秩父長瀞花の里にハナビシソウを観賞する

 久しぶりに秩父鉄道に乗った。本日は長瀞に咲いているハナビシソウを訪ねたい。秩父は私のハイキング先だが、花の鑑賞も多い。ムクゲの花は皆野であった(16.8.18)。桔梗やオミナエシも長瀞近くの寺であり(18.8.15)、初めてのポピーも東秩父高原で観て感激した(19.6.2)。小鹿野ダリア園は昨年のことであった(23.10.5)。そして、今回はハナビシソウが満開と知った。

 ハナビシソウそして宝登山 寄居駅で、東上線から秩父鉄道に乗り換えた。長瀞は近く20分程で着き、駅前案内所で情報を得る。花の里は宝登山神社参道から左へ入った地で、徒歩10分という。もう人出があり、前後になりながら坂を上がり、花の里入口に着くと、前方に濃い黄色の花畑が広がっている。入園料を支払い、カメラを出し遊歩道を歩き出す。黄色否、橙色の原色の花々が咲き誇り、天へ向けて花びらを開き、初夏を告げているよう。ハナビシソウは北米原産で明治期渡来した洋花で、花びらの形が家紋花菱に似ていることからのネーミングらしい。

ゆっくりと進む。10枚前後の畑の最高部に至り、見下ろす。橙色の花に混じり白や赤色もあり、アクセントを添えている。奥の山が1500回を達成した宝登山(23.2.24)と分かり、ハナビシソウ畑のバックに入れたアングルとし、2,3度シャッターを切った。またハナビシソウの花々に目を移した。隣の旧新井家住宅へ寄る。一度見学したことを思い出し、古民家に近付いて少し記憶が蘇った(97.3.29)。当地の名主を務めた養蚕農家の古民家で、280年前建築(推定)とある。屋根が板葺きで、それも雨に強い栗板という。確かに、大きさや部屋数等からも普通の農家ではない。

 宝登山神社参拝 宝登山参道へ戻り、坂道を上がり続け、宝登山神社へ。急な石段を上がり、本殿前へ出て参拝。孫達の成長とともに、就活の成就もお願いした。当社は初めてではなく、宝登山山頂下の奥社も詣でたことがあり、1500回の際も手を合わせた。秩父鉄道長瀞駅に戻り、待ち時間に軽い昼食。寄居駅で東武東上線に乗り換えると、なんと森林公園駅行き。すべて小川町駅行きと思っていたが、例外があり、森林公園駅で乗り継ぎもスムーズであった。(2024/6/27 K.K.1562)

◇日時 2024/6/1 ◇天候 晴  ◇交通費 2,620円 ◇資料 長瀞観光協会 「長瀞見どころマップ」2024.3 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞   「通過時間等」 自宅8:10-東武成増駅8:50-秩父鉄道寄居駅10:35-同長瀞駅10:55=花の里11:05=旧新井家住宅11:35=宝登山神社11:45=秩父鉄道長瀞駅12:27-東武寄居駅12:47-同成増駅14:18-自宅14:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「茨城日立に遠出し太平洋を一望した風神山」

 常磐線を利用し、日立大甕(オオミカ)から風神山(242m)へ出掛けた。首都圏を広く歩いているが、その中でも茨城県は少ない。手許の資料から太平洋を眺める山として、茨城県にある風陣山を見付け、ハイキング先候補として久しかった。この度ようやく実行に移した。

 常磐線大甕駅へ 上野駅から乗った特急が水戸から勝田を過ぎると、左手に山が見え始めたが、意外に低くなだらかなである。大甕駅に降りスタート。常磐線陸橋を渡ると、橋上から山中に白い大きな建物が見え、日立の研究所。当地は日立市の手前だが企業城下町と呼ばれる地域内。
 大甕神社へ立ち寄り、ご挨拶と安全をお願いする。複雑に道路が交差しているが、山への案内標識は見当たらない。その度資料を確かめながら進むも、研究所手前で直進したが違うようで戻り、研究所守衛室で教えて貰う。入口の自動販売機で水を求めた。広い研究所敷地を出て風神橋を過ぎるとコースに乗り、林の中の直線の道。ここにも標識はない。ゴミ投棄禁止の看板が矢鱈に多い。

 ようやく風神山へ 少々訝りながらも直線的に上がり続ける。緩やかな坂道で歩きやすいが、似たような林の中の林道が続き、時折車も通る道。そして、二俣地点に至り、初めて風神山自然公園の案内に出会い、ほっとして右折すると直ぐ、風神山風の広場。太平洋に面し数人のハイカーが休憩している。私も、風を感じながら、海を一望し、シャッターを切った。奥へ入ると、神の広場と山の広場。神の広場が最高地点(242m)で三角点があり、風神、雷神の碑があった。山の広場は、全く展望のない林に囲まれた地で、ベンチがあるだけ。スダジイやアカガシ、タブの常緑樹が中心のようだ。広場を覗いてUターンし、再び風の広場で大海を眺めながら大休憩。方位盤があり、何故か知床半島まで記載されていて、笑ってしまった。

 下山を大甕神社に報告 下山は、往路を下り、また研究所の間を抜け、大甕神社へ下山を報告し、反対側へ出て大通りを歩き、駅へ戻った。風神橋傍で咲き誇る黄花をカメラに収め、帰宅後先日贈呈された図鑑で調べると紅輪花と分かった。商店街でも電気店は日立のお膝元を示していた。予想よりは簡単な低山で、私にはピッタリだが、やや物足りない感じも残った。駅で、四季の花で有名な国営ひたち海浜公園の資料を得ようとしたがなかった。(2014/9/14 32/100)

追伸 風神山は茨城の奥で低山だが、太平洋を眺めた山として思い出の山となった。天候にも恵まれた。海を一望した山は少ない。最寄り駅が常磐線大甕駅で、読めなかった。オオミカエキと知った。コースの途中の山麓に日立の研究所があり、同社発祥の地のシンボルであろう。その後は、常磐線で日立付近を通過する際、車窓から眺めるだけとなってしまった。

都電荒川沿線にバラを巡り歩く

 ネモフィラ、ポピーに続いて、バラが咲く散策路情報を得た。5月も半ば過ぎ初夏である。都電荒川線の荒川区役所前駅付近という。走る車内から眺めるのも良いだろし、降りて線路沿いを歩きながら愛でるのも良いだろう。バラの花は多種様々で美しくも、綺麗だ。都電荒川線は三田線西巣鴨駅から歩けば、我が家からも近い。

 ぽつんぽつんと咲くバラ 西巣鴨駅から歩いて都電新庚申塚駅で、荒川線に乗車。最近は上りの電車が殆どで、下りは久しぶり。王子駅を過ぎて、荒川遊園地前では、入口に咲くバラがちらっと見えたが、車内からは見えにくいし、立つ乗客も多い。荒川区役所前駅に着き、歩きながら眺めるバラに期待して、下車。処が、咲いているバラは踏切付近である。それも多くはない。この辺りでは、住宅の軒下を都電が走っている。

 バラが咲く荒川2丁目駅 3度程踏切を過ぎると、線路脇に遊歩道らしき道があり、バラの花が咲いている。紅が多いが、白やピンク、黄色の花も咲いている。線路際に無理に造った狭いバラ園で、連続性はない。そんな花々にカメラを向けながら2丁目駅に近付いた。スペースがあるため、様々なバラの花が咲き、裏手の塀にも吊るされている。ここで都電を待って走る都電を入れて、バラの花を撮ろうと思う。私の好きなテレビ番組に、鉄道写真家中井精也の鉄旅があり、彼が良く狙うポイントで、列車を待つのである。ローカル線とは違い7分前後で都電は走っている。想定通りに電車はやって来て、バラの花を入れてシャッターを切ったがどうだろう。右上が荒川自然公園で、遊歩道はお終いとなり、エレベーターで公園へ上がった。

 荒川自然公園へ 園内の一画は、満開の躑躅で埋め尽くされている。カメラを構えながら、ここからスカイツリーを眺めたことを思い出した。池にはアヤメや蓮も咲いている。荒川沿線へ戻ろうとしたが、これが大苦戦。三河島水再生センター大規模施設を高架橋で渡ったが、出た先が京成本線の下、尋ねて荒川線町屋駅へ歩いた。荒川線も左へ90度近く左折していて、距離があった。また沿線歩きを再開したが、商店街でバラは期待できない。舎人ライナーと交差する熊野前駅迄歩こうと決め、歩き続けた。(2024/6/19 K.K.1561)

◇日時 2024/5/25 ◇天候 晴  ◇交通費 シルバーパス ◇資料 昭文社「東京都市図24」2004.4 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞                                              「通過時間等」 自宅8:30-荒川線新庚申塚駅9:10-同荒川区役所前駅9:45=同荒川二丁目駅9:55=荒川自然公園10:05=荒川線町屋駅10:30=同熊野前駅11:00-三田線西巣鴨駅11:30-自宅12:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「袋田の滝を眺め、月居山に登る」

 水戸駅で水郡線に乗り換えた。帰郷時郡山駅通過の際に良く聞いたローカル線ではあるが乗車は始めて。水戸市郊外を過ぎると田園地帯となり、程なく三両編成の列車は山間を走り、久慈川と右となったり左になったりして進んだ。本日は連休後半の初日、袋田の滝見物に遠出した。小生同様の行楽客で車内は混んでいる。水戸から約1時間で袋田駅に到着し、スタート。下車した客は多かったが歩きは小生のみ。
 駅前から踏切を渡り久慈川を見下ろしながら案内表示に従い滝を目指す。袋田温泉を通過し山方向へ左折。資料で見た月居山が前方に現れた。双耳峰である。道路の両側に土産物店や食堂が連なり、滝が近いことを知る。観瀑台が設けられていて利用料を支払い、トンネルを抜けると、一挙滝正面へ出た。見事な大滝である。

 名瀑に感動 高さもあるが幅もあり、それも川一面に白布を広げたように流れ落ちている。これまで観た滝は、高さはあったが細長い流れのものが殆どであったと思う。落差といい流域面といい、水量も豊富で規模が違う。豪快さの中に玉簾状の美しさも備えた名瀑に間違いない。
 往時、西行法師は、花紅葉よこたてにして山姫の錦織り出す袋田の滝と詠んだという。特に秋の紅葉の時期が絶賛される。既に約40年前にこの滝見物を薦めた方がいた。ようやく実行でき、その素晴らしさを味わった。吊り橋から眺めた滝もまた良かった。ここでもカメラに収めて月居山へと上がった。

 月居山(ツキオレサン)へ 資料によれば、山頂までは200mの高度差とある。このため下りを避けて滝見物を先にしたのだ。本当かなと疑いながら鉄製の階段に挑戦。男女のペアと前後になりながら一歩一歩上がる。女性はなんとハイヒール。途中、生瀬の滝見物に往復。上流に小さな滝を確認した。小休止を繰り返して再び急な階段を上り続ける。2,3度は頂上かなと思ったが小ピークであった。時々右手に展望が開けて、先程は生瀬富士の岩峰が見えた。その奥に広がる山々はもう福島県域だろう。本当の頂き(404m)を越した地のベンチで休憩。40分を要したから約200mは確かだろう(登山では1時間約300mと計算。)。ペアも上がって来た。おばあさんが孫を追って来てしまったらしい。道を尋ねられたが地図でしか教えられない。

 城址に出会う 反対側へ下山開始。観音堂から峠に下りると光明寺跡。また山道に取り付き僅かな上りで広場に飛び出した。月居城跡であった。常陸佐竹氏の一族袋田氏の居城であったが関ヶ原戦後佐竹氏秋田移封に伴い廃城。時代が下がって幕末には水戸の天狗党が一時拠ったという。土塁跡に僅かな痕跡があった。戻った山間の鞍部月居峠が水戸天狗党とその追討軍が戦闘を繰り広げた地とある。山道から林道、里道となり袋田温泉前で、往きのコースに合流した。水戸行きを待つ袋田駅のホームは寅さん映画の冒頭シーンのような風景であった。
 数日後、長男家族一行が車で袋田の滝見物に出掛けたと聞いた。小生の土産話に刺激されたらしい。皆の感想が小生と同じく、見事な滝、名瀑であったと言い満足したようであった。(2007/5/3 31/100)

追記 初めての水郡線乗車であった。久慈川を遡り山間の袋田に着き、滝を訪ね、高さ、幅、そして水量に圧倒された。その後、山に取り付き、月居山を越して、城址であった。あれ以来、水郡線の水戸、郡山間は2度だけ往復している。本当に山中を走る路線であった。支線で常陸太田駅へ行き、黄門様の西山荘を訪ねた(10.6.27)が、大分昔のこととなった。下の写真は、この度古いUSBに見付けた。奥の高い山が月居山だろう。

