三ノ輪橋から北千住へ日光街道を歩く

 何故か千住神社を思い出し、再訪したくなった。大分前に訪ねて八幡太郎義家縁の碑があったと思う(03.12.31)。都内だから遠くはなく、何時でも歩ける。以前の記録を探すと略図があった。同一コースでは面白くなく、都電荒川線三ノ輪橋駅から日光街道へ出て、千住大橋を渡り北千住へのコースにしたい。寒くない日を選び、用務を終えた午後に地下鉄霞が関駅から千代田線に乗車。

 三ノ輪橋駅から千住大橋へ 千代田線町屋駅で荒川線に乗り換えた。最近知ったルートで、終点三ノ輪橋駅は近い。日光街道へ出て、千住大橋へ向け歩き出す。左手に古刹が並び円通寺境内には上野寛永寺から移された黒門があった。戊辰戦争の際彰義隊を葬った縁とある。直ぐ先の素盞雄神社は二度目で(17.2.4)、境内に芭蕉句碑があった筈と参拝後眺め、カメラに収めた。地元の文人達が江戸期(1820(文政3)年)に建てたもので、矢立初めの地が北千住か南千住かの論争の後者の論拠らしい。大橋へ至り、隅田川を渡り終えた左手に、矢立初の碑があり、“行く春や 鳥啼き魚の目は 泪”と刻んだ北千住の碑。芭蕉は、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)千住からおくの細道へ旅立った。直ぐ新旧日光街道分岐で、旧街道へ。青果市場前に芭蕉像が建っている。
 再訪千住神社 旧街道は現在も、北千住の中央商店街を貫き、往来も多い。やっちゃ場通りと呼ばれた道で、両側にはそれらしい古い店舗が並ぶ。高札場跡を探し回るも手許の略図の位置には見当たらない。諦めて現日光街道を横断し、千住神社へ。ほぼ記憶にある境内だが、奥州へ向かう義家が陣を構え戦勝祈願をした社で記念石碑が入口に建つ(写真上)。しかし芭蕉句碑や富士塚は記憶から飛んでいた。参拝後、句碑を確かめると“物言えば 唇寒し 秋の風”とあり、当地とは関係ないようだ。

 高札場跡、本陣跡は石柱のみ 旧街道へ戻り、道路端の案内図に高札場跡を見付け、交差点角に石柱が示し、一里塚跡もあった。カメラに収め、反対側へ戻ると信金前に、鹿沼産の芭蕉の木像があり、説明によれば、下野鹿沼に寄った芭蕉が笠を取り替えた寺に笠塚があるという。
 商店街を駅方向へ行き、千住宿本陣跡を探す。人出があり買い物客であろうか。北千住駅前を越したが、それらしい建物はない。Uターンし案内所に寄り、次の路地の角と教えて貰う。私は、勝手に建物かなと思っていたが、また石柱だけ。路地に本陣の解説板があり(写真下)、読んでいたら石柱をカメラに収めるのを失念してしまった。北千住駅から日比谷線に乗り、上野御徒町駅で大江戸線に乗り換えて帰宅。いつもと違い乗換通路が長く感じられ、 スマホで歩いた距離を見ると11kmとあった。(2020/02/21 K.K. 1313/1400)

◇日時 2020/2/5 ◇天候 晴 ◇交通費 370円 ◇資料 植村三郎「千住七福神」新ハイキング555号114頁 ◇歩数等 16,000歩 11km 
「通過時間等」用務先13:30=千代田線霞が関駅13:39-荒川線町屋駅14:00-三ノ輪橋駅14:10=円通寺14:20=素盞雄神社14:30=千住大橋14:35=千住神社15:20=高札場跡15:30=千住宿本陣跡15:50=北千住駅16:01-大江戸線上野御徒町駅16:22-三田線春日駅16:30-自宅17:05