品川蛇窪神社、目黒安養院を訪ねる

 今年の干支は巳年の蛇の年で、初詣先にそのような神社をネット検索したら、品川の蛇窪神社がヒットした。そう遠くはなく、参拝しようとしたが、混雑している模様がネットからも伝わった。初詣は近くの区内三社で済ませた。そろそろどうかと、訪ねることにした。隣の目黒区の寺院に故八代亜紀の像が建立されたと知り、寄ることにした。約1年前急死された。

 混み合う蛇窪神社 蛇窪神社の最寄り駅は、都営浅草線の中延駅と分かり、三田線から泉岳寺駅で乗り換えれば一本である。久しぶりの泉岳寺駅だったが、中延駅は近く10分程で着いた。当地は初めての地で、持参した地図を見て、第二国道沿いに歩く。元首相が大磯と官邸を往復したワンマン道路と呼ばれた国道であったろうか。交差点手前を住宅街へ左折し、回り込むと蛇窪神社前であった。境内は参拝者で混み合い、お祭りのようである。列をなしている社殿前を避け、奥へ入ると白蛇弁財天社があり、僅かな賽銭を入れ、手を合わせた。入口の両側には白蛇の像がある。蛇窪龍神社の撫で蛇像をカメラに収めた。社殿前へ戻り、頭を垂れ孫たちの成長をお願いした。彼らの進路先も決まったようだ。

 東急大井町線、目黒線 未だ人出がある境内を出て、中延駅へと向かったが方向が違いまた第二国道へ出て、浅草線中延駅構内から、東急大井町線中延駅を探した。東急大井町線は縁がなく初めての乗車と思う。品川の住宅街だが下町のような風景が続く。旗の台駅を通過し、一昔前当地にお住いの方がおられ親しい方であったが音信不通になり、施設に入られたと聞こえて来た。大岡山駅で東急目黒線に乗り換える。駅構内は見覚えがあり、某大学大岡山キャンパスへ2年通ったからだ。

 安養寺八代像 不動前駅に下車。安養院に建つ八代亜紀の像を訪ねる。駅前商店を抜け大通りへ出て、坂道を上がり、交差点を右折し、少し歩いた右側が目指す寺院であった。大きな寺院で、本堂の前に八代像はあり、等身大で、雨の慕情を唄う姿である。                              私は夕方暇つぶしにYouTubeで歌を聴いている。八代演歌は多い。舟唄、雨の慕情、愛の終着駅等ヒット曲は多数あり、そんな中で、なみだ恋が良い。熊本八代から上京しクラブ歌手を経た苦節十年の最初のヒット曲だろう。彼女は絵も玄人はだしであった。早世は惜しまれる。像をカメラに収め、寺前バス停から五反田駅行きのバスに乗った。(2025/3/9 K.K.1593)

◇日時 2025/3/7 ◇天候 晴 ◇交通費 180円 ◇資料 昭文社「東京都市図 馬込 武蔵小山」2004 ◇歩行距離等 9000歩 6㎞                                     「通過時間等」 自宅8:40-都営浅草線泉岳寺駅9:47-同中延駅10:00=蛇窪神社10:05/10:25=東急大井町線中延駅10:44-東急目黒線大岡山駅10:57-同不動前駅11:05=安養院11:25/11:42-都営浅草線五反田駅12:00-三田線三田駅12:15-自宅13:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「比企三山・笠山、堂平山をミニ縦走する」

 笠山、堂平山に登る。両山は、大霧山と列び埼玉県比企三山を構成し、外秩父の名山に数えられている。大霧山にはこれまで2度登り、次ぎは笠山から堂平山を狙っていた。
 笠山はその名の通り山容が笠に似ていることから名付けられたようで、特徴ある笠山の姿は大霧山の下山途中や東上線小川町駅手前からも見分けられた。笠山、堂平山への登山ルートは色々あるが、我々は東秩父村皆谷から上り始め、白石に下りる。外秩父の山は林道が山頂付近まで設けられており、懸命に登ったのに林道へ出るという興ざめコースが多い。笠山、堂平山も同様であった。

 秋晴れの日 前日の雨が嘘のように秋晴れの一日となり、出掛けの東上線の車窓から真っ白い大きな富士が見られ幸先のよいスタートを切った。案に違わず、笠山からは近くの大霧山の麓で放牧中の牛が眺められ、また遠くは両神山の先に山並みが連なり、剣ケ峰では奥多摩から丹沢方面の山々がシルエットの如く浮かんで見えた。東方が開けた堂平山では期待した筑波山は望めず、残念ながら遥か雲の彼方であった。季節的には秋も盛りの時期だが外秩父山中は未だ紅葉には早く、道に落ちた山栗やどんぐりだけが晩秋を窺わせた。

 笠山から堂平山 皆谷から笠山までは1時間 20分を要しほぼコースタイム通り上る。ジグザグ林道をショートカットする近道を利用し、時々立ち止まっては大霧山方面の展望を楽しみ、休憩は一本松の先で取ったのみ。
 笠山山頂(837m)からは簡単な岩場をこなして笠山神社を往復。隣に立つ社務所が無惨な姿で廃屋になっていたのが何故か印象に残る。
 笠山から急斜面を下って一旦笠山峠に下り、林の中の泥沢を上り返すと堂平山。山頂(876.8m)には東京天文台の施設が設けられ、日曜日にもかかわらず開門されていて、大勢のハイカーが芝生で昼食を取っていた。我々も仲間に入り、秋の日の下で持参した弁当を開く。

 歩いたことのあるコース いつもより長めの昼食休憩を取った後、剣ケ峰(876m)、白石峠を経由して白石のバス停に下りる。峠からバス停までは逆に2度上ったコース。その時は緩やかな上りの小径と思ったが、これが結構急な下りが続く山道。上りと下りでは目の位置が違うのだろう。景色も違う。前日までの雨のせいで激流となって走る谷川沿いの道を進み、峠からの下りに45分を要す。先に上った時は50分程の記憶であり、ひたすら下ってもそう差がないと思い帰宅後調べたら上りには 1時間弱を要していた。バスを待つ間に、側のそば屋に入り冷たい麦酒を求めて喉を潤す。名物手打ちそばは次回の楽しみに回した。
 Kさんとはいつものように東上線川越駅で合流する。彼は前日の野球の疲れを見せずに終始元気に歩き通した。Kさんまたお願いします。今後はルートや季節を変えて歩き新たな発見を楽しもうと思う。(98/10/25 53/100)

追記 笠山・堂平山コースを歩いた。日本百低山(同書152頁)や日本百低山を歩く(同書107頁)登載の山である。これで、二本木峠・皇鈴山(94.12.4)、大霧山(96.9.16,98.5.31)、物見山・笛吹峠(97.6.28)、鎌北湖(97.9.6,98.7.4)、一本杉峠(97.11.3)、大高取山・桂木観音(97.11.3,98.4.30)、金勝山・官ノ倉山(97.12.27)、鐘撞山(98.2.14)、仙元山・和紙の里(98.2.21)、宿谷の滝(98.3.7)、ポンポン山(98.5.24)と東武鉄道が推奨する外秩父ハイキングコースのすべてを歩いたこととなった。私にはホームグランド奥武蔵の山々でもある。

池袋、目白、学習院大下を歩く

  寒暖を繰り返し春は遠い。天気予報から暖かい日を選んで歩いた。“我がまち再発見東京・目白編”(25.2.6,13讀賣夕刊)コースで、池袋から目白へ出て、学習院下を通り、都電荒川線踏切を渡って目白不動尊へである。都心も城西の豊島区内で、スタート地の池袋駅西口へ三田線板橋本町駅前からバスにし、30分で着いた。10日前珍しく池袋で友人の送別会があり、来たばかりである。

 池袋駅西口をスタート 西口から南へと歩く。初めての地かなとキョロキョロしながら進み、メトロポリタンホテル前で、住宅街へ左折すると山勘が当たり、自由学園の案内を見付け入口へ回った。同学園明日館は羽仁もとこが1921年に創設した女学校で、あの有名な帝国ホテルを設計したフランク ロイド ライトの設計で、重文とある。校門から眺め校舎をカメラに収めた。住宅街をウロウロしていたら上り屋敷公園がありUターンし、屋敷街を抜けて、西武池袋線踏切を渡る。高架ではない。

 目白庭園、下落合 踏切の先が豊島区立目白庭園で、思い出した。帰宅後調べると25年前訪ねていた(00.5.14)。小さな池を半周して、JR目白駅へ寄る。駅前の案内板で、次の旧近衛邸のケヤキへのルートを確かめる。目白通りを左折すると高級住宅街の下落合。歩きながら目白庭園からおとめ山へはここを奥へ進んだとの僅かな記憶である。件のケヤキは道路の真ん中にあったが、この時期葉はなく裸樹状態。カメラを縦長にして写した。山手線方向へ左折し線路沿いに坂を下り、高架下潜ると土手下で、学習院下の通りで、初めての地であった。高台の校舎は見えない。

 目白不動尊 少し歩いて明治通りから都電荒川線踏切を渡り、缶カンコーヒを求め休憩。本日は予報通り暖かく寒さは感じない。最後の目白不動尊金乗院は近かった。目白区のネーミングの由来が当院とある。境内へ入って金乗院に参拝。孫の合格発表があり御礼を申し上げた。右手の高台の小振りなお堂が目白不動尊のようで、急な階段上下して手を合わせた。由井正雪の乱首謀者の一人丸橋忠弥の墓があるとの案内があった。都電荒川線踏切へ戻り、学習院下駅で都電を待った。荒川線は時々利用しているが、当駅からの乗車はこれまでないと思う。(2025/3/14K.K.1592)

◇日時 2025/2/26 ◇天候 晴 ◇資料 “我がまち再発見”「東京目白編」((25.2.6,13讀賣夕刊) ◇歩行距離等 11000歩 8㎞                                          「通過時間等」 自宅8:50-三田線板橋本町駅9:35-池袋駅西口10:05=自由学園明日館10:20=上り屋敷公園10:30=目白庭園10:40=JR目白駅10:50=旧近衛邸ケヤキ11:00=学習院下11:15=都電荒川線踏切11:30=目白不動尊金城院11:35=都電荒川線学習院下駅11:45-三田線西巣鴨駅12:06-自宅12:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「外秩父・大霧山に連なる三峠を歩く」

 九月の最初の連休を利用して、関東ふれあいの道を歩く。自宅から近い埼玉県コースの中で、やや軽いコースを選ぶ。関東ふれあいの道埼玉県5コースで、武村岳男著の資料によったが、歩いてみて決して軽くはなく(他の資料等には健脚向きとあった。)、しかも所要時間もいつものように大分違うようだ。家内が同行しなかったのは結果オーライか。

 小川町駅から白石へ 東武鉄道東上線、バスを利用して、起点白石バス車庫に出る。白石峠までは上りの道が続く。途中までは沢伝い。峠からの次の上り口は急な直登の木の階段。わずかな区間であるが上り難く往生する。すぐ尾根道となり、粥新田峠までは上り下りのある尾根道。同峠からは時間を節約して橋場に下りて、小川町駅に戻った。

 大霧山で展望を 前半の下りは先日の雨が乾ききっていない壁土状の道が多く、滑らないように注意を払うが二、三度滑り掛ける。大半は展望のない林の中の道で、汗が冷たく感じる。大霧山(766.6m)では西北方向が開け展望を楽しむ。案内板によれば、浅間山、仙ノ倉山まで見えるとあるが確認できないのが残念。誰がどうやって確認したのかといつも思う。粥新田峠からの下りの前半は農産物の無人スタンドがある山の静かな集落の中の道、後半は舗装の県道。カーブを右に左に車を避けて、ショートカット。後で地図をみると別に登山道があったようだが気付かなかった。

