県境・境の明神から白河宗祇戻しへ

 先月から奥の細道で訪ね残している地を歩いている。南東北では、福島や宮城の交通アクセスが不便な地が残っている。今回は福島南部を虫食い的に歩く予定。

 陸奥は境の明神から 芭蕉は、白河の関を越え陸奥へ踏み出したと思っていたが、その前に下野から、白河にある境の明神を訪ねて陸奥へ入ったという。1689(元禄2)年4月20日(陽暦6月7日)のことである。境の明神へはJR東北線白坂駅から約3kmの地と分かり、歩くことにした。順調に歩き、奥州街道へ出たと思い十字路も直進したが、予定の時間になるも白坂の集落は見えない。十字路へ戻って左折すると奥州街道で白坂であった。

 帰りのバスには間に合わずバスは諦め、見学優先にする。更に20分先が県境で、境の明神様が鎮座していた(写真上)。本殿に参拝し、句碑を眺める。やはり風雪に晒された句碑は読めない。1番立派なのが芭蕉のもので、“風流の はじめや 奥の田植え唄”と刻まれているという。県境を越し、下野側の神社にも手を合わせた。
 車で送って貰う 白坂は奥州街道の宿場として栄え、道路の両側に旅籠の屋号が遺り、また本陣跡の案内もあったが、この明神様付近にも旅籠があったようでその名残が窺える。衣替え清水や馬洗い池を見て、白坂へ戻る。偶々出会ったご婦人に教えて貰い、タクシーを呼ぼうとしたが繋がらない。そんな窮状を見かねたのかご婦人が車で送ってくれるという。本当に渡りに船で、白坂駅へ車で送って貰った。感謝に余りある。ご主人作成の白坂宿資料も戴いた。

 宗祇戻しへ 白河駅に降り、白河市内にある宗祇戻しを訪ねた。室町時代の連歌師飯尾宗祇が連歌興行に参加するため白河に着き、通りがかりの婦人に蓮歌興行のことを訊くともう終わったというので、戯れにその婦人が持つ綿を見て、“その綿は売るか”と尋ねたら、婦人が見事な和歌で返したため宗祇は驚き、旅の途中であったが京へ戻ったという逸話のある地であるが、芭蕉達は寄ってはいない。市内外れの三叉路に石碑が三つ程あり(写真下)、芭蕉句碑“早苗にも 我色黒き 日数哉”もあった。芭蕉150回忌に地元の俳人が建立したとある。隣の和菓子屋で、記念に宗祇戻しの塩羊羹を求めた
 安積山公園往復 4月29日(陽暦6月16日)須賀川を発った芭蕉達は、乙字の滝を経由し郡山に泊まり、翌日奥州街道を北上し、安積山に寄っている。万葉集にも詠まれた歌枕の地である。私は、電車を日和田駅に降り、現安積山公園へ歩いた。奥州街道は日和田地区の中心に残り、緩い坂を上がると、松の木が見え旧街道の並松。公園はその先で、丘の北側に芭蕉の小径と石碑があった。文学碑で、碑文は奥の細道の引用らしいが、もう読めない。丘上で休憩。松が多く、間に見える高峰は安達太良山だろうか。郡山駅から新幹線で帰京し、夕方には帰宅できた。白坂で車で送って戴いた方のお陰である。改めてお礼を申し上げたい。(2020/10/30 K.K. 1356/1400)

◇日時 2020/10/5 ◇天候 曇り ◇交通費 JR東日本パス+910円 ◇歩行距離等 17km 24,000歩 ◇資料 「新白河羅針盤」、白坂宿顕彰碑実行委員会「奥州道中白坂宿」「通過時間等」自宅6:50-JR上野駅7:50-同新白河駅9:52-同白坂駅9:57=境の明神11:05=白坂11:30-JR白坂駅11:44-同白河駅12:20-宗祇戻し12:30-JR白河駅13:01-同日和田駅13:50=安積山公園14:05=JR日和田駅15:00-同郡山駅15:38-同上野駅16:57-三田線巣鴨駅17:15-自宅17:45