東日本「駅からハイキング勝沼ぶどう郷めぐり」2002年112頁 ◇歩数等 16,000歩 11km 
「通過時間等」自宅7:50-JR巣鴨駅8:25-同新宿駅9:02-同勝沼ぶどう郷駅10:45=大善寺11:25/11:40=勝沼氏館跡12:05/12:20=シャトー勝沼前12:35=JR勝沼ぶどう郷駅13:10-同高尾駅14:32-同新宿駅15:15-三田線巣鴨駅15:36-自宅16:05

一之江名主屋敷から今井渡し場跡へ

 久し振りに、「東京都の歴史散歩・上」(山川出版社)を本棚から取り出した。頁を括り江戸川区に、”一之江名主屋敷”を見付け興味が湧いた。同書には、巻末に散歩モデルコースがあり、そのコースを歩くことにし、その中の旧江戸川の今井渡し場跡も訪ねたい。都内も、千葉県境に近い江戸川は殆ど歩いたことがなく、土地勘もない。

 屋敷森中の名主邸 都営神保町駅で新宿線に乗り換え、最寄り駅瑞江駅に降りる。一之江駅ではなく瑞江駅からとはネットで調べた。初めての駅で、駅前案内図で名主屋敷へのルートを確かめ歩いたが、見付からない。地元の方に教えて貰い戻った。直前の森内は寺かと早合点し通り過ぎたが、名主家の屋敷森。思った以上に広いお屋敷で、大回りし長屋門前へ。立派な名主屋敷が現存し、都内では唯一という。田島家は元禄年間から一之江の名主を務め、母家は藁葺きの曲屋造り(写真上)で、安永年間の建築とある。台所では囲炉裏が燃え、茅葺き屋根保存には囲炉裏が必要のようで、柱や床は煤け黒光りしている。外へ出て屋敷森を巡り、外からも母屋を眺め、カメラに収めた。都23区内にもこんな屋敷が遺っているのだ。
 表の大通り渡った先が田島家が建立した城立寺。武家であった田島氏は関ヶ原の戦いの際西軍の敗勢を察し、当地へ逃れたらしい。それで現在まで続くのであるから歴史は分からない。現田島家住宅は名主屋敷の隣にあった。大通りを歩き続け、十字路の左手が大雲寺。歌舞伎役者が合葬されている寺で、江戸期から役者寺として有名とあるが、墓地へは回らず、本堂前で手を合わせUターン。

 今井の渡し場跡は市川市内 今井の渡し場へと方向を旧江戸川へ採った筈だが、道路標識は瑞江駅とあり90度違う。次の交差点で右折し住宅街へ至り、小路へ入って近道したら香取神社。境内には小さいが富士塚もある。簡単に頭を垂れ前の通りから旧江戸川堤防へ上がった。右に今井橋を見て、堤防を上下したが渡し場跡には出会えない。上流の樹林の間かなとも思ったが違うようだ。
 スマホを出し検索すると、対岸の市川市側にヒット。それではと今井橋を渡って市川市へ入り、堤防へ出るとジャスト案内板が立っていた(写真下)。江戸川は今でこそ堤防で仕切られ流れは一定しているが、一昔前は流れは変遷し、現在では痕跡もなく案内板だけか。当時は関所の役目もあり、江戸から出るのは自由だが入るのは制限され、千葉から駆け落ちした若い2人が処刑され、その塚跡の案内もある。
 今井の渡し場跡も探し当て、もう残るのは公園で史蹟ポイントはなく、今回の里歩きを終えることにし、都営新宿線瑞江駅へ向ける。今井橋を渡り返し、そのまま直進し新中川に架かる新今井橋先の左手に駅はあった。(2019/11/16 K.K. 1295/1300)

