私が登った百の名山&低山=関東編=「落ち葉かき分けて登った奥多摩御前山」

 「天気等」 今回は、前回(10月8日)の大岳山に続き、Sさんの推薦で紅葉の奥多摩の御前山を選定。前日の天気予報では、19日は朝から午前中雨との予報であったので20日に延期しようとしたところ、Nさんの強い要望と、必ず回復するとのSさんの見通しで、当日朝の様子で決定することとした。19日午前5時30分、雨が上がっていたので、当初案の通り実行することとし、電話連絡。天気予報が見事に外れ、朝から晴れて、絶好のハイキング日和。歩く前にシャツを一枚脱いだ。午後は少し曇りとなる。下山後バスを待っている時に雨がぽつりぽつりと来たがそれだけ。登山道も、前夜の雨の影響はなかった。

 「利用交通」 入山は、8時立川駅に集合し、青梅線奥多摩駅下車、西東京バス「留浦行」に乗り継ぎ奥多摩潮下車。下山は、桧原村夏地(御前山登山口)から「藤倉発五日市行」西東京バス乗車、五日市駅で五日市線に乗り継いだ。帰りのバスの中でちょっとした臭いの騒動があった。

 「コース」 上りは、直登できついと言われるサス沢山・大ブナ尾根コースを避けて、通行禁止の奥多摩湖の周遊道路を利用。平らな広い道路。水久保沢手前の登り口からは上りの山道。通行禁止のためか道が荒れている感じだが支障はない。尾根までは緩やかな上りで展望のない杉林の中。水久保沢手前登り口から1時間30分で大ブナ尾根。回りの雑木林はすべて葉が落ち、道は落葉の絨毯。惣岳山山頂直前から急な長い上り、しかも土砂の中の溝のような道で足元も悪く、ロープが張ってある。惣岳山頂上で小河内峠からの道と合流。すぐ鞍部を通過して御前山の上りとなる。御前山山頂は、雑木に囲まれた小さな広場。木製のテーブルと椅子が備え付けられていた。  
 下りは、湯久保尾根コース。急坂を下るとすぐに湯久保尾根分岐点。その後は、概ね緩やかな尾根道。所々で、杉林の中や落葉に埋まった溝のような道を下った。滑り易く、HさんとSTくんを除き、それぞれ滑って転んだが、怪我はなかった。湯久保と宮ケ谷戸との分岐点でちょっとうろうろ。ばん野神社の位置が地図にないため、事前に用意した地図も宮ケ谷戸方向にマークしてしまっていた。同神社から杉林を抜け出すと桧原村湯久保の集落で、舗装道路。膝をがくがくさせながら下る。この辺は別荘が多いようだ。舗装道路を30分以上歩いて御前山登山口バス停。
 こちらの登山口からは登りたくはないとのHさんの弁。多分、アプローチが長く、しかも単調な尾根道が続くからであろう。15時過ぎの杉林の中は暗く、これ以後なら懐中電灯が必要だ。前日の天気予報等のためか、ハイカーは少なく、大ブナ尾根までは我々のみ、頂上付近で3、4組10人前後。下りの湯久保尾根では一人のハイカーにも会わず、静かな山歩きが楽しめた。

「紅葉、展望」 山頂付近は既に落葉していたが、葉を落とした雑木林、落葉を敷き詰めた山道はまた別の趣があった。中腹以下はちょうど見ごろで、随所で、紅葉を楽しみ、また写真を撮りながら山道を辿る。特に、紅葉を楽しみにしていたNさんも満足したようだ。
 山頂は、展望がなく僅かに七ッ石山が望めた。惣岳山手前の上りの岩場から見た奥多摩湖はエメラルドグリーン。下りの湯久保尾根から、左側に前回登った大岳山の勇姿、右側に三頭山・笹尾根を越して中央線沿いの高山が見えた。山梨県方面の大菩薩嶺か(Sさんは雲取山という。)。適宜、Hさんが展望の良い場所を見付けて、説明してくれた。(94/11/19 64/100)

追 記 御前山は日本百低山(同書186頁)、日本百低名山を歩く(同書124頁)登載の山である。奥多摩湖畔から五日市街道迄約5時間歩いた。紅葉の中であったと思う。百名山完登したHさんと初めて同行した。我々にアドバイスをしながら余裕の山歩きであった。

都心後楽園から伝通院へ歩く

 今回の“我がまち再発見”は、水道橋・後楽園編であった(25.5.1、7讀賣夕刊)。プロ野球選手鎮魂碑や講道館が目を引いた。本郷のかねやすや弓町の大クスノキ等を回れば、それなりの里歩きとなろう。

 先ずは本郷から 三田線を春日駅で乗り換え本郷三丁目駅に降りた。旧中山道側へ出ると交差点の角がかねやすであった、“本郷もかねやす迄が江戸の内”と川柳に詠まれ、江戸期から続く店がある。大岡越前が火事を防ぐため瓦葺や漆塗りを認めた北限が由来らしい。春日通りを少し下って左折すると弓町のオオグスが聳え、樹齢600年、幹回り8.5mは健在であった。壱岐坂へ出て下り、白山通りを横断。東京ドームへと接近し下の道路の土手にプロ野球選手鎮魂碑はあり、眺めてカメラに収めた。76人の選手名が刻まれているというが、私が知るのは沢村と吉原だけ。熊工時代吉原は川上とバッテリーを組み捕手で期待されていたが戦死した。

 講道館 講道館の名前は知っていたが、後楽園にあったのだ。柔道資料館等を一巡り。展示内容では、嘉納治五郎や西郷四郎、三船久蔵を知っている程度。しかし子供の頃は漫画や映画で柔道物は多かった。漫画“いがぐりくん”は楽しんだ。世界中に広まり、オリンピック種目になって久しい。文京シビックセンター前から春日通りの坂を上がる。左手に中大理工学部があり、講義に週一通ったが、10数年前になる。

 伝通院へ 次の交差点を右折して伝通院へ。当院は家康縁の寺で、生母於大や千姫の墓があり、初めてではない。本堂前で軽く頭を下げて、墓苑へまわると二人の墓は目立ちすぐわかった。何故か幕末の志士清河八郎の墓もあった。私は善光寺坂を下り、三田線春日駅へ出た。坂上にはムクノキの古木と幸田露伴旧邸があった。(2025/5/29 K.K. 1603)

◇日時 2025/5/13 ◇天候 晴 ◇資料 “我がまち再発見”水道橋・後楽園編(25.5.1、7讀賣夕刊)◇歩行距離等 10000歩 8㎞                       「通過時間等」自宅8:55-大江戸線春日駅9:40-同本郷三丁目駅9:45=かねやす9:50=弓町オオクス10:00=野球選手戦没者慰霊祭10:15=講道館10:25/10:50=伝通院11:10=善光寺坂11:30=三田線春日駅11:42-自宅12:20

私が登った百の名山&低山=関東編=「タマに起こされて出発し、大岳山頂で芋煮会を楽しむ」

 午前5時頃愛猫タマに起こされ、昨夜まで準備した芋煮の鍋を背負って出発。雨は降っていない。今回はSさんの案内で、奥多摩の御岳山から三百名山に属す大岳山。新宿駅を経由して同立川駅に着いたのが7時45分頃で、全員集合済みであったが、タッチの差で7時47発奥多摩行が出発。予定通り8時18分発の電車に乗る。途中、軍畑駅で降りるハイカーが目立つ。今夏高水三山に登った皇太子夫妻の影響か。御獄駅で降りて、バス、ケーブルカーを乗り継いで御岳平へ。

 御岳山から大岳山へ 上駅・御岳平で水を汲み、靴の紐を締めて出発。御獄神社前を左に入って、山道を進む。岩石園までは広い平らな道。紅葉はまだまだの感じ。途中、峠を越え、二カ所程簡単な鎖場を通過して、大岳山荘前に着く。
 小憩後山頂目指して出発。昨年テレビで見た「日本山岳耐久レース」のコース作りの人に出会う。既にレースは開始されているという。最後に、急な岩場を登って頂上(1,266m)。予定どおりの時間に到着。頂上は狭く、また、曇りで展望が利かない。Sさんの話では、天気の良い日は富士山も見えるという。他のハイカーに混じって昼食。早速、山形名物「芋煮」を温めて皆で食べる。まずまずの評判。

 手強い下山コース 雲行きが怪しくなったので、13時前に奥多摩駅に向けて下山開始。すぐ、急な岩場の連続。慎重に下る。SKさんに、前の時(大山か94.5.21)よりこわごわと下っていると指摘される。今夏、谷川岳の巌剛新道(94.7.24)、穂高の重太郎新道(94.8.7)を下ってから足がよたよたとなり、また恐怖感が先に立って、へっぴり腰で下っているのが自分でも分かる。その後は、緩やかな尾根道が続き、少し上って鋸山に到着して休憩。鋸山から奥多摩駅までは2時間弱のコースだが、まだまだの道程の様子。懸命に進むも、切り倒された大木が道を塞ぎ、階段が設けられた岩場があり、随所に難所がある。しかも、岩や土止めの木が濡れていて滑り易い。一度尻餅を付いたが大丈夫。途中、林の切れたところで奥多摩の山々が見えた。天気が良くなったようだ。それでも林の中は暗い。

 無事下山 このような中で、初参加のNさんが上り下りも順調に進む。子供の頃から故郷で鍛えた足腰を、更に現在も卓球で鍛えているのであろう。結局、予定より30分以上時間を要して、奥多摩駅到着。ちょうど雨がぱらついて来た。ラッキーと言える。
 電車の中で、無事下山を祝して缶麦酒で乾杯。野球を聴きながら帰途に就く。それぞれ途中で下車し、新宿駅、巣鴨駅を経由して、7時30分に無事帰宅。お疲れ様でした。(94/10/8 63/100)

追記 山歩き初心者の私の初期の山歩きで、奥多摩御岳山から奥の大岳山で、同行メンバーも当時の同僚達である。山男で先輩のHさんが事実上のリーダーであった。私は、経験は少ないが若さに任せて歩き回った時代である。大岳山は、日本百低山(同書182頁)、日本百低名山を歩く(同書122頁)各登載の山である。当日10.8決戦として、巨人対中日の最終戦があり、帰りの電車の中でラジオ放送を聴いて、応援したががっかりしたのを覚えている。30年前ことであった。

埼玉氷川女体神社から見沼代用水西縁を歩く

 埼玉浦和の見沼代用水西縁を歩くことにした。田園風景が広がる地域だが、浦和市の東で、交通アクセスが良い。武蔵野線東浦和駅が最寄り駅で、我が家からも近い。これまでも5回以上歩いて、最近では一昨年花見に見沼代用水東縁を巡った(23.3.29)。最近都心を巡る機会が多く、脱都心である。

 氷川女体神社 我が家から埼京線経由で、1時間強で武蔵野線東浦和駅に着き、バスに乗った。先に氷川女体神社へ参拝し、その後東縁を下ることにした。バス停朝日坂上で降り、見沼たんぼ側へ坂を下ると氷川女体神社であった。境内は見覚えがあり、大分前だが寄って参拝したことがある(18.1.15)。広い境内を社殿前へ進み、他の参拝者に続いて参拝。孫達の成長を報告し、健康をお願いする。当社は奇稲田姫命を祀り、大宮の氷川神社、近くの中山神社とともに、武蔵一之宮を称しているとある。家康より50石寄進されたという古社である。

 西縁を下る 見沼代用水西縁下りをスタート。遊歩道があり、東浦和駅迄5,6km、約1時間を見込む。東浦和駅からは歩いたが本日は逆コース。境内周囲は深めの森で、隣は公園。曲がりくねった用水に沿い歩く。両側に野草が繁り、この時期流れは少ない。前をご婦人二人歩いているが、離されてしまった。急がずマイペースを保つ。代用水は、当地の灌漑用に江戸中期幕府が設けた利根川水源の水路という。広い見沼には反対側に東縁用水もある。左手に広がる田畑を眺めながら歩き続ける。先ほど新見沼大橋の下を通過した。時々畑に咲く花にカメラを向けるが、残念ながら名は不明だ。                     

