私が登った百の名山&低山=東北編=「憧れの西吾妻山は変化に富んだ山であった」

 西吾妻山(2,035m)に登った。吾妻連峰最高峰で、深田百名山にも選ばれた我が故郷山形の名峰である。何故か駅からハイキング誌に掲載されていて、以前からマークしていた山である。大学は夏休みに入り思い切って朝市番の山形新幹線で出掛けた。登山口は白布高湯温泉にあって、現在ではロープウェイからリフト三台乗り継ぐ。後に調べるとリフト終点の地は1,800mであるから僅か200m程度の登攀である。しかし西吾妻は変化に富んだ懐の深い山であった。トレッキングコースとして紹介されている程であるから、楽なコースと錯覚していた。2,000m級の山としては、時間的には余裕があったが、ゴロ石道や岩場の急坂、岩海と呼ばれる溶岩地帯、湿原の泥道もあって、想定以上の西吾妻山であった。

 リフトを降りスタート つがもりリフト終点・北展望台から人形石を目指して山中に入ると狭い上に石がゴロゴロとした歩き難い道。ガイドにも良い道ではないとある程。登山道は木の根や岩石を越して進むのは常態だが、最近では経験のない悪路。上りが緩やかであったのがせめてもの慰め。しらびそ林を抜けて尾根に出ると人形石のある中大巓(ナカダイテン1,963m)に到着。数組のグループが休憩していた。

 たおやかな山容 右方先になだらかな緑の峰が広がり、その最高地が山頂のようだ。近寄りがたい北アルプスの岩峰とは違い、柔和に懐を広げて待ちかまえている感さえする。深田も、「人形石の峰の上に立つと、当の西吾妻山は気の遠くなるほど遙か向こうにある。・・・山稜は、稜線というよりは広大な高原で、ここへきてはじめて吾妻山西部の雄大なスケールを見た。」と書いている(「百名山」新潮文庫97頁)。雲が出て遠望はなく、期待した安達太良山や磐梯山は望めそうもない。
 灌木地帯から湿原に入って、木道を行く。一旦下って花畑となり、様々な花がチラホラと咲くのが見えるが、写真は下りにする。大凹(オオクボ)水場先から岩場の道。急登も重なり、軍手を出し両手も使って懸命に上がる。短い区間ではあったが、白馬岳大池コース天狗原先の岩場を思い出した(91/8)。再度湿原となり地糖が散在してワタスゲが咲いている。白いこの花は家内が好きであった。梵天岩から天狗岩と溶岩地帯となる。後方の遙か下には先程歩いた木道が続いているのが見えた。岩石地帯を下りると3度目湿原で泥濘状態。先へ進む外はなく泥の中に足を踏み入れた。先程来の標識が「48/50」、「49/50」となり山頂が近いことを知る。

 湿原から山頂 西吾妻山頂上は樹林に囲まれた展望もない狭い地であった。標柱がなければ見逃す程のスポット。記念にカメラに収めた。誰もいない山頂では柱に帽子をのせ、根元にザックを入れた。11時40分、歩き出して2時間弱であった。先に聳える西大巓往復には時間が足りない。バス時間が決まっている。西吾妻小屋を経て天狗岩で、登ったばかりの最高峰を眺めながら昼食。吾妻神社参拝中に携帯が振動。通じるらしいが緊急ではなく応答はしない。岩海は飛び石のように歩けば簡単だろうが、残念ながら年齢と体重でそうはいかない。

 無事下山 梵天岩、急坂を下って大凹の清水で休憩。高山での夏場の水は有り難い。喉を潤し、顔を洗った。お花畑では花々をカメラに収めながら通過する。白い花はシナノキンバイだろうか。下りではかもしか展望台を経由。途中幼児を連れた男女を追い越す。孫らしく、ゴロ石道の下りでは、祖父が負んぶした。孫は多いが小生にはとても無理。自分が下るのに精一杯といった処。予定通り、北展望台リフト乗り場に着いた。下りのリフトからは、草原スキー場でローラースキーを楽しむ子供達が見えた。地元の小中生が冬に備えてトレーニングしているのだろう。バス時間前に下山して、米沢駅から新幹線で帰途に就いた。            
 今朝バスで白布に入り、我が国山岳観光道路の走り吾妻スカイラインとスカイバレーが完成した頃、高校の修学旅行で通ったことを思い出した。遙か45年前のことであった。車中では、漬物晩菊をつまみに地酒東光をゆっくりと味わった。                                 (2006/8/3 17/100)

追記 西吾妻山も、山形新幹線利用で日帰り登山であった。麓から山腹途中までは、往復リフトを利用した。吾妻連峰は縁の薄い山で、当山と東吾妻山を登っただけである。米沢の奥の福島県境で生家からも遠い。麓は有名な山の湯白布温泉であるがこちらも縁が薄い。

都心馬場先門から日本橋、大手町へ

 購読紙から箱根駅伝100回記念写真展が日本橋のデパートで開かれていると知った。駅伝ファンとしては、是非見たい。出掛けることにしたが、序に歩く先を探した。箱根駅伝10区が1999年に日本橋経由とされて久しい。私は往路を大手町から箱根芦ノ湖湖畔迄歩き通した(「山歩き里歩き1200紀行」76頁)が、唯一10区だけが往路と違うため、歩いていない部分がある。今回そこを歩くことにした。写真展のデパート前も通る。

 現10区コースへ 10区は第一京浜から日比谷通りだが、皇居前の馬場先門交差点で、90度右折する。私は三田線を大手町駅に降り、歩いた。旧勤務先のあるビルの近くで、見覚えがある。馬場先門交差点に立ち、孫達と応援したことを思い出した。孫の一人に“中大遅いね”と言われ、2013年ビリの時であったと思う。
 銀杏並木の下(写真上)、東海道・山手線高架下から京橋交差点へ歩き、左折である。この通りは少し馴染みがある。京橋にある居酒屋龍馬を贔屓にして、時々呑み仲間と通ったルート。懐かしくなって小路に入り確かめると、看板は健在であった。ここ数年ご無沙汰である。
 東京駅前通りを渡り、高島屋前から日本橋で、ライオン像のある三越本館に入り(写真下)、写真展を見学。報道写真とある。5区箱根の山登りをして山の神と呼ばれるのは順大今井、東洋大柏原、青学大神野の各選手だが、大久保初男の写真もあった。大東大で1974年から4年連続区間賞の大活躍であった。

 私の駅伝応援の歴史 私の箱根駅伝観戦は古い。以前事務所の広報誌に書いたことがあった。     
 晩秋からは駅伝シーズン。・・・何とはいっても、箱根駅伝である。小学生の頃、某新聞で予想を見ては、ラジオ放送を聴いた。兄と二人、炬燵にもぐって贔屓のW大学を応援した。縁もゆかりもなく単に知っているだけで、当時から田舎でも周知のブランド大学であったのだ。予想とは違い優勝はおろか上位入賞も敵わなかった。この頃はC大が憎らしい位に強く、6連覇を果たした時代であった。・・・ようやく宿泊先が確保できた。兄へ連絡すると先ずは大手町で1区のスタートを見送ってから、テレビ観戦し往路のゴール後、箱根へと出掛けて、翌朝大平台で6区山下りを観たいと言って来た。・・・ (「SOEI VOICE」2009年12月vol.57)

 大手町のゴール 日本橋から大手町へ歩く。右手が日本銀行で、常盤橋を渡り、また山手線高架下から大手町ビル街がとなり、新聞社前のゴールであった。箱根駅伝記念碑があり、99の優勝校が刻まれていた。(2024/1/14 K.K.1540)

◇日時 2023/12/13 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「箱根駅伝まるごとガイド10区」2007 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅12:40-三田線大手町駅13:25=馬場崎門交差点13:40=京橋13:50=日本橋14:10=三越箱根駅伝100回記念写真展14:15/14:30=大手町15:00=三田線大手町駅15:07-自宅15:50

JR篠ノ井線で諏訪高島城跡へ

 JR東日本大人の休日俱楽部パスの最終日は、長野の篠ノ井線に乗り上諏訪へ行き、高島城跡を訪ねることにした。篠ノ井線は乗ったことはあるが、今回は風景を楽しみながらゆっくり乗車したい。最近城跡探訪の記録を整理しているが、高島城跡(91.5.1)はメモも見当たらない。見学した記憶ははっきりしている。再訪することにした。

 篠ノ井線乗車 北陸新幹線で長野駅を目指した。新幹線は速く長野は近くなった。上野から1時間ちょっとで着き、名古屋行き特急に乗り換える。鈍行が良かったのだが、過疎ダイヤではそうはいかない。それも松本駅迄ノンストップ。
 篠ノ井駅から右手の山の方向へ走った。直ぐ姨捨で、ここまでは2度乗った。棚田風景が知られ、芭蕉も寄って句碑があり、私も追っ掛けた。風景を眺めることなく特急は通り過ぎた。列車は上り切ると高原の地で、左右に集落も見え山間ではない。聖高原や明科はそれなりの駅と思うが停まらない。降りて駅周辺を散策し次の列車でとも考えたのだが。山を下りて、松本駅に停車したが、私は塩尻駅迄乗ることにした。塩尻駅での乗換えの際、駅そばで昼食。嘗て中央本線で奈良井へ行った時当駅で乗り換えたこと(17.11.28)を思い出した。この時帰途は篠ノ井線だったが夕暮れの特急で記憶にはない。

 復興天守の高島城 上諏訪駅は近く10分もしないで到着し、高島城城跡へ向けスタート。二度目でおおよそのルートは分かり、駅から近い。踏切を渡ってケヤキ並木通りを行き、左折して橋を渡ると三の丸跡で、古い味噌蔵丸高があった。
 また橋を渡る住宅街だが二の丸跡という。そして内濠の先に三層の天守閣(写真上)があった。冠木橋を渡り、冠木門(写真下)から本丸跡へ入った。広くはない郭跡だが公園で、一回り。
 当城は、1590(天正18)年から7年かけて秀吉家臣日野根高吉が築城したが、1601年戦国時領主であった諏訪頼水が帰り城主となった。その後3万石前後で諏訪氏が10代に続いて明治を迎えた。諏訪氏は、信玄に滅ぼされた諏訪氏の一族という。
 現存の天守閣は、明治時代の写真から1970(昭和45)年復元されたとある。今では50年経過しそれなりに歴史を感じさせる。当時諏訪湖は大海で迫り、浮城と呼ばれたが、天正年間から天竜川へ釜口水門の治水工事をして湖面が後退し、現在では、諏訪湖迄は距離がある。初訪の時、吉良上野介の子義周が、赤穂浪士討ち入り事件後当城に幽閉されたとの案内があったと思うが見当たらない。そのような情報はネット上にはあった。
 上諏訪駅に戻り、地酒麗人を求め、新宿行あずさ30号を待った。(2024/1/9 K.K.1539)

◇日時 2023/12/03 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス  ◇歩行距離等 9,000歩 7㎞
「通過時間等」 自宅8:10-JR上野駅9:26-同長野駅11:00-同塩尻駅12:18-同上諏訪駅12:35=高島城跡12:50/13:15=JR上諏訪駅13:34-同新宿駅15:48-三田線巣鴨駅16:11-自宅16:40

私が登った百の名山&低山=東北編=「故郷の霊峰月山は花の咲く山であった」

 遂に月山に登った。月山は子供の頃から思い出の中に在る山である。山形盆地の西方中央に位置し我々を見下ろして、登校時も下校時も、毎日同じ山姿で見守っているようであった。春遅くまでも真っ白な丸い山が印象的であった。しかし蔵王登山は盛んであったが、月山は、素人には無縁で遠い存在であった気がする。

 リフトから登山道へ 還暦三人組は、姥沢から往復リフトを利用した。牛首までは姥ケ岳をトラバースするルートで、花畑の中の木道を進み小さな沢を三本越し、左手には雪渓を見た。牛首分岐手前では緩やかな上りに傾斜が増した。多くの家族連れ登山者達と前後になりながら、30分毎に休憩を取り、人気の山を上り続ける。既に下山する者とも出会う。山頂小屋に泊まったらしい。雨の心配はなくなったが、雲が出て、展望はない。
 牛首を過ぎると本格的な山登りとなる。岩場の急登が続き始めた。しかし、登山道は階段状にしっかりと築かれて危険はない。霊山として信仰登山のために確保されたものであろう。本日の登山者にも白装束の姿が見受けられる。難所は一歩、一歩根気強く上り続ける外はない。鍛冶小屋跡で最後の休憩。頂上まではもう一息だ。S君の話では、最近まで小屋は営業していたという。

 頂上神社に参拝 山頂(1,979m)は、我が故郷から眺める山容と同じようになだらかであった。広いお花畑の中の一本道を進むと頂上神社。羽黒山の山伏達が管理に当たっていて、祈祷料を支払せられお払いを受けて最高地点エリアに入ったが、本殿では祈祷中で、三角点を踏むのを忘れてしまった。登頂記念にお札を求めた。山頂脇で昼食中に地震を感じた。結構強く、大山も揺れた。実家に電話すると被害はなく、震源地は宮城県沖という。今回は我が町の里山は見えなかった。十数回登ったS君は眺めたことがあるという。
 下山も上りと同じコース。眼下に広がる緑の絨毯の中に雪渓や花畑を見ながらマイペースで下り続ける。岩場の急降下では、二人に離されてしまった。やはり、2,000m級の登山は久し振りの上、下りは苦手で、慎重にならざるを得ない。それでもそう遅れないでリフト乗り場に着いた。

