私が登った百の名山&低山=西日本編=「師走に古都を訪ね天王山に登る」

 京都を訪ね山崎の天王山に登る。同山は、1582年、信長が天下統一を目前にして光秀に討たれた直後、光秀と秀吉が天下を賭けて雌雄を決する山崎合戦の戦場となったところである。この時備中高松城から全軍10日で戻ったという中国大返しとして知られる。電車で山崎に近づくに連れて、山側に淀川が迫ってその間は狭まり、軍勢において劣る光秀軍が、京に上る秀吉軍との決戦の場をこの地としたことは頷ける。

 山崎駅から宝積寺 東海道本線山崎駅に降りて、早速天王山を目指す。ハイキングコースになっており、標識に従い踏切を渡り坂道を上り始める。山崎付近は古くから発展して西国街道が走り、京と摂津を結ぶ交通、軍事の要衝の地であったようである。俳諧の祖と言われる山崎宗鑑庵跡を左に見て、大念寺前を通り、急坂をゆっくりと進む。先日から体調が十分ではないが、歩くのに支障があるほどではない。山麓の宝積寺に着き、一休みして水を補給する。行基が奈良時代(727年)に創建したと伝えられる古刹であることは、木造の建物からも窺われる。

 山崎合戦の場 寺からは山道となり、石だらけの道を、落ち葉を踏みながら進むと広場に出る。大阪方面が開け、足を止めて淀川越し大阪を遠望する。広場には山崎合戦を描いた絵が飾ってあった。旗立て松に着く。秀吉側の勝利のポイントは天王山を先に制したことにあり、旗立て松に千成瓢箪の旗印を掲げたところ、秀吉軍の士気が大いに上がったという。そばに設けられた展望台に上がると決戦の場が俯瞰できた。山麓の淀川付近が決戦の場と知る。

 天王山頂へ 17烈士の墓に出合う。幕末の蛤御門の変(1864年)で破れた長州藩士が葬られた所と知る。一時は天王山に陣を置いて京都を窺ったらしい。直ぐ先が酒解(サカトケ)神社。この社も古社で、本殿隣の神輿倉が鎌倉後期建立の重文とあった。名前から断酒の神様と思い、そのような俗な神社ではなく、延喜式では名神大社に列した由緒ある神社のようである。展望のない林の中の道を進むと山頂(270m)に到着。頂上は小さな平地となっており、南北朝時代から要衝の地山崎を監視するため城が築かれ、山崎合戦後も秀吉が引き継いだと案内にあった。その頃の古井戸跡を見て、観音寺を経由して下山した。

 勝竜寺城跡 下山し勝竜寺城跡を訪ねる。山崎合戦に破れた光秀は本陣勝竜寺城に後退した。さらに坂本城に引き上げる途中、土民の襲撃に会い落命して三日天下に終わったことは余りにも有名である。勝竜寺城跡は、長岡京駅から徒歩10分のところに見付かった。平成4年に公園として整備され、濠、土塀、館が復元されていた。事前調査の資料には、現在では僅かに濠跡のみとあったが大違いで、むしろ山崎合戦の頃を偲ぶ面影は何もなかった。

 朝、大阪市玉造駅そばの真田山公園に立ち寄った。1615年、大坂夏の陣では真田幸村(信繁)が出丸を築いて出撃し、一時は家康を追い詰めたこともある古戦場跡。現在は運動公園となり、その一画に幸村像と抜け穴跡が寂しく遺っていた。(99/12/25 123)

追記 現在でもスポーツの最終決戦の場を天王山、天王山を制するという。それが当天王山での秀吉と光秀の戦いに由来している。現在では京都南部の低山で、特に頂上付近にはその面影や雰囲気はなかった。