 峠を上下 白石峠は広い舗装道路で、季節の売店が出ていて果物等を売っていた。立派な茶店が二、三軒ある定蜂峠は小さな観光地並み。若者がバイクで上って来た。山中の鞍部で登山道が交差する点が旧定蜂峠。標柱がなければ見逃しそう。ハイカー以外は希に獣が通るのみか。最後に通った粥新田峠は江戸時代には秩父から川越に出る主要なルートであったようだが、現在では寂れた感じのする山の狭い峠。休憩中も人一人、車一台通過しなかった。

 食事は自前 昼食は、疲れが出た定峰峠からの上りの途中で取る。今回は自分で作ったおにぎりに、例のストーブでレトルトの豚汁を温めて食べ、一人で楽しむ。休憩時にはチョコレート、ビスケットやオレンジで疲れを癒した。豚汁及び鍋等に、そのための水と欲張ったため、ザックが重く、上りでいつもより早く疲れが出てしまったようだ。
 しかし、今回も、緑の林の中の道や周辺に咲く野の花、獅子岩、牧場の牛、大霧山からの展望、静かな山村等と外秩父の自然や風景に触れ、休日にかかわらず出会うハイカーが少なくて静かな山歩きを楽しむことができ、きっとまたリフレッシュできたことであろう。地酒は小川町で「青雲」を求めた。(96/9/17 52 /100)

追 記 大霧山は2年後に再登した(98.5.31)。近所の仲間と一緒であった。東武東上線小川町駅からバスで、奥武蔵の山と思っていたが、正確には外秩父の山とある。これら山域は自称ホームグランドであるが、東秩父の天空のポピー高原(19.6.2)以来、最近ご無沙汰で記憶は霞んでしまった。大霧山は日本百低山を歩く登載の山である(同書102頁)。

隅田川河口月島から門前仲町へ歩く

 久振りに月島から佃を訪ね、門前仲町へ歩くことにした。中央区の月島は隅田川の河口で、広い運河もある。その奥晴海にあるキャンパスには10年以上通い、月島にも寄って、広い隅田川を眺めたことがある。私の好みの“我がまち再発見”が東京隅田川テラス編(25.5.16讀賣夕刊)で、私の里歩き心を惹き付けた。月島、佃は埋立地である。

 佃島の歴史 地下鉄大江戸線を月島駅に降りると記憶を呼び戻し、構内通路から佃へと迷わず歩いた。狭い路地を抜けると小さな運河があり、波除稲荷前へ出た。孫の一人が受験中で、ご加護をお願いした。橋を渡った左手が、名産佃煮の販売店街で、私の知る三店舗が営業中。当地は佃煮発祥の地である。先へ行き住吉神社に参拝。大阪摂津の住吉神社の分霊が起源とある。それは、家康が安土から堺の旅の途中本能寺の変が起こり、急遽伊賀越えをして岡崎へ逃げ帰ったが、この時大阪湾河川の渡船で援助したのが摂津佃の漁民で、江戸に幕府を開いた家康が招いて佃島に住まわせ江戸湾の一部に漁業権等を与え保護したと伝わるという。そんな話を思い出しながら、隅田川沿いの佃公園へ上がり、隅田川は広く、流れが見えない。一隻の遊覧船が遡上した。

 中央大橋、相生橋 隅田川に架かる長い中央大橋は渡り掛けたが長く、途中で戻った。石川島公園を歩く。確か石川島造船所があった地だが、現在は高層団地である。対岸を眺め思い出した。前勤務先の納涼会で、屋形船に乗り東京湾の花火大会を楽しんだ。その時乗船したのが向かいの越中島乗船場であった(10.8.4)。記録を引っ張り出したら、厩橋から隅田川を下り、中央大橋や次の相生橋を渡っていた。相生橋で晴海運河を渡ったが、初めてのようで何ら記憶は蘇らない。15年前では致し方がないか。                

 門前仲町へ 渡り終えた右側が東京海洋大で、明治丸が展示してあるのは知っていた。明治初期我が国の発注で、イギリスで造船された鉄船であり、重文という。元商船大学の実習でも使われ、遠戚で読者の一人は卒業生。永代通りの交差点迄は距離があり、大横川を渡り、古い火の見櫓を見て、門仲駅前であった。それでも、旧友との待ち合わせ時間には間に合った。(2025/3/8 K.K. 1591)

◇日時 2025/2/16 ◇天候 晴  ◇資料 “我がまち再発見”「東京隅田川テラス編上」(25.5.16讀賣夕刊) ◇歩行距離等 10000歩 7㎞                                     「通過時間等」 自宅9:45-大江戸線春日駅10:28-同月島駅10:55=波除稲荷神社11:00=住吉神社11:05=中央大橋11:20=相生橋11:40=門前仲町(昼食)11:55/12:50-大江戸線門前仲町駅13:03-三田線春日駅13:28-自宅14:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「憧れの清滝小屋に泊まり両神山に登る」

 両神大谷口から入山 両神村日向大谷口から登る。秩父山中は深く、市街地から日向大谷口までバスで一時間以上を要した。バスを降りて舗装道路を30分程歩くと登山口。女子大生のパーティと一緒になる。山腹に付けられた細い山道を上る。両神山は人気の山で、登山道は整備されて広いと思ったが、意外と狭い普通の山道。道端の随所に石碑があり、Y君が興味を示す。会所に到着し、谷川に下りて昼食。

 たちや堀までは、谷川沿いの緩やかな上り。木々の緑が鮮やかである。白い可憐な花は、確か二輪草だろう。たちや堀での休憩時、これからはきつい上りと、M君が地図で読んだがそのとおりとなる。八海山の途中で下山する大勢のパーティに会い、道を空けて待って貰っている間を上るのがまたきつい。弘法ノ井戸に到着して休憩。一筋の清水が出ていて喉を潤す。この辺の林はまだ芽吹いたばかりで緑には程遠く、高度が高いことを示している。再びきつい上りをこなして清滝小屋に到着。火事で全焼後再建された小屋は立派なもの。

 清滝小屋に一泊 明日の天気予報が雨のため、今日中に登頂すべきかを検討したが、予定通りとMリーダーが決断する。早速、外へ出て自然を楽しみながら、途中駅で求めた地酒とM君持参のウィスキーを飲む。小屋の回りにはテントが張ってあり大勢の登山客で賑わっている。意外と寒くセーターを着る。6時前に夕食を済ませ、7時前には寝る。小屋はそれ程には混んでいない様子。
 5時起床、外は小雨。朝食後、雨具を着、スパッツを付けて出発。小屋のすぐ後ろからきつい上りの連続。雨は次第に霧雨となり、その後止む。木の根と岩とで登り難い林の中の上りの道を、小生がトップで懸命に進む。鎖場で、M君に足場を固めてから鎖を使えとのアドバイスを受ける。途中、なんでこんなにして迄登るのだろうかとの思いが頭を過ぎる。“ブオー”“ブオー”と鳥の鳴き声。もしかしたら仏法僧ではと耳を澄ます。今朝、小屋の管理人に聞いたら、もう鳴き始めてもいい時期と教えてくれた。清滝小屋は仏法僧でも知られ、数年前にその新聞記事を読んでから一度は訪れたいと思っていた。少し鳴き声が違うようだなと考えていたら、道は平らになり、両神神社の奥社到着。予定よりだいぶ速いようだ。休憩をして雨具を脱ぐ。

 無事登頂 頂上までは、ほぼ平らな道。2カ所程鎖場があったがたいしたことはなく、無事、登頂(1,723m)。頂上は思ったより広く、既に先客5人程が休んでいた。富士山から筑波山まで見渡せるというが、残念ながら展望はない。雨が止んだだけでもラッキーか。
 白井差口を目指して下山開始。両神神社までは上りと同じ道。その後急坂となり、雨後のドロ道を慎重に下る。のぞきを覗くのを忘れ、次回の楽しみにする。急降下が連続し、一位ガタワ、御手洗場を通過。上りとしては、日向大谷ルートより白井差ルートの方が大変のようだ。途中、ヤシオツツジを見付ける。濃いピンクの花が奇麗だが、まだ時期が早いようで、ほんの一咲きの様子。

 バスに間に合う 道も次第に良くなり、昇竜ノ滝到着。残りの距離を考えるとバスの時間が迫っていることを知り、急ぐ。白井差を通過して、舗装道路。緑が重なる奇麗な谷間の道を速足で下って、白井差口のバス停。どうにかバスに間に合う。小屋でも頂上でも一緒になった男、女の登山者は既に着いていた。村営バスを乗り継いで、秩父鉄道三蜂口駅到着。ここからは、Y君の先導で三峰神社に参拝し、その後帰宅する。 
 今回は清滝小屋に泊まって両神山、以前から憧れていた山行が実現できた。計画段階からリーダーを務めてくれたM君、同行のY君に感謝しなければならない。(95/5/2,3 51 /100)

追記 両神山は、百名山であるが、私には仏法僧の鳴き声が聞ける山小屋でも惹かれていた。それが双方とも実現した。埼玉も群馬県境の高山は、私には難度の高い険しい上下でもあった。下りでは私のゆっくりペースで遅れ、バス停へと駆けたのを覚えている。日向大谷口は、約30年後偶然再訪し(23.10.5)、僅かな記憶が蘇った。

金沢文庫から金沢八景へ歴史の道を歩く

“鎌倉殿ゆかりの寺社めぐり”の歴史の道案内記事(22.2.6しんぶん赤旗日曜版)を入手して、いつ歩こうかと思案していた。その中の称名寺は訪ねたことがある(02.2.11)。調べると20年以上も前のことであった。金沢文庫に近い鎌倉に住むWさんを誘いOKを貰った。1度鎌倉の化粧坂切通しを歩いたことがある(23.2.18)。若い上にランニングを続けて元気な方である。

 再訪の称名寺 京浜急行金沢文庫駅に着いたら、Wさん先着し待っておられた。駅出口に案内図はなく、僅かな記憶で町屋から住宅街を称名寺方向へと歩く。途中寺の屋根らしき風景を見付け近づいたが、県立金沢文庫であった。その奥が目指す寺院で、小さなトンネルを抜けると広大な境内は、池を中心とした庭園であった。金堂と呼ばれる本堂前へ進み参拝。今年も受験生の孫がいて神頼み。池に架かる平橋、反り橋を渡り、大きな仁王門。称名寺は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の弟、実泰(金沢北条氏)が菩提寺として、1241(仁治2)年頃に建立した古刹である。それが往時の儘800年後も遺っているのであろうか。

 紅梅咲く古刹を巡る 表参道の赤門を過ぎて歴史の道となり、左手が薬王寺で、頼朝の弟範頼ゆかりの寺とある。少し歩くと右手が金沢八幡神社。誰もいない境内から本殿前へ出て手を合わせた。左手の寺院へ寄ろうと奥へ入ると、令和の杜の先が安立寺で、鐘楼の傍にピンクも濃い紅梅が咲いていた。やっぱり春は来ていると、カメラに収めた。Wさんも眺めている。そろそろ休憩かなと思いながらも場所がない。Wさんも疲れた様子はなく、先へと歩き続ける。龍華寺に至り、また本堂前で頭を下げる。大きなソテツがあり、当地は温暖の地なのかなとシャッターを切った。

 金沢文庫へ 歴史の道がやや右方向からT字路となり、右手に憲法草創之処の碑があった。1888(明治20)年、伊藤博文達が明治憲法の草案造りをした料理屋があった地という。この近くの野島に博文の別邸があったのだ。左手は平潟湾で金沢八景。左手に琵琶島神社、右手に瀬戸神社があり、京浜急行八景駅に着いた。駅前飲食店で、生ビールで乾杯し、昼食とした。今回は金沢文庫の社寺を巡りながら歴史の道を歩いた。13000歩、10㎞で最近にない距離で、Wさんのお陰である。昼のビールは美味であった。(2025/2/28 K.K. 1590)