 花の咲く山月山の峰 月山は花の咲く山であった。先ずはニッコーキスゲの歓迎に驚いた。リフトから降りて歩き始めるとキスゲの黄色の花が目の前に広がっていた。今年は期待した霧降高原では会えなかったので、感激ひとしおといったところ。チングルマやキンコウカ、ヤナギランなどが花畑を占め、道端には濃紫のミヤマリンドウ、白のハクサンチドリ、シナノキンバイの鮮やかな黄花を見付けた。頂上草原にはハクサンフウロやアザミ、ウサギギクが咲き乱れ、食事したのはコバイケイソウの間であった。

 帰宅後調べると、月山はクロユリでは知られ、新・花の百名山(田中澄江著95頁)にも選ばれている。花々をカメラに収めたが、フィルムの巻き上げに失敗して一部が現像出来なかった。残念。 
 念願の月山登山を果たし、予想もしなかった花にも出会い満足して下山できた。年一度の夏山には、コースや時間、厳しさも丁度良い山であった。同行し案内してくれたS、Y両君に感謝する。次は鳥海山にチャレンジしましょう。(20005/8/16 16/100)

追記 月山は我が故郷の中心に聳える名山で、出羽三山の主峰である。なだらかで丸味を帯びた山容は月の山のようで、雪に包まれた季節はその感が強い。昭和23年制定の山形県スポーツ県民歌の冒頭に、“月山の雪紅染めて朗に明けゆく新生日本”とある。山麓は数回訪ねたが、登頂は僅かこの時一回だけ。蔵王山と比べれば、アクセスが良くないし、実家からも遠い。私には、眺める名峰であり続けている。故郷の同級生S、Y君には御所山も同行して貰った。約300年前、奥の細道を辿った芭蕉は、羽黒山滞在中、1689(元禄2)年6月6日(陽暦7月22日)強力に案内され、月山山頂に一泊し、湯殿山参拝したという。“雲の峰 幾つ崩れて 月の山”と詠んだ。

JR山田線から宮古、釜石、気仙沼を巡る

 JR東日本の大半の路線は、岩手の山田線を除き、乗り切っている。今回は盛岡から山田線乗り鉄とした。厳密にいえば、約40年前の夏休み三陸を巡った際(86.8.9)、乗っているが、記憶は薄い。山形へ帰郷する時足を延ばしたのだと思う。時刻表を調べると山田線全通列車は朝、昼、夕の三本しかなく、しっかりとした予定を組む必要がある。

 山中の山田線 盛岡発6時32分発宮古行き1番列車に乗車。1939(昭和14)年全通したが、現山田線は102㎞、15駅とある。北上川を渡り郊外へ出始めると周囲は雪景色(写真上)。北上山地を上がっているようで、次第に山へ入り山村で家屋も疎らとなる。区界駅は手前駅から30分以上を要し、スマホで調べると現在JR東日本では一番の長い駅間距離(25.7㎞)で、二駅廃止されたという。乗客の乗降は殆どない。度々トンネルを抜けて山中の渓谷沿いを走り続け、車窓からかもしかが見えた。ようやく北上山地も下りに入り、茂市駅を過ぎた。以前岩泉線が分岐していたが現在はない。

 山田線山田駅を通過 宮古駅に着いて、釜石行きを待つ。5年振りで、前回は久慈から来て釜石行きは、代行バスであった。現在三陸リアス線は繋がり、列車に乗車。周囲は熟年カップルが多く、大人の休日俱楽部会員のよう。テーブルがあり、呑み鉄用に宮古で求めた地酒を出す。津軽石駅から陸中山田駅へ。前回山田駅舎はなく、広場にプレハブ店舗が並んでいた(18.7.1)と思うが、現在は立派な駅舎であった。山田線は当駅が終着駅として開設されて、それからのネーミングと知る。大槌駅前後から車窓にリアス式海岸が現れ(写真中)、小さな岬から深い入江を繰り返して釜石駅に着いた。

 釜石駅、気仙沼駅 駅前へ出て、ひょっこりひょうたん島歌碑を探す。端に見付けカメラに収めた(写真下)。遅筆堂作家井上ひさし作で、島のモデルは先ほどの大槌の蓬莱島で、釜石に住む母親の許で2年程暮らしている。
 大船渡線盛駅迄は、三陸リアス南線に乗車する。こちらの方が、リアス式海岸が顕著で、左手にそんな風景が続く。盛駅から気仙沼駅へ代行バスで出た。演歌港町ブルースに、“・・・宮古、釜石、気仙沼”とあり、気仙沼の歌碑が再建されたらしいが、駅からは港は遠い。大船渡線で一ノ関へ着き、17時前の新幹線に乗車できた。(2023/12/28 K.K.138)

◇日時 2023/12/01 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス  ◇歩行距離等 6,000歩 5㎞
「通過時間等」 宿泊先6:15-JR盛岡駅6:32-三陸リアス線宮古駅9:56-同釜石駅11:30-JR盛駅12:40-同気仙沼駅14:21-同一ノ関駅16:48-同上野駅18:25-三田線巣鴨駅-自宅19:15

私が登った百の名山&低山=東北編=「帰省し兄に送迎して貰い登った水晶山」

 今年もお盆に帰省した。夕方ファミリーで墓参を済ませた翌日、水晶山に登った。候補には月山や葉山もあったが、実家から近く簡単に登れる水晶山にした。

 生家近くの里山 水晶山は東根市と天童市の境にある山で、昔はその名のとおり水晶を掘った山と伝えられている。標高は高くはないが故郷では知られた山。三角垂で左に傾いた山容は中学時代朝夕に眺めながら通学した。亡父も青年時代(昭和初期)に登ったと聞いたことがある。資料は持参できなかったが、地元の地図を兄が探し出してくれた。彼は仕事で2,3度登ったことがあるといい、山頂で測量のため三角点を確認したという。
 兄に車で麓まで送ってもらう。天童カントリーの先が登山口であった。周辺は整備されて、管理棟や案内板もある。そう難しい山ではないと思うが、頂上大和神社までは約1時間と検討を付ける。何時か実家で見たテレビ放送の記憶があった。

 山登り開始 杉林下の一本道を上り始めて、嗽清水を過ぎると急坂で狭い道になる。七曲がりのジクザグをゆっくりとこなして行く。やはり同級生S君が、昨日同じくIさんのそば屋で食事した際、‘水晶山は急だよ’と教えてくれた。彼は地元の高校時代山岳部で活躍した。山中は木々で覆われ展望がない中、やや荒れた道が山頂に向けて続いている。最近こちらでは熊が出ているとの報道が多いようだ。車中で兄からも熊よけ鈴を持っているかと言われた。ちょっと不安になるも直ぐに忘れて前進を続けた。出発時から雨模様を感じていたがその心配はなくなった。
 見晴台に着き休憩する。南西方面の林が切れたが見えるのは周囲の山だけ。小さな滑石(スベリイシ)を越すと上りが緩やかになり、山頂手前を進んでいることを実感する。先ほど山麓から眺めて山頂部分が平であることに気付いていた。

 三角点を探す 正面に建物が見えて、約1時間で山頂神社に到着。早速無事登頂を報告し、僅かな賽銭で家内や家族の健康などをお願いした。最高地点は裏にあるのだが道がない。携帯で兄に確認すると、ある筈だという。諦めて帰ろうとした際反対側にルートを見付け、三角点(667m)にタッチすることができた。山頂では東側が開け、東根側に山間を縫って一本道が走り、集落も見える。仙台へ通じる国道48号線かと思ったが、地図では東根市の猪野沢であった。郷土の名峰御所山は雲の中で見えないのが残念だ。下山も同じ道。参道を下り続けると、山を出たゴルフ場脇で兄の車に出会った。車には、昨日帰省した弟も乗っていた。
 今回の帰省では亡父の墓参の外、同級生との若干の交流とハイキングもできた。(2004/8/14 15/100)

追記 生家から近い東南にある里山で、奥羽山脈から少し離れている。水晶が取れたことからのネーミングとの説もあるらしい。中学時代登校時に眺め、名前と山容はよく知っていた。当時、帰省の際登ろうとは考えもしなかったと思う。私のこの記録の読者は山麓から近い地にお住まいである。私の駄文に毎回コメントを返してくれる有難い読者である。

JR常磐線、仙石線、そして女川へ

 待っていたJR東日本大人の休日俱楽部パス期間がやって来た。今回は盛岡駅からのJR山田線の乗り鉄がメインで、その前に南東北の新庄駅から及位駅を予定したが、雪の予報で気温も低い。それなら表日本側のJR常磐線で仙台駅へ行き、石巻駅、女川駅を巡ろうと思う。これらの駅間は未乗車である。そして盛岡駅前に宿泊先を確保した。

 常磐線で仙台へ 上野8時発仙台行きに乗車。常磐線唯一の仙台行き特急で、下りは初めてである。水戸駅、いわき駅を過ぎ、福島の海側を走った。富岡、浪江、双葉各駅付近では造成工事中の風景も見え、未だ復興半ばの地もあるようだ。原ノ町、相馬、そして宮城へ入り、仙台駅に着いた。約4時間の乗車で、昼食を取り石巻行きに乗り換えた。

 石巻線で初めての女川 電車は、JR東北本線から松島付近でJR仙石線に入り、石巻駅。少し待って女川行きに乗る。初乗車で石巻、女川間も石巻線と知る。石巻線は奥の細道ラインとある。芭蕉は仙台から松島、石巻、登米、そして平泉へと旅している。
 北上川を渡り、牡鹿半島へ向かっている。手前の新興住宅街は震災後の街のよう。右手車窓に静かな内湾が見え(写真上)、万石浦。カキやノリの養殖が盛んな海辺とある。反対側の車窓は山で、紅葉の林が続き、晩秋である。5駅25分で女川駅に着き、折り返し迄少し時間があり、駅前に出たが広場で(写真中)、街並みは先の海岸近くなのだろうか。それとも震災後の未整備地か。女川は、亡母に聞いていた。隣の山形から仲間達と金華山神社参りに来て、海産物でも求めたのであったろうか。女川港に金華山行きの船乗り場がある。

 小牛田、一ノ関、盛岡 女川駅から石巻線に乗り(写真下)、涌谷駅を通過。涌谷城址(22.9.14)を書いたら読者Tさんから遠足先とメールを頂いた。彼は近くの松山町出身の方であった。小牛田駅で東北本線へだが待ち時間があり、駅前に出た。ローカル駅としては大きな駅舎で、陸羽東線とのターミナル駅である。旧同僚Kさんはこちら故郷に戻ったが早世された。もう10年前だったろうか。
 通学生と一緒に一ノ関行きに乗車。一ノ関、新田間は伊豆沼の白鳥見物に一度往復したことがあるが、もう夕闇が迫り風景は見えない。一ノ関から新幹線で盛岡駅に下車。駅前でうろうろしていたら、道路端に雪がある。予報通りであった。石巻駅で求めた登米地酒のカップ酒で、部屋呑み。明日の早立ちに備え就寝した。(2023/12/22 K.K.1537)

◇日時 2023/11/30 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス  ◇資料 女川観光協会「おながわ ONAGAWA」22年8月 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞
「通過時間等」 自宅6:50-JR上野駅8:00-同仙台駅13:13-同石巻駅14:21-同女川駅14:46/14:55-同小牛田駅16:48-同一ノ関駅18:14-同盛岡駅18:50=宿泊先19:00

さいたま浦和に二社を巡り狛雉を見る

 最近テレビからさいたま浦和に氷川神社を知った。一つは、浦和出身の演歌歌手市川由紀乃が母校と隣の本太氷川神社を案内していた。そうしたら少し後に、南浦和に雉を狛犬の代わりとした氷川神社があると紹介された。いずれも興味を惹いて地図で調べたら、同じ市内で中央と南部でそう離れてはいない。我が家からも近く、安近楽コースとなろう。浦和郊外の見沼用水沿いにも氷川神社があり三社ほど訪ねている。

 浦和住宅街をウロウロ 私の浦和行きはJR埼京線で、バスで浮間舟渡駅へ出た。少し遠い浦和駅から歩く本太氷川神社を先にしようと武蔵浦和駅で乗り換え、南浦和駅で京浜東北線に乗った。浦和駅に下車し、本太四丁目を目指す。住宅街を順調に本太地区に入り三丁目だが、四丁目が見えない。学校らしき建物へと右折したが違い、神社もない。地元の方に尋ねたら方向も違っていた。大通りへ戻り、右折した先が本太小学校で、その隣が氷川神社であった。

 古社に参拝 社殿前へ進んで手を合わせ、孫たちの健康と成長をお願いした。氷川神社はあちこちにあるが、当社の社殿は一見して古社である(写真上)。調べると1500年前から鎮座と伝えられるが創建時不明とある。大宮の武蔵一之宮氷川神社からの分社と思っていたが違うのだろうか。本太小学校は、歌手市川の母校。市川は紅白にも出た中堅の歌手で、なんでも唄いこなし、私もユーチューブでカバー曲を聴いている。長身の美人である。住宅街の小路を浦和駅に戻った。30分の予定であったが、倍の時間を要した。