都内上野界隈に社寺を巡り歩く

 下谷神社を知った。調べると未訪の神社で、都内台東区にあり、上野駅や上野公園が近いようだ。最近巡っている東照宮は上野公園にもある。先々月、日暮里から言問通りを歩いて不忍池へ出た時、寛永寺へは寄れなかった。これらの社寺を巡り歩こうと思う。しかし、この度歩いて三度も道や方向を誤り、大分余計に歩いてしまった。最近時折あることで、年齢の所為だろうか。

 下谷神社に参拝 大江戸線新御徒町駅に降り、下谷神社を目指した。少し歩いて反対の方向へ歩いていると気付きUターン。地上へ出る際方向を失い逆へ進んだようで、深い地下鉄駅ではあること。下谷神社へ向け左折したが、神社は見当たらない。途中で尋ねると路地が一本違い、裏から回って、境内に入り本殿前で参拝。孫二人が就活中で、力添えをお願いした。奈良時代創建の都内最古の神社とある。社も門も古社らしいもの(写真上)。稲荷神社で、地下鉄銀座線稲荷町駅は当社に由来すると知る。江戸中期に寄席落語を興行し、その発祥の地という。

 上野駅から上野東照宮へ 正面へ出ると浅草通りで、上野駅へ左折。右手が台東区役所だが、この辺りは初めての地で、上野駅は直ぐであった。正面から駅を眺めたことはなく、大きな駅舎である。上野駅前商店街は左手御徒町寄りだが、駅前には商店街はないのだ。駅の屋上へ出て、上野公園へ。東照宮を探すが公園は広く、森の下を歩いていたら、芸大前通りが見えて、また戻る。動物園の左隣の奥が東照宮であった。立派な大きな社殿で(写真中)、津藩主藤堂高虎が1627(寛永4)年自分の屋敷内に創建し、日光、久能山に次ぐ東照宮のようだ。大分前境内の庭園で寒牡丹を観賞した際、詣でたと思う。また手を合わせた。参道の大灯籠が凄い(写真下)。大名達が寄進したもので、50基程が参道両側に並んでいる。隣に五重塔が聳え、旧寛永寺のもので、東照宮共に幕末の上野戦争や震災、先の大戦でも被害から免れたという。

 寛永寺へ 上野公園裏手の寛永寺へ歩く。公園内は林が繁り日射しは少ない。芸大前通りを渡り、国立博物館を回り込み霊園を右に見て、寛永寺へ。1625(寛永2)年徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願し、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の山に天海大僧正等によって建立されたという。しかし、上野戦争で燃失してしまい、現存寛永寺は再建の根本中堂である。境内へ入ると改装工事中で、テントで覆われ、こちらも2度目と思い、軽く会釈して、言問通りへ出た。バスの便はなく、JR鶯谷駅へ向かったが、鉄橋手前で近道をしようとしたら道は行き止まりとなり、大回りして鉄橋を渡り、鶯谷駅を探した。(2024/6/11 K.K.1560)

◇日時 2024/5/22 ◇天候 晴  ◇交通費 170円 ◇資料 「上野周辺お散歩マップ」 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞                                              「通過時間等」 自宅8:25-大江戸線春日駅9:10-同新御徒町駅9:25=下谷神社9:55=上野駅10:05=上野東照宮10:30=寛永寺11:05=JR鶯谷駅11:45-三田線巣鴨駅12:00-自宅12:30

松戸江戸川フラワーラインにポピーを観賞する

 隣県の千葉松戸市にポピーが咲いているとの情報を得た。ポピーの花は、東秩父で初めて観て好みの洋花となった(19.5.26)。その後も、鴻巣荒川のポピー畑を巡った(22.5.12)。咲き揃う大きな原色の花々が良い。松戸は、日暮里駅から常磐線一本で、江戸川を渡れば直ぐである。天気予報で、雨は避けたが、見頃の時期を選ぶことは難しく、昨日が春の花祭りで、それなりに咲く花に期待する外はない。

 江戸川堤を歩く 松戸は本当に近かった。駅西口に降り、大通りの突き当りが江戸川堤。当地は2,3度歩いているが、久しぶりである。旧水戸街道を渡って、江戸川堤防へ上がり、左岸を遡る。フラワーラインは少し上流の葛飾橋付近のようだ。本日は日曜日で、ジョガーや散策者が上下している。ようやく前方に橋が見え始めた。大河の流れは中央で、時々見えるだけ。この風景は初めてではないなと思いを巡らすと、この江戸川河川敷に野球場があり、若い頃から夏に度々通い、一度常磐線金町駅から右岸を遡上したことがあった。その記憶かもしれない。

 ポピー畑を巡る 河川敷に花のように見える草木はススキの穂らしい。そして赤い花々が咲くエリア、江戸川フラワーラインが近づいた。河川敷へ降りようとしたが、道は無くなり草原の間を抜け、橋下へ出た。前方に赤い花々が咲き広がっている。カメラを出し、花畑の間を巡る。濃い赤が中心だが、ピンクや白も交じる。そして、黒っぽい赤の花もある。原色の大きめの花、花びらが良い。満開時を少し過ぎたようだがそれも良い。畑の間を歩き、選んではシャッターを押した。ポピー栽培のボランティアの方々に感謝しながら、10枚前後の畑を巡り終えた。隣にススキや野草のエンドウの花も見付かり、カメラに収めた。ポピーの花々にほぼ満足し、堤上へ戻り、左岸を下る。
 往きに、川の一里塚に出会い確かめたいと探したが史跡ではなく、現在の川の施設の目印らしい。最後に、松戸市内へ入り掛けたが、戸上邸(旧水戸藩主別邸)へは距離があり、松戸神社はその手前で駅へ左折してしまったようだ。また、常磐線で江戸川を渡り、都内へ戻った。(2024/6/2 K.K.1559)

◇日時 2024/5/12 ◇天候 晴 ◇交通費 640円 ◇資料 松戸市観光協会「松戸旧跡案内MAP」 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 「通過時間等」 自宅7:40-JR巣鴨駅8:12-同日暮里駅8:28-同松戸駅8:55=江戸川堤9:10=江戸川フラワーラインポピー畑9:25/9:55=JR松戸駅10:40-同日暮里駅11:05-三田線巣鴨駅11:20-自宅11:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「筑波連山縦走し加波山を越したが、途中下山する」

 今年のかぼちゃ会旅行先・茨城県八郷町は筑波山の裏に当たり、集合前にJR水戸線岩瀬駅から八郷町国民宿舎「つくばね」まで歩く計画を立てた。資料(杉野智英「雨引山から筑波山」新ハイキング誌2000年2月号)によれば、低山ではあるが6つのピークを越え、7時間以上を要すると予想され、健脚者向きである。完歩は無理と考え、途中リタイアに備えて、かぼちゃ会メンバーにコース後半の峠で、車での収容をお願いした。このコースは関東ふれあいの道でもある。同僚Kさんの実家が筑波山近くの真壁町にあり、山歩きを始めた頃、実家のお父さんに戴いた資料で関東ふれあいの道の全容を知ったのだった。

 岩瀬駅から雨引山 小山駅で乗り換え岩瀬駅に降りて歩き始める。水戸線の踏切を渡ると山道となり、不動ノ滝、御嶽神社から山中に入る。長丁場を意識してゆっくりと進む。一度林道に出て階段を上り詰めた頂が雨引山(409m)。四阿があり数人の高年ハイカーが休憩していた。木立の間から双耳峰の筑波山が見えた。まだ遙か彼方である。小憩して水を補給した。

 雨引山から燕山 雨引観音へ下る道を分けて竹の多い尾根道を順調に進む。右下の町並みは真壁町だろうか。筑波山も時々望まれるがその前に高い山が行く手を阻んでいる。随所に道標があり、「燕山へ3.1km」地点先から急な上りになる。設けられた階段は先々週の石砂山とは違い小生にも合う幅だが、勾配がきつい上に4ヶ所も続き、階段が土砂で埋まってしまった急坂は立ち木に捕まって這い上がった。予定した12時丁度に燕山(701m)頂上に着いたが、急登の連続には参ってしまった。思わず腰を下ろして休憩する。飛んできた原色の蝶をカメラに収めようとしたが逃げられてしまった。

 燕山から加波山 山頂から直ぐ広い道路に出て、加波山神社に到着する。軽く参拝した後、頂上を目指す。加波山直下は一転しては狭い上に岩場の険しい道。岩の上や岩の間に祠が次々と現れいずれが奥宮か分からないほど。同山は明治初期に起きた自由民権運動の一つ加波山事件で知られる。頂上(709m)の社では、数人のハイカーが昼食を楽しんでいた。

 加波山から一本杉峠 加波山事件の象徴「旗立石」先からは笹藪となりコースが分からないほど道が薄くなる。長い急降下する階段を下りると立派な林道に出た。下り口の道標でコースを外れていないことを確かめる。舗道歩きを避けて再度山道に入り山中から飛び出た所が一本杉峠だった。人影もなく寂しい峠の一本杉下のベンチで、遅めの昼食を取った。
 コースはこの先、足尾山(627m)、きのこ山(508m)を越えて上曽峠、湯袋峠(筑波連山縦走のみち(2))と続くが、意外な難コースに気力が萎えて、さらに二山を越える元気はなく、時間も予定より遅れてしまい八郷町に下ることにした。予定したコースの半分を歩いただけとなってしまった。峠から最初の集落大塚を経て柿岡上宿まで約3時間歩き、かぼちゃ会Yさんの車に拾って貰って、今晩の宿「つくばね」に向かった。(200/4/ 1 30/100)

追記 当コースは、関東ふれあいの道茨城県7、8、9ではあるが筑波連山といわれ長いコースで、事前に調べてそれなりに歩いたが、やっぱり途中で断念した。加波山は、筑波山に次ぐ高さであった。「日本100低名山を歩く」登載の山である(同書86頁)。アクセスが水戸線岩瀬駅からで簡単ではなく、その後のチャレンジはない。筑波山の真裏を下ったり、上がったりもない。山頂から眺めると急降下に見えた

都下府中に東照宮、国府八幡、東郷寺を巡る

 都下府中にある東照宮は知っていたが、お参りしたことはない。処が、今年の1月船橋で東照宮に詣でる機会があり、調べると東照宮は関東周辺を中心として、そっちこっちにあると分かった。神君が崇められているのであろう。私も、日光の外、久能山、川越、群馬世良田、芝、そして上野にもあり、序に手を合わせたことはあった。それが、私の歩く先に加えることにし、まずは府中東照宮からである。

 府中東照宮は 京王線を府中駅に降り、右手の大國魂神社の参道へ出るとお祭りの準備中で、両側に、出店用テントが張られている。5月5日は当社の例祭という。府中東照宮は、大國魂神社の裏手にある。旧甲州街道を渡り、参道正面から境内に入るとお祭りの直前でもう賑わい始めている。私は、大國魂神社本殿に挨拶し、隣の東照宮へ。三つ葉葵紋があるが、閉社中で(写真上)、残念だが外から初めて参拝し、カメラに収めた。久能山から日光への遷座の途中に一夜過ごした社とある。奥の銀杏のご神木を眺めた。

 国府八幡宮へ 境内を出て、旧甲州街道へ右折し案内所で、国府八幡宮への道順を教えて貰い、大通りを行く。各町内会の祭りの山車準備中で、大太鼓もある。右折地点が一本手前であったようで、京王競馬場線踏切を渡り、住宅街を抜けると裏手が境内林で、中心に八幡宮があった。こちらも社殿内へは入れず、手前で手を合わせ、頭を垂れた。木造のシンプルで小さな社。奈良時代創建の古社であることは間違いない。林中のベンチで休憩し、一息入れた。広い境内の奥はトラックの駐車場のようだ。

 東郷寺山門を眺める 参道を旧甲州街道へ出て、京王線東府中駅を探す。最後は多磨霊園駅近くにある東郷寺。先日、徳光アナの寄り道バス旅の放映で知った。多磨霊園駅迄一駅乗車し、右手へ歩き出す。坂上から富士が見えたがシャッターチャンスはなかった。想定の地に寺院があり、山門を眺める(写真下)。大きめの門で、映画羅生門にも登場したと、徳光アナが紹介した。なるほどと思いながらカメラに収めた。急な石段を上がり、墓苑の端から富士を探したがもう雲の裏であった。当地は海軍大将東郷平八郎の別荘地であったという。同じ道を多磨霊園駅に戻り、帰途に就いた。(2024/5/24 K.K.1558)

