私が登った百の名山&低山=甲信越編=「岩殿山に登り城跡を巡り、猿橋を見学する」

 今回は、Y君、U君と山梨県大月市の岩殿城跡のある岩殿山ハイキングコースと猿橋を含めたハイクを計画。中央線J R高尾駅に集合し、同大月駅で下車して歩き始め、厳冬の快晴下であったが、風がなく、寒さは特に感じない。

 取付きから急登 最初の取り付きから急登の連続。しかも滑りやすく、木や枝に掴まり、喘ぎながら上る。稚児落としからの尾根伝いでは、真っ白で大きな富士山が隠れては見え、二月の冷気の中で見る冬の富士山は見事という外はない。因みに岩殿山からの富士は秀麗富岳12景に選ばれている。

 岩壁そして鎖場 稚児落としは、絶壁がカーブ状に連なっており、高所恐怖症の小生にはとても怖くて覗くことが出来なかったが、反対側から見た対面の岩壁は巨大で、底は深かった。兜岩には、北アルプスに匹敵するような鎖場が二箇所もあった。
 岩殿山自体は、小生にとっては二度目であり、峻険な山で、手前の天神山から見た様は岩峰のようであった。今回のコースは、大手口のあった筑坂峠を経て、岩殿城の揚戸跡のすぐ下で、大月から直登する階段と合流。

 山頂を越し猿橋へ 山頂(634m)の城跡で昼食後、馬洗い他、本丸跡を見て、岩殿集落へ下山。ガイドブックではファミリー向きとあったが、結構厳しく変化のあるコースといえよう。歩行中出会ったハイカーも二パーティのみで、静かな真冬の山歩きが楽しめた。また、日本三大奇橋の一つと言われる猿橋を初めて見学し、先人の知恵に感服した。
 Y君は、下山後そのまま諏訪へ旅行するとかで、とても重いザックを背負いゆっくりとしたベースで歩き通し、彼も段々と山歩きに慣れてきたようだ。
 U君は、中世の城郭に興味があるというので初めて誘う。急拠前日に求めたというトレッキングシューズで、淡々と付いてきた。やっぱり若いということか。でも、城跡巡りで、これだけ歩かされるとは思っていなかったであろう。
 小生にとっては、久しぶりの山歩きらしい山歩き。歩き通したが、特に上りは早く楽になりたいため、一気に登ろうとする悪い癖がまた出て、ペースが掴めず、猿橋迄の道路歩きでは疲れてしまった。
 JR猿橋駅で諏訪へ行くY君と別れ、車中で、U君と駅前で仕入れた地酒と漬物で乾杯。ご高尾、新宿を経由して、18時過ぎに帰宅。タマに、猿橋の土産屋で汲んで貰った名水をやるもちょっとなめただけで、関心示さず残念。(96/2/3 83/100)

追記 岩殿山は、中央本線大月駅前に大きく聳える山、山城跡である。駅からのコースが一般であるが、左奥から入山したら、最初から厳しいコースであった。日本百低名山である(同書67頁)。岩殿山城は、戦国期の1582(天正10)年武田勝頼が織田徳川軍の甲斐侵攻で岩殿山城へ落ち延びようとした途中、城主小山田信茂が裏切り、勝頼は手前の田野で自害し武田家は滅亡したという。

伊豆城ケ崎海岸を再訪する

 弟を伊豆の城ケ崎海岸へ案内することになった。前夜伊東温泉に泊まり、翌朝城ケ崎へ、である。伊東駅前8時溌のバスに乗るべく、宿泊先を出たが、15分の予定が倍近くを要して、バスを捕まえた。城ケ崎海岸は、私は6年振りで(19.2.24)、今回は同じコースの予定。

 バス停からぼら納屋へ 海洋公園行のバスを城ケ崎口で下車し、歩き始める。ようやく前回の記憶が蘇り、海岸へ向け下り坂である。左手が海岸で遊歩道もあるが眺めはなく、今回はそのまま下り続ける。坂下に嘗てのぼら漁用の納屋、現食事処があり、目の前は海岸で相模灘であろう。波静かである。

 城ケ崎を歩く いよいよハイキングコースへ突入。私が前で、弟は後ろ。坂の階段は新しく、高さ幅は我々向き。タブの木やクロマツが続く樹林帯で、小さな岬、狭い入江を見ながら進む。幕末黒船用に韮崎の代官江川太郎左衛門が築いた砲台跡の案内があり、記憶にあった。時々林が切れると荒々しい岩礁と岬が覗け、波音も大きくなった。断崖の海岸は、大室山噴火で流れ出た溶岩という。あの山(580m)の仕業とは信じがたいが、噴火口直径100mと大きかった(20.2.2)。コースも大きく上下し、城ケ崎海岸らしくなった。今回私は、ストックを持参し使用している。急坂を上がると吊り橋であった。洋上の島は大島だろう。

 門脇吊り橋 一息付いて、弟を待つ。そしたら左手に、“城ケ崎ブルース”の歌碑があった。前回気が付かなかった。ロス・プリネスの歌唱だが、若手もカバーしている。・・・ふたりの恋の城ヶ崎 咲けよ匂えよ湯の花すみれ あしたのことは 言わないで・・と唄い、3番には、天城連山東端の遠笠山もでてくる。二人で吊り橋を渡り、下を覗くと23mは高い。渡り切ると門脇岬で、同灯台。吊り橋にも思い出がある。私の中学の恩師と同名で、私の記録を読まれた先生は私にぜひ訪ねたいとおっしゃったが亡くなられた。その後奥様にお会いする機会があり尋ねたら、首を横に振られた。
ここでコースを出て海岸を離れ、駐車場から大通りへ出る。私の記憶ではコースは展望のない林の中の小径で最後は長い急坂でこれを避けた。別荘地帯の道路歩きをして、駐車場を回り込むと海洋公園入口で休憩。30分後のバスで伊豆高原駅へ。伊豆急行で熱海駅へ出て、帰途に就いた。弟に御馳走になった鯖寿司弁当はすきっ腹に美味であった。(2025/10/4 K.K.1618)

◇日時 2025/9/25 ◇天候 晴 ◇交通費 3420円 ◇資料「伊東城ケ崎自然研究路ガイド」◇歩行距離等 12000歩 9㎞
「通過時間等」宿泊先7:40=JR伊東駅.8:00-城ケ崎口8:35=ぼら納屋8;45=門脇吊り橋9;20=海洋公園10:35-伊豆急伊豆高原駅11:02-JR熱海駅12:06-同横浜駅13:48-三田線巣鴨駅14:43-自宅15:15

私が登った百の名山&低山=甲信越編=「大菩薩嶺に登り、景徳院で勝頼を思う」

 今回は、小生の当番で、前回の奥穂高岳に懲りて、タクシーを利用した中高年向きのハイキングと百名山と温泉を組み合わせたコースを選定。同行者と新宿駅で待ち合わせ、大月駅で乗り換えて塩山駅で下車。タクシーで柳沢峠へ向かう。峠付近は紅葉はまだ色付き初めで、これからがシーズン入りの様子。峠の売店で軽く食事をして水を貰い出発。

 柳沢峠から 秋のぶな林の中の小径を、落ち葉を踏みしめながら進む。他に登山者は見当たらず、静寂の中を黙々と歩く。最近歩いた形跡もなさそうだ。苔むした古木、岩石が随所に見受けられ、正に深山の雰囲気十分。冷気の中にすがすがしい空気を感じる。途中、道に迷いそうになったが無事六本木峠に到着して、小憩。時々、林が切れて、左側に奥秩父の山々が見える。歩き始めて一時間、きのこ採りの人に出会う。天庭峠、寺尾峠と通過。高度が上がるに従い、紅葉の濃さが増してきれいだ。林を抜け出して草原に着く。丸川峠で、小屋があり、二、三組みの登山者が休んでいた。

 丸川峠から山頂へ 我々も休憩後、いよいよ大菩薩嶺の頂上を目指して、ススキと隈笹の中の急坂を上ると、またぶな林が深い。下りの登山者が多くなる。同行者、湿った丸木橋で足が滑って尻を打つ。しばらく休憩。大事には至らず、予定通り頂上(2,057m)に着く。案内書どおり林の中で展望はない。記念写真を撮り、昼食後早めに下山開始。

 大菩薩峠 直ぐ展望が開けて、雷岩。回り一面がススキと隈笹、しかし残念ながら富士や南アルプスは見えない。賽の河原を通過して、大菩薩峠到着。大勢の登山客が休んでいる。ここからは、下る一方で、広い山道。約30分で上日川峠の福ちゃん荘前に着く。既に、朝予約したタクシーが待っていた。

 嵯峨塩温泉泊 くねくねした山道を下って、嵯峨塩温泉到着。30分を要した。やはり歩くのは無理だった。嵯峨塩温泉は山中の鉱泉宿というよりは、立派な温泉旅館。同行者、靴ずれで踵の上の皮が大きく剥けている。早速、温泉で汗を流し、麦酒で乾杯。
 翌朝、朝風呂を浴びた後、谷川付近を散歩。同行者の足の様子が良いようなので、今日も歩くことにする。山宿らしい山菜など盛たくさんの朝食を戴いた後に、出発。山に囲まれた谷川沿いの舗装道路を延々と下る。途中、甲斐武田家にも縁があるという栖雲寺を見学。古寺で、石庭が珍しい。予定した竜門峡の遊歩道が通行禁止で、再び舗装道路を下る。          

 景徳院に参拝 大和村田野の景徳院に着く。田野は、戦国時代織田、徳川連合軍に追われた武田勝頼が自刃した地だ。勝頼の墓がある。墓参りを済ませ、再び歩き始め、朝出発後、2時間40分を要して、甲斐大和駅に到着。同駅から鈍行に乗り、立川で乗り換え、新宿駅を経由して15時に自宅到着。今回も、無事帰還。
 今回は、選定どおり、中高年向きのハイキングコースで、小生にはちょうど良かった。ぶな林、草原、ちょっとした急坂、岩場もあり、結構楽しめた。天気にも恵まれたが、富士山、南アルプスが見えなかったのが残念だ。紅葉には少し早かったが、頂上付近はまあまあの色付きできれいだった。(94/10/15,16  82/100)

追記 大菩薩嶺は2000mを超す百名山と思うが、ハイキングの延長で気軽に登れた。それにしても往復タクシーを利用し、そして温泉旅館に泊まり、贅沢な山歩きであった。その後、大菩薩峠から富士の写真を撮りたい弟と出かけたことがあったが、天候不順で、途中で断念したことがあった(10.5.29)。コースを変更し笹子峠で矢立杉を見上げた。

JR湘南新宿ラインで熱海から伊東へ

 年一の弟との行く先は、今年は伊豆の城ヶ崎海岸である。弟は未訪と喜んでくれた。私は歩いたことがあり、案内しようと思う。伊東に宿泊先を確保し、弟とは小田原駅で待ち合わせた。私は池袋駅へ出て、湘南新宿ラインで横浜へ行き、東海道本線乗車の予定である。

 湘南新宿ライン乗車 今回は池袋駅から湘南新宿ラインに乗った。名前は知っていたが1,2度乗った程度だが、横浜駅やその先へは速い。私は東京駅や新橋駅から東海道本線を利用していたが、この前湘南新宿ラインに乗ったら大分時間が短縮された。今回は迷わず、我が家から池袋駅へ向う。快速電車は、新宿、渋谷と山手線を走り、大崎の先から別路線に入り、貨物線らしい。武蔵小杉、横浜、そして戸塚駅で、東海道本線に乗り換えた。路線検索に従った。

 戸塚から小田原へ 戸塚は、箱根駅伝2区の中継所があり、車窓からコースの戸塚跨線橋が見えた。現在は最長のエース区間で難所権太坂があり、越した先で東海道本線を渡り中継所手前は最後の急坂で、一度歩いた(10.12.9)。大船を過ぎて湘南地方を走っている。茅ヶ崎は相模線、国府津は御殿場線への乗換駅で、御殿場線を乗り切り国府津へ出たことがあった(18.12.17)。平塚付近で相模川を渡る。馬入川とも呼ばれ、これが牛なら牛乳川だねと修学旅行のバスガイドさんが説明し笑いを誘った。二宮では駅前の愛宕山に登り、満開の菜の花越しに富士を探したことがあった(13.2.28)。あの時も弟と一緒だったと思う。