◇日時 2025/1/31 ◇天候 晴 ◇資料 「鎌倉殿ゆかりの寺社めぐり」(22.2.6しんぶん赤旗日曜版) ◇交通費 1140円 ◇歩行距離等 13000歩 10㎞                          「通過時間等」 自宅7:50-京急三田駅9:05-同金沢文庫駅10:00=称名寺10:40=金沢八幡神社11:00=安立寺11:10-龍華寺11:20=憲法草創地の碑11:30=金沢文庫(昼食)11:45/12:15=瀬戸神社12:30=京急金沢八景駅12:52-三田線三田駅13:45-自宅14:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「長丁場にバテテしまった伊豆ケ岳から子ノ権現」

 里山は未だ早春 西武線正丸駅をスタート。天候は、良く晴れて、風もなく、さわやかな日で、山里では、桜が八分程度の見頃に加え梅が満開であり、谷川沿いに点在する農家の庭先にはつつじ、水仙等の花々が咲き乱れる一方、山中の木々は、まだ芽吹いたばかりで、その中で静かな山歩きを楽しみ、また林道沿いの林の中で、うぐいすの声を開いた。

 伊豆ケ岳登頂 中年の婦人ハイカーと前後して上るも、我々のぺースが一定でないため、兎と亀の格好となって、追い付いたり追い抜かれたりした。また、途中から他のハイカーと一緒になって、子ノ権現までの連続するピークを越した。
 伊豆ケ岳(850m)の頂上は、展望が良くて360度見渡せ、武川岳、武甲山等を確認できたが、雪に覆われたような2,000m級の山は見えなかった。また、伊豆ケ岳頂上の直前に鎖場があり、それ程厳しくはなかったが、長い鎖場で、この程度の山では珍しいのでなかろうか。思ったよりハイカーは少なく、伊豆ケ岳の頂上でも、4、5組、1 0人程度が昼食を取っていた。

 水なしとなる 途中で持参の水を飲み尽くし、子ノ権現の寺に期待したが同寺も水不足との掲示があり、結局、門前の茶店で缶ビールを頼み、ついでにお茶を飲んだ。今後は持参する水の量を多くしなければならない、と反省する。同寺で、記念に手書きの絵馬(1,500円)を求めた。
 子ノ権現からの下りの途中で、上ってくるおばあさんの一行に出会う。声を掛けたら全員80歳のグループだと言う。元気の良さには驚いたが、既に15時過ぎで、他人事ながら帰りの時間が気になった。伊豆ケ岳の頂上で、下山は16時頃と予想したが、予定時間の少し前に、西武線吾野駅に着いた。同駅は30年振り位か。すぐ急行が来て、17時過ぎには池袋駅に到着し、今回も早めに帰宅出来た。タマに水を汲まなかった。

 反省 疲れた。予想より上り下りがきつく、しかも行程が長かった。特に、伊豆ケ岳への上りの半ばの、杉林を過ぎて尾根に出るまでの上りが相当に厳しく、また、天目指峠から子ノ権現までは、起伏が激しいピークが四つ程あり、最後の上りかと思うとまた上りが続き、気分的にも滅入った。結局、休憩時間を入れて約6時間を歩き通し、今年では最長のハイキングとなった。(95/4/18 50/100)

追記 奥武蔵の伊豆ケ岳は、初心者の私には本格的な山歩きであった。関東ふれあいの道埼玉県3コースで、日本百低山にも選ばれている(「日本百低山を歩く」99頁)。Nさんと同行した。彼女はタフで元気に歩き通した。その後も、多摩の山々も歩いた。しかし、難病を患い早世された。残念であった。10年後、武川山から下山途中に伊豆ケ岳への登山口を通った(05.12.11)。

都内谷中銀座から舎人ライナーに乗る

 JR西日暮里駅集合の案内があった。中学同級生と久しぶりの再会である。コロナ禍でご無沙汰していたが、メールのやりとりはしていた。互いに傘寿を迎え先は長くはなく、元気なうちは交友したい。JR巣鴨駅へ出て、山手線に乗り日暮里駅に降りると、A君が待っていた。ほどなくB君も見えて三人揃った。高卒後上京し皆大学は出たが、苦学生である。

 谷中銀座へ 日暮里駅西口から谷中方面へ歩いた。坂を上がり台地へ出て、右手に古刹があり経王寺で、二人を案内した。幕末の上野戦争で、彰義隊が逃げ込み、新政府軍が鉄砲を打ち込み門の扉に数個の弾痕が遺る(写真は荒川区サイトより)。約150年前の1868(慶応4)年ことで、二人も確かめた。坂を下り谷中銀座へ。この辺り、夕焼けだんだんと呼ばれていると思うが案内は見当たらない。銀座通りを下り続ける。両側は食品店中心の下町の商店街。私は、1,2度歩いたが、賑わいが今一だ。まだ午前中だからか。銀座通りを出た先の喫茶店に入る。

 思い出話 二人は私が送った昨年10月の故郷であった芋煮会の写真を持参していた。彼らは私よりご無沙汰のようで、ほとんどの参加者は不明で、女性陣は分からないという。私が名前を告げると思い出し、中学時代のエピソードも紹介してくれ、話が弾んだ。日暮里駅へ戻り、飲食店で昼食し、思い出話は続いた。二人は陸上が得意で、郡大会や県大会へも出場したと思う。私も県大会1回戦のプレーで、先生に褒められた思い出を話してしまった。A君と同じ部活であった。13時を過ぎ、再会を約し、駅前で別れた。ビール付昼食を二人に御馳走になってしまった。ありがとうございました。

 舎人ライナーから眺めた山々 私は時間があり、舎人ライナー日暮里駅へ上がり、乗車。2008(平成20)年開業の高架鉄道で、約10km13駅のコンピュータ制御路線である。終点見沼代親水公園駅迄は一度乗ったことはあろうか。東側を眺めながら乗る。ビル街が切れたら、隅田川、荒川を渡り、住宅街となって先の寺院は西新井薬師か。舎人中央公園の上となる。昨春ネモフィラ鑑賞に来た。終点に着いたがそのままUターンし、席を移し西側を眺めた。荒川を渡る手前辺りで、都内の市街地の最奥に低山が見えた。えっ!、大遠望である。多摩の連山かそれとも奥武蔵の山々か。山歩きのホームグランドである、ダメもとでカメラのシャッターを切った。快晴下の広い関東平野と高架鉄道組み合わせの賜物か。熊野前駅に降り、荒川線に乗り換えた。(2025/2/18 K.K. 1589)

◇日時 2025/1/26 ◇天候 晴 ◇歩行距離等 7000歩 5㎞
「通過時間等」 自宅8:50-JR日暮里駅9:50=谷中銀座10:30=日暮里駅前昼食11:30/13:00=舎人ライナー日暮里駅13:28-同見沼代親水公園駅13:52-荒川線熊野前駅14:13-三田線西巣鴨駅14:45-自宅15:20

私が登った百の名山&低山=関東編=「コマクサ、コマクサに感激した本白根山」

 前々回の長野の高峰高原池の平で見たコマクサが後を引いた。帰宅したら丁度、本白根山でコマクサが咲き始めたとの報道があった(2000/7/12)。本白根山はバスが頂上下まで通って初心者でも登れる山であり、小生の夏山にはぴったりと考えていた。それに深田百名山でもある。これらにコマクサが加われば躊躇はない。

 群生するコマクサ 尾根を越えて山頂手前の空釜に足を踏み入れた瞬間、目の前が一面コマクサの花畑。ガレ場の斜面にコマクサが咲き誇っている。移植したのではと思える程の大群である。早速カメラのシャッターを立て続けに切った。ここのコマクサの花は、池の平とは少し違い赤色が濃く、ピンクというよりは赤い花に近いようだ。草津温泉バスターミナルで、「コマクサは満開」との情報を得て期待はしていたのだが、これ程に見事に咲いた花の出迎えにすっかり感激してしまった。本白根山のコマクサは関東唯一のものであり、60年代には絶滅寸前となったが、地元の個人や高校生のボランティア活動で蘇ったとのことである。
 本白根山のコマクサはこんなものではなかった。展望所で昼食を取った後、探勝路を最高地点に向かうと、木道左側に自然のコマクサ畑を作っていた。さらに尾根に上がるとコマクサ、コマクサ、コマクサのオンパレードである。登山道の足下から満開のコマクサが尾根筋に広がっている。赤い花は可憐な女王というよりは妖艶さを感じ、赤色花の大群に同じルートを戻った時は、感動を超えて食傷気味になるという贅沢さを味わった。

 バスで山麓へ 長野原草津口駅からバスで入山し、白根火山バス停から歩き始めた。逢ノ峰を越え、ロープウェイ終点を左に見て、登山道に入った。ゴゼンタチバナなどを楽しみながら緩やかな上りを進み、空釜に至った。展望所に上がり、浅間山や黒斑山、四阿山など上信越の連山を眺めながら昼食を取る。探勝路を往復して最高地点(2,150m)に達した。

 ワタスゲに出合う 下山途中、鏡池に立ち寄り池底に亀甲模様を見る。自然の織りなす作業というが不思議なもの。ロープウェイ終点に戻り、車道から弓池に下りると一群のワタスゲに出合う。池の端で見頃のワタスゲをカメラに収めた。ワタスゲは妻が好きな高山植物であり、コマクサとともに写真の出来上がりが楽しみとなる。

 湯釜を覗く バス停で時間を確かめ、湯釜を覗く。乳白色の火口湖は相変わらず不気味であった。コマクサやワタスゲに満足して、地酒「草津節」を片手に長野原草津口駅から臨時特急で帰途に就いた。(2000/7/22 44/100)

追伸 久しぶりにコマクサに出合い群生する花々に充たされた。私には、コマクサと言えば故郷の蔵王山で、小学5年の登山で眺めたのが最初である。高校の校章もコマクサデザインであった。本山は百名山だが、簡単に登れた。草津高原は交通の便が良く、車で渋峠に上がり、高原を下ったこともある(17.7.15)。

相模一之宮寒川神社に参拝し東海道本線で帰途へ

 神奈川湘南在の寒川神社を思い出し、久しぶりに参拝することにした。寒川神社は、JR相模線宮山駅が最寄り駅である。近くに住む弟を誘い、弟とは相模線海老名駅で待ち合わせた。小田急線からの乗換駅である。調べていたら、小田急厚木駅も相模線乗換え可能と知ったが、本厚木駅と厚木駅とで混乱し確信もてず、連絡済みの弟へはそのままにした。

 相模線で寒川神社へ 小田急新宿駅で9時過ぎていて、途中少し遅れる旨メールした。快速特急を相模大野駅で小田原行きに乗り換え、海老名駅で相模線海老名駅へ歩くと改札口に弟は待っていた。茅ヶ崎行きが直ぐ来て乗車。相模線は久しぶりの乗車。茅ヶ崎から橋本へと神奈川南部を走っている。10分程で宮山駅に着き、下車。私は再訪である(10.2.3)。寒川神社は相模一之宮という由緒深い古社で、左先の林を目差し、橋を渡ると参道入口であった。

 相模一之宮 鳥居から先は両側松林に囲まれた長目の参道は記憶にあった。本日は平日だが参詣者が多い。我々と同様高齢者が中心のよう。左折し神門が正面で、蛇と弁財天の大きな絵が掲げてある。デジカメを取り出し写した。しかし、写っていなかった。残念。本殿前へ進み手を合わせ、孫の合格を願った。左手の裏参道へ出て、裏山神嶽山のアングルを探したが見付からず、入口へ戻った。

 弟を追う 弟は、次の寒川駅へ歩こうと先行した。宮山駅よりは遠い位かと後を追った。弟は車で通ったことがあるという。これが間違いで、相模線が左カーブしているその外側を大回りして、最後は辿り着いたが、50分を要し5㎞も歩いてしまった。寒川駅から茅ヶ崎駅へ出て、12時を過ぎ昼食。生ビールを含め弟に御馳走になってしまった。私は歩き疲れ、次の藤沢へ出て江ノ島の予定はなしとし、茅ヶ崎駅で弟と分かれた。