◇日時 2024/5/5 ◇天候 晴  ◇資料 昭文社「東京都市図108」2004年4月 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 「通過時間等」 自宅7:40-都営線神保町8:29-京王線府中駅9:10=大國魂神社・東照宮9:20=国府八幡宮10:10=京王線東府中駅10:31-同多磨霊園駅10:40=東郷寺10:50=京王線多磨霊園駅11:12-三田線神保町駅12:10-自宅12:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「筑波山・筑波山神社初詣ハイキング」

 筑波山登山 1996年最初の山歩きとして、昨年同様、筑波山にする。案内役は今年もKさんにお願いし、今回は、KYくん、S夫妻、KNさんが加わり、一行6人、常磐線取手駅に集合。途中、電車の車窓から左手奥に筑波山が見えた。Kさんのワゴン車で筑波山下の駐車場着。
 早速、筑波山神社に詣で、山歩きの無事等をお願いする。コースは昨年と同じ御幸ヶ原コース。上りは結構きつい。4回休憩を取り、1時間25分程を要して御幸ヶ原に到着。すぐ、男体山を目指す。今年は連休のせいか人出が多いようだ。頂上からの眺めは昨年同様だが、天気が良いため、かえってスモッグが発生して遠望が利かず、昨年頭が見えた富士山は見えない。

 男体山から女体山へ 御幸ヶ原の昨年と同じ茶屋で昼食。今年は他の客もあり賑やか。昼食後、女体山を目指して出発。鞍部から15分程で女体山の頂上。昨年は気が付かなかったが、霞ヶ浦が見えた。社務所で今年の干支・鼠の絵が描かれた絵馬を求める。昨年は男体山の方で猪の絵馬を求めた。十二支全部を揃えたらと、皆に冷やかされる。
 参拝をして展望を楽しんだ後、下山開始する。昨年の記憶では、頂上のすぐ下が急な岩場との印象であったが、思った程ではなく、それでも慎重に下る。

 弁慶七戻石 大仏岩、北斗石、大黒後姿石などを眺め、ネーミングに成る程と頷きながら、弁慶七戻石を経て、弁慶茶屋で休憩。上りはそれ程ではなかったが、下りは他の人より遅れがち。足のせいでは無く、残念ながら年齢、体力の差であろう。KNさんが一緒に殿を付き合ってくれる。弁慶茶屋から筑波山神社までは、ほぼ平らな歩きやすい道との記憶であったが、結構急な下りの道。膝が笑わないのは多少とも歩いている成果であろう。15時過ぎに神社着。神社に無事を報告し、水を汲み、門前で四六の蝦蟇を見物し、お土産を仕入れる。

 真壁城跡に寄る Kさんが大丈夫というので、休憩を取らないで、筑波山の裏に当たる真壁城跡に向けて出発。皆に、小生の城跡巡りに付き合って貰う。城跡のある真壁町は石材の産地という。町営体育館の側に城跡が見付かる。思ったより濠跡等が遺っていて、夕暮れの城跡は古城の雰囲気が漂い、味わう。真壁城の資料については真壁町出身のKRさんにお世話になった。筑波山を振り返り、筑波学園都市を通って、18時頃に取手に到着。駅前で、反省会をして解散。21時過ぎに帰宅し、本年の初山歩きは無事下山。お疲れ様でした。(96/1/13 29/100)

追記 筑波山は百名山に選ばれているが、その中一番の低山(877m)で、私には、手ごろな山である。関東平野東端の孤峰で、展望も良い。アクセスが良くないのが難点。それでも、私は4、5回登っている。裏の温泉に家族旅行した際も、数家族全員で登った(2000.4.2)。ロープウェイを利用した。それ以来ご無沙汰している。同級生のハイク友に案内を請われているが、実行していない。最近では、JR常磐線土浦駅付近の車窓から眺めるだけである。

都営新宿線森下駅から両国へ歩く

 都内墨田の両国の資料(「我がまち再発見・両国編」24.3.21.4.4讀賣夕刊)を得て、都営新宿線森下駅から両国駅の東口方面へ歩くことにした。東口付近の案内が私の興味に合った。地図を眺めると、江東区の森下から両国は隣り合わせで、近いと知った。最後は両国橋を渡りたい。これまで、隅田川の橋は殆ど渡っているが、両国橋は未だと思う。

芭蕉句碑のある要津寺から 都営新宿線を森下駅に降り地上へ出て、ここから躓いてしまったようだ。要津寺は、芭蕉俤塚と古池やの句碑があり再訪(19.1.23)で、いつもの山勘で探したが、方向が違っていた。大分歩いた後、教えて貰い戻った格好で住所地番から探した。その上記憶違いで、寺前を通り過ぎてしまいUターンし境内へ。長い参道、古刹風の本堂と思っていたが、新しいお堂。でも、右手前に芭蕉俤塚と古池やの句碑はあった。

当地縁の社、橋 次の初音森神社から江島杉山神社へも住所地番からなんとか探し当て、手を合わせた。両社ともそっちこっちにある普通の社であったが、江島杉山神社は、江ノ島に縁のある杉山検校を祀ったという。鍼治療の創始者で将軍綱吉にも施し、土地を賜ったとある。堅川に架かる塩原橋(写真上)を渡り、両国へ入った。江戸期当地に炭屋の店を構え成功した塩原太助に因んだ橋との案内。講談か落語で聞いたことがある。

吉良邸跡、海舟生誕の地 右手の案内を見たら、吉良上野介屋敷の裏門跡とある。直ぐ右手へ曲がると、吉良邸跡であった。本所松坂町の大屋敷も現在では、2,3坪程度で、小さな社と座像がある。私は、義士祭りの折訪ねて(09.12.14)以来の15年振り。社に挨拶し、両国公園へ歩くと芥川龍之介の文学碑があり、当地に母の実家があって若い頃住んだとある。公園内奥に勝海舟生誕の地として記念碑と、海舟活躍の画像パネルがあった(写真中)。西郷との会談や龍馬との交流等も紹介されている。JR両国駅観光案内所で、一休み。嘗ては総武線のターミナル駅で立派な駅舎であるが、今ではその役目は錦糸町駅か。

両国橋を渡る 駅前東口の横綱通りを歩くが、ちゃんこ屋は見当たらない。京葉道路へ出て回向院前を過ぎ、両国橋へ。袂手前に、義士大高源五が詠んだ“日乃恩や忽ちくだく厚氷”の句碑があった。彼は浅野家でも高禄者であった。両国橋(写真下)をゆっくり渡る。大川は流れを川幅一杯にして、静かに動いているよう。渡り終えて、都営地下鉄駅を探した。(2024/5/16 K.K.1557)

◇日時 2024/4/30 ◇天候 曇り  ◇資料 墨田区「両国エリアマップ」2023.1他 ◇歩行距離等 14,000歩 10㎞  「通過時間等」 自宅8:45-都営線神保町9:25-同森下駅9:40=要津寺10:15=初音森神社10:30=江島杉山神社10:35=塩原橋10:45=勝海舟生誕地碑10:55=JR両国駅11:10=両国橋11:40=都営浅草橋駅11:59-三田線神保町駅12:20-自宅12:55

都内舎人公園ネモフィラ、板橋赤塚ニリンソウ鑑賞

 ネモフィラ開花情報が飛び交っている。桜が散り、菜の花やツツジ、藤が咲く時期ではあるが、ネットも、マスコミもネモフィラが目立つ。調べると、アメリカ大陸原産の花のようで、わが国での歴史は浅く、国営ひたち海浜公園でも約20年前から栽培開始という。同公園は2度訪ねたが、茨城は遠く、アクセスも良くない。都内足立の舎人公園にもネモフィラが咲いて、見ごろとの情報を得た。久しぶりに花友を誘った。舎人公園は、都営舎人ライナーの沿線で、ど真ん中に駅がある。

 初めて観たネモフィラ 舎人公園駅で落ち合い公園へスタート。本日土曜日で、園内は人出があり、広場には売店も出ている。皆ネモフィラ鑑賞ではないだろうが、ネモフィラ園への方向へ進んでいる。我々は、少し迂回し遅めの桜、八重桜を眺めながら中心部へ歩く。数年前花見に来園したことを思い出した。そして、ネモフィラ園に着く。思ったより広くはないネモフィラが咲くガーデンを、鑑賞者達が囲んでいる。我々も、眺めた。薄青紫色の小さな花は一面に咲き、ガーデンを埋め尽くし、青の絨毯のようである。私は初めて観る花で、小さな花を間近で見ると、中心は白で可憐な花のようだ。カメラを出し数枚写し、望遠にしてもシャッターを切った。花友も携帯をかざしている。

 園内で昼食 樹の下に席を求めて、昼食。なんと缶ビールもあり、御馳走になる。屋外でのビールは最近ではない。家呑みとは一味違う。園を出て、公園駅から乗った舎人ライナーを熊野前駅に降り、都営荒川線で西巣鴨駅へ戻った。

 今年も咲いたニリンソウ ニリンソウの花を思い出し、出掛けた。我が家から近い板橋赤塚の土手に自生し、板橋区の花でもある。高速道路下から土手へ近づくと、白い花は咲いていた。花を眺めながら、遊歩道を辿る。しかし、周囲の野草に交じり、押され気味のよう。数枚デジカメに収めた。ここでのニリンソウには思い出がある。娘が北海道の大学入学時、弟と甥がお祝いに来て、ニリンソウへ案内し写真がある。あれから約30年経ち、娘は北海道に居つき、子供も大学生と高校生である。甥も家庭、子持ちとなった。月日の経つのは速いが、ニリンソウは毎春咲き続けている。(2024/5/7 K.K.1556)

◇日時 2024/4/20 ◇天候 晴 ◇交通費 170円 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞       
「通過時間等」 自宅10:55-JR巣鴨駅11:35-舎人ライナー西日暮里駅11:47-同舎人公園駅12:05=舎人公園12:10/13:00=舎人ライナー舎人公園駅13:05-荒川線熊野前駅13:25-三田線西巣鴨駅13:55-自宅14:25

私が登った百の名山&低山=東北編=「雪に戸惑い中途半端に終わった信夫山」

 福島市のシンボル信夫山 故郷天童温泉で開催される小学同級会参加の往きに、福島駅に途中下車して、信夫山に登った。これまで帰省の際福島駅を通過する度に、車窓から信夫山を眺めては、何時かは登ろうという思いが募っていた。大分前だが、福島市内に住む叔母に連れられて山腹の神社を参拝したことや今後は、都道府県県庁所在地のシンボル的な山や史跡等を歩こうという思いから、福島市は信夫山だろうと見当を付けていた。子供の頃に、信夫山という四股名の力士の活躍を知っていたこともある。

 山は雪の中 福島駅観光案内所で資料を貰い麓の登山口まで15分と聞き、国道13号を歩いて、ハローワークの先の登山口に到着。20分過ぎていた。神社前の坂道を上がり続けて羽黒山神社参道口に至り、山中へと踏み込むと、前日までの雪が残り、滑らないように凍結した道を避けて進む。小さな集落へと出て、その上が羽黒山神社。境内は雪一色。一人、拝殿前に立ち軽く参拝。信夫三山の一つ羽黒山山頂(260m)のようだ。
 一息入れた後、次の月山神社、湯殿山神社へと向かう。当地でも出羽三山信仰が盛んで、礼拝のため信夫山にこれらの神社が勧請されたと、叔母に聞いたと思う。山上の道路は雪に覆われて車は通行禁止。樹林帯が切れて、展望台があり第三展望デッキであった。市内が一望だが現在地が不明。
 眼下を走る東北新幹線の走る方向や速度が違い、停まるはずの福島駅が見当たらない。思案した結果、山の裏側、東北の仙台方面側へ出でしまったと知る。何とか戻ることは可能だろうと、取りあえず一本道を歩き続ける外はない。幸いに散策中の方に出会い、このままで登山口の神社へ出られると教えて貰い、一安心。

 半周して下山 結局、信夫山の北半分を一周して、登山口へと戻ることが出来た。マップで確認すると、羽黒山神社前で直ぐ右折したが、月山神社へは直進してから右折すべきであったようだ。
 山形への新幹線の時間もあり、福島駅へと向けた。信夫山は小山と思い歩いたが、跳んでもない誤りで、独立峰ではあるが縦横に車道や山道が走る深い山であることに気付いたが遅かった。いつものように、また来ようと思うことにし、ミスを自分で不問にした。麓には墓地があり、叔父叔母も眠ると従姉妹達に聞いていたが、広い霊園には黙礼して過ぎる外はなかった。
 夕方からの天童温泉同級会では、約60名の幼なじみ達と再会を楽しんだ。4人の恩師も出席されて、皆さん80歳過ぎというがお元気で、我々に対して、未だ若くこれからだから頑張れと激励の挨拶を戴き、苦笑するとともに、その通りと少し納得した。(2011/1/29 28/100)