 相模湾沿いに熱海へ そして、小田原駅に着き、弟と一緒になり、次の熱海行きに乗車。平塚在の弟の孫は小田原の高校に通っているという。根府川で海岸線を走り、列車の転落事故を思い出した。スマホ検索したら関東大震災の地滑りで生じた大惨事と知った。根府川駅前に慰霊碑があったと思う。真鶴半島を左手に見たら湯河原で、幕山に登り相模湾を眺めたことがあった(06.12.3)。     

 伊東駅着 熱海駅で少し待って、伊東行きに乗る。5駅程で、手前駅の右手峠に、童謡“ミカンの花咲く丘の歌碑”があり訪ねたことがあった(10.6.4)。子供の頃川田三姉妹が唄って人気があった。伊東駅で城ヶ崎海岸の情報を得て、宿泊先へ。久しぶりに温泉に入り、二人で夕食を楽しんだ。(2025/10/4 K.K.1617)

◇日時 2025/9/24 ◇天候 曇り ◇交通費 1620円 ◇歩行距離等 5000歩 4㎞
「通過時間等」自宅11:40-JR巣鴨駅12:13-池袋駅12:24-同戸塚駅13:34-同小田原駅13:58/14:28-同熱海駅15:15-同伊東駅15:40=宿泊先16:10

私が登った百の名山&低山=甲信越編=「厳冬の暁に三ツ峠山から霊峰富士を仰ぐ」

 友人が登山を再開したといぅので、小生も連れて行ってくれと頼んでいた。小生の希望で三ツ峠山を選んだ。小生にとっては、91年 8 月の自馬以来の登山である。宿泊先の小屋に電話で確認をしたところ、山頂付近は雪が残っているとの情報で、ヤッケ、アイゼン等を用意した。また、大学時代ワンゲル部で活躍したM君に同行を依頼し、同君は快く引き受けてくれた。

 富士急三ツ峠から 新宿駅で待ち合わせ、大月駅で富士急に乗り換え、登山口三ツ峠駅で下車し出発。M君に歩くペースが速すぎると言われる。達磨石で休憩。ヒーターで煎れたコーヒーを戴く。
 達磨石からは本格的な上り。所々雪が凍結して危険な個所があり、慎重に上がる。途中、林が切れた地点で富士山が見えた。見事だ。八十八大師を通過して、ようやく林を抜け出すと巻道となり、この辺りから雪が多くなる。雪の中に付けられた一本道を進む。右に巻いたところで、小屋が正面に見えた。すぐ右上は屏風岩の岩壁で、ロッククラィマ-が取り付いていた。雪が深くなって小屋への坂道に手間取り、ようやく到着。小屋付近は雪一色で、積雪lm以上はあろう。正に冬山模様。雪に囲まれた子供の頃の山形の冬を思い出す。

 三ツ峠山山頂へ ザックを置いて山頂を目指す。雪の道を,慎重に上って、三ツ峠山の頂上[1,786m] 。雲で、冨士は僅か裾野が見えるのみ。小屋は個室でこたつ付き。麦酒を飲もうとしたが、M君が外へ出たまま帰って来ない。後に気が付いたのだが明日の下山ルートを確認しに行っていたのだ。流石で、脱帽である。明朝日の出と富士を見るため、早めに就寝。

 大富士の秀峰に出合う 翌朝4 時30分頃に起きて、日の出を見るため防寒用ヤッケを着て外へ出る。寒い、手がかじかんでなかなか靴紐が結べず、アイゼンが履けない。後で測ったら外は零下 15 度だったという。白み始めた空の正面に、富士が見える。正面に、大きく、しかもくっきりと見える。こんな見事な富士は初めてだ。来て良かった。             やがて東の空に太陽が見える。多くの人が小屋から出て歓声を上げ、シャッターを切っている。西の空には月が残っている。東に太陽、西に月という珍しい光景を見た。また、展望が良く、北西には南アルプス、八ヶ岳、奥秩父の山々がくっきり見えた。

 ロープウェイで下山 朝食後、下山開始。軽登山靴にアイゼンがうまく装着出来ず苦労する。時々M君が手伝ってくれた。雪の中に僅かに残った道跡を辿って進む。ストックを使用して懸命に下る。前日冬山を心配したY先輩のアドヴァイスで、M君が用意してくれたものだ。ようやく、雪道を脱した地点で、左手に富士、眼下に川口湖が見えた。
 天上山のロープウェイ駅に到着して、靴の泥を洗い、持参した赤飯を戴く。ロープウェイで下山後、富士急河口湖駅に到着。小屋で一緒だった人に会う。我々が下山する時は、確かストーブのそばで酒を飲んでいた人のようだが、尋ねたら別ルートで下山し途中からタクシーを利用したという、納得。河口湖駅から大月駅を経由し国分寺駅で下車して、反省会をした。 (94/2/26,27 80/100)

追記 私の最初の山が三ツ峠山であった。職場の友人3人に同行して貰った。厳冬期で山頂下付近は雪が深かった。翌朝の払暁時大富士を正面に眺めて、昨日の苦労は吹っ飛んでしまった。これが私にはプラスに働いて、その後山歩き、里歩きを趣味としてしまった。現在31年経過し、1600回を歩いているが、残念ながら傘寿となって山歩きは最近0である。

竹芝桟橋からゆりかもめ線で東京湾を眺める

 机上に竹芝桟橋の案内を見付け(「我がまち再発見・東京浜松町編」25.6.6讀賣夕刊)、海、東京湾を眺めたいと思った。最近の乗り鉄も山間の路線で、先日銚子電鉄に乗ったが海から離れて走り見えなかった。ゆりかもめ線が走り、東京湾を上から眺めるのも良いだろう。

 竹芝桟橋へ JR浜松町駅が最寄り駅だが、大江戸線大門駅も近いと知り、私は春日駅で大江戸線に乗り換え大門駅に降りると、浜松町駅は近く、直ぐ東海道線ガード下を潜り、竹芝桟橋へ歩いた。大島三原山行き以来(15.3.16)の竹芝桟橋で、記憶が薄い。正面には大きな汽船が係留中で、伊豆大島行きであろうか。先ほど大きなキャリーバックを引いた若者たちが追い越して行ったが、乗船客か。待合室からアンテナショップを覗く。クサヤがあったが好きではない。右手へ歩くと、小さな船着き場があり、その先が浜離宮庭園であった。近くのホテルで、我が故郷会のパーティがあり、2,3度出席したが、その建物は見当たらない。

 ゆりかもめ線に乗車 頭上をモノレールゆりかもめ線が走り、竹芝駅へ上がって乗車。新橋駅始発で、既に混み合いインバウンド客も多い。ループ状に巻いてレインボーブリッジを渡り始めた。東京湾お台場地区に架かる800mの吊り橋。ゆりかもめ線の外、車道や遊歩道もあり、嘗ては徒歩で渡ったこと(16.3.17)もある。お台場を右下に見て、フジテレビ等のビル群を通過。いつものハイク仲間とお台場公園を歩いたのは一昨年であった(23.3.19)。

 宗谷を眺める 国際展示場駅で新橋駅行きに乗り、窓際に席を確保し、湾を眺めた。そうしたら眼下に宗谷があった。南極観測船で、私が小学6年の1956年頃から国際観測に南極で活躍した船で、氷に阻まれソ連の砕氷艦に救出されたことや、樺太犬タロジロで話題になった。カメラに収めたがどうだろう。お台場を過ぎて対岸に漁船の船着き場を見付けて、またシャッターを切った。竹芝駅を過ぎ新橋駅に着き、内幸町駅へ歩くのを避け、地下の都営浅草線新橋駅に下った。東日本橋駅で都営新宿線馬喰横山駅、神保町駅で三田線に乗り換えたが、思ったより早く帰宅できた。(2025/9/26 K.K.1616)

◇日時 2025/9/20 ◇天候 曇り ◇資料 「我がまち再発見・東京浜松町編」25.6.6讀賣夕刊 ◇交通費 シルバーパス+190円 ◇歩行距離等 6000歩 5㎞
「通過時間等」自宅8:40-大江戸線春日駅9:24-同大門駅9:55=竹芝桟橋10:15=ゆりかもめ線竹芝駅10:36-同国際展示場駅10:56-都営浅草線新橋駅11:30-都営新宿線馬喰横山町11:41-三田線神保町駅11:50-自宅12:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「大野山に登り大富士を眺める」

 大野山に登った。丹沢山系端の南西にある低山(723m)だが富士展望の山として知られる。厚木在の読者Kさんからも、良かったと聞いた。手許のガイドの多くに掲載され、初心者向けの山とある。弟と同行した。

 変化に富んだ山道を上がる 大野山は小田急線新松田駅からバス。予想に反しバスはガラガラ。途中、山北駅から歩いているハイカーが見えた。登山口に降りスタート。標識に従い集落鍛冶屋敷へ入り、直ぐ急な坂である。

 旧共和小学校前へ上がると、正面に樹林越しに富士が見え、2人は早速カメラを出した。グランドには大勢の人出がありゲートボール大会のようだ。市間分岐を左へ行き大野山への山道となる。急坂、ヤセた尾根道、小さな岩場とあり中々の登山道。初心者向けとあったから気軽に考えていたが、そうでもない。肩幅程度の長いトラバース状の道となる。途中休憩を取り、水を補給した。林の間から左手先に頂上付近が覗け、そう遠くないことを知る。

 山頂から大富士を 深い林を抜けると、一面カヤトの原野で、山頂一帯は高原牧場という。登山道はその端を一直線に上がる木段。休みを入れながら一歩一歩とこなす。弟も苦戦のようで、間が空いてしまった。
 上り切り肩へ出ると、目の前に丹沢の山々が広がった。右端は山容から大山、そして塔ノ岳、丹沢山だろう。晴天下、秋色を帯びた山々は美しく、暫し展望を楽しむ。弟も追い付いて、牧場用舗道を山頂へ。犬くびり地点には駐車場もあり、車を降りた男女がスタスタと先行する後を、疲れた脚で最後の急坂を上がった。
 直ぐ先に大きな富士山があり、山頂広場では多くのハイカーが眺めている。箱根の山から見る富士と同じである。我々もザックを置いて、雲の切れるのを待ちながら、富士にカメラを向けた。弟は場所やアングルを選びながら、シャッターを切っている。

 遠い谷峨駅 昼食後、御殿場線谷峨駅へ向け下山開始。70分とあり、近い。ススキ原の南斜面を、ジグザグを繰り返しながら高度を下げる。鹿除けフェンスから舗道へ出て、林の中を下り続けて頼朝桜。現木は数代経ていることは疑いない。集落を抜けると左右へ振れる下りの大曲が連続する車道。東名高速の下で、時計を見ると70分は過ぎたが、駅手前の酒匂川も見えない。我々の歩きは早くないことは確かだが、そう遅いとも思っていない。川面が見え出し、傍の紅葉が深紅で綺麗だ。橋を渡り田圃から国道246号へ上がるとようやく谷峨駅で、100分近く経過していた。大野山は私には久しぶりの山歩きらしいハイキング先であった。(2016/11/13 80/100)            

追 伸 展望の良い山で、富士の外、手前からは丹沢山塊の高峰が眺められた。当山は、丹沢の南西の端で、アクセスが良くない。御殿場線沿線で、下山先は谷峨駅であった。その後御殿場線に乗った折、谷峨駅付近では思い出すが、山は見えないが酒匂川の急流は相変わらず速い。

川越、高麗川から八高北線で奥武蔵を走る

 夏は乗り鉄にしようと路線を近郊に選んでいた。未乗車路線はなく、そんな中、大宮駅からJR川越線、高麗川駅から同八高北線で寄居駅へ行き、復路は東上線も利用可能である。いずれも乗ったことがあるが大分前で、ご無沙汰している。特に八高北線は、私のホームグランドであった奥武蔵の山間を通り懐かしいだろう。

 川越線で高麗川へ 埼京線浮間舟渡駅から大宮駅へ出た。武蔵浦和駅迄は時々乗っているがその先は久しぶり。途中から川越行きに乗り、川越線へ入った。直ぐ日進駅で、我がハイク友Kさんのお宅前通過だが、確かめられなかった。荒川を渡り川越駅着。ここからは乗り換えだが待ち時間が長い。路線検索で分かっていたが来てしまった。高麗川経由の八王子行きに乗車。市街地を出ると田園地帯となり、水田は黄色に染まり始めている。武蔵高萩駅を過ぎて、杉並木を探した。日光東照宮の火の番八王子千人同心が往来した日光街道脇往還で、歩いたことがある(02.5.4)。高麗川駅でも待ち時間があり大分待った。