 遠い東浦和駅 本日好天で暑く喉が渇いたが、飲料水の持参はない。橋を渡り住宅街を歩くと自販機に出合い、求めて休憩ベンチで一気に飲んだ。本日Sさんと武蔵浦和駅で昼食の約束。遅れ気味とメールした。桜並木の下を急ぐ。次回は花見時にしようと思う。武蔵野線騒音が聞こえ、右手に学校校舎が見え始めて、コースも終盤に入ったと知るが、駅までは距離があった。駅前の坂を急ぎ足で上がり、電車に乗車。Sさんは武蔵浦和駅で待っていてくれた。構内回転寿司屋に入り昼食。日頃からのお世話になっている御礼にと私が誘った。      
久しぶりの見沼用水西縁で、相変わらず自然に囲まれたコースであったが、距離、時間の見通しが甘かった。(25/5/19 K.K.1602)

◇日時 2025/5/1 ◇天候 晴 ◇交通費 460円 ◇資料「見沼たんぼ全域マップ」◇歩行距離等 14000歩 10㎞「通過時間等」自宅8:50-JR埼京線浮間舟渡駅9:30-同武蔵浦和駅10:00-同東浦和駅10:10-朝日坂上バス停10:25=氷川女体神社10:40=見沼代用水西縁休憩11:30=東浦和駅12:10-武蔵浦和駅(昼食)12:20/12:52-同浮間舟渡駅13:10-自宅13:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「初春の南房総に伊予ケ岳から富山を訪ねる」

 数年前に内房岩井から富山へ登った。その奥に伊予ケ岳の双耳峰を眺め何時かはと心に留めて下山した(01.2.18)。久しぶりに伊予ケ岳を思い出して、出掛けた。あれから8年も経過していたが、小さな岩峰は相変わらずに房総の天を突いていた。

 内房線岩井駅から 山友もKさんと一緒である。秋葉原駅で待ち合わせ特急さざなみに乗り約2時間で岩井駅に到着。予定したバスは満席と断られて、タクシーを奮発し登山口平群神社へと入った。安全登山をお願いして山へと向かう。直ぐ山中となり、追い越すハイカーや既に下る男女と行き交い、人気の山のよう。若いKさんに離されないよう後を追う。やや山道の傾斜が増したと思ったら、右手が開けて富山が見えた。直ぐ上が展望台になっていて、他の登山者と一緒に休憩を取る。

 ロープを使い急登を 一息入れて腰を上げると、急登の岩場下へ突入。一本のロープが下がっていて先行者が取り付いている。巻き道はないようだ。順番に、足場を固めながら綱を伝い上がり続ける。北アルプスのように危険はなく、恐怖感もないのが幸いだ。そんな岩場を三カ所こなすと頂上(336m)であった。僅か45分で極めることができ、小さな山頂に立ち携帯に収めた。眼下には房総の山里風景が広がる。山麓には散りばめたように田畑や集落が形成されて、それらを繋ぐように道路が巡っている。海側には、同じく、端正な富山の双耳峰が見える。

 北峰へ こちらの双耳の一つ北峰へと渡る。小さな鞍部を二つ越した10分先であった。山頂は弁当を広げるグループに占拠されていて、三角点を踏み引き返した。下りの岩場を、上がる者を待ちながらも、慎重に一歩一歩ロープを利用して通過する。無事下りて、また展望台で休憩し昼食。今朝、秋葉原駅で求めたお握りを頬張った。

 富山も登る 富山にも登ることにし、山麓から山里の道路を行く。既に水仙や菜の花も咲き、やはり房総は温暖の地だ。背後には先程の伊予ケ岳が聳えている。意外に距離があって、富山の林道入口まで約1時間、さらに林道を上がり続けて南北峰の鞍部までは1時間半を要してしまった。予想した地点に着いて富山北峰は目の前。小憩後階段から北峰の三角点を経て、展望台へ。こちらは東京湾が望まれて、湾越しの山々は、箱根や南アルプス方面ではあるが霞んでいる。最後の力を振り絞って南峰(349m)も踏んで下山した。岩井駅では折良く来た特急に飛び乗り、車内で、無事下山と房総の自然に感謝しKさんと乾杯をした。(09/2/7 62/100)

追記 伊予ケ岳は、四国伊予(愛媛県)にある石鎚山に、山容が似ていることに由来するという。房総丘陵にあるなだらかな周囲の山の中では珍しく、突き出た岩峰の山頂が印象的で、房総のマッターホルンと呼ばれると知る。山頂直下の岩場は大変で、ロープにしがみ付いた。それでも僅かな岩場で、余裕があり、復路では富山にも登頂した。日本百低山(同書247頁)や日本百名低山を歩く(同書95頁)登載の山である。千葉では、三舟山(11.04.24)や房の大山(12.2.26)にも登った。

都内大森貝塚遺跡庭園へ池上通りを歩く

 大森貝塚碑は一度訪ねた(21.10.16)。ところが、もう一つ碑があると知った。私が愛読している購読紙の“我がまち再発見大森編”(25.4.10讀賣夕刊)からである。えっと思いながらも出掛けることにした。大森は、都内も城南地区で、我が家から近くはないが、JR京浜東北線で一本だ。三田線から乗り換える駅を検討し、JR新橋駅とした。

 大森貝塚碑 三田線内幸町駅から新橋駅へ歩いて京浜東北線に乗ると、品川駅の先が大井町駅で次が大森駅であった。大森貝塚遺跡庭園は、駅前の池上通りを北上した15分程の地にあった。前回訪ねた貝塚碑は駅先から階段を下りた地で、その大分先である。こちらは公園内に、土器を手にした米国人エドワード・S・モース博士(貝塚発見者)像を中心として、貝塚も復元してある。カメラに収めながら一周したが、石碑が見付からない。入口へ戻り案内図で確かめ、右手奥の線路際と分かり、土手を下ると石碑があり、大森貝塚と横書きされていた。駅近の碑は、大森貝墟と縦書きであったと思う。カメラを向け、園を出た。

 馬込文士村 我がまち再発見から天祖神社にある馬込文士村レリーフが目を惹き、訪ねた。大森駅西口の駅前であったが、本殿は高台にあり急な石段。回り道の石垣に、似顔絵を刻んだ文士村レリーフがあった。40名ほどであるが、私が知るのは尾﨑士郎、宇野千代、川端康成、室生犀星、萩原朔太郎、三好達治、山本周五郎、画家川瀬芭水達である。大正末期から当地から馬込に住んだ作家や画家達である。裏側から境内へ入り、参拝。狭い中緑の樹木が多く、初夏であろう。また石段を避け、裏の住宅街を回り道して、大森駅前池上通りへ出た。

 最後に池上通りを大田区から品川区へ入り、右手にあった鹿島神社に寄る。安和2(969)年創建とある。立派な社殿とその隣に、推定樹齢200年というタブノキがあり、思わずシャッターを切った。友人との約束の時間が迫り、神社前バス停に折よく来たバスに乗り大森駅へ戻った。(2025/5/14 K.K. 1601)

◇日時 2025/4/27 ◇天候 晴 ◇交通費 500円 ◇資料「我がまち再発見大森編」(25.4.10,17讀賣夕刊)」◇歩行距離等 8000歩 6㎞                                                      「通過時間等」 自宅8:50-三田線内幸町駅9:35=JR新橋駅9:47-同大森駅10:05=天祖神社10:15=大森貝塚遺跡庭園10:45=鹿島神社11:05-JR大森駅11:13-同巣鴨駅12:00/12:45=-自宅13:15

私が登った百の名山&低山=関東編=「結構手強かった鋸山からの下山路」

 ピクニック気分で出かけた房総鋸山 千葉県内房にある鋸山はハイキングというよりは房総観光の途中に立ち寄る程度の山と理解していた。しかも上りはロープウェイ利用で簡単なピクニック程度の楽勝コースであり、むしろ下山後の温泉や地魚で一杯に期待していた。しかし、現実は違っていた。予定通り、浜金谷駅に降り少し歩いたロープウェイ山麓駅から一気に山頂駅に上がった。

 大仏様参拝 先ずは日本一の大仏様を拝観しようと西口から日本寺境内に入る。石段を下りながら、大分下ることになるのではと、この辺りから記憶が蘇り始めた。鋸山は二度目、いや三度目かもしれない。いずれも房総小旅行の途中に立ち寄った程度ではあったのだが。千五百羅漢道から右折すると下る一方になった。石段の高さが歩幅に丁度良いなどと言いながら一歩一歩下り続ける。大仏広場に到着し大仏様に軽く参拝。前に観た時より改修されたよう見える。やはり昭和44年復元工事があったというからその前に訪ねたのであろう。

 鷲急襲のハプニングを見る 時間も正午近くになり昼食にする。空を舞っていた鳶が突然急降下し近くのご婦人の食べ物を急襲した。これには周囲皆吃驚。餌を取り損ねた鳶は上空から再襲を狙っている。鳶にとってはいつものことかもしれないが、襲われた者は尋常ではない。幸い怪我はなかったようだ。
 小生は麓のスーパーで求めたサンドイッチであったが、珍しく持参したインスタントものとお湯で皆にコーヒーを提供し、戴いたオレンジで食後のデザートにした。

 頂上へ いよいよ頂上を目指して上り返す。連続する階段は次第にきつくなる。小憩を取りながら座禅石、二天門トンネル、西国観音を過ぎて、息が切れ始めた頃に山頂展望台に上がった。生憎曇天で東京湾は眼下だが遠望はない。垂直に切り立った地獄のぞきに立つ。高所恐怖症の小生も怖いとは思わず覗くことができた。柵があって安全だからだろう。

 意外にきつい下山路 下山は百尺観音を眺めた後北口から開始した。駅まで約50分という。小生が先頭だが、狭い上に急降下の磨り減った石段が続く。治りかけている膝が心配になった。苦手な下りによたよたしながらも険路を進む。関東ふれあいの道の道標があるが、鋸山は確か千葉県コースには含まれていない筈だ。観月台手前あじさい広場で休憩。一本の桜が咲いていた。山桜だろうか。流石房総は温暖の地だ。最後の急坂を下り切ると山を出て、浜金谷の集落であった。

 反省会 予定した温泉旅館は直ぐ見付かったが満員という。他も当たったがいずれも同様であった。年度末の土曜日だからであろうか。到着時予約の話が出たが大丈夫と高を括ったのが裏目に出て、同行の二人には悪いことをしてしまった。浜金谷港傍のレストランに入り地魚定食で反省会。駅に向けて歩き出すと正面に広がった鋸山の山容はギザギザがあって鋸形に見えた。(07/3/24 61/100)

追 記 鋸山は内房の低山で、観光用にロープウェイもある。私も房総旅行の際訪ねていた。今回は、歩いて下山した。高く垂直に立つ石材の切り出し跡の底部歩きは、頭上に岩壁がそそり立ち圧迫感もあり、怖い位であった。江戸時代から昭和の末迄切り出していたという。日本百低山(同書242頁)や日本百低名山を歩く(同書96頁)に登載の山である。

都内根津神社躑躅から日比谷公園ネモフィラ鑑賞し1600へ

 春から初夏は花々が次々と開花し、花の季節到来である。桜は散ったが、躑躅見頃の情報に続いて、ネモフィラやチューリップ開花の知らせが届いた。都心文京の根津神社のツツジは有名で数度訪ね鑑賞している。日比谷公園は元勤務先から近いがネモフィラは初めて聞いた花である。地下鉄千代田線で移動すれば半日だろう。

 根津神社ツツジ苑は満開 根津神社へは、三田線白山駅から歩いた。浄心寺坂を上がり旧中山道へ出て、住宅街の小路を抜け本郷通り(日光街道)へ出たが根津神社への下りは、左へ行き十字路を右折した先と分かり、坂を下った。裏参道から境内へ入ると、テントや屋台が並び開店準備中の間を抜けたら、ツツジ苑が前面に広がり、鑑賞客がもう列をなしている。私は神社本殿へ進み、先ずは参拝した。将軍綱吉縁の神社で境内も広く、立派な社殿。ツツジ苑に戻り、下から見上げる。ピンクや朱色を中心とした躑躅は見頃を誇示している。カメラに収めながらゆっくり進む。ツツジは色といい、花といい鑑賞向きで、好みの花で、私は当苑の外、そっちこっちで躑躅を鑑賞した。不忍通りへ出て、地下鉄千代田線根津駅へ下りた。