追記 信夫山登山は思い出深い山である。山頂を探しあぐね、再訪を考えていたが実現していない。下山後山形へ行き、故郷の同級会に参加して、その一人に私の山歩きの記録に興味を持って頂き、その後10年以上私の駄文を送り続け、故郷の果物や情報等がお返しとなって久しい。       
 日本百低山の放映があり、当山は、吉田類の同行者は唐橋ユミアナであった。アナは喜多方出身と思う。「日本100低名山を歩く」登載の山である(同書69頁)

2024 花見に戸田市内から戸田公園へ歩く

 桜は満開 戸田公園の桜は満開であった。荒川土手にピンクの花々は長く連なり、見事な桜並木が続いている。最初は土手下から眺め、シャッターを切ったが、花の下、花の中を歩こうと道路を渡り、土手へ上がり、桜木の間を時々見上げながら、また振り向きカメラに収めながら、ゆっくりと歩いた。樹の下には花見客もある。本日は4月11日、例年より1週間、否10日遅いだろう。期待以上で、桜花に満たされて荒川土手上へ出た。
 本日は、埼玉戸田市内から戸田公園へ歩いた。購読紙の“我がまち発見”戸田編(24.2.15、22讀賣夕刊)を参考にし、戸田市内から戸田公園を巡ぐろうと思う。戸田公園には桜並木があり、時期を待っていた。

 上戸田に芭蕉句碑を探す 今回は、JR埼京線を戸田駅に降りた。初めてで、東口から上戸田氷川神社を目指す。分かりやすい街で、神社に辿り着き、参拝後境内にある芭蕉句碑を眺めた。“涼しさや ほの三日月の 羽黒山”は奥の細道の羽黒山で詠んだ句で、近くにあり合祀した羽黒神社からの移設らしい。境内を出て、埼京線下の五差路を右へと方向を採り、妙顕寺を目指す。

 古刹妙顕寺 街道を行くが見当たらない。途中スマホで検索したが、操作が悪いようで不明。直進を続けると新曽地区に入り、右手に古刹が見え出した。広い境内、立派な仁王門、そして本堂は慎ましやかに見えた。日蓮縁の寺院で、1280(弘安3年)創基とある。私は門に惹かれてカメラに収めた。次の新曽氷川神社は、略図と山勘で迷うことなく、参道から拝殿前へ至り、手を合わせた。境内に夫婦柿の案内があり、一本の木に二種類の柿の実がなる珍しい木という。

 戸田漕艇場へ 次は戸田漕艇場だが、隣にあるTBSの電波塔が見え隠れして、方向と距離が分かりやすい。漕艇場へ注ぐ水路に導かれて右往左往を繰り返し、競艇場端に着いた。本日レース開催日のようで、練習するボートが爆音を上げて数隻走っている。その先右側の荒川土手が花見の場所。TBS電波塔がある広場前から中央の大橋を渡って、競艇場ビルフロアで休憩。おなかが空き売店でおにぎりを求めた。そして、漕艇場から戸田公園の花見場所へと接近した。見事に咲き競い、咲き誇る桜花に満たされて、荒川土手を下り、埼京線戸田公園駅へ向かった。(2024/5/2 K.K.1555)

◇日時 2024/4/11 ◇天候 晴 ◇資料 「我がまち発見 戸田編」24.2.15、22讀賣夕刊 ◇交通費320円 ◇歩行距離等 19,000歩 14㎞                                                     「通過時間等」 自宅8:55-JR埼京線浮間舟渡駅9:25-同戸田駅9:35=上戸田氷川神社9:50=妙顕寺10:40=新曽曾氷川神社10:50=戸田競艇場11:15=戸田公園中央大橋11:20=荒川土手11:40=JR埼京線戸田公園駅12:25-同浮間舟渡駅12:38-自宅13:10

私が登った百の名山&低山=東北編=「キスゲが残る雄国沼から雄国山パノラマコースを下る」

 雄国沼でニッコウキスゲを観賞し、休憩舎に立ち寄って、雄国山(1,271m)へと上がった。穏やかな山容は僅かな登りで頂上へと導いた。先程歩いた沼を見下ろし、その先には磐梯山も姿を見せている。休憩もそこそこに、下山口ラビスパ裏磐梯へ向け尾根道を下り始めた。先へ続く山の小径はアップダウンも緩やかで、道端には花が咲き、左右の展望も良く、時には樹林帯を抜けて、晴天下をルンルン気分で進んだ。雄国山パノラマコースというらしい。小生に合った好みの自然の歩道、コースである。

 磐越西線喜多方へ 本日は裏磐梯にある雄国沼へニッコウキスゲを訪ねた。2,3日前急に思い出し調べると、キスゲは盛りが過ぎたらしい。また沼へのアクセスが良くない。猪苗代湖駅から磐梯高原へはバスで入り登山口まではタクシーか、徒歩一時間以上とある。しかしネット検索で、このシーズンだけ喜多方駅から一本のバスが出ていることを知った。今の時期を逃すと一年先になる。盛期は過ぎても花は残っていればよいと、思い切って出掛けた。

 ニッコーキスゲ咲く湿原 喜多方駅下車は初めてである。バスの乗客は僅か三人。途中の萩平駐車場で乗り継ぎ、大勢の客と一緒に金沢峠へと上がった。カッコーの声を聞き、展望台から湖畔を見下ろすと、やはり草原は期待したような黄色を帯びてはいない。がっかりしながら沼へと下りると湿原にはキスゲはあるが疎らだ。それでも木道を奥へと行くと、それなりに咲いている。早速携帯を向け花々を写し捲った。四方山に囲まれた山上湖の湿地帯は思った以上に広く、自然がそのまま残っている。訪れる人も多くはない。アプローチが良くないからだろう。木道は湿原のほんの一画を巡っているに過ぎない。一回りして、キスゲの花を振り返りながら草原を出た。アヤメが固まって咲く地点があった。

 雄国山を越す 雄国山では大グループ一行に追い付いた。静かな山歩きを楽しむには抜け出さなくてはと、早めに下山開始。そして冒頭のコースに出会い、快調に下った。小さな沢を渡り、また上りになった時、後から足音が近付き中年男性が小生を抜き去った。自分は普通より遅いことをまた知らされたが、山ではマイペースが大事と己に言い聞かせた。樹林の間に自動車騒音が聞こえ始めて、坂を下るとキャンプ場となり、ラビスパ裏磐梯へ下山。約30分待ち、路線バスで喜多方駅に戻った。
 ニッコウキスゲは情報どおりであったが、記録上雄国沼を塗りつぶすことが出来た上に、小生好みのコースを歩き通し、ちょっぴり満足感に浸りながら、磐越西線に乗車した。(08/7/13 27/100)

追記 JR磐越西線に乗り、会津喜多方から雄国沼湿原を巡った。磐梯山の西側に位置している。アクセスが悪く、往きは臨時バスに助けられたが、戻りは簡単ではなかった。その分、雄国沼湿原の自然を楽しんだ。10年後に檜原湖近くからブナ林の下を歩いて再訪し、金沢峠から湿原を眺めた(18.5.27)。

野岩線、会津鉄道で塔のへつりを往復する

 野岩線から会津鉄道への乗り鉄を目論んでいた。処が栃木の奥から福島の会津へは遠く、日帰りは簡単ではない。この度の鬼怒川温泉泊の機会に実行へ至った。それでも、会津鉄道の乗り切りは諦め、終点西会津駅大分手前の塔のへつり駅往復とした。

 野岩線乗車 朝9時30分過ぎ鬼怒川温泉駅を出発。喜多方行きで、一本で西会津駅やその手前の塔のへつり駅へは行ける。川治温泉駅、湯西川温泉駅と山間の地を走る。トンネルも多い。この先も栃木県内で、会津高原尾瀬口駅で福島県と知った。野岩線の下野である。野岩線は1986年開業で30.7 km 9駅とある。これまで、尾瀬(99.5.30)や会津駒ケ岳(99.8.2)行きでは、この間を数度乗ったことがある。左手奥の平らな高峰は会津駒ケ岳、右手の白峰は那須岳だろうか。

 会津鉄道の中心田島駅 旧岩代国(現中通り、会津)へ入り、中心の会津田島駅迄は少し距離があった。同駅は、1987年迄は国鉄会津線の駅。当地は左右の山々は引いて平地が広がり、田島市内を過ぎ、田畑の中となる。会津下郷駅付近通過の際、車窓の風景は見覚えがあり、車で只見へ訪ねた際通った道で、この辺りで左折し奥只見へ向かった(22.10.12)と思う。また山間を走り、塔のへつり駅に着いた(写真上)。

 塔のへつり見物 鬼怒川温泉駅から約1時間30分で、山裾の林の中の小さな駅は待合室のみ。帰りの時刻をチェックし大川渓谷へ。私は、塔のへつりは二度目と思っていたが初めての地。旅番組の印象が強かったのかもしれない。少し歩いて、お土産店前から坂を下ると渓谷で、塔のへつりであった。対岸は連続する断崖で、高い崖が塔のように連なっている(写真中)。へつりとは川に迫った断崖という当地の方言とある。渓谷は深い淵をなしゆっくりと動いている(写真下)。カメラに収めた。渓谷に架かる観光用橋を渡る。下流には高い山が覗け、会津の高山であろうか。崖の途中に虚空地蔵があるが、狭く急な石段は自信がなく、橋を渡り返した。大川は阿賀川上流で、越後へ入ると阿賀野川とある。土産店を覗き目指した地酒を探したがなく、花春を求めた。

 往きの路線を戻る 駅へ戻り、会津田島行きを待つ。会津西街道大内宿へ歩いた時乗降したのは、会津寄りで次の湯野上温泉駅であった(07.12.1)。田島駅、会津高原尾瀬口駅で乗り換えた。車中、山歩きの際ではないが、2000年頃所用で会津若松からの帰途にこの線でJR栗橋駅迄乗ったことを思い出した。同僚と一緒であった。今回も栗橋駅で宇都宮線に乗り、18時前に帰宅できた。長い乗り鉄であった。(2024/4/24 K.K.1554)

◇日時 2024/4/7 ◇天候 晴 ◇資料 塔のへつり観光協会「塔のへつり」 ◇交通費 6,450円 ◇歩行距離等 8000歩 6㎞                                          「通過時間等」 宿泊先8:45-東武鬼怒川温泉駅9:37-会津鉄道塔のへつり駅11:15=塔のへつり11:20-塔のへつり駅12:11-JR栗橋駅16:26-同浮間舟渡駅17:10-自宅17:50

2024 花見に板橋から北区へ石神井川を下る

 桜花の開花が大分遅れてしまった。寒さの所為だが、その前の暖かさで芽出しの準備が出来なかったからとの報道もある。世の中は複雑で理解できない。予報より10日ほど遅れて開花宣言があり、ようやく咲き始めた。我が団地の桜を毎日眺め、花見ハイクの時期を見計らった。歩く先は、板橋の石神井川とした。花の名所で、これまでも数回花を眺めながら川端を上下している。

 花は七分程度 三田線を板橋区役所前駅に降りて、石神井川を目指した。仲宿で旧中山道を渡る。この道は久しぶりで、王子新道とある。途中で、左へ区立東図書館前を回り込んで少し上流の緑橋へ出た。橋上から下流を見渡すと、川端の桜木は川面の上に花を付けた枝を伸ばしている。花は未だ六、七分咲きといったところか。そんな花々にカメラを向けながら、右岸を下る。ぼんぼりを吊るした桜木もある(写真上)。花見散策者は少ないようだ。この辺りの石神井川の幅は5m程度だが、底は深く、両側の壁は垂直で高く水路の溝のよう。大雨時の氾濫を想定しているのであうが、現在の流れは少ない。程なく、加賀公園へ至る。

 加賀藩屋敷跡 加賀藩前田家の下屋敷跡で、広い屋敷のほんの一部であり、築山跡が遺る。桜咲く下築山を一回りした。周囲の広葉樹も芽から葉へと新緑を増している。次の橋は金沢橋とあり、加賀屋敷の所以かなと気付いた。渡って左岸を下る。桜は途切れない程度に頭上にも咲いている。
直ぐJR埼京線鉄橋と分かり、また右岸へ渡り返し、鉄橋下で電車を待つ。鉄橋、電車、そして桜を入れたアングルとし、カメラを構えた。一台目の上りは直ぐ通過し、下りが来たが、上り電車が良いと5,6分待った。耳を澄ませて通過音を聴き取り、シャッターを切ったがどうだろう(写真下)。北区に入り、左手に、寿徳寺の子育て観音像があるが、今回は寄らないで、下り続ける。