◇日時 2019/10/31 ◇天候 晴 ◇交通費 シルバーパス ◇資料 「東京都の歴史散歩・上」(山川出版社1992年)268頁 ◇歩数等 17,000歩 12km 
「通過時間等」自宅8:45-都営神保町駅9:25-同瑞江駅10:00=一之江名主屋敷10:20=城立寺10:45=大雲寺11:00=香取神社11:30=今井橋11:55=渡し場跡12:00=都営一之江駅12:35-三田線神保町駅13:05-自宅13:40

大雄山最乗寺を再訪し奥の院参拝をする

 最近山歩きは少なくなり、里歩きでも史跡や社寺巡りも多くなっている。加齢に加え、毎週コンスタントに歩く都合だろう。興味はそこそこあり、交通の便も良く、歩いても翌週へ持ち越す程ではない。小田急沿線から少し離れた南足柄にある大雄山最乗寺(04.5.23)を思い出し再訪することにし、最近ご無沙汰の花友へ声を掛けたらOKが出た。

 金太郎像が出迎え 10時小田原駅に待ち合わせ、同駅発大雄山線に乗車。私は二度目だがBさんは初乗車という。終点大雄山駅に降りると、駅前に金太郎が鉞担いで熊に跨る像がある(写真上)。バスで最乗寺へ。門前町から森の中の坂道を上がる。終点には土産店数軒あり、降りて歩き出す。早速参道石段が続く。深い山中に杉の古大木が並び、古刹、霊場の雰囲気十分。現在ではパワースポットというのだろう。2人でゆっくりと上がる。グループ一行はハイキングか。
 古刹はパワースポット 本寺は、曹洞宗に属し了庵慧明禅師開創以来600年の古刹で、修業道場でもあり、関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、堂塔30以上にも及ぶとある。先程来、ひしひしと霊気を感じているのは我々だけではないと思う。
 仁王門から更に石段を上がり続ける。記憶にある境内へ至り、グループとは別に右折し瑠璃門から書院前へ上がる。そして、本堂へ。堂内に入った参拝者もあり、我々も続いて参拝。広い本堂内は、300畳敷きとBさん暗算し教えてくれた。前回は確か読経の声が聞こえたと思うが、本日は静か。鐘楼や古池を右に見て、奥へ進み御真殿前で、朱の高下駄を見る。天狗用なら一本歯と思うが、此処のは二本歯で、カメラに収めた。

 奥の院石段に挑戦 奥の院の石段に挑戦。前回はUターンしたが、Bさんに背中を押された。50段程上がって、急な長い石段が目の前へ迫る(写真下)。150段位と読み、ゆっくりと一歩一歩踏みながら50段毎に休憩を入れる。追い越す方もいるが無視し、2度ではなく3度休み、200段を越して、奥の院。意外に質素で、小さな御堂でまた参拝。女坂はないかと探したが無く、石段を下る。上から覗く石段は急で怖い位。手すりに触れながら下り終えた。Bさんと境内端の沢沿いを歩く。てんぐのこみちとある。先日の大雨の影響は少ないようで、やや多目の流れか。それでも明神ヶ岳への登山口には、道崩れで閉鎖の貼り紙があった。紫陽花の案内があり、Bさん、来年のシーズンには友人達を案内したいと気に入ってくれたようだ。
 バス停へ下り、バスで大雄山駅に戻り駅前で乗り継ぎ、新松田駅から小田急で帰途に就いた。数日間脚に筋肉痛が残った。Bさんはどうだったろうか。(2019/11/11 K.K. 1294/1300)

◇日時 2019/10/26 ◇天候 曇り ◇資料 昭文社「山と高原地図 箱根」1994年 ◇歩数等 8,000歩 6km 
「通過時間等」自宅7:30-都営神保町駅8:10-小田急新宿駅8:27-大雄山線小田原駅10:12-同大雄山駅10:55-最乗寺前バス停11:05=最乗寺本堂11:25=奥の院11:45=最乗寺前バス停12:24-大雄山駅前12:45-小田急新松田駅13:07-都営新宿駅14:41-三田線神保町駅14:51-自宅15:30