 箱根駅伝 東海道本線で大船、戸塚を通過し、先日の箱根駅伝を思い出した。復路の8区(平塚-戸塚)である。母校は、往路は2位で復路も期待していた。処が8区の選手が大ブレーキで、区間最下位となってしまい6位迄順位を落としたが、9区、10区が踏ん張り5位へと戻した(写真は中大駅伝応援サイトより)。これが母校の現在の実力で、来年への期待を持たせた。横浜駅で京急線に乗り継ぎ、三田で都営三田線に乗った。(2025/2/6 K.K. 1588)

◇日時 2025/1/20 ◇天候 晴 ◇交通費 1940円 ◇資料 「相模国一之宮寒川神社」 ◇歩行距離等 10000歩 8㎞                                              「通過時間等」 自宅8:05-新宿線神保町駅8:50-小田急新宿駅9:10-JR海老名駅10:13-同宮山駅10:20=寒川神社10:40/10:55=JR寒川駅11:40-同茅ヶ崎駅(昼食)12:40-京急線横浜駅13:20-三田線三田駅14:00-自宅14:50

千葉柏に“我がまち再発見”コースを歩く

 購読紙のお気に入り“我がまち再発見”は、千葉柏編であった(24.10.24、11.7讀賣夕刊)。柏はJR常磐線で近いが、これまで歩いたことはない。コースポイントの大半は神社だが、これもよい。故郷の羽黒神社を合祀した柏神社もある。我が家からは、巣鴨へ出て日暮里で常磐線乗車であり、調べたら1時間強と分かった。

 香取神社から 常磐線は江戸川を渡って千葉県に入り、松戸を過ぎ柏に降り西口へ出て、驚いた。柏は大都市で、駅を中心に商店街、そしてその周囲に住宅街が密集している。新聞記事の略図片手では、ポイントを探せるか自信を失ってしまつた。それでも予定通り、駅を中心に時計回りに巡ることにし、南西方向にある香取神社を目指した。駅前商店街を抜け、住宅街でさらに奥へ入ると神社があり香取神社であった。迷わず着いて一安心し、参拝して孫たちの健康と入試の合格をお願いした。

 “原っぱの碑” 参道を出た先の大通りは現水戸街道か。地下道で反対側へ渡り、中学校の塀に並んで、八木重吉の“原っぱの碑”があった。1925年から当地で高校教諭しながら詠んだ詩とある。当時は荒地が広がっていたのだろう。水戸街道を渡り駅へ戻って、次の諏訪神社へ歩く。略図で確認すると常磐線鉄橋を渡り、駅の北東側。橋上から左手先に社叢が見えた。

 どんと焼に出合う 少し距離があったが境内に至り、本殿前へ進み手を合わせた。境内の一画で、焚火が行われどんと焼きか。正月飾りを燃しているよう。手をかざしてあたらせて貰い霊気を浴びた。子供の頃、集落内の神社で、“おおさいと”と言って同じような行事があった。当神社の前の大通りが旧水戸街道という。

 柏神社 最後は柏神社だが、市街地の中心を大分歩いて、左手に鎮座していた。これまでの神社と違い、本殿前に列を作り並んでいる。私は、横から手を合わせてUターン。本日は成人の日の祝日で家族連れも多い。羽黒神社を探したが見当たらず、柏神社と一体のよう。門前にたい焼き店があり、十勝あずき使用が目に入って音更の孫達を思い出し一個求めた。駅前東口ダブルデッキ(歩行者回廊)を通り、常磐線上り電車を待った。12時を過ぎ車中食べたたい焼きは美味であった。(2025/2/2 K.K. 1587)

◇日時 2025/1/13 ◇天候 晴 ◇交通費 1230円 ◇資料 “我がまち再発見”(24.10.24、11.7讀賣夕刊) ◇歩行距離等 11000歩 8㎞ 
「通過時間等」 自宅9:00-JR巣鴨駅9:38-同日暮里駅9:57-同柏駅10:30=香取神社10:50=原っぱ詩碑11:00=常磐線鉄橋11:40=諏訪神社11:50=柏神社11:55=JR柏駅12:10-同日暮里駅12:45-三田線巣鴨駅13:06-自宅13:30

私が登った百の名山&低山=関東編=「タフな登山道に参った至仏山」

 急坂コースを上る 尾瀬ヶ原に草紅葉を楽しんだ翌日、至仏山を目指した。朝7時ジャスト尾瀬ロッジをスタート。草紅葉に燃える上田代から登山道を上がる。最初から木製の階段で、朽ちた部分もある上に私の歩幅には合わないが、懸命に上がる外はなく、林が切れた地で休憩。晴れて陽が昇り、一枚シャツを脱いだ。
 他の登山者と前後になり進み、直線的な急坂をこなしながら振り向くと、尾瀬ヶ原が眼下に広がり、その先は燧だ。ガイドに紹介のある眺めで、カメラに収めた。岩場の道となり、時々渋滞し始める。昨日同様、多くの老若男女が挑戦している。40名を超える高年グループが直ぐ前だ。岩が多くなりゴロ岩を避け、手を掛けて大岩の間をすり抜け進まざるを得ない。動きが止まってしまった。前の大グループが鎖場を越しているらしい。ここで20,30分待たされてしまった。
 一時間遅れで登頂 鎖場は大たことはなく、一登り。ようやく中間点を過ぎ、また階段や小さな岩場を過ぎて灌木地帯から草木のない山頂域に入ったようだ。時計は10時を示し、予定を遙かにオーバー。木道から昨日の雨でぐちゃぐちゃの道を回り込みKさんに続いて、ようやく頂へと上がった。狭い山頂(2,228m)は登頂者で込み合っている。しかも雲が立ち込め展望もない。長居は無用と、僅かな休憩とお八つを戴いて、下山を開始。

 難路、悪路が続く 下りは楽なコースと期待していたが、直ぐ裏切られた。大岩を越し、段差をよじ上り、落差にはストック頼りに足を着き、時には跳び下りる羽目に遭う。1箇所や2箇所ではなく次々と出現して息を抜く暇がない。このような登山道は、小至仏山を越し、笠ヶ岳分岐点手前まで続いた。途中、交差した女性グループの一人はロッククライミングみたいと嘆いたのが聞こえた。
 険路を脱し下山 階段から木道へ出た時は正直ホッとした。歩き易い山道となり、オヤマ沢田代を過ぎややスピードアップし下り続ける。ヘリで運んだらしい木道修理資材を積んだ地から林の中となるが下山口は遠い。最後の休憩を取り、10分程歩くと鳩待峠であった。予定よりは1時間30分程遅れてしまったが、登頂を果たして無事下山が先である。
 私にはきついコースであった。急登で有名な中房温泉から燕岳へ合戦尾根も歩いた(08.8.3)が至仏山の方がタフで参ってしまった。Kさんも下山路は大変だったと頷いた。でも、お陰で、今年の目標であった尾瀬に草紅葉を楽しみ、百名山にも登頂出来た。同行有り難うございました。(2013/10/6 49/100)。

追記 燧ヶ岳は険しい山とは聞いていたが、至仏山も上下の登山道が、これまでの高山でも経験したことがない難路、悪路で、歩きにくく難渋した。上りでは予定より1時間遅れ、下りも30分余計に掛かってしまった。登山ガイドには初心者向きとあるが、私には疑問だ。何とか百名山を極めたが、燧ヶ岳はチャンスもなかった。

2025初詣に板橋本町に三社を巡る

 正月も5日となり、初詣先を探し、板橋区内の区役所先から本町付近に三社を巡ることにした。一度は詣でたことがあり、おおよその位置や距離は分かっている。駅からも近く安近楽で、現在の自分には丁度よいであろう。欲を言えば、三が日の飲みすぎ、食べすぎを少しでも解消したい。駅伝観戦で、応援に力が入ってしまった。

 板橋子易神社から 10時前に家を出て、三田線を板橋区役所前駅に降り、歩き出した。最初は徒歩10分程の子易神社である。商店街を抜け、川越街道へ出ると道路内に小さな祠があり、四又馬頭観音で、軽く挨拶し渡った。緩やかな坂を歩いて神社下に着き、参道から境内へ。本殿前に進み参拝。今年も孫二人が大学受験で、先ずは合格祈願。隣の浅間神社にも手を合わせた。境内には初参りの名残はあるが、人はなく静寂である。石段を下りて境内を離れ、山手通りへと坂を上がった。

 氷川神社から板橋へ 次の氷川神社へと山手通りを、区役所正門前から中山道へ歩き、少し距離がある。氷川町へ至り、参道から氷川神社へ。こちらは未だ参拝者が多い。また本殿前で頭を垂れた。境内に富士塚の案内があるが、そうは見えない。隣の中山道の拡張工事で削られたとあった。大通りへ出るともう石神井川。ここで中山道を横断し、旧中山道へ出て、石神井川に架かる板橋を渡る。我が区の名前の由来の史跡で、現在も木製のよう。旧同僚たちを巣鴨地蔵通りから新板橋を通り、仲宿を経て、板橋を案内したことがあった。調べると中山道開道400年記念の年であった(02.10.20)。旧中山道板橋仲宿は橋の手前である。

 縁切り榎 三社目の縁切り榎のある神社は記憶よりは遠く、旧中山道を歩き続ける。家並の間に見付かり、狭い中、奥へ入り詣でた。幕末の和宮降嫁の際、京から当中山道を通ったが、榎を筵で包んだとの伝えがあるが、実際は迂回したという。縁とは悪縁で、病気や酒等とある。現在も榎は健在だか、何代目だろうか。旧中山道から現中山道へ歩き、三田線板橋本町駅を探した。(2025/1/25 K.K. 1586)

◇日時 2025/1/5 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「東京都市図16」2004 ◇歩行距離等 7000歩 5㎞                                                       「通過時間等」 自宅9:55-三田線板橋区役所前駅10:25=子易神社10:40=氷川神社11:05=板橋11:05=縁切り榎11:15=三田線板橋本町駅11:30-自宅12:10

都電荒川線で早稲田界隈から巣鴨地蔵通りへ

 都電荒川線を新庚申塚から終点早稲田へ行き、復路で巣鴨地蔵通りを歩こうと思う。腰の具合は大分回復したが、確かめたいし、運動不足は否めない。都電を乗り鉄し歩く距離は、まあまあである。早稲田駅は久しぶりである。昼前には帰宅できるだろう。

 都電荒川線乗車 9時過ぎに家を出て、三田線西巣鴨駅に降り、都電新庚申塚駅へ歩いた。一両の都電はほぼ満員、未だ通勤時間帯なのだろうか。すぐ孫が通う高校の運動場沿いに回り込み、JR大塚駅前へと下った。この都電は専用路線が殆どで、道路を走るのは僅かである。
池袋駅東側の住宅街から学習院の傍を下り、神田川を渡って、新目白通りへ左折し、早稲田駅に着いた。停車場だが私の知る停車場は屋根付きに改造されていた。早稲田大学は右先である。

 早稲田甘泉園庭園へ 私は新目白通りを戻り、甘泉園庭園を探す。庭園へ入ったつもりであったが、大回りしてしまい土手を上がり、水稲荷神社前へ出て、参拝。初めてではなく、参道付近は、堀部安兵衛の仇討の場との案内があったと思うが、見当たらない。庭園へ下りて、小さな園内を巡る。当園は御三卿清水家の下屋敷跡とある。中心の泉水の回りには雪吊りがある。これに見当を付けて当園を訪ね、カメラに収めた。祖父はお屋敷勤めで、冬前に毎年雪吊り作業をしていたのを覚えている。園を出て、新目白通りにある都電面影橋駅へ歩いた。