 石神井川から滝野川へ 滝野川橋に至り、ここで石神井川を離れ、3年前歩いた滝野川地区の稲荷神社や八幡神社に寄りたい。処が通りを行くが、記憶の地に稲荷神社はない。山勘で右折し進入路を探すが、環七通りへ出てしまった。自分で修正したつもりだが、今度は都営荒川線踏切であった。諦めて、現中山道交差点へ歩き、三田線西巣鴨駅から帰宅した。家で地図を調べると、滝野川橋先を直ぐ右折で、90度方向が違っていたようだ。残念。(2024/4/20 K.K.1553)

◇日時 2024/4/04 ◇天候 曇り  ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞                                                     「通過時間等」 自宅8:55-三田線板橋区役所前駅9:25=緑橋9:40=加賀公園9:50=埼京線鉄橋10:05=滝野川橋10:20=環七通り10:40=荒川線踏切10:50=三田線西巣鴨駅11:00-自宅11:30

私が登った百の名山&低山=東北編=「雨後の山道に難渋した東吾妻山」

 雨が上がり出発 東吾妻山に登った。宿泊した吾妻小舎から頂上まで3時間であった。前日からの雨は止んでいたが、雨後の登山道は最悪の状態。沢となって水が流れ、ダムを造っている。最初は慎重に水溜まりを避けて進んだが、それでも靴に染みこんできた。途中からは半ば諦めて水も厭わず上がり続けた。急坂では滑るのも防がなければならない。一歩一歩上がる外はなく、一層時間を喰ってしまった。
 更なる敵は樹林帯の通過。コースの途中で、木々の葉から付着する水で上着のシャツがビショビショになってしまい、着替えざるを得なかった。

 湿原へ 地獄のような樹林内の沢登りから救ってくれたのが、湿原。約1時間歩いて森林地帯の中の沢を抜けると鳥子平の小さな湿原であった。長いトンネルから脱出しホットした。次は、岩と泥沢と急登が重なった鳥子平からの取り付きをどうにか上がり切った先が景場平湿原。
 池塘が点在し、コバイケイソウが咲き、前方には東吾妻山(1974m)が広がった。僅かであったが快調な木道歩きを楽しんだ。頂上手前の展望台湿原へは急坂と水との悪戦苦闘の末ようやく辿り着き、ワタスゲが出迎えてくれた。高地の湿原でも沢が音を立てて池塘へと流れ込んでいた。

 山頂到達 山頂下まで続いた沢とも別れトドマツ林を出ると山頂へ飛び出した。小屋で同宿であった女性二人と同時登頂。我々より1時間後に、反対側の姥ガ原から上って来たという。期待した展望はない。隣の一切経山が見えるだけ。記念写真を撮って下山。こちら側の登山道も同様の状態。少し広く傾斜が緩いだけだ。
 いつものように遅れ気味になりながらKさんの後を追う。姥ガ原に下り鎌沼を半周して、酸ガ平は11時ジャスト。浄土平まで約2kmとあって約30分と想定し、バスには間に合う筈。休憩も取らずに下り続ける。昨日、足慣らしに上がった道だ。足下に咲く花や鳥の声も後ろにしながら予定通り、浄土平に到着した。

 前日吾妻小富士一周 前日浄土平は雨。夏に入った土曜日だが人出は少ない。吾妻小富士から酸ガ平、鎌沼、姥ガ原を一周した。小富士は傘を指しながら火口を一回り。目の前を小動物がウロチョロ。貂だろうか。この休火口を眺めたのは二度目と思うが、昭和36年の高校の修学旅行であったろうか。
 浄土平に戻り、鎌沼から姥ガ原では、花を愛でた。雨で滝となっている沢沿いには遅めのシャクナゲが咲き、沼の畔ではコバイケイソウ、原にはチングルマやイワカガミ、ゴゼンタチバナなどを見付けた。吾妻小舎に宿泊。最近求めた岩崎元郎著「ぼくの新日本百名山」(朝日新聞社刊)で推薦の小屋。前出の女性達の外一グループだけ。食事は、山小屋らしくはなかった。
 目指した一切経山には登れなかった。雨後はガレ山で水はけの良いこちらの山を選んだ方がベターではなかったかと少し悔いたが、もう一度チャンスを貰ったと思い直すことにした。Kさん有り難うございました。これに懲りずにまた同行をお願いします。(07/7/21,22 26/100)

追記 雨後、悪路、そして登頂したが、途中の高山植物の花々は半端ではなかった。何故か花の百名山には選ばれていないようである。吾妻小富士は、多分高校の修学旅行時であったと思う。古いアルバムに写真があった。磐梯吾妻スカイラインは少し前に開通して、山形からバスを連ね旅行したのであった。九十九曲がりのカーブで、同じクラブの後輩が前車の窓から手を振ってくれた。その彼女が数年後亡くなったと知った。淡い思い出となった。

都内日暮里から谷中霊園、そして不忍池へ

 購読紙を見て驚いた。私が歩こうとしていた谷中霊園近くの旧吉田屋酒店の古い写真が掲載されている(「懐かしの写真館 谷中霊園」24.3.20讀賣)。1910(明治43)年築木造二階建ての商店で、1986年撮影とある。その前に、“日暮里・谷中散策マップ”を入手していて、眺めていた。その中にも、旧吉田屋酒店があり、同店が含まれるコースにした。

 日暮里は山吹の里か 日曜日の昼過ぎJR日暮里駅から歩きだす。駅前広場に太田道灌の騎馬像があり、さらに山吹の枝を手にした少女の像(写真上)もあって、日暮里があの山吹の里伝説の地という。道灌は戦国前頃関東で活躍した武将で、確か出城址説のある道灌山公園が西日暮里にある。豊島の面影橋や埼玉越生にも山吹の里がある。山吹の里に纏わる“七重八重花は咲けども実の一つだになきぞ悲しき”の逸話は知られ、私にも思い出があり、高校時代国語の試験問題に出て、偶々落語で聴いてこの和歌を知り、正答したことがあった。

 “夕焼け小焼けの記念碑” 駅前からの通り日暮里繊維街を行く。初めての地で、第二日暮里小にある童謡“夕焼け小焼けの記念碑”を目指す。思ったより距離があり右手の校舎の道路側に見付かり(写真中)、カメラに収めた。作詞者中村雨紅の初任地が当校であったという。八王子上恩方の出身でそちらにも歌碑がある。陣馬山和田峠への途中である。
 日暮里南公園を経て、尾久橋通りを横断し、JR東北線等を高架で渡り、ご隠殿坂を上がると谷中霊園であった。このルートは未知で、立派な墓苑は渋沢栄一公のものある。上野公園方向に左折し、淨名院前で右折して言問い通りを下り続ける。

 旧吉田屋酒店 旧吉田屋酒店は中々現れない。大分歩いた右側にあった(写真下)。前掲写真とは違い現代的な店舗で、改装されたのであろう。期待した酒類は置いていない。現在は下町風俗資料館付属施設とある。店前では、操り人形の大道芸人が演じていた。
 上野公園へ戻り東照宮へも考えていたが、大分離れてしまった。折よくバスが来て、上野池之端迄乗車。不忍池傍に降り、西縁から弁天堂へ歩く。左手の上野の山には東照宮が見えた。先日船橋で東照宮を訪ね、同宮はそちこちにあると知り、少し興味が出た。弁天堂辺りは込み合い、出店も並んでいる。外国人も多くインバウンドも戻ったのであろうか。下町風俗資料館は工事中のようだ。
 公園を出て右折すると、都営大江戸線上野御徒町駅は近い。(2024/4/15 K.K.1552)

◇日時 2024/3/24 ◇天候 曇り ◇資料 「日暮里・谷中散策マップ」荒川区観光振興課他令和3年3月 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅11:15-日暮里駅12:35=夕焼け小焼け記念碑12:50=日暮里南公園13:00=隠殿坂13:15=旧吉田屋酒店13:35-池之端13:40=弁天堂13:50=大江戸線上野御徒町駅14:04-三田線春日駅14:11-自宅14:45

私が登った百の名山&低山=東北編=「秘湯の会で湯ノ花温泉から南会津田代山へ」

 山頂は自然の楽園 急登を続けて飛び出した地はなんと前方一面に広がる湿原地帯。木道周囲にはチングルマやワタスゲ、イワカガミ、コバイケイソウが咲き、小さな紫の花はタテヤマリンドウ。湿原には、弘法の池と呼ばれる池や小さな池塘がそちこっちに点在している。自然の排水溝があって、湿原を流れ出た水は地下へと通じていた。 
 花の百名山(田中澄江選)である。田代山頂上は自然の楽園。東方面が開けて、那須方面の山々が広がっている。なんと言っても、広大な自然を我々独り占めできるのが良い。土曜日なのに登山者は少なく、入山して2,3のグループに出会っただけだ。尾瀬などではこうはいかない。
 木道を渡り湿原を一周する。太子堂避難小屋を確かめた後、湿原端で他の登山者に混じって昼食。山上湿原の自然をたっぷりと楽しんで下山に掛かった。途中同じ方向に靡く灌木を見て、北海道美深松山湿原のエゾマツを思い出した(03.7.26)。葉や樹皮がちぎれて幹が剥きだしなった斜めの低木達は長期間風雨に耐え続けている証明だ。

 先行メンバーを追う 今年の秘湯を巡る会は会津湯ノ花温泉に泊まり、駒止湿原、田代山登山と会長からメールがあった。生憎初日は授業があって、午後からの参加。 南大沢から多摩センター駅で千代田線直通電車を捕まえ、北千住駅では会津田島行きへと乗り継いだ。12時過ぎに出発したが会津高原駅に着いた時はなんと17時半であった。一行に合流し湯ノ花温泉へと向かった。当地は雨の一日で、駒止湿原は雨中を一周したと言う。

 田代山へ登る 二日目、天候は良く雨の心配はない。登山口猿倉は意外に奥で、温泉から車で小1時間の山の中。沢を渡って登山道を進む。久しぶりの山らしい山である。次第に急坂になり、しかも昨日の雨で滑り易い中を懸命に上り続ける。道端に咲く白い花はゴゼンタチバナ、ギンリョウソウも見付けた。
 木々の背丈が低くなって頂上に近づいているのを実感すると間もなく小さな広場に到着。小田代湿原であった。休憩後山頂を目指す。急登に加えて、これまで以上の悪路。岩や木の根が段差となって行く手を遮っている。遠くに聞こえるカッコーの鳴き声が救いだ。そして、他のメンバーに続いて山頂湿原(1,926M)へ上がった。

 膝は大丈夫 今回の登山は左膝が気になっていた。昨年末痛めて以来歩いてはいるが完治ではない。下りを懸念して対策を講じた。厚手の靴下を履き、膝にはきつめのサポーターを当て、ストックを使用した。下りは苦手で山頂下から他のメンバーには離されたが、無理に追うことなく自らのペースで下り続ける。幸い痛みは出ない。2度休憩を取り、最後の沢では水割り用に清水を汲んで猿倉口に下山した。少し遅れただけであった。
 その後も痛みが特に生じることもなく過ぎている。下山後直ぐ湯ノ花温泉共同浴場で癒したのが良かったのかもしれない。無事秘湯と山頂湿原を楽しむことができた。メンバーにも感謝したい。(07/6/29,30 25/100)

追記 秘湯の会の例会で、温泉付き山行であった。金曜日で、午前中の講義を終えてから、一行を追い、会津高原駅に着いた時は夕方であった。温泉と山の記憶は薄い。膝を痛めていた時であったが、メンバーにそう遅れることなく下山できたようである。その後再発はしていない。秘湯の会もコロナで休会のまま終わってしまった。残念である。最近偶々会津高原尾瀬口駅で、花の名山田代山のポスターを見た。

都心神宮外苑から乃木坂を下る

 本日、夕方大手町で会合があり、参加の予定である。業界団体で一緒に活動したメンバーで、退職後も年に数回情報交換をし、幹事からメール一本で集合する。私は、その前に歩くことにした。大手町への交通の便が良く、最近歩いていない神宮外苑から乃木坂、赤坂へとした。都心である。

 外苑絵画館へ 今回も大江戸線で国立競技場駅へ出たが、新宿駅での乗り換えは通路通りに進み順調であった。国立競技場駅の地上へ上がると方向が逆で、案内に従い競技場を右に見て外苑絵画館へ歩く。交差点信号待ちで、前回(16.1.28)を思い出した。当時競技場はオリンピック開催に備え建築中で、更地であった。絵画館前へ至り、古いが趣のあるビル(写真上)を眺める。その名の通り絵画類の展示施設であるが、入館したことはない。カメラに収め、前の野球場へ。若い頃プレーしたかなと思ったが、記憶になかった。近くにお鷹の松(写真中)やなんじゃもんじゃの樹があった。前者は家光の鷹狩に由来する松とある。