 奥武蔵越生駅、小川町駅 八高北線は高崎行きで、1,2度乗ったことがあるが駅名も頼りない。山間に入りいよいよ奥武蔵だろうが大分走って毛呂駅であった。私は東武東上線、越生線を利用していたので、方向が違う。若い頃歩いた鎌北湖や一本杉峠は左手奥だろう。そして越生駅に滑り込んだ。1000回記念に歩いた大高取山はここからスタートしゴールした。孫達も一緒でもう10年前のことで(15.10.25)、上の孫は今年から社会人になった。                         
車窓左手を眺めている。都幾川出身の読者YKさんの実家があり、栗拾いに来たことがあった。あれかなと思っていたら明覚駅を通過し、山坂を下り小川町駅に着いた。手前右手の低山が900回となった仙元山であった(14.5.25)。駅裏の校舎がYKさんの母校であったと思う。

 山を越し、川を渡り寄居駅へ 我が乗り鉄も終盤であるが、寄居駅まで何駅か思い出せない。次の竹沢駅は知っていたが、折原駅は忘れていた。竹沢駅から金勝山を左に巻いたのが八高北線で、右が東武東上線だと思っていたがほぼ直線的に走ったようである。車山に登り鉢形城址へ歩いた時(14.12.27)折原駅がスタート駅であった。山坂を下り、鉢形城址を右手に見て、荒川を渡って寄居駅であった。待合室で昼食を取り、高麗川行きを待った。(2025/9/19 K.K.1615)

◇日時 2025/9/13 ◇天候 曇り ◇交通費 1520円 ◇歩行距離等 5000歩 4㎞                        「通過時間等」自宅8:40-JR浮間舟渡駅9:25-同川越駅10:37-同高麗川駅11:32-同寄居駅12:44-同高麗川駅13:54-同川越駅14:25-同赤羽駅14:58-三田線志村坂上駅15:18-自宅15:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「ロングコースと険路に難渋した箱根明星ヶ岳」

 久しぶりの本格的な山歩きであった。山麓明神平から歩き出して箱根湯本駅に着いた時は5時間を過ぎていた。急登あり、尾根歩きあり、そして急降下もあり、最後の下りは荒れた道であった。終盤は同行のKさん共々、膝をがくがくさせながら下山先阿弥陀寺を目指した。

 急坂から尾根道へ 箱根明神平宿泊先から登山口へ向かうも間違えたらしく探しあぐね、近所の方に教えて貰い、藪を抜けて登山道へ合流した。岩がごろごろする急坂を霜を踏みつけながら一歩一歩上がり続ける。歩き難い程ではないが箱根火山特有の登山道だろう。2,3度小憩を繰り返したが、45分程で鞍部へ飛び出した。ここからは明神岳を背にして尾根歩き。晴天の下、右手には神山や早雲山の箱根の山が一望だ。今朝ベランダから眺めた風景と同じで、うっすらと雪化粧している。若いKさんが先行して私が後を追うのはいつもの展開だ。
 尾根筋は一転した歩きやすい緩やかなアップダウンのある道。時々は竹藪の間を通過する。“ドーン”と音が聞こえる。“雷かな”とKさん、“いや自衛隊が撃つ大砲だろう”と私。御殿場の演習場が近いはず。子供の頃故郷に駐留した米軍演習見聞の経験があった。明星ヶ岳(924m)に到着。山頂とは程遠い平地に三角点と社だけ。ザックを降ろして社に参拝し、記念撮影。展望はなく、資料に従い休憩は少し下った先とした。

 遠い塔ノ峰 ここからが次のポイント塔ノ峰迄距離もあり、しかも難コースであった。尾根道が終わり、急降下する。雨で流れて山道がハッキリしないし、階段も役に立たない。横に成りながらどうにか下り切った。突然林道へ出て、登山道が不明。マップを出して読み林道を進むと先に塔ノ峰への案内が見付かった。また急登、疲れた脚には辛いが懸命に進む。左手が開けて、雪に染まった連山が見えた。またKさんが“あの山は”と、私は“多分丹沢の山だろう”と応答。最右手の山の形に大山を見たからだ。

 悪路を下る 塔ノ峰(566m)で最後の休憩。もうすぐ下山と高を括っていたが、気を抜けない荒れた急な下りが続く。慎重に歩いて下りた先が阿弥陀寺境内であった。あじさい寺として有名。軽く参拝し、未だ芽も出していない紫陽花の木のある参道から杉並木の下を、直接湯本駅へ下る。意外に近くて登山鉄道利用を止めたのは正解であった。ロマンスカーを予約し土産と弁当を求め、遅い昼食は車中とした。Kさん有り難うございました。お陰様で、無事明星ヶ岳に登ることが出来ました。また同行をお願いします。小田急車窓から眺めた大山や鍋割山も是非歩きましょう。(2012/03/12 79/100)

追 記 箱根の山は本山と金時山のみとなってしまった。箱根火山の外輪山東方の山である。ハイキングには東海道箱根八里や杉並木から芦ノ湖畔等と大分歩いたのだが。隣の明神ヶ岳は是非と思っていたが実現できなかった。本山では、最後の下りが急な上、悪路であったことを思い出した。

私が登った百の名山&低山=関東編=「500回記念に読者達と登った石老山」

 500回記念ハイクを企画 総勢8人で石老山(セキロウザン)に登った。山歩き里歩き500回記念登山を企画し、読者仲間の賛同を得て実行した。登頂を果たし、無事下山、帰宅して500回山歩きは達成できた。

 相模湖駅から 朝、新宿駅と相模湖駅で参加者と合流し、バスで登山口へ向かう。3人以上でのハイキングは久しぶり。他のグループと前後して里道を行き、病院裏から山中に入り、早速大岩の間の上りの道となった。結構きつい道で、記憶とは大分違うことに気付いた。小生は三度目の山の筈だ(95.3.11,00.3.19)。最初の関門を上り切って顕鏡寺に到着し、休憩。                
 次は本日最大の上りだが長くはない。リーダーをお願いしたMさんはゆったりしたペースで進む。彼には先程小生のザックと交換して貰った。一行の中には最近は山や運動から離れた方もおられて、連続する急登はつらい筈だがそう遅れないで付いてくる。難関を突破して融合平で休憩。相模湖越しに高尾山や小仏峠、陣馬山を眺めながらチョコレートを食べる。ご婦人方と一緒だとこの恩恵に預かることができる。

 三度目の石老山 山道を上り続けて、ピークを一つ越し階段状の道になると頂上は直ぐだ。見覚えのある小さな山頂(694m)に到達。期待した富士山や丹沢山系の展望はない。どんよりとした曇り空が邪魔をしている。一本の満開の桜が慰めてくれた。Mさんに持ち上げて貰った芋煮鍋を温めて昼食。やはり山では大勢での食事は楽しい。気温が下がって寒く、ウィンドブレーカーを羽織る。温かい芋煮は評判が良く準備した甲斐があった。最後にコーヒーを提供した。ガスストーブの使用は約10年振りだが、支障なく役目を果たしてくれた。先日引出しの奥から取り出した。石老山標柱を入れ記念撮影をして、下山開始。

 下山コースは難路が続く 予想外の急降下が多く、皆慎重に一歩、一歩と下る。石老山はファミリー向けで散策程度と宣伝したため、嘘吐き、騙されたと、笑いながらではあるが言われてしまった。当初予定の三ツ峠山はもっと厳しいよと返した。Mさんの事前調査で三つ峠山には雪が残り急遽変更した。           
 大明神台展望台を過ぎてからも、下りの険路が続く。10数年前とはいえ、全然記憶に残っていなかった。ようやく沢筋から林道へと出て、全員下り切った。遂に雨が降り出したが山を離れつつありラッキー。相模湖を船で渡ることにして湖畔へと下りるが、この道も簡単ではない。鎌倉古道跡とか。僅かな時間湖上遊覧を楽しみ、駅前で反省会とミニ祝賀会。

 盛り上がった駅前宴会 “1000回目指せ”などの声も飛び出して、話も弾み宴は盛り上がり、腰を上げた時は2時間を超えていた。ご参加の皆さん大変有り難うございました。お陰様で、500回を達成し、しかも楽しい山歩きでした。当分歩き続けます。今後もよろしくお願いいたします。
(08/4/26 78/100)

追 記 500回の記念登山は、もう約20年近く前になってしまった。復路では、相模湖を船で渡り、駅前での反省会は盛り上がったのを覚えている。同行メンバー中、一人は後輩であったが早世された。残念である。他のメンバーとは、現在も交流がある。石老山は、日本百低名山(同書55頁)、日本百低山(同書210頁)に選ばれている山である。

都心九段下から江戸城内濠瑞を歩き、東御苑を巡る

 はや今年も9月。灼熱の夏で、我が里歩きは滞っている。7月は1回、8月は2回に過ぎない。新聞、ラジオで天気予報を注視しているが、猛暑日を避けるのが難しい。本日大手町で会合があり、その前に歩こうとコースを考えた。夕方近くなら、暑さも少しは和らぐだろうと勝手な思いである。地下鉄都営新宿線九段下駅から皇居沿いに大手町へ、である。

 九段下から濠瑞へ 集合時間から逆算し、家を出た。三田線を神保町駅で乗り換え九段下駅に降りたら、15時30分であった。改札口は東西線と一本化されていた。地上へ出て、江戸城内濠牛ヶ淵を眺めると水面が蓮で覆われている。少し下って右折、九段会館前で、思い出の場所で、中学時代の修学旅行の際二泊した。建て替えで高層化されていたが正面の一部は昔の儘のよう。右折し濠を渡り、江戸城清水門を見学。徳川御三卿清水家の門で、江戸初期の建築で重文とある。誰もいない中門を出入りし、眺めた。そうしたらカバンを持つ女子学生が北の丸へ歩いて行った。戻ってまた清水濠端を行く。こちらは、蓮はなく水濠そのままである。

 東御苑天守台へ 竹橋に着いて、交差点渡り江戸城平川門へ。左手が毎日新聞社である。以前平日なのに閉門であったが、本日は東御苑へ入園出来たが、入口で荷物検査があった。園内は樹木が多く、その間に通路梅林坂があり、それも皆曲がりくねっている。往時の城内のままなのであろう。大きな天守台があった。天守閣は三度建てられたが1657年の明暦の大火後は復元されなかったとある。先ほど来出会う見学者は外国人が殆どである。現芝生広場は大奥の跡とある。休憩所があり、冷たい缶コーヒーを求めて、ベンチで小憩。                                   

 大手門を出る 大手門を目指したが、園内は広く、また曲がりくねった坂を下り、高い石垣が遺る中之門跡を過ぎると、番所のある郭。大番所、百人番所、同心番所と続く。そして、大手門。典型的な桝形門であるが、徳川400万石の大手門としては小さめか。敵侵入防止が優先だからであろうか。大分前のことであるが、孫を案内したことがあったが、小学生の彼は何ら興味を示さなかった。大手濠を渡って大手町へ。少し時間に余裕があり、洗面所で顔を洗い汗を拭いて、会場入りしたら、メンバーは先着していた。(2025/9/14 K.K.1614)

◇日時 2025/9/9 ◇天候 晴 ◇資料 「TOKYO千代田区観光マップ」2024.3 ◇交通費 シルバーパス ◇歩行距離等 9000歩 7㎞                        「通過時間等」自宅14:55-新宿線神保町駅15:28-同九段下駅15:35=清水門15:45=竹橋交差点16:00=平川門16:10-天守台跡16:20=大手門16:45=大手町会場17:05/18:30=三田線大手町駅18:35-自宅19:15

私が登った百の名山&低山=関東編=「相模灘を眺めた初冬の湯河原幕山」

 幕山は湯河原から少し入った相模灘展望の山である。資料には、「なだらかなカヤトの頂上からは真鶴半島や伊豆半島、そして太平洋の大海原が一望できる。」と紹介されている(「首都圏ハイキング97秋冬号」29頁)。隣の城山には、5年前に登ったが(01.12.1)、しとどの窟(イワヤ)への途中で滑って転び右膝を痛めた苦い思い出がある。今回も、勤務先の年末会合が奥湯河原温泉で開かれ、翌日一人早立ちして、バスを乗り継ぎ、幕山公園から歩き出した。師走なのに天候は良く、風もない。