 巣鴨地蔵通りを歩く 都電で庚申塚駅へ戻る。途中鬼子母神駅を通過した際、キシボジンとあった。近くの寺院はキシモジンと聞いていたが、読みが違っていた。庚申塚駅から駅名由来の庚申塚前を通り、地蔵通りを歩く。旧中山道である。両側に商店が並び、おばあさんの原宿とも呼ばれている。老人用の衣料店や食品店が多い。本日人出は少ない。高岸寺でとげぬき地蔵さんにご挨拶。並ばないで済んだ。一度利用した漬物屋は探し損ねた。閉店したのであろうか。そのまま三田線巣鴨駅から帰宅した。12時を過ぎていた。(2025/1/16 K.K. 1585)

◇日時 2024/12/25 ◇天候 晴 ◇資料 昭文社「東京都市図 33高田馬場」04年 ◇歩行距離等 7000歩 5㎞                                              「通過時間等」 自宅9:10-都電新庚申塚駅9:50-同早稲田駅10:15=水稲荷神社10:25=甘泉園庭園10:30=都電面影橋駅10;51-同庚申塚駅11:10=三田線巣鴨駅11:43-自宅12:151

私が登った百の名山&低山=関東編=「紅葉の中荒船山登頂を果たす」

 荒船山は群馬長野県境にあり、内山峠に登山口がある。同山は北端が切れ落ちて断崖絶壁の山としても、人気がある。一昨年、内山峠から登ろうと出掛けたが思い込みから登山口を誤り、登頂を果たせなかったという苦い思い出があり、再度の挑戦となった。同行者は前回と同じKさんである。

 荒船山へ再挑戦 今回は、前回見逃していた登山道を私が先で歩き出した。前夜の雨で道は濡れ滑らないように前進する。2,3度急坂をこなすと左手の紅葉の間に、荒船山名物の大断崖が見え出した。休憩し、カメラに収めた。次のポイントは一杯水だが、中々現れない。途中崩落跡の迂回路を通過。一昨年登山口に閉鎖の印があったのはここの所為であったかと思い出した。大岩の下には佐久市の標柱を見て、長野県に入ったことを知る。大岩壁が目の前に現れて、その大規模な自然の悪戯に驚く。ようやく一杯水沢の下となる。ここからが、唯一の岩場混じりの険路。Kさんに先頭を交代して貰い、マイペースに努める。下山する高年グループと交差。本日は平日だが登山口駐車場には数台の車があった。久しぶりに山登りらしいコースに、今年は初夏の雌阿寒岳以来だなと北の名峰を思い出した。

 艫岩からの大展望 岩場を上がり切ると、平らな地。荒船山は戦艦にたとえられて、頂上部分は空母甲板のように平で、北端の岩場が艫(トモ)の部分に当たる。灌木の間の道を行くと、左手が切れ落ちた絶壁。近付かないように注書きがある。数年前有名漫画家が落ち報道された。避難小屋前に到着し、崖端へと出て、垂直に切れた絶壁の一端を覗く。顔を上げれば、前方に大パノラマが広がった。正面が浅間山、左は草津白根方面、右のギザギザは妙義山だろう。紅葉の上に連なっている。暫し数人の登山者達と遠望を楽しんだ。先程登山道から蓼科山を確かめた。
 荒船山空母甲板南端にある行塚山を目指す。同山が最高点(1,423m)である。山頂平原の往復に約1時間を要し、頂上で昼食を取った。
 紅葉を愛でながら下山 下山路は同じコース。濡れた岩場や坂を慎重に下る。時々紅葉に見とれる。木々の紅葉は最高潮の時期だろう。友人にも送ろうと携帯にも収めた。若いKさんとは少し距離が空く時があるが追わない。逆に彼の方が脚を止めてくれる。そして、無事登山口に帰還した。Kさん有り難うございました。お陰様で、3年越しの荒船山登山が叶いました。また運転もご苦労様でした。(2011/10/31 48/100)

追記 荒船山は一度登山口を誤り撤退した苦い思いでの山で、私の思い込みからで、大失敗であった。垂直な大岩壁、平らな山頂部とユニークな山容であった。日本100低名山(同書92頁)や日本百低山(同書140頁)に選ばれている。

都内文京の大名庭園六義園に紅葉を巡る

 12月も半ばだが、六義園の紅葉が未だ見頃とテレビから知った。今年は、紅葉は愛でていない。夏の暑さが続き、紅葉は遅くれている。六義園は我が家から近く、これまでも数回訪ねているが、主に桜やツツジの時期であったと思う。少し前に打撲し腰痛が残るが大分良くなり、歩く距離は、回復状態を確かめるのに丁度良い。10時前に家を出た。

 千石駅から 三田線を千石駅に降り地上へ出て、交差点を渡り、不忍通りの広い通りを行く。これまで六義園は巣鴨駅や駒込駅から歩き、初めてのルートで、右手に小石川高校がある。二つ目の信号を左折し住宅街に入ると、六義園の塀が見え始め、正門へと右折。駅から15分程であった。PASMOで入園料を支払い、園内を時計回りに巡る。

 紅葉が残る庭園 早速モミジの樹々が眼に入る。遅めだが目の前に捉えた。本日快晴無風の下、シャッター切りながらゆっくりと進む。雪吊りが済んだ樹木があり、松の木だろう。当園は、1702(元禄2)年柳沢吉保が築庭した回遊式築山泉水の大名庭園という。中心に池、大泉水があり、周囲を様々な庭木や高い樹々が埋めている。紅葉を拾いながら池沿いに歩く。鑑賞客は多いという程ではない。吹上茶屋に着き小憩し、大泉水を眺める。ツツジの時期だったと思うが、花友と来て休んだことを思い出した。

 紅葉盛りの奥庭 ここから、池を離れ奥へと入る。これが正解で、紅葉色の樹々が連なっている。テレビの情報に感謝し、見上げながらカメラに収めた。庭園の裏門付近で右折し、樹林帯の道となる。隣の高いマンションも見える。休憩所があり、またベンチに座り休憩。泉水に蓬莱島を探したが、分らず終い。地図では石組み程度らしい。腰痛は心配ないようだ。正門近くにしだれ桜があり、旧同僚グループで夜桜見物に来園したことがあった。何年前かも思い出せない程の過去の話である。現在六義園は煉瓦塀に囲まれているが、吉保時代の庭園はもっと広く、明治以降に囲ったとある。
 正門から御成街道(日光街道)へ出たが、直ぐ不忍通りとなり、三田線千石駅へ歩いた。スマホでは8000歩、6㎞とあり、支障なく歩いたと思う。 (2025/01/07 K.K. 1584)

◇日時 2024/12/16 ◇天候 晴 ◇資料 東京公園協会「特別名勝六義園」 ◇歩行距離等 8000歩、6㎞
「通過時間等」 自宅9:50-三田線千石駅10:25=六義園10:40/11:30=三田線千石駅11:52-自宅12:30

箱根諏訪神社、公時神社を巡り、JR御殿場線で帰途へ

 箱根仙石原泊の翌日、行く先は決めていない。箱根元町へ出て箱根神社が頭にあったが、バスの乗り換えがあり、昨日の混雑の経験からこのコースは避けたい。仙石原近くの神社や史跡を訪ね、御殿場駅へ出るコースが浮かんだ。バスで一本だろう。

 諏訪神社に参拝 宿泊先を出て、仙石原を西東に貫く通りへ出た。箱根裏街道で、御殿場から宮ノ下へ通じる国道という。バス停で路線を確かめ、通りを渡り、奥の神社を訪ねると諏訪神社が鎮座していた。江戸期前創建の古社のよう。当地は金時山(1213m)の南面山裾で、少し高い石段を上がって参拝。孫たちの成長を祈願。石段を避け、池のある裏参道を下る。当社の例大祭の湯立獅子舞 (湯立神楽) が有名で、国指定の重要無形民俗文化財とある。立派な石碑が建ち、境内にもそれらしい施設がある。

 金太郎を祀る公時神社 箱根裏街道へ戻って、乙女峠方向の公時神社へ歩く。右手に金時山の登山口があった。金時山は二度登り、最初は足柄峠へ下り(95.4.2)、二度目(10.5.15)はここへ下りたと思うが、記憶は薄い。街道は車が往来し側道を行く。公時神社迄は距離があった。同神社は初めてではないと思っていたが、入口も、参道も見覚えがなく、記憶違い。神社へ沢を渡り、途中の茶屋を越して鍵型に進み、金時山裾に建つ本殿に参拝。当社は、その名の通り、金太郎のモデルになった平安時代後期の武士、源頼光に仕えた四天王の1人坂田公時が祭神という。“熊に跨りお馬の稽古”伝説(下図は神社サイトより)の足柄山はこの近くだ。金太郎のことは、子供の頃祖父に昔話として、渡辺綱とともに大江山の酒呑童子退治の話を聞いたことを思い出した。先ほど同様無人の境内に、隣の登山道からカップルが寄り、安全登山の祈願だろう。参道出口にはゴルフ練習場があった。

 御殿場駅へ 街道のバス停でバスを待つ。少し遅れて来たバスは、御殿場アウトレット行きで、御殿場駅行きに接続するという。仙石ゴルフ場前を過ぎ、乙女峠を越したが、本日富士は雲の陰。アウトレットで乗り換え、10時台の国府津行きに間に合った。富士を眺めながら、酒匂川渓流沿いに走る御殿場線は好きで、そのうちゆっくりと乗り鉄を楽しみたい。小田急新松田発11時15分の電車に乗れた。(2024/12/22K.K.1583)

◇日時 2024/11/18 ◇天候 曇り ◇交通費 1,940円 ◇歩行距離等 9,000歩 7㎞ 
「通過時間等」 宿泊先8:00=諏訪神社8:20=公時神社8:50-公時神社前バス停9:30-JR御殿場線御殿場駅10:27-小田急新松田駅11:15-都営新宿線新宿駅13:24-三田線神保町駅13:40-自宅14:20

ロープウェイで箱根大涌谷を越し芦ノ湖へ

 箱根仙石に宿泊先が確保できた。一年振りで、アクセスルートを思案し、箱根ロープウェイ未乗車の早雲山から大涌谷へ上がり、芦ノ湖側へ下ることにした。山歩きには足りないが、秋景色を楽しみ、雰囲気には浸れよう。調べたら、箱根湯本駅からバスで、ロープウェイ早雲山駅へのルートがあった。現在の私には手ごろなコースとなろう。

 箱根湯本から早雲山へ 小田急新宿駅から小田原駅へ出て、箱根登山鉄道で湯本駅に降り、バスを待った。駅は混んでいるが早雲山駅行きバスの乗客は少ない。本日は天気も良く、風もない。湯本から大平台、宮ノ下、小涌谷へと走り、小涌園前で右折し東海道を離れると山中となり、往来する車も少なくなった。しかし、山坂途中の早雲山駅バス停付近で渋滞し、降車迄に時間が掛かり、これからの前兆であった。早雲山駅も混み合っている。

 ゴンドラ乗車 標高757mの早雲山駅から大涌谷行き上りのゴンドラは、乗車までに列をなし時間が掛かった。眼下は箱根の山々だが秋色は薄く、未だ色付き始め。今夏の暑さの影響だろう。標高1044mの大涌谷駅に着いてまたびっくり。駅舎を出るのに時間を要した。目前に広がる大涌谷は、冠ケ岳(1,409m)下の火口で相変わらず噴煙を上げている。先ほどゴンドラからも見えた。少し前噴火の兆しがあり立ち入り禁止の時期もあったが、現在は落ち着いているのは、その風景からも窺える。カメラに収めて、桃源台行きへと駅へ戻ってまたびっくり。