 ネモフィラに再会 日比谷駅に降りて、公園へ入り広い園内にチューリップやネモフィラを探すが見当たらない。サービスセンターで教えて貰い、花壇を巡る。チューリップは赤や白の花は満開だが、花数は少ない。子供の頃亡父が栽培し馴染みの花ではある。ネモフィラはレストラン松本楼の左先の花壇に咲いていた。空色の小さな花で、中心が白である。昨年都内足立の舎人公園でネモフィラを初めて鑑賞した(24.4.20)。アメリカ大陸原産の花のようで、わが国での歴史は浅く、国営ひたち海浜公園でも約20年前から栽培開始と知った。一面に咲く花にカメラを向けながら花壇を一回り。舎人公園と比べれば、花は少なく疎ら感がある。でも再会に感謝し、ネモフィラの花を記憶に刻んだ。隣は野外音楽堂で、若い頃音楽には縁がなかったが、組合系の集会には参加したと思う。日比谷見附跡から地下鉄三田線日比谷駅へ下りた。これで1600回となったが、花めぐりで、現在傘寿の自分の気力や体力に応じた歩きとなった。(2025/5/6 K.K.1600)

◇日時 2025/4/18 ◇天候 曇り ◇交通費 180円 ◇資料 根津神社「文京つつじ祭り」、日比谷公園サービスセンター「日比谷公園花ごよみまっぷ」◇歩行距離等 9000歩 7㎞                                                      「通過時間等」 自宅8:30-三田線白山駅9:05=本郷通り9:20=根津神社9:30=千代田線根津駅9:54-同日比谷駅10:05=日比谷公園10:10=三田線日比谷駅10:47-自宅11:35

私が登った百の名山&低山=関東編=「水仙咲く南総の早春に富山に登る」

 今回は房総半島に遠征した。今年から少し遠出して首都圏日帰り圏内に足を伸ばさなくてはと思い、その第一弾として、房総半島の富山(トミサン)にした。

 内房線で 東京駅から京葉線で出発し、蘇我で内房線特急に乗り換えた。富山への起点岩井駅は特急で1時間走っても未だ先だ。木更津の少し先だろう位の感覚であったが房総半島の先端、館山の直ぐ手前が岩井であった。岩井海岸には前職場の海の家があり、家族や同僚と2,3度海水浴に訪れたことがある筈だが、こんなに遠かったのだろうか。房総半島の広さを今更ながら実感した。双耳峰の特徴ある富山は特急車窓から確認できた。

 水仙咲く山道 蘇鉄が繁り、水仙の咲く道を通り、福満寺から山道となった。富山は標高僅か南峰が342m、北峰が350mだが、海辺の山だから0mからの上りを覚悟した。急坂をゆっくりと行くと、1号目を過ぎた地点に水仙畑と出会う。土手一面水仙が咲き誇っている。自生地か。ラッパ水仙とは違い花びらが白色だ。先行した高年ハイカーが三脚を立ててカメラの焦点を合わせていた。

 南峰、そして北峰 5合目近辺で一旦下り、南峰本体に取り付き急な階段を一歩一歩上がる。房総は温暖の地で、流れる汗にたまらず、ウインドブレーカーは先程ザックに括り付けた。スダジイの大木が根こそぎ倒れている。先月の雪害に違いない。南国の樹木は雪には弱いのかもしれない。7合目の休憩ベンチから海側を覗くと東京湾の先に富士を望んだ。最後の石段をこなして頂上・観音堂に到達。南峰は樹木に邪魔され展望はなく、観音堂に軽く参拝して、北峰へ向かった。
 北峰は、十一州一覧台とある展望地で、早速、空、山、海の眺望を楽しむ。海原を望む見晴らしは壮大だ。富士山は雲の上、うっすらと見える連山は南アルプスではないだろう。未だ冬季なのに冠雪がない。その前の山並みは丹沢のようだ。眼下には東京湾から三浦半島を確かめるが洋上に大島は確認できない。大勢のハイカーに混じって弁当を開いた。山頂広場に皇族散策記念碑があった。1年前の事らしい。そう言えば、山頂下に不似合いなトイレが作られていた。

 八犬伝伝説 伏姫篭穴に下る。滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」に準えた伝奇な岩穴という。八犬士の母となった伏姫と妖犬・八房の人形が、件の玉とともに穴奥に潜んでいた。岩井駅に戻る途中、振り返ると菜の花畑の向こうに双耳峰の富山が見えた。(2001/2/18 60/100)
          
追記 千葉県には山は少ない。数少ない山の一つが富山で、標高400mにも足らないが、それでも東京湾からその奥の展望が良い。都心からは内房線だが、乗車する度に長く遠いアクセスを実感している。下山口に八犬伝の洞穴があった。富山は、伊予が岳からの復路でも登った(09.2.7)。日本百低山(同書252頁)や日本百低名山を歩く(同書95頁)に登載の山である。

北区浮間公園、浮間ケ原桜草圃場

 購読紙都内版で、北区の浮間ケ原桜草圃場に桜草が開花し、一般公開されたと知った。桜草は濃いピンクの花の野草で、好みの花である。しかも、浮間公園の奥で、我が家からバス一本で安近楽の地である。浮間公園は花見の地でもあり、未だ咲き残っているかもしれないと期待した。桜草圃場は初めてではないと記録を捲ったが見当たらない。

 桜草を観る 我が家からバス停まで歩き、浮間舟渡駅行きバスに乗車。20分程で着き、浮間公園へ入り、右奥の桜草圃場へ歩く。遅めの桜が残り、八重桜か。緑地帯を斜めに横切って、公園隣にある桜草圃場へ入場。思ったより人出はなく、圃場を見渡すと濃い目のピンクの花が咲いてはいるが、疎らな花壇もあり、これからか。当地は嘗て荒川の河川敷内で、江戸時代から有名な桜草の自生地であったという。それが昭和初期の築堤工事で流れが変わり、昭和30年代に地元民の熱意で、当圃場で栽培し保護したという。カメラに収めながら桜草花壇を巡る。桜より花は大きく色も濃く、私は癒される。大分前だが花友と鑑賞したと思う。一周半程し圃場を出て、隣の浮間氷川神社に立ち寄り参拝。境内に咲くソメイヨシノは散り始め寸前で見頃であった。

 三度目の花見 浮間公園に戻り、池端を行く。少なくない釣り人が竿を出している。荒川堤手前で左折して対岸へ歩き、野球場を過ぎると桜並木があり、未だ咲き残っている。花見客と交差し、ソメイヨシノを見上げながら下を歩く。これで今年三度目の花見か。今年は開花宣言後寒さが戻り、雨が降り、長持ちしているのであろう。この地は友人Sさんと夜桜見物し、浮間舟渡駅前で花見酒をしたことを思い出した。10年程前であったろうか。先日彼に話したら覚えていてくれた。Uターンし花の下を戻り、舟渡側へ公園を出た。舟渡地区にも氷川神社があり、一本道を違えたが訪ね当て、十度ノ宮にも手を合わせた。荒川の洪水で、蓮根から十度も流され当地に発見されて祀られたとある。大通りで、舟渡1丁目バス停を探し高島平経由のバスを待った。(2025/4/28 K.K.1599)

◇日時 2025/4/12 ◇天候 晴 ◇資料 東京都北区「浮間ケ原桜草圃場」◇歩行距離等 7000歩 5㎞                                                      「通過時間等」 自宅9:55-図書館前バス停10:05-浮間公園バス停10:25=浮間ケ原桜草圃場10:30=浮間氷川神社10:40=浮間池端10:50=浮間公園桜並木11:00=舟渡氷川神社11:15=舟渡1丁目バス停11:21-自宅11:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「1000回記念に孫達やハイク友と奥武蔵大高取山を歩く」

 1000回目は、大高取山にしようとは数ヶ月前から決めていた。私のホームグラウンド奥武蔵にあり、交通アクセスも良く、越生駅から歩き始められる。初心者向きで、孫達も誘える。そして、下山先の麓におごせゆうパークがあり飲食会にも都合良い。その時がやって来た。10月25日とし、ハイク友や読者、長男家族にも案内した。

 孫を先頭に西高取山へ 孫達と越生駅前に着いたら、ハイク友と勤務先メンバーは先着していた。挨拶もそこそこにスタート。少し風があるが天気は上々。一行14名、駅前の法恩寺を過ぎ、越生神社先で山中へと入る。山歩きが初めての孫(小3)は、道端の花や草木、岩と珍しいらしく質問攻め。適当に答えながら上がり続ける。赤ちゃんを連れたO夫妻は途中迄同行するという。私は、大高取山は5回程歩いているが、このルートは2回目で久しぶり。思ったより時間を要して、最初のポイント西高取山に上がり、休憩。

 大高取山山頂で記念写真 本日鉄道会社主催ハイキングと重なり大勢が上下し、また休んでいる。孫達と東京方面を眺めたが高層ビルやスカイツリーは見えない。また孫二人を先頭に山道を進む。旧友のTさん、こんな平らな道なら楽と、口も滑らか。腰を痛め心配した時もあったが完治したという。多くのハイカー達と交差しながら一山越す。ライオンが寝そべったような岩があり、本日は休憩所として岩の上は人集り。また上り切ると、ここでもグループで昼食中。我々は右折し大高取山頂(376m)へ。林が切り払われ現在は、北東方面に展望があり、越生町。皆で記念写真を撮る。旧友SKさんに戴いた煎餅をお八つに回した。昼食コースに参加のメンバーも越生駅に着いたと、携帯で知った。

 桂木観音からゆうパークへ 桂木観音へ向け下山開始。孫に、これからは下るだけと伝えたが、小さなピークが続いた。最後の急降下の坂は心配するも、2人の孫はどんどん下って行く。孫と参拝していると全員下って境内に着いた。今、観音様と昼食コースメンバーにメールした。舗道を歩いて集落内を通ると、無人スタンドで柚等を販売中。赤い実を付けたつる梅もどきは生花用とあり師範のTさんへと一枝ゲット。ここで、私がコースを間違え戻ったが直進が正解。ゆうパークへの案内板を確かめ庭先を通り、また山中。最後の分岐に至ると0.8kmとあり、もう15分程度と孫達へ。意外に距離があり、ゆうパークからの歌声は聞こえ始めたが建物は見えない。30分程で林を抜けると、前庭では大イベント開催中。

 20名で記念食事会 館内も混み合い、レストランを予約しておいたのはラッキー。昼食コースメンバーと合流し、20名参加の下、記念昼食会はHさんの乾杯で始まった。彼は本当の山男で百名山は完登し、私は山歩きの基本から教えて戴いた。皆さんお疲れ様、また有り難うございました。お陰様で、楽しい記念の山歩きとなりました。今後も、よろしくお願い致します。2週間前弟と下見的に途中迄歩いた。(2015/10/25 59/100)

追 記 1000回記念山歩きは、私のホームグランド奥武蔵越生の大高取山とした。元職場、旧職場のハイク仲間20人も集まってくれた。この帰途、越生駅前で、山友Hさん、Kさん、Yさんと二次会を楽しんだ。感謝である。最初の山歩きが94.2.27の三つ峠山だから21年で、年平均47回程歩いたことになる。その後も歩き続け、現在1600回を迎えている。年齢には勝てず、傘寿となった今では山歩きはなく、史跡や社寺を巡り、乗り鉄も加えている。一緒に歩いた孫二人も10年後の今年、上の孫は社会人に、下の孫は大学生になった。

2025-2花見外濠公園から赤坂へ

 本日、4月7日は18時大手町集合の日で、その前に歩く先を探した。幸いにして、桜花は長持ちし未だ花見ハイクも可能な園地もあろうと期待した。都営新宿線で市ヶ谷駅へ出て、外濠公園を四谷方向へ歩き、赤坂付近で日枝神社を訪ねるコースとした。大手町集合時間を見据えて、出発時間を15時過ぎとした。

 桜の外濠公園 予定通り家を出て、神保町駅で三田線から新宿線に乗り換え市ヶ谷駅で下車し、外濠公園入口へと歩いた。江戸城外濠の土塁址である。現在では桜が植えられ花見時の散策コースで、私も大分前だが2度程歩いている。右下はJR中央線を挟み現在も水濠で、四谷から神田へと続いている。未だ咲き残る花を見上げながら、土手上を行く。時々途切れながらも花は咲いているが、交差する散策者は少ない。

