栃木佐野に犬伏の別れの地を訪ねる

 犬伏の別れの史跡が遺ることを知ったのは大分前である。戦国期上田真田家の命運を決断した地で、池波正太郎著“真田太平記”で読んだと思う。それが佐野市犬伏で、薬師堂が現存し訪ねることにした。JR東北本線小山駅乗換両毛線佐野駅からである。

 例幣使街道を歩く 小山駅の両毛線乗換は時間が掛った経験があり急いだが、新幹線からは近くスムーズに両毛線列車に乗れた。30分程で佐野駅に着き、案内所を探し情報収集。駅から遠く、想定の20分はあっさり否定された。バスの便も悪く、歩く。両毛線と並行する例幣使街道先と教えて貰い、同街道へ出るにも時間を要した。歩きながら佐野市は歴史の町を感じる。
 例幣使街道はこの辺りは真っすぐな道だが、佐野から栃木、鹿沼、そして日光へと左の北方へ続くと思う。正面に見える山は三毳山か。ようやく犬伏地区へ入ったが、上町、中町、下町と続き、薬師堂があるのは新町で最も奥。犬伏小学校を過ぎ、前方に高い樹々が見え始め、薬師堂であった。50分過ぎていた。

 真田父子の犬伏の別れ 本堂で参拝し(写真上)、案内書きを読む。1600(慶長5)年、家康の下で会津討伐に向かっていた真田昌幸に、下野国犬伏で石田三成から密書が届いた。豊臣方への味方の要請で、真田父子(信之、信繁・幸村)三人は当薬師堂で密談し(写真中・上田博物館蔵図)、昌幸、信繫は石田方、信之は家康方に別れて戦うことにしたという。いずれが勝っても真田家名は残るとの選択と言われるが、私は昌幸の家康嫌いが根底にあったと思う。信繫は大坂夏の陣で倒れたが、信之真田家の松代藩は明治まで続いた。お堂をカメラに収め、uターン。歩き出したがまた50分の街道歩きは辛く、タクシー呼び犬伏小学校前から乗車するも、道路が混みあいノロノロ。

 晩秋の佐野城跡 駅に着いたが、小山駅行は一時間後。駅裏の佐野城跡を巡る。1602(慶長7)年唐沢山城主佐野氏が山城を廃し当地佐野に築城したが、1614(慶長19)年改易になってしまい、僅か10数年で廃城となった城。私は再訪で、城は連郭式の平山城であり郭や堀切、土塁跡が遺る。晩秋の城跡は紅葉が盛りで美しい(写真下)。シャッターアングルを探しながら、城跡を半周し、駅へ下った。
 小山は犬伏の続きの地で、三成挙兵を知った家康が、各武将に決断を迫った小山評定を開き、家康味方を確かめ、三成討伐のため西上を開始したのが小山で、市役所前にその記念碑があり、眺めたことがある。今回もと思っていたが、上りの新幹線が直ぐあり、途中下車はしないで、帰途に就いた。(2021/12/22 K.K. 1424/1500)

◇日時 2021/11/26 ◇天候 晴れ ◇交通費JR東日本大人の休日俱楽部パス、タクシー1400円 ◇資料 「佐野.下野国らーめんの郷」◇歩行距離等 16,000歩 11㎞ 
「通過時間等」自宅11:10-JR上野駅12:18-同小山駅13:02-同佐野駅13:40=例幣使街道13:50=犬伏小学校14:20=犬伏新町薬師堂14:30=犬伏小学校14:50-佐野駅前15:00=佐野城跡15:20=JR佐野駅15:57-同小山駅16:33-同上野駅17:19-三田線巣鴨駅17:37-自宅18:10