 南浦和氷川神社へ 京浜東北線を南浦和駅に降り、西口を出る。駅前商店街の裏手が大谷場氷川神社で、裏参道の坂を上がると境内であった。こちらも古社の社殿で、江戸前期の造りとある。また参拝して、表参道に狛雉を探し、カメラに収めた(写真下)。左は一羽だが、右は二羽で母子か。大きめの雉像で、珍しい。ふじみ野市水宮神社では狛蛙であった(23.4.29)。
 もう一社と浦和調神社を想定していたが市内西方でそう遠くはないだろうが、歩く元気を失い南浦和駅へ戻り、駅前の紅葉並木がある商店街を往復した。武蔵野線と交差する南浦和駅は、私には乗換駅で、下車し駅を出た記憶はなく、初めてだろう。京浜東北線で赤羽駅、板橋駅、三田線を帰途経路とした。(2023/12/15 K.K.1536)

◇日時 2023/11/22 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「埼玉県道路地図 浦和市」 48頁 ◇交通費 660円 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 
「通過時間等」 自宅8:30-JR埼京線浮間舟渡駅9:11-武蔵野線武蔵浦和駅9:36-京浜東北線南浦和駅9:42-同浦和駅9:50=本太氷川神社10:25=京浜東北線浦和駅10:57-同南浦和駅11:05=大谷場氷川神社11:10=京浜東北線南浦和駅11:26-埼京線赤羽駅11:56-三田線新板橋駅12:04-自宅12:25

私が登った百の名山&低山=東北編=「遂に故郷の名峰・御所山山頂に立つ」

 我が憧れの山、御所山 御所山は山形、宮城県境にまたがる標高1,500mの山で、全国的には船形山として知られ、現在では日本200名山や300名山に選ばれ、深田百名山の候補でもあった名峰である。私にとっては、我が故郷東根の最高峰でもあったことから、子供の頃から親しんだ憧れの山であった。亡き祖父(1883年生)が青年の頃に登った自慢話を良く聞いたし、また佐渡に流された天皇が脱出し最上川を遡上して御所山に隠れた伝説や粟畑の仙人の話などに纏わる神秘的な山でもあった。
 今回一緒に登ったS君が高校で山岳部に入り御所山に登ったと聞いた時は、いつかは自分もと思った。 

 同級生と登る 今回はS君、Y君それにS夫人のKさん。両君は中学の同級生。S君は奥さんと一緒にやっている果樹園経営に忙しく山はご無沙汰のようだが、直前に夫婦で月山に登ったとのこと。今回は彼の経験が頼りで、リーダーをお願いした。Kさんは、中学時代とS君と結婚当初に登り3回目と聞き、驚くとともに頼もしく思う。Y君は小学校時からの同級生で、現在はサラリーマン。ゴルフはやっているが山は数年前に葉山(1,462m)に登ったことがあるだけとのこと。私に誘われて付き合い登山。

 ブナの原生林に出会う 車で柳沢小屋を経て林道終点まで入る。我々のコースは六つある登山コース中の観音寺コースと呼ばれ、交通が不便なこととアプローチが長いためか、このコースを紹介した資料は少ない。林道が出来るまでは、遥か下、仙台へ通じる関山街道のバス停から歩き始めたという。明治期の祖父は東根から歩き途中の山中で野宿したと聞いたと思う。S夫妻も30年前はテントに泊まったという。深山で登山道は奥へ奥へと続く。
 緩やかな上りの山道を進むとブナ林に出会う。その見事さに驚嘆し、感動する。これまで、丹沢や奥多摩でもブナを見たが物の比ではない。大木、古木が林立し下方の沢に向かって一面に続くブナ林を見て、これが原生林というものかと納得する。ブナの原生林は、粟畑付近を除き、山頂下まで続いた。

 姿を現した御所山 粟畑で休憩し、仙台カゴ(篭を伏せた形の山の意)下の水場で水を補給する。楠峰手前の林が切れた巻道で、左手奥に雲を抱いた御所山が初めて見えた。山容が船をひっくり返した形に似ていることから船形山とも呼ばれる。山頂は遥か遠く、しかも緩やかではあるが下り始め、懐が深い山を実感する。Kさんが中学の時に五つの山を越えて登る山と教えられたとの話を聞いて、昔、五所山と書いた資料を見たことを思い出す。休憩を取りながら、倒木を跨いでブナ林の中を進む。

 急登、直登また急登 仙交小屋跡分岐を過ぎると上りが始まる。急な上に直登で、何故ジグザグに道をつくらなかったと先人を嘆く。Kさん一人すいすいと上る。日頃からの鍛え方の違いと節制の賜と男どもは意見が一致。ようやく上り切り平らな尾根を進むと右手に頂上が見えた。ブナ林を抜け出し、樹木のトンネルのような道からやがて潅木の中のえぐられた道となる。これが急勾配である上に真っ直ぐな溝のため両手を使い這うように上る。下りが苦手な私は帰りを心配する程の急な上りで、地図に“きつい登り”と特注のある地点。15分上っては数分休みを2,3度繰り返すと潅木が背丈より低くなり、頭上に風を感じ、頂上が近いことを知る。

 遂に山頂に立つ 11時23分に頂上に到達。上り始めて約3時間。明治期に祖父も立ったかと思うと感無量。頂上一帯はお花畑に囲まれた岩石の広場。すでに10人前後の登山者が昼食を楽しんでいた。我々も仲間に入り弁当を広げる。お花畑で咲き誇る白い花はチングルマと教えて貰う。西北に見える筈の月山、鳥海山などの山々は雲の先。それでも、時々雲が切れて近辺の山々が美しく、黒伏山などを確認する。風が出て温度が下がり始めたので、記念写真を撮り頂上を後にする。

 無事下山し皆で喜ぶ 下山は上りと同じ観音寺コース。頂上直下の急勾配の道を、ストックを使い草木に掴まりスピードを殺しながら慎重に下る。こんな急坂を先程は良く上ったと感心しながら、身軽に先頭を下るY君を懸命に追う。山のヴェテランS君も上りには苦労したと告白する。上り時に落としたコップが仙台カゴ下の水場で見付かる。拾った人が置いて呉れたのだろう。粟畑の先で最上カゴを右手に見た後、最後のブナ林をしっかりとカメラに収め林道終点に下山。
 Kさん、手を挙げて下山の喜びを表す。彼女も本当は決して楽ではなかったのだろう。私も登頂を果たした満足感と無事下山した安堵感を同時に味わう。帰りに柳沢小屋の水場で汲んだ水は、S君の推薦通りブナ原生林の下から湧いた名水だった。

 憧れの御所山に登り、念願を果たすことができた。大袈裟に言えば子供の頃からの夢が叶った。S君御夫妻、Y君のお陰である。一人でもと考えたが、上りだけで3時間も耐えられたかは疑問。長いアプローチ、最後の急登と予想以上の難コースであり、下りの後半は足がバテバテであった。
これで、100回達成と夏休み帰省の良い記念となった。(98/8/22 14/100)

追記 帰郷した時、実家近くから宮城県境奥羽山脈の山々を眺め、最奥に船底形を見付けては御所山を確かめている。ブナの原生林に感動したが、後に白神山地の原生林を見て上には上があった。世界遺産には勝てない。田中陽希さんの300名山トラバースのテレビ放映では、船形山 (御所山)もあり、尾花沢から上り、東根から天童へ下った。下山路も見覚えのある風景に見えた。尾花沢では名産西瓜も映った。1967(昭和42)年の夏休み御所山登山を計画したが、仕事の都合で断念したことを思い出した。

私が登った百の名山&低山=東北編=「ロープウェイを利用して蔵王山に登る」

 故郷山形に帰り、蔵王山に登った。蔵王山はその周辺の山形県民にとっては登山の原点となる山と言っても良いだろう。私にとっても登山と言うべき最初は、小学5年生夏の蔵王山である。高校1年、3年にも登った。ロープウェイは利用しなかったが、急登や鎖場もなく簡単に登れたという記憶である。

 ロープウェイで地蔵岳へ 山形新幹線でJR山形駅に出てバスに乗り継ぎ蔵王温泉に下車し、ロープウェイで地蔵様まで上がる。心配した天候は良い。地蔵様に登山の安全と飼い猫たまを含めた家族の健康をお願いする。周辺の山は、薄っすらと赤みを帯び季節は秋であることを教えている。
 最初は緩やかな上りの木道を進む。既に下山する人と会う。地蔵岳を越えると蔵王の主峰熊野岳(1,840m)が正面に姿を現した。南北に長いなだらかな山であるが、南側が崖になって落ちているのが特徴だ。

 熊野岳山頂を踏む 一旦下って熊野岳への上りとなる。白ペンキの外、棒杭で登山道を示している。冬期用であろう。火山特有の岩だらけの道となるが、歩き難い程ではない。途中から頂上へ直登する近道を利用して山頂に到着。歩き出して40分で頂上に立ってしまった。35年振りである。
 小憩後、斉藤茂吉の歌碑を確認し、熊野神社に参拝して、刈田岳に向かう。這松を見ながら進む。小学5年の時に知り、北アルプスと違い蔵王のものは小さいとの記憶であったが間違ってはいないようだ。

 お釜を眺める 馬の背に下ると蔵王のシンボルお釜(火口湖)が見えた。崖の一部が崩れたとの報道があったがその跡が正面に見える。お釜見物の観光客が多くなる。エコーラインが走り、すぐ近くまでリフトが動いているからだ。私も家内を連れて最初に帰郷した時お釜まで来たことがある。

 刈田岳でUターン  観光道路を避け、登山道を一人登って刈田岳(1,758m)到達。熊野岳と違い観光客が大勢展望等を楽しんでいる。山頂神社で記帳して馬の背に返し、熊野岳避難小屋を目指す。途中、宮城県側の町並みが見えた。地図で確認すると手前の大きな建物は蛾々温泉らしい。棒杭に沿って小屋に着き小憩。傍に仙台2中の遭難碑があった。熊野岳、地蔵岳間の鞍部への道は歩きやすい道。未だ花を付けた高山植物に出会いカメラに収める。後に調べたらコメバツガザクラのようだ。
 地蔵岳の山頂(1,736m)を経由し、地蔵様に無事下山を報告して、ロープウェイで蔵王温泉に下る。スキー場の草原で悠々と草を食むかもしかがゴンドラから見えた。温泉で汗を流した後、バスでJR山形駅に戻り奥羽本線に乗って実家に帰った。(97/9/20 13/100) 

追記 深田百名山蔵王山の主峰熊野岳もロープウェイを利用して、楽に登山できた。お地蔵様も茂吉歌碑、お釜も久振りであった。歌碑には、“陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ”と刻まれている。奥羽山脈を表し、茂吉翁は山麓の出である。馬の背始め、小学5年の登山で見覚えた記憶が蘇ることもあった。私には登山の原点であることを再確認したようだ。蔵王山は、その後も数回登っている。上京前冬はスキーを楽しんだ。

半端になった小田急自然ふれあい歩道伊勢原コース

 久し振りに弟と歩いた。今春の大山東山麓以来である。彼は平塚在住で、近くの小田急自然ふれあい歩道伊勢原コースにした。手元にコースガイドが残っていて、事前にpdfで送付した。私が伊勢原駅に着いたら、先着し待っていた。今回は約束の時間内だが、弟の方がいつも早い。

 伊勢原大神宮、十二社神社 土地勘のある弟のリードで、駅前通りにある鳥居下からスタート。この鳥居は大山にある阿夫利神社のものと知った。商店街通りを行き、伊勢原大神宮を目指す。思ったより距離があり、弟に付いて広い境内に入り、二社が並び外宮から内宮と参拝。両宮の他立派な社務所もある(写真上)。次の十二社神社は探し当てず、住宅街の中を右往左往。二度も尋ねてようやく集落の外れに見付かり、社殿前で、手を合わせた(写真中)。江戸後期に再建したとあるから古社で、社殿も古そう。時間を喰ってしまった。

 国道246号下を過ぎ、伊勢原も郊外の田園地帯のよう。火の見櫓があり(写真下)、カメラに収めた。未だ残っているのは珍しいだろう。耕雲寺前から大通りを渡り、左折し側道へ。ハイキングコースらしくなく、前の弟に声を掛けて戻り、次の小川沿いの里道へ左折した。そうしたら咳止地蔵尊の小社があった。私は、僅かな賽銭を入れ、風邪気味という孫の回復をお願いした。高2の孫は沖縄への修学旅行を控えて医者通いと聞いていた。

 右手の森の間にある建物は牛舎らしい。市民の森ふじやま公園には入らないで、直進を続けると大通りへ出て、東名高速道路下。左手先には大山が聳える。先ほど来、脚に疲れが出始めていて、調子が上がらない。コース半ばだろうが、弟にリタイアを伝えバス停はないかと聞く。通りにあって到着時刻を調べると少し間があり、次のバス停専大入口迄歩いて、バスを待った。左手先が日向薬師と弟が教えてくれた。
 8㎞程歩いただけなのに弟の前でだらしない姿だが、年齢には勝てない時期なのだろうと勝手に判断。十二社神社を探すのにウロウロして手間取りペースが乱れたのかもしれない。少し遅れてバスが来て、伊勢原駅に戻った。
 駅裏中華店で、昼食。弟は、晩酌のつまみを渡してくれた。先日の私の誕生日には好物の飲み物を送ってくれた。感謝で、お返ししなくてはと思う。
 後日、孫は修学旅行に参加し沖縄土産が届いた。咳止地蔵様への祈願の効き目があったようである。お礼参りは遠いので、あちらを向いて手を合わせた。(2023/12/7 K.K.1535)