土手下を見たら濃紫の一群の花が咲いている。ハナダイコンかなとカメラに収めた。四谷へ着き大通りを渡り、また土手へ上がる。左手は上智大学キャンパスだろう。土手ではブルーシートで場所取りも散見され、夜桜見物のようだ。右下は濠が埋められたグランドで、サッカー場。そして、土手が切れ外濠公園を出たら、江戸城の喰違い門址とあり、左手は紀尾井坂。井伊家の屋敷跡の碑があった。

 赤坂へ 外濠は弁慶濠で、大きな池にはボートも浮いている。池を眺めながら坂を下り続け、弁慶橋で赤坂見附へと大通りを横断した。久しぶりの赤坂見附で、外堀通りも狭く感じる。購読紙“我がまち再発見の永田町編”(24.3.7讀賣夕刊)で知った新坂を上がると日比谷高校であった。嘗ての超名門校であるが現在はどうなのであろうか。近道して日枝神社を訪ねる。裏参道からで、エスカレータが備えられて往復に利用した。境内から社殿の大きさに驚く。太田道灌が川越から江戸城内に勧請した社。社殿は工事中だが、参拝できた。多分移動した社殿であり、表参道石段のすぐ前にあった。時計を睨みながら、外堀通りを渡り返しTBS前へ歩き、地下鉄千代田線赤坂駅へ下りた。17時30分前で、集合時間には間に合った。(2025/4/20 K.K.1598)

◇日時 2025/4/7 ◇天候 曇り ◇交通費 180円 ◇歩行距離等 13000歩 9㎞                                     「通過時間等」 自宅15:10-新宿線神保町駅15:52-同市ヶ谷駅16:05=外濠公園16:10=四谷外濠公園16:20=紀尾井坂喰違い門址16:50=弁慶橋17:00=日枝神社17:20=千代田線赤坂駅17:28-大手町会場17:50

私が登った百の名山&低山=関東編=「シラジクボ経由が正解であった武甲山登山」

 遂に武甲山に登った。毎年目標としていた山で、大袈裟だが約50年振りに約束を果たせた。昭和40年頃、職場旅行で秩父長瀞へ出掛けた際、山好きの先輩Fさんが、バスの車窓から見える武甲山を指さし、“あれが武甲山だ。一緒に登ろう”と叫んで、頷いたのであったが、長い間そのチャンスは巡らず、その後Fさんも亡くなったと聞いた。

 杉林の中表参道コースを上がる 表参道コースの生川から上り始めた。Kさんが同行してくれ、彼の車で生川迄入り楽にアプローチが出来たが、登山口駐車場は満車で、人気のある山を実感した。    
直ぐの養鱒場から急な坂で、多くの登山者と前後になりながら山中を行く。林道を過ぎ登山道へ進み18丁目に至ると小さな祠と不動の滝があり、小憩。さらに杉林の中の山道を上がり続ける。中間の26丁目付近で休憩を取るグループがあり、大杉広場かなと思ったが違い我々は先行。目指した広場は32丁目にあり、休憩し大杉を見上げた。周囲は杉が林立する美林の地だが展望はない。腰を上げ深い杉林の下を進む。思ったより傾斜は緩く急登や岩場もない。公務員ランナー川内さんがここでトレーニングしているテレビ放映を見た。いつものようにはKさんに遅れることはない。44丁目付近で、右手先の杉の木の間に白色の地が見えた。武甲山は石灰岩の山で、セメント等の原料として表半分は削り採られているが、石灰岩が露出しているのだろうか。滴が垂れている小さな水場を過ぎると山頂下・52丁目で、御嶽神社。先ずは立派なお社に登頂のご挨拶。そして裏の山頂(1,304m)へと上がった。反対側は採石跡が生々しい大絶壁。下方には秩父の市街地が広がり、その先は秩父の山々から信濃の浅間や谷川連峰とある。両神山の特徴あるギザギザ岩稜に再会した。広くはない最高地点に多くの男女が次々と到達し、我々は記念写真を撮った後、神社前で昼食とした。

 黄葉の唐松林が美しいシラジクボ尾根 下山は、シラジクボ経由コースと決めていた。事前に新ハイ誌で調べて、Kさんの同意も得た。右手の浦山口コースを見送り山頂下十字路を直進し急降下の道を下る。ハイカーは見当たらず我々だけで、荒れた小径を、ストックを使いながら慎重に下り続ける。本日は天候に恵まれ南斜面は日当たりが良く、右手には青空の下、ススキ越しに見え隠れする唐松林が黄葉に染まり美しい。2,3度立ち止まってはシャッターを切った。新ハイ誌情報通りであった。
 鞍部へ下りて、持山寺跡へと左折。片側が切れ落ちた肩幅にも満たない狭路に戸惑ったが直ぐ楽な山道となり一安心。途中、持山寺跡へ寄る。戦国期頃に寺があって、徳川秀忠二男忠長の子松平長七郎在住伝説が遺るという。山奥の小さな削平地には石塔がポツンとあるのみで、一瞥し登山道へと戻った。また杉林の中葛籠折れを繰り返し膝がガクガクし始めた頃に、養鱒場上の林道へと飛び出し、少し下ると登山口であった。今回もKさんに引っ張られて無事念願の武甲山登山を果たしたが、Fさんには報告できない。(2012/11/18 58/100)

追記 武甲山は秩父の山々の主峰のような山である。高さも位置もそう見え、日本百低山でもある(同書162頁)。厳しい山かなと思っていたが、意外にも楽に登れたと思う。人気の山で、山中大勢のハイカーと出会った。最近も秩父へ行くと、中心に聳える山容を眺めている。

2025花見飛鳥山公園から巣鴨地蔵通りへ

 今年も開花宣言があり、我が団地の桜も開き始めた。花見の時期だが、私には桜の下を歩くハイキングである。先日、花友から今年は何処と言われた。都内では、花見先は限られ、上野公園や隅田公園は人出が多く、向かない。やはり北区の飛鳥山公園や石神井川が良いだろうと連絡した。これまで数回花見散策した地で、しかも交通の便が良い。

 飛鳥山公園は見頃 午前9時、北区JR王子駅に待ち合わせ、駅裏の音無川からスタート。石神井川だがこの辺りは別名で呼ばれている。両側に咲く桜は見頃で、満開寸前の8分咲きか。早速カメラに収めた。川を出て回り道し明治通りを渡り、飛鳥山公園へ上がる。山頂部には咲き揃う花が見えるが、広場(左上写真)では、お祭り用のテントや屋台を準備中。未だ9時過ぎだ。公園を時計と反対回りに歩き、緩い坂を頂上部の平らな地へ上がる。飛鳥山公園の中心部で、1000本程の桜の木があるという。江戸時代将軍吉宗が花見の地として整備し、江戸の町民に親しまれ、広重の錦絵や落語にもあったと思う。見頃の花の下には、シートで花見席を確保しているグループが多い。久しぶりに見る風景でシャッターを切った。前職場でも数回こんな花見を楽しんだことを思い出した。我々は見上げながら歩くだけである。約半周し、次の行く先を相談。このまま石神井川を遡上するのも良いが、帰途の板橋の駅が遠い。目の前を走る都電荒川線で巣鴨行きを提案し、了承を得た。

 巣鴨地蔵通りへ 飛鳥山公園前の駅から都電荒川線に乗車。北区から板橋区へ入り庚申塚駅で下車し、庚申塚に寄る。直ぐ巣鴨地蔵通り商店街で、一昔前おばあさんの原宿とも呼ばれたが、その面影は薄い。両側の商店街も従来の活気はないように見える。同行のAさんは初めてのよう。高岩寺の刺抜き地蔵さんに参拝。以前は並んで待ったが、直ぐ地蔵さんの前で手を合わせた。出口の江戸六地蔵様にも立ち寄り、JR巣鴨駅前で喫茶店に入って休憩した。本日は天気も良く、風もなく花見日和で、今年も見頃の花下を歩いた。お疲れ様でした。(2025/4/14 K.K. 1597)

◇日時 2025/3/30 ◇天候 曇り後晴 ◇歩行距離等 9000歩 6㎞                                     「通過時間等」 自宅8:05-都電新庚申塚駅8:44-JR王子駅9:05=飛鳥山公園9:15=都電飛鳥山駅9:45-同庚申塚駅9:55=巣鴨地蔵通り10:40=三田線巣鴨駅11:40-自宅12:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「紅葉の中秩父四阿屋山を歩く」

 秩父鉄道は紅葉の中を走った。三峯口駅から本日は、旧両神村にある四阿屋山(アズマサン)を目指している。この山には少し経緯がある。山歩きを始めた頃に知った山であったが、岩場で死亡事故が起きてびびってしまい、一度は麓の国民宿舎に宿泊したこともあったが敬遠した。しかし初心者向きの山で、事故は不注意に起因したとの情報もあり、目標の山としていた。

 秩父四阿屋山を目指す 三峯口駅でバスに乗り継ぎ、登山口のある薬師堂前から歩き出す。その前に薬師堂と両神神社に安全をお願いした。公園の中を進むと真っ赤な紅葉に出会い、立ち止まって見上げデジカメを向けた。薬師堂コースの取付き口を見付けるのに戸惑ったが、登山道へ進入できた。ハイカーは見当たらず、秩父山中を歩き続ける。この辺りは福寿草が咲く地で旧職場の仲間と一度バスで訪ねたことがある。もう10年以上も前のこと(96.3.9)。その管理地域を通過。隣の薬師コースとの合流地点で一息入れる。
 その先で車道を横断し、小山を越すと雑木林の径となる。こちらは黄色の紅葉。ちらちらと左手の木立の間から麓の街が見える。また福寿草管理地を過ぎると、いよいよ急坂となる。杉林の中をゆっくりと一歩一歩上がる外はない。両神神社奥社に着いて、休憩。今朝三峯口駅前で求めた草餅で空腹を満たした。

 岩場は超難所 山頂は近い。男性と擦れ違い挨拶を交わす。一端下ると岩場が迎えてくれた。インターネットで調べると岩場の鎖は手すりに見えて、その程度の難所であろうと思い本日挑んだ。しかし直ぐ甘いことに気付かされた。急な上に足場が悪く、鎖が頼り。振り向くのが怖いほど落ち込んで、下りが心配になる。落ち葉を散らしては足下を確かめ確実に上がり続ける。簡単な岩場ではなく結構続く。肩へと上がり切ってホッとしたのも束の間。真上の頂上へも岩場というよりは急なガレ場で長い鎖も垂れている。慎重に上って、山頂(771m)に立った。

 両神山を眺める 木々に囲まれた頂は狭く、西側は切れ落ちている。唯一開けた西北にはギザギザ山容の両神山が近い。紅葉の下で休憩し、孫達へと落ち葉をポケットに入れた。一人では長居はできず、早々に下山とした。落ち葉で埋もれた岩場の急降下はより慎重にならざるを得ない。手足の外、尻も使ってどうにか岩場を下り切る。奥社で無事登山を報告し、展望舎へと回り、途中からは薬師コースを採り、道の駅農林産物直売所へと下った。(2010/11/20 57/100)

追記 四阿屋山直下は険しい岩場であった。特に下りは尻も付いてなんとか凌いだ。そんな中、麓の紅葉が美しく、頂上からは両神山の眺めが良かった。秩父の深い山中で、出会ったハイカーは一人であった。一昨年登山口の両神神社を訪ねて(23.10.5)、本山を思い出した。

両国から元浅草、そして浅草へ

 両国に野見宿禰神社があると知った。日本書記にある我が国相撲の最初の力士で、相撲の神様として崇められている。確か出雲神社にも小社があり(13.7.13)、出雲出身という。大江戸線両国駅手前の新御徒町駅付近の最尊寺に永六輔の墓があり、そして、浅草寺隣の浅草神社へも足を伸ばしたい。

