湖西線から北陸本線へ 初めての湖西線乗車に戸惑ったが、予定時間に近江塩津駅に着いて、北陸本線を待った。琵琶湖の奥地には既に雪があった。雪囲いした穴蔵のような駅待合室、外は雪で、真冬状態。北陸本線を余呉駅で降りた。目の前に余呉湖が広がっている。近江と北陸の境で、戦国末期には秀吉と柴田勝家が覇権を争って激突した地である。道路には僅かだが雪が残っている。山中を行くハイキングコースを避けて、湖沿いに歩いて国民宿舎先から賤ヶ岳へ登ろうと考えていた。
賤ヶ岳の戦い 1583(天正11)年2月、一触即発であった秀吉と勝家がこの地で対峙した。4月になって、秀吉が岐阜の織田信孝牽制のため転戦した隙に、勝家側が仕掛けて先制した。この報に接した秀吉は当日深夜までに大移動を敢行して帰陣したという。中国大返しの再現であろう。その後は前田利家の撤退等もあって、北の庄城が落城し勝家がお市の方と果て、一方秀吉は天下統一の途へと進んだことは知られている。秀吉小姓加藤や福島達の七本槍も有名になった。
余呉湖から山中へ 余呉湖畔に立つと、湖面は鏡のように静に水を湛えていた。約400年前もの激戦は疾うに忘れ去られていた。雪にもめげずに数人の釣り人が糸を垂れている。お互い様である。少し歩くと、賤ヶ岳遊歩道入口に出合い、思わず自然に山中へと進入してしまった。荒れた階段に少し難渋したが、想定どおり程なく尾根道へと合流した。広い林道から狭い山道となる。大岩山で、中川清秀の墓に立ち寄る。立派な大きな墓である。秀吉の部将の一人であったが前哨戦で戦死したという。コース案内板があるが距離表示が区々で当てにならない。展望のない山林の中、首洗い池や猿が馬場を通過して、いよいよ主戦場が近くなる。人声が聞こえ始めて、三人の女性ハイカーに追い付く。何処も中高年ご婦人達は元気一杯。ようやく木立の間に湖面がちらちらと見え始めた。
賤ヶ岳 賤ヶ岳への最後の上りとなる。落葉の絨毯を一歩一歩踏みしめながら、山頂を目指す。最近は平地ハイクが殆どで、息が切れそうだ。頂上(421 m)からは、紅葉が終えた山間に余呉湖が広がり、眼下の湖水の眺めはすばらしいものであった。一画には屈んでいる一人の武将像があった。戦いに疲れて睡眠をむさぼる秀吉という。展望台には単身の先客がいた。
塩津駅で求めたお握りで昼食。一口の握り飯では物足りなくお茶を流し込んだ。反対側へと下り始めると、琵琶湖の北端が見えた。こちらも晩秋から初冬の大湖であった。リフトは休業期間に入っていて、狭く急な悪路を下り続けて、北陸線木ノ本駅へと出たが、結構距離があって、到着したのは予定電車の発車5分前であった。(08/12/7 121)
追 記 賤ケ岳は、琵琶湖と余呉湖の間にある低山で,100低名山である。最寄り駅は北陸本線余呉駅で、私は、湖西線から北陸本線へ乗り、下山後は米原駅へ出て、琵琶湖を半周以上してしまった。湖西線はその後の乗車はない。賤ケ岳は、前掲記録にもあるように、戦国末期の秀吉と勝家の決戦の場として有名な地である。

