私が登った百の名山&低山=甲信越編=「20年振りの上高地から徳本峠へ」

 大正池から河童橋、明神池へ 丁度12時に大正池前でバスを降りた。目の前の大正池は水が溢れんばかり。梅雨明けで梓川の流れが豊富なのだろう。川縁の自然研究路を辿る。やはり梓川は流れが多量で激しい。穂高橋を渡り、ウェストン碑でレリーフを見て、カメラに収めた。近いと思った河童橋は距離があり、12時に多くの人に混じり橋上から穂高連峰を眺めるも、岳沢の雪渓は見えるが頂上は雲の中。それでも上高地定番の北ア風景を携帯にも写した。橋を渡り返し、明神へ。
 梓川を右に見ながら森の中の道を行く。午後となり下るハイカー達の中には軽装の外人も見える。意外に遠く、ようやく明神池付近に着き、手前に嘉門次小屋があった。穂高神社奥宮は小さな祠で安全を祈願し、峠の上り備え休憩。14時を過ぎ、峠上迄は3時間がコースタイムのようだ。

 徳本峠(トクゴウ)に取り付く 明神橋を渡り明神館を左折すると、ぱったりと人出がなくなり、山中1人となる。峠口が見付かり右折。直進すれば徳沢から横尾で、20年前通った槍や穂高への登山コース(94.8.6)。進むに従い沢音が近付き白沢だろう。小さな沢を二度渡った先で、同年配のハイカーに追い付き、沢沿いの山坂をゆっくりと進む。道が小刻みにジグザグを繰り返し、白沢を反対側へ出ると崩落の跡。そして、峠へ0.8km地点で小憩。峠道も胸付八丁のようで、長い葛籠折れをこなす外はない。霞沢岳へのコース標識があり、峠は近い。カラフルなテントが見えて、右折すると徳本峠(2150m)であった。3.7km、標高差600mを2時間で上り切った。思ったより小さな峠で、山小屋は古い小屋の隣に新しい建物があった。

徳本峠から難路の南沢長丁場を下る

 徳本峠小屋泊まり 1923(大正12)年開設の本小屋は、島々から上高地への徳本越え(2150m)の要所にあり、バス路線が出来た昭和初期迄は、北ア登山者の多くが利用した小屋で、現在も、古い平屋の建物が隣に残り本日も使われている。今では、霞沢山や蝶ケ岳、常念岳を目指す者達の基地で、私以外は皆フル装備の登山者。ザックや靴から明らかで、朝、隣の支度の音で目を覚まし、また深夜には鼾に悩まされ、山小屋泊まりを実感した。

 穂高連峰を眺めスタート 朝、峠上に立ち、穂高連峰を眺めた。右側の尖りは前穂らしい。そして奥穂やジャンダルムが連なり、ロバの耳は初めて知った。6時20分島々へ向け出発。山腹を覆う笹藪の中の狭い坂道だが順調に進む。水場・力水で顔を洗い一息入れる。傾斜が緩み、谷左端の直線的な下りから、右側へ渡り下り続ける。沢音が高くなり大沢に突き当たり左折、南沢本流だろう。木製の外、鉄板もあり、丸太橋も渡る。直ぐ下に木橋の残骸があった。沢縁の道も肩幅並みの狭さの上荒れて、所々には崩落の跡が残る。深い深い山中を懸命に歩き続け、草花を愛でる余裕はない。次の岩魚留小屋迄1.4km地点となりホッとするも、橋が老朽化して通行禁止に、徒渉。

 続く険路、難路 岩魚留小屋前のベンチで休憩。平坦な道は直ぐ崖端の険路となる。虎ロープや桟敷橋もある。南沢の谷は深くなり、これまで以上に慎重に成らざるを得ない。崖崩れの跡は深く、箇所も多い。
 登山道は、戦国時代から通じていたらしい。1893(明治26)年には日本アルプスとネーミングしたウェストン卿も、嘉門次に案内されて越えたのであろう。芥川龍之介の“槍ヶ岳紀行”を思い出した。龍之介も、大正9年前案内人と一緒で、“路は次第に険しくなった。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。・・・これが徳本の峠です。案内者は私を顧みて云った。”(筑摩書房芥川龍之介全集6 118頁)と書いている。三箇所連続の大きな土砂崩れ跡に仮に切られた道を越すと少し楽になったが、二俣迄は距離が残り、炭焼窯跡、戻り橋、行く橋を過ぎても気は抜けず、三木秀綱(戦国期の飛騨松倉城主)奥方受難の碑を見て、ようやく南沢終わりの二俣の地へ飛び出した。峠から疾うに4時間を超え、島々の宿迄は更に1時間30分を要した。(15/7/24,25 103)

追 記 徳本峠は、上高地へバスが通る前の古道で、ウェストン卿や龍之介達も通った峠である。私は上高地から上がって、島々へ下ったが、長い、長い下りの沢や渓谷沿いの難路であった。よく踏破できたと思う。