 幕岩下から山へ 同じバスを降りた家族連れと一緒に舗道を少し歩くと登山口。管理棟には小さな売店があり、パンフを揃えてある。一挙に山道となり、正面は幕岩と呼ばれる岩場で、多くの男女がロッククライミングの訓練をしている。横目で眺めながら、山頂へのルートを進む。数台のタクシーで乗り付けた一行も、岩登りらしい。年輩者やご婦人も混じっていてそうは見えなかったのだが。

 海原展望 雑木林中の道を、葛篭折れを繰り返しながら、高度を上げる。木々は紅葉を越して枯れ葉に近い。時折鳥の声も聞こえる。そんな自然の中を独りゆっくりと上り続ける。下る老夫婦と交差して挨拶を交わした。右側木立の間から海が見え、足を止めては休憩を兼ねて展望を楽しむ。前方に広がる海原の大眺望は海辺ハイクならではの醍醐味だ。神奈川県や千葉県コース特有だが、歩いた数は少ない。そのため、出会った時一層感激が増す。一呼吸を入れて頂上を目指す。灌木地帯を過ぎカヤト地となって、頂は近い。

 山頂を楽しむ 山頂(625m)は、小さな広場で既に2,3のグループが昼食中であった。正面を向き眼下に相模灘を確かめ、左に真鶴半島、右は伊豆半島、その間の島は大島だろうか。初島にしては方向や大きさが違う。カヤトに寝ころんで空を眺める。天候は変わりつつあり雲が出始めていて、寒い。季節は既に冬、初冬なのだ。一休み後、幕山の標識を入れて携帯に保存した。

 バス停へ下山 下山は別コースとし、反対側へ下る。南郷山分岐を左折すると悪路であった。溝のような石ころだらけの道を通過し竹林のトンネルとなる。また沢のような地点を下り続ける。こちら側でもハイカーとは会わない。林道へ出て、大石ケ平で橋を渡り、一の瀬に着く。ここから右へ行くとしとどの窟とあり、ようやく位置関係を知る。左手に岩場に取り付くクライマーが見え始めると、登山口管理棟であった。バス停のある五郎神社まで下った。下り坂では水平線が目の上に見えた。土産にみかんを求める。一袋僅か200円で産地直売価格であった。
 幕山は山歩きを始めて以来目標の山の一つとしていた。何となく険しい山のような印象を持っていたが、上下2時間と意外と簡単に歩き通してしまった。しかし、帰宅後左膝が痛み出した。整形外科で診て貰ったら半月板損傷だが軽いという。湯河原は、過去にも城山では転んで右膝を負傷したが、あの時も勤務先の会合に参加した同時期であったことを思い出した。湯河原の山は小生にとっては鬼門なのだろうか。(06/12/3 77/100)

追記 当山は山頂付近では相模灘から太平洋の展望が良い山であった。天候にも恵まれたからであったと思う。幕山は日本百低名山である(同書57頁)。読み直して、下山途中の下りで、左ひざを捻ったのを思い出した。帰宅後痛み出し、2月程苦労したが、その後再発しなかったのが幸いであった。

私が登った百の名山&低山=関東編=「新緑の中鎌倉アルプスを歩く」

 久しぶりに山道を歩いた。膝の故障も癒え歩き始めとして、鎌倉天園コースを選んだ。このコースは低山だが鎌倉アルプスと呼ばれる知られた山道だ。手元の資料にも紹介されて、以前から一度晩秋にでも歩こうと思っていたが、今頃は新緑が美しいと新聞で知った。鎌倉アルプスは鶴岡八幡宮を取り囲むように連なり、頼朝はこれらの山を天然の要害としてこの地に幕府を開いたと、中学の修学旅行の時に習った記憶がある。

 鶴岡八幡宮参拝 鎌倉駅から先ずは鶴岡八幡宮にお参りをして、家族の健康と本日の安全をお願いした。鎌倉の八幡様は、中学の修学旅行と長女が中学生の頃紫陽花見学の際と3度目だ。故郷東根の若宮八幡宮は康平(1058-1065)年間に分霊したものといわれている。境内手前のぼたん庭園で牡丹を観賞した。鎌倉は山歩きの外季節の花が楽しめる。「現在満開」の案内に惹かれたのだが期待した程ではなかった。

 瑞泉寺口から 今回は天園コースを反対側・瑞泉寺口から歩くことにし、瑞泉寺に立ち寄る。1327(嘉暦2)年に夢窓国師が開山した名刹という。鎌倉の小さな山に囲まれて緑の谷間に埋もれていた。入口から本堂までも長い林中の参道が続き、寺の庭は裏山や岩場を利用した禅の庭園とあった。登山口は寺傍に見付かった。瑞泉寺付近は滑りやすい粘度質の急坂と知り、こちら側から上ることにした。昨年末湯河原の城山裏で滑って以来、急な下りは未だに怖く、出来るだけ避けるようにしている。昨夜の雨のせいで道は濡れて、上りにしたのは正解のようだ。コースは木々に覆われて展望はない。上り道が続くも息切れはしない。沢のような道の途中に地蔵様が祀られていた。貝吹地蔵らしい。ランニング中の男女とすれ違い、先ほど越した小さな岩場はどうするのだろうと思った。
 鎌倉の山は亜熱帯植物が生い茂りその中の大木は椎や楠のようだ。やはり低山と雖も緑の山道は山歩きの雰囲気を味わうことが出来、街角ウォークや里歩きとは趣が違う。ルンルン気分で新緑の中を行く。展望台の岩に立ち見下ろしたが曇り空の下、市街から海岸方向は霞んでいた。天園に着いて売店で休憩した。

 天園、大平山 ゴルフ場上に出て崖状の斜面を上がると大平山(159m)で、コース最高点の頂上からは横浜方面が望まれた。山頂下は溝のような濡れた坂で、木に掴まりながら慎重に一歩、一歩下る。下りは踵に重心を置くようにした。大勢のハイカーと出会うようになる。やはり人気あるハイキングコースだ。犬を連れた家族は散歩だろうか。十王岩を過ぎて、建長寺裏山の展望台に着き、同寺を眺めると深い緑の原に伽藍だけが浮き出ていた。長い階段を下りて、半蔵坊から建長寺内に入る。

 建長寺に下山 広い境内を本堂や鐘楼、山門を通り抜けて下山し、北鎌倉駅に向かった。心配した膝は支障なく歩き通し、山道の上下にも特に違和感もなかった。2月末聖路加病院の先生に、山歩きは2ヶ月後にせよと診断を受けたが、そのとおりであった。   (2002/5/12 76/100)

追記 鎌倉アルプスコースで、鎌倉八幡宮の背後を囲んだ低山であった。新緑も深緑で、清々しい山歩きとなった。コース自体も高低を繰り返し、時々展望も楽しんだ。10年後に反対側から歩いた(12.1.8)。鎌倉アルプスに遺る切通しも歩いた。名越切通(05.03.16)、鎌倉大仏坂切通(09.12.26)、朝夷奈切通(11.01.10)、釈迦堂口切通(11.02.06)、亀ヶ谷、化粧坂切通(23.02.18)で、七つ口の大半である。本天園は、日本百低名山に選ばれている(同書58頁)。

都内港区に大門、芝公園を巡る

 今夏は暑くて里歩きも儘ならない。乗り鉄に期待していたが、近郊路線では行く先は少なくなってしまった。天気予報で、猛暑日でない日がようやく到来し、跳び付いた。行く先は港区芝公園周辺とした。林が多く、少しでも日は避けたい。数回は歩いている。そう安近短で、真夏向きと思う。大江戸線で大門駅からを三田線御成門駅からと急遽変更した。

 御成門駅から大門へ 我が家から一致直線の三田線御成門駅で降りた。地上へ出ると右手に東京タワーが立っている。目指すは増上寺境内で、近い。入口の熊野神社に挨拶し、猛暑の解消と孫たちの健康をお願いした。増上寺の三門は工事中で閉鎖され、鐘楼へも近づけない。確か、‟鳴る鐘は芝か上野か浅草か”の川柳が紹介してあったと思う。日比谷通りへ出て大門へ歩く。次は芝大神宮へで、久しぶりであり、石段を上り参拝。1000年以上前創建の古社とある。屋根の造りが珍しい。ベンチで休み、濡れタオルで顔を拭き、水を補給。表参道から大通りで、大江戸線大門駅に下り、次の赤羽橋駅迄乗車。

 芝公園は閉鎖中 地上へ上がり櫻田通りの広い交差点を渡り、芝公園の西端であろう宝殊院で園内へ入り、弁天池を眺め、疎らな林の下を歩く。暑いが焼けつく程ではない。ベンチで休憩している人も見え、私もまた水を飲んだ。園からパークタワーホテル前を通り、そして芝公園だが、こちらも工事中で閉鎖してあり、えっ!である。この公園には縁がある。先ほどのホテルで毎秋10回程会合があり園内を通って行き来し、昼休みも休憩地にした。15年も前のことであったろうか。裏側へ回ってみたが、入口は閉め切られていた。

 大銀杏に再会 隣の芝東照宮へ寄り参拝して、大銀杏に再会。寛永18年(1641)頃の植樹で空襲からも逃れ、今も健在でカメラに収めた。横の広場で、ATMで冷たい缶コーヒーを求め、また休憩。港区設置の平和の灯の案内があり、小さな水槽の中にあった。三田線芝公園駅から帰途に就いた。車中、スマホで本日の歩行時間と距離を見ると、最低目標をなんとかクリアしていた。(2025/8/30 K.K.1613)

◇日時 2025/8/28 ◇天候 晴 ◇資料 我がまち再発見・東京・浜松町編上(25.6.6讀賣夕刊)◇交通費 シルバーパス ◇歩行距離等 8000歩 6㎞
「通過時間等」自宅8:25-三田線御成門駅9:20=増上寺9:30=芝大神宮9:45=大江戸線大門駅10:02-同赤羽橋駅10:15=宝殊院10:25=芝公園10:35=芝東照宮10:40=芝公園平和の灯10:50=三田線芝公園駅10:58-自宅11:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「海を眺めながら登った三浦富士」

 三浦富士に登った。三浦半島にあるわずか標高 183mの山であるが、ハイキングには手頃で、ガイドブックにも海辺の展望の山として屡々登場する。小生にとって、体力的にも前回に引き続く平地から低山への第二弾としては適度な山であり、距離的にも三田線、京浜急行を乗り継げば交通の便は良く我が家から遠くはない。以前から次ぎに歩く山として海が見える山を考えていた。これまで海を眺めながら歩くハイクキングは少なく、千葉内房の百首城(97.3.1)があるだけである。

 京急長沢駅から三浦富士へ 京浜急行で三浦半島を訪ねたのは何年前だったかなどと考えながら、登山口のある長沢駅に降りた時は午後12時半を過ぎていた。朝、天候がはっきりせず出掛けに躊躇していたら出発が遅くなってしまった。駅前でジュースを仕入れ、公園先に登り口を見付けて山に入り、鬱蒼とした樹林の中を進む。周りの樹木が奥武蔵などと違い、常緑樹が多くどこか南国風であり暖流の影響であろう。地面にもこの時期にぜんまい風の羊歯類が見受けられる。
 三浦富士には13時過ぎに登頂。曇り空で期待したほどの眺望は得られないが、左に東京湾、右に相模湾が望まれる。天候が良ければ、房総半島から大島、遠くは富士が一望にできるという。そのとおり浅間神社が祀ってあった。

 砲台山、武山 三浦富士から砲台山を経由して武山(200m)に着いたのは 14 時。砲台山は太平洋戦争時に砲台が設けられた山で、頂上(204m)には電波塔と並んでその残骸が遺っていた。砲台山からの下りで滑って転んでしまった。雨上がりのように道が湿っていたので気を付けてはいたのだが。武山不動尊に参拝した後、津久井浜へ向かって下山開始。道端の草の中に咲くすみれを見付け春を実感する。途中、畑の先に三浦富士の全容を捉えたが、どう見ても富士の面影はない。農園先の売店で漬け物や野菜を購入して、丁度15 時に津久井浜駅に到着。街道筋で見た猫は“マイケル”そっくりで呼んだら立ち止まって振り向いて呉れた。
 今回も先日求めたハイキングシューズを使用。右足首の辺が当たり紐を弛めてどうにか歩き通せたが、未だ足に馴染まない。折角持った携帯電話は操作を誤り通じず、最新メカに付いていけない中高年その者と反省。                     (99/03/13 75/100)