 野見宿禰神社 大江戸線で両国駅へ出て、地上へ上がった。駅前案内図で確かめ北斎通りを北上。一度歩いたことがあると思っていたが、初めての地のよう。三つ目の信号の手前右手に神社はあった。表参道へ回り、参拝。1884(明治17)年高砂親方などの尽力で創建されたとある。境内には歴代横綱の名を刻んだ石碑が二つあった。子供の頃は大相撲が好きで、高砂部屋の東富士や朝潮を応援していた。当地は津軽藩上屋敷跡とあり、隅田川を越した地が気になったが、やはり幕府の処分で屋敷替えになったとの情報があった。

 永六輔の生家 大江戸線で新御徒町駅に戻り、元浅草に最尊寺を探す。永六輔の生家である。駅前へ出ると以前方向を間違えた地と思い出し、地名で辿る。左折、左折し寺のある地区に入り、浄土真宗の最尊寺はあったが、墓地がない。墓参帰りの方に尋ねたら道路の反対側小路の奥であった。ネット上で観た墓の前へ進み、先ずは手を合わせた。墓には、“上を向いて歩こう涙がこぼれないように”と刻んである。数知れない詩があるが、これが一番知られた詩なのだろう。永六輔は、特にラジオで活躍した旅人詩人で、TBSの土曜ワイドはよく聴いたし、NTVの“遠くへ行きたい”も観ていた。自分で全国各地を旅して、調べて、そして書くか話すのがモットーであったと思う。視聴者からの便りにはすべて返事を書いたという。年賀状には寒中見舞いで返信したと話したのを聴いて、私も採り入れて久しい。

 浅草神社へ 浅草通りへ出て、地下鉄銀座線稲荷町駅から浅草駅へ乗車し、浅草寺の隣浅草神社を訪ねる。地下街、仲見世通りも外国人観光客で一杯。端を歩いて、山勘で浅草神社へ辿り着いた。社殿前で参拝し境内を見回した。私がYouTubeで聴いている東京大衆歌謡楽団の路上ライブの地で、確証はないが間違いないだろう。都営浅草駅へ歩いた。(2025/4/7 K.K.1596)

◇日時 2025/3/24 ◇天候 曇り ◇交通費 180円 ◇資料 昭文社「東京都市図 両国 浅草」2004 ◇歩行距離等 .8000歩 11㎞                                     「通過時間等」 自宅9:30-都営大江戸線春日駅10:15-同両国駅10:30=野見宿禰神社10:40=大江戸線両国駅10:55-同新御徒町駅11:05=最尊寺墓地11:15=銀座線稲荷町駅11:33-同浅草駅11:40=浅草神社11:50=都営浅草線浅草駅12:23-三田線神保町駅12:55-自宅13:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「意外に短い縦走に終わった長瀞アルプス」

 “○○○アルプス”とネーミングされた山々はそっちこっちにある。低山と雖もミニ縦走できる連山を指称するもので、中でも沼津アルプス(09.5.16)が有名である。鎌倉アルプス(02.5.12)は歩いたことがある。地元ハイカー達の意気込みや愛好度が窺える。秩父長瀞にもあって、目標の山にノミネートしていた。

 秩父鉄道野上駅をスタート 秩父鉄道野上駅には、東武東上線から寄居経由で入った。駅ではアルプス案内図を入手。最後の一枚であった。登山口万福寺までは分かりやすい道筋。高年グループが縦走の準備をしていた。
 緩やかな上りとなって山中へと進む。直ぐ尾根に出て、小さなアップダウンを繰り返す。天候は良く、雑木林の間からは近郊の山々も覗ける。寄り道して途中のピークで休憩。先程の一行は直行したようだ。一息入れて歩き出す。目の前に山が現れて、本日の主峰宝登山(497m)である。大した山ではないが何故か急峻に見えた。

 ミニ縦走が終了 枝道は氷池へ通じるもの。秩父は厳寒の地で天然氷の産地でもあるようだ。野上峠に至る。ここでも、中高年のグループが休憩をしていた。小鳥峠を過ぎると林道へと飛び出した。意外と短い尾根道であっけないミニ縦走であった。休憩中の高年者達の間を、挨拶をして、通過。

 仕上げは宝登山 最後の仕上げとして、長瀞アルプスの最高峰宝登山登山口を目指す。宝登山は槍ヶ岳や奥穂の見立てかもしれない。周囲は杉林。 大分歩いた林道左側に登山口は見付かった。関東ふれあいの道用案内板も併設されていて、一度反対側上長瀞から歩いたことがある(97.3.29)。下りの急な階段が思い出された。覚悟をしてゆっくりと上がり始める。降りてくる男女が多い。この地は蠟梅で知られているがもう時期は過ぎた。適度に踊り場があり、呼吸を整えて上がり続ける。記憶にある程には急ではない。下りとは目線が違うからかもしれない。それにしても長い階段である。息が上がる前にどうにか上り切った。

 展望を楽しみ下山 山頂ベンチで昼食を取る。眼前には秩父の山々が広がっている。最奥のギザギザの山容は両神山だろう。秩父の街は左手下で、山峡の街そのもの。宝登山神社奥宮に参拝し、社務所でルートを確認して下山を開始。直ぐ下に小動物園があった。林を抜けると先程歩いた尾根筋、長瀞アルプスを一望にした。麓の宝登山神社は改築中で素通りして、長瀞駅に到着。瀟洒な駅舎には見覚えがあって、約10年振りの再会であった。(09/4/6  56/100)                                                    

追記 アルプスという割には、簡単に縦走したが、最後の宝登山への直登は大変であった。宝登山にはロープウェイがあり、その後蝋梅鑑賞に花友を案内し(11.2.27)、1500回記念山歩きも宝登山とした(23.2.24)。秩父鉄道長瀞駅からアクセス出来、両神山や武甲山、そして秩父市街の展望が良い。長瀞の岩畳の景勝地も近い。日本百低山を歩く登載の山である(同書108頁)。神奈川の葉山アルプス(10.1.11)や日連アルプス(11.9.18)、埼玉の飯能アルプス(14.9.20)も歩いた。

勝浦から館山経由でJR内房線を乗り鉄する

 房総の勝浦宿泊後の復路、外房線か内房線かどちらにするか。私はなんとなしに、外房線は長く、内房線が短く速いと思っていた。スマホで路線検索すると、前者は千葉駅 – 安房鴨川駅間 93.3km駅数27で、後者は蘇我駅 – 木更津駅 – 安房鴨川駅間 119.4 km駅数30とあり、前者が約30 km も短いと知った。昨日からの乗り継ぎで、本日は長いが内房線と弟へ伝えた。実は2年前乗り鉄で房総を一周している(23.1.19)が、記憶が薄い。

 勝浦から安房鴨川へ JR勝浦駅から内房線へ向け、安房鴨川行きに乗車。本日勝浦の朝市は休みという。弟の案内は出来なかった。海を左手に見て走った。行川アイランド駅を通過。レジャーランドは閉園したらしいが駅は残っていた。安房鴨川駅に着いて、木更津行きに乗り換える。内房線の始点である。点在する菜の花や早咲き桜を車窓から眺める。弟に倣ってカメラを向けたがどうだろう。館山駅迄も30分程要した。館山は主要都市で、内房線の終点と思っていたが違っていた。私は、房の大山(12.2.26)や館山城址 (14.10.19)と数度当地を歩いている。今回も、岬の安房一之宮社の訪問も考えていたが、バスの便が悪く時間がない。停車中、弟は、海側の椰子の樹に興味を示した。

 東京湾沿いに 長い内房線が始まった。左手の東京湾沿いに冨浦、岩井を過ぎて浜金谷。対岸の久里浜へフェリーが出ているが、湘南に住む弟はこのルートもあろうが、私にはメリットはない。右手の山は鋸山だろう。弟は、孫の一人が県立の進学校に合格したと喜んで、話した。私も、東京の三番目の孫がМ大、北海道の三番目の孫が町田のO大と伝えた。我々はそんな年齢になったのだ。木更津駅手前の君津駅で、逗子行き快速に乗り継いだ。蘇我駅を通過し、昨日下った外房線への分岐の駅で、房総半島を一周したことになった。                                                    
 12時を過ぎ千葉駅で昼飯を求め、私はサンドイッチにした。直ぐまた逗子行きが来た。成田空港発の総武本線で、少し混んでいる。我が乗り鉄の旅も最終版で、江戸川を渡って都内へ入り、錦糸町駅で新宿へ向かう弟と、水道橋下車の私と別れた。二日間お疲れ様、いつものお土産ありがとうございました。(2025/3/28 K.K.1595)

◇日時 2025/3/12 ◇天候 曇り時々小雨 ◇交通費 1980円 ◇歩行距離等 3000歩 3㎞                                                        「通過時間等」 宿泊先8:26-JR勝浦駅8:40-同安房鴨川駅9:40-館山10:38-同君津駅11:50-同千葉駅12:50-同錦糸町駅13:26-三田線水道橋駅13:52-自宅先14:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「雪の浅間山を遠望した奥武蔵丸山」

 秩父芦ヶ久保から登る丸山はハイカーには人気のある山のようで、ガイド誌には屡々登場する。手許の山と渓谷社「首都圏ハイキング 秋冬号」や藤本一美外「展望山旅」でも、展望の良い山として紹介されている。これまでも登ろうとしたが果たせず、今年の目標の山の一つとしていた。実はおよそ30年前に一度、家内やかぼちゃ会のメンバーと登った(66.4.17)のだが、現在では記憶は薄れて思い出に残る風景などはない。当時西武池袋線は吾野まででその先はバスを利用したと思う。
 大野峠先から見た山はやはり丸い山であった。そして、奥武蔵の最高峰 (960m)と知った。

 大野峠 芦ヶ久保駅で降り、赤谷を経て大野峠を目指した。大野峠は分岐点で、丸山は左の方向だが、刈場坂峠から来た関東ふれあいの道・埼玉県12「グリーンラインに沿ったみち」は右折し、高篠峠、白石峠から東秩父村に下りる。ふれあいの道を歩いた時はコースを逆に採り大野峠で休憩したのだった(96.9.29)。赤谷から2 度沢を渡ると、杉林の中の急坂になり、久しぶりの山に喘ぎながらどうにか峠に辿り着いた。定峰峠までという高年ハイカーと一緒のペースであったが峠手前では小生が遅れて、引き離されてしまった。

 展望 丸山の頂上には立派な展望台があった。何と野暮なと思ったが上がってみると、武甲山は指呼の距離。両神山は相変わらずの異様な岩山。その右に浅間山が見えるではないか。雪を抱いた白い山は山容からして浅間山に違いない。早速地図で確認した。さらに右手奥の高峰は谷川岳だろう。外秩父の登谷山、大霧山は眼下である。笠山、堂平山は大野峠の上でも良く見えた。冬の山は空気が澄んで展望が良い。期待以上に山頂からのパノラマを十分に楽しんだ。

 西武池袋線 朝、西武池袋駅では10 時を過ぎていた。ハイキング電車や西武秩父駅直通電車の時間帯は終わっていたようで、飯能駅で約 30 分待って秩父行きに乗り継いだ。帰りも、芦ヶ久保駅に着くと同時に池袋直通が出てしまい、また飯能で乗り換えに時間を食ってしまった。やはり、山やハイキングは早出が鉄則と教えられた。

 冬の装備 丸山山頂には雪がありしかも凍り付いていて、滑らないように慎重に下った。アイゼンはなくとも済んだが、真冬は持参すべきと反省。防寒対策としては、ヤッケ、番茶を入れたテルモス製魔法瓶、使い捨て懐炉、耳当て付き帽子などを用意した。しかし、夕方には気温が下がり、汗で濡れたダクロン製下着も冷たく、番茶で身体を温めた。下山途中、ストックのゴム製石突き部分が霜柱の中で外れて見失ってしまった。

 地酒など 丸山からあしがくぼ果樹公園村に下りたら、一人道路端で野菜を広げる老婆に出会う。土産に水菜を求めると小さな柚を1 個おまけしてくれた。駅前売店で地酒と漬け物を仕入れてザック入れる。今回も地酒は「武甲正宗・たるざけ」となった。(00/2/5  55/100)

追記 奥武蔵の高山で、やはり展望が良かった。奥武蔵も最奥の秩父手前で、西武池袋線は飯能乗り換えが必要で、結構時間を要した。隣の日向山は4年後に登った(04.2.14)。その後、芦ヶ久保には、氷柱見物に訪ねている(15.2.22)。

