佐久龍岡城跡を再訪する

 佐久のコスモス街道を地図で調べていたら、龍岡城跡が近いことを知った。同城跡は、五稜郭形式というわが国2例のみの歴史的遺産で、過去に一度訪ねている(06.8.13)が、不思議なことに記録がない。家内実家の初盆の際、小海線を利用して寄ったことは記憶にあり、間違いない。今回は車で、時間があれば、Sさんにお願いしようと思いながら、出掛けた。

 急遽龍岡城跡へ 内山峠トンネルを抜け、群馬から信州佐久へ入り、国道254号のコスモス街道を走った。両側にコスモスが咲いているのが見える。佐久の中心街中込手前辺りで、“龍岡城”の案内標識を見付けた。やっぱりと思い、車内でSさんへ私の思いを伝えた。車は速く時間はあり、頷いてくれた。
 コスモス街道沿いさくらい蜂蜜店で休憩し、龍岡城跡を尋ねると、車なら15分と教えてくれた。またコスモス街道を下り、途中から臼田方向へ左折し、集落が散らばる田園地帯を走り、橋を渡り左折すると、城跡公園駐車場であったが、見覚えはない。前回は小海線龍岡城駅から歩いて15分位であったと思う。
 五稜郭龍岡城の歴史 龍岡城は、幕末も、1863(文久3)年に築かれた五稜郭で、歴史の浅い城(写真上)。三河奥殿藩主松平乗謨(ノリカタ)が、幕府の老中格陸軍総裁を務めて西洋の城郭知識を得たらしい。1万6千石の小藩で、奥殿(現愛知県岡崎)から、飛び領地で陣屋のあった当地田野口へ本拠を移し築城したという。3年で完成したが、直ぐ明治に至り廃藩、廃城を迎えてしまった(大類伸「日本城郭事典」平成2年105頁外)。

 車を降り、目の前が城跡だが、入口を探し石垣沿いに左へ行くと濠があり、五稜の一つ(凸部)を確かめながら次の凹部大手口へ。その前に案内所ふれあい館があり、先程は観光バスが見えた。見覚えのある大手口だが、改装されているようにも見える。カメラに収めながら郭内へ。現在は小学校で、グランドには子供達が見える。奥の体育館のような建物は、唯一現存の台所櫓とは知っていた。前回よりは新しく、同じく化粧直ししたのだろう。
 五稜郭を眺める 左手の土塁へ上がり、大手口から続く、五角の一端の濠を見下ろす(写真下)。往年と変わりはないのだろう。シャッターを切った。学校校舎の裏側は見られなかったが、こぢんまりとした五稜郭で、その大半は濠も遺るが、函館の半分以下の規模だろう。前回の感想でもあったが、何処や誰を想定し、このような形式の城郭をわざわざ当地に造ったかという疑問は残った儘である。大手口右に社があり、幕末頃の戦争犠牲者を祀ったようで、その中に北越戦争2名とある。Sさんが、新政府軍と長岡藩の戦いと教えてくれた。あの河井継之助が活躍した戦と思い出した。同じ譜代の当藩からも、近くはない長岡藩へ派兵したのであろう。ふれあい館を覗いて、パンフ貰い退城した。Sさん、私の急なお願いに案内、お付き合い戴き、有り難うございました。(2019/10/15 K.K. 1289/1300)

◇日時 2019/9/29 ◇天候 晴 ◇資料 佐久市観光協会「佐久市田口史蹟めぐり」 
「通過時間等」自宅・高島平6:30-佐久中込9:00-桜井蜂蜜店9:10/9:35-龍岡城跡9:50/10:20-佐久高原大秋桜園10:50/11:50-軽井沢植物園12:50/13:15-高島平・自宅15:40