追記 三浦半島もハイキング先で、その中で山は当山である。気軽に歩いて下山できた。京急線からアクセスが良かった。三浦半島では、そのほか田浦梅の里から葉山アルプスも歩いた(10.1.11)。BS1にっぽん百低山SPで、三浦富士の由来は、三浦半島の江戸時代の富士講登拝先と知った(25.8.9)。津久井浜駅前に浅間神社があり、三浦富士にあるのは奥社という。

私が登った百の名山&低山=関東編=「先輩に連れられて登った憧れの丹沢塔ノ岳」

 先輩Hさんに連れられて、丹沢表尾根コースを縦走する。丹沢は、小生にとってやや遠い存在ではあるが、憧れの山でもあった。奥多摩や奥武蔵と違い、山男の好む山であり、本格的な登山を目指す者の足慣らしあるいはアルプスに登る合間に楽しむ山という思いがあった。したがって、高年になって始め、低山歩きを主とする小生にとっては近寄りがたいが、一度は挑戦したい山の一つと思っていた。扇山(97.4.12)の帰りにHさんから丹沢の話があったとき、絶好のチャンスと飛びついた。とても、単独では無理と思っていたからだ。

 ヤビツ峠から 小田急秦野駅に集合し、ヤビツ峠までバスで入り、同峠から丹沢表尾根コースを採る。富士見橋先から山道となる。最初に休憩した二ノ塔から左手奥に塔ノ岳、右手に大山が見えた。下って登り返すと三ノ塔。三ノ塔の先は急降下。鎖があったが使用しなくても済む程度のもので、職場の同僚T君から前日聞いた通り。昨年の平標山(96.7.13)の下りと同じ位かなと尋ねたら、Hさんはこちらが急という。その後小さなピークを数度越して新大日茶屋で休憩。途中、やしおつつじ、白いつつじやぶなの木を見た。何度もピークを越すコースは気分的にも滅入るが、ピークといっても短時間で登り切る小さなものであり、未だ上りコースで目指す主峰が先ということもあって、伊豆ガ岳(95.4.15)の下りのようには疲れない。

 360度展望の山頂 塔ノ岳への最後の上りは歩きやすい尾根道で高尾山周辺のような道。尾根から石の多い道を上り切ると頂上(1,490M)。360度展望可能な頂上で、丹沢山、蛭ガ岳は正面に見えるが、天気が良いためかえって遠くが霞んでいる。富士山は二ノ塔への上りの途中で見えたのみ。食事中に鹿が現れ、餌を強請っている様子。昨年の大山(96.6.16)でも出会った。今回二度鳴き声を聞く。鹿が多いのだろう。

 長い下山路 大倉バス停を目指して下山。鍋割山は次回にする。階段が多く歩きにくい。懸命に下るも、他の登山者に抜かれ離される。小生の下りは、速いとは思わないがそれ程遅いのだろうか。それでも、予定時間通り無事大倉バス停に下山した。下山コースには山小屋を兼ねた売店が多くあり、それだけ山が深く、また人気があって登山者が多いということであろう。
 登山前に、資料を見て、休憩時間等を入れて7時間を要し、9時ヤビツ峠出発、16時大倉バス停下山と予想したが、ほぼその通りとなる。今回も同行して戴いたHさんに感謝したい。お陰様で、憧れの丹沢の一角を無事踏破し、少し自信が付いたような気がする。流石丹沢で歩行時間が長く、しかも上り下りもきついため、足、特に太股がいつもより痛い。なお、途中の大倉高原山の家の水場で、飼い猫たまと水割り用に水を汲み、地酒は「ササカップ」を求めた。因みに水は有料(維持費負担)であった。(97/5/10 74/100)

追記 丹沢山塊には丹沢山の外、高峰があるが、私は塔ノ岳だけとなってしまった。チャンスはあったが実現できなかった。鍋割山や丹沢山、檜洞丸などの山麓を下見的にハイクし時を経て、これらの山々も登ったのではないかと錯覚してしまったようだ。大山や塔ノ岳は、小田急からアクセスが良いからであったろう。残念である。塔ノ岳は、日本三百名や日本百低名山(同書226頁)登載の山である。

旧中山道から都電、京成電鉄で御徒町へ

 8月に入り、暑さが増し出掛ける気分にはならず、前回から1月過ぎようとしている。前月はこれまでで一番暑い7月となったという。そんな中、また安近短コースを無理やり探した。新板橋駅から旧中山道を歩き、庚申塚駅から都電で三ノ輪橋へ行き戻って、舎人ライナーで日暮里へ出ようかと思う。ミニ乗り鉄で暑さはなんとか凌げよう。

 旧街道から 三田線新板橋駅から旧中山道へ歩き出したら、雨が落ちていて傘を出した。JR板橋駅手前から旧中山道へ入り、埼京線踏切を渡る。板橋宿手前である。1、2度歩いたことがあり、右手にある近藤勇の墓に寄る。1868(慶応4)年流山で新政府軍に捕まり、その本陣があった板橋で処刑されて墓があり、同じ新選組の永倉新八達が建てたとある。旧中山道へ戻るが、それらしい建物も雰囲気もない。北区滝野川で、明治期に亀の子束子を考案した西尾商店があった。調べると、この束子は実用新案と特許で二重に長く保護された珍しい製品となった(工業所有権制度百年史上巻316頁)。

 荒川線三ノ輪橋へ 庚申塚駅に着き、都電に乗車。本日は混み合い、家族連れが目立つ。電車のヘッドに日の丸を掲げているが本日山の日で祝日であった。王子駅前、熊野前から荒川区を走り、終点三ノ輪橋に着いた。駅周辺を歩こうと日光街道へ出る。確か対馬藩下屋敷跡の案内があったと思うが見付からない。アーケード商店街ジョイフル三ノ輪を通り抜ける。昭和の繁華街も閉めた店鋪もあり、往年の活気は窺えない。

 京成電鉄に乗る 荒川一中前駅から都電に乗車。予定を変更し、町屋駅前から京成電鉄に乗り、京成上野駅へ出ようと思う。日暮里駅から先は多分初乗車。小雨の中移動し京成電鉄に乗り換えた。日暮里駅からは長いトンネルを通過。ここに博物館動物園前駅があったが、2004年に廃止されたという。都内では新設駅はあるが廃止は稀有だと思う。終点に着き、改札を出ると大江戸線上野御徒町駅の地下ルートの案内があり、雨は避けられた。300m程歩いて上野御徒町駅。春日駅で三田線に乗り、志村坂上で地上へ出たら、空は明るく、雨は上がっていた。(2025/8/14 K.K.1612)

◇日時 2025/8/11 ◇天候 小雨 ◇交通費 170円 ◇歩行距離等 8000歩 5㎞                        「通過時間等」自宅8:40-三田線新板橋駅9:00=荒川線庚申塚駅9:30-同三ノ輪橋駅10:10=荒川一中前駅10:30-京成町屋駅10:48-同京成上野駅/11:00=大江戸線上野御徒町11:10-三田線新春日駅11:28-自宅11:55

私が登った百の名山&低山=関東編=「箱根手前の金時山から足柄城跡へ」

 バスで乙女峠へ 二、三年前から足柄峠にある足柄城跡(神奈川県南足柄市)を訪ねたいと思っていて、今回金時山の登頂後に寄る計画を立てる。新宿から高速バス利用のルートを知りそのルートを採る。バスは満員で大半が金時山の登山客のよう。乙女峠のバス停で降車して、歩き始める。少量ではあるが雪が残っているところがある。予想していなかったことで、本当に山の状態は分からない。甘く見てはいけないと思う。三月の石老山の時、Hさんがアイゼンとオーバースボンを用意しておられたが、ベテランの用意周到さを思い出し、改めて脱帽である。見習わなくてはいけない、と誓う。すぐ乙女峠。

 山容は猪鼻か 小休憩後出発。滑り易い赤土に階段が付けられた道を登る。長尾山を越えたところから、次の上りが心配な程、ぐんぐん下る。右前方に金時山が見え始める。再び上りとなり、鎖場らしき所を通過して、歩き易い尾根道を進む。金時山が正面の位置に見えるようになる。山の形が猪の鼻に似ていると言うが、鼻が立った状態なのだろうか。右側に展望が開けて湖は芦ノ湖で、蒸気が立っているのは大涌谷か。ゴルフ場が目に付く。最後の急登となり、遭難碑のレリ-フがはめ込まれた岩があった。この程度の山では珍しいのではないだろうか。難無くこなして頂上[1,212M]に出る。既に10人程の登山客が休んでいた。

 金時娘の山小屋 頂上は意外に広く、小屋が二軒ある。その一つが有名な金時娘のもの。同小屋は客で混雑していた。いつかテレビで見たようになじみの客が多いのだろう。彼女が新田次郎の小説「強力伝」のモデルの娘であったことを、小屋の案内板で知る。雲が多く、富士山は裾野のみで遠望はないが、箱根の主峰神山が正面に見える。
 雨が来そうなので早目に、足柄峠に向けて下山開始。すぐ急降下で、はしごの連続。立った猪の鼻を下っている格好。はしごはてすりのあるステンレス製。山のはしごとしては立派なもので、降り易い。上りのハイカ-が多く、待つことがしばしば。小さいが浮き石があり、慎重に下る。約25分で下り切り、広い尾根道に出る。途中、丸鉢山で休憩。そこに猪鼻砦跡の標柱があった。説明によると、丸鉢山が猪鼻の先に当たると言う。どうも、金時山は鼻が立った状態と見た先の見方は違うらしい。

 足柄峠・城跡 尾根道を歩き通して、足柄峠・城跡に着く。例の豊臣秀吉の小田原攻めの時は戦わず空け渡したらしい。一の郭から五の郭までを歩き回る。空壕や土塁で仕切られた郭跡が良く残っている。当時の井戸の跡もあり、珍しい。物見台と言われる場所から金時山を見たら、同山は猪の頭で丸鉢山が鼻先に見えた。
 その後、聖天堂に参拝し、関所跡を見て、明神郭跡を探したが探しあぐね、地蔵堂へ下る。下りの道は、新羅三郎義光、源来光、徳川家康なども通った古道という。時々舗装道路と交差するのが残念だ。地蔵堂に着き、バス時間を確かめ、夕日の滝を往復する。途中、道端に五、六頭分の猪の毛皮が干してあった。地蔵堂で休憩後、お土産に菜の花などの野菜を求め、バスで小田急新松田駅に出る。予定より早目に帰宅できた。(95/4/2 73/100)

追 記 箱根金時山は、日本三百名や日本百低名山(同書113頁)、日本百低名山(同書230頁)登載の山である。しかし、当時は城址巡りが主で、足柄城址に力点があったと思う。道路に干してある猪の毛皮が生々しかった。15年後金時山に再登した(10.5.15)が記憶と違っていた。この時は仙石原へと下山した。

大江戸線で光が丘公園へ

 7月に入り連日暑い日が続いている。里歩きも困難な時期であるが、そんな中暑さを避けるコースを探した。辿り着いたのが、板橋区境にある練馬の光が丘公園。園内の北半分程は森林に覆われている。その中には太陽が届かず、なんとか歩けるだろう。武蔵野の面影の期待もある。大江戸線光が丘駅から近く、安近凉だろう。

 大江戸線で光が丘へ 春日駅で三田線から大江戸線に乗り換え、都庁前で光が丘行きに乗り継いだ。光が丘駅は初めてではないが、大きな駅で地上へ出るのに戸惑い、方向を確かめ公園へと歩いたが正面にはビルが並び、地図版で一本左の通りを行くと、公園に突き当り、入口を見付け入園。当園は2,3度歩いているが、いつもは板橋成増側からで、風景が一致しない。ようやく案内所があり、園内マップを貰い、見当が突き始めた。