 富士を眺める 長い、長い列をつくり、それがなかなか進まない。大半がインバウンド客のようだ。中には、半そで半ズボンの外国人も見える。窓から富士山が見え、しばしの慰めか。富士はどこで眺めても秀麗だ。もう白富士だ。今年は初冠雪が遅れていると報道があった。30分程並んで下りのゴンドラに乗車。芦ノ湖側だが、こちらの紅葉も始まったばかりのよう。姥子駅に停車し、さらに下り続けた。芦ノ湖畔の桃源台駅(標高741m)に着き乗客が少なくなり、停車中のバスに乗って仙石へ向かう。思ったより長く山中を走り、仙石原へ出るとススキの原が広がっている。台ヶ岳バス停に降り、宿泊先には想定内の時間に着いた。(2024/12/17 K.K. 1582)

◇日時 2024/11/17 ◇天候 晴 ◇交通費 3,750円 ◇歩行距離等 8,000歩 6㎞ ◇資料 小田急「小田急箱根交通ガイド」24.10                                                   「通過時間等」 自宅8:55-神保町駅9:40-小田急新宿駅10:20-箱根登山鉄道小田原駅11:40-同箱根湯本駅12:40-箱根ロープウェイ早雲山駅13:15-同大涌谷駅14:20-同桃源台駅15:30-台ヶ岳バス停15:50=宿泊先16:00

私が登った百の名山&低山=関東編=「念願の草紅葉を求めて尾瀬ヶ原を歩く」

 テレビの旅番組で草紅葉を知ってから、秋の尾瀬ヶ原で観てみたいと思い始めていた。尾瀬は遠く交通の便がよくない。ネットで調べると深夜発早朝着のバスが多い中、朝7時台新宿発で昼前尾瀬戸倉着の関越交通バス尾瀬号を見付けた。無理すれば日帰りも可能だろうが、一泊し翌日は至物山登山と欲張った計画をし、同行予定のハイク友Kさんの同意を得た。

 7時50分新宿を出た尾瀬号は関越高速を走り、群馬沼田からは路線バスの如く山奥の集落を回り、客を降ろして、尾瀬戸倉に着いた時は予定時刻を過ぎていた。さらに乗り換えて鳩待峠着は一時間遅れの13時少し前であった。雨が降り出した上に、土曜日の峠はハイカー達で込んでいる。

 尾瀬は紅葉シーズン 宿泊先ロッジのある山鼻迄は約1時間コースで、尾瀬ヶ原へ向けスタート。二人とも雨具を着けた。水芭蕉の時期に往復したことがあり(07.6.1)、一応道は知っているつもり。帰りのグループ等と交差しながら、木道を行く。雨で滑り易いため、ゆっくり慎重に進む。時々紅葉した木々に出合い、止まってはカメラを向ける。それにしても、ハイカーが多い。時間的に帰路のピーク時に当ったようだ。中には隣国からの方々も見える。皆草紅葉目当てなのだろうか。二度橋を渡り、林を抜けると建物が見え、山鼻到着。ビジターセンターに寄り資料を入手する。そして、今夜の宿尾瀬ロッジに荷物を預け尾瀬ヶ原へと進入した。

 これが草紅葉か 尾瀬ヶ原へ出て驚いた。湿原全体が黄土色一色に染まり広がっている。枯野ではあるが一歩手前で、これが草紅葉というものだろう。時期的にもベストである。シャッターを切り続けた。雨も止み木道を進むと、前方には燧ケ岳が姿を現した。草紅葉色に染まった広大な湿原、そして雲の上の東北一の高山(2,356m)と絶景である。池塘では逆さ燧も見た。午後も遅くなりハイカーも大分少なくなった。
 尾瀬ヶ原の中心牛首に到着し休憩し、Uターン。先には東電小屋や竜宮小屋があり、林の中に見える建物は後者の小屋だろう。草紅葉に満たされた戻り道では、明日登る至物山が前方に聳えている。登山道が見えないか目を凝らしたが、良く分からない。ほぼ真っ直ぐに下る沢のような線が見えるが直線的過ぎる。木道下に咲く紫色の花を見付け、エゾリンドウとKさんに紹介した。草紅葉一色の中の原色の花は目立ち、カメラに収めた。
 尾瀬ロッジは満員。それでも三畳だが個室が与えられ、夕食は山小屋とは思えない品数が揃い、入浴もすることが出来た。我々は、風呂と地酒の晩酌で疲れを払い、明日に備え早い時間に就寝した。(2013/10/5 47/100)

追記 尾瀬に草紅葉を探勝した。尾瀬はこれまでも数回訪ね、最初はかぼちゃ会インバーと大清水峠越えであったと思う。家内も一緒で、1967年のことであった。いずれも水芭蕉鑑賞で、主に沼山峠からである。この時翌日は至仏山に登った。

JR中央本線快速に乗り、猿橋を渡る

 本日はJR八王子駅で、弟と待ち合わせた。中央本線に乗り大月手前の猿橋へ弟を案内する予定。弟とは9月青梅線で奥多摩氷川渓谷を一緒に巡り、楽しんで貰ったようだ。今回も中央本線乗り鉄+猿橋とした。日帰りコースとしての遠出である。私は、猿橋は三度目だが、弟はどうだろう。

 旧甲州街道 今回も弟が先着していて、中央本線快速大月行きに乗車。高尾駅を過ぎ神奈川へ入り、山梨である。今年の紅葉は遅い。車窓から山を眺め、登った山々を思い出した。山歩きの初期の頃、多摩在住のリーダーに引っ張られて歩いた。石老山、高畑山、扇山、百蔵山等である。あれから約30年過ぎている。弟とも歩いたことがあると思うが、思い出せない。電車は各駅停車を繰り返しながら大月駅手前の猿橋駅に着いた。無人駅で、駅から旧甲州街道へ出る。正面左手に岩殿山が見えた。同山も2度登り、1度は猿橋へ歩いた(96.2.3)こともあった。旧街道は狭いが交通が激しい。商店が点在する通りの側道を進む。大月から旧甲州街道を歩いたことがあり、この時も猿橋へ寄っている(12.1.15)。

 大渓谷に架かる猿橋 駅から20分以上歩いて交差点を左折すると猿橋であった。橋の傍で体操をしている高齢者グループを避け、右岸の坂を下りて、真横から奇橋を見上げ、眺める。橋脚代わりに両岸から飛び出た橋を支える羽根木の層が珍しい。手繋ぐ猿に相当する。弟はカメラを出しアングルを探している。初めてではないが、今回はゆっくり見物したいという。私もカメラに収めた。渓谷への階段を降りた。深く狭い谷で、慎重に一歩一歩としんどい。柵のある展望地へ到達し、流れは緩いが深そう。橋は一番狭い地に架けられていて、僅かに見えるだけ。当地は山梨で桂川渓谷と気付いた。弟を待って、猿橋を渡った。歴史は定かではないが500年前の記録があり、あの歌川広重も“甲陽猿橋之図”として描いていると知る。

 地酒を求め帰途へ 袂の店舗で昼食を取る。平日なのに混んでいた。駅へ戻る途中、地酒“甲斐開運”を求めた。復路は、私は京王線直通で神保町駅へ出ようと、弟とはJR高尾駅で別れた。お土産ありがとうございました。(2024/11/25 K.K. 1581)

◇日時 2024/10/7 ◇天候 晴 ◇交通費 2600円 ◇資料 大月市「日本三奇橋猿橋」2004.1
「通過時間等」 自宅7:55-神保町駅8:40―JR新宿駅9:04-同八王子駅10:02-同猿橋駅10:55=猿橋(昼食)11:20/12:45=JR猿橋駅13:18-京王高尾駅13:59-三田線神保町駅15:15-自宅

奥羽本線から仙山線を乗り鉄する

 山形へ帰郷した。私の1500紀行本発行記念に、同級生達が芋煮会を開いてくれ、幹事が営むそば店に12名が集まった。7年振りとかで盛り上がった。殆どが傘寿を迎えたと思う。私は、実家に泊った。コロナ渦で久しぶりの実家であり、兄夫婦とも会うことが出来た。翌日、陸羽東線から仙台回りで帰京の予定である。翌朝JR東根駅へ姪に送って貰った。

 新庄駅でUターン 奥羽本線新庄行きに乗車、鈍行は何年振りであろうか。村山、袖崎、大石田、芦沢、舟形と各駅を過ぎ、そして新庄駅に着いた。新庄駅で、秋田方面の奥羽本線も、陸羽東線も7月の豪雨災害で一部不通のためバス代行と言われた。鮭川の大惨事はニュースで知っていたが、最上地区広範に被害を受けていたのだ。どうしようと思ったが、発車寸前の山形行きがあり、飛び乗った。

 仙山線乗車 車中、山形から仙山線に乗り、仙台経由にしようと決めた。JR東日本の路線は殆ど乗り鉄をして記録はあるが、仙山線は未だである。山形駅で小一時間あったが駅で待った。駅前に我が読者の先輩がおられて覗いてご挨拶は、止めにした。急ぎ足での往復は無理と考えた。                                    仙台行きの快速電車は定刻通りスタート。霞城公園から北山形を通過。工場が目に付くが、私が高校通学時は未だ田圃があった。鉄橋を渡り馬見ヶ崎川だが、記憶より狭い。羽前千歳から山寺へと右折した。左手に山寺の寺院を眺め山間を進んでいる。

 面白山トンネルで宮城へ 面白山トンネルに入った。小学5年の松島修学旅行の時日本で3番目に長いトンネルと聞いた。今ではそう長さを感じないで宮城県へと出た。奥新川駅は山中で、廃止も聞いたが駅舎は健在。住所では仙台の最西地のようだ。作並駅に停車。温泉地で、我が夫婦が初めての帰郷の折、亡母と山寺見物の後脚を伸ばしたことがあった。愛子からは各駅停車で、仙台への通勤圏だろう。東北福祉大前を通過し、山形からの復路当駅に降り、大崎八幡宮を訪ねたことがあった(18.12.4)。仙山線は、20回前後往復したが、あれが山形から仙山線乗車の今回の直前かと思う。50年前私が訪ねた神社ではなく、それが仙台東照宮であったようで、今年参拝に再訪した(24.6.25)。仙台駅で東北新幹線に乗り、早めに帰宅できた。(2024/11/29 K.K. 1580)

◇日時 2024/10/25 ◇天候 晴り ◇交通費 17000円                          
「通過時間等」 実家8:50-JR東根駅9:16-同新庄駅10:12-同山形駅12:01-同仙台駅13:57-同上野駅15:35-三田線巣鴨駅15:54-自宅16:30

都心大手町から東京駅へ歩く

 また購読紙“我がまち再発見 東京・大手町編”(9.5讀賣夕刊)紹介コースを歩いた。隣の丸の内に10数年勤め、大半は知っていたがコース内に“大手町の森”があり、ビジネスビル街に森があるの?と興味を惹いた。それにデ・リーフデ号像も知らない。我が家から近いので、日暮里で友人に逢った後昼過ぎに、地下鉄千代田線で大手町駅へ向かった。 

 将門塚から 大手町では将門塚からスタートしたい。大手町駅で地上へ出て、皇居大手門へ歩くが塚はなく、道一本違いと気付き回り道して辿り着き、参拝。平将門の首塚で、大正時代も庁舎建設の際祟りがあり改めて鎮魂碑を建て祀ったとある。ビル街の中で、私は初めてではない。日比谷通りを渡り、読売新聞社。正月の箱根駅伝スタート地を過ぎ、過去の歴史の顕彰プレートを眺め、今年の母校の不甲斐なさにうんざりしている。

 ビル街のオアシス大手町の森 次の交差点を右折しビル裏を行くと左手が大手町の森であった。小さな樹林であるが、ビル群の間の緑の空間、癒しの場で、オアシスであろう。昼休みに仲間達と弁当を広げ交歓する様子が目に見えるよう。2013年オープンとあるから、私が丸の内を離れる一年前。隣区画の角にさわり大黒像があった。永代通りを渡り、銀行ビル街の前を通り丸の内へ至り、東京駅前へ。南口に動輪の広場を探すが見当たらない。反対側の旧東京中央郵便局へ入ると、現在はショッピングプセンターの中に、郵便窓口もある。この郵便局には少し思い出がある。我が父が山形の田舎から東京、大阪を経て尾道を往復したことがあった。その時の土産話の中にこの郵便局のドアが回転式で驚いたと聞いた。田舎者がびっくりしたのだろう。引き戸式が全盛で両開きがせいぜいの、70年も前のことである。