のんびりではなかった奥武蔵入曽から入間へ

 私のホームコース奥武蔵ではめぼしいコースの大半は歩き、残りはアクセスの悪い山奥と思う。収集パンフ類を丹念にチェックし、入間・加治丘陵の入曽から入間、稲荷山公園を歩くコースを見付けた。入間付近は、奥武蔵も飯能の手前で、西武池袋線で通過している地域である。パンフには“のんびり散歩コース”とあり、気軽に出掛けた。

 入曽で二度躓く スタート地西武新宿線入曽駅は、所沢駅の先で、旧職場の先輩が新居を構えた時お邪魔して以来に降りた。50年も前のことで記憶にはなく、もう新興住宅地の面影もない。
 最初のコースポイントは七曲井だが、駅前通りを左折した先で、一本手前の大通りへ入ってしまい、新宿線踏切へ至り誤りに気付き、戻らないで右手先の不老川沿いに歩いて井戸跡に着いた。平安時代中頃の竪堀井戸跡という(写真上)。飲み水に不自由した武蔵野台地での先人達の苦労を示す史跡。カメラに収め、また踏切へ。隣の神社では秋祭りの準備中であった。踏切を渡り、茶畑もある住宅街を直進し続けるが、不老川河畔へは出ない。先か先かと行くも出会わない。地元の方に尋ねると、川は住宅街の裏と教えてくれた。大分北上した先に川が流れ、パンフ地図で確かめると、踏切直ぐに右折で、また誤っていた。現在地が不明だが、山勘で川沿いに東進する。右下は池かと思ったら公園で、先日の雨で遊具が水の中。次の交差点前に福祉センターがあり、やっとコースに乗った。

 入間基地、ジョンソンタウン コースは川の土手道で、荒れた踏み跡程度。土手は自衛隊入間基地飛行場のもの。川から離れ右折すると高台で、飛行場を一望できたが、飛行機は一機もない。先日の台風襲来で避難したのであろうか。この飛行場は見学したことがある。入間の研修所で全省庁の研修があり、その時見学し、軍用機の下でパイロット用装束を着けるチャンスもあった。
 入間市街方向へ左折し、学校地区で校庭での少年野球を眺めながら歩いていたら、次のポイントジョンソンタウンを過ぎてしまう処であった。少し戻り、右手へ入ると洋風住宅街。現入間基地は戦後米軍のジョンソン基地で、隊員居住地の名残らしい。大半はカフェやレストラン、雑貨店で、全て木造一階建て(写真下)。その間を歩く買い物客が多い。子供の頃隣町に米軍基地があり、2,3度訪ねたが、余りにも遠い昔のことで蘇らない。
 稲荷山公園から帰る 彩の森入間公園でメタセコイア並木を通り抜け、正門を出ると基地事務所庭には各種飛行機類が展示してある。大通りを右折し家政大学前を過ぎて、また踏切。直ぐ左手が稲荷山公園。奥武蔵ハイキングの帰途車窓から眺めていた。今回は、入口から覗いて普通の緑地公園と違わないと確かめ、踏切傍の稲荷山公園駅で池袋行きを待った。(2019/11/07 K.K. 1293/1300)

◇日時 2019/10/20 ◇天候 曇り ◇資料 西武鉄道「のんびり散歩入間・加治丘陵」2011年3月 ◇歩数等 23,000歩 17km 
「通過時間等」自宅8:30-JR巣鴨駅9:10-西武池袋駅9:20-同所沢駅9:53-同入曽駅10:05=七曲井10:20=福祉センター前11:05=西武池袋線踏切11:20=ジョンソンタウン11:40=彩の森入間公園11:50=稲荷山公園12:25=西武稲荷山公園駅12:35-JR池袋駅13:20-三田線巣鴨駅13:30-自宅14:00