 銀杏並木通り 大通りの右先が明治神宮外苑球場。ヤクルト球団の本拠地だが、大学野球のメッカでもある。私は観戦したことはないと思う。大学の二部に通っていた頃、駿河台キャンパスに優勝戦応援のアジビラが貼られたが、その余裕はなかった。直進し続けると銀杏並木であった(写真下)。偶然で、通りが一本違うと思っていたがラッキーである。今回のポイントで、久しぶりの並木だが、道両側に続く銀杏は、当然落葉済。それでもアングル探しシャッターを切った。1926(大正15)年植樹で約100年の歴史を有すると知る。

 乃木坂から赤坂 外苑正門から青山通りへ左折、外苑東通りへ右折して、赤坂方向の乃木坂へ向かう。初めての地でビル街を眺めながら、乃木坂の乃木神社へ。2度目だが違う方向からで、山勘が頼り。交差点へ至り、左の屋敷は旧乃木邸と分かり、公園から神社境内であった。参拝し、明治天皇に殉じた陸軍大将乃木希典夫妻を祀った社。奥の正松神社にも手を合わせた。吉田松陰縁の社とある。隣には会館もあり、嘗ての乃木邸の大きさにはびっくりである。乃木坂は、今ではムード歌謡で唄われ、アイドルグループ名等にも採用されて、知られた坂である。

 大手町へ急ぐ 時計を睨みながら、地下鉄千代田線の駅を探す。前回は乃木坂駅からであったと思うが見付からず、坂を下り続ける。赤坂駅迄には距離があり、TBS手前で駅入口を見付け、階段を降りた。大手町の会場居酒屋に着いた時は10分前で、一番乗りであった。定刻に始まり、乾杯の生ビールから会合はいつも通りに盛り上がった。(2024/4/6 K.K.1551)

◇日時 2024/3/11 ◇天候 晴 ◇資料 明治神宮外苑「神宮外苑いちょう並木」 平成18年1月 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 
「通過時間等」 自宅13:50-新宿線神保町駅14:36=大江戸線新宿駅14:54-同国立競技場駅15:05=絵画館15:15=銀杏並木15:30=乃木神社16:00=千代田線赤坂駅16:31-同大手町駅16:45・・・自宅20:00

私が登った百の名山&低山=東北編=「夏山登山に同級生と会津磐梯山へ登る」

 磐梯山(1,819m)は、登攀コースといい、コースタイムといい小生の体力や経験には適度な山であった。厳しい岩場や梯子、鎖場はない。それでも最後の弘法清水と頂上の間では一部急登に出会ったが短い区間であった。深田百名山でもあり征服感は充分である。しかし、1,800mを超す名山を侮ってはいけない。下山して登山口に至る頃には太股に筋肉痛が出始めていた。

 同級生と登山 郡山駅で磐越西線に乗り換えて会津盆地に入った右手には磐梯山が聳えていた。広い裾野に沿って顔を上げるとその上方に独特な山容が見える。磐梯町駅にAさんが車で待っていてくれた。
 登山口八方台駐車場は混んでいた。最短コースで人気があるらしい。大型バスも駐車して、未だ夏山シーズンである。ブナ林から入った登山道は緩やかな上りで、木の根や岩はあるが歩き難い程ではない。林が切れた左手には裏磐梯高原が広がり、檜原湖や小野川湖、秋元湖の湖面が美しく、眼下のエメラルドグリーンの水面は五色沼であろう。正面には爆裂火口跡も見える。ちらりと急峻な山頂も覗けた。途中に現れるこれらの景色を望む展望台は休憩には程良く、疲れを忘れさせてくれる。中ノ湯温泉は閉鎖してあった。

 弘法清水へ 高度を上げるに従い山中も奥へ進み、次第に山道も狭くなる。下山者もあり交差するのに待つ場面が増えた。現ルートは火口壁を迂回しているらしい。林から灌木地帯になった頃、分岐点に到達して、お花畑へ回る。岩峰を背景に黄色の花が一面に咲き揃い、見事だ。アキノキリンソウとAさんが教えてくれた。夏山の醍醐味でもある。岩峰は櫛ケ峰と地図で確かめた。中ノ湯から弘法清水まで約1時間半を要した。
 弘法清水は登山者で一杯であった。山小屋二軒が営業中で、老若男女、学校登山の生徒も大勢休んでいた。清水はこの時期にも一筋の水を垂らし、小生も並んでボトルを満たした。意外に冷たく、Aさんにも勧めた。傍らには白い梅鉢草が咲いていた。

 登頂し昼食 山頂は狭く、二人で三角点を探すも見当たらない。仕方なく、頂上を示す山名板を入れて記念写真とした。生憎空には雲が出ていて期待した360度の展望は得られない。悪天候ではないことに感謝すべきであろうか。次々と登頂する中、Aさん持参の昼食を戴く。食後のコーヒー付きだ。ポットにお湯を入れてあったのだ。山頂からは上りと同じコースを下山。約2時間で、登山口八方台駐車場に下りた。上りは2時間30分を要したから、やはり下りは早い。
 郡山駅まで送って貰い、東京と仙台へと別れた。Aさん登山のリードのみならず、遠距離運転有り難うございました。お疲れ様でした。 (06/8/26 24/100)

追記 本山は、磐越西線で猪苗代駅付近からは全容が眺められるが、表と違い裏は、爆裂跡が生々しい。会津民謡でも知られた山で、その山に登ったのである。これも仙台在の同級生のお陰である。彼には、栗駒山や寒風山も案内して貰った。その彼が福島へ車で来てくれて、駅から登山口の送迎もしてくれた。現在も、本記録の読者でメールの交換がある。

都心に坂を上下し麻布十番から有栖川宮記念公園へ

 港区の麻布十番に暗闇坂という坂があると知り、興味を惹いた。名の通り、木々が生茂り日中も暗いとある(「我がまち再発見・東京麻布編上」23.7.20讀賣夕刊)。一度訪ねて、赤い靴きみちゃん像から善福寺を巡り(21.10.12)、逆さ銀杏などは記憶に新しい。通りが違い、広尾の有栖川宮記念公園の方へ通じているようだ。

 麻布十番駅から 最寄り駅は大江戸線麻布十番駅であるが、三田線芝公園駅から一つ手前の赤羽橋駅迄歩いた。芝公園内を歩くつもりであったが出口を間違え、日比谷通りから高級ホテルを右手に見て、桜田通りを渡った。天気よく東京タワーが聳えていて、正月上京した娘が孫達を案内し昇ったと言っていた。
 麻布十番駅に降り、地上へ出て案内地図で確かめ、まずは隣の十番稲荷神社にご挨拶。少し先の鳥居坂下交差点を渡り、商店街へ坂を下る。桜らしき花が満開の樹に出会い、カメラに収めた。

 暗闇坂、一本松 直ぐ暗闇坂であった(写真上)。往年は樹々が生茂りその名の通りの坂であったろうが、現在では樹々は少なく、その面影は窺えない。ゆっくりと坂を上がる。両側は大使館や高級マンションがある高級住宅街。坂上が一本松で、道路脇に松の木があった(写真中)。少し歩いて麻布氷川神社で、社殿前に進み手を合わせた。境内は広く立派な社殿。調べると清和源氏や江戸将軍家に縁のある古社と知る。先ほどの一本松はご神木のようだ。

 有栖川宮記念公園 仙台坂上交差点に至り、右折すると南部坂で、区立運動場横を行き、有栖川宮記念公園。都立中央図書館が園内にある。日比谷図書館にないと言われ来館したことがあった。20年以上前のことで、戦後直ぐの法律雑誌か判例集であったと思う。
 初めてではないが園内を一回り。元は南部藩下屋敷であったが有栖川宮邸が置かれ、その後公園へという。有栖川宮騎馬像の外、新聞少年像や笛吹少年像もある。何故と思ったが不明。池端を歩いて広尾口を出ると、南部坂下であった。

 高橋由一の絵に出会う 麻布十番へ戻るには坂が辛い。広尾稲荷神社へと十字路を直進し左手にあり、詣でた。こちらも古社で、あの高橋由一の黒龍の絵が天井画とあるが暗くて見えない(写真下ネット上より)。カメラにも写らなかった。大通り外苑西通りへ出てバスを待った。車中、高橋由一は、鮭の絵で有名だが、彼が明治期我が故郷へ来られて絵を遺したと美術の先生に教わったことを思い出した。帰宅後東根市文化財を検索すると2件ヒットした。
 今回歩いて、江戸は八百八町ではなく、八百八坂ではないかと思った。(2024/3/27 K.K. 1550)

◇日時 2024/3/4 ◇天候 晴 ◇資料 「我がまち再発見・麻布十番編」(讀賣夕刊23.7.20) ◇歩行距離等 9,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅8:45-三田線芝公園駅9:40=大江戸線赤羽橋駅9:56-同麻布十番駅10:00=十番稲荷10:05=暗闇坂10:15=一本松10:20=麻布氷川神社10:25=有栖川宮記念公園10:35=広尾稲荷神社10:50=広尾バス停11:05-大江戸線青山一丁目駅11:22-三田線春日駅11:54-自宅12:30

いすみ鉄道、小湊鉄道を乗り鉄し房総を横断する

 私の乗り鉄にぴったりのフリー乗車券が見付かった。山手線の駅にあったパンフによれば、“2日間乗り放題サンキューちば”で、JRのみならず、千葉県内私鉄路線も含まれている。内房、外房線は既に乗り切り、いすみ鉄道から小湊鉄道を狙っていた。昨秋の大雨で一部不通となっていたが、回復したという。また銚子電鉄もフリーの範囲内である。

 いすみ鉄道乗車 都営新宿線で本八幡駅へ出て、JR同駅でフリー乗車券を求め、総武線に乗車。千葉駅で外房線上総一ノ宮行きに乗り継いだ。いすみ鉄道始発の大原駅は、近くはない。またJR上総一ノ宮駅で乗り換えて、山里地帯を走って到着した。
 いすみ鉄道上総中野行きは待っていた。満席だが座れた。13駅、26.8㎞とある。売店に昼食用食品はなかった。直ぐ荒野から林の中となり、停車する駅も小さな無人駅が続く。私は2度程乗っているが、記憶にあるのは大多喜城跡見学後に大原駅へ出た時(15.9.23)である。山中を進み路線の行く手に深い谷川が左右に絡み、鉄橋を渡る。夷隅川だろう。

 大多喜から上総中野へ 大多喜駅手前で、右手に天守閣を見て、城見ケ丘駅名を思い出した。車窓から早咲き桜も見えた(写真上)。左右の里山が後退し盆地となり住宅地も見え、やや上りの地となり、房総半島中心を越しているのであろう。約1時間で、終点上総中野駅。小湊鉄道への乗換駅で、大半の乗客は、私同様、隣のホームに着いた五井行きに乗った。当駅も初めてではないと思うが見覚えはなく、駅舎を覗くも売店はない(写真下)。先ほど大原駅で入手した“い鐵揚げ”をかじった。

 房総南斜面を下る 小湊鉄道2両列車も山中から一度トンネルを抜け、山里へ出て緩い下りに入った。18駅、39.1㎞である。養老渓谷駅は2度ほど乗降した。渓谷は関東ふれあいの道で、滝や谷川を眺めながらハイキングコースを歩いた(09.10.4)。左右の山里は広がり水田地帯のよう。
 当列車には車掌さんがいて、それも若い女性。車内検札を始め、私もフリー乗車券を出した。最近では珍しいこと。車内の大半も私と同じ乗車券のよう。大分下ったようで、正面方向に煙突が見え始め、東京湾房総側の工業地帯だろう。しかし、五井駅迄は距離があり、上総中野から1時間30分程要した。
 JR五井駅で内房線千葉行きに乗車。乗換えの際、カップ酒を探したが地酒はなく諦めた。その所為ではないが疲れて、残念ながら、翌日のフリー乗車券利用は諦めた。(2024/3/21 K.K.1549)

◇日時 2024/2/24 ◇天候 晴 ◇資料 「サンキューちばフリーエリアマップ」 ◇交通費 3,970円 ◇歩行距離等 6,000歩 5㎞
「通過時間等」 自宅8:15-新宿線神保町駅9:00-JR本八幡駅9:45-同千葉駅10:25-いすみ鉄道大原駅11:47-小湊鉄道上総中野駅12:50-JR五井駅14:19-新宿線本八幡駅15:20-三田線神保町駅15:57-自宅16:35

私が登った百の名山&低山=東北編=「お花畑と展望を満喫した会津駒ヶ岳」

 トドマツの林を抜け出るとお花畑の前方に緑に覆われた山が姿を現した。青天下に聳えるなだらかな山容は女性的な優雅さを感じさせ、我々を優しく迎えてくれているようだ。これが会津駒か、憧れの山を目前にして、それまでのジグサグの繰り返しの上りをいつもにない重いザックに喘ぎながら登り続けた辛さが一変に飛んでしまった。