 デ・リーフデ号像 デ・リーフデ号像は丸ビル脇の繁みの裏に見付かった。八重洲がヤン・ヨーステンに由来するとは知っていた。彼が1600年乗って漂着したオランダ船の像と知る。そして家康より当地に屋敷を与えられたが、現在八重洲は反対側だが地名の変更によるとある。ウィリアムアダムス、後の三浦按針も一緒であったという。デ・リーフデ号像は初めてで、カメラに収めた。国鉄最大の動輪を展示した動輪の広場は探し損ねてしまった。東京駅の南口地下で、略図を見誤っていた。久しぶりの丸の内の地下街を歩き通して、三田線大手町駅へ出た。(2024/11/19 K.K. 1579)

◇日時 2024/10/13 ◇天候 晴 ◇交通費160円 ◇資料 “我がまち再発見 東京・大手町編”(9.5讀賣夕刊)                                                    「通過時間等」 自宅11:15-千代田線西日暮里駅(昼食)12:00/12:35-同大手町駅12:50=将門塚13:00=読売新聞社前13:10=大手町の森13:15=旧東京中央郵便局13:30=リフリーデ号像13:40=三田線大手町駅14:00-自宅14:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「岩峰を鎖で這い上がった岩櫃山」

 険路、岩場の山へ 鞍部に上がって一息を入れた。3ヶ所鎖場があったが、なくとも登れる程度の岩場であった。本日は上州岩櫃山である。険しい岩場のある山と知り、これまでは敬遠していた一方で、チャレンジ心もあった。ようやく後者が勝って、Kさんに同行を願った。危険はないよと百名山男Hさんが背中を押してくれ、インターネットで得た登山中の写真でもそれ程ではないと見え、ファイトが湧いた。先程吾妻線郷原駅から歩き出して間もなく山村集落通過中右手に聳える鋭い岩稜を見た。小型北アのようである。単身ではないこともあってか、恐怖感を抱くことなく割と冷静に密岩通りコースから山へ入った。

 岩尾根、鎖場を通過 鞍部では2人の若者が先行して、その後をゆっくりと上がると直ぐ、天狗の架け橋という一番難所の痩せ岩尾根。Kさんと迂回に合意して梯子段を下る。こちらも大岩にへばり付いた峡路で、また梯子を伝い架け橋の先へと出た。今度は崖に一本の鎖が吊り下がっている超難所。鎖だけを頼りの上に、岩角や凹みもなく足場がない。2人ともどうにか上り切った。頂上かなと思ったが、前方に登山者が立つ更に高い頂が見えた。隘路、峡路から岩棚の隙間を抜けて、また岩壁を乗り越える。鎖使用の懸垂で腕の力だけで上がらなければならない。鷹巣遺跡口から左へ回り込むと頂上下であった。

 登頂 長い鎖が二本下がり、最後の難関。命を鎖に委ねる形だが、足場になる角や窪みが適度にあり、怖さを感じることもなく頂上(802m)へと這い上がった。既に先行グールプが休憩中。記念写真後周囲を見渡すも、雲が出ていて遠望はない。僅かに白い裾野が見えるのは浅間だろうか。眼下には遅めの紅葉が広がり、吾妻も晩秋だ。反対側は榛名の連山。                
昼食後、小生が先に鎖に掴まった。落ちても命まではと思いながら、懸命に足場を探した。復路は沢コースを採る。こちらは楽な筈だが、案に相違して厳しい岩場や崖端が続く道。振り返ると、先程登った鋭峰が聳え立ち、改めて岩峰岩櫃山を見た。その後も気を許すことなく、Kさんの後を追う。

 岩櫃城跡 途中から尾根通りへとコースを分けて、落葉に埋もれた薄い山道を辿り、岩櫃城跡を見学。この城は戦国期には上田真田氏の支配下にあった。武田勝頼が信長に追われて、新府城を脱出したとき、真田昌幸が案内しようとした城である。しかし譜代の家臣小山田信茂の言に従い岩殿城を目指したが裏切られ田野の地で武田家終焉を迎えたことは知られた史実のようである。岩櫃城址は二度目で、16年前に群馬原町駅から往復した(93/8/29)。山中の城跡は変わることなく静寂を保っていた。(46/100 09/11/21)

追記 岩櫃山は、私が経験した山々で最高難度の山であったと思う。Kさんに同行を願ったのは正解であった。今でも岩峰登山の印象が強く残っている。日本百低山に選ばれている(同書110頁)。岩櫃城は池波正太郎著真田太平記で知っていた。山麓にはそんな歴史は消え去っていた。

 

篠ノ井線に乗り善光寺を詣で千曲川沿いを歩く

 信濃大町から松本へ戻り、篠ノ井線に乗車した。上高地へ行く予定であったが、雨模様の天気予報に断念した。河童橋から北アの山岳風景が眺められないのであれば上高地行きは意味がない。急遽長野へ出て、善光寺、そして千曲川とした。上山田温泉の万葉公園には、千曲川歌碑がある。

 千曲川万葉公園へ 長野駅から乗ったしなの鉄道を戸倉駅で下車した。スマホで万葉公園を検索したら当駅から10分とあるが、少し土地勘がありそんなに近くはないだろうと、駅で尋ねたが分からなかった。駅前大通りへ出て左折し、次の信号を千曲川方向に右折し、大正橋手前でまた左折し接近したが橋は見えない。ようやく万葉の地名があり、家並を過ぎた大通りの右手が万葉橋であった。千曲川の流れを見下ろしながら渡り切った右手に歌碑が並んでいた。駅から歩いて30分程経過していた。

 千曲川歌碑 “千曲川”は、山口洋子作詞五木ひろしが唄う歌謡曲で、“・・・煙たなびく浅間山 呼べどはるかに都は遠く 秋の風立つススキの径よ”と唄う旅情あふれた名曲で、青江、八代、多岐川、田川等多くの女性歌手がカバーし、私も聴いている。カメラに収めて、千曲川左岸を下る。佐々木信綱の万葉歌碑もあったと思う。後日旅番組で、歌碑付音響システムで千曲川の曲を聴いているのを観た。温泉街を左手に見ながら歩き続け、大正橋を渡る。以前上山田温泉先の荒砥城址を訪ねた時(07.3.18)歩いたコースと分かった。300m以上の長い橋を渡り切り、戸倉駅へ戻った。千曲川は山梨県境の甲武信岳麓を源流とし新潟県で信濃川となり、日本海へ注ぐ日本一長い河川で、当地はその中流である。

 善光寺に参拝 先に長野駅から善光寺へ歩いた。数度歩いた門前町通りだが、距離があった。25分の予定が40分程要し、後半が上り坂だからと少し納得した。否年齢の所為だろう。大勢の参拝客に交じり本堂内へ入り、手を合わせた。山形の両親を案内したことや、友人と軽井沢から脚を伸ばし東山魁夷美術館にも寄ったことを思い出した。大分前のことで、胎内巡りもしたと思う。駅へはバスを待った。今回篠ノ井線を利用して、松本駅ではなく、その先の塩尻駅迄が同線で終点と知り、松本駅は中央本線と思っていたが違っていた。 (2024/11/9K.K. 1578)

◇日時 2024/10/4 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス+1000円
「通過時間等」 宿泊先7:30-JR信濃大町駅7:46-同松本駅9:09-同長野駅10:10=善光寺10:50/11:15=
しなの鉄道長野駅11:45-同戸倉駅(昼食)12:25=万葉橋13:00=大正橋13:30=
しなの鉄道戸倉駅14:13-JR上田駅15:15-同上野駅16:50-三田線巣鴨駅17:03-自宅17:30

JR大糸線で松本から信濃大町へ

 JR東日本大人の休日俱楽部パスの後半は、中央本線で松本行きとしたが、宿泊先が確保できない。日帰りも覚悟して、出掛けた。初日は大糸線で信濃大町へ行き、翌日は上高地と考えていた。新宿駅から中央本線特急で、松本駅に着き宿泊先を探したが事前検索通り、満員と断られた。取りあえず信濃大町を往復しようと大糸線に乗車した。

 大糸線で信濃大町へ 大糸線は何年振りだろうか。夏の白馬会合のため数年夏に乗ったことがある(09.7.26外)。松本から糸魚川までの長い路線で、今回はその前半で約1時間。郊外へ出て梓川を渡り、梓橋駅であった。穂高駅を通過。ここは少し思い出がある。確か燕岳登山の際、当駅で降り穂高神社に参拝した(08.8.2)。奥宮は上高地の明神池畔にあったと思う。安曇野を走っている。先程来左手に高い山々が連なり北アルプスも、蝶ヶ岳や常念岳だろう。安曇追分駅、信濃松川を過ぎて信濃大町駅に着いた。駅舎を眺め、青木湖キャンプや黒四ダムからの帰途に利用したことを思い出した。もう半世紀も前のこと。案内所で情報収集し、雨模様の中、市内大通りを上下。

 呑み鉄本線か 黒部源流にある山小屋三俣山荘の資料室を目指すが、本日は休みという。登山番組で知った唯一の寄りたい先であった。酒樽を積んだ酒蔵市野屋の前を通り、試飲の可能性を聞いたらオーケーという。店内奥へ入り、ご当地酒をちびちびと小さなカップで頂く。六角精児の呑み鉄本線である。感想は辛口、甘口だけで六角さんとはいかない。六角さんは未だだが、酒場詩人吉田類は来たという。晩酌用に四合瓶“風さやか”一本求めて辞した。実は、仲間から吞み鉄用にウィスキー容器を貰っていて、今回初めて持参していた。

 塩問屋見学 駅へ戻る途中、“塩の道ちょうじや”という庄屋平林家店舗があり入場。塩問屋や味噌、醤油の醸造業者で、江戸期からの塩蔵や家屋を見学。塩の道千国街道に面していたという。展示資料から、塩は糸魚川付近の日本海産ではなく、北前船で関西から運んだ塩であったとある。えっ!で、白馬会合の際塩の道を歩いたが、そんな疑念は生じなかった。謙信は金を払って敵に塩を送っていたのか。駅前のビジネスホテルに投宿。偶々一部屋空いていた。温泉付きで、晩酌前に手足を伸ばした。(2024/10/31 K.K.1577)

◇日時 2024/10/3 ◇天候 曇り ◇交通費 大人の休日俱楽部パス 
◇資料 「信濃大町チケットガイド」               
「通過時間等」 自宅7:55-JR巣鴨駅8:31-同新宿駅9:00-同松本駅11:45/12:20
-同信濃大町駅13:30=酒蔵市野屋14:10=塩の道ちょうじや15:00=宿泊先16:10

私が登った百の名山&低山=関東編=「奇峰、奇岩の妙義山腹を歩き、石門を巡る」

 今回は、Mさんと一緒に妙義山のお中道を歩く。同道は関東ふれあいの道でもある。Yさんは今朝まで仕事と言うことで不参加となり残念。彼は妙義神社参拝を楽しみにしていたと思う。Mさんとは一昨年春の両神山以来。

 妙義神社から大の字へ 妙義神社参拝の後、大の字に登る。これが後半バテた原因となる。結構急な登山道を約40分で大の字到着。鎖を使用して展望台となっている岩の上に上がる。小憩後奥の院への道を上り、途中から下る。奥の院へは更に15分上ると聞いたが、後半を考慮して次回に廻す。ふれあいの道までの下りが中々の険路。狭く、急である上に、鎖場もあり、結構苦労する。案内通りの時間を要した。その後第一見晴からはふれあいの道を歩く。これがなんでもない山道のようだが、階段が設けられた小さなピークを越す、似たような上りが十回前後続く。最後はすっかり参ってしまい、Mさんに休憩をしばしば求め、また励まされる。資料のように逆コースの方が楽のようだ。