小田急豪徳寺駅から世田谷線沿線を歩く

 小田急電鉄が設定する自然ふれあいの道から豪徳寺駅コースを歩くことにした。首都圏の私鉄各社は、沿線にハイキングコースを設定している。東武鉄道や西武鉄道はガイドブックも販売し、JR東日本も駅からハイキングコースを宣伝している。乗客増加策だろう。
 小田急豪徳寺駅に着き、駅でコースマップを貰った。ネットで検索も出来るが駅で入手出来る。今回は豪徳寺と世田谷城跡が主なポイントだが一度訪ねていている(01.3.24)。地図から近くに世田谷代官屋敷が現存すると知り、是非見学したい。

 世田谷八幡宮から コースガイドに従い、北口へ出て、東急世田谷線踏切を渡りユリの木公園を行く。見覚えのあるような並木だが思い出せない。左折し、小田急線高架下から住宅街になり乗泉寺別院前。境内のクスノキ大木を眺め、カメラに収める。世田谷線沿いに右折し世田谷八幡宮へ参拝。古社で、源義家が後三年の役の帰途立ち寄り、宇佐八幡から分霊し、世田谷城主吉良氏が社殿を再興したとある。力石や土俵もあり、江戸期から奉納相撲が盛んだという。
 豪徳寺、世田谷城跡は再訪 世田谷線を渡り直進すると豪徳寺の参道。松林の下から境内へ。二度目だがここも記憶が薄い。鐘楼や三重の塔を見上げながら本堂前へ。建て替えたようで新しい。軽く詣でて、井伊家の墓地へ。彦根の井伊家は当地にも領地があり、菩提寺とし、二代直孝や十三代直弼はじめ一族の石塔が並んでいる。奥の直弼の墓を確かめた。当寺は招き猫にも縁があり(写真上)、直孝が当寺付近で雨宿りをしていた時猫に招かれ歩いた途端先の場所に落雷があり、救われたとの話しの繋がりで、社務所でも販売していた。
 豪徳寺の直ぐ先が世田谷城跡で、こちらは記憶に一致した。土塁と濠跡が遺る。足利氏重臣吉良氏の治家の代、応永(1394-1428年)頃の築城らしい。その後北條氏の支配下となり小田原征伐で廃城になった。約200年の間当地を支配し、前回歩いた奥沢城を支城とし玉川神社(旧熊野神社)や満願寺も建立していることからも、往時の繁栄振りが窺える。もっと広い城郭の筈で遺構はどの部分か調べたが手許の資料では不明。土塁跡へ上がって手前を半周し城跡を出た

 世田谷代官屋敷は見学不可 最後は、世田谷代官屋敷で、商店街通りを歩き世田谷線を渡り返し、駅前交差点から天祖神社境内を抜けさせて貰うと、代官屋敷前で正門だ(写真下)が、現在工事中で、見学は出来ない。吉良氏の重臣であった大場氏は、世田谷城廃城後当地で帰農していたが、1633(寛永10)年、井伊家に代官に任命されたという。工事中の屋敷を柵越しに覗くと母屋の茅葺きの屋根が見える。世田谷の住宅街にはミスマッチだが屋敷森もあり堂々とし、歴史を感じさせる。なんとかアングルを探し、正門と母屋の屋根に向けシャッター切った。管理人が出て来て、年末のポロ市までは完成し公開すると、パンフを渡してくれた。是非機会を見付け見学したい。礼を言いバス停を探した。(2019/11/02 K.K. 1292/1300)        

◇日時 2019/10/15 ◇天候 曇り ◇資料 小田急電鉄「自然ふれあい歩道コースマップ 豪徳寺駅コース」2014年12月 ◇歩数等 12,000歩 9km 
「通過時間等」自宅13:00-神保町駅13:48-小田急新宿駅14:06-同豪徳寺駅14:25=乗泉寺別院14:40=世田谷八幡宮14:50=豪徳寺15:00=世田谷城跡15:20=世田谷代官屋敷15:35=世田谷区役所口バス停16:00-JR渋谷駅前16:31・・・三田線内幸町駅19:15-自宅20:00