◇日時 2023/11/15 ◇天候 晴 ◇資料 小田急「小田急自然ふれあい歩道伊勢原コース」 ◇交通費 1,440円 ◇歩行距離等 13,000歩 10㎞ 
「通過時間等」 自宅7:50-新宿線神保町駅8:25-小田急新宿駅8:40-同伊勢原駅10:05=伊勢原大神宮10:20=十二社神社10:45=咳止地蔵尊11:10=専大入口バス停11:49-小田急伊勢原駅(昼食)12:10/12:48-新宿線新宿駅13:55-三田線神保町駅14:09-自宅14:45
 読者Wさんから、「楽しく読ませていただいています。遅くなりましたが、1514号にあったカブトムシ型機関車についてですが、日本最初のカラー映画高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」に登場したものかと思います。」軽井沢駅前展示の草軽電鉄の機関車です。ありがとうございました。

都内台東に玉姫稲荷神社を訪ね、荒川線に乗る

 ネットからか玉姫神社を知り、未訪だなと調べると台東区も浅草の裏で、隅田川に近いと分かる。我が家からはアクセスが良くなく、手前だが地下鉄日比谷線が近いと思うが、最寄り駅も決めかねた。地図を出し、迷った末入谷駅とした。帰路は、南千住から荒川線三ノ輪橋駅へ歩こうと思う。

 吉原弁財天、吉原神社 大江戸線を上野御徒町駅に降り、日比谷線に乗り換える。入谷駅で下車し、金美観通りを歩き出す。国際通りを渡ってせんわ通りを直進。浅草の裏で、商店と住宅が混在する下町風景が続く。小さな交差点で左折すると吉原弁財天があり、参拝。
 案内によれば、関東大震災で逃げ場を失った方々が当地の池で数百人が殉難したとある。現在は狭い境内だが小さな池も残され、観音像が建立されていた(写真上)。直ぐ先左手が吉原神社。こちらも簡単に社殿前で手を合わせて、また通りを歩き続ける。
 当地は初めてで、案内には吉原遊郭があった地とあり、そして交差点は吉原大門とあった。大通りへ出て北上をしていたら、目の前が明治通りと知り、地図を確かめ清川地区へUターン。小路に入り、公園の隣に目指す玉姫稲荷神社が見付かった。

 玉姫稲荷神社 境内へ入って驚いた。狭くはない地に車が乱雑に駐車し、一画はゴミ捨て場になっている。何とか社殿前へ出て、詣でた(写真中)。由緒書きはなく、ネットで調べると、760(天平宝字4)年に創建され、王子の王子稲荷神社とも関係があり、東京大空襲で全焼したが、1953(昭和28)年に社殿が再建されたとある。氏子には、地場産業製靴業者も名を連ねており、毎年11月に「靴のめぐみ祭り市」として、靴の大安売り市が開かれるという。そうしたら、入口に靴のめぐみ祭りの幟がたっていた。後日、テレビの都内ニュースで放映され、境内にびっしりと並んでテント店舗が出店していた。ネットから、当地も浅草の地で、奥浅草と呼ばれると知った。

 荒川線に乗る 隅田川河畔へ出るべく明治通りへ歩いて、白髭橋へ。見覚えがあり、左手が石浜神社で、三ノ輪から汐入公園へ歩いたコースと重なった(21.12.3)。白髭橋でスカイツリーを眺めるが、工事中のクレーンが邪魔をしている。
 袂でバスに乗り、都電荒川線三ノ輪橋駅へ。最近、ご当地ソングの女王水森かおり(近くの北区出身)が“遮断機が 上がって下りて 一両電車が行く・・・”と唄う“荒川線”があると知り、聴いた。久しぶりの荒川線は下町を走り(写真下)、王子駅から飛鳥山の坂を上がって、巣鴨新庚申塚駅に着いた。(2023/11/29 K.K.1535)

◇日時 2023/11/08 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「東京都市図 入谷」29頁 ◇交通費 180円 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」 自宅8:20-大江戸線春日駅8:58-日比谷線御徒町駅9:10-同入谷駅9:15=吉原弁財天9:35=吉原神社9:40=玉姫稲荷神社10:10=白髭橋10:25-荒川線三ノ輪橋駅10:40-三田線西巣鴨駅11:26-自宅11:55

私が登った百の名山&低山=東北編=「故郷の名峰甑岳にチャレンジする」

 甑岳(コシキタケ)は、宮城県境周辺の山以外では山形県北村山地方最高峰で、1,016mあり、子供の頃から、朝な夕なに仰ぎ眺めて来た山である。今回の登山は、夏休み帰省を機に計画した。地図等を探したが詳しいものはなく、5万分の1の地図だけである。北から見える山型が昔の聖篭・甑の形に似ているからの命名らしい。

 楯岡口から入山 前日は、東根(山形県東根市)側から登ろうと甑岳直下の登山口と思われるお不動様を探したが見付からず、周辺の沢等を一時間以上さまよって結局断念し、今日は、楯岡(山形県村山市)口から登った。登山口は、東沢公園へ行く手前の右側にすぐ見付かり、少し山に入った村山市の上水池の脇まで、車で送ってもらい、歩き始める。車も通行可能な林道をしばらく進む。既に下って来る車と会う、きのこ採りか。間もなく林道も終点となり、丸木橋を渡って登山道となる。三本の丸木からなる橋は二本が折れていて、一本のみ通行可能で慎重に渡る。緩やかな上りの杉林がしばらく続き、30分歩いて5分休憩を取る。

 登山口の案内図には頂上まで6kmとあって、2時間30分前後で頂上到達と読んだが、それ以上は見当がつかない。頂上まで一本道なので迷うことはないだろう。完全ではないが標識もある。清水、馬立沼を通過。新道旧道分岐点で、約1時間経過し、休憩。林の中からきのこ採りの人が出て来る。挨拶をして尋ねたら、頂上まではちょうど中間の地点だという。栗や楢の林の中を、倒れた大木を超えて進む。林の最後の地点が急坂で上ると尾根に出た。そこで、やっと東根側が見えた。標識があり、「左頂上、右東根ハチガ沢山荘」とある。山小屋があるとは聞いていなかったので、興味が沸く。緩やかな上りの尾根道を登り続ける。頂上はすぐかと思ったが未だ先のようだ。時々、東根側の山々が見え、下に見え隠れしている林道は昨日通った道のようで、すぐ下の沢も昨日ウロウロした所のようだ。あんなに近くまで来たのに登れなかったのは残念としか言いようがない。

 尾根から登頂 尾根道は緩やかな上りで岩場も無くて歩き易く、木々も低くなり、道のそばには桃色の花があるが名は分からない。これまでのオーバペースが崇ってか、ペースダウン、小憩を取りながら登る。頂上が近いので自然に足が急いでいるのであろう。意外に遠いなあと思った途端に、少し広いスペースに出て、そこが頂上。念願の甑岳山頂に立った。オーバーに言えば、30数年前に一度試みたが途中で引き返したので、それ以来の悲願達成である。所要時問1時間50分。速めだ、いや速すぎた感じ。

 展望を楽しむ 頂上は、360度とはいかないが、展望が良い。東は黒伏山系、西は葉山山系、その間に、東郷、神町、天童、最上川を挟んで谷地、大久保方面が見事に見える。東根本町や楯岡は、山の真下で見えない。村山平野は稲穂の黄金波を打っているが、街並みが広がり、大きな建物も多く黄金の絨毯とまでは言えない。
 頂上には、祠や最上徳内(楯岡出身で江戸末期の北方探検家)の顕彰碑、登山者の登頂記念の杭があった。尾根道を下る。上る時は気が付かなかったが、意外に急降下だ。拾った杉の枝を杖として使い、慎重に下る。途中、男女5人の中高年グループに出会う。甑岳も中高年登山者の恰好の山であろう。

 東根側へ下山 頂上・東根(ハチガ沢山荘)分岐点に着く。東根側に下りようと決心。ハチガ沢山荘への道は、最近歩いた形跡は無いようだが、急坂には階段やロープがあり一応整備されている。しばらく、防火線として設けられた土塁の上の道を進む。ハチガ沢の六の坂から一の坂を下り、ようやく山荘に到着。12時に近い。下り口に「甑岳登山口4km」と書かれた小さな木札があった。現在では、ここが東根側の登山口なのだろう。途中、右手に沼が見えた。大木沢沼だろうか。
 ハチガ沢の下り口は、多分こうだい橋のところだろうと予想。所要時間は10分か20分か。ところが、ハチガ沢は意外に深い。下れども、下れども沢は終わらない。結局、約40分を要してハチガ沢を抜け出し、こうだい橋を通過。ここからは、ひたすら東根目指して歩く。13時30分に無事帰還。実家ではそんなには心配していないのでほっとした。 

追記 甑岳は子供頃から毎日眺め、高峰と思っていたが、最近帰郷すると高めの里山に見えてしまう。北ア始めそっちこっちの高山を経験し眺めたからであろうか。それでも、甑岳は、今も麓の我が故郷を見下ろし続け、懐かしい山、懐かしい風景である。5年後同級生Yさんと再登した(99.8.29)。

湘南大磯に松並木を再訪し平塚八幡宮へ

 JR東海道本線沿線を歩くことにした。とは言っても小田原手前で、湘南の地である。大磯の東海道には松並木が遺り、一度歩いたことがあって(99.12.8)、その印象が残りもう一度である。平塚にある八幡宮にも寄りたい。駅から近いと知る。そして、茅ヶ崎の寒川神社は古社で、相模一之宮である。

 大磯駅から松並木を往復 小田原駅から乗った東海道本線を大磯駅で下車。先ほど車窓から松並木を確かめた。駅前を右手へ進み、東海道へ出て側道を行く。左手に松の木が見えて近づくと大磯町役場付近で、もっと先だろう。20年も前のことで記憶が薄い。大磯中学校前を過ぎると、松の木が見え始めた。カメラを出し歩き続ける。
 街道両側に松の木はあるが、もう並木を形成しているとは見えない(写真上)。歴史を刻んで、生き残りの松達なのであろう。アングルを探す。大磯の松並木に最初に会ったのは、中学の修学旅行時で、箱根強羅温泉を往復した際であった(1959(昭和34)年3月)。そして、正月の箱根駅伝4区、7区のコースで、テレビでも時々眺めている。東海道旧道は狭く、並木の外側に道が設けられて、現在では、上りと下りの街道が並行している。旧吉田茂邸は少し先だろう。
 駅へ戻りながら、当地の旅館に宿泊し箱根駅伝を応援したことを思い出した。1月3日の復路7区で、一度は兄夫婦と、もう一度は娘夫婦と一緒であった。箱根に宿泊先が確保できず、当地の知り合いに紹介して貰った。目の前をランナーたちは通過したが、速かった。母校の活躍を期待しているが、エースの復調がカギのようである。

 平塚八幡宮は大社 東海道本線を平塚駅に降り、駅前案内図で確かめ、八幡宮を目指す。平塚のこの辺りは初めての地。ネット情報では近いとあったが、駅前大通りを直進するがなかなか見えない。三叉路に架かる歩道橋が宮前とあり、ようやく着いた。
 意外にも大きな神社で、大鳥居から池に架かる橋を渡る長めの参道を進み本殿前へ至り(写真中)、手を合わせた。広い境内には樹木が生茂り、小社が並び神馬もいて厩舎もあり、幼稚園も併設されている。社伝では仁徳天皇68年(380年)創建という。

 境内を一回りして、駅へ戻る。歩道橋は避け、右手信号のある交差点を渡り、商店街を通り平塚駅であったが、脚に疲れが出始め、茅ヶ崎の寒川神社は止めにして、東海道本線に乗り続け新橋駅へとした。実は昨日も箱根仙石原でススキ草原を歩いていた(写真下)。その所為であろうか。年齢には勝てない。残念である。(2023/11/24 K.K.1533)

◇日時 2023/10/30 ◇天候 晴  ◇交通費 2,710円 ◇昭文社「箱根駅伝丸ごとガイド往路4区」35頁 ◇歩行距離等 13,000歩 9㎞ 
「通過時間等」 宿泊先8:00-JR小田原駅9:16-同大磯駅9:40=東海道松並木9:55=JR大磯駅10:25-同平塚駅10:35=平塚八幡宮10:45=JR平塚駅11:15-同新橋駅12:32-三田線内幸町駅12:45-自宅13:25 

私が登った百の名山&低山=東北編=「乳頭温泉から田代岱湿原を往復する」

 田沢湖から乳頭温泉郷へ 盛岡から田沢湖に着くと雨は本降りとなった。雨に煙る夏休み前の湖畔は観光客も少ない。散策や釣りも適わず、レストランで麦酒を戴く。当地産の地麦酒はなかなかのものだ。バスの到着を待って、乳頭温泉郷の一つ黒川温泉を目指す。バスを降りた国民休暇村で昼食を済ませ、我々一行5人は黒川温泉に向けて歩き出した。

 一軒宿黒川温泉 秘湯と呼ばれる温泉は、やはり車で玄関横付けではらしくない。自分の足で辿り着いてこそ山奥の一軒宿の気分が増すというものだろう。タイミング良く雨は上がっている。ブナ林の中の道をゆっくりと歩くと、空吹湿原の入口が見付かったが、雨後の悪路に皆敬遠してしまった。温泉特有の硫黄の匂いがし始め、20分程で谷に下りて黒川温泉に着いた。一人、空吹湿原を歩いた。ブナの密林の一画にある小さな湿原は既に夏であった。

