熊野古道ツアーに参加した。私の山歩き里歩きに相応しい古道を歩きたく、色々検討したが、紀伊山地は遠い上にアクセスが良くなく、電車利用では入山迄に1日を要する。一度下見的に大門坂から熊野那智大社を訪ね経験もした(06.9.9)。旅行会社の2泊3日ツアーを知り申し込んだ。新幹線からバス移動である。ハイク友Kさんも一緒してくれた。
バスで高野山へ ツアー初日は、高野山参詣。東京駅に7時集合し、新幹線こだまを三河安城駅に降りバス に乗り換え、愛知、三重、奈良と各県を高速道路で突っ走り和歌山県へ。かつらぎで休憩し、高野山山中に入った。山は深まり、坂は急になってカーブを増し赤い大門をチラッと見て、バイパスで中の橋に到着。4時間以上走った。一行30名、参道へ。杉並木の両側に石灯籠、供養塔が整然と並ぶ(写真上)。私は約40年振りの再訪でなんとなく記憶にある風景。この辺りは関西企業の供養塔が多い。奥へ進むに従い参道は狭まり太い老杉が聳える下には、大名前田家や松平家、淺野家等の供養塔が建つ(写真中)。真言宗総本山だが大師は宗派に拘らず受け入れそのような供養塔は多いという。家康の子松平忠輝家の石廟があり、その先には豊臣家、信長の墓所や供養塔があった。
故郷の城主里見家の墓発見 出羽最上里見家の墓所を見付けビックリ(写真下)。我が故郷東根の戦国期の城主が里見家。山形の最上義光に降り、最上家のお家騒動による取潰しに遭い阿波蜂須賀家へ預けられた筈。最後の城主里見景佐の霊堂は市内の菩提寺養源寺近くにあるのは知っている。高野山の墓は子孫が建立したのだろうか。カメラに収め軽く頭を下げた。
御廟橋を渡って奥の院。写真はダメと念を押された。正面の堂に詣でたが灯籠堂で、奥に約1000年燃え続けている燈火があると案内された。大師を祀る奥の院御廟はその裏にあった。念仏を唱えるご婦人達の間から、家内とぽんずの成仏と孫達の成長をお願いし直した。我が家でも先日法事を終えたばかり。戻る途中、御供所を見て思い出した。最初の時、丁度義父の一周忌直前で、供養に小さな塔婆を書いて貰ったのがここであったと思う。紅葉に囲まれた英霊堂前から中の橋へ戻り、離れた売店へ案内された後またバスに乗り、深い紀伊山中を走り続けた。
深い紀伊山地 高野山は戦国時代流罪先とされた。現在放映中の真田丸内だけでも、北條氏直、氏規、豊臣秀次、真田親子が当山へ流されている。当時は人の住まない寺だけの不便な山中で、脱出も不可能な地であったろう。しかし、山麓九度山に住んだ真田信繁は、脱出し大坂城へ入り、夏の陣では一時は家康を追い詰めたと伝えられる。近く放映されるであろう。そんなことを考えていると、バスは真っ暗な山中を紀伊みなべ温泉へ向け懸命に走っていた。(2016/11/03 K.K. 1064/1100)
○日時 2016/10/20 ○天候 晴 ○ツアー参加費 19,900円(1/3) ○資料 高野山宿坊教会外「聖山高野山」 ○徒歩距離 7km 10,000歩
「通過時間等」自宅5:50-JR東京駅7:26-同三河安城駅10:10-伊賀上野11:50-かつらぎ13:55-高野山中の橋14:50=奥の院15:45-金剛峯寺前16:50-龍の里18:10-紀伊みなべ温泉宿泊先19:25