芭蕉を辿り鶴岡を訪ね60年前を思い出す

 今回の帰郷は羽越線を経由し、鶴岡を訪ねることにした。最近はまっている俳聖の足跡を追うのが主目的だが、山形県五大市の中、鶴岡が未訪で残っていた。それでも、タキタロウの大鳥池や羽黒神社を訪ねた時鶴岡駅で乗降した。昨年湯殿山参拝ツアーでは市内に泊まったが、市内を歩くことはなかった。鶴岡ヶ城跡(96.4.30)を見学して以来23年振りである。

 句碑、滞在邸跡、乗船地 鶴岡駅に降り、芭蕉句碑のある山王日枝神社を目指す。駅正面通りの先右手、僅かな記憶の地にあった。本殿に詣で、境内外れの弁天島に、1889(元禄2)年6月10日当地で詠んだ“珍しや 山を出羽の 初なすび”の碑があった(写真上)。羽黒山から下山した感じだろうか。次は、芭蕉が3日間滞在した長山邸跡だが、目印の富樫ろうそく店を見付け、裏小路へ入る。寺の先に案内があり、小さな空き地が鶴岡藩士長山重行の屋敷跡で、入口石碑に芭蕉滞在の旨刻んであるらしいがもう読めない。カメラに写すと、奥にも句碑が建ち、先程と同じ句であった。小路を直進すると内川に突き当たり右の大泉橋袂に、芭蕉乗船の地跡とある(写真中)。ここから舟で赤川へ出て、酒田へ向かったのだ。これで、鶴岡での芭蕉足跡は区切りが付く。

 風間邸見学 風間邸を探す。この度市内地図を眺め初めて知った有形文化財。内川沿いを歩き右折すると風間邸で、門は大きくはない薬医門だが邸内は広く立派なもの。明治29年7代当主建築とあり、案内して貰う。風間家は、鶴岡藩の御用商人で貸金業も行い、庄内では本間様に次ぐ豪商で、また大地主であったという。昭和になって現荘内銀行へ引き継がれたと説明があった。少し離れた別邸の庭も見学した。

 鶴岡ホテルの思い出 鶴岡ホテルを訪ねる。風間邸受付で、現在営業はしていないが建物がありその場所を教えて貰った。内川へ戻って鶴園橋を渡り右折すると、見覚えのある木造建物があった。庭の位置も間違いなく、表には、鶴岡ホテルの看板もその儘(写真下)。
 約60年前県高校総体が当地で開催され、“明日は、宇部(インターハイ開催地)へ出て行くからは 何が何でも勝たねばならぬ 空に灯が付く鶴岡ホテル 俺の闘志がまた燃える”と、ここの2階で唱った。当時流行していた王将である。順当に勝ち上がり翌日準決勝、決勝戦。しかし、決勝戦の相手は強敵N校で、後半こちらのキャプテンとポイントゲッターの2人が5ファールしてしまい、突き放されてしまった。その思い出は強く残り、当時のメンバーが集まるとその話になったが、最近3年位は、集まる機会がなくなってしまった。ホテルをカメラに収めた。その後、藩校致道館を見学し、大宝館を眺め、城址公園本丸跡の荘内神社に参拝し、鶴岡市役所前でバスを待った。決戦した市体育館は、通り反対側の先にあったと知った。(2019/10/18 K.K. 1291/1300)

◇日時 2019/10/6 ◇天候 曇り ◇交通費 10,300 ◇資料 JR東日本「駅からハイキング75歴史と文化の城下町・鶴岡」2002年170頁 ◇歩数等 18,000歩 13km 
「通過時間等」自宅7:25-JR上野駅8:30-同新潟駅10:57-同鶴岡駅12:50=山王日枝神社13:10=長山邸跡13:20=大泉橋13:30=風間邸13:40/14:00=旧鶴岡ホテル14:10=致道館14:20=荘内神社14:35-JR鶴岡駅15:39-同余目駅16:02-同新庄駅17:22-同東根駅18:00=実家18:30