 田代岱湿原を往復する 山峡の谷底に建つ茅葺きの湯宿は、温泉と食事のみが楽しみだ。夕食時に聞いた山帰り客の情報では、田代岱湿原は花盛りという。当温泉がロケ地となった一昔前の女優中野良子のポスターと並んで貼られた湿原一面に咲く高山植物のポスターも、登山意欲をそそる。天気もどうやら雨ではなさそうだ。乳白色の朝湯を楽しんだ後、一行に断り、一人田代岱湿原に登ることにする。おにぎりを特注して、地図や雨具、水と一緒にザックに背負った。
 黒川温泉の下、孫六温泉先に登山口は見付かった。取り付きから急坂である。雨上がりの山道を滑らないようにゆっくりと上る。昨夜はたっぷりと睡眠を取り、休養十分で調子は悪くない。ブナの大木の間を過ぎると直登の道は更に勾配を増す。展望のない林の中のルートは頂上湿原まで、楽しみはないのだろうか。心持ち周囲の木々の背が低くなり、沢のような道になった。もう、高度は1200mを超えている筈だ。ほぼ予定の時間で潅木を抜け出し、湿原に到着。早速日光キスゲが目に飛び込んできた。

 高山植物と出会う 尾根道と交差した地点で、腰を下ろして休憩する。登山口以来人っ子一人にも出会わない。雲が低く風がある山頂の湿原は寂しさが漂い、長居は無用である。湿原に咲く花は昨夜の情報程ではない。それでも湿原の木道を少し徘徊して4種類程(イワブクロ、アカモノ、ヨツバシオガマ等)の高山植物をカメラに収めた。
 初めての山は上りと同じルートを採り、ほぼ変わらない程の時間を要して、孫六温泉に下りた。中年夫婦の入る温泉に浸かり、汗を流す。黒川温泉とは違い湯は透明であった。本格的な登山は久しぶりどころか、昨年の夏山以来で、風邪気味でもあり、体力的に心配であったが、先ずは順調にこなした。下山後、バス待ち時間に大釜温泉で秋田の地酒「酒王秀よし」を求めた。

 秋田新幹線で帰京 バスで田沢湖駅に出て、秋田新幹線で帰京した。途中、駒ヶ岳の麓を通り、未だ余力が残りバスを降りようか一瞬迷うも、展望のない山は魅力が少なく、次に回すことにした。夕方には自宅に戻り、午前中は陸奥秋田の山頂にいた筈の自分に驚いた。
 今週はK工業会研究会に招かれて、その後の分科会にも参加させて戴き、そのついでに秘湯から山を楽しませて貰った。皆さん大変お世話様でした。ありがとうございました。(2001/7/13,14 11/100)

追記 秋田の山は当山のみで、乳頭山の近くようである。乳頭温泉郷で、黒湯や孫六温泉を楽しんだ。その後、城跡巡りや乗り鉄はでは数回秋田を訪ねたが、鳥海山の鉾立口も車で往復であった。秋田駒ケ岳はチャンスが巡って来なかった。

都心平河町から濠端を桜田門へ歩く

 購読紙木曜夕刊の“我がまち再発見”は毎週楽しみなシリーズである。現在の私に最適なアウトドアガイドで、これまでも数度紹介コースを歩いている。今回は、東京・半蔵門コースが掲載された(23.10.12讀賣夕刊)。特に、平河天満宮が目に付いた。当社参拝を中心にマイコースを描いた。
 神保町駅から半蔵門線に乗り永田町駅に降りて、複雑な迷路を思い出した。赤坂のプリンス通りへ出たいが、これが大回りした上に南北線ホームを端から端まで歩き改札を出て、山勘で上がった先が偶然にもプリンス通りで、ラッキーであった。

 永田町駅から平河天満宮に参拝 両側にホテルがあるビジネス街と思う。直ぐ、赤坂プリンスクラッシックハウスで、西洋邸宅風のホテルが建っている(写真上)。現在もレストランとある。見上げてカメラに収めた。通りを直進し、初めてのような風景が続く。日本テレビがあった麹町はこの辺りだったろうか。
 平河天満宮を目指し右折して、右側通りを覗き、坂を下ると鳥居があった(写真中)。都心にしては広い境内。伏せた牛の像が左右にあり、本殿前で参拝。由緒書きによれば、太田道灌が江戸城内に創建したが、秀忠が当地に移したという。鳥居には空襲の痕が遺るとあり、確かめた。 

 国立劇場から濠端へ ガイドにある有名天ぷら店があったが、開店前。半蔵門は省略し、国立劇場へ。外観は正倉院の校倉造だが、老朽化で建て替えすると、先日テレビの“笑点”で知った。裏から正面へ回る(写真下)。私には縁のない劇場だが、一度だけ旧職場の観劇会に入場した。家内と一緒で30年も前のこと。
 内堀通りを渡り、濠端を下る。右手が最高裁裁判所。ここは思い出がある。旧職場時代上告案件があり、指定代理人に名を連ねた。口頭弁論が開かれ、裏門から小法廷傍聴席に入った。予定通り上告が容れられ、勝訴した(13.7.6判決 パームスプリングスポロ事件)。

 櫻田門、日比谷公園 濠を眺めながら下り続ける。広い江戸城の内濠には、水鳥が浮き、大きな白い鳥は白鳥だろうか。右手に警視庁が見え、桜田門へ左折。外門から桝形に沿い内門へ。久しぶりだが重厚な門構えは健在。平日なのに皇居一周のランナーも見受けられる。
 城外へ出て、日比谷公園へ。若い頃から馴染み深い公園だが、すっかりご無沙汰。端を通り抜け三田線日比谷駅へ降りた。日比谷公園でも、野菜や果物販売のテントが張られ、野外生け花展のような催物が行われていた。(2023/11/15 K.K.1532)

◇日時 2023/10/25 ◇天候 晴 ◇資料 「我が町再発見 半蔵門編」23.10.12讀賣夕刊、 ◇交通費 180円 ◇歩行距離等 10,000歩 7㎞ 
「通過時間等」 自宅8:40-半蔵門線神保町駅9:28-同永田町駅9:50=プリンスホテルクラッシックハウス9:55=平河天満宮社10:10=国立劇場10:25=櫻田門10:50=日比谷公園11:00-三田線日比谷駅11:16-自宅12:00

谷川一ノ倉沢から天神峠で紅葉を楽しむ

 一ノ倉沢へ 一ノ倉沢下に着いて、晴天無風の中、大岩壁を見上げた。久しぶりで、もう雪渓はなく、樹々は色好き始めているが紅葉には少し早い。当地一ノ倉沢出合は四度目だ。最初は谷川岳登攀後巌剛新道を下った時(94.7.31)で、登山家の先輩にリードされフラフラしながらであった。次は湯檜曽川を遡り、渓谷を出て眺めた(04.8.6)。そして、新潟側から蓬峠で谷川連峰を越し当地に着いたのが11年前であった(12.8.5)。

 本日は、Sさんの車で、関越高速からJR土合駅前を過ぎて、一ノ倉沢行きバス停に着いた。紅葉狩りに私が当地を推薦した。案内所では見頃ですという。電気バスに乗車し、一ノ倉沢へかう。
 湯檜曾川沿いで、山裾の山道は国道291号だが、明治初期に造られて直ぐ豪雪で崩れて新潟の清水峠へは不通となったという。ハイカーを追い越し、西黒尾根登山口、マチガ沢出合を過ぎる。巌剛新道登山口で最初の時の下山先であった。そして一ノ倉沢出合に着いた。

 一ノ倉沢を眺める 一ノ倉沢岩壁は険しく、そそりたっている(写真上)。目が慣れたら私の記憶、印象よりは狭く、岩壁もやや鋭さが減少したようにも見える。これまでは雪渓へ上がり、近くで眺めたからか。最高部にトマノ耳(1963m)、オキノ耳(1977m)の谷川山頂を探した。双耳峰で、私はどちらも踏んでいる。Sさんを遭難者プレート碑へ案内。昭和30年代ロッククライミングの事故死が多発し魔の山と呼ばれたという。
 振り返ると白毛門(1720m)で、こちらは紅葉が進んでいる。日本海からの風を受けているからか。電気バスで戻った。2度は徒歩で、3度目はジャンボタクシーを利用したと思う。

 紅葉の天神平 ロープウェイで天神平へ上がり、さらにリフトで天神峠へ出た。こちらは、紅葉が進み、見頃直前か(写真中)。雲もなく、谷川岳の全容もくっきりと素晴らしい眺め(写真下)。
 天神峠は標高1500m程で、リフトは紅葉した灌木の間を上下した。94年私達が登ったルートもおよそ確認できた。平日なのに人出があるが列をなす程ではない、天神峠は再訪で(21.9.13)、前回は夏の終わりであった。天神平のレストランで昼食を取り、下山。
 車はJR土合駅前から水上温泉街を抜け、関越高速へ入り帰途に就いた。Sさんお世話様、ありがとうございました。谷川の紅葉いかがでしたか。(2023/11/10 K.K. 1531)

◇日時 2023/10/18 ◇天候 晴 ◇資料 谷川岳ロープウェイ「谷川岳」 ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞ 
「通過時間等」 自宅6:20-谷川岳資料館前バス停9:30-一ノ倉沢出合9:50/11:00-ロープウェイ土合口駅11:30-同天神平駅11:40-天神峠12:00-ロープウェイ天神平駅(昼食)12:30/13:00-同土合口駅13:10-自宅16:00

私が登った百の名山&低山=東北編=「熊の親子に遭遇し逃げ帰った寒風山」

 ハプニングは午前10時40分に起きた。寒風山頂上が目前で、時間的にも10分程度で山頂到達の地点であった。
 今回は仙台研修旅行に参加し、翌日曜日地元在の同級生Aさんの案内で、山形、宮城県境の寒風山(1117m)を目指した。彼とは3年前やはり県境にある二口峠を歩いた(03/12/6)。国道48号線関山トンネル傍から上り始めた。取り付きから急坂で、しかも肩幅程度の山道。最初の沢を渡るとジグザグの葛篭折れを繰り返して高度を上げる。注(写真は「自然朴の会」山行記録HPより)
 東北特有のブナ林の中を、順調に行く。梅雨の時期で雨が心配だ。尾根に出ると左方に頂上が見えた。二度目の休憩を取った先からは、登山道としては珍しい直線の道が続く。また左が開けて、先の山は南面白山とAさんが教えてくれた。寒風山は県境にある山だが、仙台市と我が故郷東根市が県境を接して、現在は県境を越して東根市に入っているのかもしれない。
 小さなピークに到着し、コブノセとある。私がずっーと先頭だ。ブナ林を抜けて、少し下って笹藪の中に切られた道を進むが、草が覆い最近の踏み跡が見当たらない。東北の深山なのだろう。そう言えば、日曜日なのに、登山開始以来人っ子一人にも出会わない。雨模様で控えたのであろうか。先程来頂上が見え始め、草原状の藪から少し上りに掛かり、またブナ林に入ろうとした。

 突然、ザ、ザ、ザっと藪を掻き分ける音がした。カモシカか、それとも熊か。いつかカモシカが草原を走るのを目撃した時、似たような音を聞いたことがあった(94/8/8)。我々を察知して右の方へ逃げたのだ。しかし、フン、フンと動物の鼻息らしい音がする。3m程先である。後ろのAさんにその旨伝え、前方のブナの木を見上げたら、真っ黒な小さな獣、熊の子供が、こちらを見ているではないか。そうすると先程の音は親熊で、近くに潜んでいるに違いない。これはやばい、子連れの母熊は一番危ないと聞く。
 二人は急遽戻ることにし、Uターンした。一瞬、熊の子を携帯で写そうとも考えたが、逃げるのが先であった。熊の方が我々の接近を知り、先に逃げてくれたから助かった。出っくわしたらと思うとぞっとした。Aさんがザックに鈴を付けていた。これが静かな山中では熊に届いたのかもしれない。普段は付けていないが、今回特別に準備したという。何か感ずるところがあったのだろうか。私もジュネーブで求めたカウベルを付けているが音が小さい。
 コブノセまで戻り、Aさんは昼食にしようと言ったが、熊が追って来そうで、食欲がわかない。臆病だなとAさんは言う。こういう場合は、臆病な方が良いんだと言い訳をした。そのまま登山口関山トンネルへと下りた。丁度これから登ろうとする男性に熊出現を伝えた。彼はその地点を我々に確認しながら、笛を持っていると言って、山中へ入って行った。作並温泉で汗を流し、食事にした。仙台へ戻り、Aさん宅に招かれて、当地名産で旬のほやを肴に麦酒をご馳走になった。(2006/6/25 10/100)                                                               追記 熊との直接の遭遇の記憶は未だに残る。熊たちの生活圏に、こちらが挨拶なしに踏み込んだのだから止むを得ない。熊さん御免なさいで、被害を受けなかったのが幸いだったろう。東信濃の山中でカモシカに出会ったが、こちらを一瞥して去っていった(葛尾城址 94.4.25)。羅臼岳の登山道でエゾシカ二頭にも遭遇した(07.8.31)。今年の熊さん達の行動は異常なようだ。
仙台在の高校同級生Aさんとは、栗駒山や会津磐梯山を登った。

秩父に小鹿野ダリア園を鑑賞し両神神社へ

 ネットで、秩父小鹿野のダリア園が見頃と知った。小鹿野は秩父鉄道から離れ、アクセスが良くない地で、西武秩父駅からバスとある。折しも、Sさんから紅葉狩りの話があり、提案したら乗ってくれ、小鹿野行きとなった。天候と花の咲き具合が心配だが、互いの空いている日となった。ダリアの花期は短くはないだろう。