JR外房線で御宿月の沙漠へ

 外房の勝浦に宿泊先が確保できた。弟を誘い出掛けようと思う。海を眺めながらのんびり列車旅である。自宅にこもりがちな弟のストレス発散にはどうだろう。私は呑み鉄だが彼は下戸。趣味のカメラを楽しんで欲しい。勝浦手前御宿の海岸に月の沙漠があり、二頭のラクダ像が建っている。砂浜、海岸、大海原と続く。

 千葉から外房線 JR新宿駅に待ち合わせ、弟はいつもの通り30分以上前着き、予定より早めにスタート。お茶の水、錦糸町の各駅で乗り換え、千葉駅で弁当を買い、外房線上総一ノ宮行きに乗った。千葉市内を出て大網を過ぎ、列車は田園地帯を走った。弟は、車窓風景を眺めながら、我が田舎山形の郊外と同じだねと言った。田圃、畑、集落、そして低山の風景である。上総一ノ宮駅で乗り継ぎが悪く、1時間弱待ち時間があった。列車は大原駅を通過し、弟と大多喜城址を見学し(15.9.23)、いすみ鉄道に乗り大原駅経由で帰途に就いたことを思い出した。弟に、左手先は九十九里の海だよと案内したが、見えそうで見えない。

 御宿の月の沙漠へ 14時過ぎ御宿駅に着き下車し、月の沙漠へ案内。私は三度目だ(07.3.31外)が、弟は初めてという、駅前の南国風椰子の並木の下から、海岸へ向け歩いたが、記憶が違い大回りして、月の沙漠へ。駅から直ぐではなかった。王子と王女が乗った二頭の駱駝は変わりなく、太平洋の大海原を望む駱駝像は、静かに佇んでいた。童謡月の沙漠は、1923(大正12)年画家・詩人の加藤まさをが当地の滞在経験からイメージし作詞したらしい。弟は、像の周りでアングルを探しているが、私は一度でOKとした。弟を促し、駅へ戻った。途中の街道には早咲きの桜が咲き満開で、温暖の地である。 御宿から勝浦は一駅。送迎バスで宿泊先に入り、温泉、そして夕食を二人で楽しむ。レストランからの森越しの太平洋の風景が良いと弟はカメラを向けている。リーズナブルな料理だが、弟は美味しいと言ってくれ、私は一人ビールを飲んだ。(2025/3/26 K.K.1594)

◇日時  2025/3/11  ◇天候  曇り  ◇交通費  2170円  ◇歩行距離等  8000歩 6㎞                               「通過時間等」 自宅9:50-JR巣鴨駅10:20-同新宿駅10:50-同お茶の水駅11:03-同錦糸町駅11:14-同千葉駅12:10-同御宿駅14:10=月の沙砂漠14:20=JR御宿駅15:05-同勝浦駅15:55-宿泊先16:10

私が登った百の名山&低山=関東編=「遂に登った展望の山秩父城峯山」

 城峯山を目指す 城峯山(ジョウミネサン)に登った。この山は山歩きを始めた頃からいつかはと常に頭の中にあった山である。一般には知られた山ではないが、ハイカーには良く見聞きする山であろう。手許の資料でも、浅野外「関東百山」(実業之日本社 170 頁)、藤本・田代編「展望の山旅」(実業之日本社 32 頁)、浅野編「中高年の山ベストコース 東京周辺」(山と渓谷社 52 頁)のいずれにも展望の良い山として紹介されている。小生が歩き続けている関東ふれあいの道(埼玉県9将門伝説を探るみち)にもなっている。今年の目標の山であり、先に登った破風山(99.5.15)は城峯山へのアプローチを確かめる意味もあったのだ。

 皆野駅からバス 破風山の時と同様に、秩父鉄道皆野駅から町営バスで山に入った。登山口門平(カドダイラ)にある江戸時代の高札場跡はバスの中から眺めた。埼玉県皆野町西門平から歩き初めた。約500mの登りは 2時間弱と見当を付けたがやや早いペースであろうか。緩やかな上りの道は歩きやすかった。林道を過ぎ、杉林に入り沢と分かれて再び度林道を横切り、鉄塔の下で丁度10時であった。鐘掛城跡は小ピークであり、巻道もあったがコース通りに上る。同城は当地の豪族達が甲斐武田方の侵攻に備えた砦の一つであったようであるが、往時を忍ぶものは何もなかった。城跡からふれあいの道特有の木の階段を下ると尾根道となり、足下には草花が咲き、北側には展望が開け群馬県方面の人家が眺められた。

 石間峠そして山頂 林道の通る石間峠は車で乗り付けた若者達が昼食の支度をしていた。峠から山頂は僅か 15分。1時間40分で山頂(1037m)を究め11 時ジャストに城峯山一等三角点を踏んだ。休憩時間も入れてであるからまあまあであろう。早速鉄塔の展望台に上がり360度の眺望を楽しむも雲が邪魔して遠望は得られない。赤城山や榛名山は確認できたが、両神山は見えない。笠山、堂平山はいつもとは反対の方向から眺めたことになる。
 平将門が隠れたという岩場を下から見上げ、城峯神社に詣でる。山上の神社としては神楽殿まである立派な社。杉並木の参道は歴史を感じさせた。

 群馬県側へ下山 再度石間峠に戻り、ふれあいの道に従って群馬県側に下り、途中の埼玉県神泉村宇那室バス停で今回の山歩きを終えた。バス停には 13 時に着き、3分後に午後2便の村営バスが来てラッキーだったが、八高線丹荘駅では電車が出た直後で1時間待つ羽目に。
 前日の土曜日は天気予報通り雨。本日は期待通り梅雨の合間の晴天となった。杉林の中の上りでは蒸し暑くて足がだるく感じ、大量の汗が吹き出た。日頃のアルコールが一気に抜け、体重も少しは減ったろうから、一挙両得の山歩きであった。(99/07/04 54/100)

追 記 城峯山は、埼玉も最奥の群馬県境にある山で、日本百低山登載の山である(同書148頁)。東上線、秩父鉄道そしてバスで登山口であった。下山は群馬側にし、またバス、八高線であった。バスの連絡は直ぐであったが、八高線の丹荘駅では約1時間待った。その後、近くの山に登ったのは陣見山(08.11.1)だけである。

品川蛇窪神社、目黒安養院を訪ねる

 今年の干支は巳年の蛇の年で、初詣先にそのような神社をネット検索したら、品川の蛇窪神社がヒットした。そう遠くはなく、参拝しようとしたが、混雑している模様がネットからも伝わった。初詣は近くの区内三社で済ませた。そろそろどうかと、訪ねることにした。隣の目黒区の寺院に故八代亜紀の像が建立されたと知り、寄ることにした。約1年前急死された。

 混み合う蛇窪神社 蛇窪神社の最寄り駅は、都営浅草線の中延駅と分かり、三田線から泉岳寺駅で乗り換えれば一本である。久しぶりの泉岳寺駅だったが、中延駅は近く10分程で着いた。当地は初めての地で、持参した地図を見て、第二国道沿いに歩く。元首相が大磯と官邸を往復したワンマン道路と呼ばれた国道であったろうか。交差点手前を住宅街へ左折し、回り込むと蛇窪神社前であった。境内は参拝者で混み合い、お祭りのようである。列をなしている社殿前を避け、奥へ入ると白蛇弁財天社があり、僅かな賽銭を入れ、手を合わせた。入口の両側には白蛇の像がある。蛇窪龍神社の撫で蛇像をカメラに収めた。社殿前へ戻り、頭を垂れ孫たちの成長をお願いした。彼らの進路先も決まったようだ。

 東急大井町線、目黒線 未だ人出がある境内を出て、中延駅へと向かったが方向が違いまた第二国道へ出て、浅草線中延駅構内から、東急大井町線中延駅を探した。東急大井町線は縁がなく初めての乗車と思う。品川の住宅街だが下町のような風景が続く。旗の台駅を通過し、一昔前当地にお住いの方がおられ親しい方であったが音信不通になり、施設に入られたと聞こえて来た。大岡山駅で東急目黒線に乗り換える。駅構内は見覚えがあり、某大学大岡山キャンパスへ2年通ったからだ。

 安養寺八代像 不動前駅に下車。安養院に建つ八代亜紀の像を訪ねる。駅前商店を抜け大通りへ出て、坂道を上がり、交差点を右折し、少し歩いた右側が目指す寺院であった。大きな寺院で、本堂の前に八代像はあり、等身大で、雨の慕情を唄う姿である。                              私は夕方暇つぶしにYouTubeで歌を聴いている。八代演歌は多い。舟唄、雨の慕情、愛の終着駅等ヒット曲は多数あり、そんな中で、なみだ恋が良い。熊本八代から上京しクラブ歌手を経た苦節十年の最初のヒット曲だろう。彼女は絵も玄人はだしであった。早世は惜しまれる。像をカメラに収め、寺前バス停から五反田駅行きのバスに乗った。(2025/3/9 K.K.1593)

◇日時 2025/3/7 ◇天候 晴 ◇交通費 180円 ◇資料 昭文社「東京都市図 馬込 武蔵小山」2004 ◇歩行距離等 9000歩 6㎞                                     「通過時間等」 自宅8:40-都営浅草線泉岳寺駅9:47-同中延駅10:00=蛇窪神社10:05/10:25=東急大井町線中延駅10:44-東急目黒線大岡山駅10:57-同不動前駅11:05=安養院11:25/11:42-都営浅草線五反田駅12:00-三田線三田駅12:15-自宅13:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「比企三山・笠山、堂平山をミニ縦走する」

 笠山、堂平山に登る。両山は、大霧山と列び埼玉県比企三山を構成し、外秩父の名山に数えられている。大霧山にはこれまで2度登り、次ぎは笠山から堂平山を狙っていた。
 笠山はその名の通り山容が笠に似ていることから名付けられたようで、特徴ある笠山の姿は大霧山の下山途中や東上線小川町駅手前からも見分けられた。笠山、堂平山への登山ルートは色々あるが、我々は東秩父村皆谷から上り始め、白石に下りる。外秩父の山は林道が山頂付近まで設けられており、懸命に登ったのに林道へ出るという興ざめコースが多い。笠山、堂平山も同様であった。

 秋晴れの日 前日の雨が嘘のように秋晴れの一日となり、出掛けの東上線の車窓から真っ白い大きな富士が見られ幸先のよいスタートを切った。案に違わず、笠山からは近くの大霧山の麓で放牧中の牛が眺められ、また遠くは両神山の先に山並みが連なり、剣ケ峰では奥多摩から丹沢方面の山々がシルエットの如く浮かんで見えた。東方が開けた堂平山では期待した筑波山は望めず、残念ながら遥か雲の彼方であった。季節的には秋も盛りの時期だが外秩父山中は未だ紅葉には早く、道に落ちた山栗やどんぐりだけが晩秋を窺わせた。

 笠山から堂平山 皆谷から笠山までは1時間 20分を要しほぼコースタイム通り上る。ジグザグ林道をショートカットする近道を利用し、時々立ち止まっては大霧山方面の展望を楽しみ、休憩は一本松の先で取ったのみ。
 笠山山頂(837m)からは簡単な岩場をこなして笠山神社を往復。隣に立つ社務所が無惨な姿で廃屋になっていたのが何故か印象に残る。
 笠山から急斜面を下って一旦笠山峠に下り、林の中の泥沢を上り返すと堂平山。山頂(876.8m)には東京天文台の施設が設けられ、日曜日にもかかわらず開門されていて、大勢のハイカーが芝生で昼食を取っていた。我々も仲間に入り、秋の日の下で持参した弁当を開く。

 歩いたことのあるコース いつもより長めの昼食休憩を取った後、剣ケ峰(876m)、白石峠を経由して白石のバス停に下りる。峠からバス停までは逆に2度上ったコース。その時は緩やかな上りの小径と思ったが、これが結構急な下りが続く山道。上りと下りでは目の位置が違うのだろう。景色も違う。前日までの雨のせいで激流となって走る谷川沿いの道を進み、峠からの下りに45分を要す。先に上った時は50分程の記憶であり、ひたすら下ってもそう差がないと思い帰宅後調べたら上りには 1時間弱を要していた。バスを待つ間に、側のそば屋に入り冷たい麦酒を求めて喉を潤す。名物手打ちそばは次回の楽しみに回した。
 Kさんとはいつものように東上線川越駅で合流する。彼は前日の野球の疲れを見せずに終始元気に歩き通した。Kさんまたお願いします。今後はルートや季節を変えて歩き新たな発見を楽しもうと思う。(98/10/25 53/100)