 期待通りの散策路 裏手へ回り西側の遊歩道をスタート。予想通り、樹林帯の道で、左右は樹々が繁り涼しそう。霧雨が落ちている。時々散策者が交差するだけ。くすの木広場で右折し林の中を歩き続ける。北口で内部へ入り、休憩所を経て、ゆりの木広場へ。自販機で冷たい缶コーヒーを求め一息入れた。咲く花はキバナコスモスか。霧雨はやんだが暑さは感じない。歩行中の桜並木はジョギングコースで距離表示があり、時々ランナーの外自転車も通る。車の通行はなく安全だ。バーベキュー広場の先がちびっこ広場。正面先に赤塚口が見えは始め、東門だろう。

 深い森の中 ここで左折し、自然保存ゾーンとあり、森の中である。時々ジョガーや散策者と交わる程度で、自然を楽しみ、味わっている感じで、夏とは思えない。次は北口であったが、先ほど内部に進入した地ではなく通り越し、そこまで歩くことにした。スマホで調べると約5㎞を歩いたに過ぎない。往路で確かめた公園口に着いて、光が丘公園を出た。そこは光が丘高校口で、初めての地であった。折よく直ぐ成増行きバスが来て、乗車。北口前を通って成増に着き、同駅で買い物し帰宅した。調べると、光が丘公園はいずれも晩秋で銀杏並木散策であった(21.11.12他)。(2025/8/5 K.K.1611)

◇日時 2025/7/11 ◇天候 曇り ◇交通費 シルバーパス ◇歩行距離等 9000歩 7㎞
「通過時間等」自宅8:45-大江戸線春日駅9:30-同都庁前駅9:47-同光が丘駅10:20=光が丘公園10:30/11:35=光が丘高校前バス停11:38-成増駅12:00-自宅12:25

私が登った百の名山&低山=関東編=「ヤビツ峠から大山に登り日向薬師に下る」

 天気予報通り、天気は明け方は良くなかったが、太陽が昇るに従い段々良くなりハイキング日和。小田急秦野駅に8時10分着。

 ヤビツ峠から上る バス停はハイカーの群れで一杯。既に、S夫妻、STさんがバス停に並んでいた。臨時バスでヤビツ峠へ。峠で準備を整えたが、飲料水がない。諦めて出発。ハイカーの大半が丹沢コースで、大山コースは我々のほか一、二組。急登でつらい。鴬の鳴き声がしきり。

 展望の良い山頂 尾根道は眺望が良く、相模湾が一望、大島も見える。山の方も、丹沢山系のみならず、富士の秀峰が目前に迫る。未だ上半分程が雪で覆われている。小憩を取りながらも約1 時間程で下社への分かれ道に到着、先ずは順調。程なく、頂上の奥社に着く。頂上は1,252m。360度ではないが眺めが良く、湘南海岸が眼下に広がる。例によって、麦酒で乾杯した後、朝食が早かったので、おにぎりを食べる。S夫妻が奥社で人手した御神水で作ったカップラーメンも戴く。

 下社へ 11時すぎ、下社に向かって下山開始。岩石の多い道で、下りといえどもなかなか厳しい。頂上へ向かう上りのハイカーが多く、時々道を空けて待つ。STさんは順調に下り、先で待って一服していることが多い。冨士見台から見た富士山も素晴らしい。下社への下りは長く、しかも急坂であり、ヤビツ峠迄バスで上がった本日のルートはべターな選択のようだ。

 日向薬師へ下山 下社の茶店で一休みした後、当初のルートを変更して日向薬師へ向かう。途中、二重ノ滝あり。Hさんが20年前に沢登りをしたところという。見晴台で尾根に出て、小憩の後、なだらかな尾根道を下る。九十九曲がりの急坂を経て、キャンプ場に14時すぎに到着。水場があったので、残りの食事をする。若者が多数キャンプを楽しんでいた。
 キャンプ場からは舖装道路。マス釣り場があり、そばではバーベキューをやっていた。途中、大友皇子の墓を見学して、日向薬師バス停着。ジャストバスが到着。日向薬師の見学を省略。小生は足が痛かったので助かった感じ。SKさんは残念がった。
 小田急伊勢原に出て、新宿を経由して高島平に戻り、l8時30分頃帰宅。途中、小田急登戸でHさん、同代々木上原でS夫妻、同新宿でSTさんとそれぞれ別れる。お疲れ様でした。(94/5/21 72/100)

追記 丹沢の大山は人気の山である。アクセスや標高なども初心者にも丁度良い。私も山歩き初心者の頃の外、その後も数回登っている(97.10.11他)。本記録山行メンパーは懐かしい方々である。確か頂きで食事中、鹿二頭が近づいて来て、食べ物をねだったと思う。一昨年、下社から南麓を下って難渋し(23.5.31)、最後の山歩きとした。 大山は、日本300名山に選ばれ、また日本百低山(同書222頁)や日本百低名山(同書138頁)でもある。

総武線で銚子へ行き銚子電鉄に乗る

 JR東日本大人の休日俱楽部パスの行き先は、千葉の銚子とし、銚子電鉄で外川駅を往復したい。調べると片道約20分で、短い路線と知る。往路は総武線、復路は成田線を利用し、久しぶりの両線乗車である。銚子、佐原間は30年振り2度目であろうか。

 特急で銚子へ 総武線は錦糸町駅から特急とし、水道橋駅をスタート。これまでは山手線で秋葉原駅からだが、近いと知った。総武線鈍行に乗り、錦糸町駅で特急しおさい3号に乗り換えた。船橋駅、千葉駅を通過し佐倉駅となり、車窓からミスターの母校佐倉高校を探したが見えなかった。電車は右折し成東駅から犬吠埼へと走った。小さな駅にも停車して、銚子に滑り込んだ。

 銚子、外川間を往復 銚子電鉄は同じホームの先でそのまま歩いて、2両の小さな電鉄を待った。当線は、屛風ヶ浦や犬吠埼灯台見物の際乗ったが、乗り切ったことはなく、本日は銚子駅から終点外川駅を往復する。一日乗車券を求めると、10駅6.4㎞の路線。銚子駅の左手は、醬油メーカーの工場のようだ。短い駅間で停車を繰り返しながら、進む。街中から君ヶ浜駅、犬吠駅を過ぎ、20分程で外川駅であった。

 折り返しだが時間がなく、駅外へ出られない儘、銚子行きとなった。犬吠駅付近で右手に灯台を探したら、屋根上に白い頭が見えたが、本物か少し疑った。私が灯台を訪ねたのはもう10年以上前(12.2.12)のこと。銚子駅で時間があり、ご当地名物ぬれ煎餅を求めた。昼食用で好物である。駅前へ出ると椰子の木や棕櫚の樹があり、黒潮で温暖の地なのだろう。

 銚子から成田へ 成田線に乗車。次の松岸駅で成田方面へとなった。記憶では、飯岡開催のかぼちゃ会出席の折、家内と佐原から向かう時松岸駅で乗り換えた(96.4.6)のが当線の最初で最後であろう。右手奥が大利根川で見え隠れし、笹川駅を通る。演歌 “大利根無情”があり、当地旭出身の歌手椎名佐千子がカバーし聴いている。幕末の大利根河原の決闘の唄である。佐原駅から成田駅へ出て、空港線に乗り換えた。当線も未乗車で、今度回った。本日大手町で17時開催の会合があり、成田エクスプレスに乗車し東京駅から歩いてそう遅れないで、出席出来た。(2025/7/23 K.K. 1610)

◇日時 2025/6/27 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+700円 ◇歩行距離等 8000歩 6㎞
「通過時間等」自宅9:00-JR水道橋駅9:48-同錦糸町駅10:17-銚子電鉄銚子駅12:20-同外川駅12:45-JR銚子駅14:05-同成田駅15:31-同空港第二ビル駅15:48-同東京駅17:05=大手町17:15/20:20-自宅21:10

私が登った百の名山&低山=関東編=「奥多摩高水三山に登る」

 12月に入り、今年もハイク友との忘年山歩きの時期になり、メールを交換し奥多摩高水三山に決まった。アクセスも良く手頃な山だが、以前に難渋したことを思い出した(99.10.17)。大分前だが二度歩き、御嶽駅への最後の下りで急降下が続く。下りが苦手な上、最近平地歩きのみで心配だが、ゆっくりと時間を掛ければ何とかなるだろうと出掛けた。

 20年振りの高水山 JR立川駅にKさんと待ち合わせ、青梅線軍畑駅に降りた。山間の駅には客も無く、我々だけスタート。広い舗道へ出て山へ向け緩い坂道を歩き、平瀬集落で左折し、二つの寺前を過ぎると登山口であった。前回は20年前(99.10.17)で、先程来記憶にない風景ばかり。
 堰堤脇の急な石段を過ぎ、いよいよ山道へ入る。沢沿いの小径から山腹のススキ原の道になり、急登で、足が時々止まり、Kさんとは少し開く。いつものことで、彼は振り返り、待ってくれる。肩へと上がり小憩。
 杉林の中を行く。薄暗い林の中はうっすらと記憶にある。そろそろ頂上が近いと思い始めたが、道標は7から8合目だ。坂道から緩やかな道になり、常福院下へ着いた。山頂下の無住職の寺。参拝し、裏へ回り最後の急坂をこなし高水山(759m)であった。コースタイム90分の処120分、こんなもんだろう。山頂手前で、奥多摩の山々が見え、高い二山は大岳山と御前山と見当を付けた。

 巻道へ 次の岩茸石山へ向け、山頂を下り鞍部へ出る。葉を落とした雑木林の中で、初冬である。山下へ着き、私は最後の下りに備え巻道を採り、若く元気なKさんへ登頂を促したが、彼も私と同じ巻道へ。登山口来、ハイカーには出会わなかったが、なんと上りの外人女性に擦れ違う。既に午後になり、しかも単身で、ビックリ。
 惣岳山へ歩き続けるが、道が荒れているようだ。また山頂下になり、私は巻道だが、Kさんはここでは山頂へ。山頂下を巻いて反対側の真名井天神社へ出て、清水を覗いたが枯れていた。丁度、高齢者グループ一行に次いで、Kさんも山を下りて来て、また一緒に下る。

 何とか下山 いよいよ、最後の下りのコース。休憩中の先行グループを一度は追い抜いたが、直ぐ彼らが先に下り、見えなくなってしまった。木々の間に集落は見えず、交通騒音も聞こえず山は深い。沢井駅への分岐を過ぎると問題の下りであった。急な下りが連続する上に、小刻みに曲がりくね、岩や木の根が露出し、歩き難いこと甚だしい。ストックに縋り、一歩一歩下り、Kさんを追わない。長いと思ったが20分程で下山口へ着き、前にKさんが見えた。
 久しぶりの山歩きだったが、二度も巻道しなんとか歩き切り、Kさんに迷惑を掛けないでホッとした。これ以上の山は難しいだろう。帰途に武蔵浦和駅で、軽く反省会をした。Kさん有り難うございました。(2018/12/19 71 /100)

追記 確か高水三山は三度目と思う。高水山へはそうではなかったが、下山路の最後は大変であった。棒ノ嶺からの下山コースと同じ道で、経験していたが難渋した。最初は20代の頃、仲間とのハイキングで、上りと同じコースを下ったと思う。御岳山に次ぐ人気の山であった。

会津若松から会津坂下を巡る

 大人の休日俱楽部パス2日目は会津若松である。会津若松城跡は2度(14.12.6他)訪ねたが戊辰戦争の史跡等は記録していない。これまでは只見線や磐越西線乗り鉄の際は乗り換えているが、市内は歩いていない。今回は飯盛山から滝沢本陣を巡り、会津坂下へと予定している。只見線利用だが過疎ダイヤである。

 飯盛山、滝沢本陣 朝、駅前から飯盛山を目指した。フロントでは坂道で時間を要すると言われたが、その通りで、40分程で山下に着き、急で長い石段は隣のエスカレータを利用。白虎隊墓地は二度目(96.2.11)で少し記憶があった。直ぐ多数の修学旅行生がやって来たが、その間を一回り。端へ出て、市内の先に若松城を探したが見当たらない。落城を誤認し自刃したとされているが異説もあるらしい。約300人の隊士中19名である。軽く手を合わせ、カメラに収めた。小さな墓石であった。                      山麓を下るとさざえ堂、そして洞窟堰があり、戸ノ口原で敗戦し白虎隊が引き上げた堰と思い出した。また下って滝沢本陣があった。藩主用休憩所で、重文指定という。受付がなく、弾痕や刀傷は確かめられなかった。市内へ戻り、バスターミナルで、会津坂下行きバスを待った。