 秩父小鹿野へ 晴天の下、6時30分我が家近くで待ち合わせ、大宮バイパスから浦所道路を走って、関越道へ入った。長瀞迄は、1500回の宝登山行きと同じコース。高速からは順調に進み、秩父市手前で山側へ右折し小鹿野となった。役場付近からダリア園の案内があり、秩父も奥地となり、山裾のダリア園に着いた時は、9時過ぎであった。

 広いダリア園を巡る 小鹿野ダリア園は山峡の農地に、農家の方々が栽培している園で(写真上)、350種、5000株、関東地方最大級との宣伝フレーズ。早速入園料を支払い、鑑賞開始。
 意外と広い園内を私は、左側の列から巡り始める。多種多彩な花々が満開で、花の色も赤、橙、黄色と様々な花々が咲き揃っている(写真中、下)。黒っぽいのもある。長くはない列にも、数種類のダリアが連なり、私は、背が高く好きな色の花へカメラを向け、列の間を歩いた。ダリアは花の色が鮮明で、しかも花の形状も多彩であり、見応えがある。
 子供の頃父が庭で咲かせていて少し馴染みがあったが、久しぶりのダリアは、山奥の斜地一面に列をなし咲いていた。人出が増えた中、列から上下へ移動して、花を楽しんだ。最後に道を渡り、諏訪神社前から山裾の園を往復した。ダリアの花束を求めて園を出た。

 両神神社参拝 Sさん、両神神社へという。狭い山道を上がり続け、少し歩いた最奥の地大谷口の両神山登山口にあった社は、見捨てられたような古い木造で、参拝にも踏み抜くではと心配になる始末。一応手を合わせ戻った。私は、少し先にある両神神社を思い出し、下った先を旧両神村側へ右折するようSさんを案内。
 私の山勘が当たり、少し走った先に道の駅や薬師の湯があり、その手前に両神神社はあった。参拝し直した。私は、四阿屋山(アズマサン771m)に登った時、ここでバスを降り往復したことがあり、それで少し記憶が働いた。帰宅後調べると13年前であった(2010.11.20)。さらに、百名山両神山へ(1995.4.29)も、小鹿野役場前から両神神社のある大谷口登山口を通っていた。
 道の駅で昼食後、往路を戻り、15時前に帰宅した。Sさんありがとうございました。お世話様でした。(2023/11/3 K.K.1530)

◇日時 2023/10/05 ◇天候 晴 ◇資料 小鹿野町観光協会「小鹿野ダリア園」 ◇歩行距離等 11,000歩 8㎞ 
「通過時間等」 自宅6:40-小鹿野ダリア園9:10/10:10-大谷口両神神社10:40-両神神社11:45-道の駅昼食12:00/12:45-自宅14:45

私が登った百の名山&低山=東北編=「天候に翻弄された宮城の名峰栗駒山」

 晴れ後雨、そして風 東北新幹線をくりこま高原駅に降りると晴れていた。よし、本日は登山日和と微笑んだ。数日前の予報は良くなかったからだ。今回は仙台在の同級生Aさんと栗駒山を目指す。この山は東京でもマニアには知られた山で、以前から目を付けていた。車は宮城県の穀倉地帯を走る。山が近付くに従い雲行くが怪しくなってきた。ついには暗雲が立ちこめて雨が落ちてきた。しょうがないなーとあきらめざるをえない。山間を走りやや長いトンネルを抜けると雨は降っていない。登山口いわかがみ平に到着。風は強いが雨は止んでいる。

 東栗駒コースは悪路 雨具はザック内のまま出発。最初から沢登り。水はないが溝の中を、泥を避け、岩を越して進む。車中で想定したコースではなく、Aさんが変化を持たせるため、わざわざ選んでくれた。彼は地元のメンバーと数回登山済み。それにしても歩き難い。段差が激しい大岩は一気には上がれない。足場を探し、草木を捕まえては前進を続ける。紫のリンドウが咲いているが携帯を向ける余裕がない。Aさんとは離れてしまった。“東高ファイト、ファイト”と高校時代の掛け声で前方から励ましてくれた。

 滑め沢、淵に出会う どうにか沢を上り切ったら大きな川(新湯沢)に出た。既に高度1,500mはあろう地に幅5m程の谷川が出現し、激しく流れている。一度は岩上から跳んで渡渉し、滑め沢や淵を覗きながら行く。こんな山歩きは珍しい。
 再度山側に突入。歩き易い灌木地帯から草原の道。両側にはリンドウが咲き誇っている。右下に先程のいわかがみ平の駐車場を確認して、東栗駒山(1,434m)を越した。相変わらず風は強い。帽子が飛ばされないようにポケットに仕舞った。大岩の傍で外人と二人連れペアに会う。入山して初めて、こちらは裏コースらしい。

 雨具を着ける 雨が強くなってレインコートを着る。栗駒山は近いと思っていたが未だ先とAさんはいう。高原状の尾根道から階段になり傾斜がきつくなる。ナナカマドが色付き当山は秋の気配が漂っている。二人は前後になりながら上がり続ける。左手からの中央コースの道と合わせた。Aさんが言うには、地元では深田百名山に漏れたのを嘆いているという。整備された階段のある山では資格がないと冷やかした。13時ジャストに登頂(1.627m)。既に山頂広場には数名が休んでいた。その後も次々に上がってくる。それも老若男女と様々。流石人気の山である。登頂コースも宮城県側、岩手県側と5,6以上あるようだ。

 広大な栗駒山域 山頂神社に参拝し、記念写真を撮って昼食。小雨、風で展望はない。鳥海山が望めると期待はしていたのだが。中央コースを下山。雲が散った合間に山腹から裾野一帯を一望する。ブナ林に覆われた栗駒山麓は広大であった。可愛い名とは違い深く、広い山域を有している。百名山を目指したのも納得できた。急な直線コースを下る。途中小ピークから東栗駒山を捉えた。しかし、携帯を向けている間に雲間に隠れてしまった。

 下山後晴れる いわかがみ平に下山し、駒の湯で入浴。元湯治場で、汗を流して、仙台へと向けた。車窓から太陽が顔を出したのが見えた。残念、本日の天気はどうなっているのだろう。山の天気は移り気だということか。仙台駅まで送って貰い、帰京。また今夏も登山のガイド、送迎とAさんには大変お世話になってしまった。有り難うございました。翌日岩手、秋田は大雨と報じられた。(2007/9/16 9/100)

追記 仙台在の同級生の案内で栗駒山に登った。奥羽山脈宮城の主峰である。上りのコースは変化に富んだきついコースであったが、下りは踏まれた一般登山コースでゆっくり下山した印象であった。「栗駒山というのはやさしい名前の山だと思う。・・・5月中下旬の頃、山頂西側に飛翔する天馬(駒)の雪形が浮かび上がるのが、山名の由来という」とある(岩崎元郎「ぼくの新日本百名山」朝日文庫252頁)。
駒の湯は、2008年の地震で被害を受けたが、ネット情報ではその後復興したとある。

都内渋谷から表参道へ歩く

 ここ数年渋谷行きを避けていた。某放送局のコロナ報道でいつも渋谷駅前の混み合うスクランブル交差点が大写しされ、それで敬遠していた。渋谷散策コース案内のスクラップは大分前のもので、ファイルの一番下にあった。ようやく落ち着いて、そろそろ良いだろうと出掛けることにした。友人達との生け花展鑑賞で待ち合わせがあり、その前に歩きたい。

 渋谷はハチ公像から 神保町駅から地下鉄半蔵門線に乗り、渋谷を目指した。渋谷は近く、地下駅からJR渋谷駅へ上がる。人出があり外国人が多い中、ハチ公像へ。今年生誕100年で山手線電車に記念プレートを付けるイベントが放映された。
 大勢の見物客に囲まれた中心にハチ公は座っていた(写真上)。何年振りだろうか。記憶よりは小さな像。順番を待ちカメラに収めた。6月に故郷大館駅へ行ったが会えなかった。
 山手線高架下から東口へ歩き、左折してびっくり。のんべい横丁で、昭和も30年前後の飲み屋街。闇市の名残と思うが、今では小ぎれいな店が連なっている。その先が宮下公園だが、ビルの屋上。案内にあったハチ公のオブジェは見当たらなかった。

 東口をウロウロ 戻って宮益坂を上がる。途中左手に御嶽神社があった。参道から石段を上がって参拝し、芭蕉句碑へ。“眼にかゝる時や殊更さ月不二”の最後の旅の句と知る。 次は、クロスセンターにある尾崎豊の歌碑だが、青山通りと分かり、歩道橋から入ったビルのテラスに見付かった。若者に人気のあった歌手と思うが、私は名前を知る程度。
 金王神社へ歩く。二度目だが、六本木通り交差点へ回り道して、坂を下った先が同神社。見覚えなさそうな本殿に挨拶すると、右手に大きめの句碑が建っていた。“しばらくは花の上なる月夜哉”で、芭蕉45歳の時吉野で詠んだという。

 表参道から生け花展へ 再度六本木通りの交差点を渡り、表参道方向にある青学キャンパスへ。通りに裏門があり、入構。ペギー葉山の学生時代の歌碑を眺めたい。記念館前との情報だが、複数記念館があり探し損ねて表門を出て、銀座線表参道駅へ急いだ。
 日本橋高島屋で開かれた日本いけばな芸術展は、全国152流派の676名の作品展示とある。鑑賞客の列に従い眺めながら旧友の作品前へ。本展に相応しく、いつもの生け花というよりも芸術的な作品に見えた(写真下)。隣のレストランで飲食したが友人の一人に御馳走になってしまった。そのうちお返しします。(2023/10/26 K.K.1529)

◇日時 2023/10/02 ◇天候 晴 ◇資料 「我が町再発見 渋谷編」讀賣夕刊、 ◇交通費 610円 ◇歩行距離等 13,000歩 10㎞
通過時間等」 自宅12:35-半蔵門線神保町駅13:18-渋谷駅ハチ公像13:35=宮下公園13:45=御嶽神社14:00=尾崎豊歌碑14:15=金王神社14:35=青学キャンパス14:50=銀座線表参道駅15:10-日本橋高島屋15:30/17:20-東西線日本橋駅17:30-三田線大手町駅17:45-自宅18:20

立川猫返し神社を訪ね、西武多摩川線赤電に乗る

 購読紙に“立川猫返し神社”の記事(23.7.3讀賣)を見付け、興味を惹いた。調べると都下立川も郊外の西方で、西武拝島線武蔵砂川駅付近にあるらしい。少し前に西武多摩川線赤電の記事(23.5.22讀賣夕刊)を切り抜いていた。武蔵砂川駅と西武多摩川線は、近くはないが、中央線から青梅線を利用すれば回れるだろう。

 阿豆佐味天神社、猫返し神社 西武拝島線を武蔵砂川駅に降りる。昭和記念公園を訪ねた際、二度ほど乗降したことがある。猫返し神社のある阿豆佐味天神社は五日市街道沿いで、郵便局傍と見当を付けていた。玉川上水を渡り街道へ出て北上し、十字路を過ぎるが郵便局も神社もない。先へと歩き続けると左手に境内らしき風景が見えて、阿豆佐味天神社であった。以外に大きな古社で、1629(寛永6)年創建とある。

 参道から本殿に挨拶し猫返し神社へ。隣にある小社蚕影神社がそうらしい。養蚕にネズミは大敵で農家は猫を飼い食害を防止したというが、同神社はその名残を伝えている。猫返し神社と呼ばれたのは最近で、近くに住む有名ピアニストが祈願したら、行方不明の猫が翌日戻ったのが切掛けで、これが広まり、今では全国から郵送祈願があるという。
 私には返して貰う猫はいないが、元飼い猫ぽんずやタマを思い出しながら、手を合わせ、境内の猫の像や絵馬をカメラに収めた(写真上、中)。郵便局前から玉川上水へ歩き、宮の橋で川沿いの遊歩道を玉川上水駅へ歩いた。

 西武多摩川線 猫返し神社の前に、JR中央線武蔵境駅から西武多摩川線を往復した。1960年代の西武の赤電が走っているという。私は、そちらより1500号を迎えて過去の記録を整理し始め、武蔵野ハイクを纏めようとした。そうしたら武蔵境の野川付近が嘗ての武蔵野の風情をそのまま残していると気付き、それを確かめ、カメラに収めたい。新小金井駅、多摩駅間である。できれば再度歩いて武蔵野を楽しみたい。
 西武武蔵境駅で赤電へ向けシャッターを切り、乗車(写真下)。往きの車窓から野川から多磨霊園手前の風景を眺めたが家や建物が多く、林は途切れている感じ。帰りにデジカメを向け、直ぐ再生してみたがやはり期待した程ではなかった。JR武蔵境駅から立川駅経由で、西武拝島駅へ向けた。(2023/10/17 K.K.1528)

◇日時 2023/09/25 ◇天候 晴 ◇資料 「お参り後迷い猫戻る」23.7.3讀賣、「西武多摩川線」23.5.22讀賣 ◇交通費 1,100円 ◇歩行距離等 12,000歩 8Km 
「通過時間等」 自宅8:40-大江戸線春日駅9:26-JR東中野駅9:56-西武武蔵境駅10:30-同競艇場前駅10:50-JR武蔵境駅11:07-西武拝島駅12:00-武蔵砂川駅12:10=猫返し神社12:30=玉川上水宮の橋12:45=西武玉川上水駅13:08-大江戸線中井駅14:02-三田線春日駅14:30-自宅15:05