世田谷に九品仏、善養寺を訪ねる

 神奈川県境辺りに歩く先を思い巡らし、奥沢城跡を思い出した。一度訪ねた(99.9.4)が、同窓会講演会と重なり駆け足で、城跡遺構を確かめなかった悔いが残り、再訪したい。等々力渓谷先にある珍しい狛犬や大榧木のある善養寺にも寄りたい。弟を誘おうとして神奈川からも乗り入れている東急沿線を選んだが、結局1人で歩くことになった。

 九品仏と奥沢城跡 我が家から東急大井町線九品仏駅は遠くはなく1時間強である。三田線の日吉行きに乗り、大岡山駅で大井町線に乗り換えた。九品仏駅直ぐ裏手が、九品仏浄真寺。二度目だが記憶にない山門や鐘楼のある境内。都内世田谷とは思えない広さで、周囲を樹林が覆い武蔵野の名残であろう。左手の土手状の草むらが奥沢城の土塁跡で(写真上)、標識が示している。周囲を囲んでいたのであろうが、現在では僅かな痕跡である。
 奥沢城は、吉良氏が城主である世田谷城の支城として、1551(天文20)年築かれ、家臣大平出羽守が城主であったが、その後北條氏の支配下になり、秀吉の小田原征伐で廃城になったという。その跡に、江戸期になって1678(延宝6)年に創建されたのが浄真寺であるが、国宝や重文の建物類は見当たらない。奈良や京都の古刹とは年代違いなのだろうか。境内奥に上品堂を挟んで中品堂、下品堂が並び、各堂には三仏が祀られ、これで九品仏かと思いながら、三堂で手を合わせ、孫達の成長等をお願いした。

 裏手墓地の裏門は閉められ、また戻り境内外側を回って、奥沢住宅街を直進し、目黒通りへ出ると通りを挟んで玉川神社。ここも吉良氏が熊野神社から勧請したとある。次の満願寺も、吉良氏縁の古寺とあるが、改築のためかその雰囲気はない。
 狛犬と再会 大井町線等々力駅傍踏切から、今回は渓谷へは下りないで、等々力不動へ寄りまた参拝。境内を真っ直ぐに進み渓谷先へ出て、山勘で善養寺を探す。住宅街を右折、左折すると墓地があり、多摩川土手手前に高い樹も見える。坂を下って、表門から境内に入ると、独特の狛犬が迎えてくれた(写真下)。大榧も健在で聳えている。狛犬は犬には見えず、ネット情報では、「海駝(かいだ)の坐像」で、海駝は架空の神獣・・・世界でも5つしかない珍しいもののようだ。カメラに収めた。最後のポイント六所神社が見当たらず、野毛地区をウロウロ。善養寺裏の高台に鎮座していたが、由緒書きもない社で、簡単に頭を垂れ、また往路へ出て、等々力渓谷遊歩道を歩く。都内とは思えない渓谷で、薄暗い林の下散策者は多い。ここは数度目で、150回の時や花友を案内し、また500号紀行本祝賀会の折仲間達とも歩いた(09/11/7)。最近の雨の所為か流れは多く、綺麗ではない。
 渓谷を出て、等々力駅近くの往きに出会ったバス停で、東京駅南口往きバスを待つ。バスは直ぐ来て、目黒通りを都心へ走った。(2019/10/21 K.K. 1290/1300)

◇日時 2019/10/3 ◇天候 曇り ◇資料 中山権四郎「城跡ハイキング 奥沢城」平成7年146頁 ◇歩数等 15,000歩 11km 
「通過時間等」自宅9:40-東急大岡山駅10:59-同九品仏駅11:05=九品仏浄真寺11:10/11:35=玉川神社11:50=満願寺12:05=等々力不動12:25=善養寺12:40=六所神社13:05=等々力渓谷13:20=等々力バス停13:30-三田線目黒駅14:08-自宅15:00