 バスで会津坂下へ 会津坂下は、若松の西方で奥会津の入口である。調べると春日八郎の出身地で思い出館があると分かった。作曲家猪俣公章や版画家斎藤清、そしてオリンピアンバスケの江川嘉孝の出身地と知った。バスは市内から西若松駅付近で只見線を渡り、郊外へ出たが坂下は、近くはなかった。町役場前先のバス停で降して貰い、左手先へと教えられた通り歩いたが田舎の道は遠かった。約1時間も歩いて、田圃の中に思い出館はあった。

 春日八郎思い出館 春日八郎一色でレコードやピアノ迄展示してある。彼は上京後音楽学校で学んだと略歴にあり、あの美声はその所為だろうか。“赤いランプの終列車”、“お富さん”、そして“別れの一本杉”である。小学生の頃ラジオから流れ聞いていた。別れの一本杉を唄い切った同級生がいた。表には、その歌碑と杉の木、お地蔵さんもあり、カメラに収めた。管理人やその知人と談笑していたら、会津坂下駅へ車で送って貰うことになり、有難くお願いした。駅前にも春日八郎像と赤いランプの終列車の歌碑があった。13時46分発の会津若松行きに乗って、二日目を終えた。地酒は唐橋ユミアナ実家の会津誉とした。(2025/7/16K.K. 1609)

◇日時 2025/6/25 ◇天候 晴 ◇資料 会津若松案内図 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+910円 ◇歩行距離等 19000歩 14㎞                       「通過時間等」宿泊先8:00=飯盛山8:50=滝沢本陣9:10=バスターミナル10:30-会津坂下バス停10:50=春日八郎思い出館11:50/12:50-JR会津坂下駅13:46-同会津若松駅15:30-同郡山駅17:06-上野駅18:25-三田線巣鴨駅18:40-自宅19:20

私が登った百の名山&低山=関東編=「霧で展望ゼロであった50年振りの大島三原山」

 午前6時前に、港内停泊後大島岡田港へ上陸した。暗いのは明け方の所為だけではなく、雲が低く天候が良くないためでもあるようだ。三原山温泉ホテル行きのバスに乗り、終点から歩くことになった。市街地を出て、樹木に覆われた溶岩台地の密林帯をバスは走った。

 大島三原山は50年振り 本日は、ハイク友Kさんの希望で三原山である。私も、候補先の一つであり二つ返事で応じた。大島は初めてではなく、大学1年時体育授業の一環で、三原山に登り砂漠のような火山灰の地を歩いた。50年前1965年のことであった。
前夜22時竹芝桟橋を出航し、夜行の船中泊も椅子席で心配であったが、無事大島岡田港に着いた。雨が降らないように祈るだけだ。2人とも雨具は準備している。

 霧の中出発 ホテルで道順を調べ、霧の中を6時30分に出発。中年ハイカー2人が先行した。車道を歩くが早朝のためか車は一台も見掛けない。道端には展望台があるも、展望処か霧が深く視界が10m位。50分で、登山口に着いた。売店等は開店前で無人、一人の男性登山者が休憩所も閉鎖中と教えてくれた。我々も素通りする他なく、登山道に入る。道の両側に溶岩の塊が見え始め、シェルターがある。2人は、その中で立ちながら朝食。

 展望ゼロの山頂 風も出始め、帽子が飛ばないようにマフラーで押さえた。登山道は傾斜を増し、一歩一歩確実に上がり続け、最後の急坂を上がり切ると山頂遊歩道。火口を一周するようだ。しかし、天候回復の兆しも無く、濃い霧が立ち込め、海抜700m位の高地だろうが、振り向いても展望はなく、期待の海原は一切見えない。Kさんの主導で、火口一周コースに入るが、直ぐ諦める。中心に見えるはずの肝心の噴火口が分からないのだ。

 温泉入浴断られる 私は、少し遊歩道を進み途中から先程の温泉ホテルへ下るコースを提案。霧の中、同じような溶岩地帯で、分岐点を見失うことの無いように、2人で注意しながら歩く。火口遊歩道から温泉ホテルへの分岐は直ぐで、標識を確かめ左折し下った。少し雨が落ちて来て、Kさん傘を出すが、風もあり雨具着用を薦める。私のはレインコート型で、直ぐ羽織れる。一帯黒色の溶岩が転がり林立する地だが、切られた登山道は整備され歩きやすい。2人は軽口を交わしながら順調に下り続けて、また樹林帯となり、躑躅園を通過すると、先程のホテル横へ飛び出した。ロビーを借りて着替え、入浴を申し込むと、朝風呂は終わり入れないとつれない返事。歩きながら清掃中かなとの話しが出だが的中してしまった。

 くさやで一杯、出港を待つ バスで岡田港へ出て出港迄の間、あんこ姿の店員から土産を求め、昼食には地元食堂でラーメン。待合室に戻って、地産くさやを肴に酒盛り。清酒に合いKさん持参の紙パック酒が底着くと、ようやく連絡船サルヴィア丸乗船の時間となった。                              (2015/03/16,7 70/100) 

追記 二度目の大島三原山は、悪天候で火口を往復しだけだったと思う。頂上を踏んだかも記憶にない。三原神社は記憶にあり、無事下山して、くさやで酒を酌み交わしたのは覚えている。

北上川河畔を歩き北上夜曲歌碑を往復する

 JR東日本大人の休日俱楽部パスを入手した。遠出先は、岩手県北上市で、北上川河畔を歩き、展勝地の先に北上夜曲歌碑があり、訪ねようと思う。少し古いハイキング資料から見付けていた(山と渓谷社「駅からハイキング」40頁)。これまでも目に付いてはいたが、ようやくチャンスが巡って来た。復路には、宮城県陸羽東線小牛田駅、古川駅間を乗車したい。

 北上川へ 上野駅から乗った東北新幹線を仙台で乗り換えて、北上駅に着いた。構内案内所で、歌碑迄4㎞、途中の珊瑚橋迄バスがあると教えて貰った。西口から乗ったバスは、市内から東北新幹線の陸橋、そして北上川を渡り降車し、左岸の河原を下り始めた。右手が桜並木の展勝地であり、有名な花見の名所で、テレビで見たことがある。ちらちらと咲く朱い花は躑躅のようだ。本日は曇りで、暑くはないが、桜並木へ入り歩き続ける。ようやく出口に至り、レストハウスだが、一部閉鎖中のよう。

 北上夜曲と思い出 先の土手へ上がったら歌碑があった。意外に大きな横長のもの。“匂いやさしい白百合の 濡れているよなあの瞳・・・想い出すのは 北上河原の月の夜”と刻まれている。1961(昭和36)年レコード発売しヒットしたという。私には思い出がある。高校2年の小旅行の際、担任のS先生が、バスの中で自らマイクを握りこの歌を唄い、北上河原の部分を山形市内を流れる馬見ヶ崎川と替えたのだった。いかつい先生には不似合いであったが、拍手喝さいであったと思う。その先生も大分前にお亡くなりになった。個人的にもお世話になった。

 小牛田行きは断念 河原は広く往きとは別ルートで珊瑚橋へ戻り、駅へと歩く。この時期大河北上の流れは多く、川幅一杯に流れ下っている。歌碑から50分程で駅へ着いたが、予定した東北本線は5分前に行ってしまっていた。当駅は二度目で、北上線で横手駅へ出て山形へ帰郷したことがあった(18.7.1)。未だ14時で、陸羽東線小牛田駅へとスマホで路線検索をしたが、旨く乗り継ぎが繋がらない。新庄駅から小牛田駅迄が陸羽東線だが古川駅、小牛田駅間が未乗車で、今回埋めたいと予定するも、残念だが諦めようと東北新幹線に乗車し、郡山駅から会津若松駅へ向かった。明日の乗り鉄や訪問先である。(2025/7/9 K.K.1608)

◇日時 2025/6/24  ◇天候 晴  ◇資料 北上市内案内図  ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+200円  ◇歩行距離等 14000歩 10㎞
「通過時間等」自宅8:10-JR上野駅9:14-同北上駅12:09=珊瑚橋バス停12:20=北上夜曲歌碑12:50=珊瑚橋13:35=JR北上駅14:30-同郡山駅16:15-会津若松駅17:30=宿泊先17:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「孫怜と一緒に700号記念高尾山ハイクに参加する」

 旧友でもある本記録読者達に、700号達成記念ハイキングを催して戴いた。ハイク先は、高尾山と連絡があり、私は、小学3年の孫を連れて参加した。

 孫を先頭に登山開始 総勢11名は、午前10時京王線高尾山口駅前に集合。もの凄いハイカーの群。人気の山のバロメーターか。脚に故障のある方もいて、リフトやケーブルカーも予定したが、待ち時間が不明で、孫を先頭に1号路を上がる。倒木や崖崩れが見受けられ、先日の台風の爪痕にびっくりしながらも、行列をなす中を、ゆっくりと歩き続ける。
 途中、孫には、蛸杉や薬王院境内では天狗の像を教えたが、そう興味を示さない。山頂下からの最後の坂を凌いで、全員登頂(599m)。既に大勢の老若男女が昼食中。我々も食事の場所を探そうとしたが、結局は山頂広場の真ん中にそのまま座って、弁当やおにぎりを取り出した。記念にと、急遽売店から缶ビールを仕入れて乾杯。例によってご婦人方からは漬け物や果物、お八つまで回って来た。孫も、母親手製のおにぎりを頬張っている。彼は山頂からの富士山の姿を期待していたが、その方向には雲が出ていて、裾も見えない。
 下山は、稲荷山コースを下る。200回記念と同じコースとHさん。そう、旧職場辞職祝いを兼ねたハイキングもそうであった(2000.10.14)。メンバーも大半は共通している。我が孫の誕生前のこと。先程も、前回の昼食場所はT君の案内で山頂先の広場であったとの思い出話しが出た。

 下山後高尾の湯へ 展望台へと下りて、参加者全員で、記念撮影。これが逆光で失敗してしまった。新宿の高層ビルやもしかしたら筑波山をも孫と共に確かめるのを忘れてしまった。この辺りから、孫の歩き方が時々不自然になり、皆心配する。やはり疲れが出たのだろう。それでも一番前を下り続けて、登山口へとゴール。皆に、“よく頑張ったね”と言われて、本人も嬉しそう。本格的な山登りは始めての筈。脚を心配したメンバーも無事下山。土産店通りでは、孫は忘れずに高尾名物饅頭を買い、同居のおばあちゃんへのお土産という。駅前から送迎バスで、高尾の湯へ。様々な種類の湯を備えた大きな温泉で、孫と梯子湯を楽しむ。特に古代檜風呂が良かった。風呂上がりに、ビールや多摩の地酒でまた乾杯。山を上下しお腹が空いたか、孫はカツ丼に挑戦した。(2011/10/ 69/100)

追記 皆さん、この度は、山歩きのお付き合いの外、企画から当日の御世話まで、本当に有り難うございました。天候にもメンバーにも恵まれて、楽しいハイキングでした。今後ともよろしく御願い致します。孫も、元気に歩き通し温泉も楽しんだ。あれから14年、彼は、今年社会人となり、名古屋に赴任した。先日山歩き案内するから、名古屋へ来てとメールがあった。

旧友達と多摩川台公園紫陽花から田園調布へ

 旧友Sさんを中心とした我がグループで、多摩川台公園で紫陽花を鑑賞した後、田園都市駅前で、食事をすることになった。多摩川台公園は紫陽花が咲き、この時期2度訪ねている(22.6.10他)。今回は当地に住むTさんの案内で、あの長嶋さん推薦の焼鳥屋へとの話も出ている。大半は、私の本記録の読者で、昨年は我が板橋区で、植村冒険館見学の後、石神井川沿いを歩いた(24.9.8)。

 多摩川台公園 10時東横線多摩川駅集合で、私は三田線からそのまま約1時間で着いたが、直ぐ7人全員集まり、駅前の多摩川台公園下へ出ると、目の前に紫陽花が迫って来た。やや満開を過ぎたようにも見えるが、鑑賞には丁度良い頃だろう。縦横の遊歩道を選んで、私は臙脂の花へ近づいてカメラを向けた。
本日は日曜日で、人出は多い。左手先は多摩川だが、河川敷は広く流れは先のよう。園内は樹林が多くもう深緑で、暑くもなく爽やかで、梅雨の時期なのに雨の心配はない。広場の椅子で休憩し、持参の飲料水を飲む。女性軍はおしゃべりが始まり、元仲間の消息が中心で、この種集まりでは止むを得ないだろう。