私が登った百の名山&低山=東北編=「八幡平から鳥海山を遠望して感激する」

 盛岡駅を発したバスは12時20分に八幡平バス停に着いた。本日は、岩手、秋田県境にある八幡平を目指して、6時30分家を出て東北新幹線で北上した。約6時間であった。八幡平は深田百名山にも選ばれているが、山頂下までバスが入り、簡単に登頂できる山との情報を得ていた。10年程前に、同期の旅行の際、登る計画があったが急用が出来て私は不参加となったとき、地図等を入手していた。

 直ぐ八幡平頂上へ 天候の良い中、頂上へ向かう。回りを歩く者は普通の服装の観光客で、登山者ではない。緩やかな上りの道をゆっくりと進む。登山道が舗装されている。見晴らしが良く、先程来岩手山が真後ろに見える。見返峠へと上がり、直進すると青森トドマツ林となり、右手に沼が見えて、八幡沼。また左手にはガマ沼が現れた。紅葉シーズンの土曜日のためか人出は多い。間もなく八幡平頂上(1,613m)に到着。頂上を示す標柱がなければ、トドマツに囲まれた只の平地。木製の展望台に上がると、前には岩手山が望まれ、後方には林が一面に続いていた。

 鳥海山を遠望する 八幡沼分岐まで戻り、沼の左辺を行く。湿原はもう枯野。木道は工事中で、交差に苦労する。次のポイントは源太森だが、少し距離がある。どんな地か不明で、下るハイカーに尋ねると、“鳥海山が見えた”と興奮気味に応じてくれた。松林の中の小さなピークが源太森(1,595m)。先行者が展望を楽しんでいる。西方へ目を向けると雲の間から僅かに頭を出した高山が見える。我が故郷の名峰鳥海山と確信。雨天下の宮城栗駒山では適わなかったが(07.9.17)、予想外の遠望、再会に感激である。南方には岩手山の大山の左に霞む高峰は早池峰山。振り返って、北に八甲田山や岩木山も探したが、確認出来なかった。

 八幡沼分岐源太分かれへと歩き返す。沼の右辺は湿原地帯で、池塘が点在している。今は枯れているが高山植物が咲き揃う夏場は楽しいコースに違いない。峠でトドマツの倒木や千切れた枝に出会う。永年風雪に耐えた証しで、北海道美深松山湿原でも見た風景である。
 八幡沼を一周し見返峠へとUターンしたが、時間があり、鏡沼方面へも廻るため再度頂上へと出て、左折して下る。山頂付近には小さな池や沼が多い。火口湖という。デジカメに収めながら、観光客に混じってバス停へと下りた。
 ガイドさんに、“鳥海山が見えたよ”と報告すると、“ここからもよ”と指さした先に、雲の上に突き出た頂を再度確かめて、バスに乗り込み帰途に就いた。(2010/10/23 8/100)

追記 八幡平は山岳ではなく、その名のような湿原のある高原であった。深田100名山であるが、岩崎元朗新日本百名山には選ばれていない。タテヤマリンドウ等で、田中澄江著「新はなの百名山」(文春文庫68頁)ではある。奥羽山脈に属する。

 私は、東北新幹線と盛岡からバス利用で、日帰りの山歩きであった。私の記録を読んだ友人たちから、日帰りは勿体ないと言われた。単独行で、そんな思いには至らなかった。最近、花輪線を乗り鉄したら、八幡平という駅があった。

キバナコスモスの中しながわ花街道を歩く

 今秋二度目のキバナコスモスである。品川区のしながわ花街道に咲いたとの新聞情報を得て(23.9.13讀賣)、出掛けた。キバナコスモスには弱く、自然と足を向けてしまう。最初に出会った深川木場公園の花々が目に焼き付いてしまったのだろう。品川はアクセスも良く、都営三田線を三田駅で京急線乗り換えれば、約1時間である。三度目の花街道となる。

 花街道を巡る 京急線立会川駅が最寄り駅であり、駅から10分でしながわ花街道。キバナコスモスは、勝島運河西岸の土手に咲いていた(写真上、中)。
 満開である。早速デジカメを出し、花を眺めながら土手を上下し、巡り歩く。濃い目の黄花はほぼ切れ目なく土手に咲き続いている。近隣の商店や住民に企業も加わり、植栽、管理しているという。花畑が西岸に2kmも続く中、アングルを探しながら歩を進める。運河には数隻の船が係留されていて、釣り船のようだ。

 西岸から東岸へ 本日も晴天で暑く、鑑賞客は少ない。9月半ばなのに未だ猛暑の続きのよう。約2kmの花街道も歩き終え休憩し、次の行く先を思案。東京モノレール線大井競馬場駅へ歩いて帰途に就こうとは考えていた。その前に対岸の運河東岸を歩くことにする。花はないようだが、木々が繁り涼しそうな遊歩道に見えた。
 花街道を離れ、短い北岸を歩き、橋を渡る。鮫洲橋とある。鮫洲といえば運転免許証の試験場がある地だが、無縁となってしまった。木々の下東岸を歩く。やはり遊歩道は続くが花はない。時々散歩やジョガーの人と擦れ違う。先ほど巡った西岸の花街道を眺めるが運河越しでは今一である。東岸も出口に近付くと、左手の大通りにバス停があり、客の乗降が見えた。暑い中、近くはない大井競馬場駅へよりはバスにしようと、東岸を出てバス停へ歩いた。

 龍馬像、浜川砲台 往路の花街道への途中、立谷川駅近くの小公園に坂本龍馬像が建っていた。前回は確かマスクを掛けさせられていた(21.10.16)が、本日はなかった。土佐藩のお抱え屋敷が当地にあり、龍馬も出入りしていたという。花街道手前には、浜川砲台も遺り、ペリー来航後土佐藩が屋敷内に設けた砲台で、江戸湾へ向けた当時の大砲が復元してあった(写真下)。
 バスは渋滞に巻き込まれて、約1時間も要して、三田線白金台駅前に着いた。(2023/10/11 K.K.1527)

◇日時 2023/09/14 ◇天候 晴 ◇資料 「コスモス香る散歩道」23.9.13讀賣 ◇交通費 160円 ◇歩行距離等 6,000歩 4Km 
「通過時間等」自宅8:20-京急線三田駅9:18-同立谷川駅9:35=しながわ花街道9:45=鮫洲橋10:05=勝島バス停10:24-三田線白金台駅11:20-自宅12:10

私が登った百の名山&低山=東北編=「憧れの白神山地ブナ林西目屋髙倉森を歩く」

 白神山地ブナ原生林を行く 私の白神山地ハイキングは津軽峠(650m)から始まった。マザーツリーと呼ばれる樹齢400年山毛欅の大木は峠近くにあり、同じバスで山へ入った全員、ブナの古木を見上げカメラに収めた(写真上)。途中で分かれた高倉森コースへ進んだのは私一人で、踏まれた緩やかな上りの道である。
 直ぐブナ林の中となり、次々と目の前に表れる大木や林立する木々をシャッターを切りながら、進む。最初はこの程度は故郷の御所山でも見た林程度と思っていたが、行けども、行けども途切れることなくブナ林が続く。それも古木や大木、小木が混在し不揃いや林にも粗密がある処が自然で、原生林の故だろう(写真中)。歩きながら大木に触れるとブナの樹表面はやさしく柔らかだが、古大木の樹皮はひび割れ状態でそれだけ風雪に耐えた証明であろう。

 津軽富士を遠望 山道は平坦で歩き易いが、時々は崖端もあり、左側が落ちている。深い森の中、鳥の囀りの外は誰も見当たらず標柱だけが頼りだ。林が切れて振り返ると岩木山が見え、津軽冨士に相応しい山容である(写真下)。先程谷底に残る雪を見たが、今度は目の前に残雪が現れ恐る恐る乗ったが未だ固く無事通過出来た。
 平らなコルに着いて、丁度12時を過ぎ休んで昼食とする。座った先の樹林の間に高峰が覗ける。秋田側で、白神山であろうか。

 一転して難路 高倉森(829m)は直ぐ先。再度津軽冨士を振り仰ぐとコースは一転した。山路は狭まり、しかも急降下で、最近歩いた形跡もない。下りに備えストックを出したが、張られたロープと併用し、一歩一歩慎重に下り続け、両側が切れ落ちたヤセオネも通り抜ける。坂道を脱した地点で路が薄くなり、目を凝らし踏み跡を追ったが一度は沢へと迷い込むも気付いて、コースを回復。

 ようやく下山へ 標識で下山口まで2kmを切ったと知ったが、未だ山中は深い。またブナの大木に出会い見上げながらデジカメを向けた。駐車場への案内がありようやく出口が近いことを知る。ここからも簡単ではなかった。ブナ林の下の小径は更に狭くなり、これに急な下りの坂が重なる。ストックを使いながら疲れた脚を進めると、車のエンジン音も聞こえ初めた。左右に振られた坂道を下りると暗門大橋の袂であった。
 資料ではコースタイム210分とあり、それ以上を見込んでいたが180分、3時間で歩き通した。健脚向きコースとある。前半の津軽峠・高倉森往復が一般コースで、それで前半と後半の道に踏まれた程度に大きな差があることに納得した。
 今朝弘前で、暗門の滝へのコースは閉鎖中と知り、当地宿泊キャンセルも考えたが、翌日も白神山地ハイクを楽しむことにし、橋から近い今夜の宿泊先アクアグリーンビレッジAMONへ向かった。(2012/06/16 7/100)

追記 ブナ林は壮大であった。さすが世界自然遺産である。しかし、マザーツリーは、2018年の台風21号により、地上から9mのところで折れてしまったようだ。翌日は白神山地暗門ブナ林コースを歩いた。眺めた岩木山や八甲田山は登っていない。青森は遠く、五能線十二湖や竜飛崎に代えてしまった。でも、奥入瀬渓谷は歩いた。

宇都宮ライトレールを往復し初乗りする

 8月26日、宇都宮市にLigh trail transitが開業したと知った。路面電車の一種で、専用路線が主であるようだ。新たな路線の開業はうれしいニュースである。JR関係では、廃線や棄線が続き、その噂も飛び交う路線もある。乗り鉄ファンにとっては残念で、宇都宮の新路線は歓迎であり、少し時間が経ち落ち着いた頃乗ってみようと考えていた。

 宇都宮駅東口路面電車ホームへ まだ混んでいるかなと思いながらも、宇都宮へ出掛けた。しかし近くはなく、赤羽から宇都宮線(東北本線)で、浦和、大宮、小山各駅を経て、約1時間30分強であった。それでも一昔前は2時間以上を要したと思う。
 宇都宮駅東口に向かい路面電車ホームへ階段を降りると小さなホームは乗客で溢れていた(写真上、中)。

 宇都宮ライトレール 宇都宮市Ligh trail transitは、宇都宮市とその東側の芳賀町工業団地とを結ぶ14.6kmの路線で、19の停留所があり、駅とは呼んでいない。6分乃至10分間隔の運転で、所要時間44分とある。宇都宮市と出資した企業が運営者で、現に宇都宮市西側にも路線延長の計画が進んでいると知り、流石宇都宮は北関東一の人口50万の大都市である。

 新路線に乗り往復 小さな三両の黄色の車両は、満員の客を乗せ、宇都宮駅東口停留所をスタート。既に遅れてのダイヤと放送があった。鬼怒通りという大通りの商店街を、信号待ちをしながら走る。停留所の間隔は短く、また停まるのといった感じ。乗る客も多く家族連れで、未だ珍しい路線なのだ。
 宇都宮大キャンパス停留所を過ぎた先から道路を出て、専用路線となる。振動や走行音はなくスムーズに走った。鬼怒川鉄橋を渡り(写真下)郊外へと出た。飛山城跡停留所があり、飛山城跡は訪ねたことがあって(08.11.3)、城跡は車窓から確かめたが上流右側の森の中であったろうか。
 少し走って学校や公園、グランドが見えると、工業団地らしくなった。NECの工場があった。終点芳賀・高根沢工業団地停留所に着いた。50分以上経ち、現金払いの客に運転手が対応しているため、発車時間が遅れているように見えた。またほぼ同じ乗客を乗せ、折り返した。50分程を要して宇都宮駅東口に着いた。やはりホームは多くの乗車が待ち、混んでいた。

 餃子の街宇都宮 JR宇都宮駅で、ご当地餃子と飲み物を求め、宇都宮線に乗車。遅い昼食で、ミニ呑み鉄とした。小山駅付近で、車窓から筑波山を探したが見えなかった。後日、故郷の読者から宇都宮餃子は名産だねと連絡があった。(2023/10/4 K.K.1526)

◇日時 2023/09/10 ◇天候 晴 ◇交通費 青春18切符+800円 ◇資料 宇都宮ライトレール(株)「LRT STARTBOOK/Lite」 ◇歩行距離等 5,000歩 4㎞
通過時間等」 自宅8:50-JR板橋駅9:29-同赤羽駅9:41-宇都宮駅東口停留所11:22-芳賀・高根沢工業団地停留所12:15/12:20-宇都宮駅東口停留所13:15=JR宇都宮駅13:46-同浮間舟渡駅15:45-自宅16:10

会津若松からJR只見線を乗り切る

 会津若松駅6時8分発小出行き列車に乗車(写真上)。駅前宿泊先から30分前に停車中の列車に乗り込むと既に満席に近い状態。私と同じような高年者が殆どで、通勤や通学の地元の方は見当たらない。只見線は、豪雨で寸断されていたが、昨秋11年ぶりに復旧し、人気路線なのであろう。新潟の小出行きが朝、昼、夕方の三本しかないのが混雑に拍車を掛けている。列車は満席に立ち客を加えて、定刻通りに発車した。

