勿来の関から県境を越え高萩松岡城跡へ

毎年恒例の事務所の総会が、今年は北茨城開催であった。翌日、福島いわきの勿来の関は直ぐ決まったが、常磐線沿線でもう一箇所歩きたい。手許の「城郭と城下町2 関東編」(小学館)から茨城に、”松岡城”を探し当てたが、名を知っている程度で、所在地を調べると茨城高萩とありコースとしては、勿来からの帰途の途中で、丁度良い。

 歌碑が並ぶ勿来の関 朝、ホテルから常磐線勿来駅送迎バスに乗車。途中で降ろして貰うつもりであったが、運転手さんの好意で、駅からの帰り勿来の関まで送って貰った。私は二度目だ(98.11.13)が、前回は夕方立ち寄っただけで、殆ど記憶にない。
9時前で、関所を模したような建物や歴史館があるが未だ開館前。仕方なく、1人彷徨き、中央の小径を戻ると右手の丘上が詩歌の古道で、少し記憶が蘇った。遊歩道の両側に、関を詠んだ歌碑が並んでいる。和泉式部や小野小町は前回知ったと思うが、斎藤茂吉の歌碑もある。長塚節の死を悼み当地を訪ねた時に詠んだとある。有名なのが、源義家が奥州遠征の際詠んだ”吹く風を なこその関と思へども 道もせにちる山桜かな”で、義家の騎馬像も建つ(写真上)。カメラに収め駅へ戻るがコースは前回とは違え、海岸通りへ下る。先程バスで通過する際確かめた分岐点へ出て、海を眺めながら勿来駅へと歩いた。
今回ネットで調べると、勿来の関は所在地の外、存在自体にも疑いがあり、古書には歌枕としてのみ見当たるとあった。”勿来”は禁止の意味で、読み方としても、来るなかれであり、少なくとも、蝦夷の南下を抑えたい当時の都の意思表示であったろうか。

武家屋敷が遺る松岡城跡 常磐線鈍行で、福島から茨城へ入り高萩駅下車。初めての地で、案内所はなく、頭にあるアバウトな地図とルートで、城跡にある松岡小学校へ向けスタート。途中からコースに乗ったようで、下手綱地区に至り、大通りから関根川沿いに行くと小学校前で、城跡案内があった。
 松岡城は、江戸の初期、関ヶ原後、佐竹氏の秋田左遷と交代的に戸沢氏が出羽角館から封じられて築城、改名したという。その戸沢氏は最上新庄へ転封となり、私は、新庄城跡見学で松岡城を知った。その後、水戸徳川領になり、付け家老中山氏支配の地になったとある。
確かに、小学校の外周は土塁跡のよう。校門脇には、中山家土蔵が遺っていた。校門から正面の橋を渡ってびっくり。大手口のお屋敷通りで、今も両側に武家屋敷があり(写真下)、江戸末期から明治時代の儘のよう。立派な藁葺き長屋門が連なるが、崩壊寸前で工事中のテント貼りの門も見受けられる。カメラに収めながら、現在の大通りへ出ると、街中でまた同じような長屋門に出会う。当地は交通の要衝から外れ開発の波を受けなかったからであろう。そんな感想を抱きながら、駅へ戻ったが、途中のバス停で時間を見て、バスを待った。(2017/12/27 K.K. 1154/1200)

◇日時 2017/12/10 ◇天候 晴 ◇交通費現地分 600円 ◇資料 いわき市勿来関文学歴史館「歴史浪漫への誘い」、小学館「城郭と城下町2関東編」158頁 ◇歩行距離 17km 23,000歩
「通過時間等」ホテル8:00-勿来の関8:25/8:55=海岸通り分岐9:05=JR勿来駅9:45-同高萩駅10:10=松岡城跡10:55=バス停11:52-JR高萩駅12:31-同上野駅14:40-三田線巣鴨駅14:54-自宅15:20