 夜行バスで登山口へ 新宿発尾瀬沼山峠行の夜行バスで、福島県檜枝岐村滝沢の登山口に降ろして貰う。小屋泊まりだが食事がないため、自炊の夕食メニュー用に鉄板焼きなどの材料、道具の外、スイカ、ウィスキー、ビールなどを、大量を持ち上げることになった。参加者7人の内、若い山の経験者はシェルパ隊を組み 40kg に近いザックを背負い、さらにザックの上に荷物を紐で括り付けている。小生は朝食用ジュース、ハム、ウィンナー、つまみの干物類と自分の水を多めに持ち、15kg 程度はあろうか。
 5 時前に登り始める。林道から入った登山道は出だしから急坂。林道の路肩には多くの車が駐車してあり、登山者は明け方前から山に入っているのだろう。登山口の梯子を上がると本格的な登山道となり、多くの登山者が山頂を目指している。大半が中高年女性なのはいずこの山も同じだ。展望のない林の中を1時間程歩き休憩。  

 急登を繰り返す ブナの大木が目立つ林の中をゆっくりと上り、およそ中間点の水場に到着。水を利用してそうめんを茹で、冷やしたスイカがデザート。水場で、山頂までと翌日分の水 1.5リットル を自分用に汲む。流石に清水は冷たい。
 この辺りから急登が続きシェルパ隊は遅れがちとなり、小生はいつもの山歩きのようにせかせかと先を急ぐ。ようやく林がブナからトドマツに変わり灌木の丈が低くなると左手に燧ケ岳の双耳峰が見え始めた。ジグザグの道を過ぎ、林を抜けてお花畑となり、目の前に駒ヶ岳が姿を現した。お花畑で休憩中にシェルパ隊が追いつき、木道を通って駒の小屋到着。山頂は直ぐ先だ。

 山頂、そしてお花畑 小屋に荷物を預けて山頂を目指す。約20分で山頂 (2,133m) を極め、隊長の音頭で万歳三唱。雪渓を求めて山頂を下るとお花畑が中門岳へ一面と続く。黄色い花(コキンレイカ)が群落をなしている。ピンクの花はハクサンコザクラか。展望も抜群。南の燧の右に至仏山、左に日光連山、その間の山は日光白根だったようだ。西は平ケ岳、その奥には八海山などの越後の山々だ。北に霞んでいる山は磐梯山だろうか。あまりに見事な眺望にシャッターを切り続ける。
 夕食は豪華絢爛、鉄板焼き。本当にガスコンロと鉄板まで担ぎ上げたのだ。海老、イカ、ホタテ、野菜、アサリの酒蒸し、最後は山形牛で仕上げ。ビールは勿論、ワイン、清酒、ウィスキーと何でもあり。シェルパ隊が遅れ気味だったわけを知り、ただ感謝するのみ。山中の大宴会はアカネが舞う夕方に始まり、満天の星空を仰ぐまで続いた。

 尾根道を行く 翌朝4時に起床。小屋前でご来光を待ち、東の那須岳越しに真っ赤な太陽を見る。本日も昨日に続き快晴。朝食を取った後、7時過ぎ大津岐峠を目指して下山開始。燧ケ岳を正面に見る歩き易い尾根道を道側に咲く花をカメラに収めながらゆっくりと下る。池塘が多く、ワタスゲが目立つ。わずかに残っている花はシラネアオイと知る。2,000mの尾根では汗も出ず、快適なお花畑の散歩を楽しむ。峠からはブナ林の中の下りの道。途中の沢で休憩し、水を飲み、汗を拭く。思ったよりは楽に下り、ほぼ予定通りの時間にキリンテの登山口に下山した。

 桧枝岐に下山 檜枝岐に戻り、温泉で汗を流して疲れを癒し、名物そばを戴いた後、野岩鉄道会津高原駅に出て帰途に就いた。憧れの会津駒ヶ岳を踏破した。予想通り花の名山でお花畑を堪能し、展望にも恵まれた。今回の登山には不安もあった。夜行バス、久しぶりの高山、いつもより重いザック等。しかし無事下山し、夏山を満喫した。これも同行して戴いたメンバーのお陰である。山の自然の中で豪華な食事やゆったりとした休憩などを楽しむ登山もあることを教えて貰った。(99/8/1,2 23/100)

追記 本山は深田百名山であるが、何故か私の山歩き里歩き500紀行には掲載されなかった。それほど高山のイメージが残らなかったのであろうか。しかし、大勢の仲間と登山して、お花畑を堪能し、花の百名山の通りであった(田中澄江「新・花の百名山」105頁)。

千駄ヶ谷鳩森八幡、外苑西通りから青山へ

 都内千駄ヶ谷の鳩森八幡、将棋会館を訪ねることにした。購読紙の“我がまち再発見・東京千駄ヶ谷編”(24.2.1讀賣夕刊)からである。鳩森八幡は一度詣でたことがあり、過去の記録を探したが見付からない。原宿から東郷神社を経て、鳩森八幡であったと思うが、不思議である。将棋会館にも寄った記憶がある。

 千駄ヶ谷から鳩森八幡  今回は、大江戸線で国立競技場前駅からにしようと、神保町駅と新宿駅で乗り換えたが新宿駅では乗換口を間違え大回りした。国立競技場駅で地上へ出ると、JR中央線千駄ヶ谷駅前。左折して鳩森八幡へ歩く。右側は大学校舎のよう。2,3の交差点を過ぎると鳥居前へ出た。鳩森八幡とは思わなかったがその参道で、私には方向が違っていた。境内に入り、大きな富士塚や将棋堂(写真上)があり見覚えがあった。社殿前へ進み、家族の健康をお願いした。将棋堂には天童産の王将の大駒が奉納されている筈だが扉は閉められたまま。

 藤井八冠効果か 通りを挟んだ隣が将棋会館。小さなビルだが、今年中に近くに移転すると新聞で知る。1階の売店を覗くと、藤井八冠の扇子や色紙が並んでいる(写真中)。私は、1冠前後から藤井ファン。静かに読み耽る姿も良く、AIを超えた頭脳の持ち主だろう。研究熱心も加わる。
 会館には出入りがあり、階上には対局室があって、賑わっているようだ。藤井効果であろう。若い頃天童産の駒でへぼ将棋を指したが、へぼのまま終わってしまった。

 外苑西通りを歩く 青山通りへ向け、外苑西通りへ出ようとする。途中ビルの階段にへばり付く石造りの榎稲荷があり、手を合わせた。案内柱に従い外苑西通りへ入り、霞ヶ丘公園前。そのまま直進を続ける。以前芭蕉追っ掛けをしていた時のメモで、句碑のある寺院に寄ろうと思う。地図上は左手に寺町のように寺があるのだが、実際は通りの裏手。龍厳寺や海蔵寺を探そうとしたが住宅、商店が立ち連なる街中で、見付からない。偶々熊野神社前へ至り、通りから頭を下げた。
 青山通りとなり右折して、最後の善光寺は表通りにあり、何とか探し当てたが、肝心の句碑のある庭は施錠中で、残念。長野善光寺とは無関係らしい。鐘楼があった。
 本日は、旧友の活け花展が文京シビックホールで開かれている。約束の時間が迫り、地下鉄半蔵門線表参道駅から三田線の神保町駅で乗り換え、春日駅に降り会場へ。僅かに遅れたが、挨拶し一回りした。旧友の作品(写真下)は他とは違い、ベテランの域に達したような味の深い巧みな作品と感じた。Wさんと一緒になり、水道橋駅前で居酒屋へ入った。(2024/3/14 K.K. 1548)

◇日時 2024/2/10 ◇天候 晴 ◇交通費 180円 ◇資料 「我がまち再発見・東京千駄ヶ谷編」(讀賣夕刊24.2.1) ◇歩行距離等 13,000歩 10㎞
「通過時間等」 自宅12:15-新宿線神保町駅13:04-大江戸線新宿駅13:25-同国立競技場前13:35=鳩森八幡13:45=将棋会館13:55=外苑西通り14:20=善光寺14:50=半蔵門線表参道駅14:55-三田線神保町駅15:05-同春日駅15:10=活け花展会場15:20・・・自宅17:25

私が登った百の名山&低山=東北編=「風雨の中で頂上を間違えた安達太良山」

 第1日 JR上野駅新幹線ホームに着き、8時42分発のつばさで出発。10時JR郡山着。在来線に乗り換えて二本松に向かう。途中、車窓から安達太良山が見えた。白い点が雪とメンバーの一人が言うが、皆否定的 (後に残雪であることが判明) 。

 塩沢温泉登山口スタート 二本松から塩沢温泉行のバスに乗る。バスは、緑の林の中を走る。清々しい限りで、今が、緑が一番きれいな時であろう。ちょうど12時に塩沢温泉登山口に到着。靴の紐を締め直して出発。馬返し、金剛清水と順調に進む。緑の林の中では、小鳥の鳴き声しきり、ジージーというのは蝉の声か。三階滝を右下に遠望できる地点を通過。登山者は少なく、めったに会わない。
 屏風岩に到着し、休憩して見学。岩の頂上から下を覗くと、まさに断崖、真下の谷川の清流が透き通る程で眩しい。すぐに八幡滝到着し、大休憩。Mさんが谷川の水が硫黄臭いという。谷川を右に左に渡り返し、天狗岩の下を通過。突き出た岩が天狗の鼻ということだろう。鎖場があったがたいしたことはない。登るに従い、段々道が狭くなり、荒れていて間違いそうな所にも出会う。天狗平着。谷川の水が酸っぱい。やっぱり、硫黄が入っているのだろう。林を抜け視界が開けて、高峰が目前に迫った。鉄山か。ようやく小屋が見えた。堂々とした山荘風の小屋だ。

 くろがね小屋泊 15時30分過ぎ、くろがね小屋到着。小屋では、入浴可能で、しかも温泉。早速汗を流す。寝る前にもう一度入る。入浴後、外で自然を見ながら,ビールで乾杯。景色、疲労、水、満足感が混じり合って、ウィスキーが旨い。タ食はカレーだ。こんなにおいしいカレーは久し振り。19 時頃就寝。

 雨の中山頂へ 第2日 朝起きたら、天気は一転して雨だが、たいしたことはなさそう。5時30分朝食後、6時30分に出発。雨具、ザックカバー、スパッツが早速役に立つ。瓦礫の岩山を登る。すぐそばで、鴬がきれいな鳴き声を聞かせてくれる。イワカガミはじめ高山植物が美しい。次第に、雨、風が激しくなり、視界が利かず、標識のみを頼りに進む。7時30分頃、回りから見て一番高い所、すなわち頂上に到着。記念写真を写したが、何らの標識等もなく、どうもおかしい。ちょうど登山者がそばを通ったので尋ねたところ、頂上はまだ先という。

 登頂 ようやく、8時頃に頂上(1.700m)に着く。標識のみならず、三角点、神社等があった。再度、記念写真を撮る。しかし、視界はなく、展望は零に近い、残念。
 風南が激しく、すぐ下山開始。赤土の所で滑るも、鎖につかまっていたのですぐ止まる。でも気を付けなくてはと、慎重に下る。雨の中、高校生とおぼしき一団が勢い良く登って来るのに出会った。登山競技中とのことで、大変だ。雨が降り続く。雨具を通して浸み込み、中までびっしょりとなる。

 奥岳温泉へ 五葉松平で小憩後、道が良くなり、程なく、奥岳温泉から出ているリフトの上駅に到着。雨宿りをして休憩し、あまりの冷たさに、下着等を着替える。
 リフトが動き出して下まで降り、下駅そばの奥岳温泉富士急ホテルで温泉に入る。温泉は、午前中なのに、同じような濡れた登山者で一杯。それでも温まり一息を入れた感じ。タクシーで二本松駅へ。郡山駅へ出て、新幹線で一路上野駅へ。東京も凄い雨。上野で焼肉を囲んで反省会。
 今回の山行では、経路を変更し、第1日に奥岳温泉からリフトで上がり頂上に立っていたら良かったのではという話が出て、天気予報で経路を変える場合も有り得る、という反省をした (第1日の小屋到着直後登頂へのMH提案の重要性がようやく分かった。)。雨で、頂上等での展望は皆無であり、雨中を下ったが、全然楽しくなかったということはなく、またぜひ登りたいと思う。(94/6/18,19 21/100)

追記 深田百名山安達太良山へと福島遠征登山であった。この頃百名山を意識していたと思う。当山へは再度チャレンジしたがその時も雨であった(06.7.1)。いずれも梅雨の時期では致し方ない。当山の思い出は雨だけである。その後、登山ではなく、山歩きや里歩きが中心となった。先日東北自動車道で帰郷する時、二本松付近で、青天下、雪を抱く安達太良山を遠望した。