 会津坂下駅から秘境線 本日は、只見線の乗り切りとした。3度目の乗車だが、最初は小出駅から只見駅、そして会津川口駅から同若松駅で(18.8.18)、2度目は只見駅から会津川口駅(22.10.12)であった。今回は上り列車で完全乗車である。
 若松市郊外へ出て、水田地帯。黄色に染まった稲穂群が見える。振り返ったが磐梯山は見えない。雲の裏のようだ。会津坂下駅を過ぎ、列車は坂を上がり始め、山中となった。山間の小さな無人駅に停車を繰り返しながら、奥へ奥へと進んだ。奥会津も秘境の地で、乗客の乗降はなく、7時を過ぎた頃高校生らしき若者の乗車があった。

 ダム湖と鉄橋 右手にダム湖が見え始め、鉄橋ではスピードを落とし、ゆっくり走った。霧が見え私もカメラを向けた(写真中)。そして会津川口駅に着いた。停車時間が長く降車すると、駅舎は見覚えがあった。
 鉄橋を渡る度、落ちたのはここであったかと眺めるが車窓からでは不明。鉄橋鉄材の新旧を見ると新品らしき鉄材使用の橋を通った。本名付近の第六橋梁か。川から離れ、また山中を走り、駅舎の反対側は山林で崩れそうな高い土手が線路に覆いかぶさるよう。
 会津塩沢駅手前で、河井継之助記念館の案内が見えた。幕末の長岡藩家老で、北越戊辰戦争に巻き込まれて敗れ、会津へ逃れる時八十里峠を越したが、戦傷がもとで、当地で終焉を迎えた歴史上有名な人物である(写真下は只見駅で写す)。只見駅で30分停車。観光列車並みで、駅前広場へ出て休憩し、3度目の只見駅付近は記憶にあった。

 只見駅そして新潟側へ 只見駅から長いトンネルを通過し、新潟県へ下った。渓谷沿いを過ぎ山麓の地ではススキやそば畑が見えて、魚野川を渡り小出駅。135.2km 36駅、4時間を越す長い乗り鉄も終わった。
 今春から新潟に住む孫と会う予定で、上越線を待っていると雨で大幅遅延の案内。信越線や越後線は不通で、線状降雨らしい。一応新潟へ向かうがメールして断わり、諦めた。孫から返信あり、私は、新幹線で帰京した。小出駅前で地酒緑川を求めた。(2023/9/28 K.K.1525)

◇日時 2023/09/06 ◇天候 晴 ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス ◇資料 「JR只見駅MAP」 ◇歩行距離等 6,000歩 5Km
「通過時間等」 宿泊先5:30-JR会津若松駅6:08-同会津坂下駅6:42-同会津川口駅8:05-同只見駅9:07-同小出駅10:41-同新潟駅12:09-上野駅14:30-三田線巣鴨駅14:49-自宅15:15

私が登った百の名山&低山=北海道編=「北海道美深に住む娘宅へ行き松山湿原を歩く」

 最北の高層湿原へ 登山口に車を降り歩き出して少々ビビってしまった。先程山中に入って以来車一台、人っ子一人にも会わない。周囲は深い、深い森林地帯で、羆に注意の看板を見た。登山道には鳥につつかれた子鼠の死骸が転がっている。送ってくれたK君は2時間後に迎えに来てくれる約束だ。数年前やはり北海道野幌郊外の原始林を歩いて心細い思いをしたこと(99/7/9)を思い出したが、同じ蝦夷の地も遙か奥地の深山で、当地でも秘境と呼ばれているようだ。

 松山湿原は山の上にある我が国最北の高層湿原。緩やかな上りの道が続き、兎に角頂上を目指す。ゴゼンタチバナの白い花の一群に出会う。北海道のノアザミはジャンボだ。まさかとは思いながらも、熊よけに鈴もラジオも持っていない。僅かな葛折りを繰り返すと木道になって、湿原に飛び出した。山頂には霧が流れていた。資料によれば、松山湿原は海抜797mにあり、約25haの広さを有する高層湿原とある。

 風雪に耐えるアカエゾマツ 入口にある長寿の鐘を叩いて、入山したことを告げた。しかし、霧の中に人影や気配は窺われない。湿地帯に繁るアカエゾマツは成長が妨げられ一定方向に傾き、永年の風雪に耐えて生き抜いていることを示している。幹回り1cmの成長に約20年を要し、現在の樹齢は推定300年という。木道傍にはタチキボウシの薄紫の花が続き、白のワタスゲは風で千切れている感じ。濃紫の蕾はホロムクリンドウのようだ。木道も朽ちかけて小生の体重では心配な箇所もある。

 えぞまつ沼に着きベンチに腰を下ろして小憩にした。沼越しにカメラを向けた。つつじ沼からはいまつ沼を巡った。沼とはいっても小さな池塘だ。はいまつ沼は、既に半分近く草に覆われていた。
 湿原を一周して入口に戻るとカップルのハイカーが登って来た。フィルムをカメラに収め、湿原やそこに咲く花々を写し終えて下山した。途中、夫婦やグループの登山者と交差し挨拶を交わす。本日は土曜日でこれからが入山時間なのだ。私は1時間ほど早かったらしい。やはり蕗やイタドリも北の地のものは一回り大きい。ウドのような大柄な植物はエゾニューと後に家内に教えて貰った。上りに見付けたゴゼンタチバナは反対側にも群生していた。ヤナギランやシモツケソウも見付けた。

 無事下山 登山口に下りると駐車場に数台車があった。登山者カードがあり下山したことを記録し、天竜沼へ下りて戻ると家内がいて、迎えに来てくれた娘夫婦達が到着したことを知った。何故か駐車場広場には某国会議員夫妻の記念碑が建っていた。
 今度は長女夫婦に誕生した孫満1歳のお祝いに家内と渡道した。孫は既にトコトコと上手に歩き始めていた。松山湿原を歩いた後、K夫妻の案内で、雄武町日の出岬ホテルでオホーツク海を眺めながら温泉に浸かり汗を流した。翌日は一転して山の下川町五味温泉に出湯を楽しんだ。(2003/7/26 6/100)

追記 松山湿原は、我が国最北の自然のままの高層湿原であった。長女家族は、その後音更に移転し、美深との縁は切れてしまった。それにしても美深は遠かった。旭川空港から旭川駅へ出て、特急で1時間以上要した。国会議員の記念碑の件、偶々ご子息の大学教授と研究会で一緒になり、尋ねたら政府高官時代予算措置を講じたからと教えてくれた。
 北海道編はおしまいである。函館山は、日本百低山に選ばれている(小林泰彦「日本百低山」文春文庫30頁)が、せめて下りは歩こうと思っていたが、ロープウェイを利用してしまった。

JR水郡線に乗り、常陸大子町を歩く

 JR東日本大人の休日俱楽部パス期間が到来して、乗り鉄先を検討した。全通している只見線乗車の前に、水戸へ出て水郡線に乗り、郡山から磐越西線で会津若松へとした。処が水郡線は連絡が悪く、常陸大子駅で2時間待ちとなった。初めての地で彷徨すれば、なんとかなろう。水郡線乗り切りは2度目だ(18.6.26)が、前回は郡山からであった。大人の休日俱楽部パスは駅ネットのみの販売でパスワード忘れ困ったが、孫がスムーズに繋いでくれ購入出来た。

 水戸から常陸大子へ 上野駅で乗った特急は、ノンストップで水戸駅に着き、約1時間。水郡線下りの常陸大子行きに乗り換え、3両列車は水戸城濠跡土手の底地を通って郊外へ出た。袋田の滝(07.5.3)や黄門様の西山荘(10.6.27)を訪ねた時は、途中の駅を往復したが大分前である。
 車窓から見える水田は黄色に染まっているが、水戸手前よりは薄く、稲刈り風景は見当たらない。倒れている稲も見える。ニックネーム奥久慈清流ラインだが、久慈川が見え出したのは大分走ってからで、私の記憶と違っていた。袋田駅を過ぎ、久慈川を右に眺めながら、約1時間30分で常陸大子駅に着いた。

 常陸大子町をうろつく 大きな駅で(写真上)、駅前通りの両側には商店街が連なっている。山間の小さな町と思っていたが奥久慈地域の中心街のよう。盆地だが周囲の山々は離れ狭くはない。観光案内所に寄り、情報収集。アユの簗場は数年前閉鎖され施設もないという。見学を期待していたのだが。中央通りを金町通りへ左折するとこちらも商店街。右手に古い木造建物があり、明治初期築の呉服店舗とある。坂を上がった先の寺院入口に芭蕉句碑が見付かった。“河上とこの川下や月の友”で(写真中)、当地の俳人が選句して建立したとある。確か江戸深川の小名木川で詠んだ句と思う。目の前が久慈川で(写真下)、谷川ではなく普通の広い河川が流れていた。駅前に戻り、まだ1時間あり、昼食。先ほど求めた地酒八溝を開けた。

 水郡線後半、磐越西線 常陸大子駅ホームに郡山行きが到着したが、当駅で4両から1両となった。席は確保できたが、ゆったりのんびり乗り鉄とはいかない。いつの間にか茨城から福島へと入っていた。左手には山村風景が見える。そして、磐城棚倉駅を通過し、城跡巡りに郡山から往復したのは昨年(22.6.23)。磐城守山駅を過ぎると郡山駅は近い。少し待って磐越西線に乗車。薄暮の中を進み、季節は秋だが、残暑が厳しいことに変わりはない。会津若松駅で夕食を求め、駅前ホテルに投宿。明日に備え、残り酒八溝を飲み干し、就寝。長い乗り鉄旅で疲れた。(2023/9/21 K.K.1524)

◇日時 2023/09/05 ◇天候 晴 ◇交通費 JR東日本大人の休日俱楽部パス ◇資料 「大子の商店街まちあるきマップ」 ◇歩行距離等 6,000歩 5Km 
「通過時間等」 自宅8:50-JR上野駅10:00-同水戸駅11:15-同常陸大子駅12:35=久慈川13:00=JR常陸大子駅14:38-同郡山駅17:15-同会津若松駅18:30=宿泊先18:40

私が登った百の名山&低山=北海道編=「サルボ展望台から釧路湿原を眺める」

 釧路から塘路へ 釧路駅を出たノロッコ号列車は釧路湿原の東端を走っている。乗車前駅案内所で尋ねると湿原内を巡るコースはなく、塘路(トウロ)駅から歩いた展望台が良いと教えてくれた。観光客で一杯の列車は速くはない速度で、左手車窓に湿原を望みながら進む。湿原というよりは原野に見える。釧路から塘路まで湿原が広がって、20km以上続くという。
 次第に釧路川が迫り、川幅一杯にした濁り水は梅雨の時期を思わせる。終点塘路駅に下車し、サルボ展望台を目指す。多くの観光客が降りたが折り返しのノロッコ号で釧路へ戻るのだろう。

 サルボ展望台から湿原を眺める 国道391号の側道を一人行く。釧網線の単線が並行している。右手の大きな沼は塘路湖、左手には小さな湖沼が見える。前方の山中に、建物が見えて展望台だろう。山下に着き、案内に従いサルボ展望台へと階段を上がる。ダケカンバの木々に覆われて湿原は覗けない。尾根に上がると、左手先にもサルルン見晴台の表示があり、先ずはそちらへ。直ぐ林が切れて目前に湿原が広がった。
 一面原野の所々に湖沼が点在し、沼の半分程は水草で塞がれている。このような湿原風景が釧路の北方一帯に広がっているのだろう。左手の塘路湖は流石に広く、別格である。見晴台からカメラに収めて、Uターン。
 途中、チャシ跡に出会う。アイヌ民族の砦跡で、解説板によれば、要塞の外、祭祀の地でもあるという。現在では高台の狭い広場に過ぎなかった。サルボ展望台からの風景も先程と同じもの。塘路湖の奥まで見えた。

 釧路湿原内を歩く 山を下りて、湿原内に入って鉄路を渡り、釧路川往復を目論む。湿原内草原の下はどうかと道路から足を入れたら水があって、慌てて引き上げた。砂利道となり、道端に咲く花はピンク色が薄いが多分シモツケソウの類のようだ。15分程で釧路川に架かる二本松橋。マップによれば、右手の小山には二本の松があるはずだが、不明。川はやはり溢れるばかりの水量でゆっくりと流れている。一休みして、国道へと戻り、塘路駅へと向かっていると、一両のディーゼル車が走ってきた。乗客は疎らで、網走行きだろう。駅前に着くと、タクシー運転手達が指をさしている。その方向を見たら子鹿が草をはんでいる。エゾシカの子供のようだ。
 一両列車で釧路へ戻り、帯広行きの特急を待っていると、不発弾が見付かり白糠駅まではバス代行という放送。バス、特急と乗り継いだが、それでも約40分遅れで帯広駅着。駅前広場に出ると婿殿K君と孫憩依が出迎えてくれていた。(2010/7/16 5/100)

追記 釧路湿原は全国一で広かった。東端の塘路地区はその一部に過ぎない。湿原や湖沼群と大自然そのもので、駅前にエゾシカがいたのも自然であろう。ラムサール条約登録湿原である。広い湿原内を、蛇行を繰り返しながら流れる釧路川も印象的であった。水森かおりのご当地ソングにも、“釧路湿原 荒野をめぐる迷い川”とある。後日、反対側西端の釧路市展望台から湿原を眺めたが、塘路地区までは見通せなかった(2018/6/8)。