 大砲岩、そして石門 ようやく大砲岩到着。その後石門を巡り、第二石門のかにの横ばいを通過して中之岳神社付近に下りた時には足が疲れてしまった。バスがないのでタクシーを呼びJR松井田駅に戻った。

 同行者のリード Mさんにはすっかり世話になる。鎖場は彼が先行し、彼のアドヴァイスで、恐怖感もなく安心してこなす。彼はいつものように、ゆっくりとしたペースで確実に歩を進める。小生には中々まねが出来ない。大砲岩付近ではMさんが高い離れた岩の上に上る。少し心配したが、楽々と上り、大砲岩まで上ってしまった。岩の上に猫を連れた人が見えたが、Mさんの話では最後はザックに入れて上げたらしい。小生を気にして滑った箇所があり、Mさんに余計な心配を掛けないようにしなくてはと反省する。

 妙義山を仰ぐ 妙義山は長野往復の際に車窓から見て知ってはいたが、真下で見ると迫力が違う。そそり立つ岩峰を仰ぎ、オーバーハングした岩の下を、背を屈めて歩く。長い鉄の梯は痩せ尾根にへばり付くように掛けられている。また、自然の産物とは言え連続する石門にはびっくり。チェックポイント第四石門は大規模なもので、門内に大砲岩を入れてMさんにカメラに収めて貰う。

 美しい紅葉 遅いと思っていた紅葉が盛り。真っ赤な紅葉が随所に残り、紅葉鏡に覆われた山全体が秋の日に輝き美しい。歩きながら感嘆し、足を止めてはしばし見とれる。疲れを癒すには十分と言ったところ下山後道路から見た山は、全体が茶色で飼い猫たまの背中のようであった。帰宅したら長女が北海道から戻っていて、たまを膝の上に置いて、皆と食事をしていた。               
関東ふれあいの道プラス大の字を歩いたが、小生には前者が適当。今回と逆に歩けばそう難しいコースではなく、次回は新緑の季節にでも歩こうと思う。Mさん大変お世話になりました。またよろしくお願いします。(96/11/23 43/100)

追記 本コースは、関東ふれあいの道・群馬県11「サクラの里と石門の道」である。なのに険しい岩場の道であった。大学ワンゲル部OBMさんのリードでなんとか歩き通した。彼は、私の最初の山歩き厳冬の三つ峠山も一緒で(94/02/26,27)、私の山歩きの師匠である。約30年後に妙義神社を訪ねたが石段の上下に難渋してしまった(23/1/20)。本コース踏破は、過去の話になってしまった。

弘前から東能代へJR五能線を乗り切る

 2024年10月1日五能線を乗り切った。五能線乗車は三度目だが、今回は弘前、川部そして東能代と上りで、147.2㎞、43駅である。初回は偶々案内され、鯵ヶ沢から東能代であった(87.8.17)。二度目は下りで、途中十二湖に泊り湖沼巡りをした(16.9.34)。今回は、乗り鉄に徹し岩木山や日本海展望を楽しんだ。五能線は旅好きな旧同僚推奨の路線であった。

 津軽富士を展望 朝6時47分弘前発東能代行きに乗車。ほぼ満席状態の中、右の窓側に席を確保し、定刻に発車した。五能線終点川部駅に着いたら、列車は反対方向へ向けスタートし、私の席は左側になってしまった。右側が日本海だ。しかし、リンゴ畑の先に岩木山(1625m)が聳え美しい風景で、津軽富士である。五所川原駅で長く停車。津軽鉄道との接続駅で、高校生達が乗降した。私は、津軽鉄道は未乗車で、一度は乗りたいと思っているが、中々予定が立たない。

 鯵ヶ沢、深浦 列車は快速だが時々下り列車と交換があり、停車時間がまちまちだ。津軽平野を出て、岩木山が遠くなり、右手に海が見え始めた頃、鯵ヶ沢駅であった。8分の停車時間があり、駅前に出てみた。この後リゾートしらかみ号があり、その間にわさお像へと思っていたが指定が満席で、このまま乗車を続ける。有名なブサカワ犬わさおは亡くなり、海の駅に像が建つという。

 窓の外は日本海 海沿いに走り、山間、小トンネル、入江を繰り返し、そして前方に北の大海が広がった。本日は波静かである。ご当地ソング五能線で、水森かおりは“おんなみちのく五能線 窓いっぱいに日本海”と唄う。先ほど席を右側へ移動。千畳敷の風景は見覚えがあり、岩畳や奇岩に向けシャッターを切った。深浦駅に停車。深浦は北前船の寄港地として発展したという。今夏放映六角精児の“呑み鉄本線日本旅五能線編”でもゴールデンタイムとして当地の地酒や海の幸を楽しんだと思う。しかし、私の記憶に反し、普通の小さな港か。前回は鯵ヶ沢から近いと思っていたが大分走っていた。

 そして秋田へ 海岸沿いが続いたが、左手の山が迫り白神山地だろう。十二湖駅や白神岳登山口駅もあった。列車は崖淵を走り、岩舘、あきた白神となり、青森から秋田へ入った。次第に海側から離れ平野部となり、能代駅を通過し東能代駅に着いた。10時40分で約4時間の乗り鉄となった。(2024/10/18 K.K. 1575)

◇日時 2024/10/01 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス ◇歩行距離等 7,000歩 5㎞
「通過時間等」 宿泊先6:35-JR弘前駅6:47-同東能代駅10:56-同秋田駅12:13-同上野駅16:10-三田線巣鴨駅16:30-自宅17:00

青い森鉄道で八戸から青森へ

 またJR東日本大人の休日俱楽部パス利用期間に入り、乗り鉄の旅である。今回の目玉は五能線で、これで私の乗り鉄も最後となろう。本日は弘前泊りとし、上野から八戸、青森を経て弘前へで、ある。東北新幹線八戸駅から青森駅迄は三セク線青い森鉄道乗車であり、東北本線時代一度乗ったことがある(87.8.14)。

 八戸から青い森鉄道 八戸駅で青い森鉄道に乗り換えた。2両編成で席は確保できた。直ぐ郊外となり荒涼とした地を走った。多くは休耕地であろうか。最近下北の大湊を往復した時(23.6.23)乗った線で、三沢駅始め知っている駅名が散見され、右手に小川原湖が見えた。野辺地駅に着く。大湊線との分岐駅であるが、小さな駅舎で、周囲に建物も少なく寂しい位だ。でも、この辺りも当線は複線で、幹線東北本線であった歴史を示している。

 青森は5度目か ここから、青森駅へ陸奥湾沿いに左へ走り、湾は遠く、時々林の先にチラチラっと見えるだけ。各駅停車だが、知っている駅名もない。先程八戸駅で求めたカップ酒を出し、青森は何度目かなと思いを巡らした。最初は87年の大湊恐山からで翌日酸ヶ湯から蔦温泉、その後白神山地(11.6.16)、十和田湖、奥入瀬(17.9.29)、そして竜飛崎(20.9.11)であろうか。一度雨で、竜飛崎を諦め奥羽本線で秋田(19.6.22)へもあった。青森は遠くこれだけだが、それも東北新幹線のお陰だ。浅虫温泉駅を過ぎて、左手に高山が見え、八甲田山だろう。登山も考えたがならなかった。

 青森港へ 市街地の先に湾が見え出し青森駅であった。青い森鉄道を乗り切ると思っていたが、八戸の手前岩手県境の目時から青森が同線と分かった。ねぶたを眺めながら、窓口で、明日の五能線リゾートしらかみ号の指定券を問い合わせたが、満席という。キャンセルに期待したのだが。港へ出て埠頭で、八甲田山号を眺める。嘗て青函連絡船で活躍した大型客船である。石川さゆりが唄う“津軽海峡冬景色”の歌碑があった。“上野発の夜行列車おりた時から青森駅は雪の中・・・”と、数秒で上野から青森へと阿久悠の作詩が有名になった。特急に乗り、弘前へ。途中、五能線分岐駅川部駅を通過。弘前駅前で晩酌用飲み物とつまみを求め、ホテルへ向かった。(2024/10/18 K.K. 1575)

◇日時 2024/9/30 ◇天候 晴 ◇交通費 大人の休日俱楽部パス ◇歩行距離等 4,000歩 3㎞
「通過時間等」 自宅9:15-JR上野駅10:24-青い森鉄道八戸駅13:28-同青森駅15:00=青森港15:10=JR青森駅15:56-同弘前駅16:30=宿泊先16:40

私が登った百の名山&低山=関東編=「つつじ咲く赤城・黒桧山に登る」

 黒桧山登頂 山友Yさんと赤城山の最高峰黒桧山(1,828m)に登る。JR前橋駅から赤城神社迄タクシーを利用。神社先の登山口から登り、頂上までは1時間20分を要した。岩の多い林の中の登山道が続く中、二、三度右手が開けて赤城大沼や地蔵岳が見えた。林を抜けて背丈程の潅木の中の道を分けて進むと頂上に着く。距離的には資料どおり初心者向きだが、結構急登が多く、ゆっくりと登るも少しばてた。前夜遅かったのが影響したのかもしれない。途中赤城小沼が見え、赤城は二度目だが小沼は始めてで、意外と高所にあることを知る。黒桧山頂上は、ほぼ360度の展望があり、男体山、至仏山、谷川連峰、八ケ岳等が見えた。

 覚満淵へ 下山は、御黒桧大神、駒ケ岳を経由して、覚満淵の手前の車道に下り、覚満淵を覗いた。下山コースは、関東ふれあいの道・群馬県35「黒桧山から花見ガ原への道」の一部で、急坂には階段が設けられていたが、一部土砂が流れて横木がハードルのようになっているため、かえって歩きにくい。二カ所程鉄製の階段があったが難なく通過。

 つつじ咲く山麓 入梅時にもかかわらず一日中快晴で、それでも半袖になるほどではなく、程良い気候。丁度つつじが見頃で、高い黒桧山周辺ではピンク、下では朱色のものと違いがあり、また、白色のつつじをも見ることができた。赤城山周辺には、つつじ狩りを兼ねたハイカーなど沢山の人が出ていて、登山道、山頂でも多くの人と出会い、また帰りのバスは満員で、前橋駅前まで立ち放し。

 Yさんとは岩殿山(96/2/3)以来の同行で、神社巡りを趣味としている彼向きに本コースを選ぶ。彼は上りでやや遅かったが、大きなザックに一杯様々なものを詰めたためで、山頂では昼食に、最近仕入れたというクッキング器具を使用してライスカレーを作って貰った。
 朝、高崎迄の列車が少し遅れたため、予定の列車で前橋への乗り換えが出来ず、バスに遅れてしまい、結局、同じ事情の婦人登山者と赤城神社迄タクシーに相乗りした。料金的には割高になったが、時間的余裕ができて、黒桧山山頂でゆっくりと昼食を楽しみ、予定より一時間前に帰宅することができた。
 登る前に赤城神社で安全を祈り、日頃の御礼をして、絵馬とお守りを求めたが、今回は地酒とたまへの水は省略した。Yさんは、例によって丁寧に参拝し、社務所で持参の印帳に記帳などを受けた。
 翌日は、少し足が痛かったが、山形のおばあさんにお供して巣鴨のとげぬき地蔵に参拝。(97/6/7 42/100)

追記 赤城山の主峰黒桧山は百名山であるが、そう苦労なく登頂できた山であった。麓に広がる大沼が印象的であった。赤城山南麓に関東ふれあいの道群馬県コースがあり、歩いた(17.5.20)。笹薮の中が多く、下った先にも三夜沢の赤城神社があった