船橋を歩き漁港から東照宮神社へ歩く

 また千葉の船橋を歩いた。購読紙の“我がまち再発見”に船橋が掲載された(23.11.9,16讀賣夕刊)。一度訪ねた船橋大神宮はないが、様々な見どころポイントとそのルートが紹介されている。太宰や川端の文学碑や東照宮が眼を惹いた。安近楽な街歩きである。

 文学碑のある船橋 今回は、JR水道橋駅から総武線とした。船橋は近く35分程で着いてスタート。駅前の案内所でマップを貰った。大通りを下ると左手に、園芸店伊東屋があり、猫がいる店で、尋ねると店内の寝床を指さしてくれたが、留守でお散歩中だろう。お礼を言って下り続ける。
 右側の空き地に太宰文学碑があった。1935(昭和10)年から1年程船橋に借家住まいし、作品にも残しているという。隣には、借家から移植された夾竹桃もあった。
 市役所分庁舎先を右折して、川端文学碑を探す。下った地の小公園にあった。川端は当地の旅館に滞在して小説を執筆したとある。隣に三田浜塩田の記念碑があった。大通りへ戻ろうとしたが市役所構内へ迷い込み、庁舎内を通らせて貰い、なんとか大通りへ出た。

 漁港へ 次の船橋港へ方向を採る。大通りを渡り、少し進んで右折して高架下を過ぎると港の風景を捉え、山勘通りであった。前回船橋市内にある港を知って驚いた(22.12.14)。現在では海岸が引いてしまったが、往時は当地迄海岸が迫っていたらしい。小さな港には漁船が係留してある(写真上)。奥の三番瀬みなとやへ。小さな直送の魚介類の売店で、今晩の肴にと干物を求めたら、あら煮汁を御馳走してくれた。漁が休みで魚は少ないという。
 漁港に注ぐ海老川を船橋橋、八千代橋、海老川橋と遡る。戦国期前は、川に小型の舟を横に並べて上に板を渡し、人馬が通れるようにしたのが船橋であり、さらに橋の字は不要だろう。八千代橋には魚と波の像があった(写真中)。

 東照宮参拝 海老川橋で市内へ入り、東照宮を目指す。人口60万の大都市の住宅街は複雑で、神社も多く右往左折を繰り返して、東照宮神社前へ出た。社に参拝。
 案内によれば、家康が上総東金での鷹狩の際泊るため御殿を設けた地で、日本一小さな東照宮とある。家康の鷹狩好きは知られている。千葉城跡の清水に家康にもお茶を献じたとあった(08.7.28)が、東金への途中と理解した。東照宮は、日光の他にも、久能山、川越、芝公園、府中、群馬世良田等にもある。そんなことを思い巡らしながら、JR船橋駅へ歩いた。(2024/3/6 K.K.1547)

◇日時 2024/1/29 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス ◇資料 「我がまち再発見 船橋編」讀賣夕刊23.11.9、16 ◇歩行距離等 15,000歩 11㎞
「通過時間等」 自宅9:15-JR水道橋駅10:01-同船橋駅10:40=太宰文学碑10:55=川端文学碑11:10=船橋漁港11:50=船橋橋12:05=海老川橋12:15=東照宮神社12:45=JR船橋駅13:07-三田線水道橋駅13:52-自宅14:25

伊豆箱根鉄道駿豆線で修善寺を往復する

 今回は、静岡へ行き三島駅から修善寺駅へ伊豆箱根鉄道駿豆(スンズ)線乗り鉄とした。JR東日本大人の休日俱楽部パス外だが、熱海駅からは直ぐである。以前も同じパス+で沼津御用邸記念公園を訪ねたことがある。熱海迄は特急踊り子号利用で、JR池袋駅発があると分かった。東京駅よりは近く、朝ゆっくり家を出た。

 駿豆線乗車 池袋駅で、少し遅れて来た踊り子号に乗車。山手線から湘南ラインを走り、横浜から東海道本線へ入った。熱海駅迄ノンストップで、三島迄の乗車券を求め、静岡行き鈍行に乗り換えた。熱海手前の車窓からは桜の花がチラチラと見え、早咲きであろう。
 三島駅では、駿豆線修善寺行きは待っていた。約20㎞、13駅である。この路線乗車は久しぶりで、旧勤務先時代は職場旅行があり、伊豆の温泉には数回来ているが、大分前となってしまった。

 旅行の思い出 三島の市内にも駅があり、昨年参拝した三嶋神社は左手奥だろう。韮山駅を通過。韮山城址や蛭ケ小島も左手先の筈だが、駅周辺は住宅街。日中なのに乗客は多めである。田園地帯となり、子供達と幼い頃家族旅行で当線に乗ったことを思い出した。湯ヶ島温泉泊りだったと思う。当時あるプロジェクトチームに属し深夜帰宅や休日出勤もあり、家族への罪滅ぼしであった。踊り子衣装のバスガイドのボンネットバスに乗ったと思うが写真は見当たらない。
 伊豆長岡駅に着いた。長岡温泉も旅行先で、韮山の反射炉も見学している。その後世界遺産となっている。

 終着修善寺駅 終点修善寺駅に到着。駅舎は様変わりしていた(写真下)。私の記憶にある駅は木造の小さな駅であった。修善寺や温泉は大分先で、歩くには時間がなく、修善寺橋から狩野川渓谷を眺めた。この時期にしては、流れは激しいように見えた(写真上)。
 先ほど通過した一つ手前の大仁沿線には、最近知った情報がある。あのミスターが現役時代春のキャンプ前に自主トレーニングを積んだ場所が当地大仁の山里で、現在では長嶋ロードと命名されて残されているという。テレビの旅番組であったと思う。
三島行きに乗車し、東海道本線で熱海駅に戻ったがタイミング良い特急はなく、快速とした。(2024/2/28 K.K.1546)

◇日時 2024/01/28 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+1760円 ◇資料 「修善寺温泉マップ」 ◇歩行離等 6,000歩 4㎞ 
「通過時間等」 自宅8:25-JR巣鴨駅9:05-同池袋駅9:15-同熱海駅11:14-駿豆線三島駅11:32-同修善寺駅12:10/12:40-JR三島駅13:28-同熱海駅13:48-三田線巣鴨駅16:06-自宅16:30

私が登った百の名山&低山=東北編=「連続する急降下の下りに参った面白山」

 天童高原から面白山へ 本日故郷滞在3日目となり帰京する日。山形面白山(1,264m)に登ろうと、登山口天童高原へ兄に車で送って貰った。登山道に入った筈なのに平らな道が続く。これで大丈夫かな思いながらも順調に進み、コースポイント長命水の水場を40分の処30分で通過した。途中木立の間に高峰が覗き、面白山だろうと見当を付けた。
 尾根へ一登りするとまた緩やかな道。約1時間で三沢山(1,062m)を越すと、前方に目標の山が全貌を現した。一旦鞍部へ下りて、急な直登が始まった。最後のアルバイトと一歩一歩上がり続けるが辛い。時々立ち止まりを入れ上り切ったかと思ったが、山頂は未だ先。背の低い灌木の間を行くと面白山山頂であった。
 既に夫婦ハイカーが休憩中、挨拶をし、三角点を踏む。小さな大権現様の社のみがある狭い頂。展望の良い地だが、雲が出て遠望はなく、南方に南面白山や大東岳が見えるだけ。小憩後、11時に下山を開始。山頂下には下る先程の二人の頭が見える。

 難路が続くかもしかコース 直ぐ面白山高原駅へ出るかもしかコース分岐で、右折。楽に下ったのはほんの数分だけ。厳しい下りになった。急降下である上に、直線的で足場もない程の溝状の荒れた道。このような下りが次々と現れて、その度、下るルートの検討に見下ろし、気合いを入れて踏み出す始末。ストックを使い樹に掴まり、踏み場を確かめ滑らぬよう下る。時には蟹の横歩きをする。このような状態が数回続き、長左エ門道に下りた時は40分の処55分も要していた。下りが苦手だけではないと思う。展望のない下り道であったが、一箇所樹木の間に、蔵王熊野岳が見えた地点があった。

 まだまだ難路が続く 駅への最後の下山路も気が抜けない難路が続いた。ここではこれから登る3人と交差した。谷川の音が高くなり、仙山線を走る電車の音も聞こえて、登山口が近いはずだが、下りの険路は終わらない。最後のトラバース状の横道も、肩幅にも満たない上崖崩れした箇所があり、ロープに掴まり一層慎重に進む。沢へ下りて抜けると、登山口であった。後半の下りも、60分の処90分であった。時間よりは無事下山が優先と思い直した。
 駅前のコース案内を見ると、面白山への数コースの中、かもしかコースだけが“登りきつい”とコメントがあった。やっぱりと納得し、面白山高原駅へ近いからと選択したのだが浅はかであった。帰宅後、下山時の写真がないことに気付いたが、下るのに精一杯でそれどころではなかったのだ。(2013/08/18 20/100)

追記 面白山は、私にとっては、仙山線のトンネルで、日本で三番目の長さと教えられた。その上が高峰とは後に知った。実家からの帰り掛けに登った。上りは大たことはなかったが、下りには難渋した。事前調査をしなかったからだ。駅は、山寺駅奥のスキー場用臨時駅と思っていたが、常設の駅となっていた。

私鉄大洗鹿島線を水戸から鹿島神宮迄乗り切る

 最近乗り鉄を楽しんでいるが、今後はJRの外、私鉄や三セク路線も乗ろうと思う。そう多くはないが、関東地区にはそれなりにある路線。茨城水戸駅から鹿島神宮駅へ走る鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に乗ることにした。JR常磐線水戸行きに乗って、海岸線を走る鹿島臨海鉄道が目に付いていた。53㎞、15駅とある。

 常陸太田駅往復から 大洗鹿島線は水戸駅が始発であるが、その前に水郡線で、途中の常陸太田駅を往復することにした。西山荘を訪ねた時乗車したが、大分前である(10.6.27)。上野駅から特急で水戸駅に着き、水郡線に乗り、上菅谷駅で常陸太田行きに乗り換えた。当地は水田地帯で山中ではなかった。5駅の盲腸線で直ぐ常陸太田に着いたが、駅舎は見覚えがなく、新築されたよう。前回はここから黄門様の西山荘を往復した。本日は折り返しの列車に乗り、水戸駅へ戻った。

 初乗車大洗鹿島線 大洗鹿島線に飛び乗り、水戸市郊外へ出ると水田地帯で、その中を走る高架鉄道である。直ぐ大洗駅に着き10分程停車(写真上)。売店を覗き、カップの地酒を求める。大洗磯前神社訪問時(22.6.22)の復路当駅から乗る予定であったが水戸行きバスにしてしまった。
 発車した列車は、林から山中のような樹林帯も、亜熱帯植物が繁る中を走り、鹿島灘とは程遠い。逆に北浦湖畔駅では、反対側に湖が見えた。霞ヶ浦の端の沼か。期待している臨海路線に相応しい展望は未だ先なのだろうか。次の大洋駅、鹿島灘駅付近で少し海側へカーブしたようだが、チラつきもない。後に調べたら、当路線の前半は5㎞、後半は3㎞程海岸から離れているとあった。鹿島スタジアム駅を通過。サッカー試合開催時のみ停車は知っていた。

 旨くいかない乗り換え 鹿島神宮駅で、JR鹿島線佐原行きを待つ。40分程あり駅前をうろつくと記憶にある風景。鹿島神宮に二度来ている(08.11.15他)。佐原行きは、広い運河から利根川を渡った(写真下)。その間の潮来駅は乗降したことがある(13.6.20)。あの潮来の伊太郎のご当地で、歌碑もあったと思う。
 佐原駅に着く。何年振りだろうか。九十九里浜小旅行の際、当地出身のメンバーに案内され香取神社に参拝した時(17.6.3)であった。当駅でも待ち時間があり、売店に瓜の鉄砲漬を見付け、思わず求めてしまった。成田地方名産の好物だが、都内ではなかなか売っていない。
 千葉行きに席を確保したが、乗客が多く、呑み鉄はとても出来ない。千葉駅で、折よく隣のホームに東京行きの特急が来て、乗車した。(2024/2/21 K.K.1545)

◇日時 2024/01/26 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+1400円 ◇資料 「大洗鹿島線列車時刻表」 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞ 
「通過時間等」 自宅8:50-JR上野駅10:00-同水戸駅11:15-同常陸太田駅12:00-大洗鹿島線水戸駅12:44-JR鹿島神宮駅14:59-同佐原駅15:56-同千葉駅17:21-同東京駅18:00-三田線巣鴨駅18:25-自宅18:55