追記 笠山・堂平山コースを歩いた。日本百低山(同書152頁)や日本百低山を歩く(同書107頁)登載の山である。これで、二本木峠・皇鈴山(94.12.4)、大霧山(96.9.16,98.5.31)、物見山・笛吹峠(97.6.28)、鎌北湖(97.9.6,98.7.4)、一本杉峠(97.11.3)、大高取山・桂木観音(97.11.3,98.4.30)、金勝山・官ノ倉山(97.12.27)、鐘撞山(98.2.14)、仙元山・和紙の里(98.2.21)、宿谷の滝(98.3.7)、ポンポン山(98.5.24)と東武鉄道が推奨する外秩父ハイキングコースのすべてを歩いたこととなった。私にはホームグランド奥武蔵の山々でもある。

池袋、目白、学習院大下を歩く

  寒暖を繰り返し春は遠い。天気予報から暖かい日を選んで歩いた。“我がまち再発見東京・目白編”(25.2.6,13讀賣夕刊)コースで、池袋から目白へ出て、学習院下を通り、都電荒川線踏切を渡って目白不動尊へである。都心も城西の豊島区内で、スタート地の池袋駅西口へ三田線板橋本町駅前からバスにし、30分で着いた。10日前珍しく池袋で友人の送別会があり、来たばかりである。

 池袋駅西口をスタート 西口から南へと歩く。初めての地かなとキョロキョロしながら進み、メトロポリタンホテル前で、住宅街へ左折すると山勘が当たり、自由学園の案内を見付け入口へ回った。同学園明日館は羽仁もとこが1921年に創設した女学校で、あの有名な帝国ホテルを設計したフランク ロイド ライトの設計で、重文とある。校門から眺め校舎をカメラに収めた。住宅街をウロウロしていたら上り屋敷公園がありUターンし、屋敷街を抜けて、西武池袋線踏切を渡る。高架ではない。

 目白庭園、下落合 踏切の先が豊島区立目白庭園で、思い出した。帰宅後調べると25年前訪ねていた(00.5.14)。小さな池を半周して、JR目白駅へ寄る。駅前の案内板で、次の旧近衛邸のケヤキへのルートを確かめる。目白通りを左折すると高級住宅街の下落合。歩きながら目白庭園からおとめ山へはここを奥へ進んだとの僅かな記憶である。件のケヤキは道路の真ん中にあったが、この時期葉はなく裸樹状態。カメラを縦長にして写した。山手線方向へ左折し線路沿いに坂を下り、高架下潜ると土手下で、学習院下の通りで、初めての地であった。高台の校舎は見えない。

 目白不動尊 少し歩いて明治通りから都電荒川線踏切を渡り、缶カンコーヒを求め休憩。本日は予報通り暖かく寒さは感じない。最後の目白不動尊金乗院は近かった。目白区のネーミングの由来が当院とある。境内へ入って金乗院に参拝。孫の合格発表があり御礼を申し上げた。右手の高台の小振りなお堂が目白不動尊のようで、急な階段上下して手を合わせた。由井正雪の乱首謀者の一人丸橋忠弥の墓があるとの案内があった。都電荒川線踏切へ戻り、学習院下駅で都電を待った。荒川線は時々利用しているが、当駅からの乗車はこれまでないと思う。(2025/3/14K.K.1592)

◇日時 2025/2/26 ◇天候 晴 ◇資料 “我がまち再発見”「東京目白編」((25.2.6,13讀賣夕刊) ◇歩行距離等 11000歩 8㎞                                          「通過時間等」 自宅8:50-三田線板橋本町駅9:35-池袋駅西口10:05=自由学園明日館10:20=上り屋敷公園10:30=目白庭園10:40=JR目白駅10:50=旧近衛邸ケヤキ11:00=学習院下11:15=都電荒川線踏切11:30=目白不動尊金城院11:35=都電荒川線学習院下駅11:45-三田線西巣鴨駅12:06-自宅12:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「外秩父・大霧山に連なる三峠を歩く」

 九月の最初の連休を利用して、関東ふれあいの道を歩く。自宅から近い埼玉県コースの中で、やや軽いコースを選ぶ。関東ふれあいの道埼玉県5コースで、武村岳男著の資料によったが、歩いてみて決して軽くはなく(他の資料等には健脚向きとあった。)、しかも所要時間もいつものように大分違うようだ。家内が同行しなかったのは結果オーライか。

 小川町駅から白石へ 東武鉄道東上線、バスを利用して、起点白石バス車庫に出る。白石峠までは上りの道が続く。途中までは沢伝い。峠からの次の上り口は急な直登の木の階段。わずかな区間であるが上り難く往生する。すぐ尾根道となり、粥新田峠までは上り下りのある尾根道。同峠からは時間を節約して橋場に下りて、小川町駅に戻った。

 大霧山で展望を 前半の下りは先日の雨が乾ききっていない壁土状の道が多く、滑らないように注意を払うが二、三度滑り掛ける。大半は展望のない林の中の道で、汗が冷たく感じる。大霧山(766.6m)では西北方向が開け展望を楽しむ。案内板によれば、浅間山、仙ノ倉山まで見えるとあるが確認できないのが残念。誰がどうやって確認したのかといつも思う。粥新田峠からの下りの前半は農産物の無人スタンドがある山の静かな集落の中の道、後半は舗装の県道。カーブを右に左に車を避けて、ショートカット。後で地図をみると別に登山道があったようだが気付かなかった。

 峠を上下 白石峠は広い舗装道路で、季節の売店が出ていて果物等を売っていた。立派な茶店が二、三軒ある定蜂峠は小さな観光地並み。若者がバイクで上って来た。山中の鞍部で登山道が交差する点が旧定蜂峠。標柱がなければ見逃しそう。ハイカー以外は希に獣が通るのみか。最後に通った粥新田峠は江戸時代には秩父から川越に出る主要なルートであったようだが、現在では寂れた感じのする山の狭い峠。休憩中も人一人、車一台通過しなかった。

 食事は自前 昼食は、疲れが出た定峰峠からの上りの途中で取る。今回は自分で作ったおにぎりに、例のストーブでレトルトの豚汁を温めて食べ、一人で楽しむ。休憩時にはチョコレート、ビスケットやオレンジで疲れを癒した。豚汁及び鍋等に、そのための水と欲張ったため、ザックが重く、上りでいつもより早く疲れが出てしまったようだ。
 しかし、今回も、緑の林の中の道や周辺に咲く野の花、獅子岩、牧場の牛、大霧山からの展望、静かな山村等と外秩父の自然や風景に触れ、休日にかかわらず出会うハイカーが少なくて静かな山歩きを楽しむことができ、きっとまたリフレッシュできたことであろう。地酒は小川町で「青雲」を求めた。(96/9/17 52 /100)

追 記 大霧山は2年後に再登した(98.5.31)。近所の仲間と一緒であった。東武東上線小川町駅からバスで、奥武蔵の山と思っていたが、正確には外秩父の山とある。これら山域は自称ホームグランドであるが、東秩父の天空のポピー高原(19.6.2)以来、最近ご無沙汰で記憶は霞んでしまった。大霧山は日本百低山を歩く登載の山である(同書102頁)。

隅田川河口月島から門前仲町へ歩く

 久振りに月島から佃を訪ね、門前仲町へ歩くことにした。中央区の月島は隅田川の河口で、広い運河もある。その奥晴海にあるキャンパスには10年以上通い、月島にも寄って、広い隅田川を眺めたことがある。私の好みの“我がまち再発見”が東京隅田川テラス編(25.5.16讀賣夕刊)で、私の里歩き心を惹き付けた。月島、佃は埋立地である。

 佃島の歴史 地下鉄大江戸線を月島駅に降りると記憶を呼び戻し、構内通路から佃へと迷わず歩いた。狭い路地を抜けると小さな運河があり、波除稲荷前へ出た。孫の一人が受験中で、ご加護をお願いした。橋を渡った左手が、名産佃煮の販売店街で、私の知る三店舗が営業中。当地は佃煮発祥の地である。先へ行き住吉神社に参拝。大阪摂津の住吉神社の分霊が起源とある。それは、家康が安土から堺の旅の途中本能寺の変が起こり、急遽伊賀越えをして岡崎へ逃げ帰ったが、この時大阪湾河川の渡船で援助したのが摂津佃の漁民で、江戸に幕府を開いた家康が招いて佃島に住まわせ江戸湾の一部に漁業権等を与え保護したと伝わるという。そんな話を思い出しながら、隅田川沿いの佃公園へ上がり、隅田川は広く、流れが見えない。一隻の遊覧船が遡上した。

 中央大橋、相生橋 隅田川に架かる長い中央大橋は渡り掛けたが長く、途中で戻った。石川島公園を歩く。確か石川島造船所があった地だが、現在は高層団地である。対岸を眺め思い出した。前勤務先の納涼会で、屋形船に乗り東京湾の花火大会を楽しんだ。その時乗船したのが向かいの越中島乗船場であった(10.8.4)。記録を引っ張り出したら、厩橋から隅田川を下り、中央大橋や次の相生橋を渡っていた。相生橋で晴海運河を渡ったが、初めてのようで何ら記憶は蘇らない。15年前では致し方がないか。                

 門前仲町へ 渡り終えた右側が東京海洋大で、明治丸が展示してあるのは知っていた。明治初期我が国の発注で、イギリスで造船された鉄船であり、重文という。元商船大学の実習でも使われ、遠戚で読者の一人は卒業生。永代通りの交差点迄は距離があり、大横川を渡り、古い火の見櫓を見て、門仲駅前であった。それでも、旧友との待ち合わせ時間には間に合った。(2025/3/8 K.K. 1591)

◇日時 2025/2/16 ◇天候 晴  ◇資料 “我がまち再発見”「東京隅田川テラス編上」(25.5.16讀賣夕刊) ◇歩行距離等 10000歩 7㎞                                     「通過時間等」 自宅9:45-大江戸線春日駅10:28-同月島駅10:55=波除稲荷神社11:00=住吉神社11:05=中央大橋11:20=相生橋11:40=門前仲町(昼食)11:55/12:50-大江戸線門前仲町駅13:03-三田線春日駅13:28-自宅14:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「憧れの清滝小屋に泊まり両神山に登る」

 両神大谷口から入山 両神村日向大谷口から登る。秩父山中は深く、市街地から日向大谷口までバスで一時間以上を要した。バスを降りて舗装道路を30分程歩くと登山口。女子大生のパーティと一緒になる。山腹に付けられた細い山道を上る。両神山は人気の山で、登山道は整備されて広いと思ったが、意外と狭い普通の山道。道端の随所に石碑があり、Y君が興味を示す。会所に到着し、谷川に下りて昼食。

 たちや堀までは、谷川沿いの緩やかな上り。木々の緑が鮮やかである。白い可憐な花は、確か二輪草だろう。たちや堀での休憩時、これからはきつい上りと、M君が地図で読んだがそのとおりとなる。八海山の途中で下山する大勢のパーティに会い、道を空けて待って貰っている間を上るのがまたきつい。弘法ノ井戸に到着して休憩。一筋の清水が出ていて喉を潤す。この辺の林はまだ芽吹いたばかりで緑には程遠く、高度が高いことを示している。再びきつい上りをこなして清滝小屋に到着。火事で全焼後再建された小屋は立派なもの。