 宝来公園へ Tさん、次は田園調布の宝来公園へという。仲間の一人がスマホで検索し、近いよと言いつつリードした。高級住宅街の一角に公園は見付かった。私は1度訪ねていて(14.5.23)、見覚えがあった。帰宅後調べると黄色の菖蒲を見に来たようで、小さな池の形を思い出した。公園を出て、住宅街を斜めに進むと、田園調布駅舎前へと続き、また駅前で小憩。                           

 田園調布高級住宅街 Tさん、長嶋邸が近く行こうと言い、高級邸宅へと案内。最近テレビで見たばかりで、私は軽く手を合わせ、大邸宅を眺めた。私は嘗てジャイアンツファンであったが長嶋監督就任には賛成ではなかった。広岡遊撃手とは正反対で監督向きではなく、就任1年目はリーグ最下位で、私の巨人離れを加速した。大選手であったことは間違いない。超素人の感想に過ぎない。        
 Tさんが予約してくれた駅先の中華料理で昼食。例の焼鳥屋は、日曜日は閉店という。残念。約1年振りの当会、生ビール等で乾杯し再会を祝った。いつも私は一人晩酌で、会話しながらの飲み会はテンションが上がったようで、生ビールをお代わりした。Tさんによれば多摩川台公園は花見の地でもあり、来春は土曜日に花見に来て、焼鳥屋に寄ろうということで、纏まった。駅へ戻り、私の方向は一人で、皆さんと別れ帰途に就いた。(2025/7/3 K.K.1607)

◇日時 2025/6/22 ◇天候 晴 ◇交通費 410円 ◇歩行距離等 8000歩 6㎞
「通過時間等」自宅8:25-東横線多摩川駅10:05=多摩川台公園10:10/10:55=宝来公園11:10=田園調布駅舎11:30=長嶋邸前11:40=昼食会12:00/13:30=東横線田園調布駅13:40-自宅14:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「タフなコースに参った奥多摩・棒ノ嶺からの縦走」

 棒ノ嶺は遠い山であった。奥多摩の代表的な山であり、関東ふれあいの道「山草のみち」コースでもある。いつかはと思っていたが、健脚向きということで躊躇があり、一度は途中で断念したこともあった。ふれあいの道・東京都コースで最後となってしまい、今年目標の山とし、連休の一日を棒ノ嶺に当てた。棒の折山ともいうようだ。

 青梅線川井駅からバスで入山 長丁場に備えて早立ちした。ふれあいの道は奥多摩町上日向から御岳駅までの長いコースである。青梅線川井駅前から乗ったバスを上日向に降りて、棒ノ嶺を目指して出発。清東橋、百軒茶屋を経て奥茶屋を過ぎると登山道に入った。沢沿いのわさび畑の間をゆっくりと上る。沢を離れると杉林の中の階段となる。資料によれば500段あるという。最初の難関は思った程のことはなく上り切り、尾根に出た。程なく山頂下の急登となり小刻みなジグザグを繰り返す。大きな岩を3つ越すと頂が見えた。

 急登から頂上 棒ノ嶺頂上(969m)は広場となっており、既に多くのハイカーが休憩中。北東方面の展望が開け、先日登った伊豆ガ岳や子の権現(2000.4.23)等奥武蔵の山々が目の前である。残念ながら新宿の高層ビルまでは靄って見えない。菓子と水を補給して、ゴンジリ峠に下りる。道は一転して広い階段の道。上って来るハイカーは皆、端を歩いている。ふれあいの道階段の歩幅が合わないのだ。ゴンジリ峠からは名栗方面への道が分けて、峠から岩茸石まで往復する。実はふれあいの道・埼玉県1「水源のみち」を歩いた時、棒ノ嶺登頂は諦め中途の岩茸石で引き返したのだった(96.8.24)。「水源のみち」の歩き残した部分を今回補充しようというもの。意外に長い道のりと感じたが予定通り約40分で峠に戻った。

 岩茸石山へ 峠で一息入れて、岩茸石山へ向ける。尾根筋歩きは好調だ。やしおつつじは散り始めたがレンゲツツジはまだ蕾。林が切れて奥多摩の山が右手に現れ、一段高い山は大岳山と御前山であろう。足下に見える集落は今朝通った大丹波に違いない。縦走路は道が狭い上に小さなピークが多い。出会うハイカーも稀となる。次第に疲れが出始め、上りが辛くなった。黒山から1時間経過しても、名坂峠に出ない。堪らず休憩を取ると、木々の間から前方に岩茸石山が見え、もうすぐと気合いを入れ直す。さらにピークを一つ越して、名坂峠から岩茸石山に這い上がった。
 岩茸石山(793m)は高水三山に属し奥多摩の人気コースであり、小生も昨年登ったばかりである(99.10.17)。ベンチの一隅を借りて遅い昼食とした。

 御岳駅へ下山 御岳駅に向けて下山開始。惣岳山下に着き、巻き道を採ろうとしたが思い直して、山頂(756m)の青渭神社に参拝し小憩する。直下の岩場では最後の力を振り絞った。神社の彫刻を見学した後、他のハイカーと前後して下り、3時過ぎにコース終点御岳駅にゴール。駅は御岳山から帰る家族連れなどでごった返していた。(2000/5/5 68/100)

追記 後半はすっかりばててしまった。確かに縦走路はタフだったが、欲張った埼玉県1「水源のみち」岩茸石往復が余計だったのだろう。それでも関東ふれあいの道東京都「山草のみち」を歩き通したことになった。まだ若かったのである。特に、御山駅への下山路はその後の高水三山でも苦労した(2018.12.19)。

紫陽花を探し荒川線向原駅から白山神社へ

 6月になりあじさいの季節である。バラに続いてアジサイの花が咲き、色とりどりの大きな花が美しい。好きな花で、毎年鑑賞に出掛けている。ネット情報で、荒川線向原駅や大塚駅付近にも咲くと知った。我が家から近く、出掛けることにした。紫陽花の名所文京区の白山神社へのバスルートも調べた。ダメ押し先である。

 紫陽花は? 三田線西巣鴨駅から歩き荒川線新庚申塚駅で都電に乗ると、大塚駅、向原駅は近い。停留所を出て、辺りを見回したがあじさいはない。線路の反対側へ出てみたが見当たらない。小さな公園を覗いたがない。線路に沿い、アジサイを探しながら、大塚駅へ歩くが、さっぱり見当たらない。小路へ入ると僅かに咲いているのに出合い、カメラに収めた。私が見たネット情報はガセネタであったろうか。大塚駅前で、バスの待ち時間に天祖神社に寄り、参拝。境内に銀杏古木のご神木が二本あり、見上げた。案内によれば、東京空襲で焼けたが、生き残って現在も緑の葉が生茂り、健在である。

 紫陽花祭りの白山神社へ バスで文京区を走り、小石川植物園傍に降り、蓮華坂を上下し白山通りへ出て、白山神社参道へと歩く。商店街間の石段を上り境内へ入ると、人出があり、アジサイは咲き誇っている。文京区のあじさい祭り開催中で、出店も並んでいる。私は花を選びシャッターを切りながら、本殿前へ出て、参拝。今年当社近くの大学を卒業した孫が名古屋へ赴任し頑張っている。ご加護をお願いした。紫陽花を眺めながら、ゆっくりと境内を一回り。私は臙脂色の花が好きだが、紺色が多く、白も混じる。裏手の富士塚もあじさいに覆われ上ることも可能で、順番待ちしている。カメラに写して、境内を出た。三田線白山駅は近く、車内でカメラを再生したら、臙脂色の紫陽花もくすんで見えた。でも、都電向原駅付近での出合は失敗したが、白山神社でダメ押しとなり、ほぼ満足して帰宅した。(2025/6/29 K.K.1606)

◇日時 2025/6/12 ◇天候 晴 ◇資料 “都電神社マップ”◇歩行距離等 8000歩 6㎞「通過時間等」自宅8:30-都電荒川線新庚申塚駅9:10-同向原駅9:20=同大塚駅9:49-小石川植物園前バス停9:55=蓮華坂10:00=白山神社10:10=三田線白山駅10:35-自宅11:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「奥多摩の名峰・三頭山に登りブナ林を歩く」

 今年の目標の山の一つである奥多摩・三頭山に登った。三頭山は、大岳山、御前山とともに奥多摩三山に属し、その中の最高峰で、山歩きガイドブックには必ず紹介されているポピュラーな山である。他の二山には既に登った(大岳山94.10.8,御前山94.11.19)ので、三頭山を目指していた。

 真夏にチャレンジ ガイドブックで調べると夏でも可とあり(浅野孝一「中高年の山のベストコース[東京周辺]」山と渓谷社,86頁)、それでも真夏の炎天下は避けようと思っていたら、丁度、本日曇りで涼しいとの予報を見て、勇んで出発した。同山は、奥多摩周遊道路ができるまでは、アプローチが長く簡単には登れない山で一部の山男にだけ知られていたが、最近は都民の森も出来、バスが直ぐ下まで乗り入れたため俗化してつまらなくなったとの声もあるようである。未だ僅かに残るブナの原生林に期待する。今回は、真夏対策として水500リットルボトル2本、スポーツ飲料500リットル1本、ヨーグルトそれに桃、雨に備えて雨具、傘、着替え一式をザックに入れた。

 鞘口峠から山頂へ 都民の森までバスで入り、歩き始める。8月の日曜日なのにハイカーは意外に少ない。天候のせいだけではないようだ。都民の森の中を過ぎると鞘口峠はすぐ。峠で一休みして、三頭山へ方向を採る。ブナ林に入ったようで、一抱えを超えるブナの木が目立ち始める。勾配がきつくなった尾根道でグループを追い抜く。鞘口峠から所要時間50分のところを約60分要して、三頭山・東峰(1527.5m)に登頂。
 小憩後一旦峠に下りて、上り返したところが三頭山・中央峰(1531m)。いずれの峰も残念ながら雲で展望はない。休んでいた老夫婦に記念のシャッターをお願いした。
 三頭山の由来は、三つの峰からなる山という説が有力であるが、先の峠が御堂峠でこれが三頭山になったとの説もあるようだ。

 西原峠経由し数馬の湯へ 遅くとも2時20分までに中ノ平バス停に下山し、数馬の湯に入り、3時12分発のバスに乗ろうとの読みで、西原峠へ向かう。同峠までのコースタイムは60分。この尾根道は笹尾根の下りで、春に歩いた浅間峠を越えて生藤山(98.4.18)から和田峠まで続いている道。ブナ林の中の階段を降り尾根道となるが、途中から岩の多い急降下が断続し、しかも朝方の雨で濡れているため、一歩一歩下る。予定時間が過ぎたが峠に着かない。靄が濃くなり標識を見逃さないように進む。約80分を要してようやく西原峠に着き、誰もいない寂しい峠で水を飲み、桃にかぶり付く。
 西原峠から中ノ平バス停までは、歩きやすい平な道から溝の中の道となり、林の中を抜けると集落に着き、コースタイム通り約60分で下る。往きのバスの中から見付けた桧原温泉センター数馬の湯に寄り入浴(800円)。汗を流して着替えた後、家に電話し無事下山したことを伝える。長男夫婦が来ているとのことで、「また山・・・」と呆れているだろうと想像する。
 上りは僅か1時間30分程なのに、下りに2時間30分も掛かってしまったが、真夏にもかかわらず暑さを感じず、ブナ林の中の山歩きは快適であった。曇りから雨模様の天候のお陰でもある。紅葉の時期にでももう一度訪ねたい山であり、その時は今回パスした三頭大滝に寄ろうと思う。                                   (98/8/9 67/100)

追記 奥多摩桧原村も最奥でバスを乗り継いで入山した。深山でブナ林が目に付いた。コースはそう難しくなく歩けたと思う。三頭山頂から西口峠へ笹尾根を歩き、麓へ下りて数馬の湯に入ったのは記憶に残る。笹尾根は山梨県境と知った。三頭山は日本三百名旦に選ばれている。