 清滝小屋に一泊 明日の天気予報が雨のため、今日中に登頂すべきかを検討したが、予定通りとMリーダーが決断する。早速、外へ出て自然を楽しみながら、途中駅で求めた地酒とM君持参のウィスキーを飲む。小屋の回りにはテントが張ってあり大勢の登山客で賑わっている。意外と寒くセーターを着る。6時前に夕食を済ませ、7時前には寝る。小屋はそれ程には混んでいない様子。
 5時起床、外は小雨。朝食後、雨具を着、スパッツを付けて出発。小屋のすぐ後ろからきつい上りの連続。雨は次第に霧雨となり、その後止む。木の根と岩とで登り難い林の中の上りの道を、小生がトップで懸命に進む。鎖場で、M君に足場を固めてから鎖を使えとのアドバイスを受ける。途中、なんでこんなにして迄登るのだろうかとの思いが頭を過ぎる。“ブオー”“ブオー”と鳥の鳴き声。もしかしたら仏法僧ではと耳を澄ます。今朝、小屋の管理人に聞いたら、もう鳴き始めてもいい時期と教えてくれた。清滝小屋は仏法僧でも知られ、数年前にその新聞記事を読んでから一度は訪れたいと思っていた。少し鳴き声が違うようだなと考えていたら、道は平らになり、両神神社の奥社到着。予定よりだいぶ速いようだ。休憩をして雨具を脱ぐ。

 無事登頂 頂上までは、ほぼ平らな道。2カ所程鎖場があったがたいしたことはなく、無事、登頂(1,723m)。頂上は思ったより広く、既に先客5人程が休んでいた。富士山から筑波山まで見渡せるというが、残念ながら展望はない。雨が止んだだけでもラッキーか。
 白井差口を目指して下山開始。両神神社までは上りと同じ道。その後急坂となり、雨後のドロ道を慎重に下る。のぞきを覗くのを忘れ、次回の楽しみにする。急降下が連続し、一位ガタワ、御手洗場を通過。上りとしては、日向大谷ルートより白井差ルートの方が大変のようだ。途中、ヤシオツツジを見付ける。濃いピンクの花が奇麗だが、まだ時期が早いようで、ほんの一咲きの様子。

 バスに間に合う 道も次第に良くなり、昇竜ノ滝到着。残りの距離を考えるとバスの時間が迫っていることを知り、急ぐ。白井差を通過して、舗装道路。緑が重なる奇麗な谷間の道を速足で下って、白井差口のバス停。どうにかバスに間に合う。小屋でも頂上でも一緒になった男、女の登山者は既に着いていた。村営バスを乗り継いで、秩父鉄道三蜂口駅到着。ここからは、Y君の先導で三峰神社に参拝し、その後帰宅する。 
 今回は清滝小屋に泊まって両神山、以前から憧れていた山行が実現できた。計画段階からリーダーを務めてくれたM君、同行のY君に感謝しなければならない。(95/5/2,3 51 /100)

追記 両神山は、百名山であるが、私には仏法僧の鳴き声が聞ける山小屋でも惹かれていた。それが双方とも実現した。埼玉も群馬県境の高山は、私には難度の高い険しい上下でもあった。下りでは私のゆっくりペースで遅れ、バス停へと駆けたのを覚えている。日向大谷口は、約30年後偶然再訪し(23.10.5)、僅かな記憶が蘇った。

金沢文庫から金沢八景へ歴史の道を歩く

“鎌倉殿ゆかりの寺社めぐり”の歴史の道案内記事(22.2.6しんぶん赤旗日曜版)を入手して、いつ歩こうかと思案していた。その中の称名寺は訪ねたことがある(02.2.11)。調べると20年以上も前のことであった。金沢文庫に近い鎌倉に住むWさんを誘いOKを貰った。1度鎌倉の化粧坂切通しを歩いたことがある(23.2.18)。若い上にランニングを続けて元気な方である。

 再訪の称名寺 京浜急行金沢文庫駅に着いたら、Wさん先着し待っておられた。駅出口に案内図はなく、僅かな記憶で町屋から住宅街を称名寺方向へと歩く。途中寺の屋根らしき風景を見付け近づいたが、県立金沢文庫であった。その奥が目指す寺院で、小さなトンネルを抜けると広大な境内は、池を中心とした庭園であった。金堂と呼ばれる本堂前へ進み参拝。今年も受験生の孫がいて神頼み。池に架かる平橋、反り橋を渡り、大きな仁王門。称名寺は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の弟、実泰(金沢北条氏)が菩提寺として、1241(仁治2)年頃に建立した古刹である。それが往時の儘800年後も遺っているのであろうか。

 紅梅咲く古刹を巡る 表参道の赤門を過ぎて歴史の道となり、左手が薬王寺で、頼朝の弟範頼ゆかりの寺とある。少し歩くと右手が金沢八幡神社。誰もいない境内から本殿前へ出て手を合わせた。左手の寺院へ寄ろうと奥へ入ると、令和の杜の先が安立寺で、鐘楼の傍にピンクも濃い紅梅が咲いていた。やっぱり春は来ていると、カメラに収めた。Wさんも眺めている。そろそろ休憩かなと思いながらも場所がない。Wさんも疲れた様子はなく、先へと歩き続ける。龍華寺に至り、また本堂前で頭を下げる。大きなソテツがあり、当地は温暖の地なのかなとシャッターを切った。

 金沢文庫へ 歴史の道がやや右方向からT字路となり、右手に憲法草創之処の碑があった。1888(明治20)年、伊藤博文達が明治憲法の草案造りをした料理屋があった地という。この近くの野島に博文の別邸があったのだ。左手は平潟湾で金沢八景。左手に琵琶島神社、右手に瀬戸神社があり、京浜急行八景駅に着いた。駅前飲食店で、生ビールで乾杯し、昼食とした。今回は金沢文庫の社寺を巡りながら歴史の道を歩いた。13000歩、10㎞で最近にない距離で、Wさんのお陰である。昼のビールは美味であった。(2025/2/28 K.K. 1590)

◇日時 2025/1/31 ◇天候 晴 ◇資料 「鎌倉殿ゆかりの寺社めぐり」(22.2.6しんぶん赤旗日曜版) ◇交通費 1140円 ◇歩行距離等 13000歩 10㎞                          「通過時間等」 自宅7:50-京急三田駅9:05-同金沢文庫駅10:00=称名寺10:40=金沢八幡神社11:00=安立寺11:10-龍華寺11:20=憲法草創地の碑11:30=金沢文庫(昼食)11:45/12:15=瀬戸神社12:30=京急金沢八景駅12:52-三田線三田駅13:45-自宅14:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「長丁場にバテテしまった伊豆ケ岳から子ノ権現」

 里山は未だ早春 西武線正丸駅をスタート。天候は、良く晴れて、風もなく、さわやかな日で、山里では、桜が八分程度の見頃に加え梅が満開であり、谷川沿いに点在する農家の庭先にはつつじ、水仙等の花々が咲き乱れる一方、山中の木々は、まだ芽吹いたばかりで、その中で静かな山歩きを楽しみ、また林道沿いの林の中で、うぐいすの声を開いた。

 伊豆ケ岳登頂 中年の婦人ハイカーと前後して上るも、我々のぺースが一定でないため、兎と亀の格好となって、追い付いたり追い抜かれたりした。また、途中から他のハイカーと一緒になって、子ノ権現までの連続するピークを越した。
 伊豆ケ岳(850m)の頂上は、展望が良くて360度見渡せ、武川岳、武甲山等を確認できたが、雪に覆われたような2,000m級の山は見えなかった。また、伊豆ケ岳頂上の直前に鎖場があり、それ程厳しくはなかったが、長い鎖場で、この程度の山では珍しいのでなかろうか。思ったよりハイカーは少なく、伊豆ケ岳の頂上でも、4、5組、1 0人程度が昼食を取っていた。

 水なしとなる 途中で持参の水を飲み尽くし、子ノ権現の寺に期待したが同寺も水不足との掲示があり、結局、門前の茶店で缶ビールを頼み、ついでにお茶を飲んだ。今後は持参する水の量を多くしなければならない、と反省する。同寺で、記念に手書きの絵馬(1,500円)を求めた。
 子ノ権現からの下りの途中で、上ってくるおばあさんの一行に出会う。声を掛けたら全員80歳のグループだと言う。元気の良さには驚いたが、既に15時過ぎで、他人事ながら帰りの時間が気になった。伊豆ケ岳の頂上で、下山は16時頃と予想したが、予定時間の少し前に、西武線吾野駅に着いた。同駅は30年振り位か。すぐ急行が来て、17時過ぎには池袋駅に到着し、今回も早めに帰宅出来た。タマに水を汲まなかった。

 反省 疲れた。予想より上り下りがきつく、しかも行程が長かった。特に、伊豆ケ岳への上りの半ばの、杉林を過ぎて尾根に出るまでの上りが相当に厳しく、また、天目指峠から子ノ権現までは、起伏が激しいピークが四つ程あり、最後の上りかと思うとまた上りが続き、気分的にも滅入った。結局、休憩時間を入れて約6時間を歩き通し、今年では最長のハイキングとなった。(95/4/18 50/100)

追記 奥武蔵の伊豆ケ岳は、初心者の私には本格的な山歩きであった。関東ふれあいの道埼玉県3コースで、日本百低山にも選ばれている(「日本百低山を歩く」99頁)。Nさんと同行した。彼女はタフで元気に歩き通した。その後も、多摩の山々も歩いた。しかし、難病を患い早世された。残念であった。10年後、武川山から下山途中に伊豆ケ岳への登山口を通った(05.12.11)。

都内谷中銀座から舎人ライナーに乗る

 JR西日暮里駅集合の案内があった。中学同級生と久しぶりの再会である。コロナ禍でご無沙汰していたが、メールのやりとりはしていた。互いに傘寿を迎え先は長くはなく、元気なうちは交友したい。JR巣鴨駅へ出て、山手線に乗り日暮里駅に降りると、A君が待っていた。ほどなくB君も見えて三人揃った。高卒後上京し皆大学は出たが、苦学生である。

 谷中銀座へ 日暮里駅西口から谷中方面へ歩いた。坂を上がり台地へ出て、右手に古刹があり経王寺で、二人を案内した。幕末の上野戦争で、彰義隊が逃げ込み、新政府軍が鉄砲を打ち込み門の扉に数個の弾痕が遺る(写真は荒川区サイトより)。約150年前の1868(慶応4)年ことで、二人も確かめた。坂を下り谷中銀座へ。この辺り、夕焼けだんだんと呼ばれていると思うが案内は見当たらない。銀座通りを下り続ける。両側は食品店中心の下町の商店街。私は、1,2度歩いたが、賑わいが今一だ。まだ午前中だからか。銀座通りを出た先の喫茶店に入る。

 思い出話 二人は私が送った昨年10月の故郷であった芋煮会の写真を持参していた。彼らは私よりご無沙汰のようで、ほとんどの参加者は不明で、女性陣は分からないという。私が名前を告げると思い出し、中学時代のエピソードも紹介してくれ、話が弾んだ。日暮里駅へ戻り、飲食店で昼食し、思い出話は続いた。二人は陸上が得意で、郡大会や県大会へも出場したと思う。私も県大会1回戦のプレーで、先生に褒められた思い出を話してしまった。A君と同じ部活であった。13時を過ぎ、再会を約し、駅前で別れた。ビール付昼食を二人に御馳走になってしまった。ありがとうございました。

 舎人ライナーから眺めた山々 私は時間があり、舎人ライナー日暮里駅へ上がり、乗車。2008(平成20)年開業の高架鉄道で、約10km13駅のコンピュータ制御路線である。終点見沼代親水公園駅迄は一度乗ったことはあろうか。東側を眺めながら乗る。ビル街が切れたら、隅田川、荒川を渡り、住宅街となって先の寺院は西新井薬師か。舎人中央公園の上となる。昨春ネモフィラ鑑賞に来た。終点に着いたがそのままUターンし、席を移し西側を眺めた。荒川を渡る手前辺りで、都内の市街地の最奥に低山が見えた。えっ!、大遠望である。多摩の連山かそれとも奥武蔵の山々か。山歩きのホームグランドである、ダメもとでカメラのシャッターを切った。快晴下の広い関東平野と高架鉄道組み合わせの賜物か。熊野前駅に降り、荒川線に乗り換えた。(2025/2/18 K.K. 1589)

◇日時 2025/1/26 ◇天候 晴 ◇歩行距離等 7000歩 5㎞
「通過時間等」 自宅8:50-JR日暮里駅9:50=谷中銀座10:30=日暮里駅前昼食11:30/13:00=舎人ライナー日暮里駅13:28-同見沼代親水公園駅13:52-荒川線熊野前駅14:13-三田線西巣鴨駅14:45-自宅15:20